大惨劇の中で

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 2001911日の午後9時50分ほどでした(東海岸時間午前8時46分、9時3分にあったテロ事件)。当時、川のほとりの一廓にあったアパートをお借りして住んでいたのです。その二階の階段の近くの部屋のテーブルの椅子に座っていた私に、『大変、テレビをつけて観て!』と、子どもから電話が入ったのです。

 それで、テレビを観ますと、ニューヨークのワールド・トレイド・センターの北棟ビルから、炎と煙が立ち上っている画面が映し出されていたのです。それは衝撃的な現実の映像でした。ジェット旅客機が突っ込んでいたのです。しばらくすると南棟にも、同じように旅客機が突っ込んだのです。

 まるで映画の撮影現場のセットを眺めているようだったのですが、それは現実だったのです。度肝を抜かれるとは、このことなのでしょうか、大変なことが起こってしまったのです。その日には、ワシントンのペンタゴン(国防省のビル)にも、同じように突入し、またピッツバーグの森に、もう一機が墜落したのです。

 後になって、「同時多発事故」と言う、アルカイダのテロ攻撃だったことが判明し、夥しい数の死傷者が出た大惨事でした。こういったテロを、即時的に地球の反対側で、映像で見られると言うことが、自分たちの国にだって起こりうると言う思いに襲われたのです。

 ナショナル・ジオグラフィックが、「アメリカを襲ったあの日の出来事」を制作し、今日、その映像を、YouTube で観たのです。22年前前の大事故の記録ですが、薄れた記憶を書き直されたようです。生存者の回顧という形の番組で、20年の歳月を経た今でも、あの時期よりも、あっと驚かされるような事件が起こりかねないのだとの思いを新たにされたのです。

 80年ほど前に、真珠湾が奇襲された時も、ハワイ島のホノルル市民には、まさかの出来事だったのではないでしょうか。ハワイにいた上の息子を訪ねた時に、オアフ島のホノルルの北にあるカネオヘから、山間部を通るフリーウエーの山道を通っていましたら、息子が、『お父さん、日本軍は、この山間地から真珠湾に侵入して、爆撃してるんです!』と教えてくれました。

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 中野の教会で、戦後、クリスチャンとなった淵田美津雄攻撃隊長が率いた順路、あの爆撃機で飛んだ高地を、車で走っていましたので、何か錯覚するような不思議な思いがあったのです。台湾、沖縄、鹿児島や長崎が、いえ東京や大阪でさえも、一瞬のうちにミサイルを撃ち込まれないとは限らない、今の時代です。そんな危うい時代に生きているのを再認識した次第です。

 さして重要都市ではない、かつての商都のわが街ですが、ニューヨーク、いえアメリカ全土、いえ世界の貿易の繁栄のようなシンボルだったビルが、あんな形で23時間の間に、粉微塵に崩壊してしまう現実は、どこにでも起こりうることなのでしょう。そんなことを思いながら、恐れずに、今に忠実に生きることを決心させられているのです。

 あのような中を生き延びたみなさんのお話を聞いて、紙一重で生と死が分かれる現実に、生かされている人たちの言葉に、大混乱の中を死して任務を雄々しく全うされた方々、生きるように励まし、助けてくれた人たちへの感謝が、惨劇の中での救いなのでしょうか。

 あの事件の後、家族のもとに帰りえた人、それが叶えられなかった人、重い肉体的、精神的な障碍を負われて、この20年を生きてきているみなさんのことを考えながら、生きることの、いえ生かされていることの《重さ》を、もう一たび、ひしと感じた、主の日の午後でした。

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思いっきり輝いていた夏

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 『ミーン、ミーンミーン!』、元気、いや暑苦しい鳴き声の蝉の声が聞こえなくなって、散歩の途中で、今度は聞こえてきたのが、『カナカナカナ!』です。短い一生の夏のひと時を、一所懸命に鳴いていて、小さな命を振り絞るように生きているのでしょう。

 蝉の鳴き声を聞きながら、川まで歩いて行って、履いて出た水泳パンツになって、鉄橋の真下の「なめ(床滑と言うようですが、越して行った街の遊び友だちはそう言っていました)」が、えぐられて壺のようになった深みに素潜りすると、ハヤやバカッパヤなどの魚影が見えて、掴めそうだった日が、懐かしく思い出されます。

