加油!


 こちらの街中を走っていますと、えーと、「走る」といいますのは、自家用車ではなく、最近は、「自転車」で走っています。ただ道路事情が、まだ整備途上で凸凹が多くて、『ガタン、ゴトン、ストン!』といった状態で、お尻に衝撃が伝わってきます。普段は、バスに乗るか、歩くかで過ごしていますが、ときどき、『車があったらなー!』と思うことがあります。とくに、雨の多い季節には、そう思うこと仕切りです。先月帰国しました折に、高知を訪問したのですが、5年ぶりに、空港でレンタカーを借りて運転しました。もちろん、これまで日本に帰国した折に、義妹に要請されて運転したこともありましたし、南にある泉州の街に友人を訪ねましたときに、市のスポーツセンターの中で、『加藤さん、運転してみてください』と、中国の東北の出身の方に勧められて運転したことがあります。そのときは五年ぶりにハンドルを握ったのですが、長年運転してきた《勘の原理》というのは、すぐに戻ってくるものなのでしょうか、昨日今日とった彼らとはやはり違うんだと、ちょっとちょっと自信回復のときでした。

 ところで、最初の免許証は、義兄が旅行に誘ってくれてグアム島で取得したのです。家内の両親がいて、そこを訪問したのです。その滞在中にグアム政府の試験に合格することができました。ペーパーテストは、3回目で、やっとパスしたのですが、2回落ちて、もう諦めようと思っていましたら、義姉の主人が、激励してくれ3回目を挑戦することになった経緯があります。実地試験の時には、当時そこに滞在していた義父が同乗してくれて励ましてくれました。懐かしい親族の《愛と激励の原理》を思い出します。その免許証は、すでに失効してしまいましたが、まだ手元に残っています。

 話を戻しましょう、横道にそれてしまったようです。華南の街を走っていますと、道路際に「加油站」という箇所があります。『油を加える』のですから、ガソリンスタンドのことです。車のない私にとっては用のないところですが、ここからノンストップで飛び出してくる車には驚かされて、たびたび『ヒヤッ!』とされてしまいます。これまでの中国生活の中で、ただ1つ注文を言わせてもらうなら、交差点で、本線に横道から入ってくる箇所で、横断歩道で人が渡っているところで、ぜひ車は《一時停止》をして欲しいことなのです。我が物顔で出てくる車に平気になれるには大変な時間がかかっております。実は、まだまだ慣れていないのが実情です。こちらにも、日本と同じように「道路交通法」という法律があり、道路上の通常のサインも国際基準に従っているのですが、どうも《早い者勝ちの原理》が、横行しているからなのでしょう。スーパーで野菜や果物を買いますと、ほとんどが計量するのです。それで並んで待っているのですが、ここではだいたい、どこでも《横入りの原理》が働いているのです。30センチの隙間があれば、もう諦めねばなりません。それでも最近は、『排队!(パイ・ヅイ)』という声が年配者からかかっています。『並びなさい!』との意味です。

 あ、また横道にそれましたね。お話ししたいことが沢山あるからなのでしょうか。この「 加油站」の「加油」には、もう1つの意味がありまして、『加油!加油!』というのは、『ガンバレ!頑張れ!』という応援の言葉なのです。今回、日本の未曽有の国難に際しまして、諸外国から、この『ガンバレ!』コールが上がっています。このブログで、大分紹介しましたが。今や、東北愛震災の被害は、東北だけではなく、日本全体、いえアジア全体、更には世界大の問題・課題になってきています。問題の厳粛性から、日本人特有の《事なかれの原理》、《穏便の原理》が働いて、事実を公表しないで隠蔽していること、それが2ヶ月たって、隠されていることがもう黙っていられなくなって露になっているのです。1つだけ注文があります。「委員会」を乱立しているのですが、責任のありかを分散してバラバラにしてしまって、更にまとまらなくなってしまっているので、やめられたほうがよいと思うのですが。

 何だか民主党の一年議員に、原子力を学んだ方がいるのに、ネームバリューがないからでしょうか、政治的な実績評価がないからでしょうか、何かの問題で有名になった議員が責任者に選任されているのも首をかしげざるを得ません。何か、本道から逸れる、《縄張りの原理》に汲々としている政府に苦言をひと言。《国民優先の原理》、《弱者保護の原理》の上に立っていただきたいものです。言いたいことを、とうとう言ってしまいました。これって《表現の自由の原理》なのでしょうね。もうひと言、『加油!日本!』

(写真は、韓国版「ガンバレ日本」です)

