「精力善用」

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 「武芸百般」とか「武芸十八般」とか言われて、古来、日本には多くの「武道」がありました。平時、武士は日夜鍛錬して、一朝事あるときに、主君のために戦う備えとして、「武芸」に励んでいました。つまり、究極の目的は、「戦場」での武闘に勝つことでした。人を打ち倒し、立ち上がれないほどに打撃を与え、殺そうとしてきたものです。それは、「死ぬか生きるか」の戦いでした。その中に「柔術」もありました。明治になってから、嘉納治五郎が「柔術」を改良して、「講道館柔道」を始めており、一般的には「柔道」と呼ばれています。それを「近代スポーツ」にするために、嘉納治五郎は、「柔術」の中にあった「禁じ手(打ち身、拳を急所に当てる技などです)」の使用を禁じる「ルール作り」をしたのです。

 この「柔道」のほかに、「剣道」、「弓道」、「合気道」、「空手」、「テコンドー」、「「カンフー」などが、「格闘技」として、一括りでいわれているものがあります。この試合で対戦するときに、『ヤア―!』、『トゥー!』、『ソリャッ!』などの「掛け声」が発せられます。それを聞くと、「戦場」で戦った戦国武将などが、死闘を戦わせた光景を思い起こさせるのです。私は、「松濤館流空手」というのを少しかじったことがありました。ボール競技を中・高でしていましたが、社会人になってから、運動不足の解消のためにでした。「柔道」は、上の兄と弟がしていましたが、私はしたことがなかったのです。

 ただ、「柔道」の開祖である、この嘉納治五郎という方は、実に高潔な人格者であったと聞いております。「柔術家」、「柔道家」だけではなく、東京第一中学校(現・都立日比谷高校)、学習院、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長を務めた方で、「教育者」でした。また貴族院議員、国際オリンピック委員にも推挙され、その務めを果たされています。この方は、「弘文(宏文)学院」を開き、中国人留学生の世話をされており、中国文学者の魯迅も、嘉納治五郎に師事した一人でした。

 『なぜ柔道をしなかったのか?』には、単純な理由が私にはありました。「がに股(蟹股,、O脚のことです)」になりたくなかったからなのです。まあ柔道をしても「がに股」でない人も多くおいでですが、子どもころにそう思って決心したので、結局はしなかったのです。でも、「嘉納治五郎の精神」には、傾倒すべきものを感じてきております。

 嘉納治五郎は、子どの頃から虚弱体質だったので、体を強くするために、東京大学に入学した頃に、「柔術」を習い始めました。「武芸」の時代ではなくなった明治の御代に、近代的な考えをもって「柔道」を始めたのです。この嘉納治五郎の「講道館柔道」は、「精力善用」、「自他共栄」を精神としていました。この方が亡くなる前にお弟子たちに、『私を棺に収めるときに、白帯を締めてください!』と頼んという逸話を聞いたことがあります。「白帯」というのは、無段位者のことで、「初心者」が、腰に締めたものでしたから、この方は、「紅(赤)帯」を占める最高段位を得ていたのですが、「生涯白帯」で生きられたのです。きっと、『私はまだ学び始めたばかりの者に過ぎません!』という生き方をされた方だったことになります。21世紀のスポーツ選手、いえ日本人は、こういった精神や生き方に学ばなければならないのかも知れません。

(写真は、講道館柔道を始めた「嘉納治五郎」の二十代のものです)

『やり直せるなら!』

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 「羨望」を、goo辞書で調べますと、『[名](スル)うらやむこと。「―の的となる」「他人の栄達を―する」 』とありました。では、「羨む」とは何か、同じく調べてみますと、『[動マ五(四)]《「心(うら)病(や)む」の意》1 他の人が恵まれていたり、自分よりもすぐれていたりするのを見て、自分もそうありたいと思う。「人も―・む仲」2 他人のすぐれた才能や恵まれた状態を不満に思う。「同輩の出世を―・む」』とありました。否定的な意味だけではないようです。

 自分が、「羨ましく思っていること」を、思いの中に探ってみますと、いくつかあります。たとえば、友人や同級生たちが、国立大学に進学したり、上場企業に就職したり、東京の山の手に家を持っていたり、馬主であったりすることは、羨ましくは感じません。それが一人ひとりの前に開かれてきた祝福の扉の向こうにあることだから、お祝いしてあげたい気持だけです。また、「ノーベル賞」を昨年とられた山中伸弥教授も、『凄い!』と思いましたが、羨ましいとは感じていません。彼が一生懸命に研究してきた「IPS」が、最大限に評価され、今後に期待されたのでありますから、賞賛すべきことです。

