ふるさとに桃、羊羹も

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 作詞が西沢爽、作曲が遠藤実で、早生まれの同学年の梶光夫が歌った「青春の城下町」が、1964年に発表されました。

1 砂山に さわぐ潮風
  かつお舟 はいる浜辺の
  夕焼けが 海をいろどる
  きみの知らない ぼくのふるさと
  ふるさとの はなしをしよう

2 鳴る花火 ならぶ夜店に
  縁日の まちのともしび
  下町の 夜が匂うよ
  きみが生まれた きみのふるさと
  ふるさとの はなしをしよう

3 今頃は 丘の畑に
  桃の実が 赤くなるころ
  遠い日の 夢の数々
  ぼくは知りたい きみのふるさと
  ふるさとの はなしをしよう

 もう、思いっ切り葡萄や桃を食べさせてもらった記憶があり、お腹を壊すほどだったのです。山からの索道の終点に、作業場や倉庫があって、大きなモーターで、山奥から材木を運んできていたのです。戦時中は、石英の鉱石の集積場があって、そこからトラックで、旧国鉄の駅に運んでいたのです。

 そこに家があって、少し降った所に、山道を通って、有名な神社に通じるバス路線の停留所があって、小さなお店がありました。父に連れ出されたわたしは、買ってもらった水蜜桃だったでしょうか、それをお腹いっぱい食べさせてもらったのです。父は、四人の子を、一人一人個人的に連れ出していたようです。お腹を壊すほど食べさせた父を、母が厳しく叱っていたのを覚えています。

 台湾人の奥さんと、アメリカ人のご主人が、華南の街の彼らの家に招いてくださって、食事をご馳走していただき、交わりをしていたら、『これをもらったのですが、私たちが食べるよりは、あなたたちが食べるのが一番ふさわしそうなので、差し上げます!』と言って、お土産にいただいたのが、「虎屋の羊羹」でした。

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 父に食べさせてもらったのも、この老舗の羊羹でした。味覚と言うのは、「懐旧の念」と深く関わっていそうです。自分の「ふるさと」にも、味覚の思い出がたくさんあります。焼いた渓流魚の山女、木通(あけび)、母の故郷から送られてきた笹餅、それらを食べた、あの山奥が、私の「ふるさと」なのでしょう。

 「母の日」の前に、息子夫婦が、やって来て、差し入れしてくれたのとは別便で、家内には「カラー」の花鉢が送られてき、私にも、羊羹が別便で届いたのです。もう大事にしまってある一口サイズを、一週間ぶりに出して、狭山茶を淹れて、先ほど食べたのです。口に馴染んだ虎屋の羊羹の味で、その山奥のたたずまいと、生活、兄たちや弟、色も匂いも、いっぺんに思い出してしまったのです。

 砂山などないし、城下町も夜店もない山奥にも、懐かしい風景の記憶があります。兄たちを追っかけ、弟と遊んだのが、昨日のように思い出されます。兄たちは八十代、弟も後期高齢者に、そして私たちも。守られ、支えられ、老境の日を、それぞれに生かされていて感謝でいっぱいです。

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Aloha.

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 ワイキキの近くに、大きな公園があります。ハワイに行きました時に、そこでハワイ先住民の集いがあって、招かれて参加したことがありました。そこで、記念式があり、家内の姪の友人で、ハワイ大学の教授が表彰されていたのです。

 何が評価され、表彰されたのかと言いますと、白人社会になってきたハワイ社会で、先住民は少数派になって、蔑ろにされる傾向が強くなる中で、この方は、弱者で少数者たちの味方になって、様々な活動をされてきたそうです。

 ハワイ州は、136万人の人口のうち、50万人ほどが先住民で、現在では、3分の1近くになっているのです。北海道の先住民のアイヌや、アメリカ合衆国の先住民のインディアンと同じ様な、民族の悲哀を感じている現状の様です。

 かつてはカメハメハ大王の支配する「ハワイ王国」でした。この王国の主要産業が、<サトウキビ栽培>で、その労動力を、中国や日本に求め、明治期の日本から、このサトウキビ畑で働くために、多くの人が農業移民をしたのです。

 ハワイは王国から共和国に移行したのが、1894年でした。1898年には、アメリカ合衆国の「準州」になり、1959年には、合衆国の50番目の州になっています。

 家内の姉を訪ねて参加した集いには、「ハワイ王国」の国旗も掲げられていました。どうもアメリカへのハワイ併合には、違法な点があったそうで、アメリカ合衆国上下院の両議院では、その非を認めています。因みに1984年には、日系人のジョージ・アリヨシが州知事に選任されています。

 日曜日に集った礼拝にも、日系五代目のご婦人がおいででした。農奴の様な苦労をした方たちの子孫が、ハワイの社会の様々な分野で活躍をされておいでなのです。また、記念式で表彰された方は、中華系移民の子孫で、福建省の出身の祖先を持っておられると言っていました。片言の日本語もしゃべることができました。

