波濤を越えて

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  『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ161518節)」

 幕末に、アメリカから太平洋の波濤を越えて、日本にやって来た宣教師たちの中に、ヘボン( James Curtis Hepburn )と言う方がいました。1859年4月に、北アメリカ長老協会の医療宣教師として、ニューヨクを出発し、香港、上海、長崎を経由して、その半年後の10月17日に、横浜に到着しています。
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 成仏寺の本堂が、ヘボンの住まいとされ、「神奈川施療所」を設けて、主に眼科の治療にあたったのです。日本最初の幕府公認の西洋医学の医院が、横浜に開院されたのです。その頃、「生麦事件」が起きって、ヘボンたちは、負傷者の治療をしたと記録が残されています。眼科の治療のために、無料で診察をしたと言われています。

 ヘボン夫妻には、6人のお子さんがいたのですが、5人が病死するという辛い経験をしながらも、キリストの愛によって、医療に従事し、英語教育を始めて、キリストを証ししていきます。港区の白金にある、明治学院の創設者は、このヘボンでした。会津戦争に、白虎隊として立った井深梶之助は、この明治学院で学び、後に学院経営に当たっています。

 晩年、病弱だったクララ夫人に寄り添って支えたことが語り残されています。あのローマ字の「ヘボン式」は、この方の努力によって作られているのです。医療宣教師の立場で日本の社会の中で奉仕をされた方です。維新後、日本の近代化のために、多くの御雇外国人がいましたが、その中でクリスチャンの教師や技師や宣教師の寄与は絶大なるものがあります。


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 私たちが華南の街にいた時に、娘のようにして、いろいろと助けてくれた方は、漁村の出身の方でした。村の市場の入り口で、バケツに入れた魚を商いするお母様を助けながら、貧しい生活を支えて少女期を送ったのだと、話してくれました。その漁村は90%の人が、五代目、六代目のクリスチャンで、彼女のお母さまも、彼女も、お子さんたちも、同じ信仰を継承しておいでです。ヘボンのような宣教師たちの福音宣教の結果なのです。

 ヘボンが日本に来た頃、欧米諸国の植民地主義の野心ではなく、「福音宣教」のために、多くの宣教師が、広東省、福建省、浙江省などの海岸地域や、内陸部で宣教をされ、その奉仕の実が残され、信仰を継承しているのです。数年前、帰国した家内を見舞うために、友人と二人でやって来られ、お借りしていた家の掃除や食事のお世話までしてくださったのです。

 家内も義母も、私も母も、宣教師の伝道の実なのです。神のいますこと、この神が父で、愛の神であること、その愛のゆえに、神が人となられた「神の子イエス」が、信じる者の罪の身代わりに、十字架に刑死してくださったこと、三日三晩の後に、このキリストなるイエスは、墓と死を打ち破られて蘇られたこと、弟子たちとしばらく過ごした後に、天の神の右の座に着座されたこと、そこで執り成しの祈りをされ、助け主なる聖霊を送られ、信じた者を迎えるために、場所を設け、その場所が備えられたら迎えに来てくださること、そう言ったことを伝えてくれて、信ずる人が中国にも日本にも、世界中に起こされてきたのです。

(東シナ海の海岸風景、英国の聖公会の宣教師が残された教会堂です)

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心に刻んだ街

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 『いつかヨーロッパを訪ねてみたい!』、と願いながら、その夢が叶えられずに時が過ぎてしまいました。それでも諦め切れていない長年の私の夢なのです。イギリスにもフランスにもスカンジナビアにも行ってみたいのですが、一番訪ねてみたいのは、ライン川の上流のネッカー河畔にあるというハイデルベルクの街です。

 ドイツ有数の景勝地ですが、私が行って見たい理由は、この街で、聖書解釈の論争や紛争を、穏やかに解決したいと願った、フリードリッヒ三世が、熟練した人ではなく、これからの時代を担って行く、主と聖書と教会を愛する、若い二人の人に、それを要請したのです。

 彼らは、精一杯努力を傾けて、祈りと協力の中で、「ハイデルベルク信仰問答」をまとめ上げます。人に教える能力に優れたウルジヌスと、情熱的で優れた説教者だったオレヴィアヌスの二人によってでした。その出来上がった草稿は、教職大会に提出され、検討吟味されています。そして1563年に出版されました。

 種子島に鉄砲が伝来したのが1543年でしたから、その20年後のことであります。それまで、『信仰を正しく教える!』と言う願いを込めて、宗教改革以降、いくつかの「信仰問答」が生まれていました。その代表的なものが、この「ハイデルベルク信仰問答」なのです。

