出湯行

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 「山の出湯(いでゆ)」、と言うか「村の温泉(いでゆ)」に、東京圏の新コロナ緊急事態宣言解除を受けて、久し振りに北関東の村の奥深い部落に出掛けました。日光市に併合された山間地に、企業の休養施設を開設し、温泉も掘削して素敵な保養所があります。

 ここは社員の研修や休養のためだけではなく、教会関係のCSキャンプや修養会のために用いられる自然の懐の様な施設なのです。個人でも使うことができ、病中の家内には最適な環境です。『天国の次に!』と家内が評するほどにお気に入りの施設です。住み始めて2年が経過し、人情にも土地柄にも水や空気にも慣れて、やっと栃木県人と言った自分を認められそうになってきた県北の地です。

 昨日は、その温泉保養所の方のご好意で、六十有余年ぶりに、中禅寺湖、華厳の滝、素通りしてしまった東照宮や陽明門を遠くに眺めはしたものの、懐かしい場所にお連れ頂きました。その年月を遡り、記憶をたどりましたが、記憶や思い出が断片的に蘇ってきたのです。人の作った物は変わってしまっても、自然はそのままといった感じがしてなりませんでした。

 華厳の滝ですが、修学旅行の時に、エレベーターがあったかどうかは覚えていませんが、100mの距離を、文明の機器で降りたあと、七十段の階段を、家内の手を引きながら降りたのです。案内してくださったのは、北九州の出身で、大阪、東京とご自分の事業をされて、今は、会長さんに惹かれて、その保養所で働いている方です。小倉弁訛りの大阪弁を、遠慮なしに使う九州人なのです。
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 顧客でもないただの宿泊客に、特別な機会を設けてくれて、『次回も何か考えておきましょう!』と言っておられました。初春の中禅寺湖の湖面の青さ、雪山の白根山の白さ、男体山の岩肌、いろは坂などを経験させていただき、まばらな観光客がいるほどでした。いろは坂ってあんなにクネクネしていたのか、はしゃぎながら登っていた小学生でしたので記憶は鮮明ではありません。

 その宿の保養所は、温泉を掘削して、良質の温泉掛け流しで、人気なのだそうです。会長さんが優しい方で、従業員として特別な雇用をされておいでです。また、その温泉を、地元の方にも、無料で解放されていて、有難がられておいでなのです。スポーツ用品のチェーン店の草分け的な企業を、今日の大きな企業にされた有能な実業家の会長さんが、まだ五十代の頃にお目にかかったことがありました。

 今朝は、『ホーホケキョ!』の鳴き声が聞こえ、帰りを惜しんでくれたかの様でした。魚の好きな家内に、賄いのご婦人が特別献立で用意してくださり感謝でした。その上、低廉な料金で使わせていただけるのは感謝でいっぱいです。雪道で転んで腰を悪くされた年配の方を、準職員として雇用されていて、何かにつけて企業自体が優しいのです。
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 家内は、『天国の次に素敵な所!』と感謝しているのです。近所のおばあちゃんに連れられて、温泉にやって来た三歳のお嬢さんが、一緒に入浴していて、歌が好きなのだそうで、湯船の中で、『てんにいますわがちちよ!』と家内と二人で賛美をしてる声が聞こえてきました。人家のない山深い中の出湯は、コヒガンザクラ、水仙、スズラン、サルビヤに負けず、花が咲いたかの様に感じられた週日でした。

 退院して、やって来た四人の子と配偶者、その子どもたちで家族会をした去年の正月には、まだ痩せていたのですが、従業員のみなさんが、『肥られましたね!』と喜んでくださったのです。その上、華厳の滝の階段を、自力で登り降りできたことにも感心されておいででした。家内も自信がついた様です。六週目毎の治療の送り迎えをしてくれた長男も、一泊だけしてくれ、子どもを代表して親孝行してくれた今回の出湯行でした。

(華厳の滝、草津白根山、そして階段を上がる家内です)

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だれの所為

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 『娘の起こした問題は、私の所為(せい)です。教育を間違えました。』と、一人の父親の謝罪の言葉を聞いたことがあります。また映画俳優や司会者、会社の経営者が、また女優の母親が、息子や娘の起こした問題を、マイクの前で謝罪するのを、度々耳目しています。それは、『おかししなことだ!』と思うのです。