 帰り道に肉屋があって、そこで「ボンボン」と言われる、ゴムの袋に入った氷菓(ミルク愛の甘い氷)を買って、しゃぶりながら家に買って行ったのです。

 家に帰ると、母が井戸水で冷やしてくれたスイカを切って、食べさせてくれたでしょうか。宿題をした覚えがないのですが、泳いでボンボンをかじりスイカを食べたのが、夏の日の思い出です。

 もう帰ってこない夏を、今の夏と比べて、扇風機もクーラーもなく、窓を開け放った部屋に、吊られた蚊帳の中でごろ寝し、一日精一杯遊んで、熟睡して過ぎて行った夏でした。夏がくれば思い出すのが、こんなことでしょうか。

 兄たちや弟は元気なのに、自分ばかりが病気で、思うままにならないでいたのに、母の愛を独占している満足感があって、ラジオを聴きながら過ごしていたのに、急に元気になって、人並みの夏を楽しめるようになったのが、嬉しかったのも思い出します。

 父が、ドイアイスを入れた紙の箱の中に、家族分のソフトクリームを買って帰ってきてくれたことが、一夏に何回かあったでしょうか。こんなにうまい物があるのを、舌で味わって大喜びをしてるみんなを、父が満足そうに眺めていました。

 もう川でなんか泳がなくなっているのでしょうか。カルキで消毒した水道水のプールでしか泳げなさそうです。カナンの街にいた時、濁り水でしょうか、あぶくの出るような下水が流れ込んでる大きな川で、得意そうに泳いでる人がいたのです。

 高二の時に、上の兄の友人のお父さんが、社員のために借りた、湯河原の吉浜にあった夏の保養所で、一夏過ごしたのです。オマケのようにしていたのですが、大学生たちの〈少年ぽい生態〉を眺めながら、いっしょに遊ばせてもらったのです。みんな東京六大学の運動部員でしたから、結構カッコいいお兄さんたちでした。

 それって、どなたにもある思い出なのでしょう、子どもたちを連れて、伊豆や相良の海の家に、朝早く家を出て、一夏、何度か出かけたことがりました。車の冷却用のホースが破裂し、水をもらいもらいしてradiator に注水しながら、やっと見つけた自動車工場で、お盆休みだったのに修理をしていただいたことがありました。

 この夏、やはり悲しいのは、家の前のコンクリートの通路の上に、ひっくり返っている蝉がいることです。手にして、起き上がらせて、空に放つと、飛んでいきます。でも、もう死期の迫った蝉なのでしょうか、そんな姿を、〈セミファイナル〉と言うんだそうです。どの夏も、思いっきり輝いていた夏だったのです。

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戦争をしないあらゆる努力を

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 最近、〈嗅覚〉が効くようになってきているのです。〈臭ってる!〉のです。どんな臭いかと言いますと、きな臭い〈戦争の匂い〉です。

 『また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 (マルコ13:7)』

 私の感じる〈匂い〉は、国際情勢の中で、日本が国防という名で、軍備拡張や国土整備に乗り出していることを聞いて、鼻腔がムズムズしてきているのです。 

 父から聞いていた、二十歳の「徴兵検査」が、再び行われるのでしょうか。検査中にビンタ(平手打ち)の音が聞こえたそうです。若者たちが戦場に駆り出されていく日が、また来るのでしょうか。

 学業の途上で、ペン(ノートパソコン)を置いて、軍帽を被り、軍服を着、軍靴を履いて、銃を担ぐのでしょうか。国家総動員というスローガンが掲げられるのでしょうか。

 かつてアジア諸国に、〈五族共和〉と言われる大東亜共栄圏を作り上げようとした考えではなく、起こりうる他国からの攻撃に対抗して、国を守るために、若者が駆り出されるかも知れません。

 あらゆる業を中途で終えるのでしょうか。田圃や畑は誰が耕すのでしょうか。工場や商店の家業はどうなるのでしょうか。病弱な祖父母、父母は誰が看るのでしょうか。

 戦争の準備ではなく、『戦争をしないあらゆる努力を忘れずにし続けて欲しいのです!』と、きっと戦死者は言うことでしょう。聖書で、救い主イエスさまは、『それ(戦争)は必ず起こることです。』と言われていますから、起こるのですが、それでも、起こらないための努力はしたいのです。九月になって、そんなことを思う朝なのです。

