平和

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 先日、歴史家でジャーナリストだった半藤一利さんが、惜しまれて亡くなられました。この方を、先日のNHKのラジオ放送で、保坂正康さんが、『ベルリンの壁が崩壊した直後に、半藤さんがそこを訪ねて、その崩れ落ちた壁の前で踊ったのです!』と語っておいででした。そんな多くの人の前で、自然な振る舞いのできた日本人って、珍しいなあと思って聞いていました。

 その談話の中で、亡くなられる前に、『墨子って偉いなあ!』と、半藤夫人に語ったそうで、それが最後の言葉だったそうです。中国の戦国春秋の時代に、「諸子百家」と言う学者たちがいて、孔子や老子が有名ですか、その中に、「墨子」と呼ばれた方がいました。

 墨子は、名を「翟(てき)」と言ったそうで、その姓や親の職業などは不明です。墨子の「墨」が姓であったかどうかも定かではなく、一説では、墨子は、手工業者の奴隷出身ではないだろうかと思われていました。当時の手工業者の中には、奴隷出身の者が多く、その逃亡防止のため、奴隷はみな「入墨」をされていました。それで、他人から墨者と言われ、それが姓になったのだという説がありますが、事実は分かりません。

 この人は、社会に奉仕するために、頭は罪人のように丸刈りにしており、冠もかぶらず、素足で歩いていたと伝えられています。その生活ぶりは一般庶民とすこしも変わらないで、質素で倹約を旨としていたそうです。私の丸刈りは、第一回目の腱板断裂手術後に、同じ病室にいた同じ年齢で、故郷が沢違いの村の出身の病友が、大怪我で入院されてて、意気投合した私は、看護師さんに彼が丸刈りにされたので、一緒にしてもらって以来なのです。
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 さて、この墨子の特徴は、戦争のない平和な時代を迎えるために、武器を開発し、それを利用して小国を支援したことです。戦争をしかけてくる大国に対抗した人だったそうです。大国主義、強大な国家建設を掲げる人たちの多い時代に、平和主義者だったのでしょう。

 墨子に感化された半藤さんは、少年期の悲惨な戦争で、燃え広がる東京の向島で、街が延焼し、人が亡くなっていく様子を目撃していました。この方の世代は、戦争被害の恐ろしさを実体験され、真に恐ろしさをご存知なのです。そんな経験から、墨子の思想や生き方や在り方に意気投合したのでしょうか、大国主義、覇権国家を目指す様な考えを持たない平和主義者でした。

 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。(ルカ2章14節)」

 何年も前に、父の世代の方とお話をしていて、戦争が始まった頃の世相に、この頃の世相が似ていると嘆いていたのを思い出します。戦争を直接知らない世代が、軍事的な強い国を目指している動きを、この方は嘆いておいででした。『地の上に平和を!』と願い、戦争しないで済むことを考えるのが、先決に違いありません。自分の過ごして来た時代は、戦争を避けられたのですが、これから孫たちの時代はどうなることでしょうか。平和であるのを願う朝です。

(ベルリンの壁が崩された時の様子です)

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憎むこと

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 「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(1ヨハネ3章15節)」

 あるアメリカの動物園に、〈一番こわい動物〉という案内が掲げられた檻がありました。恐ろしい猛獣、怪獣が何か興味津々で、その檻を覗いたら、鏡があって、そこに見学者の顔が映っていたそうです。腹を立てるよりも、事実、あらゆる動物の中で、人間ほど怖い生き物はいないのは、当を得たことでうなずいてしまいます。

 確かに人間は、そこまで悪くなれるのかと震えるほどの怖さがあります。おびただしい人を殺した政治指導者、独裁者、虐殺者として名が挙げられるのは、ドイツのヒトラー、旧ソ連のスターリン、中華人民共和国の毛沢東、カンボジアのポルポト、ウガンダのアミンです。そこまで人は残忍、冷酷になれるのに震えてしまいます。

 百獣の王ライオンは、無目的に襲って、傷付けたりしないのです。その日の家族の食料になる分だけを襲って、捕獲して、子に分けてその日の分に当てるのです。熊が流れの中に入って、遡上する鮭を捕獲するのも同じです。家族を養える分だけ、生きるためにしか襲わないのです。

 ところが人間は、恐怖心や憎しみに駆られたり、復讐心に燃えて、人の命を奪います。警察庁によると、殺人の動機には、「怨恨」,「憤怒」,「痴情(のもつれ)」,「けんか・口 論」,「(暴力団)抗争」,「心中目的」,「遊興費欲しさ」,「借金 返済」,「生活苦」などを列挙しています。上記の様なことばがあります。

