近さ

 


 

ついぞ縁も所縁(ゆかり)もないのですが、この写真の「中村吉右衛門」に、近いものを、私は感じるのです。歌舞伎の名門に生まれ、歌舞伎の道に精進し、「人間国宝」にもなった方です。もうだいぶ前になりますが、この方が主演されたテレビ番組、「鬼平犯科帳」で、幕府の火付盗賊改方長官、長谷川平蔵を演じていました。昔、若かった彼が、海軍兵学校の学生役も演じていて、その映画を観たこともありました。

と言うのは、同じ年に生まれ、同じ時代の風の中を生きたという近さなのです。褒賞や叙勲には全く縁のない私で、日本政府も生まれ故郷も、一顧だにしてくれない平々凡々を生きた私ですが、日中戦争の晩期に生まれ、物の欠乏の中に育ちましたが、自由の空気を吸いながら大きくなった同世代が、この方です。

この方は東京の都会で生まれ育ち、私は山の織りなす山村で生まれ、隣の渓谷の奥の村で育ったのですが、荒廃の中から立ち上がって行く父の世代のたゆまぬ勤勉さの中で、大人になれました。この方と私の父親も、同じ年の生まれで、彼は次男、私は三男でした。名門の生まれでも、無門の生まれでも、両親の愛を受けて育てられたことに、ただ感謝するだけです。

彼に、私が勝っているのは、四人もの子の親であることと、海外に雄飛できたことでしょうか。そんな機会はないのでしょうけど、いつかお会いしてみたいと思うのです。そういえば、同級生たちと、随分疎遠のままなのです。一昨年、中高を一緒にした同級生と、相模原で会いましたが、話して行くうちに、色々と思い出すことが多かったのです。やはり、人恋しい年末なのでしょうか。

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責任

 

The Pied Piper of Hamelin (Der Rattenfänger von Hameln) luring the children of Hamelin out of the city. Illustration by D. Baum. (Photo by Culture Club/Getty Images)

 

日本の〈童話〉にも、「猿カニ合戦」とか「桃太郎の鬼退治」とかがあって、読んでみますと、何か子ども向けではない様に感じていたのです。同じ様に、ドイツにも、「グリム兄弟」の話の中に、子ども向けではない様な話が語り継がれています。"ハーメルンの笛吹き"の物語です。

1284年、ハーメルンの村にはネズミが大繁殖し、人々は困りかねていました。ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着たが現れて、報酬をみらえるなら、ネズミを退治するともちかけます。ハーメルンの人々は男に報酬を約束したのです。それで男が笛を吹くと、村中のネズミが男のところに集まっってきたではありません。男はそのまま川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させてしまったのです。ところが、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を守らないで、報酬を拒んでしまいます。
笛吹き男はいったんハーメルンの村から姿を消したのですが、再び現れました。住民が教会に行っている間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて、この男のあとをついて行ってしまったのです。その数は130人で、二度とハーメルンの村に戻って来ませんでした。

そんな奇怪な〈集団失踪事件〉の「実話」を題材に、グリム兄弟が書き残したわけです。この話は、誘拐されてしまう様な恐怖心を、子どもたちの心に植え付けてしまうのではないか、親として心配したものです。日本でも、よく〈児童誘拐事件〉が起きていたからです。有名なのは、東京都台東区で、1963年3月に起きた「吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐事件」でした。4才の男の子を、金目当てで誘拐され、殺害してしまうと言った残忍な事件でした。事件発生から2年後に、犯人が自供して、事件は解決したのです。

実に悲しい事件でした。それで、私は忘れられませんでした。この犯人が、吉展ちゃんに目をつけたのは、この子が、親戚を訪ねる様にと、〈よそ行きの服〉を着ていたからだったそうです。わが家は、程々の経済状況で、家内は、親戚から回ってきた服や、安売りで買った服に、よくつぎ当てなどして、子どもに着せていましたので、誘拐犯の目につくこともなかったのですが、〈日本版ハーメルンの笛吹き〉に出会わないとも限らず、心配もありました。

