老病

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 「老病」というのは、中国語では、老人病というのではなく、「持病」のことを言います。この十年来、冬から春の時期に一度、夏から秋、秋が深まっていくどこかの時期に一度、年に都合二度、「腰痛」が出てくるのです。体が覚えているのでしょうか、この2週間ほど前から、『そろそろ腰痛が起こるかも知れない。何か対策を取らないと!』と思って、家内に言っていた矢先、昨日の朝あたりから始まってしまいました。昼過ぎに、バスから降りてアパートの中を歩いて、5階のわが家まで帰りついたのですが、その道はあえぎながらできつかったのです。昨日は午後から、ベッドに入り込んで、今日も一日、寝たり起きたりの繰り返しをしていました。
 
 こちらで日本語教師をされていた方から、『こういった運動をするといいですよ!』と言われて教えて頂いたのですが、実行しないままでおり、腰が痛み始めてから、思い出しては腰をひねっているのですが、これって対策にならないで、事後処理で、全く効果ないのです。長く住んでいた街に、知り合いの整骨師がいて、体調が悪くなると、時々出掛けてみてもらった、掛かり付けだったのですが、通えないので諦めていました。今年の帰国中に、ある方が、評判の整骨院があるから、と紹介されて行ってみました。少し早く着いてしまったので、待合室で待っていました。書庫を見たら、ちょっと勧誘するような本がならんいたのです。診察口のドアーの上に、見慣れない福王をした人の写真が掲げてあって、『アッ、そうか!』と気づいたのです。ほうほうの体で、そこを飛び出して、バスに飛び乗ってしまったのです。念力で体に呪文でもかけられたくなかったからでした。

 『また始まった!』ということを知って、必ずどなたかがやってきては、腰を揉んでくれるのです。それが力いっぱいしてくれるので、その後のほうがひどくなってしまうのを繰り返してきていますので、最近は極秘にしています。中華方式は、どうも体に合わないようで、申し訳ないなと思っています。きっと、日本式の「鍼」をしたら、いっぺんで治ってしまうのでしょうけど、今度帰国したら、探して見ることにします。今まで日本鍼を二回ほどやったのですが、ピタっと治ってしまって、かえって怖いくらいでした。今年の春は中国鍼をしてもらったのですが、ちょっと合わなかったようです。まあ、なにか外からするよりは、「安静」が一番かも知れませんね。

 今の痛さでは、階段を歩いて降りられないし、じっとすることにいました。それで先程、風呂を沸かして、温泉の素を入れて、〈和の里の湯〉にして、『いい湯だな!』をしたところです。それから、この様に、パソコンの前に座っているのが、一番よくないのですが、やっぱり、何かしたくて、つい座ってしまいました。ここから立つと、激痛が来るのですが。そろそろ終えることにします。真夏のように暑かった日の夕方であります。

責任

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 中学生になった私は、『男は、ひげの剃り跡の青さがいい!』と、担任に言われてから、父の安全カミソリで、毎日、入浴時にはひげを剃り始めたのです。父は、ひげが濃かったのですが、母似の私は、いくら剃っても、産毛ばかりで、一向に剛毛が生えてこないではありませんか。ついでに、胸毛のあった父のようになろうと願って、胸も懸命に剃ったのです。それは全て徒労に終わりました。大学に入る頃になって、やっと〈男らしさ〉の象徴のひげを認められるようになってきたのです。それ以来、毎朝、顔を洗うのと同時に、ひげ剃りを欠かしていません。今では、毎日仕事をすることもなくなってしまったので、怠けて剃らない日もあるのですが。何度かひげをたくわえたこともありますが、家内と子どたちの反対で、すぐにやめてしまいましたが。

 ひげ剃りのたびに鏡に写して、十人前の顔を眺めるのですが、まあまあ元気そうな顔色を見ては、安心するのです。しかし、40を過ぎてからは、違った観点から、自分の顔を眺めはじめたのです。かの有名な、アメリカ大統領のリンカーンが、『男は40過ぎたら自分の顔に責任をもて!』と言ったと聞いてからのことでした。「いい顔」かどうか、『この顔で、他人の前に出て、人に見せてもいいか?』を点検しているのです。目付きとか表情が険しくないか、卑しくないか、欲が突っ張ってないかどうかを見るのです。そして、大丈夫だったら、ニコッと笑ってみせるのです。だって、この顔で生きていくほかないからです。

