評価

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 「その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。 (レビ記27章3、5〜7節)」

 これは、古代ユダヤ民族の《人身価値》をお金で換算したものです。性別や年齢に応じて、人の価値が変わっていたのです。長男と次女の息子たちが、今十代ですから、「二十シケル」です。ところが、もうとっくに六十を過ぎた私は「十五シケル」、家内は「十シケル」で、孫よりも少なくなっているのです。

 では現代社会は、人の価値を、どんな度量衡で図るのでしょうか。日本政府は、もう年金生活で納税しなくなった上級国民ではない私に、どんな価値づけをしてくれているのでしょうか。しかも国外で十数年も過ごして留守をしていた私をです。国への貢献度を測ってみますと「ほとんど無」と認定されるのでしょうか。

 としますと、「楢山節考」のお婆ちゃんの様に姥捨山、爺捨山行きの対象者なのでしょう。ところが私の愛読書には、

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43章4節)」

と、がっかりしている私に、「創造者」の評価が記されています。《愛の対象者》だと言って接してくださるのです。しかも《高価》で《尊い》と言って優遇してくださるのです。年齢には関係なくです。昨日も、私たちより少々シワが多いだけの九十歳のご婦人が、わが家を、お嫁さんと一緒に訪ねてくださいました。渋茶と煎餅を食べながら談笑させていただいたのです。どこも悪くなくお元気でした。

 このご婦人も私たちも、とうの昔に〈山行き〉か〈佃煮〉だったのに、街中に住むことができて、なんと感謝なことでしょうか。イスラエルの社会では、ご用のすんだ老人の価値は低かったのですが、

 「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 (レビ19章32節)」

とも定めて、《敬意》を示すように勧めています。しかも《起立》してです。私が中国の大学のクラスで、「北国の春」を歌った時に、『老人が、人の間で声を張り上げて歌うなんてことは、ここ中国ではありえないんです!』と起立した学生さんに言われたことがありました。

 ところが帰国して、山手線に乗った時、「優先席」の前に立った家内と私をチラッと見ながらも、三人の高校生がゲームに興じていたのとは違って、中国でバスに乗ると、若者たちは、席を立って、『どうぞお座りください!』と、席を譲ってくれるのです。四十代の男の方にも譲られました。

 『アッ、老人の前の起立って、こういうことなんんだ!』と思わされたのです。無神論や唯物論で教育を受けてきた若者たちが、聖書に従った行動をとるのに驚かされたのです。そう「十五シケル」の私は、懐かしく中国での《起立の出来事》を思い出しています。
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すみません

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Mimosa pudica, a creeping annual or perennial herb of the pea family

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 個性的に生きるよりも、周りのみんなと仲良く生きていきたい日本人が、もっともよく使う言葉があります。『すみません!』です。相手に対しての謝罪の気持ちを表す言葉で使いますし、敬語でもあります。何かをお願いする時にも、ありがとうの思いを込めて感謝する時にも、また家を訪ねた玄関で、玄関に人を呼ぶために、そう言ったりして使っています。

 その語源は「済む」の打ち消しで「ぬ」をつけたもので、丁寧語の『すみません』と言ったりします。でも一番は、事を済ませなかったので、し終わらないことの「謝罪」で使うのです。だいぶ卑下した言葉でもあります。

 社会生活をする上で、この一言を言うか言わないかによって、世間の目は全く違ったものになります。言われた方は、それを聞いて、『すまないと思ってるなら、まあいいか!』と言う気持ちにされて、不問にふしたり、『次からは気をつけてね!』と言ってくれるのです。

 病院の待合室で、看護師さんが、『お待たせしました!』と言いましたら、40ほどの患者が、『すまねえじゃあねえよ、こんなに待たせて!』と、正直な思いを口にしていました。そう言うことが多いからでしょうか、診察前の医師の最初の言葉は、『長らくお待たせしてすみません!』を、『如何でしたか?』を言うよりも、会うなりに言ってます。きっと、そう言う様な話し合いがあっての取り決めなのでしょう。