 では何かと言いますと、一昨日、弟からのメールにあった、『12年間皆勤した卒業生がいた!』と言うことなのです。それは、誰にもできそうではありません。「身体髪膚」を健康なご両親から、『これを受け』、頗る健康であったということになります。彼の努力や決心などの意志の力や、両親や祖父母からの激励や協力があったことも、そうできた理由に違いありません。先生たちからの激励だってあったことでしょう。こういった卒業生が、時おりいらっしゃるということを聞くにつけ、跳んで行って、褒めてあげたい気持ちになり、『ほんとうに羨ましいです!』と言いたいのです。

 なぜかと言いますと、私は小学校入学まえに、肺炎にかかって町の国立病院に入院し、退院後も、発熱や咳に悩まされ、自宅療養をしていましたので、「入学式」に出席していないのです。学校教育の最初から、もうつまずいてしまったのです。小学校1年から3年の低学年は、三分の一ほどの出席しかしていないのです。父や母は、「肺炎」と言っていますが、入院していた大きな病院は、青白い顔の痩せたお兄さんたちが、同じ病室や隣の病室にいましたので、今思いますと、どうも「肺結核」だったのではないかと憶測してみたりしています。それでも、そこは「隔離病棟」ではなかったので、「結核」ではなったのかも知れません。確かめることもなく、父も母も召されてしまいましたので、きく術(すべ)がありませんが。

 小学校の高学年になっても、中学校も高校も、よく休みました。大学の頃は、授業を《サボ》っては、喫茶店や映画館やパチンコ屋などにい、アルバイトに精出していましたから、実に意気地のない、意志薄弱男だったのです。『もし、もう一度、やり直せるなら!』、学校教育を受け直したいのです。あらゆる努力をし、お尻を叩き、這ってでも出席し、「皆勤賞」を取ろうと思うのです。『覆水盆帰らず!』と言いますから、小学校1年に戻ることはかないませんが、それでも、『もう一度、スタートからやり直したいな!』と、心から願うのです。「皆勤」したのは、どんな学生だったのでしょうか、会ってみたい気持が、今朝はしております。

教師冥利

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 いつの間にか、日本の学校では、「仰げば尊し」が「卒業式」で歌われなくなっているようです。この歌は、作詞者、作曲者が定かではないようですが、忘れられない歌の一つであります。1887年(明治17年)に文部省歌となり、多くの学校で学校で歌われてきました。

     1.仰げば 尊し 我が師の恩
       教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
       思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
       今こそ 別れめ いざさらば
     2.互(たがい)に睦し 日ごろの恩
       別るる後(のち)にも やよ 忘るな
       身を立て 名をあげ やよ 励めよ
       今こそ 別れめ いざさらば
     3.朝夕 馴(なれ)にし 学びの窓
       蛍の灯火 積む白雪
       忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
       今こそ 別れめ いざさらば

 昨日、私の弟からメールがありました。『・・・さて、昨日3/1(金)、本年も例年のように高等学校3年生の卒業式を迎えました。幼稚園からの15年間の生徒も数名おり、12年間の皆勤者も出ました。すごいことです。その後、保護者主催の有名ホテルでの卒業パーテーでした。今年より、来賓としての出席ですが、何人もの保護者・卒業生から個々にお礼のあいさつがあり、残念ながら食事にありつけませんでした(一杯のジュースのみでした)が、教師冥利に尽きるとはこのことでしょう。純粋な高校生、羽ばたきの時と別れを惜しむ涙涙の会でした・・・』と記されてあったのです。

 彼は母校に教師として勤務し、昨年三月をもって、管理職で定年退職しております。15歳で高校に入学していますから、人生の殆どの時を、同じ学び舎で過ごしてきていることになります。幼稚園の園児も教えたことがあり、多くの卒業生を送り出してきたのです。惜しまれて退職したのですが、退職後も、学校法人の理事、週3日、嘱託で、若い教員の相談やのクラブの世話、スキー教室の同行などをし続けているのです。《教師冥利につきる》という感慨は、素敵なものでしょうね。きっと卒業生の心の奥には、「我が師への恩」があればこそ、親も子も、恩師とともに涙を流しつつ、《感恩の情》にむせぶのではないでしょうか。実に羨ましいものです。

