良き友、メンターを持つこと

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イスラエルの国に伝わる故事に、王である父親に、弓を引いて、謀反を起こした息子の物語が残されています。息子が自分の野心を成就するためにしたことを、国民の「心を盗んだ」と、そこに記されています。

 父親に相談を求めて、訪ねて来る者を、父の家の門に通じる道のそばに立って、その一人一人の訪問客を、その息子は呼ぶのです。そして、『お前はどこの町の者か?』と問い掛けます。どこの部族かを聞き出すと、今度は、『お前の訴えようとしていることは好くて、正しい。でも、王の配下には、お前の訴えを聞いてくれる能力のある器はいない!』と言って、暗に、自分には、その能力があり、その器であることを示すのです。

 自分に挨拶をして、近づく者全てに、この息子は、手を差し伸べて、抱いて、口付けまでするのです。人を、<手懐ける術>に長けていた息子は、そのようにして、人の心を盗んで、自分に靡(なび)かせていったのです。どうも、そのような術策を、彼に勧めた腹心の部下がいた様です。人は、どんな人格、どんな価値観、どんな計画を持つ者を、自分の「相談者」にするかによって、成功と失敗の違いをもたらすのです。

 父親は、そんな巧みな方法で、野心を遂げる息子に手出しをしませんでした。自分の街や国に混乱が起こるのを避けて、泣きながら都落ちをします。その時、父親は、かつて自分の優秀な議官であった者が、息子の<メンター/ mentor /助言者>になったことを、部下から聞くのです。この息子の助言者は、驚くほどの知恵者であったのです。父親は、『もう駄目だ!』と思ったのでしょう。でも、息子をなじることはしませんでしたが、『この助言者の語る言葉が、愚かなものになる様に!』と叫ぶのでした。

 その叫びが叶うのです。息子の助言者になっていたのが、もう一人の自分の部下でした。父親は、この部下に、『あなたのお父上の議官をした方の今回の謀(はかりごと)は良くありません!』と言わせるのです。息子は、その助言を聞いてしまうのです。結局、この策謀が成功してしまいます。自分の進言が取り上げられないことを知った、智者は、家を整理し、故郷に帰って、自殺をしてしまったのです。

 正しくない心を持つ助言者の末路は哀れです。結局、父は、息子を討ち取ることになります。その死んでしまった息子の亡骸を抱いた父親の嘆きは、人並みではなかったのです。戦乱の世とは、実に大変な時であるのですね。この父親のことが、次の様に書き残されています。『すべての国民を、あたかも一人の人の心の様に、自分に靡かせた!』とです。

 私たちの国の政治指導者が、どんな助言者をもっていたのか、また、どんな財政的な援助者がいたのかが露呈して、この「故事」を思い出しました。指導的な立場の人が、どんな助言者、メンターを持ち、どんな進言や助言、試案に耳を傾けるのか、興味津々で見守っていきたいと、思わされています。願わくば、人や祖国への愛とか優しさとか、公正さとか正直さを持つ助言者を、持たれるように、心から願うものです。そして、わたしたちも、どのようなメンター(忠告者)を持ち、どんな忠告や進言や術策に耳を傾けるかは、とても大切なことであります。そして、「良き友」を持つことです。彼こそはメンターとなりうる人だからです。

( “ キリスト教クリップアート“ のイラストです)

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悲しい別れ

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 このブログは、16年前の2006年3月26日に投稿したものの再投稿です。

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 『俺って、お袋に抱かれたことがないんだ。オヤジが誰なのかも分からない。生まれて、すぐに道端に捨てられていたから。拾って抱き上げて育ててくれた人がいる。あの日に死んでいたはずの俺なのに。この人は、震えていた俺を抱いて、あやして名前までつけてくれた。

 でも、世話をし続けることが出来なくなって、別の家族に引き取られてしまった。そこでも、十二分の愛情を注がれて育てられた俺だけど、外の世界の自由な空気を吸いたくて、ついに飛び出してしまった。生きる術などまったく知らなかったし、どうやって、自分で食べて行ったらよいのかも学んでいなかった。外の世界の現実は冷たかったのだ。物音におびえ、足音や車のきしむ音が聞こえると影に身を潜めた。

 おなかのすいた俺は、申し訳ない思いを持って、主人の所に舞い戻ったのだ。そこには、俺を養い育ててくれた人が、心配して外で帰りを待ち望んでいたのだ。そこに申し訳ない思いを込めて、『ニャーオ!』と鳴いて走り寄って、主人の腕の中に飛び込んだ。食べることも、眠ることも出来なかった俺を、再び暖かく迎え入れてくれたのだ。感謝なことである(「放蕩息子物語~ネコ・バージョン~」)。』