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[ことば]恵みと重さ

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 一時は、80kgもあった体重が、一念発起、好きなカリントウを断ち、70kgほどに安定してきていました。もう少し減量の65kgが目標値なのですが、なかなか到達が難しいのです。ただ、この目標設定値は、ちょうど良いのだそうです。

 そんな目標がありながら、長女の単身帰国、隣国からの二組のお見舞い客、1週間前からは次女家族の訪問が続いて、〈食事事情〉が変わってしまったのです。散歩の日数と歩数とが減ったこともあって、3kgも体重が増えてしまいました。先日、次女の勧めもあって、日帰り温泉に久し振りに出かけ、そこにある体重計に乗って判明したのです。

 ご飯の量が増えたこと、ずっと食べなかったベーコンとシャウエッセンのソーセージを孫たち用にと買って一緒に食べたこと、訪問客の持参した菓子類を『食べなくては申し訳ない!』と食べたこと、調理を長女や訪問の姉妹たち、そして次女任せにして楽をしたこと、買い物を彼女たち任せにして外出が減ったこと、その上、婿殿が『何か欲しい飲み物ありますか?』と聞かれて、喉をスッキリしたくて、懐かしく『サイダー!』と言ってしまいましたら三本も買ってきてくれて、500mlを一本飲んで、もう一本も半分も飲んでしまったこと、自分に鬼にならないければいけないのに、優し過ぎて、自制力が欠如したのが原因でした。

 それで今は、『どうしよう?』と、仕切りに思っているのです。この体重の〈重さ〉は、正直な体重計で歴然としています。

 「重さ」ですが、体重だけではなく、人の語る「ことばの重さ」をしばらく考えてきています。この「ことば」にも、重さと軽さとがあるようです。長く、聖書から語ることを仕事にしてきましたが、若い頃と、中国の学校の教壇から、多くの「ことば」を語ってましたが、これと教会の会衆に語る「ことば」とでは、その重さの違いは歴然としているようです。両方とも、教科書や聖書があって、語るのですが、語る動機も、聞く対象も、お聞きになる態度も、聞いた後の感想も、両者は違うのです。

 語りの上手さは、経験だけではありません。二つ違う向こうにある教室の生徒が、『先生の話す声が、私のいる教室からいつも聞こえる!』と言われたことが何度かありました。大声で教えていたからです。宣教師さんと路傍に立って、伝道説教をした時、バプテスマのヨハネに真似たつもりで、力一杯声を上げて話していたのですが、宣教師さんから、『絞るような香具師が語るのに似たのはクリスチャンとしてはふさわしくありません!』と注意され、それ以降やめました。

 私たちが語る、救い主イエスさまは、柔和なお方で、巷で声を上げて、叫んだりされなかったからです。またこんな話をお聞きしたことがあります。あるラジオ牧師さんの弟さんが、ある集会にやって来たそうです。その夕べの集いの説経者は、ズーズー弁で高学歴ではなかったのだそうです。弟さんは、T大出の秀才で、ある政党の機関誌のお仕事をされていたそうです。『こりゃあダメだ!』と思ったのです。ところが、訥々として語る説教者の語る「ことば(福音)」を聞き、その方の招きに応じて、信仰を告白して、救いを受け入れたのです。

 どうも説教の上手さ、説経者の優秀さや学歴と、聞く人との関係は、未知数なのでしょう。頭の上を飛んでいってしまうような高邁な神学や例話が語られても、立て板に水の説教を聞いても、それだから人は救われるわけではなさそうです。その弟さんは、やがてお兄さんと同じく献身して、牧師になられたのです。

 またブレーナードの話を、本で読んだ若い日がありました。この方は、夭逝してしまいますが、アメリカの native のみなさんに重荷を持って伝道をされた方だったのです。ある夕べ、集会を開こうとしましたが、通訳者がいなかったのです。思案の末、酔った男に通訳者としてお願いして、集会がもたれました。その酔っぱらい通訳者のことばで、何人もの方が救われたのだそうです。神さまは、こんなことをされることを知って驚くとともに、「神のことば」に力があって、語る側の事情とは無関係に、人の心に届き、悔い改めに導くことができるのです。