(写真は、日本最古の学問所建築(仙台藩)の「有備館」です)

彌生三月

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 三月を「弥生」と言います。これを語源由来辞典でみますと、『「弥生(いやおい」が変化したものとされる。「弥(いや)」は、「いよいよ」、「ますます」などの意味。「生(おい)」は、「生い茂る』と使われるように、草木の芽吹くことを意味する。草木がだんだんに芽吹く月であることから「弥生」となった。』とあります。

 松尾芭蕉が、「奥の細道」の紀行文を記していますが、その「旅立」の書き始めに、

   弥生も末の七日、明ぼのゝ空 朧々(ろうろう)として、月は在明
 (ありあけ)にて光おさまれる物から、不二の峰幽か(かすか)にみえて、
  上野・谷中(やなか)の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
   むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゅと云う所
  にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに
  離別の泪(なみだ)をそゝぐ。
   
と記しています。これは、中学の国語の時間に暗記させられたものですが、何となく覚えているというのは、「三つ子の魂百までも」なのでしょうか。「日本歴史」で学んだ時代区分の中に、「縄文時代」の次ぎにくるのが、「弥生時代」です。その時代の住人は、『われわれは弥生時代人であって・・・』と言ったわけではないのです。1884年(明治17年」に、東京の文京区で、土器が発見され、その土器を「弥生土器」と命名し、その土器が使われていた時代を「弥生時代(BC3世紀~AD3世紀ほど)」としたわけです。発見された町が「弥生町」だったからです。もし、「本郷町」で発見されたなら、「本郷時代」になっていたことになりますね。
 
 三月は、私の両親の生まれ月ですから、特別な感慨があります。自分が、「師走」の真冬に生まれていますから、暖かな春に生まれた父や母が羨ましく感じられたのです。これも、生まれる者の願いや、生んでくれた両親の思いでもないのですから、ありのままで受け入れる以外に仕方が無いことになります。父や母は、男の子四人に、「端午の節句(五月五日)」に、鯉幟(こいのぼり)を上げてくれていた時代がありましたが、女の子がいなかったので、「桃の節句(三月三日)」を祝うことはありませんでした。私は、偏屈オヤジでしたので、男二人、女二人の子どもたちのために、「鯉のぼり」を上げたり、「雛壇」を飾ったりしませんでした。それでも四人の子どもたちの無事の成長、人や◯に愛されて生きるようにと、家内と二人で手を合わせて育ててきました。
 
 「春立(たて)る霞みの空に、白河の関こえんと・・・・」と芭蕉が、「序章」に記していますが、「白河の関」の以北は、3.11以降、芭蕉の時代には考えられない状況下にあります。故郷を壊されたみなさんの望郷の思いをヒシと感じます。良き思い出の中で、素晴らしい季節、「弥生」をお過ごしください。

(写真は、春の一つの象徴の野辺の「つくしんぼう」です)

「四殺」

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 愛読している「ブログ」に、漢(後漢)の崔子玉の有名な座右の銘、「四殺」が載っていました。

   嗜欲を以て身を殺すなかれ。
   貨財を以て身を殺すなかれ。
   政事を以て民を殺すなかれ。
   学術を以て天下を殺すなかれ。

 この崔子玉(AD77~142年)と言う人は、後漢の時代の人で、河北に生まれています。洛陽に学んだ学者で政治家だったようです。詳しいことは、資料が少なくわかりませんが、この言葉で有名です。「自分」を殺してしまうものが、4つあると言います。

 一つは、「嗜欲(しよく、嗜好の〈嗜〉です)」です。この「嗜欲」とは、コトバンクによりますと、『思うさま飲んだり、見たり、聞いたりしたいという心。 』とあります。人は欲を持つことで自分を殺してしまうことが多いのでしょう。人間の「安心」が、物を持つことのように錯覚されているのですが、だれも明日のことは分からない今日を生きているのですから、物の豊かさで人の価値や生きがいは測れないことになるのでしょう。

 二つは、「貨財」です。財産の相続での係争の話をよく聞きます。《骨肉の争い》ほど見るに耐えない、聞くに耐えない醜いことはありません。ある時、父の生まれた家の財産が、私たち兄弟四人に相続の権利があると知らせてきました。四人とも、相続権を放棄したのです。よく父が言っていました。《俺は金を残なさないから、自分の人生は自分で生きていけ!》とです。その父の言葉を、四人が守ったことになります。

