評価

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 「その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。 (レビ記27章3、5〜7節)」

 これは、古代ユダヤ民族の《人身価値》をお金で換算したものです。性別や年齢に応じて、人の価値が変わっていたのです。長男と次女の息子たちが、今十代ですから、「二十シケル」です。ところが、もうとっくに六十を過ぎた私は「十五シケル」、家内は「十シケル」で、孫よりも少なくなっているのです。

 では現代社会は、人の価値を、どんな度量衡で図るのでしょうか。日本政府は、もう年金生活で納税しなくなった上級国民ではない私に、どんな価値づけをしてくれているのでしょうか。しかも国外で十数年も過ごして留守をしていた私をです。国への貢献度を測ってみますと「ほとんど無」と認定されるのでしょうか。

 としますと、「楢山節考」のお婆ちゃんの様に姥捨山、爺捨山行きの対象者なのでしょう。ところが私の愛読書には、

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43章4節)」

と、がっかりしている私に、「創造者」の評価が記されています。《愛の対象者》だと言って接してくださるのです。しかも《高価》で《尊い》と言って優遇してくださるのです。年齢には関係なくです。昨日も、私たちより少々シワが多いだけの九十歳のご婦人が、わが家を、お嫁さんと一緒に訪ねてくださいました。渋茶と煎餅を食べながら談笑させていただいたのです。どこも悪くなくお元気でした。

 このご婦人も私たちも、とうの昔に〈山行き〉か〈佃煮〉だったのに、街中に住むことができて、なんと感謝なことでしょうか。イスラエルの社会では、ご用のすんだ老人の価値は低かったのですが、

 「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 (レビ19章32節)」

とも定めて、《敬意》を示すように勧めています。しかも《起立》してです。私が中国の大学のクラスで、「北国の春」を歌った時に、『老人が、人の間で声を張り上げて歌うなんてことは、ここ中国ではありえないんです!』と起立した学生さんに言われたことがありました。

 ところが帰国して、山手線に乗った時、「優先席」の前に立った家内と私をチラッと見ながらも、三人の高校生がゲームに興じていたのとは違って、中国でバスに乗ると、若者たちは、席を立って、『どうぞお座りください!』と、席を譲ってくれるのです。四十代の男の方にも譲られました。

 『アッ、老人の前の起立って、こういうことなんんだ!』と思わされたのです。無神論や唯物論で教育を受けてきた若者たちが、聖書に従った行動をとるのに驚かされたのです。そう「十五シケル」の私は、懐かしく中国での《起立の出来事》を思い出しています。
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