 おもに、バプテスマを受けようとする人の準備のために用いられてきたのですが、クリスチャンとされた私たちが、自分の信じていることの全体を、網羅的に再確認するためにも、大切な役割を持っております。おかしな教えや自分勝手な聖書解釈によって、教会はもてあそばれて来た過去がありますが、正統で健全な信仰を養うためには、この「信仰問答」や「教理問答」は、とても有用なものだと信じるのです。

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 健全な信仰を持っているなら、非聖書的な教えを、しっかり、はっきりと見抜くことが出来るからです。 その内容は、ジュネーブの宗教改革者ジャン・カルヴァンの著作が、基本ですので、改革派教会の代表的な信仰問答書だと言えますが、中立的な立場を取ろうとした努力が、この二人の起草者によってなされていますので、偏ることのない、「信仰問答」だと言えます。

 罪に堕ちた人間が無力で惨めであること、そのような私たちをあわれまれる神が、御子を十字架に罰して、私たちの罪を贖ってくださったこと、「人のみじめさ」から始まって、「神のみ恵み」が、この問答で展開され、「ただ一つに慰め」を、神さまから頂いているのです。ただ栄光の神さまが、あがめられほめたたえられているのです。


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 台湾に宣教旅行をさせていただいた時に、おもに長老派の教会をお訪ねしました。その牧師さんたちに、『あなたの説教は健全なので安心しました!』と言われました。それは、健全な教えを、私が宣教師方から受け継がせていただいたからだと思っています。

 初代の教会でなされた「癒し」や「聖霊の賜物」や「御霊の実」などが、この時代のキリストの教会で現わされ、賜物が、『終わってしまった!』のではなく、この時代にも用いられると、私は信じています。そうイエスさまが約束してくださったからであります。でも、「健全な教え」こそが、教会への最大の賜物であります。キリストが贖われた教会から、主の栄光がほめられますように!

 五百年も年月が経つのに、真理に没頭した信仰者たちの過ごした、ネッカー河畔の街は、生まれた山村、育った東京郊外の街、主と教会に仕えた街、海を渡って過ごした街、それらに比しても、勝るとも劣らなく、若い日に心に刻んだ街なのです。

{別のブログに200611月に掲載分に少し手を入れました!}

(ハイデルベルクの街角、竹森満佐一氏の著作です)

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六月花

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 今夕、次男から送られてきた写真です。雨に濡れた「紫陽花」、幻想的な季節感を感じることができました。ここ栃木市の大平山にも、そろそろ紫陽花の季節がやってきそうです。散歩の途中、巴波川の傍に、紫陽花が植わっていて、そこで咲き始めると、一週間ほどで大平山に、紫陽花の季節がきます。楽しみの前の、東京都心の六月の花です。

❤️ 画面を tap すると大きく見られます!

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宇宙への road

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 正倉院の宝物庫の中に、「 silk road / シルクロード」で運ばれた交易品が収められてあります。陸路と回路で日本に渡ってきたのだと、小学校の歴史で学んで、中国大陸からヨーロッパに広がるユーラシア大陸に思いを馳せた記憶があります。そのシルクロードは、「長安(現在の西安)」や「洛陽」と「ローマ」や「アンテオケ」を結ぶ通商のための交易路だとされていますが、どこが起点で終だったのかは特定できていません。それで好いのでしょう。

 ところが、古代には、この様な呼称で呼ばれていたのではなく、1877年に、ドイツに地理学者のリヒトフォーヘンが書き著した、「China」という著書の中に、初めて現れた呼び名なのです。その交易の主要な品目を「絹」と特定して、そう呼んだことになります。ですから、かつては「草原の道」、「オアシスの道」、「海の道」だったのを、総合したものとして、学者が命名して、それを私たちは学校で学んだわけです。

 もうずいぶん前になりますが、NHKが、「シルクロード」という特集を放送してから、急に注目され始めたのではないでしょうか。金儲けの道だったのが、夢も運んで、人の営みの栄枯盛衰を描き出した、悠久の世界でした。

 砂漠を歩み、オアシスを目指した道を、文明の利器を使って高い所から鳥瞰(ちょうかん)的に描き出していました。まるで映像の魔法にかけられた様に、見入ってしまったのを覚えています。

 時代はずっと下って、民代の永楽帝に仕えた、「鄭和(ていわ/Zheng He)」という武将で、海洋探検家として、最初に、62艘の大船団を組んでマラッカ、後には、アラビヤやアフリカまで出掛けています。