 この「俺」は、猫の「タッカー」なのです。南信の飯田の町の道端で震えて鳴いていたのを、娘婿が拾い上げて家に連れ帰って、育てた猫です。アメリカに帰って行く時に、どうしても連れて行くことが出来なくて、私と家内が adapt アダプトしたのです。来客があったとき、玄関から走り出て二泊三日の「脱走」をしたました。娘が、「ネコ寄せネズミ」を置いていったので、それを持っては外に出て、玄関で振っては、帰りを待っていたのです。

 すると、『ニヤーオ』と一声鳴いて車の陰から走り出て来たではありませんか。食べられない眠れない数日を過ごした彼の帰還を祝って、その晩、缶詰を切ってお祝い会を開いて上げたのです。実に美味しそうに食べ終えたら、彼の所定の場所、茶箪笥の上に行って、そこで2~3日、眠り続けていました。実はもう一匹、娘婿が拾ってきた「スティービー」も我が家にいるのです。彼女は、タッカーの脱走中に、三日ほどまったく落ち着きを失って、異常な行動をとっていたのです。

 ところが、《お兄ちゃん》が帰って来ましたら、その歓迎振りはすごいものでした。二匹とも野良猫だったのを拾われた境遇を同じくしていたので、兄のように慕って、共に過ごしてきていましたから。

 まったく捨て猫で野良猫のような私を、万物の創造の神が、御子の十字架の血の代価で、買い戻してくれて、養子縁組によって、「子」の身分を与えてくれたのです。そして、何と「共同相続人」にもしてくれたわけです。ところが自分勝手の道に迷い出た時も、しっかりと見守っていてくださって、『帰って来る!』と確信して待ち続けてくれたのです。帰って来た時、わたしを見つけ、走り寄り、ハグしてくれ、口づけまでしてくれました。ボロ着を脱がせて一番上等な着物を着せてくれ、指輪をはめ、靴を履かせ、祝宴を催してくれたのです。

 今回のタッカーの脱走劇から、なぜか二重写しに自分の姿を見たようでした。私は、『大好きな俺のとうちゃん!』と、父なる神を呼べるように復権してくださったわけです。感謝なことであります。

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 この投稿から4ヶ月後、わたしたちは、香港経由で北京に行くことになったのです。この二匹の猫を、保護センターに連れて行かなければなりませんでした。情が移っていた二匹と、そういった別れをしなければなりませんでした。

 猫嫌いなわたしが、猫の可愛さを知って、懐かれ、すり寄られる喜びを知っての別離は、泣きたいほどでした。持ち物のほとんどを処分してしまっても、生き物との別離は悲しかったのです。冬用のセーターを、中国に持っていったのですが、家内は、スティビーの毛を、そこに見つけて泣いていました。

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山口県

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 フグ料理のフグ刺しで有名なのが、「下関」だと言われていて、下関市の唐戸市場で行われる、「ふくの競り」が有名です。下関では、濁音で言わずに、「ふく(福に因んでの呼び方をするようです)」と言い、初めてのただ一度の「ふく刺し」を、ご馳走になって以来、「永遠の幻のふく」なのです。
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 テレビの番組で見た、腕カバー( arm cover  )のような袋の中で、売り手の競り人と、買い手の卸商が、指を触れ合いながらする「競り」が有名で、「南風(はえ)止まり市場」で行われている、この「ふくの袋セリ」と言う実に独特な光景があります。

 そんな関係で、山口県は、心のふるさとでもないのですが、「美味いもんのふるさと」と言えるでしょうか。一緒に出張した研究員で、父よりも少し若かったでしょうか、親の世代の方が可愛がってくれて、「ふく刺し」を、『こんなに美味い物があるのか!』と、感動的に初めてご馳走になったのです。

 干した河豚は食べたことがありますが、あれ以来、五十数年経ちますが、二度目はまだなのです。子育て中にも、子育てが終わった今でも、【ふく刺し=贅沢】が心と胃袋に刻まれていて、弱虫なわたしは、食べたさに耐えている現状です。ただ、どなたかに二度目を要求しているのではありませんので、お心遣いなさらないでください。

 山口県の第一は「ふく刺し」ですが、第二は、長州藩士の高杉晋作を生み出した地であることです。明治維新前夜、憂国の士として活躍した高杉に、青年期のわたしは、強烈な印象を受けたのです。1835年(天宝十年)に、日本海側に面した「萩(はぎ)」の長州藩士の子として誕生しています。

