政治家の涙

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 「水泡に帰す」を、辞書でみますと、『水の泡のように消えてしまうということから、努力したことが何の甲斐なくすべてむだになってしまうこと。 』とあります。ちなみに、これを英訳しますと、”to come to nothing ”となるそうです。中日の友好のために、北京を訪れていた、時の外務大臣、大平正芳の涙が、中華人民共和国の外交部長・姫鵬飛氏の心を動かしたそうです。そのかいあって、「日中共同声明」が、1972年9月29日に発表され、正式に国交回復がなされていったと言われています。これは日本の外交秘話の一つだそうです。

 実は、それ以前から、民間レベルの交流が行われてきておりました。私たちが住んでいる街の近くの街に、「氷心記念館」があり、一度見学に連れていってもらったことがありました。中国の著名な女流作家である謝氷心の生涯を、写真やパネルや記念品などが陳列されてあり、大変に興味深いものを感じました。この方は、昭和22年には、すでに来日されています。その後もお出でになられて、東京大学では、特別講義をされています。また当時の文壇のそうそうたる作家たちとの交流があり、その記念写真なども展示されてありました。ですから、学術レベルでも、深い交流が行われてきたことになります。

 決定的なことは、鄧小平主席が、日本を訪問したことでした。1978年10月に、「日中平和友好条約」の批准書を交換するために、中国の政治指導者として初めて日本を訪問しました。その時には、昭和天皇とも親しく歓談しています。これは中国の首脳として初めてのことであったのです。日本政府の首脳とも会談をしています。また、この訪問の折には、新日本製鉄の製鉄所、松下電器(現パナソニック)の工場、トヨタ自動車の工場などを見学して、戦後の経済復興を目の当たりにして、驚いたそうです。東京から関西を訪ねた折には、東海道新幹線に乗車しており、その速さや乗り心地に、驚くほどの感銘を受けたと伝えられています。この訪問こそが、中国の「改革開放政策」の原点となっていくのです。松下幸之助との話の中で、松下の工場を中国の国内に作って稼働することや、新日鉄の協力を得て、上海に宝山製鉄所を作るなどの話もまとまったのです。

 戦争責任の賠償金の代わりに、「ODA(政府開発援助(Official Development Assistance )」の援助によって、中国国内の道路整備、上海や北京の空港建設整備、天生橋の発電所建設、港湾や鉄道や橋梁等などの建設が行われております。その総額は、6兆円をこすほどだとされているのです。私たちがときどき渡る橋が、町の中心部にありますが、これも日本の企業が建設したものだと聞いています(今は建て替えられていますが)。

 こういった努力が、「水泡に帰す」ことがないように、新しく誕生する内閣に願い、新しく迎える2013年には、そういった努力の蓄積が、「友好」といった実をしっかりと結ぶようにと、心から願っています。大勢の名のない民間人が、この国で、この二字、すなわち「友好」のために、無言で仕えていることも忘れないでほしいものです。

(写真は、1979年、鄧小平氏と握手を交わす大平正芳氏です)

『心を治めよ!』

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 アメリカの東海岸のコネチカット州で、18人の小学校低学年の生徒と、大人が9人が、20歳の青年の手にした銃で打たれて亡くなりました。その現場の凄惨さは言葉にできないほどだったと、ニュースが報じていました。犯人は、警察官に包囲されているの知って、自らの命を断ちました。さらに小学校を襲撃する前に、自分の母親も銃を発砲して殺害しているのです。日本でも、この中国でも、これに類似する、刃物によって不特定の人を襲う殺傷事件が頻発しております。

 私たちの孫のいるオレゴン州の街から、車で2時間ほどのところにある、ポートランドの商業施設でも、この事件の数日前に、銃の乱射事件があったばかりだと、娘がメールしてきています。こういった事件を、自分の幼い子どもたちに、どう伝えるのか、どのように説明するのか、そのことを避けていられない状況下で、母として娘も苦慮している様子でした。きっと子どもたちの耳にも、被害にあった子どもたちの悲劇の死、その現場にいて目撃してしまった子どもたちの衝撃などを伝え聞くことになるわけです。アメリカの子育て中の母親は、大変な時を過ごしていることになります。また、子どもたちの心のケア-を、どうするかも大きな課題なのです。

 数年前に起きた、大阪の池田小の刃物による事件で、被害に遭わなかったのですが、心を深く傷つけられた子どもちの、その後の様子が気がかりでなりません。私の長男が、小学生の時に、「豊田商事」という会社に乱入して、人を刺殺した事件のテレビニュースを、見てしまって、その衝撃で倒れてしまったことがありました。事件の現場をテレビで放映したのは、ふさわしいことではなかったのです。正しいことと邪なこと、善と悪、光と闇、命と死、そういった間(はざま)で、私たちは生きているですが、幼い子どもたちの心を守っていく責任が、私たちにはあるのです。

 マスコミは事実を伝える使命がありますが、その伝達に伴う影響力も考えて、抑制力のある報道をしていかなければならない、それが情報報道に課せられたもう一つの義務だと思うのです。報道写真に、怯えている子供の目が写っていました。あるニュースは、『言葉が出ないほどの衝撃を受けていました!』と伝えていました。