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 南京を船出し、福建省の長楽、泉州などをへて、航海をしたのです。ポルトガルなどによる、ヨーロッパ大航海時代のだいぶ前に始まっているのが特徴なのだそうです。その長楽の闽江(minjiang)の河口の近くの東シナ海を眺められる村に連れて行ってもらったことがあり、そこに、とてつもなく大きな鄭和の像があってとても驚かされたのです。

 そのような海伝いの海路を、「海のシルクロード」と、今は呼んでいます。古来商人たちは、どこまでも出掛けていき、危険を冒しながら、物を運びながら商いをしてきています。中国は、日本やドイツの新幹線の鉄道技術を導入して、その高速鉄道を広げ、今やアラブからヨーロッパにもつなげようとしています。もう「鉄路のシルクロード」が敷設されていくことになりそうです。

 ラクダの隊商が、月の砂漠をはるばると辿る道の険しさと悠長さとは、現代は 、もう似ても似つかない時代になってきていることになります。鄭和の船団も、帆船でしたから、吹く風に任せた船旅だった事になります。「丝绸之路sichou」と呼んでも、絹などではなく、これからは何が運ばれていくのでしょうか。野心ではなく、友情とか博愛など、人間や文化の交流とかいう穏やかなもので交流できたら好いのではないか、と思ってしまいます。

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 ところが時代は、もう、陸や海ではなく空、しかも、宇宙が、国家間の覇権の競争の場になっているのに違いありません。そのおかげで、宇宙はゴミだらけになっていて、直近の課題は、「宇宙」の清掃のようです。近い将来の起業分野は、宇宙で、「清掃会社」を起業しなければならない時期が来ているのではないでしょうか。

 星々が煌めく世界が、賑やかな satellite がぶつかり合いそうな大気圏に変わっていくのは、実に悲しいことです。ここ栃木県では、時々、茨城県沖を震源とする、『ドスン!』と身体で感じる地震が起きています。どうも強烈な地震が起こる前触れのように予測されていて、やはり地球が火の玉を内部に抱えて、さらには宙に浮いている不安定さが気になってしまいます。地震、雷、火事、戦争の二十一世紀、どうなっていくのでしょうか。

(シルクロード、鄭和、地球の様子です)

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5points

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 わたしは、「救い」について、いわゆる「カルヴィニズムの5ポイント」を信じております。「ドルト信条」や「改革派教理」を学んだからではないのです。だれが何とおっしゃられても、自分の実情も救いも信仰も、いわゆる《 5 points 》の確信に違わなので驚いてしまうのです。

 『随分と高飛車で冷たい、手前勝手のことを信じているのですね!』と非難される方もおいででしょう。でも、少しもよいところのない人間なのに、こんなに驚くべき救いに、このわたしが預かれたのですから、そう言わざるを得ないのです。

 わたしは、中学生になったときに、運動部の高校や大学の先輩たちに仕込まれて、大人の世界を覗き込ませられました。それでも、みんなが堕ちていく中で、『きよく生きたい!』と願ったのです。幼い日から、クリスチャンの母に育てられ、祈られていたからでしょうか。ところが、マグマのような勢いで内と外からやってくる性の衝動に、勝てなかったのです。

 酒もタバコも拒絶できませんでした。『やめたい!』との願いがありながら、それを、し遂げる力が全くない、すっかり身も心も堕落した青年になっていました。自分の内には良いものなど何1つありませんでした・・・「全的堕落」。

 『イエスさまの十字架が、この自分の罪の赦しためであった!』と言うことが信じられたのです。それまで『精神的に錯乱して語っているのだ!』と思ってきた異言を語ってしまって、聖霊に満たされた瞬間に分かったのです。そんなわたしが赦されてクリスチャンとされたのですから、善行を積んで、合格点を取ったのではありませんでした。贈り物として、ただで頂いたのです。救いについての「条件」に何1つ、付け加えるような良い点はありませんでした。『救われるように!』と、だれ一人推薦してくれませんでした。祈ってくれた母の祈りによったのでもないのです。このあわれみ深い神さまは、そう願って母が祈るよりも遥か以前、生まれる前、いえ天地が創造されるよりも前に、「義」としてくださる「救い」に、このわたしをお選び下さっていたのです・・・「無条件の選び」。

 周りには、わたしよりも正しく立派に生きている友人が沢山いました。『どうして彼らではなく、自分が救われたのか?』、どう考えても理由が分かりません。イエスさまは、だれ一人滅びることを願いませんが、正しく見える彼らの救い主ではないのです。わたしのような取るに足りない、罪に負けて生きて来たような者のために十字架に死んでくださったのです。十字架の血は信じない人のためには流されてはいないのです。血が無駄にならないために・・・「限定的贖罪」

