再び平和を願って

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 好きな讃美歌が、私にもあります。トプレディー(Augustus Montague Toplady/1740-1778)の作詞で、「千歳の岩よ(Rock of Ages)」です。この讃美歌には、父なる神への全幅の信頼が告白されています。これを賛美すると、自分の信仰の体系が全部備わっているように感じて、ただ感謝な思いが湧き立ってまいります。

1 千歳の岩よ、わが身を囲め
裂かれし脇の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ
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2 かよわき我は 律法にたえず
もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
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3 十字架の他に 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみたまえ
み救いなくば 生くる術なし
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4 世にある中も、世を去る時も
知らぬ陰府にも 審きの日にも
千歳の岩よ、わが身を囲め
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 人間の無力さ、か弱さ、寂しさ、死への恐怖の中で、神に見出された者の驚きの中で、神を思い、賛美しているのでしょう。千歳(永遠)、岩、十字架、裁き、陰府、救い、信頼、憐れみ、贖い、力と言った、聖書の用語が並べられた讃美歌なのです。滅びて当然な自分を、永遠のいのちへの救いに入れてくださった神への賛美と感謝が溢れています。
 戦時下のウクライナもロシアも、両国の青年たちは、祖国のために銃を手にして、酷寒の戦場にあって、何を思うのでしょうか。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26章26節)」、とイエスさまが、剣を抜いて打ち掛かったペテロに語ったことばを、どう読んだのでしょうか。祖国のために、同胞のために、家族のために、青年は戦わなければならないのでしょうか。

 私たちの世代は、平和教育を受け、平和の戦後を生きてきました。今また、子や孫の世代は、曽祖父の時代のように、剣を手にしなければならないのでしょうか。第三次の世界戦争は、避けられないのでしょうか。昨日、フランシスコの「平和の歌」を読みました。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。

 イザヤ書に次のように記されてあります。
 『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 (9章6〜7節)』
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戦争と平和

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 青年期に、ヴェトナム戦争がありました。『市民権がもらえるぞ!』と、同級生に誘われたのですが、応募しませんでした。1965年、その戦争中に、“ What The World Needs Is Love ” と言う歌が生まれました。戦争よりも、「愛」を世界が必要としている叫び声でした。

What the world needs now is love, sweet love
It’s the only thing that there’s just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some but for everyone

Lord, we don’t need another mountain
There are mountains and hillsides enough to climb
There are oceans and rivers enough to cross
Enough to last ‘til the end of time

What the world needs now is love, sweet love
It’s the only thing that there’s just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some but for everyone

Lord, we don’t need another meadow
There are cornfields and wheat fields enough to grow
There are sunbeams and moonbeams enough to shine
Oh, listen, Lord, if You want to know

What the world needs now is love, sweet love
It’s the only thing that there’s just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some, oh, but just for every, every, everyoneq

(What the world needs now) Whoa, whoa (is love) is love (sweet love)
(What the world needs now) Oh, oh (is love) is love (sweet love)
(What the world needs now) Oh, oh (is love) is love (sweet love)

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
足りてないのはこれくらい
世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
ダメよ一部の人だけじゃ,みんなになくちゃダメなのよ

神様,山はもう要りません
山登りしたいなら,山も丘も十分あるし
渡ってどこかへ行きたいのなら,海だって川だって十分に足りていて
この世の終わりがやって来るまで,なくなったりしないから

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
足りてないのはこれくらい
世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
ダメよ一部の人だけじゃ,みんなになくちゃダメなのよ

神様,牧草地ももう要りません
食べ物を作りたいなら,トウモロコシの畑とか,小麦畑が十分あるし
輝く光が欲しいなら,お日様の光や月の光もあるの
ねえ神様,関心があるならどうか話を聞いて

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
足りてないのはこれくらい
世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
ダメよ一部の人だけじゃ,みんなにもれなくなくちゃダメ

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ(愛なのよ)

 日本の最後の戦場となった沖縄ですが、2023年の「平和の詩」に選ばれた沖縄市立山内小学校の2年生の徳元穂菜さんの詩、「こわいをしって、へいわがわかった」があって、次の詩を発表しています。

「びじゅつかんへお出かけ
おじいちゃんや
おばあちゃんも
いっしょに
みんなでお出かけ
うれしいな

こわくてかなしい絵だった
たくさんの人がしんでいた
小さな赤ちゃんや、おかあさん

風ぐるまや
チョウチョの絵もあったけど
とてもかなしい絵だった

おかあさんが、
七十七年前のおきなわの絵だと言った
ほんとうにあったことなのだ

たくさんの人たちがしんでいて
ガイコツもあった
わたしとおなじ年の子どもが
かなしそうに見ている

こわいよ
かなしいよ
かわいそうだよ
せんそうのはんたいはなに?
へいわ?
へいわってなに?