 私たちの国では、今では十八歳になると、選挙権が与えられるのですが、酒もタバコはまだ禁止されていています。でも今では法的にも社会的にも「大人」と認められているのです。日本では、二十五歳になると、被選挙権が与えられ、衆議院議員や都道府県議員や市町村議員、市町村長になることができます。三十歳になると、都道府県知事、参議院議員になれます。

 私は、極めて甘く譲歩して、二十四歳までは、親が責任を感じたり、謝罪したり、賠償したりしても、まあ好いことにしようと思っています。つまり、市長になれる前日まではという意味です。ところが、男でも女でも、「不惑」という年齢になったら、それは<個人>の責任であって、親には無関係です。ですから、新聞社やテレビ局が、問題を起こした者の親の所に、責任追及に行ったり、談話を求めに行くなどということは、するべきではないのです。

 「しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。(ヨハネ9章21節)」

 もうとっくに自立している年齢で、二十歳から数えて、すでに二十年の歳月が経って、会社の幹部になっている年齢ではありませんか。「大人」なのですから、100%の責任は、彼らにあります。だから、『あれに聞いてください!』で好いのです。

 私たちには、四人の子どもがいます。彼らは私と家内の子であることは事実ですが、親元を巣立って、自活し始めた日から、「一人の大人」と認めたのです。でも相談があるなら、それに喜んで、それにのります。一緒に、『お寿司を食べよう!』と食事を誘われたら断ったことはありません。彼らのところに泊まりたいなら、『泊めてください!』と、私はお願いするでしょう。親子の交流は変わりません。

 また、彼らが、物心両面で援助してくれるなら、喜んで受けようと思っています。体力も弱くなり、病気がちになっている今を、もう迎えているのです。あれやこれやと言ってきてくれます。すでに今では、彼らの方が生活力が上ですし、社会的な認知度も、現役を退いた親の私たちよりも高いのですから。ただ、自分で切り盛りできる内は、私は家内の夫として、その責務を果たそうと思っています。できなくなったら、 彼らにお願いすることになるでしょう。

 子どもたちは、自立しているのです。自分の責任で生きています。権利と義務を混同したり、忘れたりしません。もし法を犯すようなこと、社会に迷惑なことを起こすなら、自分で責任をとることでしょう。彼らは、大人だからです。そう教えて育ててきたつもりです。市民として、国民として、この国の法を、しっかり守り、責任を負って生きていくようにと願っているのです。もちろん、親子の絆の強さは変わりません。

(写真は”百度”から「雪割草」です)

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いいね

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 冬の公園の陽だまりで、「密」など気にしないかの様に、至近距離で、普段通りに話をしている四、五人の年配者がおいでです。去年の今頃でしょうか、家内と二人で、みなさんのいるあたりから離れた所にあるベンチで、日向ぼっこをしようとしていましたら、一人の方が、ご自分が座っていた陽当たりのよいベンチを家内に譲ってくれたのです。

 話を聞きますと、奥さんを病気で亡くされて、子無しなので寂しそうにされていました、砂利トラの運転手をしてきたと言っていました。そんな風には見えない方だったのですが。自分では食事を作らないので、スーパーに行っては弁当を買ってきて、食べていると言っていました。家内の勧めで、日野原重明さんの書き物を手渡すと、しばらく読んでおいででした。奥さんが読書家で、この方は、日野原さんをご存知でした。

 話の話題に合わなかったり、引っ込み思案な方は、群れを離れて生きていけるのでしょうか、でもちょっと寂しそうで気になったのです。でも家内は、まだ完全に回復していませんし、コロナもありますから、家にお呼びすることもできずに時が過ぎてしまいました。

 そんなみなさんの横を、自転車や歩きで通って、近くのスーパーに買い物に行くのですが、男ばかりの同窓会みたいで、女性は、介護施設に出掛けるのでしょうか、公園に姿はほとんどありません。昨年秋頃から家内も、介護施設デビューをして、週一で参加しています。楽しい二時間を過ごして、喜んで帰って来るのです。もちろんコロナには十分意注意しながらですが。

