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日本が《文化的な国》であることを言い表すかの様に、銀座のど真ん中に、1891年に開業した本屋さんがあります。今では、世界中からの観光客、訪問客が闊歩する街、観光の名所にあるのです。かくいう私も、学校の前の停留所から、15円だかの往復切符で都電にとび乗って、お上りさんの《銀ブラ》をしていました。財布に入れるほどのお金を持たないで、ポケットにねじ込んだ、わずかな金しか持たない若者には、目の出る様な値札が付いた物が、あふれるほどに店頭に並べて売られていました。

その本屋の社長で、ある新聞の社主に、何かの用で面会に行ったことがありました。父の知人でした。『今何をしておいでですか?』と聞かれて、アメリカ人起業家のお手伝いをしながら学んでいる旨答えたのです。そうしましたら、この方が、『外国人に雇われているよりも、僕がやっている学校で学んだ方がいいですよ。奥さんは、僕のやっている保育園で働いて、経済的に、あなたを支えられるから!』と言われたのです。

ずいぶん積極的な生き方改革の勧めでしたが、私は、現状維持こそが、導きと言って、そこを辞しました。この方は、旧南満州鉄道の役職に就いておられ、戦後間もない頃には、アメリカ人が開催する講演旅行で、通訳をされていたそうです。外国人に雇われたことで、あまり良い印象が、外国人になかったので、そんな勧めをされた様です。

あの頃、地方にいないで、『東京に出て来なさい!』との勧誘の機会が多かったのです。前の職場で、一緒に働かせて頂いた、父ほどの方から、『用があるから出て来ませんか?』と、あるホテルに呼び出された私は、食事をご馳走になったことがありました。同席していたのがある私立高校の理事長夫妻で、『私たちの学校で働きませんか!』と誘われたのです。

驚いたのは、同時に、私の弟が、その春から教壇に立つことになっていた学校だったのです。弟の話が出て来て、『実は、私の弟です!』と言ったら、ご夫妻も、私を連れ出した方も、目を丸くして驚いていたのです。こんな奇遇なことってあるんですね。また、この一緒に働かせて頂いた方の勤めていた、ある女子大学にも誘われたこともあったりで、やけにこの方に気に入られたことがありました。

そんな著名な哲学者のご子息の誘惑をくぐり抜けて、地方の街で36年、恩師から受け継いだ、日本サイズの小さな倶楽部で働かせてもらいました。それは実に素敵な年月でした。自分の人生の最善の時を、家内と4人の子と、平凡な日々を、精一杯生きたのです。今になって、その街で出会った多くの人たちを思い出しております。まさに瞬(まばた)きの間の出会いと出来事でした。

(“朝日新聞社“による都電です)

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あさがお便り

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暑い日差しが、朝から輝いています。先月解体を終えた敷地に、工事の起重車が入って、いよいよ工事が始まっています。しばらく騒音が続くのでしょうか。そんな騒ぎをよそに、ベランダで四輪の朝顔が咲きました。家内が蒔いた種が花をつけたのです。しばらく楽しめそうです。花も私たちも元気でおります。

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わが世の春

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作詞が北山修、作曲が加藤和彦で、アメリカ人のベッツイ&クリスが歌ったフォークソングの「白い色は恋人の色」は、1969年に、多くの若者を虜にしていました。

花びらの白い色は 恋人の色
なつかしい白百合は 恋人の色
ふるさとのあの人の
あの人の足もとに 咲く白百合の
花びらの白い色は 恋人の色

青空の澄んだ色は 初恋の色
どこまでも美しい 初恋の色
ふるさとのあの人と
あの人と肩並べ 見たあの時の
青空の澄んだ色は 初恋の色

夕やけの赤い色は 想い出の色
涙でゆれていた 想い出の色
ふるさとのあの人の
あの人のうるんでいた 瞳にうつる
夕やけの赤い色は 想い出の色

ベトナム戦争の反戦ソングが、日本の若者にも支持され、その流れの中で、多くのフォークソングが生まれました。この歌もそうで、やはり「昭和の歌」という感じがしてしまいます。泥沼の様にベトナム戦争が続き、中国では文化大革命が行われ、わが国では、成田に新東京空港の建設が着手されたりしていた時代でした。