 それで、自分の顔が気になり始めた私は、他人の顔も注意深く見ることにしたのです。『目は口ほどにものを言う!』と言いますから、『この人の無言の表情は、何を語っているのだろうか?』と、興味津々で眺めるのです。実に好い顔、好い目をしている方がおいでです。映画俳優や女優のような美男子、美女というのではなく、実に素晴らしく生きてきた顔と出会うのです。顔は、生き様が現れてくるのからです。私の最初の職場に、警視庁に勤めながら、中央大学の夜間で、法律を専攻した方がいました。私の直属の係長でした。この方が、善良かどうか、犯罪性があるかどうかの判断の規準を、警察官として学び経験したことから、教えてくれたことがありました。

 人を観察する目が、ちょっと厳しくなってしまったのは、そのせいでしょうか。自分の顔にも、『責任を持て!』と言い続けてきたつもりでおりますが。会って直接見たことはないのですが、実に「悪い顔」の大臣がいました。醜男だというのではありませんが、とても気になっていたのです。やはり、いつの間にか、辞任してしまいました。天津の南開大学の近くに、「周恩来記念館」があって、家内と訪ねたことがあります。この方の写真や使われた文物などを見ながら、『好い顔だなあ!』と感心したのです。日本に留学した頃の若かりし日の写真も、総理に就任した時の写真も、その表情が好いのです。京劇の俳優のような色男ではないのですが、信念と正義を貫こうとしている顔なのです。私を教えてくれた元警察官の判断規準によっても、じつに善良で、責任感に満ちた顔に見えました。

 この周恩来総理が、亡くなった時に、無一物だったと聞きました。自分や妻や親族のために備蓄をしておかなかったのです。記念館にいたときに、何組もの若い男女が、見学に来ていました。なぜなのか聞きましたら、周恩来は、こよなく奥様を愛された方で、それにあやかろうとして、結婚を決めた男女が、連れ立って来られるのだそうです。こんな素晴らしい指導者が、この国を支えてきたのだと思わされたのです。

 今朝も、鏡に顔を写してみました。『これなら、まあまあ及第!』と、合格点を上げた次第です。バスの中で、私が乗ってきたのを見止めた学生が、『どうぞ!』と目で合図して、席を譲ってくれる、そんな顔になってまいりました。喜ぶべきなのでしょうね。

(写真は、アメリカの5ドル紙幣の肖像の「リンカーン」です)

ブルーマウンテン ~その2~

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 恩師が、好んで飲んでいて、時々、豆をグラインダーで挽いては、『雅仁、いっしょに飲もう!』といって誘ってくれたのが、彼のこだわりの「ブルーマウンテン・コーヒー」でした。この恩師は、澄んだ青い目をパチパチさせ、幸せな表情をしながら、実に美味しそうに飲むのです。その飲み方も、上品でした。『こんなふうにしてコーヒーを愛おしんで飲むのだから、美味しいに違いない!』と思わされたものでした。学校に行っていたときは、新宿や渋谷や目黒などの駅の周辺にあった、「ルノアール」というフランス語の名前のチェーン店があって、みんなで、取り留めもない話をしたり、ノート写しなどをして過ごしました。もちろん安いコーヒーをすすりながら、何時間も過ごしたのです。好きではなかったのですが、まあ付き合いで飲むコーヒーでした。

 働き始め、世帯を持って、この恩師に同行して、彼の事業のお手伝いを始めてから、恩師が、美味しく飲むのに影響されて、私もコーヒーを、習慣的に飲み始めたのです。珈琲の味よりも、そういったゆとりの時が、何とも言えなく贅沢で、貴く感じられたからだと思うのです。そうこうするうちに。虜になってしまいました。この夏、日本に帰りました時に、『そろそろいいか!』と言うことで、母の故郷のコーヒー屋さんに、この「コーヒー豆」を注文したのです。ブレンド・コーヒーと比べたら、けっこう高いのですが、清水(きよみず)の舞台から飛び降りたつもりで、「ブルーマウンテン(500gを4袋、2つは息子たちに上げました)」を、ついに買い求めたのです。そして、大阪国際港から乗った船に乗せて、海路を運んできたのです。こちらの外資系のスーパーマーケットにも、コーヒー豆が売られていますが、この種の豆はないのです。私は、コーヒーの香りや味を見分けるほどの愛飲家ではなかったのですが、今は少し鼻が効くようになってきているかも知れません。

 この2週間ほど前から、恩師が使っていたような手動ではないのですが、「電動ミル」と呼ばれる道具で、豆を挽いて飲み始めています。前に買ったり、頂いた豆が底をついたこともあって、いよいよ念願の「ブルーマウンテン」を飲み始めているのです。豆を引くと、とても良いかおりがしてきて、恩師が挽いてくれた日のにおいがしてきて、懐かしくなってしまいました。家内が嗅いで、『好いにおい!』といい、『少し頂戴!』と言うので、一緒に飲みます。ドリップで入れて飲むのですが、とても美味しいのです。このコーヒーを飲むことを、〈楽しむ〉という余裕の行為が、やはり何とも言えないのです。