 本来なら、友人たちが、この方の表彰を祝してお祝い会をすべきなのに、彼が主催の「食事会」を、ホノルルのダウンタウンの中華街のレストランで開かれたのです。そのテーブルを、私たちも一緒に囲むことができました。久しぶりの中華料理を美味しく頂戴した次第です。暮れなずむホノルルの下町は、結構静かだったのが不思議な感じでした。中国で、私たちに住む街の、ショッピングモールの人の波を見続けてきたからでしょうか、静けさと落ち着きに驚きました。

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Last King Kamehameha Statue

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 港の方を見てたら、子どもの頃に流行っていた歌を思い出してしまったのです。昭和23年に、石本美由紀の作詞、江口夜詩の作曲、岡晴夫の歌の「憧れのハワイ航路 」です。

晴れた空 そよぐ風
港出船の ドラの音愉し
別れテープを 笑顔で切れば
希望はてない 遥かな潮路
ああ 憧れの ハワイ航路

波の背を バラ色に
染めて真赤な 夕陽が沈む
1人デッキで ウクレレ弾けば
歌もなつかし あのアロハ・オエ
ああ 憧れの ハワイ航路

とこ夏の 黄金月
夜のキャビンの 小窓を照らす
夢も通うよ あのホノルルの
椰子の並木路 ホワイトホテル
ああ 憧れの ハワイ航路r

 あの頃は、船でハワイやアメリカ本土に出かけていたのですから、結構長い旅をしていたことになりますね。

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感謝

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 主の働きに献身した若いテモテに、パウロが、真心から情愛を込めて書き送った手紙が、聖書の中に2通おさめられています。それを読みまして感じるのは、この二人の間には、実に麗しい関係が育まれていたことであります。そのパウロが、親のように勧めている言葉の1つに、「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが・・(1テモテ4章8節)」と言う言葉があります。テモテの健康を願ってのことでしょうか。

 この言葉の「いくらかは」と言うのは、「少しの間」と言う意味をもっている言葉なのだそうです。キングジェームス訳ですと「little」とあります。私に聖書の読み方を教えてくださった宣教師さんは、『ここは、《この地上にある間は有益です》、との意味でしょうか!』と言っておられました。としますと私たちが肉体を鍛錬することは、意味のないことではないことになります。

 初代教会の時代、ギリシャにはオリンピックがあって、走ったりボクシングをしたりレスリングもあり、パウロは「賞を受けられるように走りなさい(1コリ9章24節)」と、霊的に当てはめています。

 アテネ・オリンピック出場をかけた女子バレーの予選の試合が行われていた頃、それをテレビに誘われて観戦していました。その時、日本チームの練習風景が、中継の合間にビデオで流されていたのです。監督さんが、19才の高校を出たての選手たちに、『バカヤロー!』、『出て行け!』、『お前なんか使わない!』と罵声を飛ばしていました。ああ言った言葉に耐えないと試合に出られない、勝てない、大会に出場できないのです。

 国の名誉を賭けた、熾烈な競争に勝つには、精神を鍛えなければならないのでしょう。『なにくそ!』という跳ね返す心がないとだめなんです。相手に勝つ前に自分に勝たなければならないし、チーム・メイトにも勝たなければならないのです。根性がなければ駄目なんです。そのためには、暴言も暴力も〈必要悪〉なのだ、そういった風潮がみられたのです。

 60数年前に、中学・高校の運動部にいた私は、その様子を見ていて、『ちっとも変わっていないな!』と感じること仕切りでした。その五十代の監督さんの選手時代は、われわれと同じ「しごき」の時代だったのです。私たち籠球部や送球部の練習内容は、ものすごいものがありました。インターハイや国体の優勝校で、その決勝戦への常連校でしたから、その名誉を維持するためには、常識的な練習では駄目だと言うのが結論でした。

 予科練帰りの旧日本軍の規律で訓練された先輩たちにしごかれたと言う、卒業生のおじさんたち、そのおじさんたちに鍛えられたOBが、入れ替わり立ち代わりやって来るわけです。ビンタは当然でした。殴られると、今度は下級生にビンタで焼きを入れるといった悪循環があったのです。

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 あの監督さんは、暴力はしていなかったのですが、あの言葉は心に痛かったでしょうね。社会全体が軟らかいソフトムードで、そこで育って来た若者たちの中で、一流選手のいる、スポーツ界は変わっていないんです。何時でしたか、力士のAが、相撲の稽古をつけている様を、テレビで観ていました。竹刀(しない)で焼きを入れていました。その相手は、彼よりも年令は上で、大学出の人気力士でした。この世界は年令も学歴も関係ないのですね。番付が上なら天下なのです。