きゅうにこわくなって
おかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした
これがへいわなのかな

おねえちゃんとけんかした
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた
そして仲なおり
これがへいわなのかな

せんそうがこわいから
へいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいおとさないように
なくさないように
わすれないように
こわいをしって、へいわがわかった」

今まさに、ウクライナでは戦争が続いていて、何も生み出さない争いなのを、過去に学ばない愚かさを露呈しています。いつも苦しむのは、若者たちであり、その家族です。産業は滞り、食糧も生産できず、多くの命が潰えているのです。そん中で、平和を願う声が、世界中から聞こえて参ります。

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チュウでいい

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 40数年ほど前になるでしょうか、著名な牧師さんが、説教の中で、こんな話をされました。『日本の企業は、世界中に出かけて行って、その性能の高い製品を売って、莫大な収益を上げています。それなのに、あなたがた日本の教会は何ですか!』と、人数的な成長の見られない日本の教会の小ささを叱責されたのです。

 アメリカの宣教団体から、宣教師がアジア諸国に遣わされています。何年かに一度、宣教師のコンファレンスが行われるのだそうです。インドネシアやタイやフィリッピンで宣教している方々は、何千人、何万人もの会衆を持つ教会を、いくつも建て上げているレポートをされるのだそうです。それに比べて、日本に遣わされた宣教師さんは、誇るべきミッション・レポートを持たないで恥じ入ると言うのです。結果が顕著でないからなのです。でも決して優秀な方が、フィリッピンに遣わされていて、日本には無能な方が送られているのではないのです。

 同じように学び、同じように熱烈な信仰を持ち、宣教地の人々を愛し、宣教の志に燃えて宣教をしているのに、収穫には歴然たる違いが見られるのです。私が、次女の卒業式に出席した時に、娘のホストをしてくださった方と、ある牧師さんを訪問したことがありました。『彼は小さな教会を牧会している日本の牧師なんだ!』と小声で言っているのを聞いてしまいました。10000人ほどのハワイの教会に比べたら、私たちの教会は実にわずかでしたから、当然なのですが。

 石橋湛山が「言論の人」と言う見出しで、地方紙で取り上げられていました。1956年12月から翌年にかけて、63日間の短命内閣の首相をなさった方です。彼が掲げた特徴的な政策理念は、「小日本主義」でした。数の多さや大きさではなく、大切なのは、『良心に従って行動する!』ことだと言う考え方を、札幌農学校の一回生の大島正健(クラークの薫陶を受けた教育者・旧制甲府中学校長)から学びます。

 私が、オレゴン州ポートランド近郊の教会を訪問させて頂いた時、その教会の牧師さんが、『みなさん、日本の牧師さんたちは、霊的に難しい土地で、よく頑張っておられて、感謝でいっぱいです!』と言って、白血病でキモ・セラピーをされておられたのに、握手とハグで歓迎し、滞在中、暖かくもてなしてくれたのです。

 長女が、『お父さん、20年も30年も頑張って来たじゃあない。そして私たちを育ててくれたんだから、感謝でいっぱい!』と、伸び悩んでいる父の私に言ってくれたことがありました。その言葉に、どんなに励まされたことでしょうか。結局、大切なのは、「忠実さ」なのでしょう。すべきことをしているのなら、恥じ入ることはないわけです。

 私たちの交わりの諸教会を建て上げてくださった宣教師さんたちは、「小国主義」の面々だったのではないでしょうか。主の圧倒的な訪れを見ないまま、彼らは天の故郷に帰って行かれました。彼らは、そこで、自分への冠を投げ出していることでしょう。私も、そういった価値観を持つ人々の列伝の中に連なりたいと願いでしょう。       

 韓国の教会の牧師さんは、『キリスト教会は、「大」きいのがいい!』と言いました。日本人の牧師は、『「小」さくてもいい!』と言い合って、両者は教勢論争になったのです。なかなか結論がつかない所に、一匹のネズミが出てきて、「チュウ」と鳴いたのです。それは、《ほどほどでいい》と言う意味ででしょうか。

 数の多さが成功の尺度なのでしょうか。少数精鋭が王道なのでしょうか。我が家の近くに、小さな魚屋があり、美味しく活きのいい魚を、けっこう安く商っていて、人気店でした。ところが近所に大きなスーパー・マーケットが出店したので、この魚屋も、その近所の小売店もつぶれたり、職種を変えて食堂になったりしてしまったのです。大きな勢力の横暴で、小さいものが滅びるのです。

 今も大国志向の国が、隣のかつての連邦国を従えようとする横暴で、銃を持って進軍して、破壊と殺戮を続けています。平和に生活していた人を、苦難に突き落として撹乱しています。戦前の日本も同じでした。そん中で、「小国主義」を掲げた、石橋湛山がいました。勇気ある人でした。歴史は、覇権主義の日本に対して「否」を下したのです。

