しみじみと

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 詩人で歌人でもあった良寛さんが、「戒語九十ヶ條」を残しています。「ことば」を大切にされた方でした。自分を生み育ててくれた両親の「言葉」を、《身に包んで生きよう》とした人だったそうです。自分の寺を持たずに、「五合の米」の布施を受けて生きていたのです。

 越後出雲崎に生まれ、越後に生き、越後に没しています。僧でありながら仏法を説かず、質素な生活をし、子どもを愛し、童心を捨てず、格言を語りながら、人はどう生きるかを語ったのです。そうする良寛に、人々は、格別な信頼を寄せました。生活と言葉が一致していた、言行一致の人だったからです。

 「語」と書いて「ことば」と、良寛は読ませています。どの様に気を付けて語るか、九十の「戒(いましめ)」をまとめて「戒語」を書き残したわけです。そのうち、十七を取り上げてみます。

 「ことばの多き」  言葉数の多さは聞く人を疲れさせ、『もう少しまとめて話して欲しい!』と思う話し手がおいでです。思い出すのは、ナチス・ドイツの攻撃の中で、“ Never,never,never give up !” と、イギリス国民に語ったチャーチルの言葉です。これほど簡潔で人を得心させた言葉はありません。

 「鼻であしらう」 人を人と思わないで、小バカにした冷淡な口ぶりの人がいます。相手の置かれた状況など全く考えないで話す人です。

 「口のはやき」  聞き取れないほどに、早く話す人がおいでです。内容は良くても、思いが通じません。話し言葉には抑揚が必要ですし、間(ま)が必要です。噺家の聴きやすさは、この間があるからに違いありません。

 「とわずかたり」  相手が聞いてもいないのに、聴きたいとも思わないのに、話してくる人がいます。ご自分だけが納得している話し手ってときどきおられます。

 「さしで口」  自分の立場や役割を弁えていないのでしょう、話をしている間に侵入してきて、話し出す人です。場所や空気を読めていない人です。
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 「手がら話」  自慢話のことです。ああもした、こうもしたと手柄を話したがる人がいます。人に褒めさせるのがいいと教わりました。

 「己の素性の高きを人に語る」  自己陶酔型の人がおいでです。家系や姓名を誇るのです。私は進化論者ではなく、創造論者なので、人類は、エデンの園で罪を犯し、楽園を追放された者の子孫だと思っています。でも、罪を十字架で贖ったお方を信じて、私が受けるべき裁きと死とを処罰してくださった方を信じて生きてきました。

 「人の物言い切らぬうちに物言う」  話の途中に、言葉を挟んで、話の主人公に入れ替わってしまう方がおいでです。いつも自分を中心に物事を考えてしまう人が、そうされます。

 「よく心得ぬことを人に教うる」  自分で理解してないことを言って、ついに支離滅裂になってしまう方です。何を教えられたのか全く分からず、思いの中に何も留まらないのです。

 「物言いのきわどき」  物騒なことや、危ぶまれる様な物言いをする人がおいでです。聞き手に恐怖を与えてしまう人の話っぷりを言うのでしょうか。

 「人の話の邪魔をする」  こちらが話し終わらないうちに、口を挟んでくる人がいます。上の空で話など、相手の語ることを聞いていないで、自分の言いたいことだけを言おうとする人です。

 「親切らしく物言う」  親切さを装って話されるのですが、その思いは非難だったり中傷であったりで、その動機が正しくない言葉の人がおいでです。

 「さしたることもなきことを細々言う」  そんなに重要でないことや、話題にも上がらない様なことを、根掘り葉掘りと細々と言う方がおいでです。

 「好んで唐言葉をつかう」  江戸時代に、おもなる外国は中国でしたから、唐言葉(中国の言葉)を得意がって使う人がいた様です。現代では、カタカナ語を得意がって使う人で、最近もある留学経験のある大臣が英語らしき語を言っていましたが、私にはチンプンカンプンでした。