 《悲壮感》、そう言ったものがないとスポーツの世界では、出られない、勝てない、大会に出場できないのです。まさに日本型のスポーツの世界の伝統であります。

 いつでしたか、アルカイダの訓練の様子が放映されていました。またアメリカ海兵隊やイギリス軍の新兵訓練も放映されていたことがあります。戦場の最前線に遣わされる兵士には、非人道的な訓練が、世界中、どこでも行われているのです。そこにあったのは、私が若い頃にやっていた、松涛館流空手の稽古の中に感じた「殺意」です。躊躇のない一撃必殺が要求されるのです。逡巡していたら、殺されてしまうからです。 

 あの監督に罵声を飛ばされていた選手が、試合に出してもらって活躍していました。スパイクを決めたときに見せたのは、実に素晴らしい笑顔でした。『監督さんの愛情からの言葉なんだ!』と思って感謝しているのでしょうか。

 でも、『勝たなくってもいいんだ!』、そういった気持ちで、スポーツを楽しめたら素晴らしいでしょうね。孫たちは、硬軟織り交ぜて、野球や陸上競技やテニスをやりながら、ピアノやチェロも練習して、楽しんでいるのを、ビデオを送って見せてくれます。そうしたら、肉体の鍛錬にも有効なのだと言う、パウロの願いが、実現されるのですが。

 欠点だらけの私を訓練してくださった宣教師さんは、私を、殴ったり、威嚇したり、蔑んだり、罵倒したりしませんでした。その代わりに祈ってくれたのです。感謝!
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にふぇーでーびる

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「栄冠は君に輝く」

雲は湧(わ)き 光あふれて
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
まなじりは 歓呼に答え
いさぎよし 微笑(ほほえ)む希望
ああ 栄冠は 君に輝く

風を打ち 大地を蹴(け)りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打に賭(か)けて
青春の 讃歌を綴(つづ)
ああ 栄冠は 君に輝く

空を切る 球の命に
通うもの 美しく匂える健康
若人よ いざ
緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす
感激を 目蓋(まぶた)に描け
ああ 栄冠は 君に輝く(加賀大介作詞・古関裕而作曲)

 1958年、昭和33年の夏、甲子園球場で行われた第40回全国高等学校野球選手権大会で優勝したのは、福岡県代表の柳井商業高校でした。この大会の出場校で注目されたのは、戦後初めて沖縄代表として首里高校が出場したことでした。

 その年は、47都道府県から、一校ずつが出場した記念大会だったのです。第一回戦で、福井県代表の敦賀高校と対戦し、惜しくも1対3のスコアーで敗れてしまいました。甲子園のグラウンドの土をビニールに入れて、沖縄に持ち帰ったのですが、「外国の土」だと言う植物検疫上の理由で、悔しくも海に捨てさせられてしまったのです。

 この大会では、東京都の代表となったのが、明治高校でした。すぐ上の兄も、甲子園を目指した高校球児だったのです。今では、東京都からは東西二校が選出されていますが、厳しいトーナメント戦の結果、明治大学の系列校の明治高校の一校だけの出場でした。

 同じ学校の敷地のグラウンドでは、野球やハンドボールの練習が行われ、体育館では中学校の籠球部(バスケットボール)練習が、高校生と一緒に行われ、私は中学2年で、兄弟で汗をかいていました。

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 「甲子園の土」は、那覇港の海に捨てられたのですが、日本航空の一人の客室乗務員の方が、40個ほどの小石を、グラウンドから集めて、首里高校の野球部に届けたのだそうです。今も、その石は、首里高校の校内の甲子園出場記念碑の中に埋め込まれてあるそうです。

 沖縄が、日本本土の scapegoat の様にしてあり続けたことに、ただ感謝するばかりです。戦後の国防問題、国境問題、極東問題の渦中で、米軍基地を設け続けて、犠牲を払ったくださったわけです。琉球王朝や薩摩藩の領地などの過去と今、そしてこれからの日本にとっても、重要な位置にあるのでしょう。一言、『にふぇーでーびる(琉球方言で “ ありがとう” です)!』と言いたいのです。

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平和を希求する

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 この5月15日に、《沖縄返還五十周年》を迎えました。長男が生まれた年1972年のことでした。沖縄が日本に復帰したことは、本当の意味で戦争が終結した年だったのかも知れません。

 「戦争と孤児」、戦争が子どもたちから、父親を奪い去ります。そして戦争が、父なし子を、占領地に産み落とすのです。たとえ戦争に正義の戦争があったとしても、この子たちにとっての戦争は、人道上の犯罪、生命軽視に違いありません。お父さんの遺品の軍帽をかぶって、別府の町でチャンバラごっこをして、少年期を過ごしたことを、話してくれた級友がいました。