頓珍漢

 
内村鑑三の詩に、次のようなものがあります。

     「楽しき生涯(韻なき紀律なき一片の真情)」

   我の諂(へつら)ふべき人なし・・・・・断固として人の御機嫌取りなどしない生き方を
   我の組すべき党派なし・・・・・徒党を組まない独立心で立つ気概を
   我の戴くべき僧侶なし・・・・・弔いの言葉も涙も儀式も不要
   我の維持すべき爵位なし・・・・・人となるのは一代の責と思う無冠の我

   我に事ふべきの神あり・・・・・造られた物にではなく造物主に
   我に愛すべきの国あり・・・・・生まれた国、国土、同胞を愛する心で
   我に救ふべきの人あり・・・・・誰かの助け手となれる自分がいて
   我に養ふべきの父母と妻子あり・・・・・託された家族への責務に邁進して

   四囲の山何ぞ青き・・・・・この国土も人生も至る所で芽吹く命の
   加茂の水何ぞ清き・・・・・高い川浪の昔もある流れは時を超え清流に
   空の星何ぞ高き・・・・・至高者のおられるところに瞬く光に
   朝の風何ぞ爽(さは)き・・・・・素晴らしい一日一日のはればれとした始まりに

   一函の書に千古の智恵あり・・・・・先人の知恵を宝のようにして尊ぶ
   以て英雄と共に語るを得べし・・・・・彼らの言葉と思想と魂に触れて
   一茎の筆に奇異の力あり・・・・・語られ書かれた言葉に漲るほどの力があって
   以て志を千載に述るを得べし・・・・・後の世に伝え残したい高い志があって

   我に友を容るゝの室あり・・・・・友情、友との語り合いに満ち足りて
   我に情を綴るゝのペンあり・・・・・信条を忌憚なく書く自由があって
   炉辺団坐して時事を慨し・・・・・友や家族や隣人と世事を語り合う時の流れに
   異域書を飛して孤独を慰む・・・・・横文字の頁を独りめくりながら輝かす目で

   翁は机に凭(もた)れ・・・・・祖父は眼を閉じて昔日を思う
   媼(うば)は針にあり・・・・・祖母は繕い物に精出し
   婦は厨(くりや)に急(せ)はしく・・・・・妻は家族の喜ぶ夕餉の支度に励み
   児は万歳を舞ふ・・・・・子は両手を挙げて踊るような仕草をして

   感謝して日光を迎へ・・・・・天恵への感謝を忘れない
   謝して麁膳(そぜん)に対し・・・・・ご馳走でなくても美味しく食べ
   感謝して天職を執り・・・・・すべきことに今日も明日も励む
   感謝して眠に就く・・・・・一日の全てに感謝して寝床に臥して

   生を得る何ぞ楽しき・・・・・生かされていることの素晴らしさ
   讃歌絶ゆる間なし・・・・・唇からあふれるほどのほめ歌が溢れ出る

 『生きるって楽しい!』との真情の吐露、人生の充実感が感じられる詩ですね。こんな真実な心情を胸に宿して生き、締め括りたいものだと思ってしまいました。詩に、自分の思いを付記してしまいましたが、これって邪道ですね。1896年(明治29年)年1月4日 の初版本掲載の「詩」に、105年の後を生きる私が、華南の雨雲の上に輝く星星に想いを馳せながら、こんな「・・・・・」の《頓珍漢》な思いを綴ってしまいました、お赦しを!

(写真は、佐賀県東松浦郡玄海町浜野浦の「棚田」の美しい田園風景です)

桶職


 時々ですが、私のもとに送られてくるブログの中に、国際社会で活躍した日本人を特集したものがあります。大地震のせいではないのですが、自信をなくした現代の日本人に、『こんな活躍をして、現地の人々に驚くほど慕われ感謝されたキラキラ光り輝く日本人が、かつて大勢いました!』と、そう紹介しているのです。とくにアジア圏の後進国に、日本の技術や方策を紹介し、実際に現地で共に働き、近代化に驚くほどの貢献をした方々をです。

 戦後の商社マンは”エコノミックアニマル”と蔑称されたのですが、アジア圏で活躍した彼らは無私無欲の心で、国々や人々が窮状から脱出して、自活し、余剰を輸出していくような商業経済の方策を教えたのです。環境や衛生面での近代化、農水林業の振興、商業経済面での発展、教育文化の整備などの面で、励んだ方々でした。そういった方々と同じ心を持って、今も世界を舞台に活躍している日本人がいるのです。

 内村鑑三が次のような詩を詠んでいます。

            「桶職(をけしよく)」

       我は唯(ただ)桶を作る事を知る、
       其他(そのほか)の事を知らない、
       政治を知らない宗教を知らない、
       唯善き桶を作る事を知る。