 恩師が、東京の病院で召されて、もう十年になります。いろいろなことを教えてもらい、彼の書いた数冊の本も、こちらに持ってきて、書庫に入れて、時々紐解くのですが。彼との八年の月日が、ほんとうに懐かしく思い出されてまいります。彼の友人たちが、ちょくちょくやって来ては、一緒に食事をし、コーヒーを飲み、散歩をし、話し合い、彼らからも教えられました。あのような日々が、自分を作り上げてくれたのだと思い返して、感謝でいっぱいにされています。ジョージアの田舎の出身でしたが、西海岸は時々訪ねたのですが、東南部の彼の育った街は一度も訪ねたことはありませんでした。

 先ほども、飲んだところです。もちろん、彼の飲んでいたものよりは、格が落ちると思いますが、同じ嗜好を受け継ぐということを考えますと、やはり、私は彼の「弟子」であることのなるわけです。時々思うのですが、日本人では考えられないような、思考法を彼から学んだようです。彼は、妻の愛し方も教えてくれたのですから。その出会いに、心から感謝している、秋風が、少々冷たく感じる夕べであります。

(写真は、コヒー豆を挽く「コーヒーミル」です)

仕草

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 「たけなわ」を、コトバンク辞書でみますと、『[名・形動]行事・季節などが最盛んになった時。盛が極まって、それ以後は衰えに向かう時。また、そのようなさま。真っ盛り。真っ最中。「主演は今が―だ」「春―な(の)や山野に遊ぶ」「齢(よわい)―」 』とあり、漢字で書きますと、「酣」です。こんなに華南の秋が、季節感を満たして感じられるはのは、在華七回目の秋を迎えて、初めてのことです。いつもですと、夏がずっと続き、あれよあれよという間に秋が束の間に過ぎて、『もう冬?』といった感じだったのですが。抜ける様な秋の空は、こちらにやってくるまで住んだ日本の中部山岳地方の街から見上げた秋空に遜色ないのです。

 この季節は、時間ができると、山あいの温泉にでかけていくのが、唯一の楽しみでした。渓谷に入っていくと、ほとんどの所に、「日帰り入浴施設」があり、600円か800円を払うと、一日過ごすことができるのです。一昨晩、奥様が帰国中の知人を食事に招き、3時間ほど交わりをいたしました。四十代半ば、長男と同世代の男性ですが、ちょっと古式なおじさんといったらいいでしょうか、彼もまた、中国生活で足りないものの一つに、「風呂」をあげていました。肩まで湯につかって、足を伸ばせる浴槽での入浴のことです。湯につかりながら、浴槽の縁に手をかけて、「八木節」か「木曽節」を唸ったら、もう、そこは錯覚の日本になっているのです。幸い我が家には、木造りの風呂桶がありますので、『お安くしておきます!』と誘ってみました。

 我が家の娘たちも古式の子どもで、オヤジ趣味の「温泉」が好きだったようです。まあ総じて日本人は、風呂好きの国民で、さっぱりとしたい気分の強い人種なのかも知れません。一体、日本人は、いつ頃から風呂に使ってきているのでしょうか。ウイキペディアによりますと、『・・・日本人が風呂好きとなった原因として、冬は防寒の理由から、夏は高温多湿の気候により汗をかきやすく、火山島のため土が粘土質であり埃が立ちやすいことなど、1年を通じて入浴を必要とする日本の気候風土や、温泉が多いことが挙げられる[要出典]。また神道や仏教の影響を受け、入浴によって垢を落とすことは、心の中の垢(いわゆる「煩悩」)をも洗い流すと信じられてきたことや入浴による心身における爽快感という実体験が慣習として根付いたのだとする見方もある。 』とありますが、一般的に入浴が行われうようになったのは、江戸時代になってからのようです。1591年に、江戸で銭湯が初めて開業されているそうです。

 最近、ヤマザキ・マリと言われる漫画家の作、「テルマエ・ロマエ 」が人気を集めて、映画化までされているそうです。古代ローマにも入浴習慣があったことから、日本の現代の「銭湯」をおりまぜながらの作品で、奇想天外なマンガだそうです。今では、どこの家にも風呂場があって、便利になりましたが、私たちの子どもの頃には、「◯◯湯」という看板が出ていて、高い煙突の「銭湯」が、どこにもあったのです。父の家には内風呂もあったのですが、母からお金をもらって握っては、町の銭湯に跳んでいって入りました。まあ遊び場のようにしていていたのです。おじさんたちに叱られながら、ふざけて時間を過ごしていたものです。

