これ

 

 

『これさえあれば、他には何もいらない!』と言う《これ》が私にあります。「愛」とか、「夢」とか、も少し現実的には「お金」とかが考えられそうですが、食べ物のことで、《蜆の味噌汁》なのです。美味しい和牛とか、中トロの刺身とか、子牛肉のシチュウとか、あればうれしいのですが、空腹の私にとっては、ただ《しじみの味噌汁》と、炊きたてのご飯さえあれば、満ち足りるのです。これに二切れ、三切れの沢庵があればなおよろし、ですが。

今、こんなことを、iPadに打ち込んでいる間に、もう唾液腺が活発に働き始めてしまっています。貧乏性なのかも知れません。しかし、体が必要を覚えていて、これを要求するのでしょうか。この街にやって来て、学校で日本語を教えていた頃に、次の授業まで、時間があったので、近くの川辺を散歩していたのです。街を南北に新市街と旧市街に分けている河川でした。その川の流れの曲がった浅瀬で、何人かの人が、蜆漁をしていたのです。

今は驚くほど綺麗になったのですが、当時この川の水質はひどかったのです。そこで獲ったシジミが、市場で売られていたのでしょう、それとは知らないで、『ここにも蜆がある!』と歓喜しながら買って帰って、味噌汁にしてもらって、この街で飲んで感激していたのです。それが、この光景を目の当たりにした後の私は、二度と市場で、その蜆を買うことをやめてしまいました。

 

 

父が好きな豆腐や次兄の好きな里芋の具の味噌汁が多かったのですが、きっと母が好きだったのでしょうか、ときどき、《蜆の味噌汁》を作ってくれました。実は母の故郷は、蜆漁のメッカの「宍道湖(しんじこ)」のそばの出雲の出身ですから、ご当地特産の蜆が好きだったはずです。当時は、化学的な出汁(だし)がなく、何時も煮干しで出汁を、母がとっていたから、だから美味しかったのかも知れません。

これを弟も好きなのです。母の縁故の方が出雲にいて、夏場には、鳥取の「二十世紀梨」、暮れには「出雲蕎麦と野焼き(かまぼこ)」を、毎年送ってくれる方で、四人の兄弟全員に、そうしてくれていたのです。未だに、そうしておられるそうです。戦時中、予科練に行かれて、終戦後は、父の事業を手伝ってくれた方で、我儘な私を泣きながら、負ぶってくれた、私には恩人です。屈強の若者が泣くほど、辛いことをしてもらったわけです。この方を訪ねた時に、思いっきり 「蜆料理」を満喫してきたと、弟が言っていました。聞いただけで、垂唾(すいだ)してしまったほどです。

『よーし、今度帰国したら、思いっきり・・・』と考えている 、窓から金木犀の匂いが入り込む、華南の秋の「食いしん坊」の夕暮れです。もう十月も、来週からは下旬ですね。好い日曜日をお迎えください。

(宍道湖の蜆漁です)

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好物

 

 

「食欲の秋」と言うことで、天気も空気も好く、水も清いので、食べ物が美味しい季節になりました。お酒を飲まなかった父は、食通だったのです。結構若い頃から、《旨い物》に目がなかった様です。当時、東京神田に「登亭」という鰻屋があって、父の会社の一つが、旧国鉄の神田駅の近くのビルの中にあったので、時々食べていた様です。会社の帰りに、折り詰めにした「うなぎの蒲焼」を、子どもたちに食べさせ様と、時々買ってきてくれたことがありました。

その「蒲焼」が食べたいと、入院中の父が、私に言ったのです。それで私は神田の店に行って、美味しそうな鰻を一人前買って、父に届けたのです。そんな用を頼むことになかった父に、心の片隅で、『あれっ!』と意外に思ったのを思い出します。父の元に届けると、尻尾の方を自分が食べて、同室の病友に、頭の方の身の厚い方を上げてしまったのです。旨い方を食べずに、人に上げてしまい、その喜んでいるのを見るのが好きな、そんな父でしたから、仕方がありません。