 人を殺す前に、人の心の中にあるものが、使徒ヨハネによって挙げられていて、「憎しみ」だと言っています。ヨハネは、人を憎んだ時に、殺人が始まっていることを言っているのです。心の思いの中で、相手の死を願うほどの「憎しみ」を抱く時に、すでに殺人を犯しているのです。

 ずる賢いのも人間でしょうか。罪を犯したのは事実なのに、『私の〈未熟さ〉が、そんなことをさせたと!』 と、自分の責任ではないかの様に誤魔化し、全く筋違いなことを言っている輩がよくいます。微塵も罪の呵責がないのです。警察がいるのは、そんな言い訳が効かないからです。流行りの詐欺だって、性差別も、人種差別も、人の命の尊厳を阻害する〈殺人行為〉に違いありません。

(世界最古のオーストリアのウイーンにある「シェーンブル動物園」です)

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5強

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 昨晩十一時過ぎに、マグニチュード7.3の地震がありました。東日本大震災に余震という見方をしていて、ここ栃木南部は、〈震度5強〉でした。長く強かったのですが、棚からもにが落下することはありませんでしたし、停電もありませんでした。寝しなの地震でしたこの土地の年寄りの弁ですと、『強い岩盤の上に街ができてるので、これまで地震被害がなかった!』と聞いています。

 怖いもの地震、雷、火事、コロナの今、ベッドから飛び上がって降りてしまいました。関東大震災者の経験をした父は、『準、玄関と窓を開けろ!』と、強い調子で大声を出していました。退路を確保する知恵でしょうか。不肖の三男は、カーテンを開けて、近所の様子を見るのみでした。玄関は、鉄の頑丈な門扉ですから、歪んだら出られなくなるので、これからは、玄関開放に努めます。

 すぐに、次男、若いお母さん、長男の順で、『大丈夫?』と心配してくれました。今日は日曜日、素敵な日であります様に、心から祝福します。

(近所の方から家内がいただいたピンクの椿です)

言い表せない喜び

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 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53章3節)」

 明治8年4月に「勲章従軍記章制定ノ件」が公布され、私たちの国の勲章制度が始められていると言われています。国に貢献し、功績を挙げた人たちを表彰するためでした

 私が中高と学んだ学校は、大正デモクラシーの動きの中で誕生した、穏やかな校風の私学でした。この母校の記念誌が刊行された時に、その巻頭に、設立者で校長の写真が載っていました。なんと、胸いっぱいに、数え切れないほどの「勲章」を下げておいででした。ご自分でそうされたのか、家族か学校の役員に勧められたのか、まさに〈勲章男〉でした。

 〈教育者と勲章〉は不釣り合いの感じがして、ページをすぐに閉じてしまいました。私も教育者の端くれでしたから、教師の勲章は、錦糸銀糸の紐のついたメタルではなく、《教え子》ではないかと信じていたのです。社会の中で、家庭人として、職業人として、目立たなくてもよい、一市民として謙虚に生きていることだと思っていました。ですから、〈勲章の校長〉は、とても意外でした。

 私の霊的な恩師たちは、『金と名誉と異性を求めるな!』と、口を酸っぱくして教えてくれました。そんな誘惑に負けそうな私の弱い資質を見抜いたからかも知れません。としますと、『名誉や勲章を求めずに生きよう!』と願ったのでしょう。

 若い頃の父の写った、父の親族との集合写真の中に、帝国海軍の軍人がいて、この方も勲章男でした。どうも軍人も、二十一世紀の政治家も、勲章を得た誇りを大切にしたいのかも知れません。『俺は、この国に、この団体に貢献したんだ!』という自慢(中国語は〈自誇zikua〉)の表明なので、名誉職を求めてやまないのです。

 五十年以上、この私が従い仕えて来たお方は、蔑まれ除け者にされたお方でした。一冊の本も著すことなく、高き座を求めず、王冠も勲章も与えられませんでした。かえって十字架で刑死され、他人の墓に葬られたお方です。でもその墓を破り、死を破り、蘇られたのです。今、創造の神の右の座に着座され、信じる者を執り成し、助け主である聖霊を遣わされ、信じる者を迎える場を設け、やがて迎えに来てくださるお方だと、不信心だった私は信じられたのです。