 彼のお父さんは、中国の各地を転戦した職業軍人でした。敗戦と同時に、蒋介石率いる「国民軍」に参加して、中国大陸で戦死するのです。彼には、高名な陸軍大将だったおじさんがいましたし、お国のために戦い、主義主張のために死んでいった父親への誇りがあったに違いありません。

 それでも、写真に写ったお父さんの面影しか知らない、抱かれた実感を持たない青年だったのです。戦争は、彼から父親を奪い去ったことになりますし、彼の子どもたちから、おじいちゃんを取り去ったことになります。

 私の父は、戦争中に、軍需工場の工場長をしていました。零戦の戦闘機や爆撃機の部品の生産にかかわる仕事をしていたのですから、私は、陸軍が父に支払った俸給で買った食料で生きていた母の母乳や、購入したミルクや離乳食で育てられたことになります。

 それででしょうか、私は戦後に育った子であるのに、軍国少年魂を、亡霊のように内に宿して、予科練に憧れていたのです。『若い血潮の予科練は・・』と、七つボタンで身を包んでいるような錯覚に陥った私は、そう高吟するのが好きでした。

 そんな私を見て、『予科練ではなく海軍予備学生に憧れなさい!』と母が言うのでした。母には、広島・江田島にあった海軍兵学校に通い、戦死した幼馴染がいたのです。その母が結婚したのも、横須賀の海軍一家の青年だったのです。父のことですが。

 そんな背景の私は、平和を与えられ、救援物資で養ってくれたアメリカを敵国だと思っていました。でも、『こんな非道なことをする日本人が変えられるのは、福音以外にはない!』、そう願う、アメリカの教会から遣わされた宣教師の建てられた教会に、母が導かれるのです。私たち4人の兄弟は、その教会で信仰を持ったのです。そして上の兄と私は献身させていただきました。

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 そして私は、アメリカ人宣教師から聖書の読み方や学び方や組織神学、さらには妻の愛し方や子どもの育て方まで教わるはめになるのです。軍国少年が、元アメリカ空軍のパイロットと至近の距離にいて、7年間共に働き、学ばされたのですから、彼の忍耐がどれほどだったか想像に難くありません。

 イエスさまは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣によって滅びます(マタイ26・52)」とおっしゃいました。私は、自分の腰にではなく、心の中に吊り下げていた剣を捨てる必要があったのです。生まれながらに受け継ぎ、自ら好んで求めた「軍国主義の霊」とか「軍国少年魂」と言うものがあるのでしょうね。そういった亡霊や精神を取り扱われ、除くのは、一筋なわでは行かないことだったようです。今は、天のふるさとにお帰りになられた宣教師さんに心からの感謝を覚えるのです。

 真珠湾攻撃の攻撃隊長であった、淵田美津雄さんという方が、戦後クリスチャンになられて、伝道者の道を歩まれました。中野にあった教会で、この方のお話を聞いたことがあります。父の世代の方でした。軍人が、柔和な表情の伝道者になっておられたのですから、喧嘩に明け暮れ、心のすさんでいた軍国少年だって、「天国の使いっぱしり」にはなれるんだ、と思はされた出会いでありました。

そういえば、私を育ててくださった宣教師は、有名な工科大学を出て、軍に籍を置いていましたが、一人の日本への宣教師と、テキサスの街で出会い、その潔く堅固な人格に触れて、彼もまた宣教師となって、日本にやって来られた方でした。

 日本が敗戦間近に生まれ、戦争放棄をした戦後に、私は育ったのです。小学生の始め頃は朝鮮戦争、青年期にはヴェトナム戦争があり、それ以上に東西の零戦の時代が、長く続いたのです。湾岸戦争などがあって、今はウクライナへのロシアの侵攻があって、戦争の噂や戦闘が止みません。やがて、イスラエルの都、エルサレムに進軍して行くのでしょうか。ただウクライナの地に「平和」が戻ることを希求するばかりです。 

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農作業

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 「立ち直り支援」で、『今日は一日、少年たちと一緒に、農作業をしました!』と、団塊世代のおじいさんになった弟が言って来ました。それが嬉しいのか、彼らが、心を開いて、いろいろ話し始めてくれたのだそうです。

 長く教師をしながら、生徒指導の立場から、盛場で子どもたちに「声掛け」を、警視庁のスタッフとやって来て、今は、そんな奉仕を、喜んでしているのでしょう。母校の教師を退職して、学校の理事や教員の相談員、都内の小さな規模のチャーチスクールの教師、都内の盛場での見守りをして来て、75歳を機に、全てを終えても、気掛かりなのでしょう、警視庁の要請もあって、支援活動を続けているのです。

 『そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。(創世記323節)』

 人類最初の労働は、「土を耕すこと」でした。それは、罪を犯した人が、「エデンの東」の地で、生きるため、悔いて立ち直りに向かって生きて行く上で、創造主の委任でした。「農業」には、土から造り出された人に、糧を得させるためだけではなく、人の生を肯定し、神の創造の世界に関わって行くためなのかも知れません。