それからしばらくした退院の日に、脳溢血を起こして、病院から天に帰って行ってしまったのです。一番の好物が、「昇亭の鰻の蒲焼」だったのでしょうか。もっと食べて欲しかったと、やはりいまだに悔やむこともあります。この父は、鰻に似た「どぜう(泥鰌)」も好きで、母の故郷の小川で、可愛がっていた若者を連れては、<泥鰌すくい>をしていたそうです。それででしょうか、泥鰌料理のメッカの「浅草の駒形」で、『準、どぜうを喰いに行こうな!』と、何度か言ってくれたのです。

私も食べず仕舞いのままでは、ちょっと寂しいので、今度帰国したら、日本橋の友人と弟を誘って、駒形辺りに行ってみようと思うのです。浅草は、東京一の繁華な街で、父の青年期の一時期を過ごした街だったかも知れません。それで老舗の駒形の「どぜう屋」を贔屓(ひいき)にしていて、息子の私に相伴(しょうばん)しようと思って、そう言ったに違いありません。

この鰻と言えば、浅草の隅田川の対岸の"スカイツリー"を案内してくれた次男が、その帰りに、浅草の鰻屋で、「鰻の蒲焼」をご馳走してくれると言って、連れて行ってくれたのです。ところが、店が休みで食べられませんでした。会社の用で、この辺りに来て、同僚と一緒に食べて、美味しかったのでしょう。それで、通りすがりの店で、何か食べて終わったのです。これも食べず仕舞いは寂しいので、何時か、きっと次男と再訪することにしましょう。(「登亭」は平成24年に閉店したそうです)

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灯火

 

 

このところ、南側のベランダの下から、馥郁と、金木犀の香りがしてきて、やっぱり秋がやってきたのだと思わされています。梅の香は、微か過ぎて、花に近寄らないと嗅ぐことができませんので、嗅ぎ損ねるのでしょうが、金木犀は、玄関を開け、この建物の外のドアーを開けて出ると、もう、そこは匂いが立ち込めています。

最高の季節の到来に、夏の暑さがすごかったせいで、有難味がより一層です。柿も、栗も、葡萄も、柚子も、蜜柑も、こんなに美味のかと、実りに満ち溢れている秋を満喫しているところです。人は嘘をつくことがありますが、自然界は正直で、人を裏切ったりはしません。ほぼ暦の通り、この土地の人の言い伝えの様に、季節が巡ってまいります。

上高地は、今頃、秋色が濃くりつつあって綺麗でしょうね。知人が、雲南省に別荘を買ったそうで、一年中同じ様な気候だそうで、避暑も避寒も最適だそうです。富裕層が、買い求めているので、『ご利用ください!』と言われても交通費だって高額だし、私たちの生活水水準からは、ちょっと無理かなあ、と思うのです。

それでも、建国以前の欧米人が夏季に使っていた避暑地が、この町の北にあります。真夏、夕刻には蜩(ひぐらし)の鳴き声がし、夜間は肌寒ささえ感じるのです。今頃行ったら、厚手の布団が必要になっていて、寒がりの私には、秋冬の夜具を持参しないと無理の様です。ベニヤ板にシーツだけの床は、過保護に育った私には無理です。

ここに来たばかりの頃、冬の夜間は、日中着ていた服を着たまま、床に着くのだと、寮生活をしている学生たちから聞いて驚きました。『はーい、寝間着に着替えて!』 と、母に言われて生活してきた私には、駄目です。やっぱり、よく沸かしたお風呂に入って、鼻唄でも歌って、のんびり入浴して、綺麗さっぱりしてから出ないと駄目なのです。

こんな無理無理、駄目駄目づくしの私ですが、大丈夫なことも、少しはあります。寝たら、寒くない限り、すぐに寝着いてしまうのです。ユダヤの格言に、「まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」とあります。それでも、コーヒーを、余り飲まなくなった私は、急に飲みたくなって飲んだ夜は、なかなか寝付かれないことが、最近あるのです。運動不足もありそうですね。秋の夜長、今度の帰国には、生まれ故郷の温泉に入れることを期待し、「灯火(とうか)親しむ候」で、読書でもすることにしましょう。

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西紅柿

 

 

一年三百六十五日、欠かさずに食べている物が、私にはあります。よくも飽きもせずに食べるものだと、われながら呆れたり、感心したりするのです。こちらで生活し始めて、とくにこの華南の街に来る以前は2日に一度くらいだったでしょうか。でもこの十年以上は、毎朝励行しているのです。そう、《トマト》です。こんなに思い入れしている食べ物は、他にないのです。