日本人歌手が、アメリカの歌が翻訳されて、それを歌うことばかりでした。そん中、外国人の女性が、ギターを奏でながら、日本語で歌うということは、それまでありませんでした。しかもケバケバしくなくて、清楚な服装で、楚々として歌ったのですから、日本人、とくに若者たちが騒ぎ立ったのです。かくいう23の私も、アメリカ映画に出てくる様な、真っ赤な口紅と深いアイシャドウの出で立ちでないのが気に入ってしまいました。
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作詞の北山修は、作詞家ですが、精神科医で、大学教授を歴任しています。隣の小山市にある白鴎大学の副学長を勤めたりした方です。作曲をした加藤和彦は、”ザ・フォーク・クルセダーズ“ のメンバーの一人で、当時、日本の社会に衝撃的をもたらせた「帰ってきたヨッパライ」を作曲しています。友人に精神科医の北山修がいながら、軽井沢で60過ぎてから、うつ病が昂じたのでしょう、自死してしまいました。多くの人に、感動や安らぎを与えた人のその後の人生には、違ったことが起こってしまうのは、残念なことであります。

私は、社会人2年目で、全国で開催される研修会のお世話で、飛び回っていました。この歌がはやる前年の暮れに、〈三億円事件〉が、府中市内で起こり、私の働いていた職場にも、刑事がやって来たのです。事件は、未解決のまま今に至っていますが、犯行現場は、高校の運動部の冬季練習で、塀の周りを三周した、府中刑務所の北側の塀の外でした。

久しぶりに、この「白い色は恋人の色」を口ずさんで見ると、幼い日や、青春の日々が思い起こされてきます。ふるさとの野花や夕焼けは、瞼(まぶた)の底に焼き付いている様です。父や母がいて、兄たちや弟、近所の遊び仲間、学友などもいて、そんなに豊かではなかった時代の中で、嬉々として遊び、喧嘩し、悪戯をしていた日々が幻の様です。「白い花」が眩しかった50年も前の《わが世の春》でした。

「“Photo Chips”から白い花、ベッティとクリスです)

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朝顔2020栃木版

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昨秋11月1日に越してきたアパートの4階のベランダに、今季第一輪目の「朝顔」が、開花しました。大陸から、悲しいニュースを聞いた翌日の朝顔です。華南の街の家のベランダでも、毎年咲かせてきたのですが、今年は暗い思いの朝の開花なのです。

成績表を、学校の教務課に、定期試験の成績表を提出して、ビサの更新もかねて帰国を考えて、いつもの街と関空や成田からとは違うコース、香港経由で帰ろうと計画していました。それが実現し、香港空港でのトランジットで、空港で過ごした時は、言い知れない〈自由〉が感じられ、肩の緊張、いえ心の緊張が、〈プツン!〉と弾け飛ぶ様な経験をしました。

そんな気分が、もう味わえない様な時代を迎えてしまった様です。同じ中華系の人でも、この国の人たちの表情が全く違うのは、シンガポールや金門島に行った時に感じたのと同じです。2006年の夏に、この香港で、1週間過ごして、九龍駅から北京行きの寝台列車に、ブラジルやイギリスやアメリカからの若者たちと同乗の旅でした。なんとも言えない気の張り詰めた思いで、北京南駅の駅頭に立った日が、記憶に鮮明です。この国の祝福と、この国のみなさんの平安を願っております。

日光勤番

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八王子に、「千人町」という町が、甲州街道(現国道20号線)沿いにあります。戦後間も無く、父は、中部山岳の山の中から、四人の男の子たちの将来の教育を考えて、この八王子に引っ越したのです。戦時中に、軍需工場の軍務を果たし、戦後は、鉱石を運んだ「策動」を使って、国有林や県有林から木材を伐採して、京浜などに送り出す仕事をしていましたが、父の転居の理由は、山の中での仕事が一段落したからでもありました。

そして今、家内の入院、退院後の治療のために、ここ栃木に住むことになったのですが、その八王子と、ここ栃木とには、かつて近い繋がりがあったのだそうです。その八王子には、甲州路から、江戸に入る甲州街道沿いに、江戸防備のために「八王子千人同心」を配備されていたのです。後に、東照宮の「火の番」の日光勤番が命じられて、居住地の八王子から、裏街道で四十里で、ここ栃木を経て、日光との間を、三日半で駆けつけて任務に当たったのです。