でも、それも杞憂(きゆう)で、子育てが終わって、今や、孫の時代が巡ってきています。今、私たちが住んでいます国でも、誘拐事件があるからでしょうか、幼稚園や小学校や中学校の登下校の際は、ご両親やおじいちゃんやおばあちゃんが、しっかり、校門までと、校門から付き添っています。交通事故も起きかねないので、どの国も子育てって大変なことは、古今東西同じです。

子どもたちの安全のために、社会全体が、しっかり、子どもたちを見守る責任がありそうですね。世の中が、愛が冷えて、険悪になって来ているからです。

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朝食

 

 

 

先日、「追思会(告別式)」に参りました、海浜の村で、遅めの朝食をとったのです。この写真の様に、「锅边guobian/鍋辺」と言う料理でした(上から順に調理していました)。野菜や肉や小牡蠣(かき)に、米の粉で作った薄焼きを入れて、しばらく火を通した料理です。

その村の「菜市場」の近くの食堂で、私たちが食べた時は、具を煮込んだ中華鍋の上の方に、この米の粉を水で解いたものを上手に注いで、しばらく蓋をしていました。そこに薄焼きができて、そのまま煮込んでいたのです。実に美味しかったのです。

中国の、多くの所で食べられる、「朝食」なのだそうです。ある方は、「豆浆doujiang/豆乳」に「油条youtiao/油で揚げたパンの様な物」、お粥などですませますが、これを初めて食べて、気に入ってしまったのです。

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立川

 

 

東京の都下に「立川」と言う街があります。肺炎で死線を彷徨(さまよ)った私が、風邪をひくと、母は、学校を休ませて、その立川にある国立病院に連れて行くのが常でした。『今度、肺炎になったら、死んでしまうので、細心の注意をする様に!』と、入院時に治療にあったってくれた医師に言われた母は、神経質になって、私を守ろうとしたのです。

駅から電車に乗って、立川で下車し、国立病院に、何度連れて行かれたか知れません。小学校に低学年の頃のことです。病院帰りに、決まって母が買ってくれたのが、アメリカ製のチューウインガム、箱入りの干しぶどう、チョコレートのどれかでした。兄たちや弟に内緒で、それを買っては、甘やかせてくれたのです。当時の医療費だって半端ではなかったはずです。母は、私を、『死なせない!』と覚悟してくれたので、私は生きることができたのです。

立川の米軍基地の脇に、この国立病院があって、微熱のある私には、この通院はきつかったのですが、チョコレートにつられて、注射を打たれ、水薬や錠剤薬を飲まされました。家で寝てると、昼前に、リヤカーの魚売りの「クリヤマさん」がやって来て、わが家の前に、リヤカーを止めて、魚を売っていました。母は、きまって《マグロの刺身》を買って、食べさせてくれたのです。高価な食材でした。

やがて健康体に、私が回復したのは、小学四年生になってからでした。すっかり甘やかされた私は、父や母、兄弟たちに迷惑をかけ、いわゆる〈日本版小皇帝xiaohuangdi〉が出来上がってしまったのです。過分な愛を受けた子と言うのは、満ち足りてるのですが、我儘は、箸にも棒にもかからなかったのでしょう。ついに父は、私をこっぴどく叱ってくれました。それから、私は変わったのです。『このままではいけない!』と、父が決断したからです。

そんなで私にとって、立川は特別な街なのです。小さい頃から、大きくなってからも、米軍基地(空軍)の正門の中を覗いたり、その門前の米軍人はその家族相手の店を覗いたりしながら育ったのかも知れません。ですからアメリカ人、外人は、私には珍しくなかったのです。

その米軍基地が、日本に返還されて、何時の間にか、「国立昭和記念公園」に変えられてしまったのです。病から癒えた私は、通院のためではなく、映画やショッピングのための街に、立川は変わってしまったのです。その「空軍基地」が、子どもの遊ぶ公園になってしまうとは、何と平和な時代になったことでしょうか。

基地の周りは別として、立川は、一歩外れると、何もない殺風景な街でしたが、私にとっては、それが〈原風景〉の一つでもあります。〈シネマ通り〉があったり、競輪場もあったのですが、もう随分行 ってないのです。〈緑川〉と言うドブ川がありましたが、きっと暗渠(あんきょ)なってしまっているのでしょうか。