 聞くところによりますと、昔、街場では、この銭湯の湯船に入る時、『冷え物でございます!』と言って、湯船に入る挨拶をしたそうです。湯加減をぬるくしてしまう失礼を詫びるのが、挨拶ことばだったのです。日本人って、そこまで気を使って共同生活をしていたのかと思って、今さらながら感心してしまいます。そういった人たちの子孫であるが故に、独特な日本人が出来上がっていて、「礼儀正しい日本人」の国際評価を受けているわけです。しかし、こういった会話が、日本の社会から、すこしずつ消えているのではないでしょうか。

 『おい、チンチンとケツ洗ってへえれよ!』と、おじさんに銭湯で言われて、慌てて洗って入ったものです。こういった「下湯」の習慣・作法もなくなって、そのまま湯船に入る若者が多いと、温泉に行くと感じます。どれだけ綺麗になるのかは分かりませんが、その仕草が、人を安心させるのでしょう。やはり日本は、独特な国であると、今さらながらに感心させられております。

キャッチ・コピー

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 学校の行き帰りに、中央線に乗っていた時、吉祥寺か阿佐ヶ谷あたりで、新宿に向かう上り電車の左手に、質屋の看板が見えました。たしか、『遠くの親戚よりも、近くの◯◯!』と書いてあったと思います。下車して、〈質草〉を持ってやって来るようのとの宣伝文句でした。なんとなく説得力のある広告だと、感心したものです。ほんの少しのことばで、相手の心を掴んでしまう、「キャッチ・コピー」には、面白いものがあります。日本のテレビのコマーシャル(宣伝)は、実に優れているものが多いのだそうです。奇想天外で、何を意味しているのかわからないようなものもありますが、最近の若い作成者のセンスの好さに驚かされています。そういったキャッチ・コピーのコピーが世界で使われているようです。

 小さい頃に、テレビの放映が始まり、父の家では、皇太子と美智子さんの「結婚式」があった頃に、テレビを買ったと思います。その頃、『S、0、N、Y・・・SONY!』というフレーズが、聞こえてきました。いまだに覚えています。また、『マルコメ マルコメ・・・味噌!』も記憶の中に残っているのですが。まあ、その頃のコマーシャルの原型は、アメリカのテレビの中からのコピーが多かったと思われますが、流石、日本では、それをたたき台に、独特なものを創り上げてきているわけです。

 国道52号線を清水まで走っていく山間部に、『子ども叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ!』という立て看板を見て、ほんとうに納得させる標語だと思ったことがありました。ちょうど子育て真っ最中にでしたから、そこを頷いて通過しました。老境に至った今、笑われないように生きようと覚悟をしているところです。今年、召された母が、ちょっと頓珍漢なことを言ったことがありましたが、それを聞いてた私は、つい笑ってしまいました。申し訳ないことをしたなと思いきや、今度は我が番だと思っております。

 ビートたけしでしたか、『赤信号 みんなで渡れば こわくない!』がありましたが、漫才ネタだけあって、実行してはいけないキャッチでした。また、『この土手を 登るべからず 警視庁!』というのがあって、調子が好すぎるので、つい登ってしまいそうで、クレームが付いたようですが。とても好いと思ったのが、『狭い日本 そんなに急いで どこへ行く!』でした。

 さて、人気が凋落し、自信を喪失してしまった「日本」を、元気付けるキャッチコピーに、なにか良いものがあったらいいのだが、と思っているのです。『物づくりニッポン!』だけではなく、世界の眼と耳を釘付けにしてしまうようなキャッチ・コピーがあったらいいのですが。また、子どもたちが誇りを持って生きていけるように、彼らを勇気づけるものがあったらいいと思っております。

 そういう意味で、マスコミには責任があると思います。ナチスドイツに、ゲッペルという宣伝相がいて、ヒトラーの演説文句の創案者だったそうです。ヒトラーは名演説家でありました。あの堅実なドイツ国民を、上手にコントロールした、魔的な演説は、力強いだけではなく、人心を収攬し、同じ方向に向け直してしまう様な、超人間的な能力が込められていました。それに加えて、ゲッペルの介入は、ヨーロッパを闇の中に引き込んでいったのです。