スーパーマーケットや八百屋さんに行くと、まず目を向け、一直線で駆けつけるのが、山と積まれたトマト売場なのです。家に二つ三つあっても、誘惑されて買ってしまう始末です。どうして、こんなに好きになってしまったのか、自分でも分からないのです。きっと、あの《真っ赤》な色と、何とも言えない味とに魅せられてしまっているのかも知れません。作詞が荘司武、作曲が大中恩の「トマトって」の童謡があります。

トマトって
かわいい なまえだね
うえから よんでも
ト・マ・ト
したから よんでも
ト・マ・ト

トマトって
なかなか おしゃれだね
ちいさい ときには
あおいふく
おおきくなったら
あかいふく

これは、アンデス山脈の山岳の高原、ペルー原産で、メキシコに入り、それがヨーロッパに渡り、中国を経て日本に入ったそうです。それは、江戸期になっての渡来だったそうです。それで、中国では、「西红柿xihongshi/番茄fanqie」、日本では「唐柿」と呼ばれたそうです。初期には観賞用だった物が、やがて改良されて、食用になったのです。文明開化後の明治期なってから、日本人が食べ始めたのだ様です。でも本格的に食べられる様になったのは、「昭和」になってですから、《昭和の野菜》なのでしょう。

そうなんです、今朝も食べました。こちらでは卵とトマトのスープを作って飲み、生で食べることはなさそうです。でも最近は、ハンバーガーサンドに、スライスしたものが入っています。カレーにもスープにも、このトマトは使われて、わが家では《大モテ》です。留学にきている学生、教え子、家内の日本語クラスの学生、訪問客に、《トマト入りカレー》を何度作って上げたか知れません。

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あの<バーバリーの日>は、新年度の最初の日だけだった様です。あれ以来、着ている姿を見かけません。今朝登校していく小学生の服装も、いつもの通りでした。いったい1日のために、あんなにすごい<バーバリー>は、どこに行ってしまったのででょう。<タンスの肥やし>とか言われますが、「国慶節」のお祝いの前後の日にも着用した気配はありませんでした。『いったい何時着るんだろうか?』と不思議に思っている朝です。

中高と同じ制服、それは、海軍兵学校の制服似で、あの学習院の制服に似ていましが、それを着て6年間通学した私は、一度だけ、ボタンの付いた一般的な制服で通学したことがありました。ボタンは、私の学校の名の入った物で、購買部で買って、母に付け替えてもらっていました。

教師も同級生も、みんな不思議そうに見ていましたが、誰も文句を言いませんでした。校名に刻まれたボタンさえついていれば、それが制服になるわけです。襟に校章のバッジをつけるのですが、これも<◯に中・高>とある所定の物でなく、校名の二字の入ったバッジを、購買部で見つけて、襟につけていました。とにかく、変わったことをしていたのです。

学帽も、オイルを塗り込み、卵をつけてフライパンで焼き、上の部分の広がりを詰めた物に、手縫いで変装していたのです。嫌な顔をして教師に見られても、注意されませんでした。諦められていたのでしょうか。とにかく、みんなと同じでいたくない<変な奴>だったのです。

弟の絣の着物を着たり、「朴歯(ほおば)の下駄(高下駄/旧制の高校生が履いていた物です)を借りたりで、そんな格好で、平気で新宿の街を歩いたこともありました。目立ちがり屋だったのでしょう。今思い出すと、恥ずかしくなってしまうのですが、当時は得意満面でした。それって<若気の至り>と言うのでしょう。

ところが、もう、そんな元気が無くなってしまいました。周りのおじいさんの様に、白髪になり、生気が失せてきているのでしょう。それでも、《目は心の鏡》ですから、しっかり見開いて、澄んだ目でいたいと、これだけには拘りがあるのです。それは、中学生の時に決断したことでした。通学中の電車の中で、死んだ秋刀魚の目の様な、酔ったおじさんの目を見た時に、『俺はああならないぞ!』とです。

「三つ子」ならずも「中学生の魂百までも」で、"百"まで、そうあり続けたいものだと思うのです。ノーベル賞を受賞された本庶佑さんの記者会見の時の目が、《キラッ》と輝いていました。三級上の次兄と同じ学年の方です。それは、人を助けたいと思って生きている人の目の「輝き」なのです。