([HP/里山を歩こう]に投稿された多摩KAさんの撮影された昭和公園の中です)

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冬なのに

 

 

11月30の真夜中、いえ、12月1日の夜中、今朝2時頃のことです。耳元で、“ブーーン”と私の宿敵の羽の音が聞こえて来ました。そう、〈冬の蚊〉でした。跳び起きて、蚊取り線香をつけ、蚊除けのスプレイを両手と首の前後に“シュッツ”と吹き付けたのです。

今年も、5月頃に蚊帳を出して張り、半年も張ったままでしたが、先だって、やっと仕舞ったばかりでした。日本では〈木枯らし〉が吹かないまま12月に入ってしまったそうで、ここも同様、暖かなのです。夏の風物詩の蚊帳が、私には、〈網目の要塞〉で、これなしに眠られない代物です。こんなに貢献度の高い物は、他にないほどです。

また出して張るべきでしょうか。今宵も暖かなのです。今考えあぐんでいるところで、今晩も“ブーン”が聞こえそうな予感です。国を出る時に、注意するものを〈3つ〉、医者に言われていました。「生水」と「犬」と「蚊」でした。犬のためには、予防注射をした方が良いとのことで、保健所に行ってしてもらったのですが、3回すべきを、2回しかしないで来てしまったのです。

それで、犬が向こうからやってくる時、警戒し過ぎて悟られない様にしながら、注意怠りなく視界の中に、犬を入れておく様に、努めているのです。駆け引きです。そのお陰で、無事に12年を過ごせたのです。ところが、蚊は、蚊帳の中まで入ってきて、これと格闘をした時も、何度あったか知れません。

もう免疫ができていて、大丈夫ですが、でも睡眠妨害でも宿敵なのです。もう1つの水は、ペットボトルと沸かした自前の水しか飲みません。ところが、大きなタンクの水を使っていたのですが、こちらの保健所でしょうか、そこで検査をしたら、〈限りなく水道水と同じ〉という結果が出て、タンクを使うのをやめたのです。よく、これまで無事に過ぎたものです。

こちらの方から、よく言われるのが、『你习惯了吗?』です。『こちらの生活に慣れましたか?』と聞いてこられるのです。そうすると、『已经习惯了!』と答えています。『とっくに慣れましたよ!』です。〈住めば都〉で、13回目の「十二月」なのです。

(呉市に咲く「ナギナタコウジュ」です☞[HP/里山を歩こう])

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師走

 

 

初冬の瀬戸内の呉市灰ケ峰に咲く、「イナカギク」です[HP/里山を歩こう]。紫がかった綺麗な色を見せています。わが家のテーブルの上にも、路傍の商人から買った、黄色と白色、二種類の菊が生けてあり、素敵な空間を作っていてくれます。

今年も、教師だか、坊さんだかが、せわしなく走り回る「師走」になりました。年々、日の過ぎ行く様が、早くなるのを感じます。もう何年も前に、大阪の通天閣に行った時に、そこに大きな将棋の駒の「王将」が置かれてありました。阪田三吉に因んでです。一局の対決に、あの手、この手と考えながら、大阪や東京で対局した人でした。家内の生まれの堺の人で、史実と創作とは違う、礼儀正しくオシャレな人で、草履職人という庶民派だったのが、私は好きです。

今月は、長女の婿殿と二人の孫と私の「誕生月」です。こんなに長く生きられるとは思わなかったので、《おまけ》を、しかも《大陸の地》で生かしてもらっているのは、感謝でいっぱいなことです。素晴らしい年だったことにも感謝をしたいと思っております。

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芝浜

 

 