 心が統御できない時代、心を治めることのできない時代が来ているのでしょうか。衝動的に、事を起してしまい、終わった後で、『ハッ!』と気付くのでしょうか。よく殴ったり蹴ったりするゲームがありますが、倒れてもまた起き上がり、また起き上がりを繰り返すゲームの相手は、不死身のようです。強烈な殴打によってノックダウンしないのです。ところが実際には、人は一撃で倒せるのです。先日、東京の大学で、空手部の高齢の先輩に、回し蹴りを打って死なせてしまった事件がありました。主将の彼は、このことを知っていたのに、〈怒り〉を治めることができずに、凶器となる足を用いてしまったわけです。ゲームも倶楽部も、いつでも〈遊びの枠〉を超えてしまうことができるのです。

 兄たちに蹴られたり、殴られたりして育った私は、その訓練のかいあって、喧嘩が強かったのです。打たれた痛さを知っていたので、体格の差があっても、どれほどの力で、どこを打てば相手を倒せるかを心得ていました。しかし、どんなに激しても、その一手を超えないわけです。ところが今の若者は、怒り心頭してしまったら、その抑止力が効かないのです。大変な時代におります。兎にも角にも、幼い子共たちを、その暴力と、暴力への恐怖とから守りたいものです。そして『心を治めよ!』と叫びたいのです。そんな思いで誕生日を迎えました。

(写真は、コネチカット州の州の花の「アメリカシャクナゲ」です)

ジョブズ@スタンフォード大学・2005年

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    スティーブ・ジョブズ『2005年スタンフォード大学卒業式祝辞』

本日は、世界でも指折りの大学の卒業式に同席できて大変に光栄です。私は大学を卒業したことがないものですから、正直なところ、今回がこれまでで卒業にもっとも近い体験なんです。
 きょうは、みなさんに、私の人生から得た3つのお話をします。

●生みの親と育ての親、そしてリード大学入学と中退
 最初の話は、点と点を結ぶということです。
 私は、リード大学をたった半年で中退しています。もっとも、正式に退学するまで、その後1年半も授業を受けていましたけどね。
 まずは、その中退のいきさつから話したいのですが、それには私が誕生する前のエピソードからはじめなくてはなりません。
 私の生みの親は、未婚の大学院生でした。生まれたらすぐに私を養子に出すこと、そしてその相手は大卒の夫婦と決めていたそうです。
 現に、弁護士夫婦が私を引き取ることになっていたのですが、出産直前になって、女の子が欲しいと言い出したのだとか。
 そこで、キャンセル待ちリストに載っていた別の夫婦に、真夜中に電話がかかってきたというわけです。これが私の今の両親です。
 ところが、母親は大学を出ていないし、父親に至っては高校も卒業していませんでした。生みの母親は、あとでそれを知り、養子縁組の書類にサインを拒否してしまいます。
 結局、2、3ヵ月ほどして、育ての親が、将来私を大学に行かせると約束。やっと生みの母親も折れたのだそうです。
 その17年後、確かに私は大学に入学できました。
 ところが、世間知らずなものだから、選んだリード大学というのはスタンフォード並みに学費が高い。労働者階級である親の貯えは、みるみるうちに学費に消えていきました。
 私はといえば、半年も過ぎると、大学にいる意義を感じなくなっていました。人生で何がやりたいのかもわからず、大学がどう役に立つのかもわからない。ただ、親がこれまで貯めてきた金を浪費するだけ。
 それで中退を決めたんです。すべてがうまく行くと信じて。
 もちろん、そのときは不安でした。でも、いま思うと、人生で最良の決断でしたね。なにしろ、興味のない科目はもう受ける必要がないし、おもしろそうな科目だけ聞くことができるのですから。
 もっとも、「ロマン」とはほど遠い生活でした。寮に自分の部屋がないから、寝るのは友人の部屋の床。返却したコーラの瓶代5セントを食費にあてた り、毎週日曜の夜に10kmも離れたハレクリシュナ寺院まで歩いて、やっとウマい食事にありついたりといった日々が続きました。
 とはいえ、このころ好奇心と直感にしたがって行動したことは、金銭に代えられないほど貴重な経験となって、のちに生きてきます。

