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これは、高校二年の国語の教科書に載せられた、夏目漱石の「こころ」の冒頭の部分です。
『私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした。私は金の工面に二、三日を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経(た)たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧(すす)まない結婚を強いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心(かんじん)の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固(もと)より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
学校の授業が始まるにはまだ大分(だいぶ)日数(ひかず)があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留(と)まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人ぼっちになった私は別に恰好(かっこう)な宿を探す面倒ももたなかったのである。』
この文章には、今私たちが話している日本語の代表のような文章、会話、話の展開が記されています。国語教育がなされる以前に、やはり統一言語が必要であったのです。もちろん日本語は一つですが、津軽弁と薩摩弁とで話し合っても、お互いに理解するには、通訳が必要でした。それでも軍隊で、鹿児島出身の上官が、命令を青森出身の部下に、戦場で命令を下しても、聞く方は理解できなく、やっと分かった頃には、敵の打った弾で戦死してしまうのです。
それで、共通の言語を学ぶ必要があったのでしょう。私たちが13年過ごしたお隣の国の華南では、山を一越しするだけで、言葉(方言)が違うのだそうです。なんとなくは類推できるのですが、意思の疎通は難しいと聞いて、狭い日本で生きてきた私には、驚きでした。ある省の省都の遠距離バスターミナルの壁に、『標準語で話しなさい!』と、省政府の通達が掲げられてありました。
アメリカだって同じです。とくに移民で出来上がった国ですから、ドイツ語、フランス語、イタリア語など、自分の出身の国の言葉で普段は話していても、一つの国の共通の言語が教えられ、学ばないと、交流もできず、国が成り立たなかったのです。聞いた話ですと、アメリカでは、言語がドイツ語になる可能性もあったのだそうですが、けっきょく英語が共通言語とされたようです。
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それで、日本語の学習のために、漱石の作品が大きな役割を果たしたと言われています。文章が文語調ではなく、口語調だからです。江戸ッ子の漱石は、根っからの江戸弁の語り手だったのでしょう。それでも、長州藩の世になって、長州弁と江戸弁とで、東京弁ができあがり、それが日本標準語とされていったと言えます。
江戸の巷間で、人気の娯楽は、寄席の落語でした。三遊亭圓朝が、寄席で話している噺から、漱石は学ぶために、寄席通いをしたのだそうです。この人の道楽でもあったのです。これも、有名な寄席の出し物で、園朝が得意とし、その後も、代々語り継がれている、人情噺の一席の「文七元結(もとゆい)」を取り上げてみましょう。長兵衛と、カミさんのおカネとの話のやり取りのくだりです。
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長「おう今帰(けえ)ったよ、お兼(かね)……おい何(ど)うしたんだ、真暗に為(し)て置いて、燈火(あかり)でも点(つ)けねえか……おい何処へ往(い)ってるんだ、燈火を点けやアな、おい何処……そこにいるじゃアねえか」
兼「あゝ此処(こゝ)にいるよ」
長「真暗だから見えねえや、鼻ア撮(つま)まれるのも知れねえ暗
(くれ)え処(とこ)にぶっ坐ッてねえで、燈火でも点けねえ、縁起が悪(わり)いや、お燈明でも上げろ」
兼「お燈明どこじゃアないよ、私は今帰ったばっかりだよ、深川の一の鳥居まで往って来たんだよ、何処まで往ったって知れやアしないんだよ、今朝宅(うち)のお久が出たっきり帰らねえんだよ」
長「エヽお久が、何処(どけ)え往ったんだ」
兼「何処へ往ったか解らないから方々探して歩いたが、見えねえんだよ、朝御飯を喰(た)べて出たが、それっきり居なくなってしまって、本当に心配だから方々探したが、いまだに帰(けえ)らねえから私はぼんやりして草臥(くたび)れけえって此処にいるんだアね」
長「ナ…ナニ知れねえ、年頃の娘だ、え、おう、いくら温順(おとな)しいたってからに悪(わり)い奴にでもくっついて、え、おう、智慧え附けられて好(い)い気になって、其の男に誘われてプイと遠くへ往(い)くめえもんでもねえ、手前(てめえ)はその為に留守居をしているんじゃアねえか、気を附けてくれなくっちゃア困るじゃアねえか」
これは、江戸の長屋住まいの夫婦の会話です。江戸の街を我が物顔で歩き回る、薩摩や長州の田舎侍への当てつけで、江戸っ子の心意気を表している噺なのです。この噺は、YouTube でお聞きいただきたいので、内容はともかく、日本語ができ上がっていく段階で、園朝や漱石の果たした貢献度は、シェクスピアが英語を形作ったのと同様に、極めて大きいと言えます。
中国の学校で、日本語を教える機会が与えられて、教えながら、自分の日本語の背景を学べたことは、とても感謝したことでした。たくさんの準備ノートがありますが、旭川で英語教師をされていて、同じように、中国で日本語教師をされた方から、ご指導を受けたことも、私にとっては、宝のような時でした。
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