 「悟りくさき話」  坊主でも伝道者でもないのに、説教風な話し振りをする人です。なんでも知っていると言う態度で、ご自分の悟りの高い境地から話をされます。

 「学者くさき話」  学識が多くて、難しい表現も好きなのでしょう、聞く人が学生の様に見えて、知識を披瀝する知ったかぶりの人です。

 「すべて言葉はしみじみというべし」  人の心を揺さぶる様に、感謝が湧き上がる様に話せたらいいなと思います。心と胸とを打たれる様な説教の言葉を聞いたことが何度かあります。上手だったのではありません。心がしみじみ(沁み沁み)とされる様な語り口で、内容でした。

 「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。(ヤコブの手紙3章6、8~10節)」

 話をする上で、どんな言葉を語り、どんな風に語るかは、実に大切なことに違いありません。人柄も、出自も、価値観も、倫理観も、なんと言っても人格が、よくても悪くても、語る言葉に表れてしまうからです。舌先三寸、天下を取った人も、命を失った人もいます。私たちが、舌を正しく制御できたら、どんな富や地位を得るよりも素敵なことに違いありません。

 これまで、多くを語らなくとも、核心を語った方と出会ったことがあります。まるで見ることができ、触れそうに語った方です。命を与えられ、将来と希望をくださった方です。この書を開くと、今でも命が溢れています。「キリストのことば」、「聖書」です。まさに沁み沁みとして参ります。

(“ 新潟永住計画 “ の冬の出雲崎の海、新宿御苑の庭です)

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種痘

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 Covid-19対策で、コロナ・ワクチンの接種が、私たちの国でも始まりました。
 「函館市文化スポーツ振興財団」のサイトに、日本で最初に種痘を行った「中川五郎治」の記事がありました。

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 明和5年(1768年)陸奥国下北郡川内村(現・青森県川内町)で、小針屋佐助の子として生まれる。若い頃から蝦夷地に渡り、松前で商家に奉公し、寛政11年松前の豪商栖原庄兵衛の世話により漁場の”稼ぎ方“としてエトロフ島に渡る。

 働き手だった五郎治はやがて番人から番人小頭になる。文化4年、ロシア人・フボストフは船2隻を将いてエトロフ島を襲撃、番屋を荒らし、物資を奪い、番人らを捕えてシベリアに連行、その中に40歳になった五郎治もいた。

 シベリアの抑留生活は5年にもおよんだ。この間、逃げ出したり、捕えられたり、仲間に死に別れたりしたが、9年、突然、松前へ送還されることになる。

 というのは、フボストフらの暴行後、警備を固くしていた幕府の役人が、千島方面を測量に来たロシアの艦長ゴローニンを捕えて、松前に抑留した事件があり、その釈放を求めて日本に行く副艦長リコルドが、漂流民を連れて行くことになり、その中に五郎治が加えられることになったからである。

 イルクーツクを出発してヤコウツクに向う途中、商人の家に一泊した。その時、書棚に飾られていた本の中に種痘書を見つけ、興味を引かれるままその本を貰いうけた。

 5年の抑留生活でロシア語が読めるようになっていた五郎治は、この本で種痘が恐ろしい天然痘を予防することを知る。
その時、幕命で松前に来ていた幕府の訳官馬場佐十郎がこの種痘書を見て驚き、早速翻訳して文政3年「遁花秘訣」(とんかひけつ)と題し、わが国最初の種痘書となった。

 30年後の嘉永3年には、利光仙庵の手で更に翻訳し「魯西亜牛痘全書」(ろしあぎゅうとうぜんしょ)と改題して出版された。

 五郎治は後に足軽となり、松前や箱館に勤務したが、文政7年天然痘が流行すると実際に種痘術を行ったのを始め、更に天保6年、12年など2度にわたって実施して多くの人々を救った。

 五郎治の実施した方法は天然痘の種苗を大野村の牛に植え、その痘苗を男子は左腕に、女子は右腕に、それぞれ一箇所ずつ植えたといわれる。松前、箱館の土民は五郎治の施術を受けて難病を免れ得たものが多かった。

 五郎治はこの方法を箱館の医師白鳥雄蔵、高木啓策、松前藩医櫻井小膳等に伝え、白鳥雄蔵は秋田にいたりこれを藩医に授けたといわれる。

 弘化5年9月27日、わが国種痘術の創始者・中川五郎治は福山において数奇な一生を終えた。享年81歳であった。

 明治18(1885)年、72歳になる田中イクという老婆が11歳の時、五郎治に種痘してもらったという。逆算すると文政7(1824)年にあたり、五郎治がシベリアから帰されてから12年後になる。