 そこには男性はいない様です。男は定年を迎えて、職場を去ると、どうも所在なしで、さりとて新しい関係を作っていくのは面倒になっていくのでしょう。そこも競争社会の残り滓が残っていて、昔自慢でもされてしまうと、やっていけなくて足が向かなくなってしまうのでしょう。

 ご多聞に漏れず、彼らの交流も、政治や宗教の話題は禁物なのでしょう。テレビはないし、新聞は図書館で読む程度、ラジオでニュースを聞く程度の私の情報量では、話が合わないことでしょう。でもiPadでは、色々検索ができますが、もうそんなに情報を必要としなくなっているのです。それで、市民講座にでもと思っているところでおります。

 ところが市の企画の講座も、市内にある短期大学の市民参加講座も、コロナ禍で開講されないまま時が過ぎて、新年度も開講の兆しはなさそうです。高校が近くにあって、ここも市民参加型の講座があるのですが、様子待ちで開講の予定はないのです。

 もう忙しくない人生の晩期を迎えて、四六時中狭い家にいながら、互いに嫌がらないで、それでも相手の世界を、互いに認め合い、程よい距離を置きながら、二人で過ごしています。図書館通いや散歩や通院や買い物、近所のご婦人たちとに出会いや交流を、家内は楽しんでいます。マスクなしのアジア系の留学生に語りかけては、別れ際には、ポシェットに入れてあるマスクを上げることもある様です。コヒガンザクラの名木の下で再会した、昨年来仲良くなっご婦人と手を取り合って、互いに『会いたかった!』と言い合ったそうです。

 「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。(箴言23章25節)」

 昨日は、6週に一度の通院での治療を終えて、毎回送り迎えをしてくれている息子の運転で、日光市内の山間部の温泉施設に来ています。息子も一緒に一泊してくれるというので、夕食前に温泉に入って、普段ない父子の語らいの時を持ちました。夕食後にも、家内と3人でしばらくの交わりを持ちました。母親にとっては、《最高の薬》の様です。自分たちの兄が、母親の助けをしているの知らされて、弟妹が《いいね》のサインをしています。

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富士山

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 作詞が巌谷小波、作曲者不詳で、小学校二年生が、音楽の時間に歌った、文部省唱歌の「ふじの山」です。

あたまを雲の上に出し
四方の山を見おろして
かみなりさまを下に聞く
富士は日本一の山

青空高くそびえたち
からだに雪の着物着て
かすみのすそを遠くひく
富士は日本一の山

 北関東の栃木市の四階の南側のベランダから、富士山が、建物が少々邪魔をしていますが遠望できます。火山国の日本には、噴火によって、この富士山の形に似た山が、あちらこちらにあります。蝦夷富士(羊蹄山)、出羽富士(鳥海山)、若狭富士(多田ケ岳)、伯耆富士(大山)、薩摩富士(開門岳)などがあり、わが栃木では、男体山を「下野富士」と言うそうです。次女の住む、アメリカの西海岸にも、富士山に似た形状の山があったりします。

 夏場の黒富士も、冬場に雪を戴いた白富士も美しい山です。私の弟は、夏場のアルバイトで、富士山の「剛力(ごうりき)」をしていたことがります。冬場に備えての食料や機材を、背負子(しょいこ)で担いで歩いて、山小屋に運び上げたのです。大変な重労働ですが、体力のあふれた若い頃の自慢の仕事だったのでしょう。

 その弟の住む家から、下野富士が見えるのだそうです。本物の富士を、ここから私たちが見、彼が擬似富士を眺めていると言う、両者の立ち位置が面白くてなりません。ある人たちは、この山の上に登って、四方に向かってでしょうか、何か宗教的な事をしていると聞いています。信仰の対象でも、宗教行事の場でもなく、私には、ただ「美麗(美しい)」だけの山が、「富士」なのです。