 第一次産業に関わる人が減って来ていますが、壊れた心や家庭や社会を再生して行くために、土を耕すことには力がありそうです。世界中で休耕地が増えていますが、人間関係に疲れた人、傷ついた人を癒す力が、「土」にはありそうです。土いじりだけではなく、時期が来て収穫を手にすることに、喜びがあるからです。

 素手で、「土」に触れることには、再生の力、命を宿し、生み出す力に触れることなのでしょう。先週、ベランダに、茄子や三つ葉の苗をいただいて、鉢の土の中に植えました。もう根付いて、イキイキとして来ています。土の感触を楽しめて、手も心も喜んでいます。「土や「農」に触れて、この時代の傷ついた子たちが、生きる喜びを感じ、一緒に作業する喜びで、再起していくために、好い奉仕が続けられることを願いつつ。

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すごい!

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 主イエスさまは、「狭い門から入りなさい・・いのちに至る門は小さく(マタイ7:13~14)」とおっしゃいました。これは、日本で最も難関だと言われている「公認会計士」の国家試験に合格することの難しさを言っているのではありません。「神の国」とか「救い」に至る道の難しさのことを言っているのです。

 ところが人の習性は、多くの人がくぐり抜けている、人気を取れる門を選ぶ傾向にあります。そう言った人が生来持っている習性を、日頃、痛感している、キリスト教会は、彼らの友や理解者となるために、その敷居を低くする努力をします。ですから、『罪のことは言わない!』、『裁きには触れない!』、『地獄がある事も語らない!』、そう言った努力を払います。『そのうち分かるからいい!』と思っているのです。

 人々の関心亊を知るために、群集心理学で人心収攬の術を学ぼうとします。効果的な宣伝術を学ぶのです。『現代人が求めるものは何か?』のデータ収集のために市場調査もします。多数の人のニーズ(必要とか欲求)に見合ったプログラムを組み、人々がひきつけられるイベントを企画します。

 『教会って楽しい所なんです。決して堅苦しくて暗いイメージはないんですから、難しい事は後になって分ればいいんです!』と言って、彼らを招きます。『罪を犯したら、悔い改めればいいんですから、罪、罪とあまり神経質にならないほうがいいのです!』と実に寛容なのです。

 そうしますと現代版翻訳は、『広い門から入りなさい。いのちに至る門は広いのです。それを見出すものは多いのです!』になります。そうしますと教会には、たくさんの人が集まることができるのです。

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 ところが信仰生活や教会生活について、主は、「いのちに至る・・道は狭く、それを見出す者はまれです」とおっしゃっておられますから、どうも、クリスチャンとなって、進み行くのは平坦で安易な道ではないようです。主について行くのは、群衆が願って行こうとしているのとは全く違う道なのです。

 それは、十字架への茨の道であります。唾され、打たれ、嘲られ、罵倒されて、主イエスさまはカルバリーまでの十字架への道を行かれたのです。そこには拍手も喝采も歓声も聞こえませんでした。3年半の間、ついて来た弟子たちにも、主は見捨てられました。

 「狭い」とは、《苦難や試練やトラブルがあること》を言っているのです。ですから、平穏無事であることは全く約束されていません。世の中の苦難や試練やトラブルを避けて教会にって来た人は、新らしい意味で、困難で苦痛に満ちた門をくぐって、同じくトラブルの連続の道を行かなければならないわけです。

 ですからイエスさまは、「わたしについて来たいと思うなら・・日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:24)」とおしゃったのです。もし私たちの信仰が《本気》なら、みことばに従おうとするなら、そして主の弟子となろうとするなら、どうしても、この《狭さ》の中を行くことになります。私たちが「神の子」なら、苦悩する事や困難が矢継ぎ早にやってくる事を覚悟しなければなりません。

 ところが、そういった道を選び取った人には、特別な祝福があります。「助け主」とか「激励者」とか「勇気付ける方」と言われる、聖霊なる神さまが、一緒にいてくださり、伴走してくださるのです。「特別な恩寵」をいただけるのです。また、走破した聖徒たちが、歓声を上げて見守っていてくれるのです(ヘブル人への手紙12・1)。御使いだって、私たちに仕えていてくれるのです。すごい!