 この分だと、勲章はおろか、ビールの蓋の偽勲章でさえも、私は貰えることなく終わることでしょう。でも《神国の市民権》を得たことは、言葉では言い表せない喜びで、今朝も心が溢れています。

(” photoAC “ の「毛嵐〈けあらし〉」です)

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春一番

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 今年は、関東地方では、2月4日に「春一番」が吹いたとニュースが報じていました。コロナ旋風のただ中に、いつもよりも早い春の到来でした。その後は朝晩マイナスの気温で、ちょっと宣言が早過ぎていないかな、と思わされています。

 次女が生まれた年に、よく聞こえて来たのが、作詞と作曲が穂口雄右、キャンディーズが歌った「春一番」でした。

1 雪がとけて川になって 流れて行きます
つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気取ってみませんか
風が吹いて暖かさを 運んできました
どこかの子が隣の子を 迎えにきました
もうすぐ春ですねえ
彼を誘ってみませんか
泣いてばかりいたって 幸せはこないから
重いコートぬいで 出かけませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか

2 日だまりには雀たちが 楽しそうです
雪をはねて猫柳が 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気取ってみませんか
おしゃれをして男の子が 出かけて行きます
水をけってカエルの子が 泳いで行きます
もうすぐ春ですねえ
彼を誘ってみませんか
別れ話したのは 去年のことでしたね
ひとつ大人になって 忘れませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか
雪がとけて川になって 流れて行きます
つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気取ってみませんか
別れ話したのは 去年のことでしたね
ひとつ大人になって 忘れませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか

 日本には「四季」があり、けっこうはっきりした季節感の特徴があります。春には、その季節季節の象徴があって、春には桜の開花の時期に「入学式」があって、4人の子どもたちの入園式や入学式の思い出があります。いつからいつまでが、その捉え方が様々にある様です。

 「暦」の上では、一年は冬の一月から始まるのですが、春夏秋冬の順に並んでいます。
 「季節の色分け」ですと、春は〈青〉、夏は〈朱〉、秋は〈白〉、冬は〈黒〉と四色に配列されて、青春、朱夏、白秋、黒冬と言っています。
 「文学の世界」では、「春」は〈立春〉から〈立夏〉の前日までを言います。
 「気象学」では、三月・四月・五月を春と言います。
 「太陰暦」では、一月・二月・三月が春です。
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 中国では、毎年違うのですが、2021年は、今日、二月十二日を「春節」と呼んで、一年の始まりとしていて、西洋暦とは違う陰暦での正月を大事にしています。滞華中、一月一日は学校や官庁は休みですが、格別に正月気分はありませんでした。でも気分的にも、行事的にも、「春節」が中華圏では「正月」なのです。

 中国のみなさんの「春節」への思い入れの大きさや強さに触れて、まさに『もうすぐ春です!』と言う、酷寒の冬が終わり、万物が芽吹く季節の到来への期待が、ものすごく大きいのを感じたのです。『美味しい物が食べられる!』、『晴れ着が着られる!』、『家族親族が帰って来て集まる!』、『お年玉をもらえる!』と言う待望が、心だけではなく、街に溢れていたのを思い出します。

 戦争があっても、革命があっても、祝われて来た「春節」なのですが。今年は行動制限、不要不急の外出の自粛、会食の禁止などで、寂しい「春節」を迎えておいでなのでしょう。街々村々では、炸裂する爆竹や花火、あの火薬の匂いがあふれているのでしょうか。足元で追い立てられる様に弾いていた爆竹の音が懐かしく思い出されてまいります。

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器から器へ

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 「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。 (エレミヤ48章11節)」

 恩師が、ある時、主の家の奉仕をしてる私たちの交流会で、次の様に言いました。『あなた方、” mature “ な経験のある人は、若い人に奉仕の責任を譲って、新しい任地に出て行きなさい!』と挑戦したのです。また、実業界で働いてきた私のすぐ上の兄も、自分の城を大きくしたりしないで、責任を他の人に任せて、新しい働きを始める勧めをしていたのです。

 私は、そう言った勧めを聞いて、私たちの仕えてる奉仕は、そう言ったものだと理解したのです。多くの人を集めて、人に褒められる様な働きを誇示する誘惑から出て、新しい一歩を取る様に機会が開くのを待っていました。