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悔いと感謝で

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 中学の修学旅行で、京都と奈良に行きました時に、金閣寺が見学コースに入っていました。その寺の賽銭箱を覗き込みましたら、小銭が中に入らなくて、その投入口の途中で躊躇していました。中に入れると、自分が賽銭してしまうことになるので、失敬してポケットの中に入れて、何かを買ってしまったのだと思います。

 『神社の神体には、手も足もないから使うことはできないだろう!』と判断した14才の私は、『俺が使ってあげる!』と言って、無許可で頂戴してしまいまったわけです。その時までも、クリスチャンにされて、今日までも、神社を参拝したことも賽銭をしたこともない私は、その泥棒の償いを、どうしたらいいか迷ったのです。賽銭箱に戻しに行ったら、他人の投げ込んだお金で賽銭してしまうことになってしまう、その〈100円〉が重くのしかかっての今です。

 自分の育った街の駄菓子屋で、キヨちゃんというおばさんが向こうを向いている隙に、お菓子を失敬してしまったことが、小学生のころに何度もありました。クリスチャンになって、伝道者となるために献身しました後、どうも責められて仕方がありませんでした。

 それで、その街を訪ねた時に、意を決して、3000円をポケットの中にねじ込んで、『おばさんの目を盗んで、子どもの頃に、何度もお菓子を失敬したことがあります。その時の代金です。赦してください!』と言って、それを手渡しました。

 キヨちゃんは、驚いたようにして笑い顔で、『そんな、もういいわよ!』と言ってくれました。だからと言って、その行為が、償いになるのか、赦されるのか分かりませんが、法律的には時効になっていても、民事法上は賠償責任があるのでしょうね。

 また母親や父親の財布の中から、小銭をくすねたこともたびたびのことでしたが、そういった盗みの行為は、どう清算したらよいのでしょうか。100円も60億円も盗みは盗みですから。神さまの前には、『すべての犯した罪をお赦しださい!』と告白しました日に、赦されている確信はだれにも負けないものがありますが、このままで済ませていいのかが、罪多き私の悩みであります。

 

 

 

 さて、神社は賽銭、お寺はお布施ですが、教会は「献金」と言います。牧師になりましてから、「牧師指定献金」を頂くことがあります。おもに匿名で、『必要に当ててください!』と言うものです。1989年1月のことでしたが、6万円ほどの献金が、高名な某牧師さんから、書留で送られてきたことがあります。

 どの献金も尊いのですが、その時の献金は、『もったいなくて頂くことはできない!』と思ったのです。それは、岡山県の長島愛生園にあるキリスト教会の兄弟姉妹からの、私宛のものだったからです。ある刊行物に掲載された、私に関する記事を読まれての厚意だと、添えられた手紙に記されてありました。

 この教会は、ハンセン氏病に罹病して、ふるさとや家族から捨てられた人たちが、イエスさまと出会って、救われ、望みを主につないで生き始めた方々によって出来上がった群れなのです。腎臓を兄のために移植をしたという話を聞かれたみなさんが感動されて、100円、200円と献金してくださったものだったのです。

 『兄弟は苦しみを分け合うために生まれる(箴言1717節)』

 この聖書のみことばに励まされて、主に押し出されてした行為に過ぎなかったのですが、ハンセン氏病で苦しんできた愛兄姉には、大きな励ましだったことを知って、ただ感謝させて頂いたのです。賽銭泥棒で、お菓子の万引き常習犯の罪人ですから、お受けする資格のない私に対してでした。

 『献金は、信者さんたちの命、血の代償なのだ!』と思って、感謝して生きて来た私にとって、その長島教会の愛兄姉の献金は、万金に値しました。そういった、数多くの愛兄姉のいのちが、これまで、私と私の家族を養ってきてくださったのです。長島の愛兄姉からの40年ほど前の《深い愛》を思い出して、ただただ感謝でいっぱいです。

 家内の病状報告が、〈献金の要求〉だと誤解されたことが、これまであって、そう誤解する方のために、家内のことに触れるのを、極力避けているのですが、人の心の思いの深い奥は知り得ませんので、それでも躓きとなるものは避けなければなりません。そう心に決めている梅の開花の知らせが聞こえてくる今日日です。

(梅の花と瀬戸内海に浮かぶ長島)

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鹿児島県

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 薩摩といえば、「さつま芋」と「小原節」と「西郷どん」でしょうか。七百年の歴史のある「おはら節」ですが、「西郷どん」も出てくるのは、明治以降に付け加えられた歌詞でしょうか。悠長で、男っぽくて、よか歌ではないでしょうか。

花は霧島 煙草は国分
燃えて上るは オハラハー 桜島

雨の降らんのに 草牟田川にごる
伊敷原良の オハラハー 化粧の水

見えた見えたよ 松原越しに
丸に十の字の オハラハー 帆が見えた

おけさ働け 来年の春は
とのじょもたせる オハラハー よか青年を
(ハア ヨイヨイ ヨイヤサ)