 責任をもって語る「ことば」に、重みがあります。それとは逆に、「ことばの軽さ」もあります。その場限りに語る軽口、軽率なことばが、責任ある立場の人によって語られる時、その〈軽さ〉に人は大きく躓くのです。

 私は、「聖書のことば」を聞いて、嬉しくて仕方がない言葉があり、今でも、それを誦(そらん)じますと、感動で心がいっぱいにされるのです。

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 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 《功のない者への一方的な好意》という意味を持つ「恵み」、「恩寵」が、自分の人生に深く染み込んだのです。安心がやってき、喜びが湧き立ったのを鮮明に覚えています。自分にとって画期的な「ことば」でした。「赦し」の確信でした。《再スタート》、《やり直し》をさせてくれた「ことば」だったのです。ある晩、宣教師さんが、この「みことば」を読まれた時、電撃的に重く心に置かれて、今日に至っています。

 そんな「ことば」」が、食べ物だけではなく、自分を生かしているのを感じております。昨日も、弟と姪が、久しぶりに訪ねてくれました。たくさんの「ことば」が交わされ、励まし合うことが、次女の家族と共にできたのです。素敵な時でした。

( Christian clip arts のイラストです)

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せんせい あのね

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 「一年一組 せんせい あのね(鹿島和夫、灰谷健次郎著/理論社)」を、市立図書館から借り出して読んでみました。神戸の小学校の一年生と担任の先生との詩による「あのね帳(交換日記)」が交わされた記録が記されています。

 その小学校は、chemical shoes などのゴム加工製品を作る町工場地帯にあって、朝鮮半島から移住してきた家庭の子どもたちが通学している学域にあります(関西淡路大震災の被災でよく報道された地域です)。それで民族的な問題、差別などの中で子どもたちが生活し、学んでいるのです。

 父に従って東京に引っ越した後、住んだ街に、朝鮮半島から移り住んだみなさんたちの住んでいる一廓がありました。貧しい家庭が多く、まれに豊かな家庭があって、焼肉屋、パチンコ店、廃品回収などを生業にして、たくましく生きていたのです。それを「バタ屋」と呼んでいて、初めて聞いた私は、butter を買いに、弁当箱を持って、級友の女の子の家を訪ねたほどでした。

 同じ肌の色をし、同じ顔貌なのに、みなさんは蔑視されていたのです。子どもたちには、大人の事情や経緯などはお構なしで、一緒に嬉々として遊んでいたのですが、大人に感化されて、差別を持ち込んでは、戯れ歌、侮蔑の歌まで歌っている子もいました。

 鹿島和夫さんは、その地域の小学校の11組を担任されていて、子どもたちと「あのね帳(交換日記)」のやり取りを始め、みんなが作った詩に応答して、交流を図っていたのです。子どもたちの心から、さまざまな思いを汲み出そうとしたのです。

 私たちの世代には、無着成恭氏が、生活綴り方教室を、山形県の山村の本沢村の学校で始めて、その戦後教育の特徴ある作文指導をされ、注目されていました。

 この先生の鹿島和夫は、子どもたちの現実と教師の指導の限界との 越えられない溝を指摘しています。そこにある貧困、それによる様々な問題、日本人から受ける差別などは、今にまで及んでいるのです。対日感情の好ましくない原因は、日本の過去の長い年月の支配と差別があったのでしょう。

 そんな工場街に住んで、心を閉ざした、よしむらせいてつ君のことが取り上げられています。こんな詩を書いています。

     かい

耳にかいをあてるとうみの音がききえた

かいにはうみがはいっとんかな

うみにずっとすんどったから

うみの音がしみこんでいる

うみはかいにいのちをあげたんかな

      おつきさま

おつきさまは

あんなにちいさいのに

せかいじゅうにみえる

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 『子どもを画一的にワクのなかにはめこまないで、のびのびと発言し行動させ、そんな中で自由に考え合うことが、ぼくの学級づくりの基本だった。』と、鹿島和夫は言います。初めて会った時から避けて顔を合わそうとしない、人見知りをするせいてつ君は、交換日記をするごとに、こんな素敵な詩を書くようになったそうです。