裏長屋に住む棒手振り(ぼてふり/桶を天秤棒で担いで魚などを行商する商人/江戸っ子は“ぼて”と言ったそうです)魚屋の勝五郎は、腕はいいが酒好きで怠け者。

女房 「お前さん、早く起きて河岸へ行っておくれよ。もう十日も商売休んでるじゃないか」

勝五郎 「十日も休んでたんだ。盤台(ばんだい/桶のこと)しょうがあるめえ」

女房 「ちゃんと糸底へ水を張ってあるからいつでも使えるよ」、勝五郎はしぶしぶとまだ暗い中を芝浜の魚河岸に仕入れに行く。

ところが魚河岸はまだやっていない。時の鐘の鳴るのを聞きて、

勝五郎 「かかあのやつ、時刻(とき)を間違えやがった・・・」、仕方なく浜で夜明けの風景を見ながら待っていると、革の財布が落ちているのを見つける。ずっしりと重く中には金が一ぱい入っている。

勝五郎は一目散に財布を持って長屋に帰り、女房と財布の中をを数えると小判で五十両も入っている。

勝五郎 「これだけありゃあ、もう好きな酒飲んで、遊んで暮らしていけらぁ」と、朝湯に行って、友達を呼んで昼間から飲めや歌えの大騒ぎをしたあげくに酔いつぶれて寝てしまう。

翌朝、女房に起こされ河岸に行くように言われる。

勝五郎 「河岸に?冗談言うねえ、昨日の五十両があるじゃねえか」

女房 「なに寝ぼけて馬鹿なこと言ってるんだい。夢でも見たんだろう。この家のどこにそんな五十両なんて金があるんだい。しっかりしてくれなきゃ困るよ」、昨日の大散財で部屋の中はちらかり放題だ。

勝五郎 「夢?そんなこと・・・、夢にしちゃあずいぶんとはっきりした夢、・・・どうしても夢とは思えねえ・・・財布を拾ったのが夢で、友達呼んで飲み食いしたのが本当の事か・・・?」

女房 「お前さん、あたしの言うことを疑るのかい?」

勝五郎 「そうじゃねえ・・・そうか、えれえ夢見ちまったもんだ。金拾った夢なんて、われながら情けねえや。これというのも酒のせいだ。よし、もう酒はやめて商売に精出すぜ」と、すっかり反省、改心し商売に励む。もともと腕はいいので、信用もつき評判も上がり、お得意もどんどん増えて行った。

三年もしないうちに表通りへ魚屋の店を構えるほどになった。大晦日に女房と苦労話をしていると除夜の鐘が鳴り出した。

女房 「今日はお前さんに見てもらいたいものと、聞いてもらいたい話もあるんだけど・・・」と、汚い財布を勝五郎の前へ出した。

女房 「三年前にお前さんが芝の浜で拾った財布だよ。夢なんかじゃなかったんだよ・・・」

勝五郎 「・・・なんだと、こん畜生め!」

女房 「ちょっと聞いておくれ。あの時、お前さんがこの五十両で遊んで暮らすって言うから心配になって、お前が酔いつぶれて寝ている間に大家さんに相談に行ったんだよ。”拾った金なんぞを猫糞したら手が後ろ回ってしまう。おれがお上に届けてやるから、全部、夢のことにしてしまえ”と言われて、お前さんに嘘ついて夢だ、夢だと押し付けてしまったんだよ。自分の女房にずっと嘘をつかれて、さぞ腹が立つだろう。どうかぶつなり、蹴るなり思う存分にやっとくれ」

勝五郎 「おうおう、待ってくれ・・・おれがこうして気楽に正月を迎えることができるのは、みんなお前のお蔭じゃねえか。おらぁ、改めて礼を言うぜ。この通りだ。ありがとう」

女房 「そうかい、嬉しいじゃないか・・・久しぶりに一杯飲んでもらおうと思って用意してあるんだよ。さあ、もうお燗もついてるから・・・」

勝五郎 「えっ、ほんとか、さっきからいい匂いがすると思ってたんだ。・・・じゃあ、この湯呑みについでくれ。・・・おう、お酒どの、しばらくだなあ、・・・たまらねえやどうも・・・だが、待てよ・・・」

女房 「どうしたんだい?」

勝五郎 「よそう、また夢になるといけねえ」(「落語散歩」からのあらすじ)

「もう」でしょうか、「また」でしょうか、年の暮れの「12月」になりました。この噺(はなし)は、年末になると決まって寄席にかけられるもので、寄席噺では、最も有名なものです。古今亭志ん生が得意とし、息子の志ん朝も話していました。その他にも多くの噺家が話してきたものです。私の通った学校の近くが「芝」でしたので、時代は違いますが、ちょっと身近に感じてしまいます。