伊敷原良の 巻揚の髪を
髪を結たなら オハラハー なおよかろ

雨の降る夜は おじゃんなと言うたに
ぬれておじゃれば オハラハー なおかわい
(ハア ヨイヨイ ヨイヤサ)

花は霧島 煙草は国分
燃えて上るは オハラハー 桜島

花は霧島 煙草は国分
燃えて上るは オハラハー 桜島

 律令制の下では、現在の宮崎県の一部を加えて「日向国(ひゅうがのくに)」と言われていた地でした。その後「薩麻国」と言われてきました。鎌倉時代に、薩摩・大隅・日向の三ヶ国の守護に任じられたのが、有力な島津家、守護大名として支配していたのです。豊臣秀吉の家臣として、徳川、上杉、毛利、前田に次ぐ、島津は大大名でした。家康に嫌われ、外様大名となりますが、結局、長州と合議して、明治維新を成し遂げる、反徳川の企ては、国際的な時流とともに、成功したわけです。二百数十年の冷遇の結果だったのでしょうか。

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 県都は「鹿児島市」、県花は「ミヤマキリシマ」、県木は、「カイコウズ」と「クスノキ」、県鳥は「ルリカケス」、人口は156万人です。農業県で、宇宙開発のために、種子島にセンターが設けられてきています。宇宙への夢は、平和利用であって、ゆめゆめ軍事目的に流れない様にと願うばかりです。

 18の時に、九州旅行をして、一緒に出掛けた友人の同級生が、鹿児島市にいて、そこに寄ったことがありました。彼のお婆ちゃんと話しをしたのですが、ひと言も分かりませんでした。まるで、薩摩弁は外国語で、類推もできず、ただ、『はい。はい!』と頷くばかりでした。この薩摩弁は、余所者、とくに幕府からの密偵を見分けるために、人工的に作られたという説がありますが、言語学的には、長い年月にわたって作り上げられた方言であるそうです。

 弟の書庫に、「南洲翁遺訓」がありました。ずいぶん古い本で、発行年を確かめませんでしたが、初版は、1896年に発行されていますが、弟のは、岩波文庫版だったと思います。旧庄内藩の藩士が、「征韓論」に敗れて鹿児島に戻っていた西郷隆盛を訪ねて、そこでの西郷隆盛の談話を記録したものです。この西郷隆盛は、「敬天愛人」と言う言葉も残しています。

 『道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり。』

 江戸を、焼き討ちにしようとの企てがあったのですが、池上本門寺(現在の大田区にあります)で、幕府旗本であった勝海舟と、江戸開城の話をして、その焼き討ちを思いとどまって、「無血開城」になったのは話は有名です。49歳で、「西南戦争」の折に、自刃して亡くなりました。


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 『代表的日本人」の一人として、内村鑑三は、この西郷隆盛を上げています。多くの人に愛され、敬われた人でした。上野公園に、西郷像がありますが、犬を散歩させている姿なのです。100kgもの肥満体だったので、痩せるために、よく犬を連れて散歩していたのだそうです。幕末から維新にかけての大物であったのです。

 「せごどん(西郷どんの薩摩訛りだそうです)」は、『命もいらず、名もいらず、官位もいらぬまま人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。』と言い残しています。東京に留まらず、「下野(げや/地位や良い職を捨てて東京をさって鹿児島の戻った西郷の選び取った生き方をそう言います)」した人でした。「郷中(ごじゅう)」と呼ぶ、薩摩藩の教育課程が有名で、下級武士の子の西郷どんも受けた教育だったのです。

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 その教育方針の中には、「第一は虚言など申さざる儀士道の本意に候条、専らその旨を相守るべき事(嘘は言うな)」とか「山坂の達者は、心懸ける事(山坂を歩きての身体に鍛錬をせよ)」などがありました。西郷どんは、無欲の人だったそうです。そして、13年の間、生活を共にした人は、西郷どんが、自分の身の回りの世話をしている人を、叱って一喝する様なことはなかったと語っています。そう言う人だったので、誰にも愛され、明治天皇にも、特別の思いを向けられていたそうです。

 西郷どんも見上げた桜島を見ながら、鹿児島駅から電車に乗って、開聞岳に行ったのです。夏休みを利用しての旅でしたので、キャンプ場に泊まったりしたのです。綺麗な山容の山で、対岸の鹿屋から、沖縄戦に出撃した特攻隊は、この山を目指して飛び始め、アメリカ軍の戦艦に立ち向かったそうです。その時、出撃基地の鹿屋には寄りませんでした。何時か行こうと願いつつも果たせずにおります。