 先日の雨の日に、雷が轟く音が、遠くに聞こえました。なぜか私は、この雷が好きでならないのです。見聞きする雷光も雷鳴も雷雨も、私の内にある不要なものが、追い出されていく様に感じて嬉しくなるのです。まだ十九歳ほどだった頃、住んでいた父の家の庭に、石鹸と手拭いを持って飛び出して、雷雨で体を洗いたくなって、そんな衝動的なことを実行したのです。若気の愚行でしたが、あんなにサッパリした沐浴は、それ以降したことがありません。今でも懐かしくて仕方がありません。

 懐かしさだけではなく、してみたい衝動に、今でも駆られるのです。男だからでしょうか、幼なさや未熟さでしょうか、衝動的なのでしょうか、自分に呆れてしまいます。今夏は、どこか人の目に付かない死角を見つけて、雷雨を浴びてみようかなと思っています。家内には、『風邪をひいてこじらせて伏せて、死ぬといけないからやめて!』と言われそうで、やはりやめにします。

 戦前、台湾統治時代には、「日本一の山」が、標高3952mの「新高山」でした。正式名称は「玉山」と言ったそうです。あの真珠湾攻撃の時の暗号指令は、『フジサンノボレ!』ではなく、この新高山だったのですから、よその国を自分の国の様に支配し、私たちの国の歴史をみますと、ずいぶんと厚顔国家だったことが分かります。

 それにしても晴れた日の朝な夕なに、遠くに望む富士の山は綺麗です。それに負けす劣らず、室内に置いた鉢の隅に咲き出した黄色く小さな花が、富士に負けずに美しいのです。自然界は驚くべき《創造の美》なのだと納得してしまいます。でも人間が一番美しいのでしょう。創造者の手で、創造者に似せてお造りになられたからです。醜くなってしまった人が、当初の美しさに帰っていけたら、「再創造」になることでしょう。

(「オレゴン富士」都法人に呼ばれる “ Mount Hood “ です)

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霞と朧

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 1914年(大正3年)に、「尋常小学唱歌」の6年生用に歌われた歌で、作詞が、高野辰之、作曲が岡野貞一の「朧月夜(おぼろづきよ)」は、春を感じさせてくれる歌でしょう。

1 菜の花畠に 入日薄れ
見わたす山の端(は) 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて におい淡し

2 里わの火影(ほかげ)も 森の色も
田中の小路(こみち)を たどる人も
蛙(かわず)の鳴くねも 鐘の音も
さながら霞める 朧月(おぼろづき)

 この歌詞の中に、「霞める朧月」とありますが、最近の科学的な研究ででしょうか、その月が、霞んで見えたり、おぼろげに見えたりする原因が、中国大陸から飛来する「黄砂」だとニュースが伝えていました。

 春は長閑な季節だと、詩的に思っていましたが、科学が原因を究明したわけです。なんとなく眠気を起こさせたり、ムズムズさせられたりするのが、大陸から飛んで来る微粒子状になった黄砂だと聞くと、長閑な思いではいられなくなりそうです。喘息などの呼吸器疾患の原因の一つは、これかも知れません。

 そう言った事情から、『緑の地球防衛基金」という公益法人があります。中国を始め、ヴェトナム、タンザニヤ、タイなどで「植林活動」を展開してきておいでです。現在は、中国の〈楡林市横山県東陽山とその周辺〉で、緑化事業への技術、資金、物資の支援を行なっていると報告されています。この市は、陝西省の北部にあって、黄河を境として山西省、北は内蒙古に接しているそうです。

 『楡林市全体が、モウス砂漠から黄土高原への移行地帯に位置している街である。』そうで、やはり年間雨量が少ないのです。かつては市の名前の様に、楡の木が茂っていた緑の街でしたが、砂漠化が進んでしまっています。それで、樟子松6,480株、クルミ4,455株が植林され、順調に成長しているそうです。(2019年8月の時点)この基金は、1980年台初頭に始まっています。

 このところ「ソメイヨシノ」の開花宣言が、多くの町で発せられて、寒い冬が終わり、暖かな季節がやってきたと思って喜んでいるのですが、春霞の原因が、大陸から吹いてくる黄色い砂だったのは意外でした。そう言えば、天津の街にいた時に、電動自転車や自転車に乗ったり、歩いているご婦人たちが、ストッキングの様な細かい網で、覆面していたのを思い出します。
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 どうもその〈砂漠化〉の速度が、年々早くなってきているのを危惧している様です。その原因が、燃料を得るために、木を切り倒して使って、畑や森を育てることを怠ったり、食糧の増産のために、地下水を多く組み上げた結果だと言っています。