(写真は、エルサレムの「ドロローサの道」、「黄金の門」です)

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携挙

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 『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ41617節)』

 昨日、久々に友人夫妻が訪ねて来て、珈琲と紅茶で交わりを持ちました。「空中携挙」が話題になって話が弾んでいました。その聖書を題材にしたアメリカ映画があるとのことで、youtube で検索しましたら、“ Left  behind “ が見つかって、夕食後、家内と観たのです。

 上のイラストには、二つに群れが、印象的に描かれています。天に携え上げらて行く一団と〈置いてけぼり〉をくった一団です。居残りの人々の慌てぶり、驚き、不可解さ、混乱が、その映画に映し出されていました。パウロが、テサロニケの教会に書き送った手紙に、『生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。』とある、聖書を思い出したのです。

 実は、このパウロの書き送った書簡のことばには、背景があって、イエスさまの次のことばがあります。

 『わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。  わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。 (ヨハネ1423節)』

 「父の家」とは、やがて私たちが迎え入れられる、永遠に住まう場所を言っています。〈置いてけぼり〉にならなかかった人々の中に、私もいるとの確信を持っていますが、いつ来てくださるかは判りません。でも、そう遠くない時だと信じているのです。その時までに、たとえ死んだとしても、わたしは死から蘇って、永遠のいのちに預かれるという希望があるので、落胆しないと思っています。願わくば、携挙の恵みに預かりたいのです。

 なぜ、そんな思い、確信があるのかと言いますと、わたしは、神と和解させていただいたからです。神がいますことは、幼い日から知っていましたし、母の生き方を見て納得できたのです。弱さも、辛さもあって、それを超えさせていただいて生きていた母の姿です。自分自身も、罪人であることを知って、その罪の処分をイエスさまが、十字架で受けてくださったと信じられたからです。このイエスさまは、神の怒りをなだめる供え物となって、十字架で神の「義」を顕されて、ご自分を信じる者たちの罪の身代わりとなってくださったのです。わたしたちに代わって、罪の処罰を受けて死んで下さったのです。

 猜疑心の強い私は、母がキリスト者として、生きている姿を見て育ちました。子どもの頃は、兄たちや弟と共に、電車に乗って、キリスト教会の日曜学校に連れて行かれていました。年頃になって、わたしたちは教会から距離を置いてしまったのです。母は、子どもたちの救い、守りを願って祈りに専心し始めたのです。諦めませんでした。わたしたちは、学校を出してもらって、仕事をし始めた頃に、それぞれに導かれて、再び教会に行くようになりました。自分の罪が判ったのです。神を信じた母の生き方からの感化が、強烈に刷り込まれていたからに違いありません。

 上の兄は、国体予選のラグビーの試合で、草薙球場のグラウンドで、人事不省の大怪我を負って、入院し生死の間を彷徨いながら、恐ろしい夢を見て、退院しました。病後の不安定な時期に、社員寮の近くの教会に飛び込んで、信仰を持ったのです。それは聖誕節の時季だったそうです。そこでバプテスマを受け、やがて牧師にもなりました。喧嘩が強く自立心の強い次兄は、働きながら大学を終え、結婚式の日にバプテスマを、義姉と共に受けたのです。腎臓疾患を通して、母と同じ信仰に帰ったのです。弟はキリスト教主義の高校に進学し、キリスト者の教師と出会って信仰を明確にし、バプテスマを母の行っていた教会で受け、母校の教師に招聘され、教師になりました。礼拝でも、クリスマス会でも、成人祝福式にも聖書から、生徒や卒業生に説教をしていました。三男の私は、『万ちゃんがひどい怪我をしたから分かるけど、準ちゃんは、何の問題もないのに、信仰を持ったのはどうして?』と近所のおばさんに聞かれたほど、何の問題もなさそうに見えたのです。でも生活も心も荒れ、言うことも憚るような問題だらけでした。教師になった時、『これじゃあいけない!』と、生活を改めようとした頃に、素晴らしい経験がありました。

 兄が、宣教師の留守の教会のお世話のために、福岡県に行っていた時に、鹿児島に出張を命じられた私は、一日早く出掛け、兄家族の住む街を訪ねたのです。そこでわずかばかりの学生たちの魂の世話をしている、全く変わっている兄の生き方を見て、驚いたのです。蹴飛ばされ、殴られ、酒飲みで麻雀狂だった兄の豹変ぶりは、聖なるショックでした。その出張期間は、生活を改めて帰郷しました。その秋には、兄は、母の教会の牧師になって戻っていました。

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 その教会に、宣教師の友人で、ニューヨークの神学校で教鞭をとっていて、教え子たちが宣教活動をしていたアフリカに、問安に行く途中に、訪ねて来たのです。彼の特別集会に出た私の頭の上に、この方が手を置いた時、私は神に触れられる経験をしたのです。そのアラブとギリシャの血の流れる牧師で教師を通して、聖霊なる神が、私の舌をコントロールしたので、「異言」を語ったのです。その母が所属していた教会に、中華系のアメリカ人牧師が訪ねたことがあったようです。多くの人たちが、聖霊に触れられて異言を語る教会になっていたのです。単立の教会でしたが、長老主義の教会で、聖書を神に霊感を受けた書として、単純に信じていた教会でした。