●点と点が結ばれていることを信じれば、人生に失望することはない
 実例を1つあげてみましょう。
 当時、リード大学のカリグラフィ(書道)教育は、国内最高水準のものでした。キャンパスを見ても、ポスターから引き出しのラベルまで、美しい手書きの飾り文字で飾られていたんです。
 そこで、試しにカリグラフィの授業をとってみようと思い立ちました。どうせ私は退学したんですから、通常のクラスに出る必要はないですし。
 私は、さまざまな書体を学び、文字の違いによって間隔を調整する方法を学び、活字を美しく表現する方法を学びました。まさにそれは、科学ではとらえることのできない芸術の世界。すっかり私は魅せられてしまいました。
 確かに、こんなことは、生きる上で役立ちそうもないように思うでしょう。でも、その10年後、最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計するときになって、すべてがよみがえってきたのです。
 私は、かつて学んだカリグラフィを応用して、美しい書体を備えた世界初のコンピュータ、マックを完成させたのです。
 もし、私が大学であのコースに出なかったら、マックには複数のフォントもプロポーショナルフォントも入っていなかったでしょう。ウィンドウズがマックの真似であることを考えると、おそらくいまだにそんな機能を持つパソコンは1台も現れなかったに違いありません。
 中退しなければ、カリグラフィの授業には出なかった。そして、カリグラフィの授業に出なければ、美しい書体のパソコンはできなかった。
 もちろん当時の私には、未来に先回りして、そうした点と点を結ぶことなど、できるわけがありません。でも、10年たってから過去を振り返ってみると、点と点のつながりは明らかです。
 みなさんも、未来を先取りして点と点を結ぶことはできないでしょう。でも、過去を振り返って点と点を結ぶことはできるはずです。
 ですから、いまはつながりがないことがらであっても、将来は結ぶことができるかもしれない──それを信じてほしいんです。
 勇気、運命、人生、宿命……何でもいい。とにかく信じることです。点と点が結ばれていくことを信じれば、人生に失望することなんかありません。それどころか、人生がまるで見違えるものになることでしょう。

●自分で創業したアップル社から追い出されてしまう
 さて、2番目の話は、愛と喪失についてです。
 私が幸運だったのは、人生の早い段階で、自分が打ち込める仕事を見つけたことでしょう。実家のガレージで、ウォズ(スティーブ・ウォズニアック)といっしょにアップルをはじめたのは、20歳のときでした。
 そして懸命に働いた結果、10年後には従業員4000人以上、売上高20億ドルの企業に成長。最高の作品であるマッキントッシュを発表することになります。しかし、そのたった1年後、30歳になったとたんに、私は会社をクビになってしまいました。
 自分が設立した会社をクビになるなんて、おかしな話でしょう。
 実は、こういうことなんです。アップル社の拡大にともなって、私は会社を任せられる有能な人間を雇いました。確かに、最初の1年ほどはうまくいったのですが、じきに将来のビジョンについて意見が分かれてしまいました。
 結局、取締役会も彼に味方し、私は30歳で会社を追い出され、社会的にも落ちこぼれてしまったわけです。社会人としての人生すべてを賭けたものが、まるでなくなったのですから、それはひどく打ちのめされました。
 2、3ヵ月間は、どうしたらよいのか本当にわかりませんでした。自分のために、前世代の起業家の業績をおとしめてしまった──手渡されたリレーのバトンを落としたように感じたのです。
 ひどいヘマをやらかしたお詫びをしようと、デイヴィッド・パッカード(HPの共同創業者の1人)とボブ・ノイス(インテルの共同創業者の1人)にも会いました。シリコンヴァレーから逃げ出そうとも考えたほどです。
 でも、そんななかに、少しずつ明かりが射してきました。私は、自分が打ち込んできた仕事を、まだまだ愛していることに気づいたのです。
 アップルでの出来事があっても、その気持ちは少しも変わりませんでした。つれなくされても、やっぱり愛しているんです。そこで、もう一度やり直すことに決めました。

●アップルをクビになったことで私が得たもの
 そのときは気がつきませんでしたが、のちになって、アップルをクビになったことは、人生で最良の出来事だとわかってきました。
 成功者としての重圧は消え、再び初心者の気軽さが戻ってきました。
 おかげで、私の人生でも、このうえなく創造的な時代を迎えることができたのです。
 その後の5年間に、ネクスト(NeXT)という会社を立ち上げ、続いてピクサー(Pixer)という会社を設立し、素晴らしい女性にめぐりあいました。それが、今の妻なんですけどね。
 のちにピクサーは、世界初のコンピュータ・アニメ映画「トイ・ストーリー」を制作。世界最高のアニメーション・スタジオになりました。
 その後、事は意外な方向に進み、ネクストはアップルに買収され、私はアップルに戻ることになりました。そして、私たちがネクストで培った技術は、アップル再生の中心的な役割を果たしています。一方、妻ロレーヌと私は、素晴らしい家庭を築いてきたというわけです。
 それにしても確かなのは、アップルをクビになっていなければ、こうした出来事は1つとして起きなかったということです。口に苦い薬でしたが、病人には必要だったんでしょう。
 人生には、時にレンガで頭をガツンとやられることがあるものです。でも、信念を失ってはいけません。私がここまで続けられたのは、自分のやっていることが好きだったからにほかなりません。
 みなさんも、自分が打ち込めるもの──愛するものを見つけ出してほしいのです。これは、仕事でも恋愛でも同じこと。
 みなさんの人生において、仕事は大きな割合を占めることになるでしょう。そこで本当に満足感を味わいたければ、素晴らしいと信じる仕事をする以外にありません。
 そして、素晴らしい仕事をするには、自分の仕事を愛することにつきるのです。
 まだ、そんな仕事は見つかっていないというならば、探し続けてください。妥協は禁物です。見つかればピンとくるはずですよ。
 そして、愛する仕事というのは、素晴らしい人間関係と同じで、年を経るごとに自分を高めてくれるのです。
 ですから、探し続けてください。妥協してはいけません。