 このせいてつ君がいて、その影響で、級友のあけみちゃんが変わっていくのです。次の詩を読んでみてください。

    ちょうせんご

ちょうせんごで

おかあさんは オモニといいます

おとうさんは アポジといいます

いもうとのことは ヨドムセンといいます

わたしのなまえは イイメンミで

みよちゃんは イイミディです

おとうさんのおかあさんは ハンメといいます

ハンメはわたしが3さいのとき

しんでしまいました

がっこうのせんせいはソンセンニンです

わたしはにほんごでいうほうがすきです

ミデミンメというきとばは

ハイベハンメがいるときだけつかっています

 こんなことを書けるようになったのです。そのあけみちゃんがいることで、せいてつ君が、また変わったのだそうです。

 子どもの心の中でも、人種差別の歴史は、如実に表されているのですが、教育者の偏見のない目と接し方が、傷ついた心の現実を癒していったのでしょう。でも帰って行く家の生活の現実は厳しかったのです。けっきょく、両親の家出、祖父母に育てられたせいてつ君は、祖父に、「あのね帳」の入っていたランドセルを川に捨てられてしまいます。その後、養護施設に入るのです。

 7歳の幼い子どもの人生の過酷さに、教師のできる限界を、鹿島和夫は痛切に覚えるのです。でも、「いい先生」のいたことは、せいてつ君の一生に、よい影響を与えたに違いないと思うのです。

 同級生にナガシマ君がいました。「オランダ屋敷」に住んでいると聞いて、彼について行って見たことがありますが、そこはオンボロ屋敷でした。雨が降ると、弟と2人休んでいました。さしていた破傘が使えなくなったからです。彼とは一緒に廊下に立たされた仲間でした。いまだに、彼のことも、そしてせいてつ君のことも気になってしまいます。

(神戸市で作られるケミカルサンダルです)

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おまけ

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 学んだ学校で、先生には、〈おまけ点〉をもらった記憶はないのですが、駄菓子屋さんには、〈おまけ〉があったのです。五円や十円を手に、駄菓子屋に、お菓子を買いに行くと、時々、そのおまけをもらったことがあって、すごく嬉しくなって、それでまた買いに行ったのです。

 若い頃、出張した晩に、ぶらっと街に出て、普段はやらない、「スマートボール(縦に置かれているパチンコに似ているのですが、平台で、手前が低くて、ボールが手前に戻ってきて、空いた穴を狙って、ゴルフボールの半分ほどのボールを、手のひらで、スプリングのついたバットの先をポンと押し出して、台の中に穴に埋めるゲーム)があって、それを暇にまかせてやっていました。

 横並びに揃うと、ザーッとボールが流れ落ちてきて、数によって賞品がもらえるのです。世話役の若い女性が、通るたびに、ザーッとスマートボールを落とすのです。あれって、〈おまけ〉じゃあなくて、彼女に気に入られた特別サーヴィスだったのでしょう。何かのモーションだったかも知れませんが、つまらなくなって、宿に帰ってしまいました。

 若い日に、隙があったからでしょうか、脇の身構えが甘かったのか、何か危なっかしいことが、よくありました。誘惑にさらされながらも持ち堪えさせていただいて、主のもとに帰ることができたのは、ほんとうに憐みーだったのです。

 世知辛い人生には、〈おまけ〉があるのでしょうか。功なき者が、冠を受けたり、褒賞をいただくことがあるのでしょうか。先週の日曜日に、「予定」についての説教を聞きました。そう、ちっとも良くない自分が、この永遠の命への救いに預かったのは、神さまが、前もって救いに選び、予定してくださったからだと言う話でした。

 『知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。(申命記96節)』

 イスラエルが、長いエジプトでの奴隷生活から出て、「恵みの地」に入ったのは、『あなたが正しいからではない!』との言明のように、繰り返し、そう言われてきたのです。不従順のイスラエルの民、ずっと反抗の民であり続けた彼らを、荒野で40年もの間、天来の糧の「マナ」で養われ、十二分に養われながら、それでも不満で、この民の思いはいっぱいでした。実に反抗的だったのです。

 その慈愛に満ちた取扱いは、神さまの恵み、いつくしみ、憐れみに溢れていたのです。私も、私の家内も子どもたちも、着る着物は擦り切れず、雨露をしのぐ住む家を与えられ、食べ物も、必要の全ては、神さまが備えててくださいました。