       我は我(わが)桶を売らんとて外に行かない、
       人は我桶を買わんとて我許(もと)に来る、
       我は人の我に就いて知らんことを求めない
       我は唯家にありて強き善き桶を作る。

       月は満ちて又欠ける、
       歳は去りて又来たる、
       世は変り行くも我は変らない、
       我は家に在りて善き桶を作る。

       我は政治の故を以て人と争はない、
       我宗教を人に強ひんと為ない、
       我は唯善き桶を作りて、
       独り立(たち)て甚だ安泰(やすらか)である。

 「トランジスターラジオ」や「デジカメ」などに比べて、「桶」は劣るのでしょうか。木製の「桶」なんか、つまらないものなのでしょうか。一見、つまらなく見える「桶」を作る人が、どんな心で作るかに、内村は焦点を当てているのでしょう。教育など受けたこともないし、政治信条などもないかも知れません。しかし、使う人の心にかなう「桶」を造り、よりよいものを提供しようとしているのでしょう。父や祖父を見ながら、その技法を学び、それを自分なりの工夫を加えて、よりよい「桶」を作ってきているのです。それで満足しているのです。これこそが日本の職人の伝統的な職業観であり、愚直な職業意識なのではないでしょうか。
  
 「天職」、人はそれぞれに与えられた職責があります。「政治家」や「軍人」や「学者」に比べて、「桶職」は価値の低い職業なのでしょうか。これもまた「天職」、それを得たら感謝し、喜び、安泰に生きることだと、桶職人は言うのです。

 今夕も、甚だ危険で劣悪な仕事環境の中で、働いておられる「職人たち」が、福島原発の事故現場におられます。『誰かがやらなくては!』と志願して働いている方もおいでです。長年働いた仕事の日々を顧みながら、異国の雨雲の下から、心からご無事を願い、応援を送らせていただきます。

(写真は、南木曽の志水木材製の「桶」です)

みずありがとう


 「みずありがとう」余震の中給水活動(産経新聞 5月8日(日)14時51分配信 )

 陸自北富士駐屯地(山梨県)第1特科隊、郷田直人3等陸曹は1通の手紙を記者にみせた。

 「きゅうすいのおにーさんへ がんばってください みんなでちからをあわせてがんばってください みずありがとう」(原文)

 出動命令を受け、郷田3等陸曹が向かったのは茨城県北部。田中智顕(ともあき)3等陸佐を現地指揮官に特科隊員51人が3月14日から29日まで、駒門駐屯地(静岡県)の隊員と計85人で給水、給食活動を展開した。

 活動範囲はひたちなか市のほか北茨城市、高萩市、日立市など。避難所には被害が大きい沿岸部の住民が避難していた。余震は続き、震度4から5弱が1日十数回。

 郷田3等陸曹は日立市の高台にある久慈中学校で給水活動にあたった。住宅被害を免れた住民らも水道が破損して隊の給水車に列を作った。

 1度に200人も並ぶ。1人が容器を持っていなかった。夢中で沿岸から逃げてきた人に容器はない。郷田3等陸曹はとっさに「バケツがあれば未使用の指定ゴミ袋を広げて入れて」とアドバイスした。間もなく1人がバケツに指定ゴミ袋を入れて郷田3等陸曹に差し出した。

 隊員の勤務は午前7時から午後8時まで。避難所では給水を待つ列が続く。昼食をゆっくりと食べてはいられない。トラックの荷台で隊から支給された冷たいレトルト食品を胃袋に流し込む。

 郷田3等陸曹は被災者にできる限り声をかけた。「家は大丈夫でしたか」「けがは」。すると年配女性が「こんなものしかなくてごめんなさい」といってあめ玉をくれた。大切なあめ玉にちがいない。「こんなもの?
これ以上のものはない!」。感謝した。

 幼子(おさなご)からの手紙はそんな折に届いた。かわいらしい絵封筒に入っていた。便箋(びんせん)の裏に母親も書き添えていた。「寒い中の給水作業、本当にありがたい。隊員の一生懸命な姿に勇気づけられます。娘が手紙を書きたいというので私もお礼をと思い、書かせていただきました」。

 被災して不自由な生活でも生き抜いてほしいとの思いが自衛官の業務を支えるが、被災生活を続ける住民の温かな心に触れ、郷田3等陸曹は「勇気と力をもらった」。

 一方、田中3等陸佐は炊事班を統制していた。避難所の食事は救援物資の範囲で作る。コメだけならおにぎり。パンのみということも。すると田中3等陸佐は隊員に湯を沸かすよう命じた。