 居心地のよい〈安定の城〉の中に留まり続けて、別の器にあけられることなくて、葡萄酒が芳醇さを失ってしまう様に、ある方たちの奉仕も、そうなってしまう様子を何度もみてきたからです。それで、宣教師から受け継いだ奉仕の機会を、他に譲ろうと、心に決めたのです。イスラエルの葡萄の醸造の過程では、器から器へあけられたようです。
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 私は日本が侵略した過去を持つ国に出掛けたい思いを抱いたのです。中国の四都市を訪問した私は、一つの街で、一人の方と出会って、家に食事に招かれました。その方が、『中国においでください!』とおっしゃったのです。それ以来、ちょくちょく、その言葉が思い起こされたのです。そうすると恩師の挑戦が思い起こされてきては、時の到来を待ったのです。すると、次のみことばが強く迫ってきたのです。

 「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(中国語訳も英欽定訳も《平和》です)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。(エレミヤ書 29章7節)」

 それを “ go sigh “ として出掛けたのです。まさに、器から器に移されたかの様に思えたのです。それで天津で一年間漢語を学び、父が若い日に過ごした東北地方に行くのを考えていましたら、長男の友人で華南の街の方が、招いてくれて、その街に行き、そこで12年を過ごすことになった次第です。実に素敵な年月でしたが、家内が病んだのを契機に帰国を致しました。

 その年月は一言では語り尽くせません。時々、” face time “ で、華南のみなさんと交わりを持ちますが、いつも、『あなたたちはいつ戻ってきますか?』と言われます。まさに実の兄弟姉妹の様なみなさんと共に過ごした日々が懐かしくて仕方がありません。東京で新しい事業の準備をされておられる、中国人のご家族がいて、彼の友人父子と、先月は、マスク姿で見舞ってくれました。

 あの日の決断は、自分勝手な願いによるものではなく、一歩一歩の導きがあったと、今になって思うのです。かつての敵国からやって来た老夫婦が、一緒に座し、共に聖餐に預かり、声を合わせて賛美を歌い、説教をし、そんな交わりをした年月は、主に導かれたものでした。器にあけられ、カスが除かれたからできた日々だったに違いありません。
 

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わが心の街

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 一度訪ねて観たい街があります。ライン川と合流するネッカー河畔の街で、ドイツ最古の大学街と言われる「ハイデルベルク」です。ここには、わが国の京都にもある「哲学者の道」があるのだそうです。京都は西田幾多郎の散策で有名ですが、このハイデルベルクはゲーテがよく逍遥したと言われています。

 私は母の信仰を継承し、アメリカ人宣教師から教えを受け何を信じるかを、またどう生きていくかを学びました。そして多くの本を読みました。その信仰の基礎の部分を作りあげる上で、二十代に手にした、竹森満佐一師の翻訳した小冊子の「ハイデルベルク信仰問答」を読んで、学ぶことによって、確証の印を押された経験をしたのです。

 その体系的にまとめられた問答書は、1561年、フリードリヒ3世によって選任されたウルジーヌスとオレヴィアーヌスによって作成されています。「神の恩寵」を掲げる改革派の教えが根底にあって、若い神学者たちによる問答書で、「聖餐論争」を終結することが主たる目的での作成でした。

 それまで個人的に、教えられて来たことと、自ら学んでいたこととが、まるで「勘合符」の様に、この問答書とピッタと合わせられ、承認されたのを感じたのです。当時、一線を退かれた岡田稔師の説教を、テープで聞く機会がありました。師のお話の内容と人間性の高さに感じ入ったのです。自分が模索しながら学び、立とうとしていた信仰的立場を確認することができ、安心を得たのです。
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 それは知識だけのことではなく、書かれた文章でも、人の思想でもなく、「真理の解き明かし」でした。同じ頃に読んだ本に、榊原康夫師の「聖書読解術」がありました。その書の最後に、『・・・聖書という書物に関する限りは、その術だとかこつだとか理論だとかでやっていても、やっぱり最後に、どうしてもことばでは言えない神秘が残るのです・・・どうしても聖霊の自由なお導きとみわざに最後の極意を譲り渡すということ。』と言われました。

 若い日に学び諭されたことは、今なお新鮮な教えです。右にも左にもそれず、偏らないで真っ直ぐに歩んでこれたと、今なお思わされるのです。その出発点が、どうもハイデルベルクにある様に感じてなりません。500年近く前の異国で生まれた思想に、何か郷愁を覚えていますので、訪ねてみたいのです。何度も行こうと思ったか知れない街ですが、今まで叶えられずじまいでした。昨年来、不要不急の外出をしない様にしていますので、行けるかどうかは不明です。