それが「千人同心街道」と呼ばれていたのそうです。ここ栃木の宿も、交代勤務の40人ほどの同心の常宿だったかも知れません。または、夜通し歩いて通り過ぎたことも考えられます。その道中記に、次の様に記されています。

『八王子千人同心が日光東照宮勤番のために整備した街道で、甲州街道・横山宿先の千人町から日光東照宮までの40里(約160km)。宿次も整備された脇往還。 街道名は日光脇往還、日光火之番街道、日光裏街道などとも呼ばれ統一された街道名は無かった。八王子・千人町を出発した街道は多摩川を渡って拝島に入り、入間、坂戸、東松山、行田、館林を通って栃木県佐野の天明宿まで。その先は 例幣使街道、 日光西街道、 日光街道を通って日光東照宮に至っている。』

八王子市史にも、次の様にあります。

『千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。
千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。
当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791年)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868年)に千人同心が解体するまで続きました。
この年、既に幕府は瓦解し、新政府軍と旧幕府勢との間で戦いが始まっていました。やがて新政府軍は日光にもやって来ました。この時、日光火の番を勤めていた千人頭が、石坂弥次右衛門義礼(いしざかやじえもんよしかた)でした。義礼は、刀を交えることなく新政府軍に明け渡し、東照宮を戦火から救いました(その後、義礼は八王子に戻りますが、責任を追及する声もあり、帰郷した夜に切腹してしまいます)。』

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如何に、江戸幕府、徳川体制が強固なものであったかが理解されます。私の弟は、その同心の一員の末裔の方と懇意で、子どもの頃に遊びに行ったりして、いろいろな話を聞いていた様です。徳川幕府の防備の任務を託された誇りが、昭和の八王子同心の末裔にも宿っていたのです。

毎年、京都を四月一日に発って、十五日に、日光に到着した「例幣使」は、年に一度の務めでしたが、「千人同心」は、四十里を歩き、半年交代の五十人体制の勤務を、八王子、そしてここ栃木を経て、日光に至る道を辿って、倒幕まで勤番を勤め続けたのです。千人町の街道筋、今の20号線の沿道は、「銀杏並木」があって、秋の紅葉の紅葉の時期には、黄金色に彩られて、それは見事です。

(日光杉並木の古写真、〈八王子いちょう祭〉の様子です)

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備え

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“お天気.com”に、次にような記事があります。

「観天望気(かんてんぼうき)」とは、生物の行動や自然現象(雲や霧の様子)を観察して天気を予想することです。
例えば、観天望気には、
「夕日が出ると次の日は晴れる」
「おぼろ雲(高層雲)は雨の前ぶれ」
「山に笠雲がかかっていると雨が降る」
「カエルが鳴くと雨が降る」
「猫が顔を洗うと雨が降る」 
「ツバメが低く飛ぶと雨が降る」
などがあります。
高層雲は温暖前線の接近を、笠雲は水蒸気を多く含んだ空気が強風によって山にぶつかる事でできます。必ずそのような天気になるとは限りませんが、登山などの際には観天望気によって事前に注意する事ができます。

これからの天気の兆しが、自然界に現象として現れるので、いろんな〈お天気の諺〉があるのです。下駄履きの子どもの頃、本気で履いてる下駄を、足で放り上げて、『明日天気になーれ!」と願ったことがありました。

“ Red sky at night shepherds’ delight ; Red sky in the morning, shepherds’ warning.”
(イギリス/夜の赤い空は羊飼いの喜び、朝の赤い空は羊飼いへの警告)
 日本の表現は、「夕焼けは晴れ、朝焼けは雨の前兆。」

“ The ash before the oak、Choke, choke, choke,The oak before the ash、Splash, splash, splash.
 (トリネコが先なら 乾く・焦げる・枯れる オークが先なら 水が雨がザブン, ザブン, ザブン)
 [意味] トリネコの木がオークの木より若い芽を出したとき, その年の夏は乾燥が進むであろう. 作物にとっては厳しい環境になるだろう. オークの木が先に芽を出したならば, その年は温かく湿った空気が入るだろう, 雨がいっぱい降る事を示している.