 このことは、警鐘として鳴らさないといけないと思われます。魔的な能力者が、マスコミを支配したら、また暗黒の時代がやってこないとは限りません。権力におもねないで、吟味され、精査された報道が、日本の社会の中でなされていくことを願うのです。それは国民が安心して生活していけるようになるためであることは、もちろんのことであります。商品を売るためのキャッチも、品があって、ユーモアのあるのがいいですね。そう、「日本」の・・・・。

(写真は、道路の押しボタン式の「信号」です)

灯火親しむ候

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 今日の午後、私が読んだ「家庭」について本の中に、次のようなことが書いてありました。

 『家庭は・・・賜物であり、生命に満ちあふれたものである。家庭における養育は、実に特別な性格を持っている。家庭の代わりを務めたり、埋め合わせることができる学校も教育機関もありえない・・・父の握手、母の声、兄と妹、揺りかごの中の赤ん坊、愛する人の病、成功と逆境、お祝いの日と嘆きの日、日曜と平日、食卓での願いと感謝、本の朗読、朝と夕の願い、こうした家庭内でのあらゆる事柄が、子どもを養育するのである。家庭内でのあらゆる事柄が、毎日、毎時間、意図しない形で、事前に練られた計画や方法、教育システムによらず、相互に子どもの養育に関わっているのである。分析したり計量したりはできないが、あらゆることが教育的効果を発揮するのである。何千ものちっぽけで些細なことすべてが、その具体的な場面で、子どもを養育するのに効果がある。偉大で、豊かで、尽きることのない、普遍的な人生。子どもを養育するのは、この人生そのものである。家庭は人生の学校である。なぜなら、そこには潤いを与えてくれる泉と暖めてくれる暖炉があるからである(ハーマン・バヴィング)』

 お父さんやお母さんが、初めて子育てを始める時、新米の二人が、計画したのではなく、生活上の些細なことごとを忠実にしていくときに、子どもは健全に成長していくというのが、ここで言っていることなのではないでしょうか。握手が子どもに体に触れ、優しい声が心に響き、食事を感謝して共に食し、本を読んだりしていく時、子どもが養われていくのです。喜びの日ばかりではなく、悲嘆を経験する日にも、一緒にそれを迎えて過ごし、平日と祝祭日を明確に位置づけ、病んでいる家族や隣人を見舞ったりする時、子どもが養われていくのです。これらが忠実になされていく平凡な日々の積み重ねの中で、子どもたちは肉体的に成長するばかりではなく、精神的にも心情的にも大きくされていくわけです。

 家庭って、すごい使命を持っているのですね。『これの代替物はない!』、これが作者の確信です。つまり、親の代わりができるものは、どこにもないのだということになります。健全な家庭が幾つもある街、国、民族は、どんな武器で武装した街や国や民族よりも、比べられないほど堅固なものとなっていくわけです。としますと親が高学歴である必要があるのではありません。『家庭が何か?』と『親とは何か?』と『子どもとは何か?』の答えを見付け出した人が、この家庭建設を忠実に果たすことができるのです。そして幾多の有為な人を送り出すことができるわけです。

 この本を読んでから、もう一度子育てをしてみたくなりました。心は燃えているのですが、肉体は弱く、再び、親業を果たすことはできそうにありません。どうか若いご両親が、こんな規準の上に立たれて、お子たちを育てて欲しいと、心から祝服したい思いでいっぱいです。灯火親しむ候、「読書の秋」の宵、本を読んで、そんなことを思っております。

(絵は、黒田清輝作の「読書」です)

『日本人って凄いんだ!』

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 『日本人って凄いんだ!』と、幼い日に感じたのが、水泳選手の「古橋広之進」が、1949年6月に、ロスアンゼルスで行われた「全米選手権大会」に招待されて、優勝したことでした。日本の社会全体が、沸き立っていたのを、幼い私も感じたのだろうと思うのです。400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録の成績を残したのです。「フジヤマのトビウオ(The Flying Fish of Fujiyama)」と、新聞が書き立てて、アメリカ人を驚ろかせたのみならず、すべてを戦争で失ってしまった日本人を歓喜させたのです。左手の中指(第一関節より先)を怪我で失ったハンディーを抱えながらの優勝は、絶賛されました。

 次いで、ノーベル賞を、「湯川秀樹」が受賞したのも1949年のことでした。物理学の世界で、世界的な学者がいることに、日本が喜び、驚かされたのです。敗戦で全く打ちのめされ、自信喪失していた日本人が、学問の世界でも一流であるとの評価を受けたのです。私には、わからない事だらけですが、『日本人って凄いんだ!』ということが伝わってきたのです。