 先週、聞いた友人の日曜の礼拝の説教に、生態学者の宮脇昭氏のことがでてきました。この方を中心に、1998年からは、中国の万里の長城で、「モウコナラ」の植樹を行うプロジェクトを進めているそうです。《日本一多く木を植えた人》と言われている宮脇氏の働きは、海外にも広がり、自然界の回復への貢献は多大なののです。

 子どもの頃に遊んだ、里山、どこの町や村にもあった「鎮守の森」には、木だけではなく、多くの昆虫や虫がいて、その糞尿が培養土を作り出し、森や林や草花を育ててきていたのです。子どもの頃里山に入って、「陣地」を作ったり、木の実を採って食べたりしたことがあります。
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 「柳絮(りゅうじょ)」も、今頃だったでしょうか。丸くて白いボールの様に、柳の芽から出るワタを増し加えながら、路上を転がっているのを、天津の街中で見ました。あれも春の到来の兆でした。

(里山、モウコナラの木の苗を持つ宮脇氏、柳絮です)

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漢(おとこ)

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 男の子には、「漢(おとこ/男)」になるためのモデルが必要だと言われました。最初のモデルは「父親」でしょうか。なんでも知っていて、何でもできて、体も大きくヒゲも生えていて立派な男でした。隣のおじさんと比較など考えませんでしたから、最高の「父親」でした。やがて、父親の弱さや、足りなさが分かってくると、もう偶像視しなくなりました。

 次には、映画やプロマイドや新聞などを見て、「格好いい男」に出会います。最初は、石原裕次郎でしょうか。ポマードでリーゼントを決め込んでいない、スカッとした男でした。歩き方も、バスケットボールで膝を痛めたとかで、少し足を引きずって歩く姿がカッコよかったのです。

 次には、ジェームス・デーンでした。アメリカの物質や色彩の豊かさの中に立っているジミーの姿が、人種や国籍を超えて、惹きつけられてしまいます。上野のアメ横に出かけて行っては、ジーンズを買ってきたり、ジージャンも欲しくなったり、カカトの高い靴も欲しくなったのです。

 彼らは、映画の中で演じているスターであって、本当の彼らではないのが、かえって格好いい様に目に映ったのでしょう。「真似する世代」でした。自分は自分だと言う年齢になって、そう言った偶像への憧れはなくなっていき、人差し指と中指との間にタバコを挟んだ様な外側の仕草からは離れていき、自己発見に至るのでしょうか。

 逆に自分の結果に欠点や不足を見つけ出す様になっていきます。唇が厚いし、モミアゲやヒゲがないし、耳の格好が貧乏くさいしのです。好きな女の子に何も言えないし、思春期に悩みでした。司馬遼太郎の影響でしょう、水戸龍馬や高杉晋作に、理想像を見つけようともしたのです。

 その頃になると、スクリーンに映す出される映画スターにも歴史上の実在の人物にも、裏や実像が見えてきて、自分の理想には程遠いことが分かり始めてきました。自分の内に、何か良いものを見つけて、それで理想の実現をしていかなけらばならない様な思いにされました。

 学校に入った時の身体検査で、上半身裸の私を見た医師が、『君、いい体してるね!』と言ってくれたことが、自分をありのままで受け入れられる様になったきっかけになりました。あまり勉強をしないで、アルバイトに精出した年月でしたが、社会の実態を学ぶことができました。母校の恩師の紹介で、仕事を紹介され、けっこうバリバリと働きました。

 よく地方に出張があって、学校を出たてなのに、その機関の代表者の代理の様な顔と態度で出かけて行っては、いわゆる接待を受ける様になりました。もう一端の男、大人になったと思ったのです。でも足りなさや空虚さが、心の中を隙間風の様に吹いていました。