 この長州藩の祖である、毛利元就(もとなり)には、「三本の矢」という、有名な逸話が残されています。元就自身、幼少年期には辛い経験を解いたのですが、養母の愛に支えられて成人し、武に長け、知にも長けた戦国の武将でした。授かった三人の息子を寄せ集めて、教訓を垂れたのです。

 隆元・元春・隆景の息子たち三人に、一本の矢を持たせて、それを折らせます。その後、各自に三本の矢を持たせて折らせると、折れなかったのです。父亡き後、三人が心を合わせ、協力し、助け合うなら、毛利家は子々孫々安泰であることを教えたのです。それは長州藩の藩訓であったのです。

 藩黌の「明倫塾」、吉田松陰の「松下村塾」、幕府の学問所の「昌平黌」に学び、「柳生新陰流」の免許皆伝で、尊王攘夷を掲げ、日本の変化を求めた幕末の志士でした。
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 1862年に、上海に派遣されて、そこで目撃した当時の清国の窮状、アヘン戦争後に起こった、洪秀全らによる「太平天国の乱」の乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)の実情とアヘンに苦しむ支那人の様子を見て、『支那の次には、日本も欧米諸国に植民を許してしまう!』との危機感を、高杉は感じたのです。

 また、〈試撃行〉、つまり『剣術修行を兼ねて各地を回りたい!』と願って、晋作は、武者修行に出立します。茨城や栃木を訪ねたのですが、どこでもその機会を得なかった晋作は、三万石の鳥居家の城下町、壬生で念願の手合わせをします。その相手は、神道無念流の斎藤道場の剣士たちでした。晋作は、21歳、相手の松本五郎兵衛は58歳でした。他の門弟を相手にしましたが、晋作は一本も取ることができなかったと、言われています。

 その後、剣術の修行をあきらめた晋作は、「奇兵隊」を指揮し、幕府軍と戦ったりしましたが、明治維新の前の年、1867年(慶応三年)に、下関市桜山にて、27歳で、肺結核によって亡くなっています。有名な辞世の句は、「面白くなきを世をおもしろく」だったのです。

 高杉晋作は、伊藤博文や木戸孝允に勝る人材だったそうですから、病没しなかったら、維新政府の牽引者となったと惜しまれた逸材でした。わたしたちの住む栃木の巴波公園の中に、長州藩士の墓が残されています。戊辰戦争の小競り合いが行われ、長岡、宇都宮、会津、五稜郭(函館)と戦いが続けて、この戦いは終わっています。

 長州、薩摩両藩が、明治維新政府の要職について、日本の政治や行政が行われ続けて行ったわけです。もう何年も前に、次男が仕事で、会津に出掛けて、タクシーに乗ったのです。運転手との話の中に、会津のタクシーには、『長州人は乗せない!』との不文律があるのです。100年も前の戊辰戦争の時の長州藩士の所業を、今もなお赦せないでいる会津の怨念(おんねん)を感じているのだと、話してくれたことがありました。

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 この長州は、毛利家への徳川幕府の改易、減封などで、やはり徳川への遺恨があったのです。豊臣氏寄りの毛利の立場に対しての徳川家康の恨みが原点にありそうです。派遣争いは、この世の権力者間の常であって、「遺恨」は付き物なのでしょうか。「江戸の仇を長崎で」、関ヶ原の恨み、会津の恨み、人間の恨みが非建設的であって、聖書が説く「赦し」や「和解」に現代人のわたしたちは聞くべきなのでしょう。

 律令制下では、長門国(ながとのくに)と、周防国(すおうのくに)、人口は132万人、県都は山口市、県花は夏みかんの花、県木は赤松、県鳥はナベヅルです。ここも馴染みの少ない県なのですが、下松市で行われた教職員研修会で、出張したことがありました。でも、その時のことのきおくがほとんどないのです。

 日本の政治指導者を多く輩出した県で、先頃、テロ事件で亡くなった安倍元総理の父親も祖父も、この県下の選挙区から政界に進出していて、「長州」の威光は、明治150年を経ても、今なお輝き続けているのです。ただ、母の父親は、下関の人だったと聞いたことがありますので、血統的に、この県は近いのかも知れません。

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行く夏を惜しむ

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 2010年の8月、多摩川の河川敷で行われた、聖蹟桜ヶ丘花火大会に出掛けました。次男が、母親とわたしを招待してくれたのです。残念ながら家内は、どうしても他に用があって行かれなかったのですが、わたしだけが、テーブルと椅子の置かれたれ一等席に座って、tablet で注文してくれた デリバリーのビサを食べながら、見上げたのです。