 ところが、その一言を言わないばかりに、仲間外れにされたり、はたまたは〈村八分〉にあったり、先程の怒れる男の様な目にあいます。ペコペコするのが嫌いな私は、〈事実としての《理由》を言って、へんに詫びないのです。それで謝罪のない人は、人に嫌われてしまいます。

 日本人は、三十の息子の不始末を、親が人々の前で謝罪します。有名な女優の息子が、犯罪に手を染めた時に、マスコミの前で謝罪していたのを見聞きしました。また学校の教師が社会的な犯罪をした後も、校長が、マスコミに前に身を晒して、『すみませんでした!』と、よく言っています。企業犯罪の場合もも同じです。

 それは、世間やマスコミを納得させるために、どうしても必要だとされる一言です。でも、それっておかしいのではないでしょうか。知事や市長になれる年齢なのに、本人の代わりの様にしての謝罪を、母親がするのはおかしいのです。母親の一言に「涙」が添えられるなら、『まあいいか!』を世間から生み出せるのです。

 お隣の韓国など、東アジアでは、どこでもありそうなことですが、島国日本では傑出して多いのです。欧米諸国では、〈個人責任〉で事を収めています。

 〈任命責任〉が問われることがあります。自分の派閥の議員が汚職をしたり、反社会的な行為をしたり、世間を騒がせた時に、派閥の長に求められる〈謝罪〉です。でも、会社の上司が謝罪して、4、5人の会社の幹部が横になって、九十度頭を下げて、『申し訳ありませんでした!』と頭を下げている光景はよく目にしますが、国政の派閥の長がするのは見たことがありません。大人扱いをしてるのでしょうか。

 『あれは、もう大人なのですから、あれに聞いてください!』と言う、成長した社会に、日本がなるのは難しいのでしょうか。少なくとも選挙権を与えられた年齢以降は、個人で謝罪をし、事を収めたらよいのでしょう。折しも、オリンピック委員会の会長が、昨日の女性蔑視の発言に、〈すみませんでした〉をしたと、ニュースが伝えています。それで、辞任は解消になるのです。撤回を即座に受け入れてしまう寛容(?)な社会だからです。

(オジギソウです)

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舟と船

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 バスコダ・ガマなどの航海時代の100年も前のことです。中国は明の時代に、鄭和(ていわ)が、大船団を従えて、見果てぬ海を、アフリカまで航海をしています。福建省泉州に行きました時に、港に古代の巨大な船の残骸が残されていたのを見ました。それは鄭和の船ではなかったのですが、それを彷彿とさせるほど大きかったのです。鄭和の率いた船は、全長130mもの巨大な木造船の船団でした。

 ところが遠洋に出ることができない、わが国の北前船や千石船は、日本の港から港をつなぐ商用船で、京大阪に諸国の米や染料や海産物などを運んだのです。北前船は30mほどの大きさでした。また多くの河川では、「舟運」が行われていて、わが家の脇を流れる巴波川でも、部賀舟でくだり、渡良瀬川の合流地近くで、高瀬舟に荷を載せ替えて、江戸との間を商用が行われていた歴史があります。

 『行きはよいよい帰りは怖い!』で、江戸へは流れを下るので容易でしたが、利根川を上る道も、帆を使ったり、手漕ぎもありましたが、支流に入る脇道を、「網手道」と呼ばれる土手があって、上り舟を、人力で曳いて上がった道で、男衆の大変な労働に支えられていた様です。それでも盛んな舟運が行われていたのです。
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 いつか、ここを浅底の舟に乗って、思川、渡良瀬川、利根川、江戸川を下って、東京湾へ行ってみたいのです。でも河川って、勝手に舟で上ったり下ったりできるのでしょうか。若い頃に、富士川を下ることを考えていたことがありましたが、治水のための堰(せき)があったりで、自然の流れにしたがっては下れないのを確かめて、諦めました。