 コロナ明けで、長女が単身で2週間ほど帰って来て、主人のもとに帰って行きました。そして次女家族が1週間ほど前にやって来たのです。この日曜日には、長男家族と次男夫婦が、私たちを訪ねてくれ、家族礼拝を共にしました。

10000 reasons

主をたたえよ たましいよ

聖なる名を

心全て 捧げ 賛美します

日が昇る 今日もまたあなたに歌おう

どんなことが起こったとしても

賛美歌い続ける

主をたたえよ たましいよ

聖なる名を

心全て 捧げ替美します

愛溢れやさしい神

あなたのしてくれたことを何も忘れないように

歌をくれたあなたへ

主をたたえよ たましいよ

聖なる名を

心全て 捧げ 賛美します

弱って立てなくなり

終わりが迫る頃

まだ私は歌うだろう

永遠に止まぬ賛美を

主をたたえよ たましいよ

聖なる名を

心全て 捧げ 賛美します

Goodness of God

E V

I love You Lord
Oh Your mercy never fails me
All my days
I’ve been held in Your hands
From the moment that I wake up
Until I lay my head
I will sing of the goodness of God

E C

All my life You have been faithful
All my life You have been so, so good
With every breath that I am able
I will sing of the goodness of God

J V

尽きない   恵みと  主の御手に

(いだ)かれ、守られてきた
愛する主の   慈しみを
おぼえて  日々 賛美する

J C

あなたは 忠実で

恵みを注ぎつづけた

命の   ある限り

歌おう 主の愛をおぼえ 

J Bridge

あなたの恵みと  いつくしみが

生きてる限り 追いかけてくる
この人生  今すべて

主にゆだねる

溢れる 恵みが 追いかけてくる

E Bridge

Your goodness is running after, it’s running after me
Your goodness is running after, it’s running after me
With my life laid down, I’m surrendered now, I give You everything
Your goodness is running after, it’s running after me

 そして、一人一人が、この1週間のことを分かち合いながら、主の忠実さに感謝したのです。まさに、そこにあったのは、「家の教会」でした。2人の曽祖母の信仰を継承した曾孫たちも加わり、最後に、いちばんの年若の次女の娘がお祈りをしてくれました。感極まるような礼拝でした。

 功なき者への《恩寵》、《慈愛》、《憐み》でした。俗っぽく言いますと、チッともよくないものへの《おまけ》なのです。《おまけ》ばかりの中を生かされてきて、今もその中にいられるのは感謝だけです。

( Christian clip arts のイラストです)

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うましうましの米

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 歌人の正岡子規が、門人や友人と結成した、「アララギ」は、一時期の日本の短歌界で、中心的な同人会でした。その会に属し、指導的な立場にいたのが、医師で歌人の斉藤茂吉でした。その茂吉に、次のような話が残さされています。

 1924年月、42歳で、医学留学先のドイツのミュンヘンにいた歌人斎藤茂吉が、次の短歌を詠んでいます。「夕ひとり日本飯くふ」の詞(ことば)書きを添えて、次の歌を詠んでいます。

イタリアの米を炊(かし)ぎてひとり食ふこのたそがれの塩のいろはや

 茂吉は四十代でしたが、六十を過ぎて、天津の語学学校に留学した家内と私は、学友と一緒に、市立博物館に見学に行き、入場票を買うために、「学生証」を提示したのです。顔を見て、学生としては老成しているのを観て、不思議な顔をしたり、ニヤニヤしていたのです。でも、歴とした「老留学生」でしたので、学割で入場できました。

 茂吉は、連日のイタリアンの洋食の連続で、日本人の下の彼にとっては、もう飽きていたのです。やっと米を入手した茂吉は、     

噛(か)みあてし砂さびしくぞおもふ

と続けて詠んだのです。「砂を噛むような』食感だったのでしょう、さっそく自分で研いで炊いたお米も、慣れ親しんだ日本米とは違っていて、がっかりだったのでしょう。私たちの留学体験も、東アジア人として共通点がありながらも、パサパサとしたり、ポロポロしたりした米の食感でしたが、米もおかずの感じで、中華菜と一緒に食べると、とても美味しかったのです。でも米だけでは、茂吉と同じでした。