 隅田川、新潟の長岡の信濃川の花火大会が有名でしたが、行ったことがありませんでした。尾崎士郎の「人生劇場」を読んだとき、吉良常が、上海で花火師となって、夜空を彩った記事に触発された、高校生のわたしは、実現しませんでしたが、〈花火師〉になろうと思ったのです。

 父が、夏になると花火を買って来てくれて、庭先で火をつけてくれて、楽しんだこともあって、楽しい思い出の夏だったのを感謝しています。これは、その夏に書いたブログの記事の一部です。

 『江戸・隅田川の花火を観に行きませんか?』、『長岡・信濃川の河原の花火を観に行きませか!』、と誘われたことがありましたが、一度も出掛けたことがなかった私は、行き帰りの交通の混雑や人ごみを嫌っていたのです。『遠くから眺める街の花火大会で十分!』と決めていた私ですが、今夏の花火大会は、劇場の舞台で見られる演劇のような、実に「観劇」の気分でした。

 無作為に、ドーン!ドーン!と上げているものとばかりだと思い込んでいた私は、裏切られたからです。コンピューター制御で、流行りの歌が流れる中、それに呼応して打ち上げられ、打ち上げられる間隔、間が計算しつくされ、終演の最高潮の場面では、実にその巧みな演出に感激してしまいました。

 しかも、相撲なら「砂かぶり席」、眼の前の上空で、花開く花火は圧巻でした。しかも水面にも写っていたでしょうか。このような経験は初めてのことでしたから、今は、『花火は遠くからではなく、見上げる真下でもなく、特等席で、眼の前の上空で開花する花火に過ぎるものはない!』と言う結論に至りました。

 『来年はお母さんも一緖に観たいね!』と息子に言いましたが、一卓四席で3万2000円だと値段を聞いて、中国のお父さんは驚いてしまったのです。大きな犠牲を払って、楽しませようとした心意気に触れて、親冥利に尽きる感じがいたしました。

 それにしても、 iPadで注文してくれ、配達されたピザを、花火を見ながら夜風に吹かれて食べた味は、表現の仕様がなく格別な味でした!道道買ってくれた「たこ焼き」も、飲料も、飲みながら食べながらの、綺麗で美味しい2010年の8月の猛暑の夏の夕べでありました。』

 1年ぶりに帰国していた私たちが、中国に戻る前に、親を楽しませようとしてくれたのです。今年は、足利でも、小山でも、ここ栃木でも、「花火大会」があるそうです。やはり「夏の風物詩」、行く夏を惜しむ思いを、花火は煽るのでしょうか。

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八月の最上川

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 『 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。 (ルカ2111節)』

 イエスさまが、『あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。』と話された時、弟子たちは、《その日》が、どんな日なのか知りたかったのです。それで、『先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。(ルカ2167節)』と、でしたちは質問し返しました。

 先日のニュースで、『アメリカのニュートークでサル痘激増!』を伝えていました。日本でも数例のサル痘感染者が、帰国したと伝えています。さらに世界では、「マールブルグ病」の流行の兆しをみせていると伝えています。新コロナの感染もまた激増中です。先日は、〈警戒レベル5〉の桜島の火山爆発が起こったと、ニュースが速報していました。

 2週間ほど前になりますが、『ドスン!』と言う物音がして、『ガサッ!』と建物が一瞬揺れたのです。次男が教えてくれた、わがやのペットボトルの地震計が、しばらく波打って揺れを報せてくれていました。この三十数年前に建てられた、石で積まれた建物ではない、堅固なコンクリート製の建物が揺れたのです。

 『語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。(ヘブル人122527節)』

 地震や疫病などが頻発することは、もう一つ重要な意味は、「警告」だと言うのです。堅固に建てられた神殿が、敵の攻撃で崩れ落ちるのとは違って、あらゆる物が、神によって揺り動かされ、崩壊することがあることを、聖書は記しています。

 安逸を貪っている現代人は、盤石な地球の上に生活をしているのではなく、常に揺らいでいる中にあり続けています。ところが、今までにないような形で、地が揺すぶられ、私たちが築き上げてきた物が、揺るぎ、崩壊する時がくると、聖書は警告するのです。

 きっと地位も、名誉も、財産も、人生の確固たる基盤だと信じてきた全てのものも、一瞬にして揺らぐのでしょう。阪神大震災や東北大震災の起こった時、またウクライナ戦争でも、街の伝統ある建物、父や祖父が残してくれた田畑も、地震や火災や人為的なミサイル攻撃で、瞬く間に崩れ落ちる様を見せつけられて、人の築いた可視不可視の一切の建造物が、崩落してしまっています。