 五郎治が種痘を施した最初を文政7年としても、長崎でオランダ医師モーニックが、始めて種痘に成功した弘化6(1849)年に先だつこと実に25年も前ということになる。

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 「そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」 (出エジプト15章26節)」

 ヘブル語では、聖書の記される主なる神を、「アドナイ・ラファ」とも呼ぶそうです。風邪でも、新型コロナでも、精神疾患でも、人を癒すことのできる神がおいでです。母は癌から癒やされて95まで、義母は肺結核から癒やされて101まで生き、それぞれの寿命を全うして、天の故郷に帰って行きました。医者に見放されたのですが、主なる神は、『我はヱホバにして汝を醫す者なればなり!』と言われて、触れてくださるのです。

 この神は、医者を通しても、また数奇な人生を導かれた一介の足軽の佐七(中川五郎治の本名)を通してでも、人を癒し、疫病の攻撃を阻むことができる、命の創造者であり、付与者であり、回復者でいらっしゃいます。

(佐七の生まれた青森県川内町の町花の紫陽花です)

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野の花の如く

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 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(マタイの福音書6章28~30節)」

 私たちの国には、〈無我夢中〉な時代がありました。封建徳川が終わって、明治維新政府は、大きな遅れを取り返す様にして、「富国強兵」を貪欲に推し進めようとしました。そのために欧米諸国から様々な分野の技術者を雇い入れ、また多くの人材を西欧諸国に送り出して、学ばせました。

 結局は、その貪欲な覇権国家を作り上げようとした日本大国主義による国家建設は、「無条件降伏」で終わりました。国際社会に伍そうとしたのは、産業や軍事ばかりではありませんでした。住み良い国を作ろうとした人たちが、多くいました。貧困や差別をなくそうとして「社会改良」をしていこうとしたのです。

 戦前は、社会改良は、社会主義や共産主義を奉じる者のすることであって、国の発展を大きく損なう者たちが企てていることの様に考えられて、思想統制をし、その働きを弾圧しました。私の恩師は、優しい方で、社会の弱者に目を向け、貧しい人や心身に不自由を覚えている人たちが、幸せになり、生きる歓びを持てる様に願っていた方でした。

 この恩師が、『野の花の如く!』という一筆をしたためた色紙に、野花のスケッチも添えて、卒業して行く私にくださいました。恩師の願う社会改良が、国策に合わないとの理由で、監獄に収監されました。その監獄で拷問を受けたせいでしょうか、お身体が虚弱で脚が不自由でした。でもその目は優しく輝いていました。私は、野に咲く名のない花の様に、咲いて生き様と決心したのです。

 その独房の窓から、飛ぶ鳥を見、囀る鳥の声を聴き、獄の隙間から、わずかな土に咲く花を眺めたのでしょう。その境遇を神の御手から受け、天然自然に慰められ、励まされて生き延び、戦争が終わって解放され、教壇に戻ったのです。そして私たちに多くのことを教えてくださいました。

 この恩師と雰囲気の似た方に、その後お会いしたのです。神学校で長く教えてこられ、その師の最終講義を聴かせていただきました。どんなことを話されるのか、興味津々で聞き耳を立てたのです。師が開いたのは、「申命記」でした。
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 「隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家に入ってはならない。
あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。
もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。
日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。
貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。
彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。
父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。
在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。
思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。
あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。
(申命記 24章10~22節)」
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 これは《弱者救済の規定》です。生きる手段を持たない、持つことのない人たちを虐げることを禁止し、優しく彼らに接し、共に生きる様にとの勧めです。イスラエルの神、天地万物の創造と統治の神は、社会的弱者に心を向け、手を差し伸べる神だと講じたのです。

 旧約神学の研究者で、長く研究と教授をされてこられた方ですから、終講には深遠な神学論を話されるのだとばかり思っていましたが、この世で忘れられ、疎んぜられている人たちに心を延べ、手を伸べる神さまをお話になられて、驚いてしまいました。神学とは、こう言うことだと諭されたのです。それで、この師の様な思考の奉仕者、説教者になりたいと心に念じたのです。