 「せめてスープだけでも」。あり合わせの材料でパンとともにスープを提供した。ある自治体には救援物資として姉妹都市から野菜や肉が届いた。コメはある。「カレーを作って」のリクエストに応えた。

 野菜の中にゴボウがあった。支給食材を使わなくてはならない。“ゴボウ入りカレー”となったが、冷たい体育館での避難者に湯気が上がるカレーライスは好評だった。

 任務を終えた田中3等陸佐は話す。「余震が続き、大変な時期がまだ続く。第2のふるさとではないけれど自分たちが活動したことで(茨城県北部には)特別な思いがある」。「茨城愛」こそが自衛隊員自らを支えている。(牧井正昭)

(写真は、陸上自衛隊北富士駐屯地第一特科隊の給水活動の様子)

 
 4月21日に、中国に帰って来まして以来、以前と違うことが一つあげられます。何となく家の中が、《暗い》ではありませんか。電気がついていないからなのです。今回の帰国で、長男の家、そして次男の家に寄宿させてもらっておりました。あの3月11日からの40日ほど日本滞在中には、計画停電がおこなわれ、節電も余儀なくされたのです。ただ、次男の家は23区以内の都心ですので、計画停電の除外地域でしたから、強制的な停電はありませんでした。しかし次男は、いつもですとこの季節、ガンガンと暖房をかけていますのに、あの日以降、字が読めないくらい室内の照度を落として生活をしているのです。蛍光灯や白熱球ではなく、LED電球に付け替えて、消費電力を落とす努力をして生活しているのです。それが習慣化してしまったのでしょうか、3ヶ月ぶりのこちらでの生活でも、つい《節電》してしまうのです。日本のような明るさには、ちょっと届かないこちらの夜間照明ですが、この夏の電力消費量をまかない切れないのだと、ニュースが報じていました。
 
 そんな日本や中国の電力問題のことを、私なりに考えていましたら、今日のニュースで、今上天皇、明仁さまご夫妻が、計画停電の除外地域にある皇居ですのに、ご自分の住宅や執務室で、時間を決めて《計画停電》を、一日も休まずにしてこられたと報じていました。その累計時間は、130時間だったそうです。ご自分を厳しく律して生活をされているのは、私たちが倣うべき模範ではないでしょうか。これこそ王道を歩まれる真の王さまではないでしょうか。このような謙遜で自重される王を戴いています私たちは、お二人に感謝しないければならないと思わされたのです。

 被災者のみなさんを慰問されたときには、お二人で黙祷されておられる後ろ姿を見て、お年を召されて少々小さくなられた明仁さま、美智子さまですが、凛(りん)とされておられるのを見て、私も背筋を伸ばしてしまいました。優しいのですね、お心が。中学生の明仁さまが、学校の旅行のおりに、友人たちとトランプをされておられた写真を見たことがあります。家で、ゲームなどしたことなどなかったのでしょうね。十代の多感な明仁さまが、楽しく興じられているのを見て、親近感が湧いてきて、皇室と私たちとの距離が、大変縮められたのを感じたのです。

 好きなときに駄菓子屋に飛んでいったり、食べたくなって中華そば屋の暖簾をくぐったことなど、一度たりともなかったでしょう。もちろん生活苦などなかった代わりに、私たちが何気なく楽しめたことを楽しめなかった境遇を思って、申し訳ないなと思ったりもしました。でも、御夫妻は、いつでも私たちと同じ目線に立って話し合い、握手をし、感情を分かち合いたいのです。そうできない立場も認めなければなりませんが、不自由の中を歩んでこられた皇室のみなさまの上に、心からの祝福を願っております。

 明仁さまは、お病気をお持ちですから、健康にご留意され、いつまでも私たちの《キング》であったほしいと思う、「憲法記念日」の前の晩、遥かに故郷に想いを向ける夕べであります。

(写真は、4月27日に三陸町歌津でもうとうされる、明仁さま、美智子さま御夫妻です)

たかが・・・されど

 
 30年ほど前の1979年に、「チャイナ・シンドローム」というアメリカ映画がありました。「怒りの葡萄」や「荒野の決闘」で熱演した、往年の名優ヘンリー・フォンダの娘、ジェーンがテレビ局のキャスターを演じたものでした。その内容を、goo映画から転載します。