 三つは、「政事」です。「政(まつりごと)」を間違えると、自分だけではなく、民百姓が苦しい目に遭うというのは、どの国の歴史にも見られることであります。一人の指導者の間違いが、何億という人を苦しめてきた例もあるくらいです。今では、「市民オンブズマン」がいて、勝手な政治をすることができないような、抑止力が市民にある時代には、独裁政治は行えないのです。しかし、こういった抑止力のない国は、実に悲惨ではないでしょうか。

 4つは、「学術」です。学問や教育を誤ると、人も町も国も立ち行かないということなのです。日本が、明治維新以降、欧米に追いつき一等国になり得たことを、社会学者は、「教育」の力をあげていました。すでに江戸時代から、町人たちの識字率は、当時の世界の標準をはるかに超えて高かったのです。駕篭かき人夫や漁師が、字を読み書きでき、計算能力も高かったことを、江戸期に日本を訪れた外国人が驚嘆したそうです。でも、誤った軍国主義教育の結果、多くの優秀な人材を死なせた大きな間違いには、禍根が残ります。今日でも「ゆとり教育」の功罪が再検証されて、週6日も授業を再び行う学校も出始めているようです。

 1800年も前の崔子玉の語った言葉は、21世紀の現代にも、好き忠告となるのではないでしょうか。

(書は、唐で学んだ空海が書いたとされる、崔子玉の「座右の銘」です)

明日から

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 住んでいますアパートの敷地の中の植え込みに、「寒椿」が植えられています。暖かさを増しているこの頃、椿の最盛期が過ぎていますが、木の日陰側には、まだ白と赤の斑の綺麗な花びらをつけて咲いてるのが見つけられます。また冬の間に落葉した木々には、もうすでに若芽が芽吹いて、日一日と葉を大きくしています。今朝も、道筋で出会った、おじいちゃんに押された乳母車の中、着ぶくれた赤ちゃんが、顔に陽を受けて眩しそうにしていました。もう陽の光は、全くの春です。25度の気温の日も、この2週間の間に、ふつ日もありましたから、間もなく、一足飛びに、春を押し越して夏に突入するのではないでしょうか。

 日本の東北地方では、観測史上最高の積雪を記録した冬だったそうですが、週初めには、今季最強の寒波襲来と、ニュースが報じていました。温暖化だと言われているのですが、北半球の今年の冬は、ずいぶんと寒かったことになります。そう言えば、一月に帰国して三週間ほど東京に滞在したのですが、雪が三度ほど降りましたから、東京の寒さに震えていました。弟の家の「炬燵(こたつ)」は、久しぶりで、本当に、あの温かさを楽しませてもらいました。炬燵といっても床暖房の上に炬燵が置かれていて、そこに足を突っ込み、身を横たえたのですが、この「日本の習俗」は、父の家の炭火を入れた「掘りごたつ」を思い出させてくれました。炭の燃える匂いは、もう今では、焼き鳥屋さんか、鰻屋さんでしか嗅ぐことができなくいなっているので、遠い過去の記憶になっています。

 何度も、炬燵から出たくなくて、母や兄に用事を頼んでは怒らてしまったこともありました。あの炬燵が、唯一の暖房手段だったのですから、床暖房をしたり、ストーブを付けて部屋中に暖気をおくる今との違いを思い出していました。次男の家では、今年は炬燵を使っていませんで、エアコンで暖房をしていました。畳の部屋がありませんから、それでいいのかも知れませんが、日本風情を楽しめなかったのですが、かえって炬燵の中にネコのように丸くならないで、買い物で外出したり、所要で出かけたりで活動的だったのは感謝でした。

 明日からは「弥生」、春三月ですね。こちらでは、「元宵節」、日本で言う「小正月」が終わりました。正月気分も消えて、みなさんが一生懸命に働き始めておられます。今朝、久しぶりにイギリス系のスーパーに、家内と買い物に行きました。学校の仕事をしていた私に、外出中の家内から電話が入りました。クリーニング店に着いたのですが、財布を入れたバッグを持たないで来てしまったので、そのバッグを持ってきてくれというのです。それで、彼女のかばんを持って行き、その足で、一緒に買い物に出かけたのです。週日の朝、買い物客はまばらだったでしょうか。衣料コーナーは、まだ冬服が並べられていました。日本ですと、鮮やかな春物一色なのですが。さあ、春です。そろそろ春を探して、野辺を歩きまわってみたい衝動にかられるのでしょうか。