 そんな頃に、兄の変化を出張に行った途中の街で見てから、そこに自分の人生の基点がある様に感じたのです。そして、母が信じ続け、兄が信じ、伝道者の道に行った、同じ道に、《本物》がある様に思ってしまいました。

 私は、パウロの様にダマスコへの道の途中にではなく、母が自分の魂を委ねた教会の中で、キリストと出会ったのです。もう地位も出世も金も欲しくなくなってしまいました。真理への渇望とか、生きていく行くべき道、人生を賭けうる道とかを見出せたのだと思います。このパウロは、

 「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。 (1テモテ2章8節)」

と勧めました。暴力を振るう者から、祈る人に、福音を異邦人に宣教する人に変えられたのです。私も暴力する者から、人のために執りなしの祈りをする者に変えられたのです。これは奇跡です。

 その日の決断から五十年が経ちました。生き方に、少しのブレもありません。いまだ借家に住み、年金で生き、人生の伴侶と共に、北関東のかつての商都で過ごすことができて、何の不足もありません。朝な夕なに、筑波山、男体山、富士山、大平山を遠くに望み、足もとに流れる巴波川に目をやりながら、静かな時を過ごせて、感謝しております。

(思い出の学び舎の一廓です)

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紫草

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 時代劇映画の劇中に、お殿様が病で伏せている場面が、時々ありました。枕元に侍医をはべらせ、家臣が右往左往し、一朝事あるときのために、後継者を誰にするか、正妻の子か妾胎(めかけばら)の子かで、一大騒動が藩中に吹き荒れると言った筋書きでした。

 その病中のお殿様は、決まって、鉢巻をしているのです。キリッと帯の様に結んで、左だか右だかに垂れていました。それは、赤でも白でもなく、「紫」でした。それを「病鉢巻」と呼び、紫草の紫紺の根を染料にして、染めたものだと言われています。それは今でも漢方の生薬として用いられていますから、平癒のために使われていたのです。

 この紫草は、花は白で、その花も小さいのです。このところ、街中にある温泉に私は行っています。歳なのか、歩き過ぎなのか、膝の筋を痛めて、整形外科に診てもらいましたら、電気熱治療器をかけられましたので、温湿布なら、温泉がいいと思って出掛けたのです。

 そこは炭酸泉の温泉で、膝に最適なのだそうで、このところ三度ほど行っています。腱板断裂の縫合手術後に、友人に贈って頂いた、葉室麟の本が面白くて、もっと読んでみたかったのです。それで、温泉行きにと思って、図書館で借り出して、入浴の合間に読んだのです。今までは、まず小説を読む様なことは稀だったのですが、つい引き込まれてしまいそうです。お決まりの筋書きですが、ほのぼのとしてよいのです。

 その題名は「紫匂う」で、ある藩の家老の不正を暴く、善と悪、人と人との関わりが描かれているのです。で、この主人公の萩蔵太は郡方役の侍で、高位の家臣ではないのですが、腕っ節が強く、藩の剣術指南の筆頭の門弟で、機転が効き、穏やかで性格が良いのです。そんな彼が、奥方の澪(みお)と娘と息子、退いた両親と生活をしている中に、騒動が起こるのです。

 蔵太が、庭の一郭に、この「紫草」の種を蒔くのです。咲いた花を奥方に見せたかったからでしょう。山谷を歩き、誰も相手にせず、追い散らしていた猟師や逃散した人たちの世話のできる、特異な人情派の侍で、彼らに感謝されたり、慕われているのです。騒動の危機の中で、蔵太を助けるのが猟師たちでした。そんな山行きで、根ごと持ち帰ったか、種を持ち帰ったかで邸内に種を蒔いたわけです。
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 ところが芽を出すと、奥方は雑草と思って抜き取ってしまうことを毎年繰り返すのです。それを蔵太は責めもせずに、種を蒔き続けます。そしてこの藩内の騒動が、めでたしめでたしで落着して、蔵太と奥方が家に帰ると、咲いた「紫草」が迎えているのです。

 わが家のベランダと室内に、咲いている花、これから咲く花と八種類ほどの花があって、花など見たり植えたりする心のゆとりなどなく過ごしてきた私が、今になって花を愛でているのが、なんか不思議な感覚なのです。水仙とチューリップはこれから咲くことでしょう。この紫草は、「万葉集」にも詠まれています。