 ある時、街の中を歩いていたら、食料品の店に、「秋田小町」と印字された米袋が売られていました。黒竜江省で作られた物で、買って炊いた味は、日本のものと遜色ありませんでした。時々10kgの米袋をかついで、差し入れしてくれる姉妹がいて、米を買うことがなかったのですが、「米の飯(めし)」はやはり美味しいよりも、もっと感動的で、《うまい》は、茂吉も私も同じでした。

 こんな歌があるのをご存知でしょうか。大澤敦史の作詞作曲の「日本の米は世界一」があります。

Everybody eat 牛丼 Everybody eat カツ丼
Do you wanna eat
まぐろ丼? 親子丼 いくら丼

Everybody eat 天丼 Everybody eat 豚丼
Do you wanna eat
中華丼? チャーシュー丼 すき焼き丼

刺身定食 !! 唐揚げ定食 !!
焼き鮭定食 !! さんまの塩焼き定食
餃子定食 !! 焼肉定食 !!
いつもいつでも 食卓支える 主食!主食!主食は

日本の米 We want 至宝の愛
真っ白に炊きたてごはんが輝く 白米が美味いんじゃない?

日本の米 君の元へ Keep on the rice
この国 日本の食を支えてる 誇れよ我らの米を
日本の米は世界一

コシヒカリ キヌヒカリ みつひかり イクヒカリ ヒノヒカリ
ヤマヒカリ なすひかり ナツヒカリ ユメヒカリ ゆきひかり
加賀ひかり フクヒカリ ちゅらひかり 能登ひかり さきひかり
ササニシキ チヨニシキ アキニシキ みのにしき あきたこまち

鯖味噌定食 !! 天ぷら定食 !!
スタミナ定食 !! カツオのたたき定食
ステーキ定食 !! トンカツ定食 !!
食べる者皆 あまねく讃えよ 米を!米を!米を!米を!
米を 米米を

日本の米 We gatta 未曾有の愛
おかずのチョイスが無限に広がる 食べない手は無いんじゃない?

日本の米 いつもここへ 希望のRice
あったかいごはんを無心でかきこんで 日本の米は世界一

日本の米 We want 至宝の愛
真っ白に炊きたてごはんが輝く 白米が美味いんじゃない?

日本の米 君の元へ Keep on the rice
この国 日本の食を支えてる 誇れよ我らの米を
日本の米は世界一
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 「米讃歌」、日本の風土の中で作り上げられた、しかも《八十八》回も手をかけてできあがる米が、英語を加えてほめ歌っているのです。どんなに尊いかを、食べ続けて来た私たちは、誰もが認めるのでしょう。

 田圃で育った稲の穂を積んで、穂を爪で潰したことが、子どもの頃にありました。まだ固まるまで時があって、真っ白い米液がこぼれて落ちたのです。煮炊きすると柔らかいのに、炊かれるまで籾(もみ)に保護され続けて、固く保存されているのです。

楽しみは まれに魚煮て 兒等(こら)皆が うましうましと いひて食ふ時 

 橘曙覧(たちばなのあけみ)の詠んだこの歌は、おかずは「うまし」なのでしょうけど、お米がうまいから、そのうまさが、おかずをひきた立てて隠されているのでしょう。そんな食事風景を思い浮かべながら、八月末の今、北関東の田圃の稲を見ますのに、まだ黄金色にはなっていませんが、十分に育って青々としています。鰻丼も、カツ丼も、生卵ご飯も、そのうまさを、米が支えているから、美味しいはずなのです。

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「甘え」の体験

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 1971年に刊行された「甘えの構造」は日本と日本人を理解するための教科書のように、一時、大変注目された著書でした。精神科医の土井健郎が書かれて、私を育ててくださった宣教師さんも、この翻訳本を読んでおいででした。八年間、身近にいた私の言動を見聞きしてこられたので、けっこう、「甘え」のsampleとして納得していたのではないかと思っています。もちろん、私も読んでいた一書です。

 病弱な子への二親からの過度な愛情で育てられると、甘やかされたのです。父は、死にそうな中から生き返った私のために、国立病院に入院中に、曽祖父がロンドンから買って来た純毛の毛布を、父の生家に取りに行って、夜具にして使わせてくれました。退院後、〈寝台〉を作らせて寝かせてくれ、兄二人と弟と、違った西洋式な生活をさせてくれたのです。