 さらに華南の街の大きな河川を、小型船で上る計画を、外洋航路の船長をされた方に持ちかけたまま、帰国してしまいました。小さなエンジンをボートにつけたらだいぶ上流まで上れそうでした。池に木っ端を浮かべただけでは満足できない子の幼い日の夢でした。

 上海から蘇州号で、大阪に着く丸二日間の旅は楽しかったのです。飛び魚と競走している様に、大海のど真ん中を行く船旅は、船内に風呂場があって、喫水線あたりに波の飛沫を見ることができ、船風呂を楽しめたのです。あの阿倍仲麻呂には経験できなかった優雅でのんびりな船旅でした。
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 海洋国家の日本は、北前船に見られる様な「廻船(かいせん)」が行われ、江戸期以前は、御朱印船などで海外に出かけることが多かったのです。江戸の前期、山田長政はシャム(今のタイです)に出掛けた人で、ついにはシャムで王にもなっています。その話を子どもの頃に聞いて、冒険心を呼び覚まされたことがありました。
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 “ Covid-19 “ の影響で、外出も旅行もままならない今、海に出て行った人たちのことを思いながら、鄭和や長政や船頭さんたちのことを思ってみると、ちょっと閉塞感が広げられてきそうです。
(鄭和の船団、航路、高瀬舟、北前船、山田長政の乗った船です)

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誰に何を

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 『誰に聞き、何を読み、如何(どう)情報を得るか?』、これらに注意する必要があります。これは博学以上のことです。《聞き》、《読み》、《得る》を教えられて今日まで、私は生きてきたのです。怪情報、作為的な勧め、悪意に満ちた曲解が、今も私たちの周りに溢れているからです、誰もが自分の意見を発信できる機会が得られるのは、言論統制のあった昔に比べるなら驚くべき自由と特権です。でも様々な分野に騒ぎと混乱を起こして大衆操作をし、惑わす様な時代が、またやって来そうです。

 戦時中に、軍部の発信する情報を、私たちの父たちの世代は鵜呑みにさせられてしまいました。各新聞社の情報の流布の功罪、その罪は、実に大きかったのを忘れてはなりません。真実を伝えるという使命に命をかけて始まった情報機能が、強権に追い迫らて節を曲げて利用されてしまったわけです。この時代でも、ある団体や個人の都合で、押し曲げられた情報が多く発信されているのではないでしょうか。

 私たちは、長く時間を経て、《正統》と認知されてきた教えに留まるべきです。それは真理を曲げず、取り除かず、また付け加えずに、試され、闘われて、錬られて、正当性や基本性が証明された教えだからです。ところが、懐疑的な立場から「斬新な教え」、「画期的な教え」との触れ込みで、長い年月に亘って、試されて叩かれて純化された教えに、混ぜ物を加え、小さな故意の解釈をこじ付けをして、まるで〈化粧00直し〉の様にして登場し、古い教えとして認知されたものを、否定や訂正してしまい、若い未熟な世代を惑わす教えが流布されています。

 とくに〈新しい教え〉や〈啓示的な教え〉に、人は弱いのです。私のアンテナは、けっこう敏感に、耳触りの良さの中に、隠された〈おかしさ〉を検知してしまうのです。そして小さな綻(ほころび)が、全体を崩れ落ちさせてしまうのに気付いてしまいます。

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 エルサレムの城壁に、「ミロ」と言われる部分がありました。そこから敵が這い上って来るので、どうしてもその破れ口を補修する必要があったそうです。私たちの心にも、思考にも、人生そのものにも、隠された小さな罅(ひび)、見付けづらい裂け目があったら、それを早期に《修復》する必要があります。そこから不義、不正の教えが侵入してくるからです。例えば、欠陥や不足、劣等感や苦味、赦せない思いをたどって、核心が崩されてしまうのです。