賢い女房を持った飲んだくれが、改心していく、とても道徳的な話で、いつの時代でも、若者に聞かせたい、<バカバカしくない>噺です。

(日本橋を渡って来た「ぼて」です)

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訪問

 

 

昨日は、「老人院laorenyuan/老人ホーム」の訪問に誘われて、二人の友人と一緒に、隣の街に出掛けました。昔、民国時代に、海軍の学校のあった軍港の街でした。その地元のご婦人が二人おいでになっていて、私たちを迎えてくれました。この一年ほどの間に、このホームで、読書会を開いて来ていたのです。その「読書会」のメンバーの部屋を、案内されて訪ねたのです。

そのお一人、85歳のご婦人は、小学校の教師をされた方で、私たちの昼食のためにと、お金を下さったほどに、訪問を喜んでくださったのです。こぼれてしまいそうな笑顔の方で、実に素晴らしい老後を過ごしておられました。私が若い頃に読んだ伝記の人物を、実際に知っておられ、その頃のことを話してくれました。

もうお一人の方は、1919年生まれで、ちょうど100歳でした。上海の医科大学を出て、小児科医をされていたそうです。このご婦人のお父様もお母様も立派な方で、ご自分の家を開放して、徒歩で旅をする旅人のみなさんを、宿と食べ物で歓待し、迎えては送り出して奉仕をされたそうです。そういったご両親に育てられたからでしょうか、専門外の外科の手術までされて、多くの人を助けてこられた様です。

とても100歳には見えない、穏やかで素敵なお顔をされていたのです。独身のままで、弱者の医療に携わってきたそうですが、ちっとも偉そうにしていない老婦人でした。もうお一人は、部屋を訪ねた時に、机に向かって、分厚い本を読んでおられました。この方の愛読書で、読むのを欠かさないそうです。

63歳の時に素敵な体験をしてから、家族や近所の方々や、見知らぬ人々を訪ねては、その素敵な体験を話してこられたそうです。矍鑠(かくしゃく)としたご婦人で、私たちが帰る時に、玄関の脇で見送ってくれたのです。素敵な人生の先輩のみなさんでした。100歳のご婦人は、母と二歳違いでしたから、母が生きていたら、こんな感じかなと思ってみました。

そのホームに、交通事故に会われた、四川省出身の青年がいて、頭か脊椎を損傷されていました。鍼治療(リハビリ)を受けておられたのです。同室のもうお一人のご婦人も寝たきりで、体を動かせないままで話せませんでした。このお二人のために回復を願うことができました。ご婦人は涙を流しておられました。

その帰途に、市の「デーケアーセンター」を訪ねました。始まったばかりの事業で、市の援助で運営されていて、アメリカ式の素敵な施設が出来上がっていて、何人ものご老人、そこで過ごしておいででした。音楽療法やカウンセリングを学んで、その働きをして来た同行者が、こちらで奉仕する予定になっていて、その打ち合わせに同席したのです。

その「音楽奉仕」は、最初に訪ねた「老人ホーム」の医療部の医師や看護婦さんの紹介で、始まろうとしていたです。ご老人が、喜んで歓迎してくれるという証が、その「デーケアセンター」の門戸を開いたのです。その他のセンターからも、奉仕の要請があるそです。素晴らしい業が行われるのを期待したいものです。

(この町のシンボルの「罗星搭luoxingda」です)

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三吉

 

 

愛知県の知多半島に、美浜という街があり、その小野浦に「岩吉・久吉・乙吉頌徳(しょうとく)記念碑(三吉記念碑)」があります。西の大阪と、東の江戸の間を、いわば民間の海運で、様々な物資を運ぶ、尾張の廻船業は、その小野裏の港は、中継基地となって、盛んだったそうです。