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 家内は、鹿児島県下で宣教活動をした、婦人宣教師さんのお手伝いで、しばらく鹿児島にいた時期があったそうです。この方は、戦時中の日本兵の蛮行を目撃して、神なき民の悲劇を感じて、日本宣教にやって来られたそうです。東京で、宣教師の訓練センターで、日本語講師をしていた家内のお母さんから言葉を学んだそうです。ちょうど結婚した頃でしょうか、熊本にいた時に、鹿児島から軽自動車を運転して、東京に行こうとしていた、この宣教師さんにお会いしたのです。この時は、すでにご高齢で、法定速度以下でゆっくりと運転していて、驚いたのを覚えています。

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 開聞岳以南の日本の地には、行ったことがありません。奄美大島や屋久島、沖縄は、いつも行こうと願ってはいましたが、実現しないままでおります。屋久島は、縄文杉の巨木があるそうで、厳しい自然環境の中を生き抜いてきたという姿は、是非とも眺めて見たいものです。幹の周囲が16.4m、樹の高さが30mもあるそうです。

 鹿児島訪問の思い出の一つは、天文館という通りの百貨店の中に、かき氷屋があって、それを、奢ってもらったのです。そこでは、「しろくま」と呼んでいて、かき氷に、何種類もの果物が topping されていて、真夏の味としては最高でした。あの時以来、普通のかき氷を食べようとしなかったのです。

 さて、わが家が、最近しきりに食べているのが、「薩摩芋」です。江戸日本橋の小田原町で魚屋の子でしたが、後に幕府の御用掛になった青木昆陽という人が、享保の飢饉の中で栽培を奨励したのが、この「サツマイモ」でした。食べる時、胸焼けがするのですが、物の豊かな時代でもとても美味しいのです。

(ミヤマキリシマ、桜島、西郷直筆の書、薩摩芋、開聞岳です)

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神の子であり人の子であること

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   『すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。(使徒831節)』

 新宿から小田原や江ノ島を結び京王線に、「芦花公園駅」があります。この公園は、ここに恒春園という家を構えて住んでいた徳富芦花にちなんだ名の駅です。肥後熊本の人で、青年期に、兄の蘇峰と共に、ジェーンズの熊本洋学校に学んでいます。後に京都の同志社に転じて、青年期を過ごし、兄弟二人、キリスト教の洗礼を受けています。

 明治初期に、欧米思想が怒涛の様に入り込み、多くの文人たちが、その波を被っています。それは江戸時代以前から禁教とされていたキリスト教の思想が、じょじょに解禁されざるを得なくなって、その感化が、おもに青年たちの間で大きかったからなのです。芦花は、「人道主義」を言い表したトルストイ(18281910年)に傾倒し、彼に会うために、わざわざロシアのヤースナヤ・ポリャーナに、彼を訪れ、その途次、エルサレムやガリラヤも訪ねています。

 芦花や蘇峰だけでなく、北村透谷、有島武郎、武者小路実徳、島村抱月などの明治の文人の多くが、トルストイの作品を読み、彼の思想の感化を受けています。何人かはキリスト信仰か離れてしまっています。「イザヤ書」を呼んでいたエチオピアの宦官が、その理解に苦しんで、『導く人がなければ、どうしてわかりましょう。』とピリポに言っています。聖書を、正統な方法で読まず、学ばず、聞かないで、個人的な解釈に従うなら、迷路に迷い込んでしまうのですが、そう言った人たちが多くありました。

 「イエス伝」と言う書を、ルナン(18231892年)が書きました。彼のイエスさまは、比類なき人間、詩人キリスト、自然児キリスト、田舎者キリスト、平民キリストであって、神の子ではなく、人間の子に限定しました。ルナンもトルストイも芦花も蘇峰も、パレスチナに旅をしますが、ガリラヤの自然に印象を残すだけで、その地を巡り歩いて、救いと癒しと永遠のいのちをもたらせた「救い主イエス」への信仰を継けsなかったのです。

 彼らは自然を賛美し、自然美を謳歌したのですが、その自然を造られた神を賛美せずにいたのです。そういった彼らのほとんどが、信仰の後退、離反、棄教に移って行くのです。このルナンに悪い感化を与えたのが、1835年に、27才で「イエス伝」を書いたシュトラウス(18081874年)でした。彼は、シュライエルマッハーの考えを踏襲して、聖書から奇跡を取り除いて、「人間イエス」を書いたのです。

 この思考の流れの中に、ノーベル賞を受賞した、密林の聖者と言われたシュバイツアーがいます。彼もまた、「イエス伝」を書いていて、聖書の奇跡を認めてはいないのです。奇跡を、イエスさまの生涯の記録から取り除いた「人間イエス」を掲げた彼らの教説は、キリスト信仰を改革することはできず、歴史の中に沈んでしまいました。

 理屈で立っていた私には、エチオピアの宦官の様に、「ピリポ(講解者、解説者、教師)」がいて、私に聖書を「神のことば」、「いのちのことば」として、《わからせてくれた》ことに、深く感謝しているのです。8年間教えを受けた宣教師、さらにJ.G.メイチェン、ジョン・マーレー、内村鑑三、竹森満佐一、菊池吉彌、W.リュティ、岡田稔、榊原康夫などの方々の書籍や説教テープによってです。信仰的な感化がじつに大きかったようです。

