ハプニング

 

 

昨日の元旦、知人の知り合いの医師の勤める省立医院に、診察のために、家内が行きました。要入院とのことで、急遽、そのまま入院することになりました。

2011年、東日本大震災のありました直後に、東京の板橋の病院で手術を受けた、「胆嚢摘出」から7年が経過しています、その折、執刀医から、「膵炎」が将来起こりうると言われていました。その言葉の様に、その「膵炎」の治療にために入院しました。重症ではありませんのでご安心ください。知人のご婦人が、ご自分の母親の様に、昨晩、付き添っていてくださっています。

とりあえず、一週間ほど入院し、様子を見ながら、その後を話し合おうということでした。昨日は、もうお見舞いの多くの方が来てくださいました。その中に二人の看護士さんがいて、色々と医師と交渉してくれていました。みなさん、極めて親切にしていてくれています。

そんなハプニングの元旦でした。月末には、ビザの関係で、一時帰国を予定しています。恢復して、無事に帰国できるように願っています。家内のこと、ちょっと躊躇気味で、ブログの記事にしました。覚えていただけたら嬉しいです。

([HP里山を歩こう]から、広島県呉市蒲刈町(上蒲刈島)の「みかん」です)

から

おめでとうございます

 

 

2019年が始まりました。みなさまにとりまして、祝福の一年でありますようにお祈りいたします。

今、北京時間で3時半です。1年365日、ちっとも変わらない朝ですが、いつもの様に、期待に溢れた朝を迎えたところです。元旦の朝は、「一年の計」のある日だと言われて生きて来ました。まだこの街は寝静まっています。家内、子どもや孫たち、兄弟姉妹、仲間、隣人、全ての人が、平和を楽しみ、健康を感謝し、希望に溢れる一年であることを祈りました。

祖国、そしてこの中国、アジア圏、ヨーロッパ圏、アフリカ圏、南北アメリカ圏、太平洋圏が、和平であるように祈ります。とくに『住んでいる街の《平安》を願いなさい!』と要請されていますので、この街に住んでいるみなさんが、喜びや希望や感謝で溢れかえりますようにと願っております。

このブログの読者のみなさんの一年、一日一日が、天来の祝福で満ち溢れますようにお祈りします。

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指折り

 

 

「雪原に咲く花」と言われる「福寿草(フクジュソウ)」です。春を告げる花の代表で、「元日草(がんじつそう)」とか「朔日草(ついたちそう)」とも呼ばれるそうです。江戸の昔から、《めでたい》という意味で、言われ続けています。

「大晦日(おおみそか)」になりました。幾年(いくとせ)生かされてきたことでしょう。今日、一番、するに相応しいのは、この一年の「恵み」を、指折りしながら、数えることに違いありません。病に伏せった日もありましたが、その日だって、感謝で素敵なな日でした。健康である素晴らしさを、思い返すのは、そんな日だからです。

今住んでいる小区の門の近くに池があって、ついこの間まで、「蓮の花」が咲いていました。その池を見ると、跳び越えてみたい衝動に駆られるのです。きっとうまくいかないで、池の中に落ちるのではないかと思って、しないでいます。また、主要道路の中央には、「分離帯の柵」があります。それも超えてみたいのですが、うまく越超えられずに、ドスンと落ちそうで、しないのです。

何時までも、そんな若者の衝動に、行動が駆り立てられ、誘惑されるのですが、これって歳を重ねても、変わらないでいるのです。そんな自分に、呆れてしまいます。池や柵ではなく、まだ越えなければならない、〈心の柵〉がありそうです。妻と四人の子どもたちも、四人の孫たち、二人の兄と一人の弟、多くの友や同労者や隣人、そんな人たちが思いの中にやってきます。

13回目の越年を、ここ華南の街でしようとしています。昨日も多くのみなさんと、一年を振り返り、迎える2019年に、思いを馳せました。『奥さん、お大事に!』と、何人もの方が家内の体調を心配してくれました。年明けの1月末に、帰国の予定を話しましたら、帰りしな、門の外まで追いかけて来た、一人の娘たちと同世代のご婦人が、『きっと帰って来てくださいね!』と、涙目で言ってくれました。

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今はなき湯治場

 

 