 今すべきことは、闘病している家内と共にいて、一緒に過ごすことと決めていますから、家内が癒えたなら、緩やかな旅程で訪ねられるように願っております。でも出たがり屋の私の心は、飛んでいっているかの様です。思想も街も、私の心に中に宿っているからでしょうか。

(この街の様子と、5月頃に咲くアーモンドの花です)

優しい国に

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The Pilgrim Fathers arrive at Plymouth, Massachusetts on board the Mayflower, November 1620. Painting by William James Aylward (1875 – 1956). (Photo by Harold M. Lambert/Kean Collection/Archive Photos/Getty Images)

 これまで両親、恩師、書物から、多くのことを教えられてきました。まだ、その教えを咀嚼(そしゃく)していないのを感じながら、時間のできた今になって、いろいろな学びを思い返したり、図書館に行って本を借りて読んだり、ネット検索をして、資料に目を向けたりしている今日この頃です。

 「物の考え方」で、合理主義と個人主義と民主主義の背景を生きてこられたアメリカ人から、青年期に学ぶことができことに、今更ながら感謝を覚えるのです。この方たちと交流し、学ばなかったら、きっと〈日本主義〉で、日本人の優秀性の亡霊に片寄って、今頃偏屈な老人になっているのだろうと思ってしまいます。

 もちろん私はアメリカ礼賛(らいさん)者ではありません。でも、イギリスからメイフラワー号で渡った、清教徒たちの作った国、その国に移民として渡り、アメリカ市民として教育を受け、生活した方たちの子や孫たちから、感化を受けたことに、とても感謝しているのです。

 コーヒーやアイスクリームやコーラが飲めたことも感謝ですが、神を畏怖し、信頼し、叫び求め、感謝する生き方は、人の本来的なあり方だと学べたことです。母は、少女期に、その隣国のカナダ人宣教師から、真理や義や愛を学んで、恵まれない生まれを恨まずに、天父と出会い、神の恵みを知って生きることを学びました。

 そんな素敵なアメリカが、今危機に瀕してます。民主主義の申し子の国が、危いのです。経済力も弱くなり、世界への影響力が後退しつつあります。でもまだ余力があります。どんなに混迷し、暴力的になったとしても、アメリカの持つ《底力》、つまり建国の父たちから受け継いだビジョンの継承、富や祝福の分配、祈ることのできる神を満ち続けてきていること、それこそ天来の祝福が溢れていることです。

 暴力がことを決める様な、西部劇の世界の様なアメリカになってしまい、堅実に生きてきたアメリカ市民の嘆きが聞こえてきそうです。メイフラワー盟約に、次の様にあります。

 『神の名においてアーメン。われらの統治者たる君主、また神意によるグレート・ブリテン、フランスおよびアイルランドの王にして、また信仰の擁護者なるジェームズ陛下の忠誠なる臣民たるわれら下記の者たちは、キリストの信仰の増進のため、およびわが国王と祖国の名誉のため、ヴァージニアの北部地方における最初の植民地を創設せんとして航海を企てたるものなるが、ここに本証書により、厳粛に相互に契約し、神およびわれら相互の前において、契約により結合して政治団体をつくり、もってわれらの共同の秩序と安全とを保ち進め、かつ上掲の目的の遂行のために最も適当なりと認むべきところにより、随時正義公平なる法律命令を発し、かく公職を組織すべく、われらはすべてこれらに対し当然の服従をなすべきことを契約す。(大木英夫『ピューリタン』中公新書)』

 建国の精神に立ち返って、強いだけのアメリカではなく、優しく人々を尊重する国家が再建されることを、心から願うのです。孫たちを始めとして、この国の子どもたちが、一市民として、平和を享受し、国を愛し、すべての人を愛して、神を畏怖して生きることができる様にも願っているからです。

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一冊の本

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 もう30年ほどになるでしょうか、家内と私は、一冊の本を毎朝読んできています。華南の街にいた間も、帰国した今も続けてるのです。病気や入院や旅行中に欠いたことがありますが。それは、「366日の黙想」と言う副題のついたもので、ロンドンの神学校の校長をされて、四十代の前半で亡くなられた、オズワルド・チェンバース(1874〜1917年)の死後に、夫人が夫の教える神学校での教えの速記録をもとに編集して著した本です。

 英語の題は、” My utmost for his hightest “ 、日本名の「いと高き方のもとに」です。「百万人の福音」と言う月刊誌に、1971年から一ヵ年の間、掲載字数の制限があったので、意訳されて掲載されたものに、訳者の湖浜馨師が手を加えて、1990年に出版されたものです。それを手元に入れて読んでいるのです。