 それは、私に健全な信仰の土台を据えてくださった人、書籍、信条、さらに人格的な感化でした。カナダ人宣教師の教会に導かれた母も、単純に聖書を信じ、イエスさまをキリストと信じて、95歳で帰天しています。よく祈り、賛美をしていた母でした。

(“ キリスト教クリップアート” から「ピリポとエチオピアの宦官」です)

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情報過多の時代に

 『実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。 (伝道者118節)』

 ふだんの生活で、どうしても必要なものや情報は、それほど多くはなさそうです。かえって情報の量の多さと、ことの煩雑さによって、生活を迷わせたり、狂わせてしまっているのではないでしょうか。知らないでいる方が良い「こと」や「物」って、溢れかえるほどに多くありそうです。

 ここ栃木のわが家のまわりに、5軒ほどのスーパー・マーケットがあります。毎日毎日、〈お買い得情報〉が、ネットで発信されているのです。店に出かけて買う以前に、もう家では思いが、目当ての品を買い始めてしまっている自分に驚かされているのです。それで、それに振り回されない様にしています。

 売り手の間には、熾烈な競争があるのです。もう、定休日などは年初めだけで、それさえない店もあります。ほぼ年中無休で、ハードの店や店機能も、ソフトな働く人の心も、疲れ切っているのを感じてしまいます。以前のロンドンの日曜日には、街の機能は全面的に休みに入っていて、静かだったのだそうです。礼拝を守り、霊的な信仰的なことが、市民の間で第一にされていたからです。

 子育てをした街で、開拓伝道の初期から、スーパーマーケットでパートを私はしていていました。ついには、一時期でしたが、店長にまで抜擢されてしまった私だったのです。そんな経歴のある私は、住み始めたこの街の店の過当競争、生き残りの競争の激しさを見て、あの当時に比べて、さらに強くなっているのを感じているのです。

 高校生の頃から、学校に内緒で、ミニ・スーパーで長女は働き、子どもたち全員が、その地方では有力な店で、学校休みで帰省中には、アルバイトをしていました。息子たちは、青果部や鮮魚部や惣菜部で、娘たちはレジで働いていました。

 もう店は彼らの働きを喜んでくれ、子どもたちをたのしく働かせてくれていたのです。新規にスーパーが開店すると、娘たちはアルバイトなのに、開店スタッフで派遣されていたほどでした。レジの不正や店員の人間関係など様々なことを見て触れて、ものすごく社会勉強をさせられた様です。

 この〈情報過多〉の問題ですが、情報量が多くて、疲れた社会が出来上がってしまっています。人と比べての知らないことへの不安と恐怖があるに違いありません。自分だけ知らないでいることは、恐怖なのでしょう。それで、必死に情報を集めるのです。でも知る量に応じて、人の心は落ち着かなくされているのではないでしょうか。

 正しく選び取ることと、正しい判断基準を持つ必要があります。自分の許容量の限界を超えてしまうと、心が爆発してしまいかねません。アップアップの状態を避けるために、一定で、不動の基準を決めて〈選び取り〉をしたらいいのです。意味のない「こと」や「物」を整理して、捨ててしまうのがいい様です。取捨選択の術を心得る方が、知識の増量よりも大切です。疲れたり、悲しまないためにです。

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平和を希求すること

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 『主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。(ヨブ252節)』

 人口推移、出生数、婚姻数など、社会の動きの指数がいくつかありますが、少子化に歯止めが効かなくなって、「少子化対策」が叫ばれ続けていますが、政府には、そのための部署が設けられるほど、重要な政策の様です。でも功は奏さないのかも知れません。

 1937年に、日華事変が起こり、太平洋戦争が起ころうとする頃に、近衛文麿内閣が、「国民精神総動員」を掲げました。それは、「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公との考えです)」を高めて、戦争を推し進め、そして勝戦を目指しての呼びかけでした。

 軍人と国力強化のために、その「結婚十訓」の第十条『産めよ殖せよ国のため!』の呼びかけがありました。確かに出生数は増えたのですが、父親を戦場に取られていては、それは続かず、家族や人口が増えるわけがありませんでした。結局、父親が復員してきてからの baby boom で、団塊の世代が誕生するのです。151619年と、父と母は男の子を得て、立派な兵士となるべく動員したことになります。

 時の政府からも、新聞からも、『欲しがりません勝つまでは!』、『進め一億火の玉!」と言ったslogan が掲げられました。それが良くなかったので、国土は崩壊し、戦に敗れたのです。戦後に生まれた弟を含めて四人の男の子は、戦場に行かずにすんだのです。8000万人の日本は、たくさんのものを失ったわけです。