●すい臓がんが見つかって余命半年を宣告されたこと
3番目の話は、死についてです。
 17歳のとき、こんな言葉を本で読みました。
「毎日を、人生最後の日だと思って生きなさい。そうすれば、いつか必ずその通りになる日が来るでしょう」
 これには強烈な印象を受けました。それ以来33年間、毎朝私は鏡に向かって自問自答してきました。
「もし今日が人生最後の日だとしたら、本当に今日のスケジュールでいいのか?」
 「ノー」と答える日が長く続くと、私は「何かを変えなくてはならない」と考えはじめます。
 死を目前にした自分を想像することは、人生の大きな選択をする際に、ずいぶんと役に立ちました。
 というのも、他人からの期待、自分のプライド、失敗への恐れなんて、死に直面したらバッと消え去ってしまいます。残るのは、本当に重要なことだけ。
 また、自分もいつかは死ぬんだと想像すれば、「自分には失いたくないものがある」なんていう思い違いをしなくて済みます。
 みなさんには、失うべきものは何もないのです。心のおもむくままに生きて、何も悪いことはありません。
 1年ほど前、私の体にガンが見つかりました。検査の結果、すい臓にはっきりと腫瘍が映っていたんです。それまでは、すい臓が何であるかも知らなかったのに。
 医者の言うには、これは治療ができないガンにほぼ間違いない。余命は3ヵ月から、よくて半年。
 そして、家に帰ってやるべきことを済ませなさいとアドバイスしてくれました。
 つまり、死に支度をしろというわけです。ということは、今後10年間かけて子どもたちに伝えようとしたことを、たったの2、3ヵ月で言えということです。
 家族が心安らかに暮らせるよう、引き継ぎをしろということです。要するに、別れを告げてこいということです。
 その日の夕方、生体検査を受けました。喉から内視鏡を入れ、胃から腸に通し、すい臓に針を刺して腫瘍の細胞をとってきたのです。
 あとで妻から聞いた話によれば、医師が顕微鏡で細胞を覗いたとたん、叫び声を上げたのだとか。というのも、すい臓ガンにしてはごく珍しく、手術で治せるタイプのものだとわかったからなんです。
 こうして私は手術を受け、いまでは元気になりました。
 これまでの生涯のなかで、私がもっとも死に近づいた瞬間といっていいでしょうね。できれば、あと何十年かは、これ以上近づきたくないものです。
 こんな経験をしたもので、以前よりもちょっと自信をもって言えるんですが、死というのは有用でかつ純粋に知的な概念なんです。
 わかりやすく説明しましょう。
 誰も死にたいと思っている人はいません。天国に行きたいと願っている人はいますが、そのために死のうとは思っていないでしょう。
 でも、それでいて、死というのは私たち誰もが向かう終着点でもあります。死を免れた人なんていません。
 それにはわけがあります。「死」というのは、「生」による唯一で最高の発明だからです。死によって、古いものが消え去り、新しいもののために道が開けるのです。
 いまの時点で、新しいものとは、みなさんのことです。でも、遠からず、みなさんもだんだんと古くなり、消え去っていくでしょう。
 ちょっと重苦しい話ですみません。でも、本当のことなんですよ。

●みずからの心と直感に従って行動してほしい
 みなさんの時間には限りがあります。自分らしくない人生を過ごして、ムダにする暇なんかありません。
 決まりきった教義なんかにとらわれてはいけません。それは、ほかの人が考えた結果を生きていくに過ぎないことだからです。他人の意見という騒音に、みなさんの心の声がかき消されないようにしてください。
 もっとも大切なのは、みずからの心や直感に従い、勇気を持って行動することです。心や直感というものは、みなさんが本当に望んでいる姿を、すでに知っているのです。
 私が若かったころ、「The Whole Earth Catalog」(全地球カタログ)という、それはそれはスゴい本がありました。私たちの世代では、バイブルのような扱いでした。
 ステュアート・ブランドという人が、ここから遠くないメンローパークで制作したもので、独特の詩的なタッチで、いきいきとした誌面が展開されていました。
 1960年代の終わりですから、パソコンもDTPもありません。タイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作られていたんです。
 いってみれば、グーグルのペーパーバック版という感じでしょうか。理想に燃えた誌面からは、素敵なツールと高邁な信念があふれていました。
 ステュアートとそのチームは、「The Whole Earth Catalog」の版を数回重ね、一通りのことをやってしまったところで、最終版を発行しました。
 1970年代の半ば。私が、みなさんの年ごろだったときです。
 最終版の裏表紙は、朝早い田舎道の写真。ヒッチハイクの経験がある人ならば、一度は目にしたことのあるような風景です。
 写真の下には、こんな言葉が書かれていました。
「ハングリーであれ、愚かであれ」
 それが、彼らの別れのメッセージだったのです。
 ハングリーであれ、愚かであれ──それ以来、私はいつもそうありたいと願ってきました。そしていま、卒業を迎えて新しい人生に向かうみなさんに、私は望みたい。
 ハングリーであれ、愚かであれ!         (翻訳:二村高史)