 「キンバリー(ジェーン・フォンダ)は、ロサンゼルスのKXUAテレビ局の人気女性キャスターで、ある日、彼女は、カメラマンのリチャード(マイケル・ダグ ラス)と録音係のヘクター(ダニエル・バルデス)をともなって、ベンタナ原子力発電所の取材に出かけた。厳重なチェックを受けた3人は広報担当のギブソン (ジェームズ・ハンプトン)の案内で、取材を開始した。しかし、中心部のコントロール・センターでカメラを回そうとしたリチャードが、ギブソンに禁止だからとそれを止められる。その時突然震動が起こり大騒ぎの制御室の中で技師のジャック(ジャック・レモン)が冷静に指示を与えている。やがて、放射能もれがわかり、原子炉に緊急停止の命令が出された。その様子をリチャードがカメラに収める。スタジオに帰ったキンバリーは、早速プロデューサーのジヤコビッチ (ピーター・ドーナット)に、そのことを報告した。原子炉の事故は一大スクープになるはずだ。しかし、ジャコビッチは、このニュースを流すことに反対し た。

 調査の結果、その後の発電所に異常が認められないため、運転が再開されることになるが、ただ1人、ジャックだけは不安な予感を抱いていた。発電所の近くの酒場で、ジャックはクビを言い渡されたリチャードを探していたキンバリーと出会った。リチャードは、例のフィルムをもったまま行方をくらましているのだ。キンバリーと別れたジャックは、かすかな震動を感じ、原子炉を調べにいった。やはり、ポンプの一つにもれがあった。もう少し様子をみてから運転を再開 すべきだというジャックの忠告に、しかし所長は耳をかそうともしなかった。
 翌日、取材に出かけたキンバリーは、偶然、リチャードに会う。彼は、例のフィルムを物理学者のローウェル博士(ドナルド・ホットン)に見せにきたのだ。フィルムを見た博士は、もう少しでチャイナ・シンドロームになるところだったと断 言した。チャイナ・シンドロームというのは、原子炉の核が露出した時、溶融物が地中にのめりこんでいき、地球の裏側の中国にまで達するという最悪の事故のことだ。一方、ジャックは、発電所内の各所にあるパイプ結合部のX線写真を調べているうちに、重大なミスを発見した。それは、納入業者が製品チェックの手ぬきのために、同じ写真を何枚も焼き増ししたものなのだ。

 事故の原因追求に悩みぬいた末、ジャックはX線写真をキンバリーに渡し、世論に真相を訴える決意 をする。しかし、その頃、何者とも知れぬ者たちが動き出し、まずX線写真をとりに行ったヘクターが車ごと崖下に突き落とされ、ジャックも彼らの追跡をうけ、命をねらわれた。そこで、ジャックは残された1つの手段を決行することにした。それは、発電所の中心部にジャックが篭城し、発電所をキンバリーに取材させ、内部の異常を世間に知らせようというもので、言うことをきかなければ、核をもらすと所長を脅した。しかし、外から中心部を操作できる発電所の人間 が、発電所の動きを止めたため、ジャックは射殺され、すべて酔っぱらいのたわごととしてかたづけられることになつた。しかし、キンバリーは、追求を続け、 発電所内の人間の証言をとり、ニュースで事実を発表するのだった。 」

 題名の「チャイナ・シンドローム」は、アメリカの原発が炉心溶解を起こしたら、地球を突き抜けて反対側の中国にまで熔けていってしまうのではないかという会話の中のジョークから付けられているのだそうで、中国を非難しているのでは決してないのです。3月の東北大震災、それにともなって起きた原発事故は、自然災害ではなく《人災》なのでしょうか。先日も、渋谷で抗議デモがあったとニュースが伝えていました。たかが映画ですが、されど映画なのでしょう。人の営みを警告しているメッセージには、目と耳と心を向けて、正しく状況を理解し、どうすべきかの判断を下したいものです。

(写真は、映画「チャイナ・シンドローム 」のポスターです)

神秘


 「神秘」、goo辞書によりますと、《[名・形動]《古くは「じんぴ」とも》人間の知恵では計り知れない不思議なこと。普通の認識や理論を超えたこと。また、そのさま。「宇宙の―を探る」「―な美」 [派生]しんぴさ[名] 》とあります。