 戦争後、私たちの父母の世代の勤勉さ、折しも起こった朝鮮戦争でに特需、ヴェトナム戦争での外貨獲得などによって、奇跡的な経済大国に、日本はなったのですが、今また、日本が「強さ」を誇ろうとし始めているのを感じてなりません。

 オリンピックを、危ぶまれる中で開催し、ヒヤヒヤしたのは新型コロナのせいばかりではなく、戦前や戦中に見られた「国威発揚」の声が、だんだん大きくなっていく様に感じてなりません。もう二十年も前でしたが、『あの時代の空気が感じられる!』と言われた、父の世代の方の話が忘れられません。

 その空気の濃度は、もっと強くなっているのを、自分も感じています。『カッ、カッ、カッ!』と、最近、軍靴の靴音が、遠くから聞こえてきています。どんな理由があっても、どんな世論があっても、八十年も《平和》を享受し、を守ってきたことを誇りに、戦争を避ける努力こそが、一番に重要だと思うのです。この困難な時を見極めて、過ちを犯さないことです。《平和》の種を撒き続けたいものです。

(“ キリスト教クリップアート“ との「種まき」です)

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雨を謳う

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『「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。 また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」(申命記11章14~15節)』

 春を告げる花が、梅とか桜なのですが、気象にも春の到来をもたらす現象があります。秋の雨と春の雨は、パレスチナの農耕にとっては必要なものなのです。北原白秋が、「雨」を主題にした詩をいくつも書いています。この稀代の詩人の感性には驚かされてしまいます。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 雨の降る音、溜まった雨の水たまりを歩くの音、おかあさんといっしょにうれしく歩く心の表現が、雨に濡れてる友人への優しさもあり、躍動的であるのは画期的だったのです。ぽつぽつ、ぱらぱら、しとしと、こんこん、びしょびしょ、ざあざあ、ざーっつなどと言った擬音があるようですが、さすが白秋の「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」は斬新で、動きがあって、さすがの詩人です。

1 雨がふります 雨がふる
  遊びに行きたし 傘はなし
  紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
  いやでもお家で遊びましょう
  千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
  けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
  小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
  お人形寢かせど まだ止まぬ
  お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
  昼もふるふる 夜もふる
  雨がふります 雨がふる

 これも、子どもの心があふれる様に表現されていて、水都の筑後柳川で育った白秋の感性は、抜きん出ているのです。童謡の作詞にも思いを向ける人でした。57歳で亡くなっていますが、まだ活躍できた詩人でした。

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村野四郎が、「粛々」という詩を読んでいます。

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この村田四郎は、東京都下府中市の出身で、大手の会社の責任を果たしつつ、詩作をした方です。小学一年生の音楽で、ドイツ語曲 “Biene”(SUMM SUMM SUMM)を、"ブンブンブン ハチガトブ"に翻訳したことで有名です。とくに「スポーツ詩」を作り、「鉄棒」があります。戦争が終わった年の秋の作詩です。「海ゆかば」の歌が聞こえてくるのが興味深いですね。

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まど・みちおにも「雨が降る日には」があります。

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「雨ふれば」を、選者だった北原白秋から高い評価を受けて、詩作を続けています。「ぞうさん」「ふしぎなポケット」の作詞で有名です。「国際アンゼルセン賞」をとり、106歳の長寿だった方でした。「雨がふる日には」は、その雨と雨降りに開いた傘との二者の会話です。こんな会話をしてみたいものです。

山村暮鳥の「驟雨の詩」です。

何だらう
あれは
さあさあと
竹やぶのあの音
雨だ
雨だ
おやもうやつてきた
ぽつぽつと大粒で
ああいい
ひさしぶりで
びつしより濡れる草木くさき
びつしよりぬれろ

ザアザア雨で、石鹸を持って庭に出て、シャワーをしていた私を、隣家のおばさんに見つかって、呆れ返って見られたのです。詩人は、そんなことをするのでしょうか。発達障害の奇怪な行動でしょうか。

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三好達治「大阿蘇」

雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々しょうしょうと降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中もたてがみも ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭々と降つてゐる
山は煙をあげてゐる
中岳の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛々とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里浜くさせんりはまのとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭々と降つてゐる

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室生犀星の「雨の詩」です。

雨は愛のやうなものだ
それがひもすがら降り注いでゐた
人はこの雨を悲しさうに
すこしばかりの青もの畑を
次第に濡らしてゆくのを眺めてゐた
雨はいつもありのままの姿と
あれらの寂しい降りやうを
そのまま人の心にうつしてゐた
人人の優秀なたましひ等は
悲しさうに少しつかれて
いつまでも永い間うち沈んでゐた
永い間雨をしみじみと眺めてゐた
雨は愛のやうなもの・・・・・・
 室生犀星は 、こんな言葉で、雨を謳ったのです。万物の命を支えて行く務めを託された雨をです。雨の日は、晴れの日とは違った趣があるのです。
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 ジーン・ケリーが歌った「雨に唄えば(Singin’ in the Rain)」が流行っていた時期がありました。映画化され、musical の傑作で、《よきアメリカ》の象徴の様な映画と歌でした。健全なアメリカの時代でした。
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I’m singing in the rain
Just singing in the rain
What a glorious feelin’
I’m happy again