(久留米<かすり>の生地です)

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自分の感受性くらい

 

 

自分の感受性くらい   茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

反骨精神の溢れた女流詩人でしょうか、「現代詩の長女」と言われた茨木のり子の詩が面白いのです。“ウイキペディア”に次の様に、この方の経歴があります。

『大阪府大阪市生まれ、愛知県西尾市育ち。愛知県立西尾高等女学校を卒業後上京し、帝国女子医学・薬学・理学専門学校薬学部に進学する。上京後は、戦時下の動乱に巻き込まれ、空襲・飢餓などに苦しむが何とか生き抜き19歳の時に終戦を迎え、1946年9月に同校を繰り上げ卒業する。帝国劇場で上映されていたシェークスピアの喜劇「真夏の夜の夢」に感化され劇作の道を志す。「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれたり、自作童話2編がNHKラジオで放送されるなど童話作家・脚本家として評価される。1950年に医師である三浦安信と結婚。埼玉県所沢町(現、所沢市)に移り住む。家事のかたわら『詩学 (雑誌)』の詩学研究会という投稿欄に投稿を始める・・・』

ご自分の戦争体験を詠んだ、「わたしが一番きれいだったとき」が有名です。「作文」を、学校で教えていた時に、その教材として、私は使ったことがありました。日本の戦争責任を問う喧騒の中で、日本人も、多くを失ったことを、詩人は伝えたかったからです。同じ世代の日本女性が、戦時下と戦後に味わった体験は、こちらの学生にとっても興味津々だった様です。

級友

 

 

中学の同級で、バスケットボール部で一緒に汗を流し、上級生やOBにしごかれた仲良しが、大学を終えて、寿司職人になるために修行を始めたのです。新聞記者だったお父上の退職金で、自宅を改装して、鮨屋を始めるためでした。東京郊外のJRの駅前でした。近くに湖があって、中学時代は、よく遊びに行っては、湖上でボートを漕いだりして遊んだ、悪戯(いたずら)仲間でした。

ところが、店を始めて、軌道にのった時期に、病気で亡くなってしまったのです。同級生では最も早く召された一人でした。確か男の子が、三人いたと思います。夫人が、彼の遺志を継いで、その鮨店を続けたのです。鮨職人が残られて、営業し続けたのです。

昨日、彼のことを思い出し、あの店が続いているのかが気になり、"google"のサイトで検索してみたのです。そうしましたら2006年の記事が見つかり、夫人の名義で、店を営業しているのが分かったのです。以前訪ねた時、息子さんが店を継いでおいででしたから、親子で経営されている様です。その記事は、40周年のものでした。それから12年が経っていますから、「創業50周年」を過ぎたことになります。

家内といっしょにお邪魔したこともあって、ご夫人と名前が同じ好(よしみ)で、「三浦綾子」のフアンだと言うことで、新刊書を、家内が差し上げたことがありました。われわれ世代ですから、今も"女将(おかみ)"をしているか、息子さんの夫人に譲っておいでか、どうされておいででしょうか。

この級友に、OBの大学生が、渾名をつけていたことがあったりで、結構面白く、人気のあった仲間でした。教室の天井裏に登って、授業中なのに、国語の教師に叱られたりした仲間でした。大人の付き合いに入る前の別れでしたから、やはり「死」を真剣に考えた時期でした。

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21世紀

 

 

若い頃から思い続けてきたことがあります。将来の[人口の増加と食糧の自給の予測]とか、[大気や水質などの汚染による環境問題]、[犯罪の凶悪化]、[国際紛争]などを聞いたり読んだりして、私は考えたのです。その考え、思い続けてきたことと言うのは、『21世紀はあるのだろうか?』という懸念でした。

今年の夏から秋にかけ、日本や台湾や大陸、そして世界のあちらこちらで、台風(ハリケーン)、それに伴う水害や洪水や山の斜面の崩落、異常気温、地震、火山の爆発が起きていて、あの思ったことは、『あながち間違えではなかったのではないか!』と思い返しているのです。今世紀も、18年が経っていますし、楽観視できない世界的な状況の様に感じるのです。