 それは、神さまからの一方的なご好意によったのであって、「恵み」以外の何ものでもないのです。罪の奴隷で、乞食のような惨めな私が、「聖」とされたとしたら、恩恵以外には考えられません。わたしに啓示的に示された聖句がありました。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2章8~9節)」・・・「不可抗的恩恵」。

 そんなわたしが、60年もの間、信仰を持ち続けているのは、努力とか精進してきたことが、救いを堅持しているのではまったくないのです。飽きっぽくて移り気なわたしが、まだ信仰の中に留まり続けているとするなら、「子としてくださった」神さまにかかっています。「栄光化」してくださるまで、最後まで支え、守って、保持してくださると信じてやまないのです・・・「聖徒の堅忍」。

 これはカルヴァンやスポルジョンやカイパーが言ったからだけではありません。聖霊なる神が、みことばを通して、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。』と、今も納得させられ続けてくださっているからであります。戦争があるのは、神のせいではなく、人の欲と頑なさ、罪によるです。ただ神にのみ栄光がありますように!

(「ジュネーブ」の街の風景です)

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一瞬、そして永遠を

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 「ダビデの賛歌」に、次のようにあります。 

 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇1392324節)』

 時には、瞬間の「一瞬」と「とこしえ(永遠/永久)」があると言っていいでしょうか。次の一瞬を、次々に重ねて「時」が刻まれ、やがて分岐点に到達するのだと、聖書は言います。

 家内の母親は、筑後川で泳いだお転婆娘で、少女期には夏場、真っ黒だったそうです。天皇陛下だか皇族が、義母の街にやって来られた時に、お茶出しに接待嬢として奉仕したそうです。また最初の子を産んだ後に、天皇家の世継ぎの子(平成天皇として即位されます)の乳母候補にもなったそうですが、自分の子の養育を優先したのでしょうか、栄誉ある機会を、鄭重にお断りしたそうです。

 そんな義母は102歳で帰天したのですが、一緒に生活していた頃、よく言っていたことがあります。『ついこの間〈こんにちは〉と生まれてきたのに、もう〈さようなら〉と言わなかればならない、わたしの人生は瞬きの間のようでした!』と言って、老いを生きていました。

 戦後、食糧事情の悪い時の五人の子の養育は、東京では大変だったようです。埼玉県の農村に、嫁入りの時に持参した着物を持っては、食べ物と交換して生き延びたのだそうです。家内は、義母と一緒に電車に乗って出かけたのです。それで、身体を壊してしまいますが、アメリカ人宣教師との出会いを通して、クリスチャンとなります。それから、その信仰を全うしたのです。

 「時」について、聖書に次のようにあります。

 『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。 働く者は労苦して何の益を得よう。 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3111節)』

 神の創造の世界にも、人の営みにも、「初め」があって、「終わり」があるのだと言うのです。では一体、「瞬きの間」とか「一瞬」とか「刹那(せつな)」とか「たちまち」とは、どれほどの時間を言うのでしょうか。それを、ドイツ人の生物学者のユクスキュルは、「18分の1秒」だと、科学的に断言しています(「生物から見た世界〈岩波文庫〉)。

 『聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 』(1コリント155152

 人は、「束の間」を生きて、「一瞬一瞬」を重ねて足早に死の時を迎えるのですが、聖書は、厳粛にも、死後の行き先が、二通りあることを記します。朽ちない生を与えられ「永遠のいのち」を生きるか、「永遠の死」を過ごすかです。もし、そうであるなら、人はどれほど厳粛に「今」を過ごしているのかと言うことになります。聖書は、「一瞬のうちに」、「とこしえ」の世界に移されると断言するのです。

 やがて訪れる18分の1秒の「一瞬」を、どこで迎えるか、「光」なのか、それとも「闇」なのか、想像を絶するほどの大きな違いがあります。どこで過ごすかは、「永遠への思い」を創造者によって与えられた誰もの「今」にかかっていることになりそうです。

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友、研ぎ手として

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 箴言に、「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる(27章17節)」とあります。エッサイの8番目の子として生まれたダビデは、まさか自分が神に選ばれた民の王となる事も、救い主の家系となる事も、そのキリストであるイエスさまご自身が「ダビデの子」と認められた事も、まったく考えた事などありませんでした。

