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日本が《文化的な国》であることを言い表すかの様に、銀座のど真ん中に、1891年に開業した本屋さんがあります。今では、世界中からの観光客、訪問客が闊歩する街、観光の名所にあるのです。かくいう私も、学校の前の停留所から、15円だかの往復切符で都電にとび乗って、お上りさんの《銀ブラ》をしていました。財布に入れるほどのお金を持たないで、ポケットにねじ込んだ、わずかな金しか持たない若者には、目の出る様な値札が付いた物が、あふれるほどに店頭に並べて売られていました。

その本屋の社長で、ある新聞の社主に、何かの用で面会に行ったことがありました。父の知人でした。『今何をしておいでですか?』と聞かれて、アメリカ人起業家のお手伝いをしながら学んでいる旨答えたのです。そうしましたら、この方が、『外国人に雇われているよりも、僕がやっている学校で学んだ方がいいですよ。奥さんは、僕のやっている保育園で働いて、経済的に、あなたを支えられるから!』と言われたのです。

ずいぶん積極的な生き方改革の勧めでしたが、私は、現状維持こそが、導きと言って、そこを辞しました。この方は、旧南満州鉄道の役職に就いておられ、戦後間もない頃には、アメリカ人が開催する講演旅行で、通訳をされていたそうです。外国人に雇われたことで、あまり良い印象が、外国人になかったので、そんな勧めをされた様です。

あの頃、地方にいないで、『東京に出て来なさい!』との勧誘の機会が多かったのです。前の職場で、一緒に働かせて頂いた、父ほどの方から、『用があるから出て来ませんか?』と、あるホテルに呼び出された私は、食事をご馳走になったことがありました。同席していたのがある私立高校の理事長夫妻で、『私たちの学校で働きませんか!』と誘われたのです。

驚いたのは、同時に、私の弟が、その春から教壇に立つことになっていた学校だったのです。弟の話が出て来て、『実は、私の弟です!』と言ったら、ご夫妻も、私を連れ出した方も、目を丸くして驚いていたのです。こんな奇遇なことってあるんですね。また、この一緒に働かせて頂いた方の勤めていた、ある女子大学にも誘われたこともあったりで、やけにこの方に気に入られたことがありました。

そんな著名な哲学者のご子息の誘惑をくぐり抜けて、地方の街で36年、恩師から受け継いだ、日本サイズの小さな倶楽部で働かせてもらいました。それは実に素敵な年月でした。自分の人生の最善の時を、家内と4人の子と、平凡な日々を、精一杯生きたのです。今になって、その街で出会った多くの人たちを思い出しております。まさに瞬(まばた)きの間の出会いと出来事でした。

(“朝日新聞社“による都電です)

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