(写真は、http://single-focus.info/modules/webphoto/index.php/photo/3/)の「春の海」です) 

163路・路線バスにて

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 住んでいますアパートは、この街の新興地に位置していまして、「◯◯大道」の脇に位置しています。この周辺には、高層のアパートや新しい商業施設などが建設ラッシュなのです。ちょうど、「雨後の筍」の状況です。とくに、一昨年の暮に、全国展開している大きな商業施設ができてからは、バス路線の数が増えて、街の中の様々なところに出かけていくのに、とても便利になってきています。一昨日も、所要があってバスに乗って出掛けました。同じ路線のバスに帰りも乗り、何を見るとはなく、いつものように「人間観察(マンウォッチング)」をしていました。家に帰るまで30分ほど乗りますから、他にすることがないので、目を開けていますと、人の様々な所作が目に入ってくるわけです。決してジッと見たりはしませんが。

 私の席の前に、一人の五十代前半のご婦人が乗っておられました。このところ、車の数が急に増えて、排気ガスで空気が以前のようでなくなりましたので、喉がいがらっぽいのです。このご婦人も、喉に違和感を覚えられたのでしょうか、『ガーッ!』とやり始めたのです。その音を聞いたので、ちょっと彼女に視線を向けたわけです。窓から外に『ペッ!』をするのか、バスの床にするのか、ちょっと心配して様子を伺っていました。多くの人が、窓を開けて外に向かってするので、脇を通る車や電動自転車や人にかからないかと思ってハラハラするのが常なのです。ところが、私の予想に反して、彼女はポケットに手を入れて何かを探し始めたのです。そうしましたら、中国独特のポケット・ティッシュを取り出して、その紙にとって、ポケットにしまわれたのです。

 この光景は、長くこちらで生活して、初めて見たものでした。私は、これをするときには、ティッシュにとりますが、こちらの方は、なかなかそうされないので、よくティッシュを手渡してあげようかと、一瞬思ってしまうのです。家に帰ってきて、この出来事を家内に話しましたら、やはり、意外なのでしょうか、感心して聞いていました。子どものころの日本も、同じでした。ゴミは、シッチャカメッチャカに捨てられていましたし、あたり構わず『ガーッ、ペッ!』をしていたのです。田舎に行くとお百姓さんは、手でハナをかんでいました。多分、「東京オリンピック」が行われた1964年ころから、そういったことが改められてきたのではないかと思うのです。外国人が多くやってきて、定住する方も多くなってきていましたから、欧米並みの生活が求められてきたのでしょう。

 経済的な余裕が出てこなければ、ちり紙(昔のティッシュのこと)などポケットに入れられないのです。だから、仕方がなかったわけです。また「尾籠(びろう)」な話になって恐縮ですが、子どものころのわが家のトイレには、父や母がハサミで切った「新聞紙」がきちんと置かれて、一生懸命に「揉(も)んで」使いました。やがて「ちり紙」が売られるようになるまで、それが中心的に役割を持っていたのです。今では布のような触感のものが出回っていますから、信じられないことであります。でも大昔は、どうだったのでしょうか。

 何しろ、《生命力の旺盛な国民》というのが、この国の人たちの生活する姿です。クヨクヨしないのです。いつまでもグズグズしていません。サッサと動きが早いのです。広い世界に住んでいたら、大陸のどこにでも移っていけるという「おおらかさ」でいっぱいです。島国で育った私にとっては、実に羨ましい民族性なのです。大方は私たちと大変似ていますが、「生き方」に違いがみられます。学ばせていただいたことが多い、この過ぎた年月であります。

(写真は、「東京オリンピック」の第一号のポスターです)

ご馳走に勝るもので

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 私の好きな格言は、『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ご馳走と争いに満ちた家に勝る。』と言うものです。そこには、小さな感謝の積み上げがありますし、平和を希求する意識が満ちています。また奢侈贅沢を嫌っていますし、競争社会の問題点を突いているのです。