 ある人の人生は、自分が考え願ったように展開し、思いのままに生きられるかも知れません。みなさんはいかがでしょうか。『したい!』と願ったような仕事についておいででしょうか。結婚も、『この人』と願った通りだったでしょうか。老後だって、『あんな風に生きていこう!』と計画しておいででしょうか。ところが私たちの現実は、ほとんどの場合、願った事とはかなりの差のある所にあります。その差を受け入れ認めて、私たちは今日まで生きて来ているわけです

 ダビデも、父の羊を分けてもらって、一家を成し、平凡に牧羊業を生業として、一生涯をベツレヘムの周辺で生きて行く以外の可能性を、考える事がなど出来なかった事でしょう。そんな彼が、牧場から連れて来られて、預言者サムエルの前に立ちますと、万物の創造者でいらっしゃる神である主が、「この者がそれだ(12節)」と言われたのです。としますと、主には、ダビデの人生に特別で明確な計画をお持ちであったことになります。

 エレミヤ書に、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ~主のみ告げ~それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ(29章11節)」とあります。これはバビロンに捕囚として引かれて行った民の残りの者たちへの主のことばです。主なる神さまは、一人の人の人生だけではなく、民族や国家にも計画をお持ちなのです。この「計画」とは、目的や意味のことであります。

 ダビデの71年余りの生涯にも、主は「計画」をお持ちだったのです。私はこれまでの年月、1つの願いを持って生きてまいりました。牧師として、わたしを任職するために、アメリカから Thomas さんが来てくれたのです。彼は、『私の牧会上の節目となったのは、一人の忠実な若い兄弟が救われてきて、彼と彼の家族が私と共に立ち、私を支えてくれた事だった!』と分かち合ってくれたのです。

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 その日から、彼の言葉が私の心の中に1つの願いを生み出し、その願いを持ち続けて今日まで生きてまいりました。自分の弱さを知っても祈ってくれる友、他者の中傷や非難の言葉に同調しないで、共に立ってくれる友、互いに祈り合い、忠告し合い、赦し合える、“ No ! “ と言ってくれる《信仰の友》の出現を期待したのです。教会の外にではなく中にでした。

 私は、一時期、ダビデを語り続けたことがありました。彼もまた一人の人としての「弱さ」を持っていることを知って、大変に安心させられたのです。もちろん私が罪を犯す事の言い訳のためではありませんでした。人の弱さや罪性が暴露されるのは、私たちの人生の計画書をお持ちの神さまが、私たちの安全と保護のためになさる事なのです。その同じ罪を犯し続けることのないためにです。決して私たちを断ち滅ぼそうとされているのではありません。

 ダビデは、あのバテ・シェバとの破廉恥な罪の後、どのように生きたのでしょうか。それをうかがい知る事の出来る記事が、列王記第一にあります。「・・彼女を知ろうしなかった(1列王1章4節)」のです。この娘は非常に美しかったと記されてあります。彼が老人であったから卓越し、達見していたからだけではなかったに違いありません。彼は、意思して、女に触れようとしなかったのです。赦しの確信を持っていたからです。

 「人はその友によってとがれる」は、ヘブル語原典では、「・・友の〈反対・怒り・顔つき・支持・賛成・受け入れetc. )によってとがれる」とあるそうです。神さまはご自身の計画の実現のために、神さまの御心に適った者とするために、私たちを放っておかれません。生まれながらの感情や習慣のままに生きることから連れ出して、神さま好みの人造りをなさるためにです。そのために「友」を用いられます。一人の人を取り扱って、神の御心に適った人とするために「研ぐ」のです。

 そのような使命を担って私たちのそばに送られる人を「友」と、今朝のテキストは言うのではないでしょうか。きっとみなさんにも、多くの友人がおいででしょうね。神さまに遣わされた人が、罪を犯しているなら、あなたの言葉や顔つきや反抗的な態度で、彼を傷つけて、研ぎ上げて上げられるでしょうか。

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 それとも盲目的に友人のままで、彼の過ちを黙認してしまうでしょうか。聖書に、「愚かな者の友となる者は害を受ける(箴言13章20節)」とあります。害を受けないために、『知恵のある者と共に歩みなさい!』と言うのです。そうすれば、「知恵を得る」のです。

 ダビデにとって、ヨナタンもナタンもフシャイもイタイもバルジライも彼の友でした。彼らはみなダビデの<研ぎ手>でした。とくにナタンの言葉は、鋭く彼に迫りました。ダビデの犯した罪を認めさせ告白させ悔い改めさせているのです。またヨナタンからの「女にも勝る愛」は、親切で温かな言葉と応対とで、絶望や悲観と言ったマイナスな思いを、ダビデから削り落として、生き延びる明日への希望、エレミヤの言葉によりますと「将来と希望」を与えることができたのです。