『では、明日の予報です。明日も太平洋高気圧に覆われて、朝から強い日差しが照りつけそうです。予想最高気温は東京、名古屋で44度、大阪で43度、札幌でも41度と記録的な暑さが続きそうです。』、これは環境省がネットで配信した、<2100年未来の天気予報>です。これは、50年後、30年後にあっても不思議でない、もしかして5、6年後の《未来予測》かも知れませんね。

気象庁ではなく、環境省が、そう予測したという実感があります。今年、ここ華南の街で生活しながら、かつてないほどの暑さ、発汗、倦怠感は、年齢のせいばかりではなさそうです。ですから、みなさんが感じておいでの様に、秋になって、胸をなぜ下ろしているところです。

私は、いわゆ<預言書>の市販されている類の書物を、書店で買い求めて読んだり、図書館の書庫から引き出して読んでいたのではないのです。また、『大変だろうなあ!』と、つくづく思うのは、ここ中国の人口が、13億人とか15億人と言われて、多くの人々の毎日の食料や光熱水などをを賄わなければならない、国や地方の政府の責任者や担当者のご苦労です。並大抵のことではないのでしょう。

かつて大きな災害や飢饉に見舞われた国なのに、このところ自然災害だけで、国が豊かに潤っている影で、どんなに大変な行政がなされているかを考えることがあります。スイッチを入れると電気がつき、コックを開くと水が出、栓を緩めるとガスが出るのです。かつて、井戸水を汲み、薪を割ったり、炭に火を起こして、母の手伝いをしたことのある私は、当たり前のことではなく、深い感謝を覚えてるのです。外国人にも分け隔てなく、供給してくれるのを感謝を覚えています。

今春、私が運転免許証を更新しないで、失効させたのは、長く運転をしなかったからだけではなく、<排ガス規制>や<地球の保全>に協力したかった気持ちもあったのです。バスや電車、時にはタクシーに乗った方が、もう好いからです。国が対策をし始めるというよりは、個人が、それをし始める以外にないのではないでしょうか。車を三台も持っていた時期がありました。今はゼロ、自転車に乗りたいのですが、“ワイフストップ”がかかっています。そう、『歩け!』なのですね。

18年も過ぎた21世紀、いつ終わっても、いつまで続いても、一日一日、生かされている間、生き続け、歩き続け、食べたり飲んだり、過ぎたことにクヨクヨしないで、そうし続けようと思います。泣いたり笑ったり、落胆したり感動したり、悲しかったり嬉しかったり、恥じたり得意がったり、前に向かって期待しながら、そうし続けようと思っています。

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第2期目

 

 

これは、先月9月25日に掲載したアサガオです。本年第1期目の花に代わって、第2期目の秋蒔きの種が芽を出しました。次男夫婦が来てくれた時に、アサガオの種を持参してくれたものを蒔いたのです。すくすくと、二代目が育っています。咲きましたら、またアップしたいと思っています。

昔から「兄貴」と慕っていてくれる友人が、検査入院をした後、面会謝絶の状態にあると、夫人が知らせてきました。お嬢様もアトピー症で大変な状態にある様です。娘婿も、娘が1週間の出張で、術後を一人で家で過ごしています。次兄は、術後の検査で順調とのこと。みなさんの回復を願った朝でした。

今日は日曜日、好い祝日であります様に願っております。

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クコ

 

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これは、「枸杞子(クコ)」の「花」、「果実」、「乾燥した実」の写真です。わが家の乾物ケースの中には、常時、この乾燥した「枸杞子の実」があり、スープを作る時に、家内は、これを入れています。中国の家庭の常備の乾燥滋養食材です。こちらの多くの方は、水筒持参で通勤、通学しますから、その水筒の沸かしたお湯の中に、薬草などの体によい乾燥した実や葉を入れます。この「枸杞子の実」も、よく使っているのを見掛けます。

こんなに綺麗な花を咲かすことを、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。広島県の呉市安浦町の山に咲いているそうです。秋の花には、紫や黄色の花が多いのでしょうか。今頃の里山をハイキングで歩いたら、気持ちが好さそうですね。高尾山から相模湖に抜けるコースは、何度歩いたことでしょうか。 しばらく、この街の森林公園や、そこからのハイキングコースを歩いていませんから、秋晴れの日に、「おにぎり」をザックに入れて歩いて見たいものです。その折、「枸杞子の実」入りの水筒を持参しましょうか。

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