 小学校の理科の時間に、自然の成り立ちを学んでいたときに、驚いたことを思い出します。地球と太陽の距離、光や熱をそこから受けていること、引力、地球の傾き、地球が天空に浮いている惑星であること、エンジン動力を持たないのに回転し動いていること、空気の濃度、太陽の照度、雨の降る量、日本には四季が明確にあること等々、その自然の不思議さ、驚異に目を見張ったのが昨日のことのように感じられます。何よりも不思議なのは、不思議に思う人間の存在でした。本当に核、アメーバー、小生命体、猿、類人猿、私という順序に変わってきたのだということは、どうしても信じることができませんでした。飛行機を発明し、月に足跡を記し、ペニシリンを作り出すほどの驚異的な能力を持つ人間、悲しんだり喜んだり怒ったり笑ったり妬んだりし、字を書いたり詩を作ったり本を編集する人間、言葉を持って交流する人間、平和を願ったり戦争をしたりする人間、その様な高尚な理知的な人間の始まりが、そんなものだとは決して納得できなかったのを思い出します。こういった自然界にみられる《神秘》の前に、ただただ驚愕していたのです。

 これまで自分の人生に起こったこと、生まれた日本の国に起こったこと、更には全世界・全宇宙に起こってきたこと、そういったことを、今回の東日本大震災の悲惨さを見聞きして改めて考えさせられております。近年異常気象が世界中でみられますが、統計を調べてみますと、
【日本】   最高気温・2007年に多治見市と熊谷市で記録した40.9℃、最低気温・1902年に旭川で-41.0℃、最多降水量(一日)・1982年8月に奈良県上北村日出岳で844mm、最高震度地震・2011年3月11日14時46分頃 に透刻地方太平洋沖で Mw9.0 、最大瞬間風速・1966年9月5日(台風18号) に宮古島で85.3m/s
【世界】  最高気温・1927年にイラクのバスラで58。8℃、1983年に最低気温・南極のボストーク基地で-82.9℃、最多降水量・1952年3月15日から16日にかけてフランスの海外寮レニュオン島シラオス で1870mm、最高震度地震・1960年5月22日に南米チリ西岸でMw9.5(最大被害地震・1556年1月23日に中国今日最初で起こった「華県地震」で82万人から83万人の死者)、最大瞬間風速・1934年9月12日 にアメリ合衆国のワシントン山で231mph(103.3m/s、)
といった気象観測の記録がありました。

 こういった記録を思い起こして、どうして最高最低気温が100度や-150度、降水量が300mm、地震の震度が20MWになったりしないのだろうかと思うのです。何か大きな力が押しとどめ、限界点が定められているように思えてならないのです。太陽と地球の距離だって、もう少し近かったら地球は火の海になるでしょうし、遠ければ凍土に化してしまうはずです。空気中の成分だって、窒素(体積比で78.084 )と酸素(同20.946 )と二酸化炭素(同00.032 )によって成り立っているのだそうですが、この成分の比率の均衡が狂ったら、人は生きて生けなくなるのではないでしょうか。それなのに均衡が保たれているのは、何なのでしょうか。何によるのでしょうか。偶然なのか、それとも必然なのでしょうか。これこそが《神秘》ではないでしょうか。どんなに科学技術が進歩して、速度や震度や量や成分を見極めることができても、これらの限界を定めている《神秘》には驚嘆させられてならないのです。

 その均衡が、近年、狂ってきているのではないでしょうか。「普通の認識や理論を超えたこと」が頻発しているのではないでしょうか。ぎりぎりの限界点を超えて起こる事象が、脅威的になってきています。今回の東日本大震災の被害は、俳人芭蕉が愛でた三陸海岸の海岸線の美しさを、壊滅的に壊してしまったのではないでしょうか。自然は再生しますが、人の心の不安や恐怖はなかなかぬぐい去れないのではないでしょうか。どなたかが言われたような「天罰」ではないと思いますが、自然界が、追い込まれて悲痛な叫び声を挙げているのが、今回の出来事なのかも知れないなと思うのです。私たちに必要なのは、自然と和らいで共生することに違いありません。あんなに美しいこの日本の自然の景観が、どれほど生きていくために励みであったかを思い起こし、感謝しているところです。この日本の美、大自然の美の均衡が保たれ、この国土に生きる人々のさらなる励みとなるようにと、2011年の黄金週間の只中、PCの前でキーを叩きながら、独り住まいの私の願うところであります。

(写真は、実に美しい「三陸の海岸線」です)

記憶


  『あっ、この場面、いつか見たことがる!』、『えっ、この場所、いつか来たことがるんだけど!』と思ったことが、何度かあります。どう考えても、初めて出会ったのではないと思うのです。『どうして、この光景や、この街に見覚えがあるのだろうか?』と、しばらく考えこんでしまわけです。しかし現実の印象のほうが強くて、過去の経験を押し出してしまうのが常です。これを《デジャヴ(既視感と訳されたフランス語です)》というのだそうです。これは、ひとつの《記憶障害》なのだそうですから、あまり多くを語りますと、治療を勧められそうなのでやめますが。

