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《735回》、このブログは、消失したものを加えると、これまで3000回以上の投稿になるのですが、その中で、一番多く話題や主題、軽く触れたのが、「父」なのです。数えてみますと、今朝のブログで、こんな投稿数になっています。

「母」に比べて、100回ほど多いのです。男の子は、《父との関係性》の方が、より大切なのかも知れません。ところで日本人の傾向は、母系社会だと言われるからでしょうか、母親との関係性が、民族的、社会的に強いと言われています。そうしますと私は、“ ファザー・コンプレックス(マザー・コンプレックスも含めてこれらは和製英語だそうで英語にはこんな表現はありません) “ が強い、〈日本の異端〉なのでしょうか。

ある時、家内と私を、とてもお世話してくださった方がおいででした。長い間支え、激励してくれたのです。この方が、食通、今流で “ グルメ"で、住んでいた街の和食、中華、焼き鳥などの店を連れ歩いてくれたのです。街中の鰻屋に連れて行ってもらった時に、新酒を注文されて、『ちょっと飲んでみませんか!』と、その時、お酒を勧められて、猪口(ちょこ)で一杯飲んだのです。40年ぶりのことでした。

若い時の酒で、美味しいと思ったことはほとんどなかったのですが、その時は、実に美味しかったのです。眠った子が起きまいかと心配しましたが、起きませんでした。この方が、だいぶ飲んだ後に、『お母ちゃんに逢いてえよ!』と、突っ伏して泣き出したのです。

懐かしい御母堂を思い起こしたのでしょう、60過ぎの男が、そう言って感極まって叫ぶように泣いたのを見聞きして、『いいなあ!』と、正直に思ったのです。それが自由な彼への印象でした。お父上は壮健で、お小遣いをもらいに、ちょくちょく顔を出す方でした。お父上を、彼は良くは言ってなかったのです。育ったのが、だいぶ複雑な家庭だったのを、この方から聞いたことがありました。

彼の様に、母を思い出して涙を流したことは、私にはありません。天寿を全うして95で召されましたし、どこに行ったかが分かり、再会の望みがありますので、泣いたことはないのです。ただ父が亡くなった時は、勤め先から病院に着くまで、滂沱(ぼうだ)の様にして泣き続けました。もっと親孝行をしたかったのに、できなかったとの悔いがあったからです。

父も、没後の所在は分かっていますし、再会の望みもあります。でも突然死、退院の朝の死は辛かったのです。兄が、父を葬り、4人で父の最後を見守りました。父は、辛い幼少期を過ごし、青年期は反抗的な生き方もあったのですが、母との結婚をする頃の二十代後半には、妻を迎え、子育てに当たる準備ができていました。親燕の様に出掛けて行っては、餌を運び続けてくれた父でした。

そうして一人前の男に育て上げてくれたのです。〈青春の蹉跌(さてつ/思い通りにならない挫折とか失敗のこと)〉って、誰にでもあるのでしょう。生まれた家の格式、伝統、見栄や面子が、子どもの一生に悪影響をもたらすことがあるのです。多少、誰もが傷を追いながら生きるのでしょう。父は、それを超えて生きたのです。

昨日の朝は、巴波川の流れが、雨で増水しているのですが、多くのツバメが水面を飛び交って餌をとっているのが眺められました。あんな風にして二親が育ててくれたのだと感謝が湧き上がってきます。戦後の食糧難の中、米も味噌も油も、わが家では尽きませんでした。あんな風に育ててくれたのは、本能ではなく、親の深い愛だったのですね。

それが大人になって分かってから、父を真正面で捉えられる様になりました。欠点ではなく、《父の優点》が思い起こされてきて、父への過分な期待過剰がなくなり、在りのままで父を受け入れられる様にされたのです。私が、自らの人間的な未熟さから、失敗を通して学んだ結果なのでしょうか。あのソフトクリームもカルメも美味しかったなあ、の梅雨の最中の朝です。

(「写真AC」から燕です)

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