紫草は根をかも終ふる人の子のうら愛しけを寝を終へなくに

韓人の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも

 この本を読んでから、「紫草」を手に入れたくなって調べたのですが、育てるのが難しく、その上、「絶滅危惧種」なのだそうです。同じ様に、描かれた蔵太も絶滅危惧種の人なのかも知れません。そう万葉の時代にも読まれている花なのです。牡丹や芍薬や向日葵にではなく、小さな花に目を注ぐ日本人の感性に、なにか納得がいきます。

(”Green Snap”から「紫草」、紫染です)

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個性的に

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 『同じ様な服装をして、同じ様な髪型をして、同じ様な話題を話している!』と、欧米人は日本人を見ているのです。それは押し並べて、東アジアに共通している様です。最近の日本では、制服が敬遠されたり、廃止されたりする傾向が強いのですから、日本人も個性的な主張や生き方ができる様になったのでしょうか。

 民族的に薄っぺらい顔をしている日本人も、最近では彫りが深くなったり、鼻が高くなったり、顎の張りがなくなってきている様です。明治生まれの父の髭が濃くて、かく言う子どもだった私も、そうなりたかったのが、中学生に入ってからでした。大正生まれの担任も髭が濃くて、〈男らしさの象徴〉だと、朝礼の時に聞いたことがあったからでした。

 それで、毎晩入っていた風呂で、父の髭剃りを借用して、一生懸命、鏡に向かって、生毛(うぶげ)の鼻の下を剃っていました。母に似たのか、髭が薄いのです。濃い髭にならないまま大人になってしまいました。二度ほど髭を生やしたのですが、〈ヒケ〉程度で、全然男らしくないのです。家内や子どもたちに不評で剃り落としてしまいました。

 中学生のいつ頃だったでしょうか、住んでいた町のお菓子屋に入った時に、店のおばさんが変な顔をして私を凝視していたのです。鼻の下あたりを見てました。家に帰って鏡を見ましたら、髭願望のあった私は、母の黛(まゆずみ)で、鼻の下に髭を描いたのを、消し忘れたまま買い物に行ってしまったわけです。その店には、その後、行きずらくなってしまいました。

 もうとっくに、子どもたちの成人式は過ぎてしまったのですが、みんながする振り袖の「晴れ着」を、長女は着たかったのです。でも買うことも、借りることもさせないで、同級生のいる故郷に、東京の下宿先から帰って来て、普段の服装で参列していました。〈反ミーちゃんハーちゃん主義〉の父親のために、長女の夢は砕け散ったてしまったのです。

 その代わり、学校の卒業式には、友人のお母さんに借りたと言って、長袖の和服に袴と長靴(ちょうか)の明治の女学生姿の出立ちでした。それを見た家内と私は驚いてしまい、その学友のお母さんにお会いして、感謝をしたのでした。次女は、親元ににいませんでしたから、長袖願望があったかどうかは分かりません。

 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。 (エペソ6章1節)」

 昭和の頑固なレトロ親爺の被害者の娘たちには、ずいぶん抗議されたのですが、過ぎた時を戻すことができませんので、今になると、もう何も言わなくなりました。彼女たちも、今や〈後期昭和のおばさん〉ですから。でもけっこう個性的な生き方や選び取りをして生きて来ていると思います。

 男の子は、男の子で、自分の道を自分で見つけ出して、それぞれに生きて来ています。みんな今は、それぞれに社会的な責任を負いながら励んで生きているのです。私たちは、あまり過干渉にならない様に、育ててきて、けっこう厳しく規律し、懲らしめもしたのですが、生きていく原則を教えてきたと思い返しています。

 それでも、夢を叶えて上げたかったなあと思うのですが、今頃になってしまっては、どうすることもできません。お隣の国では、女性の顔が同じ様だと言われています。最近、何気なくサイトを見ていた時に、特に女性有名人の〈術前術後〉の写真を見たことがありました。その違いに驚いてしまいました。化粧と整形手術で、顔でも体でも手を入れると、あんなに美しくなるのですね。親に似ていた方が、自然のママで個性的でいいのです。
 