まだ14、5歳の岩吉、久吉、乙吉が乗船していたのが「宝順まる」でした。1832年(天保3年)11月3日、正月を間近にして船による海運が忙しくなる時期に、「宝順丸」は、米や陶器などの荷を積み、鳥羽から江戸へ向かって出港したのです。そこから難所として恐れられていた、「遠州灘」を一気に乗り切って江戸へ向かうのです。

当時の廻船は、江戸幕府の政策上、海外に航行を禁じるため、小さく制限され、船底の浅い小型船(15mほど)しか使うことが許されませんでした。そんな船が台風に見舞われ、難船して「宝順丸」の消息はそのまま途絶えてしまったのです。太平洋上を、何と140日も漂流して、アメリカ太平洋岸のワシントン州ケープ・アラバ付近に漂着したのです。

船荷が米でしたので、食料には困りませんでしたし、水も確保できたそうです。しかし野菜がなく、多くの水夫たちは、「壊血病」に罹って亡くなっていき、年若い三人だけが生き残ります。そこで音吉たちは、インディアンのマカ族に助けられ、後にイギリス船がやって来て3人は救われたのです。

その南方約200キロほどのコロンビア川をさかのぼった所にある、毛皮交易所フォート・バンクーバーへ引き取られました。ここで3人は初めて欧米文化に触れたのです。そして、そこからハワイを経てロンドンへ行くことになります。イギリス政府は、マカオを経由して、祖国日本に、この3人を帰すことにしたのです。すでに難破して3年が経っていました。

そのマカオで、世界的な「書物」の日本語への翻訳を手掛ける、ドイツ人のギラッツフの翻訳助手を、彼らはします。その後、1837年7月(天保8年)、音吉、久吉、岩吉、そして九州の庄蔵、寿三郎、力松、熊太郎の7人の日本人たちは、キング夫妻、パーカー、ウイリアムズらと一緒に、「モリソン号」という船でマカオを出発し、日本に向かいました。沖縄の那覇でイギリスの軍艦に乗って来た、ギュツラフと一緒になり、モリソン号はさらに日本へと進みます。そして7月30日、三浦半島の浦賀の沖に着いたのです。

ところが、モリソン号は、いきなり大砲で砲撃を受けてしまいます。交渉を諦め、鹿児島で薩摩藩と話し合おうとしましたが、ここでも砲撃されたため、とうとう音吉たちは日本に帰ることを諦めて、マカオに戻ることになります。祖国のこの仕打ちは、どんなに青年たちにとって辛いことだったでしょうか。

ところが、そのマカオで、彼らは、同じ様な境遇にあった、日本の漂流民を助ける働きをし始めるのです。そして音吉は、イギリス海軍の通訳として二度、日本を訪れています。とくに1854年(安政元年)に、スターリング艦隊とともに長崎へ来た時には、「日英和親条約」の締結交渉に力を尽くし、音吉という存在は長崎に知れ渡りました。その頃には、音吉はイギリスに帰化し、ジョン・M・オトソンと、彼は名乗っていました。

その後、音吉は、マレー人の女性と結婚し、シンガポールで貿易商として生活をし、1867年に亡くなっています。数奇な運命に負けずに、生きた姿は素晴らしいものでした。この渥美半島は、私たちの長男の嫁の故郷でもあります。お父さまに案内していただき、この三吉記念碑を見ることができました。そに時、高級な伊勢海老までご馳走になったのです。ちなみに、三浦綾子は、「海嶺(かいれい)」という小説を書き、この音吉たちの漂流を題材に記しています。

(日本の近海を航行した「廻船」です)

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盤石

 

 

この家は、「ホーリン・ウオーター(落水荘/カフウマン邸)」と呼ばれ、東京の帝国ホテルを設計建築したライト(フランク・ロイド)が、ペンシルバニア近郊に建てた建築物です。週末を過ごすための家で、今では、多くの観光客が訪れる名所になっているそうです。

 

 

滝と岩盤と一体化する様な堅固な家の象徴的な建造物です。葛飾北斎の絵(「諸国滝巡り」木曽海道 小野瀑布)に啓発されて建てたのではないかとも言われています。こんな盤石(ばんじゃく)な家に似た、確固たる岩盤の上に、自分の人生を設計して、建て上げ、生きられたら素晴らしいですね。

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