 さらには世に公にされた非常識な人、性倒錯者、道徳感の欠けた人、不正な金銭感覚の人、醜聞のある人、曲解する様な者の意見や教えは聞くことを私はしません。引用もしません。おかしさが分かった時点で、そう処してきました。今日日のコロナ情報も終末情報も錯綜しています。私の愛読書に、次の様にあります。

 『良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。 (イザヤ書52章7節)』

 「良い知らせ」は、不変、不動、生命横溢、将来安泰、善意、平和の告知です。人を励まし、生かし、再生します。人の情報には、不純なものがありますが、造物主からの情報だけが、確かです。このお方から啓示を受けた人の語る言葉にだけを聞く様に、教えられ学んできたからです。私の愛読書に、『真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。 (箴言23章23節)』とあります。売ってしまわないで買えと言う勧めです。

(エルサレムです)

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将来と希望

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 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29章11節)」

 父も母も日本人で、私も日本人として育てられ、日本人である自覚を、確かなものにしながら一人の国民、市民として、これまで生きてきました。そんな自分の国民性を意識することはなかったのですが、外国人と出会い、海外生活をする段において、じょじょに意識するようになったのだと思われます。
 
 《民度の高さ》とか言う国際社会からの褒め言葉を聞くと、なぜか恥ずかしさを覚えてしまうのです。祖国を愛していますし、平和であり続けてほしいと願っています。《日本人の優秀性》などと取り上げられ、諸外国人から言われるのは、自分は好きではないのです。ただ父や母の世代が勤勉だったので、自分もそれを受け継いでいるだけと思うからです。

 もう30数年前に、台北から高雄までの台湾のいくつもの街を、講演旅行で、上の兄と一緒に訪ねたことがありました。そこで出会った年配者のみなさんから、日本統治時代のことを聞かされたのです。その年月の日本支配を、責められるのかと思いましたが、感謝しておいでだったのが意外でした。若い人たちも同じでした。

 そして十数年前に、大陸に参りまして、初めに天津の街に1年間住んだのです。ほとんどドイツやアメリカやスイスなどからの外国人たちとの間で、過ごした一年でした。一見して日本人だと分かった、道端やバスやデパートで出会う街中の中国のみなさんが、自分に向けられる視線や態度は、けっこう硬く冷たいものがありました。日本占領下の影響がまだ残されていたからでしょう。
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 国柄や社会的背景の違いかも知れませんが、台湾と大陸とでは、ずいぶんと違っていました。それでも叩かれたり石を投げられる様なことはありませんでした。ただ一度だけ、尖閣諸島の領有権の問題が騒がれた時に、住んでいた華南の街の教員住宅のベランダにレンガの破片を、夜中に投げ落とされたことがあって、朝発見しただけでした。

 推し並べて共に過ごし、行き合った市井(しせい)の中国のみなさんは、寛容であって、過去に囚われない人たちだったことを思い出しています。頂いた月餅や団子や豆腐やスイカや甘薯も、ご自分の故郷に連れて行ってくださったり、お見舞いくださったり、付き添ってくださったことなども、みな友好の印だったのです。みなさんが、辛いことは前の世代の出来事であって、過去に拘らないで、今や将来に思いを向けているのが分かったのです。

 ところが、日本人は違う様に思ってしまうのです。毎年1月が来ますと「阪神淡路大震災記念」、3月が来ますと津波と原発事故の「東日本大震災」、8月が来ますと「原爆記念日」と言って、鎮魂、反対、対策の声が上がって、何か政治的に利用されたりしている様で、真摯に有り様を思い返す時ではない様に感じてしまうのです。

 〈過去に拘泥する思い〉が、日本人は極めて強い様に思うのです。反省や対策を学ぶにはよいのですが、感情の処理をしていなかったりで、過去の亡霊に心が掴まれて、明日を見させなくしているのではないかと心配なのです。エレミヤは、「平安な計画」や「将来への希望」を思い起こさせる、神のみ思いを書き留めました。