「東の虹は晴れ、西の虹は雨」
「アリが巣をつくると雨が降る」
「綿雲は雨が近い」
「朝、入道雲が出ると午後は大雨」
中国の農村で言い伝えられている天気を予報した諺です。

それにしても、近年、気象異常が続き、その激しさは増し加わっています。中国の南部は大雨で洪水、東北部は雨が降らずに干ばつだと言ってきました。長江の上流では、洪水が頻発していて、「三峡ダム」は、いつでも崩壊の時を迎えるのではないかと警告されているのです。

長崎県下では、異常な豪雨だったと聞いて、わが家の眼下の「巴波川」は、今年は、どうなることかと思ったりしております。昨秋以来、四階住まいですから、洪水に襲われても、床上浸水の心配はなさそうですが、増水で外出ができなくなる可能性がありそうです。それで、雨靴と長靴を、ホームセンターで買ってきました。

また次男が、携帯用のソーラー充電器を持ってきてくれました。また娘がカンテラを買うと言ってくれました。電池と水と携帯ガスコンロなども、言われて買い求めてあります。食糧の備蓄でしょうか。備えあれば憂いなし、ですね。

(“weather news”の環状アークの映像です)

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長閑

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空から降ってくるのは、普通ですと、雨や雪、ほとんどないのですが、季節によっては雹(ひょう)などがあります。先頃、上海の街で、時々、豆腐や墨汁などが降っているとのニュースを読んだばかりです。そうです、空からではなく、屋上階の窓から捨てられた物なのです。

私たちが住んでいた華南の街の師範大学の教員住宅の建物で、『ボタン!』と音がしたので窓から見ると、ゴミの入ったプラスチックの袋が、見事に破れて、残飯が飛び、建物の間の通路上に散っていました。最近入居された上階の人の仕業でした。それまで、そんなことはなかったからです。

そこから移り住んだ、その街で、二番目によく管理されていると、高く評価された小区の中の一棟の二階に住んでいた時、時々、窓の外で、便や尿の臭いがするのです。なんだろうと思って、植え込みを見ますと、〈あのペーパー〉が引っかかっているのです(ごめんなさい尾籠な話です)。

中国では、シェアーハウスの様に、一軒の家に、複数の世帯で、多人数で住む場合が多くあるのです。天津で住み始めた時、一軒家に、8人の社会人が住んでいました。家賃を分け合って住んで経費を節約するためなのです。それで問題は、トイレの数です。間に合わない時に、何らかの方法で用足しして、処分に困って窓から遺棄するのです。

まさに異臭は、それが原因でした。幸いなことに、管理事務所に言う前に止みましたが、私は、その非常識にフンガイしたのです。常識は文化が決めるので、現実を認める以外に、違った文化圏で生きられないことになります。それでも中国で日常茶飯事の問題を規制する動きが、最近になって出てきているそうで、法整備がなされ始めています。住む街は、亜熱帯気候地帯でしたから、夕立や雷雨の激しい雨が洗い流してくれるのは感謝でした。

実は、ロンドンでも、パリでも同じ問題が、前近代にはあったそうです。上階の窓から、道路の上に、なんでも捨てられていたそうです。そのことを思い出して、”サモアラン“ で、その街で生活していました。

今、6階建てのアパートの4階に住んでいますが、騒音も物捨ても放置も、まったくありません。気遣いをしながら、みなさんが生活されておいでです。この春、隣家に生まれたスズネちゃんの元気な泣き声だけが、時折聞こえてきます。今は、長閑(のどか)な日々であります。

(友人が送信してくれた「大平山」の山麓の紫陽花です)

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735

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《735回》、このブログは、消失したものを加えると、これまで3000回以上の投稿になるのですが、その中で、一番多く話題や主題、軽く触れたのが、「父」なのです。数えてみますと、今朝のブログで、こんな投稿数になっています。

「母」に比べて、100回ほど多いのです。男の子は、《父との関係性》の方が、より大切なのかも知れません。ところで日本人の傾向は、母系社会だと言われるからでしょうか、母親との関係性が、民族的、社会的に強いと言われています。そうしますと私は、“ ファザー・コンプレックス(マザー・コンプレックスも含めてこれらは和製英語だそうで英語にはこんな表現はありません) “ が強い、〈日本の異端〉なのでしょうか。