(野の花、アメリカのある風景、オオアマナ〈べ

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待ちつつ急ぎつつ

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 1842年、ドイツのバイエルン州の田舎の村、メットリンゲンに、一人の若い女性のゴッットリービンが、精神錯乱で苦しんでいました。それ以前に、お兄さんも同じ様な問題を持っていたのです。しばらくすると、彼らの住む家から、『ゴーン、ゴーン!』と言う異様な音が村中に響き続ける様になります。この事態に直面した村長や教会の牧師や長老たちは、話し合いをします。そして、この「悪霊」の仕業に挑戦していく覚悟を決めます。

 その戦いはしばらく続きましたが、ある日、『イエスは勝利者だ!』と告白して、その若い女性は、束縛から解放されてしまいます。神がお造りになった人が、闇の力の支配に束縛され続けることを許すまいとする決心で、一人の若い女性の尊厳の回復のために、果敢に信仰を持って挑戦し、祈り、賛美した結果の「勝利」でした。その戦いを続けたのが、ブルームハルトでした。

 このゴットリーヴィンの解放は、心霊上の救いだけではなく、全人格的な全人間的救いであり、力をもって働きかける神の働きの現れでした。精神医学や心理的カウンセリングでは解決し得ない、心の闇の問題は、創造主から解き放たれる「神の力」による以外になかったのです。罪と死に勝利した《キリストの御名による力強い働き》によったのです。

 そう言った霊的な「戦い」に立ち上がった父と、家で牧師夫妻を助ける様になった、闇の力に「勝利」したゴットリービンのいる家庭で、一人の少年が成長していき、父の後の教会の奉仕を受け継ぐのです。クリストフ・ブルームハルトです。パートボルの教会に移った彼の奉仕、牧会の中で、多くの人たちの病が癒やされ、霊的束縛からも、多くの人が解放されていくのです。

 そればかりではなく、広くヨーロッパ中から多くの人たちが、ブルームハルトを慕い、信頼して集まって来たそうです。後に政治の世界にも進出しますが、教会指導の優れた器でありした。有名なバルトも、若い日に、このブルームハルトの感化を受けています。

 この教会の空き地には、数限りないほどの医療補助器、松葉杖などが山の様にうず高く積まれていたと記録されています。さながら新約聖書の時代の様な、目覚ましい奇跡が現されたのです。バルト神学の研究者の井上良雄の著された「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」に、そのことが記されてあります。

 この本を読んで、感銘を受けた四十ほどの私は、著者の井上師に、手紙を書きました。そうしましたら、丁寧なご返事と、ドイツ語のシュバーヴェン方言で書かれた、ブルームハルトの著作の原文のコピーが送られて来たのです。『簡単なドイツ語方言ですから、学んでみてください!』と言われてですが、ドイツ語を学んだことのない私は慌ててしまいました。それで、ある方に翻訳を依頼したのですが、その後その方もコピーも行方不明になってしまったのです。本当に申し訳ないまま、井上師は帰天されてしまいました。

 この子ブルームハルトには、面白い逸話が残っているのです。彼の家の玄関には、いつも馬に繋がれた馬車が置いてあったのだそうです。ベンツの自家用車などない時代でしたから、遠出には馬車だったのでしょう。なぜかと言うと、『イエスさまが再臨された!』と言う知らせを聞いたら、すぐに馬に鞭打って駆けつけるためだったそうです。

 「再臨待望」の強い想いを表すクリストフ・ブルームハルトの玄関の馬車に倣って、私はこのアパートの自転車置き場に、自転車を置いてあります。もちろん、買い物用の自転車で駆けつけられることなどできませんが、同じ思いで馬車の代わりに自転車を置いて、主の再臨を待ち望んでいたいからであります。

(シュヴァーベン方言の乗馬禁止の表示です)

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 窓辺の花の鉢から、直径3〜4mmくらいの大きさの花が咲き出しました。こんな小さな花は、これまであまり見たことがありません。野の花、雑草なのでしょうか。そんな花でも、暖かな環境の中で命を躍動させているのに、心が震えます。見られる花も、見ているものも、同じ命に祝福に預かっている共通点があります。