 「恥」は人を謙遜にさせます。「失敗」は、そうすまいと言う思いを掻き立てます。私には一つや二つどころではなく、足の指を使っても数えきれない恥や失敗があります。でも、《明日変えられる自分》を、想いの中に描きながら、将来への希望を満たしながら生きてきました。いえ生かされてきました。そんな《しぶとさ》を持つことができたのは感謝だと思うのです。これも親譲かも知れません。

(「フォーカス台湾」の「高雄市」の様子、天津市花の「月季」です)

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もう春

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 古来、日本では、二月を「如月(きさらぎ))」と呼んできました。まだまだ寒いので、重ね着を意味する「衣更着」が語源だと言われ、また春に向かって万物が動き始めるという意味も持つのだそうです。文化的な影響を受けてきました中国の呼び方と同じだそうです。番号で月を表現するよりも、季節感があってよいのかもし知れません。

 その中国では、「春節」を迎えます。毎年日が決まっていなく、2021年の元旦は、「二月十一日」です。爆竹を鳴らし花火を上げて、新しい年を迎えるのです。天津で、初めて春節を迎えたのが、2007年でした。外国人アパートの七階の窓の真横で、花火が炸裂したのには、驚かされ、街中の天文台の近くを歩いていた時に、足道で爆竹が爆裂し、追い立てられてしまいました。あの火薬の匂いが、思い出されます。

 今年は、コロナ退散のために、いつもよりも激しく、中国全土で、爆竹が鳴り渡ることでしょう。驚かされたわりには、懐かしい中国の風物詩です。好い年を迎えて欲しいものです。写真は、わが家の四階のベランダからの、日の出と日の入りです。陽の光が、もう春です。

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日曜日

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 「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 (ヘブル10章25節)」

 一月最後の日曜日です。退職、帰国、家内の闘病で、日曜日から日曜日という一週よりも、一日一日と生かされている思いが強く感じられ、けっこう充実した日を、週を過ごして、二年になります。

 日曜日が来ると、母は四人の子を電車に乗せ、隣街の教会学校に行った日々がありました。そして生意気盛りの思春期に入ってからは行かなくなってしまったのです。中学高校ではクラブ活動、社会人になったら、週末の山登り、女友だちと一緒に過ごしていました。それでも時々母の後について出かけたりしたのです。

 25になって、日曜日の過ごし方が変わったのです。子どもの頃に、母と一緒に出かけた教会(アメリカ人宣教師が始められました)に、日曜礼拝を守る様になりました。そこで家内と出会って結婚し、子どもたちが与えられ、彼らといっしょに感謝と喜びの日曜日を過ごせる様になりました。一人一人と子どもたちは巣立っていったのです。それを今日まで続けています。今は、” COVID-19 “ 、新型コロナウイルスの猛威で、どう過ごすかの医療の専門家の勧めに従って、家内と二人、家で礼拝を守っています。

 聖餐を取り、賛美を捧げ、友人牧師のお話をネットで聞き、聖書を開き、祈り、礼拝を守っております。生活の重要な一部になって、もう半世紀が過ぎ様としています。病気や入院中などで出席できなかった週もありましたが、飽きっぽい自分が、これほど熱心さを続けられたのに、我ながら不思議さを覚えてしまいます。

 在華中も、同信の友と共に集まり、礼拝を守りました。天津では、外国人の集い参加し、パスポートが必要でした。後に、街中の歴史ある中国人教会に、家内と自転車を連ねて参加しました。引越した華南の街では、街中の家に、みんなで集い、礼拝を守っていました。週毎に、いくつもの教会に呼ばれては、お話をさせていただいたのです。

そんなことを思い出しながら、新しい日曜日の朝を迎えています。窓から入り込む陽が、春を感じられる様になり、窓辺に置いた鉢に花が、黄色、白色、赤色と、その日を喜ぶかの様に咲いています。もうすぐ陽が昇ってくるでしょう。好い日曜日をお過ごしください。