 嫌いなのは、『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』と言う言葉です。これは、格言とは言えないかも知れませんが、天皇の兵士が守るようにと訓示された「戦陣訓」の一節です。時の陸軍大臣東条英機が、中国に派兵された兵士たちによる、中国の婦女への陵辱や物品の盗みが横行する中で、帝国軍人の「有り方」をまとめ上げた道徳訓示であったのです。「国体観」や「死生観は、哲学者の井上哲次郎や和辻哲郎、文章は、「破戒」で有名な島崎藤村や「荒城の月」の作詞者・土井晩翠らが中心になって作ったと言われています。そこには「体裁」とか、「建前」とかが表に出ていて、『生きたい!』との人間本来の切なる願いを認めていないのです。ここには「生命軽視」が溢れていますから、他者の命の重さも認めることができないので、平気で人を殺してしまうことができたわけです。

 人の生き方に大きな影響を与えるものの1つは、「ことば」です。人は「ことば」に出会って発奮し、方向が与えられ、どう生きて行くべきかの導きを得ます。39歳の時に、私は大きな手術をしました。『死ぬかも知れない!』と思った私は、妻と4人の子に宛てて、初めての遺書を記したのです。子どもたちに、『もしお父さんが亡くなったら・・』と言って、「三つ撚りの糸は簡単に切れない」と言う、親爺さんの日記帳からの引用の「ことば」を書き残しました。これは、毛利元就が三人の子に託した「三本の矢」のたとえ話に酷似しているのですが、『お父さんがいなくなっても、お母さんを助けて、4人で仲良く助け合って生きて行って欲しい!』と勧めたのです。彼らは、一本多いので、より協力の度合いが堅固になるのですが、長男が小学校6年生、一番下の次男が3歳だったのです。

 ところが、死ぬこともなく、生き延びて、一人一人が自立して行く様を見ることの出来た今、もう遺書を残す必要も無いと思いますが、この「ブログ」で、『みんなの父親は、どんな考えや生き方をして来て、どこに向かって生き、ゴールをどこに定めているのか?』を書き残したいと願うのです。きっと彼らも、それぞれに「ことば」と出会い、その「ことば」を語った人の思想と人格とに触れ、励まされ、または叱責されて生きて行くのでしょう。

 地味でいい、有名にならなくてもいい、『よくやった!』とほめられる生き方が出来るために、火で精錬され試された本物の「ことば」と出会って、その励ましで生きて欲しいだけであります。

(家紋は、「三本の矢」で有名な毛利元就の毛利家のものです)

トイレ事情

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 食事時に、このブログを読まないで下さい。

 一昨日の午前中のこと、道路の際で車を待っていた時、おじいちゃんに連れられた二歳前くらいの女の子が、道路を横切って来ました。渡り終わって安心したのか、独りで歩き始めて、ちょっとした突起物につまずいて倒れてしまったのです。腹ばいになった彼女のおしりが、何と丸見えになってしまいました。ジェントルマンの私は、幼いレディーから目を逸らしてしました。

 まだおしめが取れない年頃には、日本では、おしりがぼこぼこっとしているのですが、こちらは、おしめを使わないで、すっきりしているのです。その代わりに、いつでもできるように、おしりの部分が開いているのです。脱がさないですむようにしてあるのです。実に賢く細工された幼児服が、ほとんどです。ところが、ゴミ箱だろうが、道路の上だろうが、構わずに、お母さんはおばあちゃんがさせるのには、ちょっと驚かされるのです。おおらかといえばおおらかですが、不衛生といえば不衛生極まりないのです。初めて目撃した時には、唖然としてしまったのですが。

 これも文化習俗の違いですから、私たち外国人が、とやかく非難すべきことではないのです。ついでに、公衆トイレの話ですが、日本のトイレの構造は、向こう向きに作られていますが、こちらはドアーに向かって顔を向けて座るのです。田舎に行くと仕切りもドアーもありません。最初は抵抗がありましたが、こればかりは、『嫌だ!』と言うわけにはいきませんので、だんだんと慣れてきています。誰もがすることなのですから、人の目を気にしないのです。天津にいた時に、郊外に行きました。一緒に学んでいたオランダ人の若い女性が、この習慣を身につけて、何でもない素振りでいたのには驚いてしまいました。いえ、家内から聞いた話ですのでご安心を。