 4月21日の夕刻、三ヶ月ぶりに、長楽にあります「福州国際机場(飛行場)」に降りました。空港から街中まで、中国版リムジンに20元で乗り込んだのですが、沿道の風景はみなれた独特な懐かしいものでした。心のなかで、第二の古里と決めてありますので一入です。風景の懐かしさはもとより、ここには独特の「匂い」があるのに気づきました。育った中部山岳の山里にあった家にも、沢違いの同じような村里の家にも、4人の子どもの教育のために越してきた八王子、日野、稲城の家にも、そこには父母がいて、兄弟たちがおり、飼い犬もいて、住む家は違っても、父の家の「匂い」の懐かしい記憶があるのです。子育てをした盆地の中の、いくつもの引越し先、住宅にも、それぞれの思い出と共に、家族の独自の「匂い」があったのを思い出すのです。

 今回の帰国の折、長男の埼玉の家で過ごしたときに、『この洗濯物の匂い、アメリカのオレゴンの匂いがする!』と感じたのです。そういうのはよくありますね。この街にできたスターバックスに入りますと、初めて入ったホノルルの店の雰囲気や匂いを思い出しますし、オレゴン・ポートランドも思い出してしまいます。しばらくご無沙汰をしていますので、近いうちにスタバに行ってみたいと思っています。

 今回の東北日本大震災で被災された方々の住み慣れた街は、無残にも押し流されて跡形も無い惨状を見せています。遠望の山や街の形は残っていても、歩きなれた道も公園も商店街も学校も見当たらなのだそうです。今朝テレビを見ていましたら([KeyHoleTV3.13]というインターネットの局があって、次男に見れるようにセットしてもらいました)、お母さんの故郷の福岡県直方(のうがた)の高校に入学した、新一年生の女子高校生の特集が放映されていました。何代も何代も住み慣れた故郷や友人から離れるというのは、定着居住の農耕民族の日本人にとっては、実に厳しい選択と決断なのでしょうね。でも、きっと素晴らしい思い出を携えてやって来た九州で、確りと学ぼうとした若い世代の彼女は、うしろ向きでははなく、輝く将来に目を向けた生き方に、祝福を願ったことです。

 直方には仕事で一度行ったことがありますが、閉山してしまった今は、もう石炭の採掘も「ボタ山(石炭クズを盛ってできた小山)」も過去の事になってしまっているのでしょうか。街のそこかしこに、そのボタ山がありましたが、その光景もその《匂い》も様変わりになっているでしょうか。新しい生活を始めた直方、きっと懐かしい「匂い」のある街となるのだろうと思うのです。そんな決断をして故郷の《匂い》を後にし、離れた多くのみなさんに、心からの応援を送りたいと願う、五月の連休前の私であります。

(写真上は、震災前の「陸前高田の桜」、下は同じく「陸前高の海」です)

学者と学徒

 
 江戸時代の幕末、土佐に「万葉集」を研究する国学者で、鹿持雅澄(かもちまさずみ・1791~1858)がいました。独学の人で、死後になりますが明治になって、彼の研究した「万葉集古義 (141册)」の大著が刊行されています。それは「万葉集」の注釈書で、後に大和言葉、和歌を学ぶ学徒に、貴重な資料を残したことになります。幕末の尊皇攘夷の高まりの中で、土佐勤王党を立ち上げた武市半平太は、雅澄の甥だそうで、研究の傍ら「私塾」を開くと、半平太や次代を担う多くの青年たちが雅澄を慕って、彼の門をくぐり学びを受けたようです。土佐の志士たちの「勤王思想」に強い影響を与えたことになります。半平太と共に成長し、西に東に奔走して、青春の血を燃やした坂本龍馬(1836~1867)と同じ時代人ですから、龍馬もまた彼の感化を、直接間接に受けているのかも知れません。

 私が3年の間働かせてもらった職場の所長は、この鹿持雅澄の研究者で、「萬葉学の大成 鹿持雅澄の研究 」といった書を残しています。国学も万葉集も学んだことのない私ですが、日本語を教える機会を得て目覚めたのでしょうか、この恩師の書を、この度、古書店から手に入れました。「やまとことば」への関心が、とても強くなってきておりまして、『日本語の表現って、なんて美しいいのだろうか!』と、この数年、しきりに思わされているのです。