(冬に風物詩の「毛嵐〈けあらし〉」です)

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金字塔

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 先日のNHKの「ひるのいこい」を聞いていましたら、昭和24年に、矢野涼の作詞、渡久地政信の作曲で、岡春夫が歌った「幸福はあの空から」が流れてきました。

黄昏の並木路
ひとり見てましょう
淋しさに 恋しさに
ひとり窓辺で見てましょう
やがてつく 街の灯が
暗い心を 照らして 照らして
来る来る 来る来る来る 来るよ
幸福(しあわせ)は あの街から
かならず やって来る 来るよ

あの頃の思い出を
そっと呼びましょう
過ぎし日を 夢の日を
そっと小声で呼びましょう
やがて出る 月さえも
愛し面影 浮かべて 浮かべて
来る来る 来る来る来る 来るよ
幸福は あの空から
かならず やって来る 来るよ

思い出を抱きしめて
じっと待ちましょう
苦しみも かなしみも
じっと耐(こら)えて待ちましょう
やがて来る 幸福に
涙なんかは おさらば おさらば
来る来る 来る来る来る 来るよ
幸福は いつの日にか
かならず やって来る 来るよ

 とても明るくて明日に希望を繋いで生きる様に、聞く人の心を鼓舞した歌です。そういえば、戦後に流行った歌は、並木道子の「りんごの歌」、笠置シズ子の「銀座カンカン娘」などがありました。みんな明るくて夢や希望を与える様な歌が、よく歌われたそうです。

 病気で不登校児の私は、朝からラジオを聞いて過ごしていましたから、クラシック音楽の「名演奏家の時間」、戦争で行くえの分からなくなった人を見つける「尋ね人」などを思い出しています。とくに、「ひるのいこい」は、全国の農林水産通信員の方々が便りを寄せていて、知らない町や村の名前を聞いては、どこかを探したりしたのです。

 テーマ曲もあの頃と同じで、のんびり、ゆっくりした時の流れが感じられて、タイムスリップした様な感じがしてしまいます。私の学校の先輩に当たる方も、アナウンサーとして担当されていたのを、後になって知って、70年にも亘る番組は、ラジオ放送の《金字塔》ではないでしょうか。

 
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魏志倭人伝

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 『日本人は、正しく自国の歴史を学んでいない!』と言われています。そんな意味で、歴史を学ぶ上で、「魏志倭人伝」が面白いのです。漢文で書かれていますが、和訳を見つけました。その書き出しに次の様に書かれてあります。

 『倭人は、帯方郡の東南の大海の中にいて、山や島を境界にして国やムラに分かれている。昔は百を超える国があった。漢の時代に朝見してきた国があり、いま外交関係にあるところは三十国である。・・・南にいくと「邪馬台国」に至る。女王の都するところだ。水行十日と陸行一月である。官に「伊支馬」がある。次は「弥馬升」、次は「弥馬獲支」、次は「奴佳鞮」という。七万余戸だろう。』

「倭国」にある「邪馬台国」が紹介されていて、女王が支配する国であったと記録されています。社会習俗については、次のようにあります。

 『その風俗は淫らでない(婦人は淫らでない、嫉妬しない)。男子はみな髪を露出し、木綿を頭に巻いている。衣服は横広の布を、ほとんど縫わないままつなげて、ひもで結び束ねている。婦人は束ねた髪をまとめて、単衣の中央から頭を出して着ている。』

「淫らでない」というのは、男女関係が正しかったという意味ですと、結婚や家族が尊ばれていたということでしょうか。上下の身分の違いなどについては、次のような記事があります。
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 『身分の低い者が高い者と道で遭遇した場合は、あとずさりして草むらに入る。言葉を伝えたり、物事を説明する際には、うずくまったり、ひざまずいて、両手を地につける。これは恭敬作法である。』