昭和15年(1940年)に、作詞が西條八十、作曲が古賀政男による、「誰か故郷を思わざる」が発表され、多くの人に好まれて歌われました。

1 花摘む野辺に日は落ちて
みんなで肩を組みながら
唄をうたった帰りみち
幼馴染(おさななじみ)のあの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を想わざる

2 ひとりの姉が嫁ぐ夜に
小川の岸でさみしさに
泣いた涙のなつかしさ
幼馴染のあの山この川
ああ誰か故郷を想わざる

3 都に雨の降る夜は
涙に胸もしめりがち
遠く呼ぶのは誰の声
幼馴染のあの夢この夢
ああ誰か故郷を想わざる

私の生まれ故郷の近くの渓谷の奥に、温泉場があります。「ラジウム泉」が湧き出て、人形峠と東西双璧の知る人ぞ知る温泉です。ガンの摘出手術をして、余命宣告をされた方々が、最後の望みを繋ごうと、人聞きに聞いて、やって来ては、男も女も同じ「冷泉」で湯治をする温泉場です。39才の時に、11時間にも及ぶ手術をした私は、術後の湯治にと、上の兄が探してくれた、この温泉場に、連れて行ってもらって、一週間ほど過ごしたことがありました。

確かに、腹部や背中に、大きな手術痕のある方たちが、狭い浴槽に浸かっては、病歴を語ったり、人形峠に出かけた話や、事業や家族について、話の花を咲かせていました。ほとんどの方が、私よりも年配者で、聞き役でした。ラムネの様に、気泡が体につく時が、薬効があるとかで、湯を動かさない様に入るのです。湧き出し口に口を寄せて、吸気している方もいました。

その後、何度も、ここに出掛けては湯治を続けたのです。ある時、家内を誘って行った時(家内は女湯に入ったのですが)、一緒に、温泉に入っていた六十代の方が、『お茶を一緒に飲みましょう!』と部屋に招いてくれたのです。床の間に、アコーデオンが置いてあって、彼が弾いて、一緒に歌謡曲を歌ったのです。山深い出湯で、昔の歌を歌ったのですが、この「誰か故郷を思わざる」もあって、うる覚えの歌詞で声を合わせました。

もう30年も前のことですが、「ふるさと」が近かったので、「花摘む野辺」も「落日」も「小川」も「山」も、ありのままの情感が、この歌に込められていました。アコーデオンの音色は、哀調があって、物悲しかったのが偲ばれます。渓谷を上り詰めた部落は、温泉町で、人家はわずかでした。冬枯れの落ち葉の細い道を歩いて出かけた日が思い出されます。

もう此処、華南の街は、私たちにとっての「第二のふるさと」になってしまいました。箱庭の様な、日本の情景とは違って、だだっ広く広がる世界であるのは、趣を異にするのですが、思いは同じです。此処で採れた物を食べ、此処で湧き出る水を飲み、此処でそよぐ風に頬を当て、朝日夕日を眺め、異国のことばを聞いて、つたなく喋ってきた年月が、此処にあります。あの温泉宿は、もうすでに廃業してしまいました。一緒に歌った方は、お元気でしょうか。さて何時まで、此処にいられるのでしょうか。

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終息

 

 

12月最後の日曜日になりました。中国語では、「星期天xingqitian」とか「礼拜天libaitian」と言われています。2018年、〈明治150年〉も、いろいろなことが公私にわたってありましたが、「恙無く(つつがなく)」過ごすことができて、感謝が溢れてきます。

今朝は、7℃ほどの気温ですが、予報よりも2℃ほど高かった様です。この朝顔の写真は、このブログに掲載した、最後のものです。今朝、鉢を見ますと、もう咲きそうな気配がしていません。それで「終息宣言」をします。第二期は、次男夫婦が来訪の折に、タネを持ってきてくれ、それを播いたのですが、どうも年越しの朝顔にはならない様です。でも、次々と咲いてくれて、大変楽しむことができました。

昨日は、知人の漢方医が往診してくださって、家内を診察してくださいました。先々週、大咳をしている方と2時間も、家内が一緒にいて、どうも、風邪がうつった様で、友人が往診を要請してくれました。煎じた漢方薬の匂いが、家の中に立ち込めています。《良薬口に苦し》と言いながら、家内が飲んでいます。快方に向かっています。

