日光勤番

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八王子に、「千人町」という町が、甲州街道(現国道20号線)沿いにあります。戦後間も無く、父は、中部山岳の山の中から、四人の男の子たちの将来の教育を考えて、この八王子に引っ越したのです。戦時中に、軍需工場の軍務を果たし、戦後は、鉱石を運んだ「策動」を使って、国有林や県有林から木材を伐採して、京浜などに送り出す仕事をしていましたが、父の転居の理由は、山の中での仕事が一段落したからでもありました。

そして今、家内の入院、退院後の治療のために、ここ栃木に住むことになったのですが、その八王子と、ここ栃木とには、かつて近い繋がりがあったのだそうです。その八王子には、甲州路から、江戸に入る甲州街道沿いに、江戸防備のために「八王子千人同心」を配備されていたのです。後に、東照宮の「火の番」の日光勤番が命じられて、居住地の八王子から、裏街道で四十里で、ここ栃木を経て、日光との間を、三日半で駆けつけて任務に当たったのです。

それが「千人同心街道」と呼ばれていたのそうです。ここ栃木の宿も、交代勤務の40人ほどの同心の常宿だったかも知れません。または、夜通し歩いて通り過ぎたことも考えられます。その道中記に、次の様に記されています。

『八王子千人同心が日光東照宮勤番のために整備した街道で、甲州街道・横山宿先の千人町から日光東照宮までの40里(約160km)。宿次も整備された脇往還。 街道名は日光脇往還、日光火之番街道、日光裏街道などとも呼ばれ統一された街道名は無かった。八王子・千人町を出発した街道は多摩川を渡って拝島に入り、入間、坂戸、東松山、行田、館林を通って栃木県佐野の天明宿まで。その先は 例幣使街道、 日光西街道、 日光街道を通って日光東照宮に至っている。』

八王子市史にも、次の様にあります。

『千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。
千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。
当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791年)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868年)に千人同心が解体するまで続きました。
この年、既に幕府は瓦解し、新政府軍と旧幕府勢との間で戦いが始まっていました。やがて新政府軍は日光にもやって来ました。この時、日光火の番を勤めていた千人頭が、石坂弥次右衛門義礼(いしざかやじえもんよしかた)でした。義礼は、刀を交えることなく新政府軍に明け渡し、東照宮を戦火から救いました(その後、義礼は八王子に戻りますが、責任を追及する声もあり、帰郷した夜に切腹してしまいます)。』

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如何に、江戸幕府、徳川体制が強固なものであったかが理解されます。私の弟は、その同心の一員の末裔の方と懇意で、子どもの頃に遊びに行ったりして、いろいろな話を聞いていた様です。徳川幕府の防備の任務を託された誇りが、昭和の八王子同心の末裔にも宿っていたのです。

毎年、京都を四月一日に発って、十五日に、日光に到着した「例幣使」は、年に一度の務めでしたが、「千人同心」は、四十里を歩き、半年交代の五十人体制の勤務を、八王子、そしてここ栃木を経て、日光に至る道を辿って、倒幕まで勤番を勤め続けたのです。千人町の街道筋、今の20号線の沿道は、「銀杏並木」があって、秋の紅葉の紅葉の時期には、黄金色に彩られて、それは見事です。

(日光杉並木の古写真、〈八王子いちょう祭〉の様子です)

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