 プロボクシングに、「白井義男」という選手がいました。1952年に、アメリカ人のチャンピオンを倒して、全世界フライ級チャンピョンの栄冠を手にしたのです。日本人が世界のタイトルを初めて取ったことは、若者たちのボクシング熱を煽ったと言われています。白井は、ボクシングを、スポーツとして高く評価し、そのために大きく貢献したのだと思われます。

 もう一人、相撲の世界から転身して、プロレスリングの世界で活躍したレスラーに、「力道山」がいました。1958年に、アメリカ人レスラーのルー・テーズを破って、世界チャンピオンになったのです。テレビが出始めたこともあり、驚くほどに日本中を沸騰させたのです。見世物といった色彩の強いものであったのですが、当時の力道山の人気というのは、前代未聞、あれほどの人気者は、その後は出なかったのではないでしょうか。国籍の問題もありましたが、本名の百田光浩は一世を風靡したスポーツマン、エンタテイナーだったといえるのです。

 あれから半世紀が過ぎ、今年ノーベル医学賞に輝いたのが、「山中伸弥」です。京都大学の教授で、様々な種類の細胞に変化できる〈iPS細胞(新型万能細胞)〉を作製した功績が評価されての受賞でした。爽やかな、気取らない、庶民的で、妻子をこよなく愛する好感の持てる人です。多くの優秀な学者たちが、研究環境の整ったアメリカなどに流出していく中で、日本に留まって、偉業を達成したことは、夢を持たなくなったと言われる子どもたちに、『日本人って凄いんだ!ぼくもやってみたい!』という自信と、気概と、挑戦の意欲をもたせたことは、実に大きいのではないでしょうか。

 人間は、『ダメなんだ!』と言われ続けると、ついには駄目になってしまうのだそうです。だったら、『できる!』と言い続けるなら、できるようになるのです。小学生、中学生、高校生が、『日本人って凄いんだ!』と思い続けるなら、凄い日本人になれるのです。そうなって、祖国に貢献し、やがて、世界、人類に貢献するような「人」になって欲しいものです!

(写真は、受賞会見にのぞむ山中伸弥京大教授夫妻です)

再び、「赤とんぼ」

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 高校3年、進路を考えていた時に、気の多い私は、「大学進学」と「アルゼンチン移住」、これが駄目だったら「自衛隊入隊」という、3つの選択肢を考えついたのです。結局、大学に受かりましたので、後の二つは幻のように消えてしまいました。中高と6年間、男子校で過ごした私は、その反動で、女子大には入れてもらえませんので、女子大学生の多い大学と学科を選んだのです。動機が悪かったのですが、何とか入ることができました。少々強い運動部にいましたので、推薦がとれたのですが、それには目もくれずでした。

 その大学で4年間学ばせてもらった私は、とても素晴らしい時を過ごせたことを、今思い返して、大学に進ませてくれた父と母に、心から感謝しているのです。私のゼミには、「ゼミ歌」がありました。三木露風が作詞し、山田耕筰が作曲した「赤とんぼ」でした。

夕焼小焼の赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か
山の畑の桑の実を
  小かごに摘んだは まぼろしか
十五でねえやは嫁にゆき
  お里のたよりも 絶えはてた
夕焼小焼の赤とんぼ
  とまっているよ 竿の先

 子どもの頃の懐かしさと、学校時代の思い出が重なって、歌ったり、聞いたりしますと、様々なことが思い出されてくるのです。NHKに、私と同窓の先輩がいました。独特な節回しをするアナウンサーで、「中西龍(りょう)」といいました。この方が、「にっぽんのメロディー」というラジオ番組を担当していたのです。第一放送で、1977年から1991年までの夜に放送されていました。この番組のテーマ曲が、この「赤とんぼ」でした。まいたび、この曲を聞きますと、胸が『キュン!』としてきて仕方がありませんでした。この曲が流れると、『歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。』 と始まるのです。そしてリクエストされたはがきが二通読まれ、二曲のリクエストの歌が放送されていました。

 この番組の放送の時間、家にいるときは、妻や子どもたちに内緒で、布団の中に携帯ラジオを持ち仕込み、イヤホーンで聞くのを、ほとんど唯一の楽しみにしていたのです。他に趣味のなかった私のお金のかからない〈道楽〉でした。今思い出すと、流行歌を聞きたかったと言うよりは、「赤とんぼ」の挿入曲を、繰り返し聞きたかったのだと思うのです。