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帰還

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 「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」 (創世記17章8節)

 私の父は、自分の生まれた軍港・横須賀の家や土地に、特別な思い入れを持っていたと思います。と言うのは、自分の祖先が鎌倉武士で、源頼朝から拝領した土地を持っていたと言う父の誇りを、私に語ったことがあったからです。

 しかし父は、生まれた時に、家督相続のない庶子として戸籍に登記され、その家屋敷地は、後添えの子、母違いの弟に決められたのです。決して家督相続への執着など持たなかった父は、旧制中学の時に、その家を出て、親戚の家から学校に通っています。自分で人生を切り拓こうとしたのでしょう、鉱山学部のある旧制専門学校に進学し、鉱山技師として生きて行きます。

 旧満州やソウル近郊、山形、山梨などで仕事をしながら終戦を迎えています。戦時中に、母違いの弟(私たちにとっては叔父)は、南方で戦死してしまいます。戦後の新しい相続法で、父には財産権があった様ですが、それには関心がありませんでした。

 それで、何年か前に、父の子の私たち四人に、相続分があると言って来たのですが、私たちは誰も相続しませんで、書面で放棄したのです。父には、産まれて育った家や土地に連なる、鎌倉武士の末裔であることは拠り所でもあったのでしょう。

 「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル11章16節)」

 この私も父と同じで、血筋や血統などには関心がありません。ただ神の国、この国籍と市民権を与えられたことの誉は強烈に覚えて、感謝で溢れています。それは、「キリストとの共同相続人」であると信じていますので、この地上への執着はありません。

 やがて近い将来、父が慕った地や、私の生まれ育った地でもない、「さらに優れた故郷」、「天の故郷」に帰る日を、雲のような商人たちと共に、憧れ、切望しているのです。

 ただイスラエル民族は、父祖アブラハムに約束された「カナンの地」への思いは強烈です。この写真は、エチオピアから帰還した親子が写っていて、母親は祖先に約束された地に帰って来て、まずしたのは、跪いて、約束の地に接吻をしているのです。ユダヤ民族のカナンの地への憧れは驚くほどのものがある様です。

(“ bridge for peace “ からの最近の写真です)

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春花

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 サンフランシスコ湾の海辺の公園に咲く花だそうで、昨日送信してくれました。春を感じた自然界は、いっせいに花開き始めています。閉じ籠り症候群の私たちに、長女が綺麗をお裾分けしてくれています。もう何年も前に、サン・ホゼに行った時に、案内していただいて、サンフランシスコに、ジャイアンツのアメリカン・リーグの野球の試合を観に行きました。

 この街にある一帯は、多くの日本人や中国人の農業移民の地で、多くの移民のみなさんの汗と涙を受け止めた地なのです。作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、渡辺はま子が歌った「桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン」と言う歌があります。

桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン 夜霧に濡れて
夢紅く誰を待つ 柳の小窓
泣いている 泣いている
おぼろな瞳 花やさし霧の街
チャイナタウンの 恋の夜

桑港のチャイナタウン燃えて
泪顔ほつれ髪 翡翠の篭よ
忘らりょか 忘らりょか
蘭麝(らんじゃ)のかおり 君やさし夢の街
チャイナタウンの 恋の夜

桑港のチャイナタウン 黄金(きん)門湾の
君と見る白い船 旅路は遠い
懐しや 懐しや
故郷の夢よ 月やさし 丘の街
チャイナタウンの 恋の夜

 この街は、浪漫チックに歌われたのですが、日本人や中国のみなさんの勤勉と我慢が作り上げたと言えるでしょう。来る春くる春に、美しく咲き出す花は、移民のみなさんを慰め励ましたことでしょう。

 
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揺れた

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 先週の土曜日の晩、11時過ぎに、東日本大震災を思い出させる様な、地震の揺れを感じた私は、一瞬驚き起きました。広範囲に被害が出たそうです。でも津波被害がなかったことを喜んでいます。あの大地震の余震ではないかと言われ、今後、土曜日の晩の余震も続くとニュースが伝えています。