ある時、家内と私を、とてもお世話してくださった方がおいででした。長い間支え、激励してくれたのです。この方が、食通、今流で “ グルメ"で、住んでいた街の和食、中華、焼き鳥などの店を連れ歩いてくれたのです。街中の鰻屋に連れて行ってもらった時に、新酒を注文されて、『ちょっと飲んでみませんか!』と、その時、お酒を勧められて、猪口(ちょこ)で一杯飲んだのです。40年ぶりのことでした。

若い時の酒で、美味しいと思ったことはほとんどなかったのですが、その時は、実に美味しかったのです。眠った子が起きまいかと心配しましたが、起きませんでした。この方が、だいぶ飲んだ後に、『お母ちゃんに逢いてえよ!』と、突っ伏して泣き出したのです。

懐かしい御母堂を思い起こしたのでしょう、60過ぎの男が、そう言って感極まって叫ぶように泣いたのを見聞きして、『いいなあ!』と、正直に思ったのです。それが自由な彼への印象でした。お父上は壮健で、お小遣いをもらいに、ちょくちょく顔を出す方でした。お父上を、彼は良くは言ってなかったのです。育ったのが、だいぶ複雑な家庭だったのを、この方から聞いたことがありました。

彼の様に、母を思い出して涙を流したことは、私にはありません。天寿を全うして95で召されましたし、どこに行ったかが分かり、再会の望みがありますので、泣いたことはないのです。ただ父が亡くなった時は、勤め先から病院に着くまで、滂沱(ぼうだ)の様にして泣き続けました。もっと親孝行をしたかったのに、できなかったとの悔いがあったからです。

父も、没後の所在は分かっていますし、再会の望みもあります。でも突然死、退院の朝の死は辛かったのです。兄が、父を葬り、4人で父の最後を見守りました。父は、辛い幼少期を過ごし、青年期は反抗的な生き方もあったのですが、母との結婚をする頃の二十代後半には、妻を迎え、子育てに当たる準備ができていました。親燕の様に出掛けて行っては、餌を運び続けてくれた父でした。

そうして一人前の男に育て上げてくれたのです。〈青春の蹉跌(さてつ/思い通りにならない挫折とか失敗のこと)〉って、誰にでもあるのでしょう。生まれた家の格式、伝統、見栄や面子が、子どもの一生に悪影響をもたらすことがあるのです。多少、誰もが傷を追いながら生きるのでしょう。父は、それを超えて生きたのです。

昨日の朝は、巴波川の流れが、雨で増水しているのですが、多くのツバメが水面を飛び交って餌をとっているのが眺められました。あんな風にして二親が育ててくれたのだと感謝が湧き上がってきます。戦後の食糧難の中、米も味噌も油も、わが家では尽きませんでした。あんな風に育ててくれたのは、本能ではなく、親の深い愛だったのですね。

それが大人になって分かってから、父を真正面で捉えられる様になりました。欠点ではなく、《父の優点》が思い起こされてきて、父への過分な期待過剰がなくなり、在りのままで父を受け入れられる様にされたのです。私が、自らの人間的な未熟さから、失敗を通して学んだ結果なのでしょうか。あのソフトクリームもカルメも美味しかったなあ、の梅雨の最中の朝です。

(「写真AC」から燕です)

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祝福

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世界中で、自分の住む国、街のために、世界中の国や街のために、さらに祝福や平和や恩恵を求める歌が歌われています。現下の厳粛な事態や問題を見ても、悲観しないで、悲痛な顔をやめて、将来と希望が与えられるように、大能者に向かって歌われているのです。

シンガポールで、オーストラリアで、マレーシアで、ジンバブエで、カナダで、アメリカで、インドネシアで、その歌が歌われています。科学万能の時代の真っ只中で、人は自分の非力さを悟り始めています。スーパーコンコンピュータを作ることができ、宇宙旅行の実現目前の人類が、目に見えない微小な物に翻弄されている、これが世界の現実です。

ところが人類史上、コレラ、スペイン風邪、天然痘、結核、ハンセン氏病などで屈服させられ続けてきた人類が、それらを克服できたのは、人間の科学的な研究努力だけでよっただけはなく、時間の経過で消滅され、押さえ込まれた、と言えます。偶然などではありませんでした。