 人の歴史の多くは、愚かなことの繰り返しではないでしょうか。神さまは、語っておいでです。『時を読め!』、今が何時だと言うのではなく、どのような時代を迎えているの兆候であるかを知る時なのです。聖書に、次のようにあります。

 『語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。(ヘブル12:25)』

 聞く耳を開いているなら、その警告の声を聞くことができます。この社会の出来事、SNS、噂話にばかり、耳を傾けているなら、その雑音で耳を塞いでしまって、神さまの愛に溢れた、語っておられる声を聞くことができなくさせるのです。氷河が溶けて、海面の水位が上がっていたり、空気や海水が汚染されたり、何よりも、「人の愛が冷える現象」こそが、重要なことを伝えているに違いありません。

 ノアの時代のように、神さまの警告を無視した人々は滅びていったのですが、ノアたち8人は、船に乗って滅びを免れました。気を失うような、また不安や恐怖が、現代人の心を満たしています。芭蕉が、『五月雨を 集めて早し 最上川』と、「奥の細道」に詠んだ俳句の「最上川」が、この八月の豪雨で氾濫したニュースを聞いて、驚いているわたしです。

(最上川二様、下は毎日新聞ニュースからです)

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べえべえ

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 わたしの生まれ故郷には、独特な「方言」がありました。そこで、のびのびと育ったのですが、子どもたちの教育のことを考えた父が、東京に住むことを決めて、南新宿に家を買おうとしました。ところが、これから思春期を迎えて行く息子たちに、歓楽街の近くに住むのは好くないということで、三多摩地区に家を買ったのです。

 そこにも、「方言」がありました。神奈川県に近いからでしょうか、そこと同じような「方言」だったようです。札幌の病院に入院していて、同じ病室の方や、看護士さんや療法士のみなさんの話を聞いていますと、ここにも独特の北海道弁がありました。「語尾」に特徴があるのです。『しばれる』、『おおこわ』と言うのは有名ですから知っていたのですが。親しい人同士だと、語尾が砕けて話しています。

『俺、自動車の運転手してるんさー。』

『(奥さんに)今日市役所に行ってくれるんかい。』

『あの店の焼き鳥がうまいんだわ。』

『あのTシャツ、あの店で売ってるんだわ。』

『先週、留萌に行ってさ。』

『今日はなまら寒いんだわ(とても寒い)。』

 こんなことを聞いていました。これだと、真似できそうで使ってみようかなとも思っていたのです。北海道は、アイヌのみなさんが原住民でして、金田一京助が、このアイヌ語の研究をされたようです。道民の多くの人たちは、日本の各地からの開拓者で、それぞれの地方の言葉を持って、やって来た人たちの子孫の北海道なのです。

 札幌の隣に、「北広島市」がありますが、ここは中国地方の広島からの移住者が多くて、そう命名された街なのでしょう。入院中、入院中の同民に、『先祖は、どこの出身ですか?』と、何人もの人に聞くのですが、『さあ〜』と返事が返ってきます。もちろん転勤でやって来て、住み着いた人もいますし、様々なのでしょう。それまで北海道を舞台にした映画やテレビ劇で、主人公が使っていた<北海道弁>を、生(なま)で聞いていました。

 旭川の近くで育った方が、二度ほど、カップラーメンを、『夜食で食べると、うまいんだわ!』と言ってくれたのです。この方は、開拓農民のお父さんとお母さんに育てられたと言っていました。『朝起きると、肩のあたりに雪が積もっていたさあ!』と言っていました。貧しく、極寒の中を生きてきた人の《逞しさ》が感じられて、同病、同痛、同不安の時を、2週間ほど一緒に過ごしたのです。

 冬場は、雪かきをしないと、道路に出られず、その除雪の仕事をして、ソリやスキーの板を履いて学校に通ったのだそうです。同じ中を生きてきた人と話が合って、懐かしそうに過去を探るようにしておられ、それを側で聞いていたのです。そんな生活でありながら、小中と皆勤だったと、遠慮がちに言っていました。

 ここ栃木の方言は、茨城や福島に近い関係で、それに似ているのです。元ボクサーで、世界チャンピオンだった、ガッツ石松が、俳優に転身して、東北弁風のイントネーションで話していたのを聞いていましたが、彼は東北人ではなく、ここ栃木県の出身なのです。それを聞き覚えていましたので、ラジオ体操仲間のみなさんの口調が、彼に同じなので納得したのです。

 この広い関東平野の外れ、栃木県北部の鹿沼市(粟野村)が、ガッツ石松の出身地で、貧しい中で育ったからでしょうか、彼にも逞しさが感じられます。その語り口が、自分が育った東京都下の三多摩の街のものと、とても似ているので驚いたのです。