鉄道の旅

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 1900年(明治33年)に、大和田建樹の作詞、多梅稚の作曲で、「鉄道唱歌」が発表されました。

汽笛一声(いっせい)新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として

右は高輪泉岳寺(たかなわ せんがくじ)
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後までも

窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か

梅に名をえし大森を
すぐれば早も川崎の
大師河原(だいしがわら)は程ちかし
急げや電気の道すぐに

鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーシヨン
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがすまで

横須賀ゆきは乗替と
呼ばれておるる大船の
つぎは鎌倉鶴が岡
源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん

八幡宮の石段に
立てる一木(ひとき)の大鴨脚樹(おおいちょう)
別当公曉(くぎょう)のかくれしと
歴史にあるは此蔭(このかげ)よ

ここに開きし頼朝が
幕府のあとは何かたぞ
松風さむく日は暮れて
こたへぬ石碑は苔あをし
(以下省略)

 東海道新幹線の走る今、悠長な鉄道の旅をしたことを思い返して、『もう一度!』と思うのでです。父の出身地も、この中にあります。

汽車より逗子(ずし)をながめつつ
はや横須賀に着きにけり
見よやドックに集まりし
わが軍艦の壮大を

また、母の出身地も出て来ます。
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今市町を後にして 
西に向かえば杵築町
大国主を奉りたる 
出雲大社に詣でなん
(山陰編31番/「今市町」は現在の出雲市です)

 小学校一年の時に、母のふるさとの「出雲」まで、母に連れられて、二人の兄と弟とで旅行をしたことがあります。汽車は超満員だったのを覚えています。『女は弱し、されど母は強し!』で、鈍行列車の旅は、若い母にも大変だったことでしょう。

 「 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(出エジプト20章12節)」

 母と父とに、何か問題や事情があって、母は父を置いて、四人の子を連れての帰郷でした。東海道線から乗り継いで、山陰線での旅でした。兄たちは、空いた車掌室に潜り込んでいたそうで、弟と私を抱えた母は大変だったのでしょう。自分には苦痛の記憶はないので、その分、まだ三十代の母は大変だったはずです。

 あの列車は、まだ電化していませんでしたので、モクモクと煙をはいて、汽笛を鳴らす蒸気機関車が牽引していました。なぜか、駅弁やお茶や、それに「福知山駅」を覚えているのです。けっこう長い旅だったのを感じました。それで、わがままな私は、グズグズ言って、きっと母を困らせたのではないでしょうか。でも母に抓(つね)られた記憶はありません。

 あんな長旅ができた経験は、級友たちにはできなかったことをさせてもらって得意満面でしたが、忍耐強い母にしては、あの故郷回帰は、ずいぶん考え抜いた末の決意だったのでしょう。大人になって、家内が家出をしたことがあって、あの時の母の決心が、少しだけ分かったのです。今では笑い話で家内は済ませていますが、夫婦には人には言えない色々なことがあるわけです。
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 さて、日本の鉄道ですが、「日本鉄道の父」と呼ばれた、「井上勝」がいます。幕末の長州は萩の人で、長州藩の藩士でした。藩主の命令で、イギリスに留学をし、鉱山技術や鉄道技術を学んでいるのです。東海道線を新橋と横浜間の開業から始まって、全線開通まで担当し、国内の鉄道網の拡大に関わります。貴族院議員、鉄道庁長官などにもなり、長官を退任後は、鉄道車両の製造にも携わっています。私鉄の開業にも寄与し、当時私鉄だった今現在のJR水戸線、時々利用するJR両毛線の開業にも関わっています。

 政界ではなく、技術畑で活躍した明治期の重要な運輸事業に従事した大物だったのです。母の故郷の長旅ができたのも、その基礎を築いた、井上勝のお陰だったわけです。私の父は、鉱山学を学んだのですが、戦後は、旧国鉄時代の車両の部品製造の会社をやっていた時期がありました。日本国有鉄道は、三公社の一つでした。
 
(山陰本線の東洋一の余部鉄橋を走る汽車、出雲市駅付近、萩城址です)
 
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