対抗薬や特効薬の発明でも、人が見付けるのですが、その特効や対抗の薬の原材料は、天然の中に、すでに備えられていたことによります。人を滅ぼすまいとする、大いなる意志があって、全てが成ってくていると考える以外にありません。人は、それを見付けた、見付けさせていただいたに過ぎません。

小学校の入学前に、私は肺炎に罹って、死にそうになりました。国立病院を退院する時、母は、医師に、『今度肺炎を起こしたら、死んでしまうので、風邪をひかない様に!』と警告されたそうです。それでも何度か再発を繰り返しましたが、そんな中を生き延びられました。母の必死の看病や世話のおかげです。

生き延びたのですが、ずいぶん人に迷惑をかけながら生きてきたのです。ペニシリンやストレプトマイシンなどの薬効によったのですが、『生きよ!』と願われる生命の付与者の保持であったとしか考えられません。もちろん母の献身や医療がありました。

それで生かされた意味を、探しながら、そして感謝しながら、今日まで生きてきました。そして、私も《歌う者》に変えられて、歌うのです。『世界を祝福してください。平和をもたらしてください。この問題から勝利させてください。祝福します!』と歌うのです。

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精神の恢復を願う

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現代は、あまりにも、多くの情報が世上に湧きかえり、百論出議と言うよりは、情報過多の時代の真っ只中に、私たちはあります。100の情報源が、100の意見を述べて、発信元によって違う意見が、実に錯綜しているのかも知れません。

今回の「コロナ騒動」の中で、疫学の研究者の弁よりも、素人の見解や政治的な思惑が多く出回っていて、どう聞くかに迷ってしまいまうのです。さらに〈暴露本〉なども多く出版されています。どれも、「事実」から、感情論に陥ってしまっていて、『人の感情に振り回されたくない!』と思うこと仕切りです。

どんな時代がやってくるのでしょうか。私を育ててくれたアメリカ人の起業家は、将来に起こることを、よく話して教えてくれました。その一つが、ご自分の国の将来についてでした。『いつかアメリカは経済、財政、文化などの面で、全世界に対する、良い影響力を失うようになります。特に財政的な力が弱くなり、これまで支えてきた弱小国を援助できなくなるのです。特に、中東で、イスラエルを助け切れなくなる時がくるでしょう。』と言ったことがあました。半世紀も前の話です。

《アメリカの弱体化》は、最近特に目立ち始めていないでしょうか。激しい言葉が、暴力や暴動を生み出して、多くの街でデモが起こり、社会不安で、この国が溢れています。それらは、将来への不安定さで不安や恐れが、人々の心の中に溢れているからに違いありません。

「建国の理念」など、もう忘れ去られ、絶対的な基準が失われて、失望をアメリカ市民に生み出しています。私は、“LALA(Licensed Agencies for Relief in Asia)物質“ に養われた世代です。アメリカの篤志家たちが、占領国の学童の栄養補給のために、大きな缶に入った「スキムミルク」を、終戦後、贈ってくれました。日本中の学校では、それを水に解いて沸かし、カップで飲ませてくれたのです。

それは私の骨が強くされるために、きっと良い栄養補給だったに違いありません。戦争に負けた憎しみよりも、戦後にしてくれたことへの感謝があるのです。私が教育を受けたのも、アメリカからやって来られた教育者で医師だった方が始められた学校でした。そこで学ぶことができたのも、感謝な思いでおります。

母も兄弟たちも、そのアメリカ的な良き感化を受けて、過ごすことができたのです。と言うよりはアメリカを支え続けてきた良き伝統の影響力と言った方が良さそうです。民族的な日本主義に凝り固まらないで、《ものの考え方》に均衡を持つことができたのは、私にとっては宝なのです。特に長じてから、8年間も、この起業家と、彼の友人たちから、様々に良い影響力を受けました。若い時期に学んだことが、今の在り方の基礎、強い根幹になっているに違いありません。

それで、アメリカ社会の現状を憂えているのです。どうしようもない、大きな力がアメリカに襲いかかって、健全な基盤や脊柱が破壊されているように感じるのです。もちろんアメリカが全部良いと思っているのではありません。ただ感謝を覚えるからなのです。娘たちや孫たちの生活圏でもあるからです。健全な精神の恢復を、心から願う、夏至の過ぎた朝です。

(合衆国の成立時の様子を描いた絵画です)

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