 江戸時代に、大名行列に出くわした農民や町人が、道の端で、土下座をし、頭を地につけて見送った光景を描いた絵を思い出させられます。もう古代からあったことだとすると、実に興味深いものがあります。あまた食習慣については、次のように記されてあります。

「冬でも夏でも生野菜を食べる。」

 私の母は、温野菜を、よく食べさせてくれました。大根やジャガイモやハスなどを煮て、醤油や砂糖の調味料を加え、肉なども一緒にして炊いてくれました。きゅうりとかトマトは、時期になると生で食べたでしょうか。生野菜の食習慣は、肉やハンバーグを食べ始めた頃から、日本では一般化してきたのでしょう。古代に<生野菜>は似合いそうにないのですが、それをカジっている音が聞こえそうです。

 この「邪馬台国」の女王の「卑弥呼」は、位の名や職名ではなく、個人的な名前であったように記されています。この伝記では、国の位置を特定できませんが、この日本列島の何処かにあったのだということは確かです。自分の国の古代の様が生き生きと記されていて、浪漫を感じさせられてしまいます(訳文は「デジタル邪馬台国」によります)。

 自分の祖先が、卑弥呼の時代に、どこに住み、何を考え、どんな願いを持って生きていたかは、興味が尽きません。将来にどんな可能性を考えていたでしょうか。何か不足を覚えていたでしょうか。人を愛したり、憎んだり、和解したりしていたのでしょうか。

(「吉野ヶ里遺跡」です)

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空気銃

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 この街の目抜き通りに、二軒の書店があります。本を読まなくなったり、通販や電子書籍の攻勢に押されながらも、店を守り続けておいでです。私が時々、書棚から本を見つけたり、注文して購入するのですが、それは私の意思に従って買うわけです。ところが早く読みたいと思うと、ネット販売での注文が便利なわけです。もう翌日には配達されるし、送料もかからないのです。

 ところがネットで購入しますと、趣味や趣向や傾向を、コンピューターが解析して、その本に関連する書名をメールで勧誘してくるのです。楽天にしろAmazonにしろ、『こんな本はいかがですか!』と、読書傾向を掴んでしまって、上手に売ろうとしているのです。

 そうしますと、思想傾向も、経済状況も、趣味でさえも掌握していて、心の中を見透かされている様な感覚になって、ちょっと怖くなってしまったのです。たくさんのことを学んでいた若い頃、恩師は、〈世界政府の台頭〉について話してくれたことがありました。

 ヨーロッパのある都市で、世界中からデータを集めて、この政府の樹立を準備しようとしていると言うことでした。世界中の何十億という人の個人データーが集積されていて、家系、学歴、職歴、収入、家族構成、収入、信仰、趣味、社会活動、行動軌跡などを、個人個人として書き込み、掌握しつつあることを言っていました。

 SFの世界のことではなく、現実にそれがなされつつあるというわけです。私たちの国でも、2012年だったでしょうか「住民基本台帳」を作って、行政の利便性をはかろうとしたのです。この動きがあった時、恩師の教えを思い出して、襟を正したのです。それでも国の思惑とは違って、個人情報を知られたくない思いがあって、登録者数は低迷しているのが現状だそうです。

 先日、母校にメールをしました。中学の同級生から空気銃を借りたまま返さず、しかも引っ越しのたびに、どこかに行ってしまっていたのです。その弁償をしようと、彼の消息を問い合わせたのです。ところが卒業後の動静が分からないとの返事でした。その卒業者名簿も、売り買いされるとのことで、どの学校も発行をやめてしまっているそうです。

 防犯の範囲に留まらず、情報の悪用、取り締まり、強権の発動などに行くなら、実に怖いものになりそうです。誰でも、心の中や過去を覗かれたくないわけです。でも、企業や国が、『あなたは、こんな目的のために物を買っているのですね!』、『あなたの知人に、◯◯さんがいますね!』と、突然言われそうな時代が来ていて、何か脅かされつつある不安を覚えてしまいます。

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