僕は歌う 雨の中で
ただ歌う 雨の中で
なんて素敵な気分
幸せがこみあげる

I’m laughing at clouds
So dark up above
The sun’s in my heart
And I’m ready for love

雲を見て笑ってる
頭上の暗い雲を
太陽は僕の心にあるのさ
愛する準備はできてる

Let the stormy clouds chase
Everyone from the place
Come on with the rain
I’ve a smile on my face

嵐の雲よついて来い
みんなここへ来い
雨も来ればいい
僕はずっと笑顔さ

I walk down the lane
With a happy refrain
Just singin’,
Singin’ in the rain

僕は通りを歩く
幸せをかみしめて
ただ歌いながら
雨の中 歌いながら

Dancin’ in the rain
Dee-ah dee-ah dee-ah
Dee-ah dee-ah dee-ah
I’m happy again!
I’m singin’ and dancin’ in the rain!

雨の中 踊りながら
また幸せがこみあげる
歌い踊る 雨の中を!

 聖書のホセア書に、 『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」 (ホセア6章3節)』とあります。雨を待ち望む強い思いが記されてあります。「後の雨」は、パレスチナの地では、12月から、2月に降るのだそうです。今冬、ここ北関東平野では雨が少ないのですが、自然界では祝福の雨への待望が感じられます。
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主を知ることを切に

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 人の一生と言うのは、「瞬きの間」の様に、飛び去っていくのでしょう。『準、いくつ喰う?』と言って、元旦の朝、母の作ってくれたお雑煮の鍋に入れる餅を焼くのに、父が聞いてくれた声が、昨日の様に思い出されてきます。

 母は、自分のふるさとの出雲風の雑煮を、きっと作りたかったのだろうと思うのですが、父の関東風で、小松菜と鶏肉の醤油味で作ったのです。さっぱりとお腹いっぱいに食べたのも、目の前にちゃぶ台があるかの様に、あの光景が目に浮かんできます。

 昨年、母の養母の実家の奥出雲地方の丸餅と雑煮つゆを、ネットで見つけて注文したのです。母が食べていただろうと思うお雑煮です。同じ山陰でも、地方地方で、村々で、部落部落で、そして家々で作り方も味付けも違うでしょうけど、日本酒に漬けた「十六島海苔(うっぷるい/島根半島西部の地名)」が具なのだそうけど、上手に再現できなかったのです。お酒を飲まないので、日本酒もなかったのです。

 もう2月、お雑煮の話題は、「往ぬ(いぬ)」べきでしょうか、この意味は「去る」、「行ってしまう」で、「一月」の「い」で、まさに瞬く間に過ぎてしまいました。この今月の「二月」の「に」は、「逃げる」なのだそうで、この月の二十八日間も、逃げ去っていくのでしょうか。来月、弥生「三月」の「さ」も、「去る」のだそうです。

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 年初めの三ヶ月は、正月、立春、節句、春分と、それに卒業式の月で、慌ただしくアッという間に行ってしまうからなのでしょう。では新年度の始まりの「四月」の「し」は、何を当てはめたらいいのでしょうか。積極的な願いで「知る」はどうでしょうか。

 『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」 (ホセア63節)』

 「知るべきこと」は、ただ一つ、『主とはどなたか?』ではないでしょうか。ソロモン王は、次の様に言っています。

 『私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」  私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。  実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。 (伝道者11618節)』

Menorah – jewish traditional candle holder for seven candles isolated on white background

 

 イスラエルの王のソロモンは、賢者であったのですが、知識は人を高ぶらせ、悩みを増し加えるばかりで、「風」を追うが如しであって、人生必須のものではないというのが、この人の結論です。増せば増すほどに、「悩み」が多くなっていくのだと付け加えます。

 イエスさまは、ベタニヤのマルタとマリヤの家で、こんなことを言っています。

 『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 (ルカ1042節)』

 すべきことも、知るべきことも、「わずか」だと、イエスさまは言いました。英欽定訳ですと、妹が選んだ ” one thing “ だけが《必要なもの》だと言ったのです。《一つだけの必要》こそが、私たちの知るべきことであるのでしょう。

 「主」とは、エホバ(Jehovah / יהוהアドナイ(אֲדֹנַי [’Ăḏōnay])のことです。聖書は、「神である主(創世記24節)」と言います。モーセの幕屋の置かれた「燭台」は、「主」を象形していると考えられます。イエスさまを「主」と信じる私は、どんなに素晴らしいお方か、もっともっと知りたいのです。

(「キリスト教クリップアート」のイラスト、十六島の「海苔採り」、「燭台」です)

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