(写真は、アップルのコンピューターが誕生したしたガレージです)

高校生の目

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 「東進ハイスクール」の予備校生、3535人に、「日本の将来とリーダー像に関する調査」(実施期間:2012年12月2日~7日) 」をした結果が、「サーチナ」から公表されていました。その中で、「理想なリーダー像」を聞いたところ、

  一位  スティーブ・ジョブズ(アップル社の創業者)(250人が選ぶ)
  二位  小泉純一郎(元内閣総理大臣)(226人が選ぶ)
  三位  坂本龍馬(土佐藩を脱藩した幕末の志士)(180人が選ぶ)

という調査結果が出ています。「今の日本に必要なもの」については、

  一位   「行動力・実行力」(50.1%)
  二位   「決断力」 (29.7%)
  三位   「国際競争力」(29.2%)

とのことでした。さらに、「今の日本のリーダーに期待すること」を聞いたところ、

  一位   「行動力・実行力」(51.6%)
  二位   「結果に 対する責任を持つこと」(31.3%)
  三位   「決断力」(30.3%)

との結果がでています。そして、「日本の将来に期待すること」については、

  一位   「技術立国としての復活」(回答率32.6%)
  二位   「幸福度が高い国」 (29.5%)
  三位   「経済大国としての復活」(26.3%)

ということです。その反面で、「日本の将来に心配なこと」は、

  一位   「国の財政破綻」(44.4%)
  二位   「景気低迷」(26.6%)、
  三位   「世界での存在感の低下」(25.8%)

といった結果でした。さらに、「日本の将来は何色か」を聞くと、

  一位   「グレー」(33.8%)
  二位   「白」(12.9%)
  三位   「青」(9.3%)

と言った、「寒色系」の色を選んで回答しています。

 日本を導いて欲しいリーダー像としては、IT関連企業のジョブズ氏が選ばれたことは、そういった時代の背景があるからでしょうか。彼が持っていた「行動力」、「実行力」、「決断力」、そしてアップル社の「国際競争力」の高さが、若い高校生を捉えているようです。しかし、高校生は、将来の日本を、悲観的に見ていることを知ることができます。

 さて、この高校生たちの87%が、『将来、リーダーとなりたい!』との願いを持っているそうです。ぜひ、この国のリーダーたちに、こういった調査結果を、しっかりと分析し、次の時代を担っていく若者たちが、「夢」や「幻」や「理想」に燃えて生きていける社会を作り上げていただきたいものです。私たちの時代は、右肩上がりだったのですが、生きている時代を冷静に見極める目は、現代の高校生に比べて劣っていたかも知れません。彼らに期待しましょう!

(写真は、生前のスティーブ・ジョブ氏です)

来客

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 日本と中国の関係の悪化で、苦しんでいるのが、日本語専攻の学生のみなさんです。将来は、『日本に留学をしたいと思っています!』、『日本の文学作品などの翻訳をしたい!』、『日系の企業で働きたいのです!』と願って、日本語を学んでいるからです。9月15日以降、卒業生で、日系企業に就職した方たちは、仕事の量が激減してしまった人もいたようで、『週休3日になってしまいました!』と、話をしていました。それでも、その会社の社長(総経理)さんは、日本の本社に掛けあってくれて、給料は現状維持の状況なんだそうです。これは好い方で、中には解雇されたりで、就職浪人になっている人たちもいるそうです。

 学生のみなさんが書き上げた「作文」を読んでみますと、異口同音に、彼らは、平和を願っているのです。少なくとも、彼らは高校で、日本の「侵略戦争」を教えられてきましたが、教師たちからは、「平和教育」を受けてきたことが書かれていました。ある学生は、祖母の戦争体験を記しています。日本軍が自分の村にやってきて、その襲撃から逃れるために、故郷を追われて、家族を失い、幼い日に家族の中で話していた方言も捨てなければならなかった辛さを、おばあさんは、孫の彼に話したそうです。故郷が、戦場にならなかった方たちもいますが、一様に、戦争の悲惨さを伝え聞いているようです。それだからでしょうか、彼ら自身が願うのは、「平和」なのです。日本が、「軍隊」を持ち、国境警備のために、一個中隊を進駐させたりしたら、また、あの時代のような悲惨なことが起こるのは必至ではないでしょうか。母が泣き、妻子が苦しまなければならないのです。

 昨日も、卒業生が二人訪ねてくれました。一緒に昼食をとって、交わりを持ちました。ふたりとも、日系の企業に納品している中国企業で働いています。社会人として頑張っているようでした。そうですね、中国の華南の地から、平和のシンボルである「ハト」を飛ばせてたいと思っています。日本でもそうしたいと願っている、在日の中国人のみなさんがおいでのことでしょう。「平和」と「友好」の思いが通じるように、そう願う週の初めの日であります。

(写真は、中国と日本の友好の証の「遣唐使船(復元)」です)