 もう一人、ダビデの近くに、神さまが人を置かれました。母違いの姉ツエルヤの子ヨアブです。この二人は、オジ甥にあたります。 彼は3人兄弟の次男でした。この3兄弟をダビデは、「私にとっては手ごわすぎる」と言いました。それは、反抗的な問題児、「トラブル・メーカー」と言う意味なのです。多分、ヨアブはダビデの近くで育ったようで、年令も近かったのです。また互いの背景を熟知していて、弱さも強さも知り抜いていた間柄だったと思われます。

 そんな問題児で心配の種だったヨアブは、ダビデが死ぬまで終生離れないで、まったく反逆心を持たなかったのです。軍事的には有能な戦士として、ダビデよりも優れていただろうと言われてます。ただ政治的な手腕や才覚についてはダビデに劣っていたのですが、決定的な違いは、神からの「祝福」のあるなしでした。

 ヨアブについて次のような記事があります。「この知らせがヨアブところに伝わると~ヨアブはアドニヤにはついたが、アブシャロムにはつかなかった~(列王記第一2章28節)」、ダビデの軍の総指揮官だった彼は、ダビデの三男のアブシャロムが、父に反逆して謀反を起こしたとき、アブシャロムに加担しなかったと言うのです。もし彼がアブシャロムに加担していたら、ダビデは殺されて滅んでいた事でしょう。でも彼は落ち目のダビデを選び、日の昇る勢いのアブシャロムを切って捨てたのです。

 この記事を読むときに、どうしても思い出すのが、イエスさまを裏切ったイスカリオテ・ユダです。エルサレムの宗教界と政治界から律法の違反者で神を汚す者として大反対を受けたとき、ユダは、イエスさまを捨てたのです。そして銀貨30枚で売ってしまいます。イエスさまについて行けば、仲間として断罪されかねなかったからです。

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 日本中が、天皇を選び、イエスを捨てた時期がありました。教会は天皇かイエスの二者択一の岐路に立たされたのです。日本人であり続けるか、イエスさまの共同体にとどまるかを迫られます。太平洋戦争の渦中の事でした。多くの教会が、天皇皇后の写真を講壇の上に掲げてしまいました。教団の指導者たちは、伊勢神宮に、戦勝祈願のために参拝もしてしまいました。多くの教会は天皇を選んでしまったわけです。

 岐阜県下で伝道し、現在もいくつかの教会を持つ「美濃ミッション」というグループがあります。戦時下のこと、その教会の小学生が、修学旅行に伊勢神宮詣でをする事になっていたのですが、それを拒否して参加しなかったのです。教会の教えに従って、イエスを選んだわけです。『非国民!』との轟々の非難が湧き上がりました。戦争が終った時、現人神と祀り上げられた天皇は、「人間宣言」をしました。<恐れ>は誰にもあります。みんなの中からの孤立は命取りです。でもあの小学生たちは、みことばに従ったのです。小学生が、そのような信仰の立場を、教会と家庭とで学び継承していた事に、実に驚かされます。

 さて時を読む人は、あのアヒトヘルのようにアブシャロムを選ぶのですが、ヨアブは、この大きな試練に勝ったのです。そう言った人物をダビデは近くに持っていたのです。ところがヨアブは、アブシャロムよりもはるかに小さな人物のアドニヤに加担してしまいます。アドニヤは、ダビデの子でしたが、ソロモンが王となることに反対して立ったのです。そんな人物に、このヨアブはついてしまったわけです。大きな試練に勝った彼が、小さな試練に負けてしまったことになります。

 そんなヨアブを、ダビデは嫌わないで、「研ぎ手」としてそばに置き続けたのです。でもソロモンが王位を継承する時には、息子には不用な人物だと決めていたのです。それでヨアブを、「・・安らかによみに下らせてはならない(2王2章6節)」と言い含めたのです。みなさんにも、そんな「研ぎ手」がおいでなのでしょう。

(“ Christian  clip art “ のイラストです)

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雷様に夏花

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 昨夜半に「雷様(らいさま)」が大荒れしていたのですが、嵐の前に撮った、隣家の庭に咲いた花、薔薇の一種でしょうか、栃木県(茨城も福島も)では、雷が多く、これに「様」を付けて、「らいさま」と呼びます。

 『熱い夏の日。急に空が暗くなって、冷たい風が吹いてきたら、どこからともなくゴロゴロゴロゴロ。「ほら。らいさまがくっから、へそ隠せ」ってばあちゃんの言葉を合図に、ゴロゴロゴロピカーンって登場するんだ。そう、おいらの名前は「雷様(らいさま)」さ。かみなりさまじゃないよ、らいさま。ここいらではそう呼ばれてるんだ。
 