好い日曜日をお過ごしください。

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三つ子

 

 

東映の「時代劇映画」のフアンだった、小学生の私は、ほとんど毎週末、立川の封切館に出かけていました。観た後、次週の予告編を観た私は、それに誘われて、また出掛けて行くのでした。父が子どもの頃から知っていた月形龍之介(本名まで知っていたので近旧制中学の同窓の先輩でした)、その他に片岡千恵蔵、近衛十四郎、市川右太衛門を、スクリーンの中に、手を握りしめながら眺めていました。

テレビのない時代、映画鑑賞はお金がかかったわけです。それなのに父は、そのために毎回、小遣いをくれたのです。父が親戚のおばさんから、『中村錦之助に似てる!』と、小学生の私は言われて、何時の日にか、映画俳優瓊でもなりたかったのかも知れません。そんな贅沢をさせてくれた父は、そんな思いを知ってか、小遣いをくれたのでしょうか。兄たちも、弟も、そんな我が儘は許されていなかったのです。

映画に刺激されて、当時の子どもたちの遊びは、「チャンバラ」でした。里山に入って行っては、小枝を切り取って、小刀の「肥後守」で、木を切り刻んで、刀を作ったのです。それを、腰のベルトに挟んで、映画さながらの斬り合いをするのです。ベーゴマを回したり、メンコをしたり、馬乗りや馬跳び、宝島や鬼ごっこや陣取りなど、集団遊びをしていて、宿題をやった記憶がないほどでした。

きっと、病弱だった私が、健康を回復して、小学校の四年生頃から、やりたい放題に、親はさせてくれたのでしょう。学校では落ち着いて席につけずに、悪戯をしては、廊下や校長室に立たされていました。親は、それを知っていても、知らぬそぶりで、一度も叱られた覚えがないのです。もしかしたら、自分に都合の悪いことは忘れてしまっていたのかも知れません。

五年生の時は、クラスの番長になっていました。組分けの時に、最初に呼ばれたので、みんなに注目されて番長にされたのです。我が儘に育った私は、その才覚がなく、一年後の六年生の時には、寝返りを打たれて、立場を失ってしまい、消防署の所長の息子だけが仲間でした。子供の世界って、結構大変なのですね。

そんなで、時代劇のフアンだった私は、年をとってから、それが蒸し返しになって、「勧善懲悪」で、強きをくじき、弱きを助ける、筋書きのはっきりしていて、同じ様な話の結末で終わって行くのが好きで、時々見てしまいます。

黒澤明のリアルで怖いものではなく、切られて倒れるだけの時代劇映画が好きなのです。テレビ映画で、「鬼平犯科帳」がよかった。同じ学年の中村吉右衛門は、歌舞伎俳優なのに、テレビの娯楽映画の主演をしていました。テレビ放映されていた時期には、観たことがなかったのですが、今でも、“youtube “で見ることができるのです。

「三つ子の魂百まで」、子ども心を、鷲掴みにされた私は、中年期には見向きもしなかった、時代劇の観劇に、年を重ねた今、呼び戻されているのかも知れません。

秘訣

 

 

中国の「華夏小康網」が、2018年12月21日、《日本人の長寿の秘訣》について紹介する記事を掲載したことを、"レコードチャイナ"が、次の様に伝えています。

『「長寿国」といえばすぐに日本が思いつくと紹介。世界保健機関(WHO)の2016年の統計によると、日本人の平均寿命は83.7歳だったが、一方の中国人は76.1歳で、世界的には長くも短くもなく、81年と比べると8.3歳も延びていると伝えています。

その上で記事は、「小さな海を隔てただけで中国人と日本人では寿命がこんなにも違うのはなぜなのか」と疑問を投げ掛け、日本人の長寿の秘訣には3つあると分析しました。

その1つが「食の多様化」です。1985年に、厚生労働省は「1日30品目を食べる」ことを推奨したほか、日本料理は薄味で油が少なく、食事量も8分目に抑えるため、長寿に貢献していると分析。しかし、日本人は醤油をよく使用するため、塩分を控えめにすることも重要だと指摘した。

