「水泡に帰す」を、辞書でみますと、『水の泡のように消えてしまうということから、努力したことが何の甲斐なくすべてむだになってしまうこと。 』とあります。ちなみに、これを英訳しますと、”to come to nothing ”となるそうです。中日の友好のために、北京を訪れていた、時の外務大臣、大平正芳の涙が、中華人民共和国の外交部長・姫鵬飛氏の心を動かしたそうです。そのかいあって、「日中共同声明」が、1972年9月29日に発表され、正式に国交回復がなされていったと言われています。これは日本の外交秘話の一つだそうです。
実は、それ以前から、民間レベルの交流が行われてきておりました。私たちが住んでいる街の近くの街に、「氷心記念館」があり、一度見学に連れていってもらったことがありました。中国の著名な女流作家である謝氷心の生涯を、写真やパネルや記念品などが陳列されてあり、大変に興味深いものを感じました。この方は、昭和22年には、すでに来日されています。その後もお出でになられて、東京大学では、特別講義をされています。また当時の文壇のそうそうたる作家たちとの交流があり、その記念写真なども展示されてありました。ですから、学術レベルでも、深い交流が行われてきたことになります。
決定的なことは、鄧小平主席が、日本を訪問したことでした。1978年10月に、「日中平和友好条約」の批准書を交換するために、中国の政治指導者として初めて日本を訪問しました。その時には、昭和天皇とも親しく歓談しています。これは中国の首脳として初めてのことであったのです。日本政府の首脳とも会談をしています。また、この訪問の折には、新日本製鉄の製鉄所、松下電器(現パナソニック)の工場、トヨタ自動車の工場などを見学して、戦後の経済復興を目の当たりにして、驚いたそうです。東京から関西を訪ねた折には、東海道新幹線に乗車しており、その速さや乗り心地に、驚くほどの感銘を受けたと伝えられています。この訪問こそが、中国の「改革開放政策」の原点となっていくのです。松下幸之助との話の中で、松下の工場を中国の国内に作って稼働することや、新日鉄の協力を得て、上海に宝山製鉄所を作るなどの話もまとまったのです。
戦争責任の賠償金の代わりに、「ODA(政府開発援助(Official Development Assistance )」の援助によって、中国国内の道路整備、上海や北京の空港建設整備、天生橋の発電所建設、港湾や鉄道や橋梁等などの建設が行われております。その総額は、6兆円をこすほどだとされているのです。私たちがときどき渡る橋が、町の中心部にありますが、これも日本の企業が建設したものだと聞いています(今は建て替えられていますが)。
こういった努力が、「水泡に帰す」ことがないように、新しく誕生する内閣に願い、新しく迎える2013年には、そういった努力の蓄積が、「友好」といった実をしっかりと結ぶようにと、心から願っています。大勢の名のない民間人が、この国で、この二字、すなわち「友好」のために、無言で仕えていることも忘れないでほしいものです。
(写真は、1979年、鄧小平氏と握手を交わす大平正芳氏です)