【参照】youtube「良い夢を見た男(栃木弁)」

 そう「べえべえ言葉」で、『行くべえ』、『すんべえ』、『けえるべえ』って言ったのです。神奈川県の海老名あたりから、三多摩、群馬、栃木に連なって、そんな訛りがあるようです。山奥から越して来た時、級友たちの話すことばに驚きました。ちっとも東京らしくない、田舎弁だったからです。

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ユダの獅子であること

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 ものすごい迫力、眼力、揺るがない落ち着きを見せていたのが、動物園のライオンでした。幼いわたしの目にも、やはりその名にふさわしい「百獣の王」だったのです。アフリカだか中近東の砂漠だかを舞台にした漫画があって、その中に、このライオンが出てきていました。

 このライオンとは違って、人間と一番近い関係にあるのが、犬や猫です。まるで家族の一員でもあるかのように振る舞っています。ご主人に餌をもらい、犬などは散歩までしてもらう立場を、しっかりと知っていて、今では、服まで着せられています。だから、当然のように飼い主の家は、自分のものにように、外出先から戻ってきます。

 家内が中学生の頃に飼っていた「ジョン」は、交通事故死していますし、弟が可愛がっていた「力(リキ)」は、やむを得ず殺処分してしまった悲しい歴史があります。でも、ほとんどは愛玩動物なのですが、老いて死期を迎えています。

 そのライオンは、どうなのでしょうか。草原では無敵、我がもの顔をして、草原最強の獣の座にあります。でも動物園以外では、厳しい時をやがて迎えるのだそうです。怪我や病気などで少しでも弱くなってしまうと、草原の力関係は逆転してしまうのです。虎視眈眈(こしたんたん)と餌を狙うハイエナなどの餌になってしまうのです。

 人のように白髪の老ライオンは見られない世界ですから、老齢保険も老人介護施設や特老もなく、次の世代の草原の支配体制に移り変わっていくわけです。ところが万物の霊長としての人には、神の創造の中で、老齢期の祝福を定めてくださっています。

 『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。(レビ1932)』

 聖書、預言書の中に、「王」としてのライオンが出てきます。やがて、「獅子のような王」が来られるとの予言です。それこそが、神の御子イエスさまで、この方は、「ユダの獅子」という呼称をもって呼ばれています。

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 『すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」 (黙示録55節)』

 最初に来られた時は、「僕」の姿でおいでになられましたが、再臨の主は、「王」として来られ、名実ともに全天全地を、やがて支配なさるという預言なのです。そのおいでの時が迫っているようです。その兆(しるし)が、天変地異の災害が頻発し、恐ろしい疫病が蔓延し、国家間の戦争、民族対立、人の愛が冷え、エルサレムが軍隊に囲まれるなどが、顕著な様で起こるただ中に来られると預言されています。

 イスラエル民族の動きが、その時の流れの「日時計」だと、わたしは宣教師から学びました。エルサレムが陥落し、世界に離散した彼らが、ほぼ2000年ぶりに、アブラハムに与えると約束された、《シオンの地》に、「イスラエル国家」が建国されたことは、刮目(かつもく)すべき出来事でした。

 『それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ。――その日にはもはや、「イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。」とは言わないで、ただ「イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておらる。」と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」(エレミヤ1614-15節)』

 『恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東からあなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって「引き渡せ」と言い、南に向かって「引き止めるな。」と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。(イザヤ435-6節)』

 わたしの母は、このイスラエルの都・エルサレムの空港に、飛行機から降り立った時、地に臥して、接吻をしたのです。幼い日に出会った主イエス・キリストが、信じた自分の救いのために、十字架に死なれて、贖いのみ業を成就し、葬られた後、3日目に蘇られたことへの感謝だったのでしょう。その様子を見て知らせてくれたのが、同行されたわたしの知り合いの牧師さんでした。

 これから、北からの軍隊が、この国に攻め上りますが、瞬く間に、神のみ手によって滅ぼされます。人がすることが、こんなにも酷く非情なのです。しかし、これからの日、神さまのなさる良き御業を、わたしたちは驚きの目で見ていることにいたしましょう。この再臨のイエスさまは、イスラエルの民にとっても、王家の血筋である「ユダの獅子」として、迎えられるのです。

 そう言えば、わたしたちは、たとえ死んでも、やがて「キリストの日」に、「不死」を着て、永遠のいのちに蘇るのです。その様子は、私たちの人生の一番祝福されて、輝いていた時の容姿なのだそうです。祝福の時の到来であります。

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さあ賛美しよう

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 私には、特愛の賛美があります。讃美歌や聖歌も好きですが、母教会を訪ねてくれたアメリカ人の伝道者が紹介してくれて、翻訳した「新しい歌」ででした。