2つ目は「スポーツをする社会的な雰囲気があること」だ。日本の生活はテンポが速くスポーツをする時間のない人が多いが、普段から公共の交通手段や自転車を利用することで、よく体を動かしていると分析。長野県では「健康長寿体操」を推進して高齢者が積極的に体操をしていることや、高齢になっても社会活動に参加することで運動量を保持していると紹介し、これが寿命を延ばす要因になっているとした。

3つ目は「医療保険制度」だ。日本には国民健康保険、社会保険、高齢者医療制度の3種類の医療保険制度があり、いつでもどこでも医療を受けられることが、長寿に寄与していると紹介。ほかにも、環境保護制度が厳格に実施され、公共衛生がきちんとしていることで伝染病のまん延を防いでいることや、中庸の道を行き、飲食や感情など何事も極端にならないようにしていることも関係していると分析した。』

昔、私たち日本は、大陸中国に目を向け、様々なことを、この国から学ぶべく、多くの留学生を、何度も派遣しました。 その最たるものは、「漢字」でした。また、国の統治の制度や方法も学び、平城京や平安京の都まで、似せて作っています。ところが、今、その中国から日本への再評価がなされ様としています。この記事は、健康や長寿について、日本を注目しているからです。

私たちの周りには、《日本大好き》を声にしている方たちがおいでです。それは《憧れ》なのかも知れません。多くの人たちは、過去に拘らないで、友好的なのです。京都大学で博士号を取得された方は、こちらの大学の准教授ですが、日本の大学で教えたいと願っておいでです。徳島や滋賀にもいたことがあり、その時の日本人の親切さが忘れられないのでしょう。

(山梨県上野原市の「長寿食事」です)

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来年こそはの

 

 

年の暮れになって、呉市の野原に咲く「セイヨウカラシナ」です[HP/里山を歩こう]。今年は、マルタンさんが配信くださる、多くの写真を、私のBlogにアップさせていただきました。慰められたり、自然観察に誘われたりされました。ありがとうございました。街中のアスファルトやコンクリートにばかり目が向きますが、「里山」に誘われましたが、なかなか出ていけないままです。「目を向けて来年こそはの年の暮れ」です。

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土埃

 


 

西部開拓のアメリカで、東部から幌馬車を仕立てて、着いた土地を、『俺のもの!』と、杭を打つと自分の所有になったと聞きました。それで、道なき道を、ひたすら走り続けたのです。そんな中、金曜日の夜になると、宿営地に荷を下ろし、馬の鞍を外し、水と餌を十分に与えて休ませました。幌馬車の車輪の修理も、馬蹄の取り換えも、洗濯も、人の心の休息もしたのです。

日曜日になると、洗濯した清潔な服に着替え、家長が導いて、昔ながらの「歌」を歌い、これも昔ながらの「本」を開いて、家族に読んで聞かせ、旅の無事と家族の健康を願ったのです。月曜日になると、馬に鞍をつけ、荷を載せた幌馬車に馬をつなぎ、新しい週の行程を進んだのです。そうした人たちは、順調に旅を続け、病気も怪我も疲労もないまま、目的地に無事に到着したそうです。

その幌馬車の車輪が持ち上げる土埃(つちぼこり)は、すごかったのでしょうね。そのことを想像した時、高校の修学旅行で北海道に行った時のことを思い出すのです。4クラス、4台のバスが未舗装の道路を、土埃を上げて疾走していたのです。3組の私たちのバスは、前のバスの車輪の上げる土埃で、視界を遮られることが多かったのです。

函館の修道院も五稜郭も、札幌の北大も、洞爺湖も、アイヌ民族の居住地も、層雲峡も、マリモの摩周湖も、オホーツクの海原もみんな雄大でした。でも一番の印象は、〈未舗装の道の土埃〉でした。そして、強行軍での疲れたことだったでしょうか。半世紀以上も前の北海道は、そんなだったのです。ところが去年入院手術で訪れた北海道は、見違えるほどに整備され、高速道路網が張り巡らされていました。

痛い経験の日々を、また腕が自由に動かせるのだとの望みを持って、リハビリに励んだのです。若い療法士のみなさんの熱心な施術には、大変感謝したのです。同じベッドで寝起きをし、毎食心配りをされた食事をいただき、同じ階段を昇り降りして、リハビリンターに通いました。時々、〈ご褒美〉に、売店で買った一口羊羹やあんパンを頬張ったのです。