 栃木県は、日本でも有数の雷の多い県。雷銀座なんて呼ばれることもあるんだ。宇都宮市の年間の雷日数は、関東で第1位。夏季に限ると、全国第1位の多さなんだ。その理由は地形にあると言われていて、北部に2,000m級の山岳があって、南東方向に山の斜面が開いているから、日射を強く受ける。そして夏季は南よりの風が吹きやすいから、強い上昇気流がおこっておいらが発生するのさ。
 
 昔からとっても身近な存在だったからこそ、らいさまなんて愛称で呼ばれていたのさ。かみなりさまより、ちょっとかわいくて、かっこいいだろ?そうそう。もしおいらが鳴ったら、へそを隠すように頭を低くして、安全な建物にすぐ避難するんだぜ。そういう意味で、ばあちゃんたちは「へそ隠せ」って言ってたんだ。ばあちゃんの知恵ってすごいだろ。おいらが来たら、ちゃんとへそ隠して逃げるんだぞ!

 宇都宮市は、「雷都(らいと)」と雷を愛称に取り込み、地元産のお菓子の名前などに使用している。(「栃木の百様」から)』

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 轟く雷鳴、煌めく雷光、車軸を流すようなな雷雨、大陸の雷を思い出し、〈雷好き〉のわたしは、ここ栃木に住んで満足なのです。それにしても、実に gorgeous な咲っぷりなのです。花のいのちも、人のいのちも、『短くて!』ですが、咲いても咲かなくても、先っぷりが良くても悪くても、短い一生、精一杯生きたいものです。
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孫の初恋に 

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 1897年(明治30年)に、「若菜集」と言う詩集が発刊されました。島崎藤村の書いたものです。その詩集に、「初恋」と言う詩が所収されています。

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

 先日、次女から facetime がありました。子どもたちは、それぞれに用があって出掛けており、婿殿も仕事中、彼女は暇をしていたのか、親元に近況を伝えてきたのです。

 最近の子どもたちや友人、私たちの知人のことなどを話し始めて、上の息子の話になりました。その三日ほど前に、Coast  にいる、愛妻を亡くしたお父さんを、家族で訪ねた時の写真が、message と共に送られてきていたのです。その写真に、孫たちの間に、一人のお嬢さんが写っていました。私たちにとっては外孫、彼の友だちだそうで、名前も書いてありました。

 しばらく前に、他の州から越して来られ、同じ教会のメンバーで、行き来があるのだそうです。そのお嬢さんが『好きだ!』と、親に打ち明けたのだそうです。それを知って、きっと母親としては〈複雑〉な思いに揺れたのでしょう、なんとなく私たちに知らせるための連絡でした。

 娘が結婚してから、間も無く日本にやって来て、長野県下の高校で、婿殿が英語教師をしていたのです。それからしばらくして妊娠した娘は、胎児のエコー写真を、私たちの家を訪ねた時に、母親になる喜びで見せてくれたのです。しばらくして、彼らの家を家内と二人で訪ねた日は、市立病院の診察日だったのです。しばらくして帰ってたのですが、二人とも車から降りて来ませんでした。

 実は、胎児が亡くなっていて、それを知らせるのを躊躇していたか、悲しみで、私たちの前に立てなかったのか、辛い経験があったわけです。私たちは、彼らを慰めて、別れを告げて、甲府の家に帰ったのです。それからしばらくして、赤ちゃんができたことを知らせてきました。

 その赤ちゃんが、生まれた時、牧師会が熊本であって、家内と私は、二人で出掛けていました。その訪問先の友人宅に、産後直後に、とても嬉しそうに、『男の子が生まれたの!』と知れせてくれた、その子の《初恋》を、今朝知らせてきたわけです。お母さんには、そんな経緯で生まれた子が、初恋の相手に奪われるような思いがあるのでしょうか。心の思いが揺れるのでしょうか。

 そんなこと言ったら、ゲンコツをもらいそうで、わたしは言えなかったのに、孫は、両親に、そのことを告白したのです。秘密にしないで、心の中に芽生えた恋心を知らせたのです。娘曰くそれは《初恋宣言》でした。ほかの子に、そのお嬢さんに approach をかけられる前に、はっきりと表明をしたわけだと言うのです。

 二人の様子を、これから安心して眺めていけるのは、素晴らしいではないでしょうか。多くの若者たちが秘密裏に、コソコソとするのですが、孫ベーは、隠し立てをしなかったわけです。思春期の大切な感情の発露を、愛でて祝福しようと決心したのです。