 "3.11"の時には、家内の入院手術を前にした時で,息子の家の二階にいて、大きく揺れ、広い場所に出ようと、近くのCOOPの駐車場に行きました。まだ、電線が大きく揺れていて、本物の地震を初めて身に感じたのです。

 お隣の国から帰国して2年、地震国の日本を感じながら、時々揺すぶられていますが、長く住んだ華南の街では、ただ一度だけ、台湾での地震を感じたことがありました。7階の友人の家で、夕食に招かれてた時だったでしょうか。

 あの"3.11"の地震では、津波の被害に驚かされたのです。北上川だったでしょうか、その川を遡上していく津波が、ヘリコプターから捉えられていて、テレビで放映されていました。畑も家も車もなぎ倒して、呑み込んでいくのです。

 その威力の凄さに、私は息を呑み込ました。上空からは見下ろせても、川の周辺の地上にいる人は誰も、その遡上に気付いていないのです。危機を予測できても、どうすることもできない自分が、何か申し訳ない思いにされてしまいました。” ヤマサ醤油 “ のサイトに、「稲村の火」の次の様な記事があります。

 『1854年(安政元年)11月4日、5日の2回にわたって襲った南海の大地震に際し、偶然故郷の紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。梧陵は村民を避難させるため、田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。この行為に感動した明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏の畠の中の落穂拾い」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。のちにこれをもとにして、小学校教師であった中井常蔵氏が著した物語「稲むらの火」は、昭和12年から昭和22年まで国定の小学国語読本に採用されました。』

 この物語は、史実とは違うそうですが、「防災の逸話」としては意味がありそうです。茨城も津波被害にあって、次兄と弟とその孫と一緒に、津波の被害を見ておきたくて出掛けたことがありました。近くの海岸の枯れた葦の間に、倒れた墓石が、津波の衝撃を物語っていたのです。

 その茨城の五浦(いずら)には、岡倉天心や横山大観の別荘や教室があった地です。そこに彼らが、今後の日本の美術に思いを向けた「六角堂」という由緒ある記念物もありました(津波にさらわれて再建されてありました)。大観の別荘を移築した室を持つホテルがあって、弟の教え子が、そこの女将で、泊めていただきました。

 あの地震、津波、原発崩壊などの災害は、人によって生き方に変化を与えた様です。有名な歌人は、原発の放射線被害の影響を避けて、東京を引き払って沖縄に転居したと聞きました。安全なところで子育てをしたかったからです。一方では、長く封鎖され、今は解除された南相馬市に転居して行った、「JR上野駅公園口」で全米図書賞翻訳部門受賞した小説家の柳美里(りゅうみり)がいます。津波や放射能の被害者を受けた人たちとともに生きるためでしょうか。この方の生き方が潔く感じているのです。

 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(ピリピ人への手紙2章6~9節)」

 人は危機に直面した時に、それを避けて生きるか、危機の只中にいる人と共に生きるか、対照的な生き方の違いがありそうです。罪と汚辱と悪とに満ちた人の世に、神の子が来られて住まわれ、短い生涯の後に、十字架に死なれたのがイエスさまでした。私の罪の受けるべき分を、代わってお受けくださったのです。自分の人生に激震が起きて、生き直すことができて、今の自分があります。

(南相馬に伝わる「野馬追」の行事です)

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5時の虹

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 雨上がりの昨日の夕方、西から晴れ間が見え、おあつらえ向きの虹の出る状況で、東の空を見上げると、半円形の虹がくっきりと見えました。よく見ると、その外側に、もう一つが見え《二重虹》でした。なにか得したように思って、小朋友に電話したのですが、通じませんでした。創造の美に感動して欲しかったからです。

 現代人は、地上と地上に起こっていることばかりに目を向けて、神々しい天然に、目を向け、心を溢れさせることをしなくなっている様です。ノアの洪水の後に、次の様に、神はノアに語られました。

 「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(創世記9章12~16節)」

 虹を見るたび、この約束を思い出すのです。華南の街から、友人の「老家(中国語でlaojia/ふるさとのこと)」に連れて行ってもらう時にも、この虹が見えました。じつに大掛かりな虹でした。

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