 『新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。(詩篇333節)』

 詩篇や新約聖書のみことばにmelody を付けた chorus でした。単調な melody を繰り返し歌って、神を賛美するのです。

なが瞳のように守り 死ぬことのないように

御翼の陰に われをかくまいたまえ

 昨晩、想いに中に、ずっと繰り返されていた、賛美chorus  でした。これは聖書のみことばに、melody をつけたものです。

 『私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。(詩篇178節)』

 旧約時代のイスラエルの王、ダビデの祈りのことばに、melody をつけたq賛美です。どんな堡塁も、砦も、人の作ったものの中にではなく、万物を創造し、保って、支配しておられる神への絶対的な信頼を告白する、ダビデの賛美に、現代的なblues jazz melody をつけて、おもにアメリカの教会で歌い始められたのものでした。

 1960年代の終わりの頃に、一人の説教者が、アフリカに遣わされて、宣教をしている教え子を訪問する旅の途中に、私たちの母教会に来られて、この賛美の歌を、何曲も紹介してくださったのです。その一つに、

“ making melody in my heart ,  making melody in my heart ,  making melody in my heart , unto the King of King ・・・“

 『心の中でメロディーを〈3回〉王の王のささげよう!』と歌ったのです。原曲なのかどうかは分かりませんが、日本の音楽風に、少しアレンジしたのかも知れません。その単純さが素敵でした。もちろん、伝統ある讃美歌のメロディーも歌詞、邦訳されたものも、当時の信仰の真実さがあふれていて素晴らしいではありませんか。

 この chorus は、演歌や歌謡曲や浪花節の好きだった古典的なわたしの心にあふれ、歌い始めたのです。わたしが好きな讃美歌は、アウグストゥス・M・トップレディが1776年に作詞した、「The rock of ages (千歳の岩よ)」です。

一、千歳(ちとせ)の岩よ わが身を囲め
さかれし脇(わき)の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ
二、かよわき我は 律法(おきて)にたえず
もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
三、十字架の外(ほか)に 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみ(あわれみ)たまえ
み救いなくば 生くる術(すべ)なし
四、世にある中(うち)も 世を去るときも
知らぬ陰府(よふ)にも 審き(さばき)の日にも
千歳の岩よ わが身を囲め

 神さまへの絶対的な信頼、揺るぎなき信仰をを歌い上げていて、保守的な信仰を持ち続ける教会で、最も歌われ続けている讃美歌だと言われているのです。好ましからざる世上、賛美すると、晴れ晴れとしてきて、希望に溢れてまいります。

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ベランダ、シンガポール、砂漠に咲く

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 爛漫の五鉢の紅と白の胡蝶蘭が咲き続けて、今朝で三輪を残すのみになっています。よく咲いて、コロナの中を楽しませてくれました。太陽の光と週一の水やりで、咲き続けてくれたのです。感情はないのですが、来客者の賞賛の的で、きっと嬉しかったことでしょう。まったく型を変えず、遠慮も驕りもなく、楚々と咲いてくれたのです。

 シンガポールで働いていた長女が招いてくれて、何度か華南の空港から飛び立って、その街を訪ねたことがありました。市内に、「ボタニックガーデン( botanc garden /シンガポール植物園)」があって、そこに綺麗な「蘭」が、数多くの種類の花で咲いている、「National Orchid  Garden 」があります。

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 蘭には、これほどに種類があるのかと思うほどで、希少なものまでがある、世界最大の蘭園なのです。

 『荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。  盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。 (イザヤ3512節)』
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 窓辺に咲く胡蝶蘭ですが、同じ花仲間のサフランは、荒れ野、砂漠、荒地に咲いて、荒漠の世界を彩るのです。聖書に登場する花の一つです。森鴎外が、こんなことを「サフラン」と言う文章を書いています。

 『去年の十二月であった。白山下の花屋の店に、二銭の正札附でサフランの花が二、三十、干からびた球根から咲き出たのが列べてあった。私は散歩の足を駐めて、球根を二つ買って持って帰った。サフランを我物としたのはこの時である。私は店の爺さんに問うて見た。

「爺いさん。これは土に活けて置いたら、又花が咲くだろうか。」

「ええ。好く殖(ふ)える奴で、来年は十位になりまさあ。」

「そうかい。」

 私は買って帰って、土鉢(どばち)に少しばかり庭の土を入れて、それを埋めて書斎に置いた。

 花は二三日で萎れた。鉢の上には袂屑(たもとくず)のような室内の塵(ちり)が一面に被かぶさった。私は久しく目にも留めずにいた。

 すると今年の一月になってから、緑の糸のような葉が叢(むら)がって出た。水も遣らずに置いたのに、活気に満ちた、青々とした葉が叢がって出た。物の生ずる力は驚くべきものである。あらゆる抗抵に打ち勝って生じ、伸びる。定めて花屋の爺いさんの云ったように、段々球根も殖えることだろう。