 相手を大切にして、互いが励ましあったり、学びあって、その恋が、どのように導かれていくかを、見守ってくれる双方の両親と、そして何よりも、そのような感情を、与えてくださった創造の神さまの前に表明し、心の中に置いたと言うことは、感謝だなと思っています。

 乱雑で密やかな恋がもてはされて、結局は、傷つけたり傷ついてしまう若者の多い現代、幼い恋愛を大切にしてあげるのが、太平洋を隔てた此方のジイジとバアバのして上げられることなのでしょう。近所の女の子、クラスメート、年上の先輩など、気の多い自分が好きだった女(ひと)を思い出して、そっと家内を見てしまいました。

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瓦礫の中のショパン

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 長期戦になると伝えられている「ウクライナ戦争」に心痛めているわたしは、以前観た「戦場のピアニスト」と言う映画を思い出しています。この映画の圧巻は、爆撃され倒壊したガレキの中から、ショパンの名曲が聞こえてくる場面です。廃墟のガレキの中に、まるで、「いのち」が注入されるかのように、吸い込まれて行くのです。

 戦争で荒廃したのは街だけではなく、人の心でした。ドイツ軍将校の前で、ピアノが弾かれるのですが、渇き切ったナチス・ドイツの将校の心の中にも、流れ込んで行きます。戦場でも、人間の営みの高貴さが残され、音楽の素晴らしさと言うよりは、「高尚な世界」が乱世の中にも残されていたのだと言うような、強烈な印象を受けたのです。

 その映画を観た直後に、近くの町の図書館で、講演会があり、時間がありましたので、家内と一緒に聴きに行ってみました。演者は、当時、拓殖大学の客員教授で、「日本史」を研究されているスピルマン氏で、この映画の主人公の実の息子さんだったのです。彼は、1951年の、第二次世界大戦後に生まれた方で、父39才の子だと言っておられました。 

 その講演では、ユダヤ人の民族的背景を持っている彼が、自分の父を客観的な目で語っておられました。ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)で、父や母や親族や友人を失った父スピルマンは、生き残ったことの罪責感に苦しんで戦後を生きたそうです。父から戦時下の体験をまったく聞いたことのなかった彼は、父が、1945年に著わした「戦場のピアニスト」という本を、12才の時に見つけて読むのです。それで父の体験を初めて知ります。彼がまったく父の過去を知らなかったのは、話してくれる親族が死んでいなかったからでもありました。

 父スピルマンは、戦後を忙しく生きることで、その体験を思い出さないようにしていたそうです。そのような父親でしたが、年をとるにつれ、忙しくなくなるとポツリポツリと、長男である彼に体験談を語ったのだそうです。その本が再び日の目を見たのは、ドイツ語訳で、1987年に再版されてからでした。そうしますと話題をさらって、英訳や仏訳が刊行され、すぐに完売してしまいます。映画監督のポランスキーの手で「映画化」が決まりました。その翌年の2000年7月5日に、父スピルマンは召されて逝きます。

 ご自分の父を、『彼は真面目だった!』と言っていました。1つは音楽に関してです。音楽を食べるための道具にしなかったのだそうです。どのようなジャンルの音楽にも関心を向けたそうです。ジャズも好きだったそうです。そして極限の中で、自分が発狂することもなく、自殺からも免れることが出来たのは「音楽」だったそうです。

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 もう1つは「人種問題」でした。『人を個人として見るように!』と、息子の彼に言い続けたそうです。『どの民族にも、よい人も悪い人もいること。民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない!』そういった信念の人だったようです。

 でもユダヤ人の血と言うのでしょうか、アブラハムの末裔といったら言いのでしょうか、この父スピルマンの信念や生き方は、やはりユダヤ的なのではないかと感じられました。映画の中に出て来た、あのドイツ人将校は、カトリックの信者で、ドイツの敗色が強くなったので、助命のために父スピルマンに親切にしたのではなく、いつも常に、人道的に親切な人だったようです。あの時のヒーローは、父ではなく、父を命がけで助けたワルシャワの友人たち、そしてあのドイツ人将校だったと言っていました。

 一時間半ほどの講演でしたが、聖書の民の1つの足跡に触れることが出来、とても感謝なひと時でした。この父あってこの息子でした。どのような名の下に、どのような理由の下になされても、『戦争反対!』を叫びたい、間も無く六月を迎えようとしてる今です。

 

(破壊前のウクライナの首都・キーウです)

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