 さて、中国でしばらくの間、交わりをしてきました若い友人が、日本留学の機会を得て、高知県下の高等学校に留学が決まり、彼の入学式が4月15日に行われました。そこで中国にいますご両親、祖父母の代役で出席したのです。実は、この学校の校長先生と校長室長(秘書でしょうか)が、昨秋、私たちの住んでいる華南の街を訪ねて来られました。彼の留学のことについて相談していました方から、このニュースを聞きましたので、時間を割いていただき、シャングリラホテルで、若き友人と共にお会いしたのです。その歓談のおり、『私に任せてくださいますか、彼のお世話をいたしましょう!』と、校長先生が約束してくださったのです。それから話がトントン拍子に運びました。とくに室長の先生が好意を寄せてくださり、何くれとなくご指示くださり、国際部担当の先生が事務上のことを進めてくださったのです。私の友人を、このような形で受け入れてくださり、お世話くださることへの感謝を込めての出席でした。とても良いお交わりをさせていただき、式の前には校長先生と室長、式後には事務長との機会を得て、夕刻、学校を辞しました。

 この祝福の機会に、もう一つの願いを叶えたくて、時間を工面して、この萬葉研究者・鹿持雅澄の記念碑のある、安芸市大山岬を訪ねることが出来ました。ここは高知から室戸岬に行く途中に、太平洋に突出し、近くに《道の駅》もありました。もちろん、恩師の書を手にしてのことでした。その碑に、次のような和歌が刻まれていました。

     「あきかぜの福井の里にいもをおきて安芸の大山越えかてぬかも」

 この意味は、「冷たい秋風の吹く、高知城下の福井の里に妻を残して、ここまで来るには来たものの、まだこの大山峠を越えて行かなければいけないけれど、仕事での来訪ではあるが、残して来た妻の事が気がかりで心配でならない!」でしょうか。雅澄が、家庭志向の人であることが察せられ、そんな人柄に魅せられた恩師が、彼を高評価しているのです。この留学した若い友人は、「民俗学」に感心があって、様々な困難の中から留学の門が開かれたのです。初めての外国、日本、高校生活、寮生活、団体生活で、大きな戸惑いを覚えているのを、しばらくぶりに彼に会って感じましたが、早く日本の高校生活や風習や文化に慣れて、1年後の次の大学へのステップに進むことができるようにと願って、今夕、高知を発って羽田に戻ってまいりました。

 高知から歩いて大山岬の勤務に、雅澄はついたのですが、その足跡を追った私は、高知龍馬空港でレンタカーを借りましたので、車での大山岬行した。高知城内にも彼の碑文があるのですが、これは次回に回すことしました。高知の地で、万葉学者の息吹きに触れて満足な私ですが、将来への新しいスタートを切った若き学徒が、送り出してくれたご両親と双方の祖父母への感謝を深く覚えて、耐えて励むようにと願った、今回の高知への旅でした。そういえば魯迅も孫文も周恩来も日本留学を経てのことだった事を思い出した次第です。

(写真は、高知県安芸市の「大山岬」の海に沈んでいく夕陽です)

国民


日本の復興にとって最も強大な資源は「国民」―米紙
2011年4月13日 08時57分 (exciteニュース)

 2011年4月8日、米紙ウォール・ストリート・ジャーナルの中国語版ウェブサイトは、日本の復興にとって最大の資源は「国民」であると論じた。以下はその内容。

 それはまるで昨日のことのようだ。筆者は今でも50年代初めのミュンヘンで深夜、大量の掘削リグが「ダ、ダ、ダ」という音を鳴り響かせていたのを覚えている。彼らは当時、徹底的に破壊された街の再建に励んでいた。もはや再建は不可能だという声も上がっていた。ドイツの工業が再び欧州の強者になる日は絶対に来ない、と。だが、わずか数年後、ドイツ人は街を復興させたばかりでなく、世界のトップ3に入る実力をつけた。

 今、 ほぼ同じ試練が日本人の目の前に横たわっている。そして同じように、日本人はもうダメだ、復興など不可能だという声も聞こえている。世界銀行の試算による と、日本が復興を遂げるには5年の歳月と2350億ドルの費用が必要。今年の国内総生産(GDP)成長率は0.5%減少するが、再建作業が本格化する今年 後半には再び上昇するとの見方も示した。

 日本人は深夜も働き続けたドイツ人によく似ている。社会における教育と愛国主義への重視も突出している。この国は土地が狭く、自然資源も乏しいのにこれほどの繁栄を成し遂げたのだ。だが、最も強大な資源は「日本人」という国民だ。彼らはほぼ全員が優れた教育を受け、目標を成し遂げようとする強い意志を持っている。常に革新の精神を持ち、心の底から国の盛衰興廃に関心を寄せているのだ。(翻訳・編集/NN)