 『骨折り損の、くたびれ儲け!』という言葉があります。今朝は、4時過ぎに目が覚めてしまいました。授業のある日だったので、横にならないで、そのまま起きて、本を読んだりしていたのです。時間が来たので、7時前に家を出て、コピーをする必要もありましたので、店に寄って、4階の教室に行きましたら、教室がロックされていたのです。それで、管理人室に鍵を、と思って降りたら、そこに管理人がいて、『今日は授業がありません。運動会ですから。』と言われたのです。

 しっかり調べなかったのがいけなかったのですが、儲けたのは〈くたびれ〉ではなく、〈時間〉でした。それで、踵を返して、喜んで家に帰りました。それで今日はハイキング日和、真っ青な空の秋そのものの一日でしたので、家の前からスーパーマケットの送迎バスに乗せていただいて、川岸にある「公園に」にでかけました。家内と私の共通の友人のご婦人をお誘いし、そのスーパーで落ち合い、向日葵畑や様々に咲く花を見て回りました。昼前に、持っていったお握りや煮しめで昼食を、三人でとったのです。池の淵のベンチに座っていたら、「赤とんぼ」が、じっと止まっていたのを、家内が見つけました。見ていたら懐かしさがこみ上げて、涙が流れそうになってしまいました。帰りには、そのスーパーで買物をし、家の前まで送ってもらいました。よい秋の一日に感謝した次第です。

(写真は、八王子市恩方にある「夕焼け小焼け・ふれあいの里」です)

正念場

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 上海で、会社経営されておられる現地法人の社長が、中国との決別を、『本気で考えているのです・・・ところが、なかなか最終的な踏ん切りがつきません!』とおっしゃっておられうようです。この彼は、その理由を次のように語っておられます(「ダイアモンド・オンライン」の記事から)。

 ・・・『中国人従業員たちが気がかりだ』と語る。たった30人のメンバーだが、そこには家族同然の感情がある。彼らはいつも目を輝かせて技術指導を受け、『社長、社長!』と慕ってくる。そんな従業員を経営者は食事に連れて行ったり、上海の自宅に招いたりもする。
 反日デモについても朝礼で取り上げた。『君たちはどう思う?』――。こうした非常時でも、タブーなく互いの考え方を言い合える関係を、7年かけて築き上げた。
 毎年秋には恒例の社員旅行がある。今年は反日デモが落ち着いた10月に、浙江省の海沿いの観光地に連れて行った。従業員は四川省や安徽省、江西省 など内陸からの出身者が多く、彼らにとっては生まれて初めて見る海だったという。彼らは『もう二度と海を見ることもないだろうから!』と言って、秋の海には しゃいで飛び込んで行った。
 『なんだかんだ言っても、俺には彼らがかわいくてたまらない。そんな中国人従業員を捨てられるものか!』とAさんはいう。
 反日デモで揺れる日本企業だが、Aさんは社員旅行でそんな思いを強くしたようだ。・・・

 七年間手塩にかけて育て、面倒を見てくれた社長を慕う中国人従業員がいること、また若い従業員を家族のように思う経営者がいるのを知って、感動でした。この中国の日系企業者の中に、儲けるだけの目的でない経営者がいることを、中国のみなさんに知ってもらいたいと思ったのです。ミャンマーやバングラディッシュに、拠点を移すことだってできるのですが、それを躊躇させている、《中国人への愛》が、私に迫ってきたのです。

 貧しい農村から出てきた青年たちを、搾取するだけの経営者だっているかも知れませんが、驚くほどの家族愛を持って世話をしてきた、この社長の《悔しさ》を感じてならないのです。この夏、上海から乗り込んだ船に、内陸の農村から出てきた娘さんたちが四人ほど同船していました。『どこへ行くの?』と聞いたら、『大阪の水道のメーターを作る工場に働きに行くんです!』と答えてくれました。船に乗って海を渡り、外国に行くなんて、初めての経験で、期待と不安とで、彼女たちの心が満ちていました。それで互いに励まし合っていたのです。『日本語を少し勉強してきたので、発音を直してくれますか!』と言うことで、しばらく〈甲板授業〉をしました。それを、とても喜んでくれたのです。

 しばらく交わっていると、夕食を食べる様子がなかったのです。彼女たちには、船のレストランの一食800円もする食事代は、人民元で60元以上もするのですから、食べられなかったようです。そこで私は、ちょっとおせっかいなことをしてしまったのです。『日本に、つらいことが待ち受けてるかもわからないけど、一生懸命に働いてね!』という気持ちを込めて、〈就職祝い〉にカップヌードルを差し入れしてあげたのです。大変喜んでくれた彼女たちは、翌朝、大阪港から、迎えのバスに乗って就職先に向かいました。

