「青春の讃歌」と呼べる歌が、私には三つほどあります。一つは、立川の日活の映画館で、裕次郎を観ました。「風速40メートル」と言う映画でした。あの時代に青春のシンボルなのでしょうか、カッコいい兄貴のような裕次郎の歌を、足を引きずりぎみにして歩きながら、口づさんだのです。1958年、生意気盛りの中学生だったでしょうか、作詞が友重 澄之介、作曲が、上原 賢六でした。
(セリフ)何だいありゃ
(セリフ)何、風速40米?アハハ…
風が吹く吹く…やけに吹きゃァがると
風に向って進みたくなるのサ
俺は行くぜ胸が鳴ってる
みんな飛んじゃエ 飛んじゃエ
俺は負けないぜ…
(セリフ)おい風速40米が何だってんだい、
(セリフ)エ、ふざけるんじゃねえよ
風が吹く吹く…やけに吹きゃァがると
街に飛び出し 歌いたくなるのサ
俺は歌う 俺がうなると
風もうなるヨ 歌うヨ 俺に負けずにヨ…
風が吹く吹く…やけに吹きゃァがると
風と一緒に 飛んでゆきたいのサ
俺は雲さ 地獄の果てへ
ぶっちぎれてく ちぎれてく
それが 運命だョ…
(セリフ)◯◯野郎、
(セリフ)風速40米が何だい…アハハ…
風速40メートルなんて、風の強さは想像することができませんでした。「太陽族」と呼ばれた湘南の若者たちの物語の映画音楽でした。父の生まれ故郷と目と鼻の先で、なんとなく馴染み深さを覚えていたようです。裕次郎が普段着の顔のようで、夏の海浜を思い出させてくれた歌でした。ちょっと捨てばちさが、十代には強烈だったかも知れません。
2つは、作詞が永六輔、作曲が中村八大の「遠くへ行きたい」で、まるで不良少年のような感じのジェリー藤尾が、1962年に歌っていました。
知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を ながめてみたい
どこか遠くへ 行きたい
遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅
愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい
愛し合い 信じ合い
いつの日か幸せを
愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい
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..
とにかく、「現状打破」 、新しさへの憧れ、大人になりかけた年頃で、父の家を出て独立したいけど、父の援助なしでは、まだ生きてはいけない自分の未熟さがわかっていたのですが、とにかく「逃亡」とか「脱走」願望が強く、〈だれか〉との出会いたい思いが強かったのです。道への憧れの強かった頃の歌でした。
3つは、作詞が伊野上のぼる、作曲がキダ・タロー、歌が北原謙二で、「ふるさとのはなしをしよう」でした。1965年に発表されていた「昭和の歌」です。
砂山に さわぐ潮風
かつお舟 はいる浜辺の
夕焼けが 海をいろどる
きみの知らない ぼくのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
縁日の まちのともしび
下町の 夜が匂うよ
きみが生まれた きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
今頃は 丘の畑に
桃の実が 赤くなるころ
遠い日の 夢の数々
ぼくは知りたい きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
自分にもあるふるさとの光景と、砂山の潮風、夜店のともしび、丘の畑の柿の実とは違いますが、木通(あけび)取りに、兄たちの跡を追って山の中に入って行って、実をもいだり、家の前の小川で泳ぐ魚を追う兄たちがいました。あの木通をもいだのを手にしたのか、家に帰って、米櫃の中に入れて、追熟して、ほのかに甘い果実を食べた味が忘れられません。どんな秋の味覚よりも、懐かしさからすると、それが秀逸なのです。だれにもあるふるさとの歌でした。
(“DANRO” からです)
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