 母に誘われて、この教会に、オランダやアメリカから説教者が来ている時、集会に誘われ、母の顔をたてて出席していたのですが、得体の知れないことばを語ること、語っている人を嫌悪していました。それなのに、それに抗することが出来ずに、語ってしまったわけです。自分の意識は明確でしたし、精神的に錯乱などしていませんでした。その時、十字架が判ったのです。母のためではなく、私個人のための十字架だと判って、赦された確信で大泣きしたのです。そして、『いつか、この説教者のように献身したい!』との思いが突然湧き上がってきたのです。

 やがてわたしは、五年ばかりの仕事をやめて献身し、34年間伝道をし、13年宣教の働きをさせていただいたのです。今は、新型コロナ感染症などの疫病、ウクライナ問題などの戦争、地震の頻発などの自然災害、自殺者増加、家庭の破壊などの問題が山積されていて、世は数末に様相を見せていて、「ヨハネの黙示録」、「エゼキエル書」、「ダニエル書」、「マタイの福音書」、「ルカの福音書」などの聖書記事が預言していることが起こっています。

 この映画を見て、信仰者の携挙は聖書的だと思いました。でも、全ての子どもが携挙に預かれるかどうかは判りません。アダムの犯した罪は、全人類に、例外なく及んでいるからです。なぜなら聖書は、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 (ローマ323節)』と記しています。「免罪符」を買っても、善行を積んでも駄目です。人は、神の前に罪を犯したからです。

 わたしも罪の奴隷状態の中にいました。良い行いに生きよとしていましたが、足も手も目も心の思いも、いつも悪に向かって行き、罪を犯し、失敗を悔いては落胆していました。罪が住み着いているように感じ、努力しても全く駄目でした。表立っては品行方正な青年を演じながらも、あのおばさんのように見られていた様に見えたのです。

 その出張中、教会堂に隣接した兄たちの住居で、食事をして、いつものように、『一服していい?』と聞いて、タバコを吸おうとしたのです。『ここは教会だから!』と言われて、『そうだね!』と殊勝にも納得して、滞在中も熊本に行っても禁煙していました。出張を終えて、いつもの生活のパターンに戻るのですが、それまでとは違うのです。神に向いて方向が変えられていくのです。キャバレーに飲みに誘われても、『ちょっと用があって!』と断れるように代わっていきました。

 生き方を変えていこうとしていたわたしに、内なる放蕩心は、『そんなんでいいのか?』と、古い生活に戻るような強烈な claim  が囁き続けていました。そんな秋に、あの元ボクサーで、斜視の説教者が、やって来られて、頭の上に手を置いたのです。この方は、アフリカからの帰り道、羽田で降りて、またやって来たのです。

 婚約式の日の昨夜でした。この方の説教で式が行われ、祝福のお祈りをされてから、教員を辞めて献身の道に進むようにされたのです。そんな願いを持っことなど、それまで全くなかったのに、不思議なる導きとしか言いようもなく、それ以降一度もへこたれることなく伝道者の道を歩んでいます。長男は、同じ伝道者になって、教会の主に仕えています。滅び果てても当然な悪童が、そんな人生に生きて今日があります。

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 わたしの救い主イエスさまは、迎えに来られて、天に携え上げてくださる希望に溢れています。あの映画に見られるような、無秩序にはなりません。事は、秩序正しく整然として行われます。交通の混乱、騒動などはありません。ただ、置き去りにされた方たちは、亊の次第が飲み込めずに、茫然自失するだろうと思います。あのノアが箱舟を建造しているのを、嘲笑しながら眺めていたあの時代の人々、ノアの誘いを拒んだ人々は、箱舟のかんぬきが下されてしまった後、船に乗ろうとしても遅かったぼです。彼らも取り残され、置き去りにされたのです。ノアたち8人は、水を通って救われたのです。

 今は、「恵みの時」だと聖書は言っています。方向転換をし、罪を認め、悔い改めて、十字架の贖罪の御業を、幼な子の様に信じるなら、誰でも救われるのです。

 『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。(使徒1631節)」

 再び、今度は私たちを迎えにおいでくださるイエスさまにお会いできる、そんな神秘的な経験をすることができるです。主の再臨の日まで、生きていたい願いでおりますが、そうならなくて、今まさに、驚いたり悲しんだりする出来事を見聞きして、意気沮喪するのではなく、驚くほどに輝かしいことが待ち受けているとしたら、そんな幸いなことはありません。

 その映画で、面白かったのは、保守的な基盤の教会の牧師さんが、置いてきぼりになって、彼の話を聞いて、単純に信じたご婦人が、携挙されていた対比が、American  joke だと思いましたが、そんな humor があり得るかも知れません。天国に行って、驚くべことは、〈いるべきだと思っていた人がいない〉、〈いることなどないと思っていた人がいる〉、そして〈このわたしが永遠のふるさとに帰っている〉のかも知れません。