実力伯仲

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 「実力伯仲」、この「伯仲」を、goo辞書で見てみますと、『1 兄と弟。長兄と次兄。2 力がつりあっていて優劣のつけがたいこと。「実力が―する」「保革―」』とあります。同じ時代に活躍してたライバル同士が、力を競う合ったことを言うようです。プロ野球では、セ・リーグで長嶋茂雄が活躍していた時に、パ・リーグに野村克也がいました。この二人は同学年です。スター性は長嶋がはるかに勝っていましたが、実力や達成した記録の上では、野村が上だったのではないでしょうか。長嶋は、名門巨人軍のプロ野球選手で、大学時代から、将来を嘱望されて、マスコミに追われていました。ところが、京都府下の無名の府立峰山高校で野球をしていた野村は、南海ホークスに「テスト生」として入団した選手でした。戦力外通告を受けながらも、辛抱して入団4年目にパ・リーグのホームラン王に輝くのです。そして大選手になっていきます。

 この野村克也が、『長嶋が向日葵なら、俺は日陰に咲く、月見草!』と自分を卑下し、自虐して語るのを聞いたことがあります。その形容は、正しかったのですが、野球通には、長嶋よりも、野村びいきの人が多かったのではないでしょうか。天覧試合でホームランを放つといったような派手さは、野村にはなかったのですが、面白い野球をした方でしたし、引退後は、幾つもの球団の「監督」を歴任して、好成績を残しています。今では、辛口の《ご意見番》といった役割を演じておいでです。長嶋の出るジャイアンツの試合はテレビ中継されていましたが、野村のいたパ・リーグの試合は、金にならないとのことで、テレビ局は、その試合は放映していませんでした。天性の野球センスのあった長嶋と、地道にコツコツと歩んできた野村は対称的だったのです。

 この「実力伯仲」ですが、銀盤を滑る《フィギュアスケートの世界》にも、ライバルと言われる二人がいます。日本の浅田真央と、韓国のキム・ヨナです。昨今、日韓の関係が思わしくないのですが、スポーツの世界は、政治色や外交色抜きで、楽しむべきではないでしょうか。この二人とも、甲乙をつけがたい稀代の名選手です。同じ時代に、ほぼ同じ世代で、競いあうというのは、素晴らしい機会だといえるのではないでしょうか。『相手がいるから励む!』ということが、彼女たちの能力を、さらに引き上げているわけです。

 日本では、浅田真央だけが応援されていまして、キム・ヨナを酷評する傾向があります。偏見や行き掛りでではなく、同時代のライバルの二人として、両者にエールを送りたい、私は、そう思っております。まだ一度も実際の競技を見たことがありません。ただテレビのニュースで見たくらいですが、機会があったら観戦してみたいのです。あの硬い氷の上を、刃物を履いて滑るスリルと、シューシューという氷上を駆ける音は、小気味良いからです。だれも観ていない所で地道に練習している二人が、次のオリンピックの晴れ舞台で、素晴らしい伯仲戦を見せて欲しいと思うのです。その影で、韓国と日本の関係が、改善されていくことを願いたいのです。

 初めてソウルを訪ねた時に、『あなたのバス代を払わせ下さい!』と言ってくれた韓国人青年のことが忘れられないのです。自分が所属している会社を誇りに思って、その会社を訪ねようとしていた私と友人のバス代を払ってくださったのです。私の同級生にも、韓国籍の方がいて、講義ノートを写させてもらったり、彼女の友人が作ってきてくれた弁当をごちそうになったこともありました。みんな、今は何をしているのでしょうか。ちょっと知りたい思いがしてくる、師走の中旬の宵であります。

(写真は、「月見草」です)

華南の巷、歳末

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 近くの大型商業施設の入り口の広場に、歳末商戦の呼び込みでしょうか、巨大なモニュメントが出来上がりました。樅の木に似せた鉄製の「クリスマスツリー」で、大きめの色つきのボール(中に電球が入っています)がつ吊り下げられています。建物の入口には、サンタクロースがソリを引いた色鮮やかな絵が壁一面に描かれています。「ジングルベル」や「ホーリーナイト」の音楽が流れているのです。さながら日本の年末のデパートやスーパーマーケットの中国版といった感じです。今日、わが家のポストには、いくつかのスーパーのチラシが入っていました。

 このモールの前は、片側3車線の道路があって、そこから右に入った道路から、もう一本野道に入った所に、私たちの住んでいるアパートがあります。歩いて7~8分の所に、ハーモニカと言うよりは、〈もろこしの豆〉のように縦横に、小さな店が出店している「菜市場」という区域があります。中国中の街に無数にあるのですが、野菜、果物、雑貨、乾物、肉などが売られていて、大賑わいです。私が中学の頃に、よく出かけた御徒町の「アメ横」のような雰囲気で、雑多に並んで商売をしているのです。やっと冬になったからでしょうか、土日には、この「菜市場」に行く通り沿いに、簡易テントがところ狭しと張られて、「冬物の衣料」が売られています。ものすごい人盛りで、近づけない感じがしてしまいます。