 

 

でも、とりわけ週末は寂しかったのです。病友たちは地元の方が多く、遠くても車で3時間で来ることができて、家族が見舞いにやって来ていました。差し入れのお裾分けをいただくのは嬉しいのですが、ちょっと“ショッパイ”感じがしたりでした。そんな中、友人が、クッキーセットを送ってくれました。《値千金》、大事に何日にも亘って、少し少しと食べて励まされました。友とは好(よ)きものです。

そして遂に、次男夫婦が、訪ねて来てくれたのです。ものの小一時間ほどしかいませんでした。でも、中村屋のキンツバ、榮太郎の和菓子、舟和の芋羊羹などを持って来てくれたのです。病友たちに〈お返し〉もできて、美味しかったり嬉しかったりでした。わが子の訪問、息子の嫁、家族っていいものですね。

今年、「胆振(いぶり)地方」で、大きな地震が起こり、甚大な被害がありましたが、被災者のみなさんは、落ち着かれたでしょうか。江戸防備のために、甲州と江戸の間に、《千人隊》を、幕府の開幕期には、八王子に置いたのですが、明治維新後、職と責任を失った《千人隊》の一部の方たちが、北海道開拓にやって来て、入植したのが、この「胆振」でした。

千人隊の末裔の方が、旧国鉄に務めておられて、わが家の近くの踏切番をされておいででした。弟が招かれて、八王子市千人町のお宅に遊びに行ってたことがありました。この方の親族も、胆振入植をされていたのでしょうか。そこは、北海道でも、冬季に雪の少ない、暖かな地だそうです。

(西部開拓期の幌馬車と芋羊羹です)

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もう少し日が経つと、お米屋さんに注文してあった「餅」が、毎年の様に、父の家に配達されてきました。その餅が、適当な硬さになると、父は、竹製の裁縫用の物差しを当てて、大きさを定め、包丁で平餅を等分に切って餅箱に入れて、正月の準備をしていました。それは父の性格が現れるのでしょうか、実に几帳面(きちょうめん)な作業でした。

元旦の朝、四人の息子に、『允、憲、準、徹、いくつ喰う?』と聞いて、母と自分の数を合わせて、七輪に持ち焼き用の網を乗せて、丁寧に返しながら焼いてくれるのです。焼けると、母が小松菜と鶏肉を具に、醤油ベースの出汁の大きな鍋の中に入れて、さっと煮て、碗に盛って、母が暮れの29日頃から作り置きした御節料理と一緒に、『いただきまーす!』と言うやいなや食べ始めるのです。

美味しかったし、楽しかった。関東風のさっぱりした雑煮は、まさに正月の味覚でした。昔ながらの御節料理を、父が作り手の母を褒めていました。あの時は、取り合いも、摑み合いの喧嘩もなく、ずいぶん和やかでした。あの時が「団欒(だんらん)」だったのでしょう。いつもは、まるで〈戦場〉の様な家でしたが、いつの間にか、みんなが和やかになっていきました。兄弟喧嘩は、父の家では"リクレーション"だったのです。

この育った家は、常時、窓を解き放っていましたから、みんな近所に筒抜で、ずいぶん荒っぽい家族集団だったのです。家内が、私と結婚をする旨、知らせた時、家内の上司が、『あの家の息子と結婚して大丈夫?』と心配したそうです。その上司は、兄たちと弟と、私の子供時代を知っていて、そう言ったそうです。何しろ有名だったからです。

それが、街中の心配をよそに、みんな落ち着いて、会社員や教師や倶楽部長になったりしてしまったので、これまた『変われば、変わるものだ!』と、街中を驚かせてしまったのでしょう。もう今や、みんな七十代の高齢の世代に入って、上の兄など、そろそろ「ひ孫」が生まれるのではないでしょうか。

この暮れ、兄たちと弟は、一緒に食事をすると言っています。私は参加できないのですが、みんなが羨ましがるほど、仲が良くなっているのです。これって、あの頃の"リクレーション"の《実》なのでしょうか。

(これにちょっと似ていたのが父の家での「お雑煮」でした)

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