 あの頃、送られてくる月刊誌に掲載されたものの一年分を切り取って、自己流に製本して繰り返し読んでいました。本として刊行されてから、それを購入し、読み継いでいるのです。けっこう長い年月になりますが、毎朝新鮮な語り掛けを受けているのには驚かされます。

 多くの本を失ったのですが、実は、下の息子に読む様にして、家内が上げたものが、何故か親元に帰ってきたものなのです。〈1995年1月5日 母〉と、第三表紙に、家内の記入があります。家内が中三の次男に贈呈しました。次男には新たに買って上げていると思います。
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 スコットランド人の思想、信仰でしょうか、伝道を志して入学してきた若者たちに、情熱を込めて「真理」を曲げることなく教えたことごとの記述です。確かに創造者を崇め、人を啓発する教えが、簡潔にまとめられています。華南の街にいた時も、非合法本の中国語訳があって、それを買っては、何人かの若者に上げたことがありました。

 短い生涯を、最高に輝いて生きた人の内に宿った永遠の命の喜びと確信が、今朝も伝わってきます。金が錬金される様に、純化された《古(いにしえ)の教え》が止まっていて、安定さを感じさせてくれます。人を喜ばそうとはしない、また人をもてなそうとはしないで、神の真実や、生きる道を語っています。《古典》と言ってもよい一冊です。

 聖書の他に、こんなに長く読んできている本は、他にないのです。読むたびに、まるでこの方の学生になった様に、新しいことを示されたり、警告されたり、叱られたりすることもあります。『自分のために書かれているのかも知れない!』と思うことがしばしばあります。ちなみに、ロンドンで彼が教えた神学校の卒業生の中で、四十人ほどの人が宣教師となっているそうです。

(その本の英語版、オズワルドが生まれたアバディーンの街に咲くスノードロップ〈マツユキソウ〉です)

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上杉のお殿さま

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 《一度訪ねて見たい街》があります。その一つは、蔵王山で有名な米沢(山形県)です。スキーをしたり、美味しい米沢牛を食べたいからでもありません。もちろんスキーが出来て、米沢牛にステーキを食べられたら好いのですが。若い頃に読んで感動した本がありまして、その本の中で、旧米沢藩の藩主・上杉鷹山のことに触れてあって、その高潔な人格に心が揺すぶられたからです。その鷹山が治世をし、生涯を過ごした街に行ってみたいのです。

 内村鑑三が、「代表的日本人」として、西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮と、この上杉鷹山の五人の歴史上の人物を取り上げて、紹介しているのです。内村は、1906年に、アメリカのニューヨークで、“Japan and The Japanese” と言う題で、英語で書きました一冊の本を出版しています。鎖国を打ち破って、国際社会に参入して行く中で、日本と日本人を、欧米人に知らせようとしたのです。と言うよりは、自らの「日本人としてのアイデンティティー(日本人像)」を明確にしたかったのだと評されております。

 鎌倉時代の日蓮以外の他の四人は、徳川幕藩体制下に生きた人でした。私が感じ入った上杉鷹山は、藩財政に逼迫していた米沢藩を、建て直すために善政を行った稀代の藩主でした。1751年に、九州の日向高鍋藩主・秋月種美の次男として、江戸藩邸で生まれています。十歳で、出羽国米沢藩の幸姫の婿養子となって、第九代の米沢藩主となっています。
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 奥方の幸姫は、発達障害を持っていて30歳で亡くなっています。この方は、妻のために雛人形を自ら作って上げたりして、生涯変わることなく愛し続けたのです。子を設けることがができなかったので、世継ぎの子を得るために、側室を持ちます。しかもただ一人、自分より十歳も上の女性を得て、子をなすのです。

 また藩改革の中で、特異なことを行っています。藩内の遊郭を取り潰したのです。遊郭がなくなれば、欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の風紀が脅かされるという反対がありました。でも、鷹山は『欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。』と言い切ったのです。実際、廃止しても領内には何の不都合も生じませんでした。

 この鷹山の葬儀の日、その死を悲しみ惜しむ人々の弔問の列が、米沢の街に途切れることがなかったそうです。「蓋棺自定(がいかんじてい)」、人は死して、その徳が正しく評価されるのですが、鷹山は、農民にも慕われた名君だったのです。この街を訪ね、米沢ラーメンを食べたら、そんな息吹を感じられるのでしょうか。米沢気質に触れてみたいものです。

(米沢城と市花の東石楠花〈アズマシャクナゲ〉です)

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