 物の豊かさは、年々増え続けているのを感じます。地味な色が主流でしたが、色彩も豊かになってきて、7年前の中国の街の様子とは雲泥の差を感じてしまいます。それでも昨日、私たちがお会いした方は、四川省の出身で、いわゆる「農民工」と呼ばれ、毎日10時間働いておられるのだそうです。日曜日が定休日なのでしょうか、普段は掃除婦として病院の床掃除をなさっておられ、小ざっぱりした身なりで、毎週やって来られるのです。昔の日本のように、低賃金で働いておられるようで、これから、こういった労働に従事される方の生活も、きっと向上していくのではないかと思ったりしていました。

 とにかく、こちらの方は、よく働かれるのです。日本人が勤勉だと言われていたのは、昔のことで、今では、こちらの方に、そのタイトルを奪われてしまったのではないでしょうか。くよくよしないのです。さすが冬場にはみられませんが、夏には、道路の脇の木陰のコンクリートの上で、大の字になって仮眠しているように、おおらかなのです。生命力が旺盛で、首をうなだれているような方は、ほとんどいません。どんな身なりをしていても、胸をはって、堂々と歩いている姿は、小気味がいいものです。男性も女性も同じです。そんな華南の巷(ちまた)の歳末の様子です。

 それに引きかえ、日本に帰って街で見かける青年たちが、背を丸めて、うつむき加減に歩いているのとは対称的です。『胸を張って歩け!』と、喉まで出かけるのですが、なかなか言い出せないもどかしさを、いつも感じるのです。寒波襲来で、太平洋側の街でも雪が降ってると、ネットニュースが伝えていました。師ならずも、追われて走りだしている日本の街中の様子が、瞼に浮かんでまいります。

(写真は、「茉莉花」です)

華南の初冬の佇まい

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 しばらく平地でばかり生活していましたから、私たちの住んでいる町を見下ろせる山に、先日、連れていってもらって、じつに清々しい気持ちを味合うことができました。都会から離れるといった点で気分転換になったからでもありますが、山には、独特な空気が漂っているのではないでしょうか。昔人間が吸っていた空気のことです。化学物資によって大気が汚染されていないもので、光合成が活発に行われている木々の中で、懐かしい自然の匂いが立ち込めている、そん中で吸った空気のことです。山里に行くと、自分の居場所に戻ったようなやすらぎと、原点回帰の落ち着きを感じてならないのです。生まれたところが、鬱蒼と木の生い茂った山と山がせめぎ合った山村だったからかも知れません。

 残念だったことは、舗装された山道を車で登っていくといったことでした。登山は、息を弾ませながら、急峻な登りの道を、一歩また一歩と歩むところの醍醐味があるのですから。そんな山行きの正道からは離れてしまったのは、物足りなかったのですが、それでも車を降りて、山の裾野を眺めていると、スーッと吸い込まれてしまいそうな感覚に陥って、山の気分でした。やはり、『山はいいなあ!』の心境だったのです。新緑のころも、紅葉のころも好きですが、一番は、冬の枯れ草や枯葉を踏みながら、山道を歩くというのが最高に楽しいのです。葉が落ちていますので視界もいいし、葉の枯れかわいた臭いがしますし、空気が美味しくて、「森林浴」に身をひたせるのは最高です。

 もう何年も前に登った「入笠山(にゅうがさやま)」は、頂上の展望が360度のパノラマでした。その日は秋晴れでしたから、青い空が抜けるようでした。山梨県と長野県の県境にある山で、二度目は、12月の週日に、家内と登ったのですが、危なく、『山を見くびった初老の夫婦、凍死、遭難!』と言ったニュースになりそうでした。その週に、平地で降った雨が、山では雪だったのです。何度も転倒しながらの下山で、泣きたくなってしまったほどでした。でも無事に帰宅しましたので、今、生きておられるわけです。

 もう12月も半ばに入っているのですが、街路樹には、黄色や淡い桃色の花をつけた木の梢が、初冬の陽をうけてじつに綺麗な、華南の冬の佇(たたず)まいです。その一つ、薄桃色の花は、「紫荊花」とか「羊蹄花」と言われ、もう一つの黄色い花は、「黄槐花」です。一年中、花が咲き、木々の葉が青くしげる、ここの自然は、「創造の美」でしょうか、美しいの一言につきます。

〈写真上は、「黄槐花」で、下は、「紫荊花」、日本人は「香港桜」と呼ぶのだそうです)

大陸の空の下で

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 人工衛星に関わる人も、人口問題にあたる人も、食糧問題の対策を考える人も、共通して必要としている人材は、「専門知識」を持ち、実務経験があることです。決して素人は、関わることができない分野ではないでしょうか。私たちが、どうしても手術をしなければならないとしたら、医学を学んだことのない者から受ける患者は皆無です。ですから長く学び、研究してきた専門職が従事しなければなりません。もちろん、一般の人たちに、意見や要望を求めたりはしますが、実務には、プロの専門知識に長けた経験者が当たるのが本筋です。