 日本での経営者が、低賃金の労働力で働かせるだけではなく、賃金や福利厚生のめんで、厚遇してもらえるような祈りをもって見送りました。このままで、中国と日本は決裂してしまっていいのでしょうか。きっと何か建設的な解決の道筋があると思うのです。知恵の出し比べの〈正念場〉というのが、今なのではないでしょうか。中国で働く若者たち、そして日本で働く若者たち双方が、将来家庭を築いていくであろう彼らが、金銭的にも精神的にも豊かになって欲しいと願う、華の金曜日の夕方であります。

(写真は、上海で、「蘇州号」に乗り込んだターミナル、対岸に上海テレビ塔が見えます)

映画

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 2010年に、映画「キャタピラー」が上映されました。若松孝二監督の作品で、「ベルリン映画祭」では、主演の寺島しのぶが「銀熊賞(最優秀女優賞)」を受賞しています。この映画を作るにあたって、若松孝二は、『・・・男たちを戦場へ送り出して残された女性たち、それも大都会ではなく、例えば農村に残された女性たちの姿を通して、戦争がいかに愚かなことであるか描いてみよ うと考えたのです。いかなる戦争であれ、正義のための戦争というのは存在しません。どんな理由をつけようと、戦争はただの殺人です。そして戦争が起こった時、最も苦しむのは、政治家や兵士ではない。子どもたち、さらには女性たちです。戦争によって、女性がどれほどの苦しみを押しつけられるのか。それを描い たのが、この「キャタピラー」という映画です。』と語っています。

 1939年生まれの若松孝二は、戦時下に生まれていますから、宮城の農村から出征していく兵隊たちのほのかな記憶が、子ども心に残っているのだそうです。『甲府の街が燃えて、空が真っ赤になっているのを、山の中の家から見たのを覚えている!』と言った兄と同学年ですから、彼らも戦争を引きずりながら生きてきたことになるのでしょうか。その彼が、過去の《愚かな戦争》を描いて、平和の中に迷走する日本の社会に送り出したのです。この映画は、日本でよりも、ベルリンで高い評価を受けたのは、やはりヨーロッパを戦争に巻き込んだ国であったからでしょうか。

 初めて観た岩松作品でしたが、噂に聞いてきた彼の作品とは違って、『好かった!』と思わされたのです。戦争を知らない世代への一つに強い主張だと思います。戦争で大怪我をし、四肢を失い、話すことも聞くこともできない姿で復員してきたのが主人公の夫です。幾つもの勲章を受け、地元の新聞にもその戦功が讃えられ、送り出した村人からは、「軍神」に祀り上げられるのです。傷痍軍人になって帰ってきた夫の世話を、妻は献身的にするのですが、かつては暴力を振るっていた夫を、嫌々世話をするのです。時々、軍服と軍帽を着せ、勲章を胸に下げて着飾らせた夫を、「軍神」として連れ出して、村の中を巡回するのです。軍神の妻として、ほめられていい気分になる姿を、寺島しのぶが好演しています。しかし夫と二人になるときは、憎しみや嫌悪感を表すのですが。

 やがて、戦地での陵辱の光景がフラッシュバックしてきて、それに主人公の夫がさいなまれる場面が、映しだされます。それは、やはり日本の軍隊、日本の軍人たちが持っていた隠された素顔の一面だったのでしょうか。若松孝二は、そこを描きたかったのではないでしょうか。『軍神だと祀り上げられても、戦地では盗みや婦女を暴行した獣だったのだ!』、そういった彼らが、兵士の中にいた事を強調したかったのでしょう。死線をさまよう兵士の狂気があったことは、否めません。統計をみますと、中国大陸で、日本軍によって殺害された中国の兵士と民間人のみなさんの数は、1100万人にも昇るとの統計があります。実に膨大な数ではないでしょうか。ですから、「反日」があって当然なのかも知れません。

 主人公の夫は不自由な体で、家から這って出て、家の前にある池に身を投じて死んでいきます。人道に悖(もと)った行為を最前線でしたことの罪責感に責められ、精神的に追い込まれて、そういった最後を選ぶのです。こういった悲劇で終わります。銃後の妻たちの葛藤を演じた寺島しのぶは、やはり歌舞伎役者の子として素晴らしい演技者だと感心させられました。生々しく戦争と、戦争被害と、罪責を描きつつ、岩松孝二が訴えているのは、やはり《反戦》なのです。この若松孝二監督が、昨日亡くなられたとニュースが伝えていました。戦争と戦後を橋渡しした世代の人だったのですね。ご遺族の上にお慰めがありますように!

(写真は、映画「キャタピラー」で主演を演じた寺島しのぶです)