 そう言えば、中学の時に、アメリカン・スクールに、バスケットボールの親善試合に行った時に、トイレのドアーが、上と下が開いていて、真ん中だけに仕切りがあったのには驚きました。ちょっと抵抗があったことを思い出すのです。日本は、《密室》になっているのですが、これも日本文化なのでしょうか。中国で驚いたのは、仕切りも何もない、だだっ広いところに、幾つもの穴だけがが開いているだけのトイレもありました。今はないかも知れません。それに今でも困ることは、近代的な建物の水洗トイレに、ペーパーが備えられてないのです。本当に困ってしまった経験があって、それ以来、必ずポケットやカバンの中には携帯しております。

 そんな中で、一番爽快で素晴らしかったのは、四川省の山間部に行った時に、途中で寄ったトイレでした。コンクリート製の側溝式のものでいた。水が流れているのです。座るのに丁度良く作られていて、まさに《自然水洗トイレ》だったのです。見ないですむのは感謝でしたが、前にいる人のものが流れてくるのには、閉口しましたが。

 ごめんなさい、少し臭い話になりましたが、これも生きていて毎日、どなたも健康であるなら関わる話しなので、こちらに来て驚かないようにと、文化習俗の予備知識のために書いてみました。

(写真は、「シャクナゲ」の花です)

『袖すり合うも他生の縁!』

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 上海で乗船した「蘇州号」の客室で、いくつか年上の方と同室になりました。お聞きすると、上の兄と同学年で、大阪人でした。学校を終えられてから、東京の会社に就職されたそうです。工場から排出される工業汚染物質を取り除く、「環境浄化」の製品を扱う会社に、長く働かれたとのことでした。退職後、故郷の大阪に戻り、すぐに蘇州に移り住んでおられるのです。蘇州では、日本語を教えたり、NGOの働きで、日本を紹介されてきているそうでした。3ヶ月に一度、上海と大阪を往復されておられ、その帰阪の船で、この方と《袖すり合わせること》となったわけです。

 とても話好きな方で、多くのことをお聞きして、とても好い時を過ごしました。これはぎゅうぎゅうに詰められて、人との距離が窮屈なほどに近過ぎる飛行機を利用したのでは、決して叶えられない交わりなのです。海風に当たることができ、のんびりとした旅ができる利点も、船旅なのですが、こういった人生の先輩や同輩や後輩たちから学べる機会というのは、実に素晴らいいものだと知ったのが、去年の夏のことでした。往復の船で、何人もの方と話し込んだのが、実に有意義で、楽しかったわけです。「船上学校」とでも言ったらいいのかも知れません。その味が忘れずに、この冬の帰国時にも、船を利用したわけです。船頭任せの旅で、急ぐ必要もありませんから、何くれとなく話し合えたわけです。

 この方が、昭和20年の大阪の空襲で、お母さんの手に引かれて、焼夷弾の炸裂し、燃え広がる大阪の街を逃げまわった経験を話してくれました。橋が落ちてしまった淀川を、大きく迂回しながら渡り、大阪駅にたどり着き、そこからお父様か、どなたかの故郷の東北の街に疎開をして行かれたのだそうです。私は生まれたばかりでしたし、山の中にいましたので、そういった経験をしませんでした。そんな九死に一生を得るような戦争体験を聞いて、今さらながら戦争の怖さを思い返したわけです。私の兄は、山の中から眺めた甲府の街が燃えていて、空が真っ赤に焦げていたのを覚えていて話してくれたことがあります。そうしますと、この方は、いわゆる《焼け跡派》と呼ばれる世代の方であり、戦争の実体験を持たれた方なわけです。

 多くの人が亡くなられた中を、生き延びてきたのですから、やはり生命力の強さを感じ、何があっても動じない、柔軟な生き方を、このKさんから感じさせられたのです。不思議なのは、昨夏、その「蘇州号」で、大阪に帰る折に、お会いした方も同じ体験を話してくれたのです。お母様の手に引かれ、横浜空襲の中を逃げて、行き別れたお父様を亡くされたことを話してくれたのです。2012、3年の今、戦争が終わったのが1945年ですから、68年も経っているのにもかかわらず、生々しく戦争の記憶をお持ちの方がいて、そういった方々が、企業戦士として、戦後の荒廃した日本を復興され、生きてこられたのだということを思わされたのでした。

 『袖すり合うも他生の縁!』でしょうか、時には、嫌な人もいなくはなかったのですが、同じ時代の静風の中、風の中、嵐の中を生きてきた者同士、『人生とは出会いだ!』と、つくづく、そう思わされております。お元気に過ごされることを願っております。

(写真は、菱川師宣筆「見返り美人」です)