 小泉元首相が、2005年の衆議院選挙で、いわゆる「小泉チルドレン」を選挙戦に投入し、86人が当選したことがありました。その時に、学校のクラス委員や地域の役員や会社の役職でさえも就いたことのないような、若者を、国会に送ろうとしたことを知った時に、驚いたのです。それに真似たのでしょうか、その後、「小沢チルドレン」と呼ばれた人たちが、選挙で選ばれて、国政にあたっていきました。選挙戦に勝つためには、手段を選ばないような候補者を選出し、その素人たちを国民が選んでしまったという愚かさに、唖然としたのです。

 一国の政(まつりごと)を、責任をもって担っていかなければならない立法府の国会議員、代議士が、こういった形で選ばれる日本の政治の可笑しさを誰もが感じているのではないでしょうか。そういった人たちを選んだのが、わたしたち国民だったのですから、愚かなことではないでしょうか。

 小泉純一郎の祖父に当たる、小泉又次郎は、横須賀海軍の荷役をになった沖仲仕の頭領でした。労務者たちに睨みを効かせるために、満身に刺青を入れていたそうです。しかし彼は、滞り無く海軍から委託された仕事を果たし、労務者たち束ねる能力を持った親分肌の人だったと言われています。そして人の面倒をよく見たので、人に慕われました。やがて横須賀市長を務め、国会議員にも選ばれ、ついには、逓信大臣(郵政大臣のことです)、衆議院議員副議長までも務めたのです。勲一等瑞宝章の栄典に輝いています。人を、生まれ育った町を、祖国を愛した人が、国会に送られるのは好いことです。

 ところが、政治を知らない素人が、頭数を満たすだけで、国会に送られるというのは、国政への酷い侮辱です。政治を、まったく知らない私は、立候補しようなどと考えたこともありません。全くの門外漢だからであります。市町村議会で地方政治を学び、県議になり、そして国政に寄与する、そういった段階を踏まない人は、国政を担う資格はないのではないでしょうか。真に国を憂え、国を導くに値する主張をしっかり持つ人が、国政にあたっていただきたいと、海を隔てた大陸の空の下で願っております。そうでした、私の好きな政治家は、「廣田弘毅」です。

〈写真は、http://ameblo.jp/htarumから、大陸/黄河に沈みゆく落日です)

『コツ、コツ、コン、コン!』

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 子どもの頃の遊び場が、国鉄(現JR)中央線の引込線や保線区や踏切の近くだったので、鉄道業務の裏方の仕事を見聞きすることができました。踏切番の小父さんと父が仲良かったり、弟が可愛いがられていたせいで、踏切の遮断機の上げ下ろしを手伝わせてもらったことが、何度もあります。また、同級生のお父さんが、職員だったので、保線区の作業場の中に入っては、仕事に用いる機具を触らせてもらったりしました。懐中電灯がなかったからでしょうか、カーバイドでアセチレンガスを作って、それを燃やして明かりにしていたのが、何とも不思議でなりませんでした。あの燃える匂いが独特で、あの匂いがまだ鼻腔の中で感じられるようです。

 その道具の一つに、柄が長くて、鉄の部分の細くて小さい「ハンマー」がありました。釘を打つハンマーとは違っていたのです。それは、線路の留め金や、列車の車輪やその周辺の金属部分の「ひび割れ」を、そのハンマーで叩いた音で判断するためだったのです。それを借りては、金属部分を叩いて回ったことがありました。難しい構造でできている車両の鉄製の部分を、「音」で故障箇所を見つけるという職人技が面白かったのです。みんなができないような経験させてもらったのに、国鉄に勤める願いがなかったのは、今思うと、少々残念な気がします。そういえば、父の会社の一つは、国鉄車両のブレーキの部品のメーカーだったのを思い出しました。

 今朝の〈YaHooJapanニュース〉で、「笹子トンネル事故」の記事に、このトンネルだけが、金属の〈打音検査〉をしなかったとありました。この検査に使うのが、「打音ハンマー」なのです。国鉄だけではなく、あらゆる金属製品やコンクリートのひび割れ個所や不具合を見つける作業のために使われているのです。ところが、この笹子トンネルだけ、検査を実施していなかったのだそうです。〈手間のかかる作業〉を嫌う、そういった傾向が現代人にあるのではないでしょうか。友人のお父さんの給料は、父に比べてずいぶん少なかったのでしょうけど、自分の仕事への責任や使命感にかけては、父よりも優っていたに違いありません。利用者の〈命に関わる業務〉だという意識が強かったのではないでしょうか。

 一見して、つまらないような仕事に、プロ意識をもって当たる、そういった〈職人気質〉が、起こりうる過失事故から、この日本全体を守り、防いできたのです。今、日本中の鉄やコンクリートの橋脚、コンクリートのダム、鉄塔、いや日本人の生き方や意識や組織や関係も、この〈打音検査〉、総点検を必要としているのではないでしょうか。何か基本的なものが、日本の社会全体、欠落しているのを、この事故が指摘してるに違いありません。

(写真は、蒸気機関車の打音検査の作業の様子です)