 硝子戸の外には、霜雪を凌(しの)いで福寿草の黄いろい花が咲いた。ヒアシントや貝母(ばいもも)花壇の土を裂いて葉を出しはじめた。書斎の内にはサフランの鉢が相変らず青々としている。』

 来年あたり、このサフランの球根を、買って植えてみたくなりました。上流の水源から、こんこんと湧き出る湧水を源流としている「巴波川」の流れの端のベランダで、砂漠の花を咲かせてみたいものです。咲き終わった一つの鉢に、胡蝶蘭の花の茎が一本伸びて、芽をつけています。秋口には咲き始めそうで、4期目の花になります。

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盛夏、8月朔日、ウクライナ戦争も新型コロナも、そして熱中症の危険事態が続いていますが、暦の上では、「秋」、ラジオ体操の会場への道端に「キキョウ(桔梗)」が咲いていました。息子が買ってくれた空気清浄機が、『ガンバルゾ!』と、今声を出していました。全ての事態をご存知の神さまに、「おまかせ」で過ごしていきます。今日は、家内の誕生日、それを祝うように朝顔が、今季初めて咲いてくれました。

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天も地も朝顔も

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 蘇軾(そしょく/蘇東坡/1037〜1101年)は、次の様な壮大な詩を詠んでいます。

船上看山如走,倏忽过去数百群。
前山槎牙忽变态,后岭杂沓如惊奔。
仰看微径斜缭绕,上有行人高缥缈。
舟中举手欲与言,孤帆南去如。

【邦訳】 船の上から両岸の山を見れば、数百という山がすさまじい勢いで去っていく、眼前には入り組んだ山が折り重なり、かと思うと背後に消え去っていく

 天上を見上げれば細い道筋が斜めに通じ、そこを歩いている人がはるか彼方に見える、船から手をふって話し掛けようとしても、船は飛鳥の如くに飛び去ってしまうのだ

 南宋時代の詩人の蘇軾は、父蘇洵、弟蘇轍の他に、兄弟たちの妻たちと旅をしていたのです。彼らを乗せた船は、故郷の眉州を出発した後、岷江を経て長江の本流に入っています。東へと下っているのです。この詩は、重慶を過ぎて山峡へと向かう途中に詠まれたと言われています。この辺は、長江の中でも急流で、その流れの様子を生き生きと描き出しているのです。

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 南宋の時代ですから、蒸気機関で引く列車、エンジンを搭載した船、ガソリンエンジンの車、飛行機などありませんでしたから、長江の本流を下る船ほどに早い乗り物はなかったのでしょう。蘇軾は、その目を見張る様な速度の舟に、まさに飛鳥の様に川面を下る舟に、驚きの声をあげて作詩したわけです。

 長閑(のどか)といえば長閑、危険といえば危険、宋代の中国大陸の大河川は、今も同じように、と言いたいところですが、発電や農業用水にダムもない、天然自然の姿に、蘇軾一行は心をふるわせていたのでしょう。

 家内と私は、友人が案内してくれて、武夷山wuyishan の麓を流れる闽江 minjiang の上流の流れを、竹製の筏で降ったことがありました。次女家族が来た時も、同船しながら、悠長に、竹で棹さす筏に乗ったのですが、蘇軾のような急流ではなかったので、静かに、竿刺す水音を聞き、景色を楽しむことができました。

 近所の歯医者さんと、治療後に話をしたのですが、中国で日本語を教えていたと言いましたら、『すごいですね!』と感心し、中国に魅せられて、よく旅行をするのだと行っておられました。広西チワン族自治区の桂林 guilin や四川省の九寨溝 jiuzhaigouなどにも行っているそうです。この大陸には、天然の美、いえ、神の創造の業が、創造時と同じように残されているから、人を惹きつけるのでしょう。


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 『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇1916節)』

 天も地も、神の創造の業です。夏のベランダで、朝顔の蕾が大きく膨らみつつあります。去年咲き終わって、落ちた種が、土の中から芽を出して、今頃になって咲く準備をしているのです。あんな小さな、目に止まらなかった種が、命を繋いでいるのです。まさに、ここにも創造の美が、神からの夏の《贈り物》のようであります。

(南宋時代の巷間、今の長江、朝顔の花です)

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