(「ある信徒」の方、「キリスト教クリップアート」のイラストです)

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説教者

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 『神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。(ヘブル137節)

 日本キリスト教団の吉祥寺教会の牧師を長年勤められ、多くの方々を伝道と牧会の現場に送り出された竹森満佐一牧師が、次のように記しておられます。

 『カルヴァンは最も忠実なる御言の役者となろうとした。彼は神の御言とこれを聞く魂との間に、自分が邪魔になることを最も恐れたのである。・・人間的なあらゆる粉飾を取り去って、ただ純粋に御言を伝えたいという願望は、・・精魂を尽くさしめた課題であったのである。カルヴァンの説教を読む者は、その文章のまことに地味な、まことに簡素なことに気付くであろう。・・ここにフランス語をつくった人の一人といわれる文章家であり、同時に歴史の有する最も強力なダイアレクテシャン(弁証理論家)であった彼の御言に対する忠実さを見出さねばならぬ。豊富な才能と美しき教養とに富んだカルヴァンが、ただ御言を純粋に伝えんために、人々に魅力多き『人の知恵』を捨てて、謙遜な神の器になり切ろうとしたところに、われわれは偉大な説教者を見出すのである。ここに、彼がただ御言の講解に力を注ぎ、これを説教の中心にした理由があるのであった(新教出版社刊「イエス伝」)』

 竹森師の奥様も、講壇に立たれた器で、説教集を読ませていただきました。名だたる日本の説教者たちを、ご主人と共に育てられています。四代目のキリスト者で、おばあさまは、東京大学の前身の開成学校の教頭を、政治維新政府から任じられ、後に、高崎、高知、東京で宣教活動を展開したフルベッキに教えを受けておられたそうです。才能豊かな説教者であり、子どもたちにも巧みに説教をされたそうです。

 また、イギリス教会史の中で著名な牧師で名説教家であったスポルジョンが、講壇を降りて信徒たちの後を追うように帰ろうとした時のことでした。信徒たちが、『今朝のスポルジョン牧師の説教は素晴らしかった。彼の・・』と言う言葉を聞くと、彼は踵を返して教会に戻り、椅子に跪いて祈り始めます。

 『主よ。今朝の説教で、あなたを会衆に印象付けることをしないで、自分を印象付けてしまったことをお赦ししください!』、そのように祈ったと言われています。いかに彼が主の前で謙遜であろうとしたかが分ります。

 説教者の誘惑は、会衆に受けること、特に新しく来た人たちに分って欲しいと願うことです。それで面白く楽しく、彼らに距離を置くことなく、冗談や駄洒落を連発してしまいます。ところがカルヴァンやスポルジョンの説教を聴いて(ほんとうは読んでですが)みますと、一見つまらないのです。飾り物や無駄が省かれているのです。

 みことばが直截的に語られ、みことばを解説するのに、みことばだけが用いられているのです。もちろん本に著わすためには編集がなされたのでしょうけれど、基本的に、装飾を省いて簡素な語り口であったに違いありません。

 ずいぶん前に、静岡県下の水窪で行われた「新年聖会」に、二人の講師が来られました。一人は、母教会の開拓をされたJ宣教師、もう一人はS牧師でした。J師は、カルヴァン的な説教をしましたが、S師は、面白おかしく話をされました。あれから40数年が経つのですが、S氏の説教の記憶は面白かっただけで内容を全く覚えていませんが、J師の説教はいまだに記憶の中にとどまっています。

 『あなたの話は面白くない。A牧師のように、聞きやすく説教をしてください!』と、臆面もなく、ある牧師に迫った方がいたそうです。この方は、「説教」の本質を理解されておられないのです。この女性は、面白さを説教に求めて巡り歩く、〈股旅信者〉だったようです。説教は、時事講話でも漫談でもなく、命を求めて来会される方に「命のみことば」、「真理」を、分かつ霊的作業なのであります。

 帰国以来、新型コロナの渦中、日曜日の朝は、家内と二人で、賛美をささげ、「聖餐」にあずかり、牧会をされている若い頃からの友人が牧会する教会の礼拝に、ネットで参加させていただいています。懐かしい賛美が歌われ、淡々として語る熟成した説教を聞かせていただいて、養われているのです。同世代で、共に宣教師に指導を受けて来た、《仲間》になるでしょうか。感謝なことです。

(“ キリスト教クリップアート"のイラストです)

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blood  moon

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 『主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。(ヨエル2章31節)』

 サンフランシスコの “ blood  moon ” 、上の娘が送ってくれました。素敵ですね。ここ栃木は、曇りで、月は顔を出してくれませんでした。この季節の満月は、旧約聖書のみことばを思い起こさせてくれるほどに、赤みを帯びているので、 “ blood “ と表現したのでしょう。

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