 また病後の回復のために、住んでいた村の農家から「ヤギの乳」を、兄たちにとりに行かせて、母が沸かしてくれて飲んだり、瓶詰め〈バター〉を取り寄せては、好きな時に、好きなだけ舐めるのを許してくれました。兄たちと弟は、指を舐めていて、時々は闇舐めをしていたのでしょう。

 小学校入学前には、日本橋の三越に、制服、制帽、編み上げの制靴を特注で作らせて用意してくれたのです。ところが肺炎に罹って、街の病院に入院してしまいました。それで入学式には出られず、一学期は学校に行った記憶のないまま、東京の街に引っ越して、転校してしまったのです。

 特別扱いの三男坊主は、わがままになって、その我慢の緒を切った父に、こっぴどく叱られたのを境に、変えられたのです。それ以来、悪戯をしたり、我儘をすると家を出され、家に入れてもらえないことが、何度もありました。お勝手の三和土(たたき)の上に膝をついて、母の盛ってくれた味噌丼飯をかき込んで家を走り出て、野天の林の間や、貨物の貨車の車掌室に入り込んで、夜を明かしたりしたりしたのです。王子さまから乞食への転落でした。拳骨も父からもらうようにもなったのです。

 父も母も、このまま我儘にさせてしまったら、使い物にならない人間になってしまうと思ったのでしょう、それで厳しく取り扱うようになったのです。自分としては、《愛された経験》、〈甘やかされた経験〉を、今でも宝物のように思い返しているのです。それは兄弟との比較ではなく、死に損ないを、死なせまいとして愛してくれた《愛》の証だからです。

 愛にも鞭が似合うのででょうか、愛するが故に、父は私に、目に見えない口頭の鞭を、拳骨も加えて振るったのでしょう。今になって、それを感謝しているのです。兄たち二人は街の中学校で学んだのですが、私を、大正デモクラシーの盛んな時期に開校された、私立中学校に入れてくれたのです。

 父の同僚たちから勧められたのか、父自身が、旧制の県立中学校から、東京の私立中学に転校して学んだからでしょうか、名のある創立者の私立中学に通わせてくれたのです。思春期挫折症候群と言えるのでしょうか、うまく乗り越えられなかった中2頃からの一年半ほどの間は、実に荒れていた時期がありました。殴りかかって喧嘩を挑み、盗みだってしたり、電車の車掌室に入って開閉器を操作したり、駅でも窃盗をしたり、学校の備品やパン置き場から失敬して食べたり、運動クラブの部室荒らしもしたでしょうか。まあちょっと足と手の二十の指では数えられないほど不始末をしたのです。
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 ところが〈厳重注意〉で、警察への通告、停学や放校など処分なしで、家裁送りもありませんでした。中3の最後の学年通信簿に、『よく立ち直りました!』と担任が書いてくれたのです。ある時、自分がひどいことをしでかした、その学校を見せたくて、中学生で留学を考えて準備中の上の息子を連れて、母校訪問をしたのです。すでに校長になっていた担任が息子を見て、『キミは大丈夫そうだね!』と、意味深なことを息子に言ったのです。ただニヤニヤの私でした。

 退学になった同級生がいたのに、『どうして俺を退学処分にしなかったのですか?』と聞くに聞けなく、その時学校を後にしました。そんなこんなで、先日、〈開校百年記念〉の募金がありました。わずかな年金で生活している今ですが、ちょっとまとまった金額を、反記念な過去しか持たないので、懺悔の気持ちで、匿名扱いを願って送金しました。

 そうしましたら、創立記念の切手2枚が贈呈され、来年には、記念品を贈ると言ってきました。学校には、もう当時教えてくださった先生たちはいないという理由で、自分の内側の始末を、そう言った形でしたわけです。ちょっと、悔い改めには、相応しくなく、足りなさそそうですが、精一杯の想いの表現なのです。

 そんな裏話も、もう時効でしょうか、そんな母校の担任の同僚の先生の紹介で、研究所に入り、私立女子校に就職でき、教員になったのです。それには担任も驚きだったのでしょう。しかも、伝道の道に進んだ頃ですが、その転身を知った担任が、『そうですか、キミもお母さんの道を行くのですか!』と、感謝の便りの返信で、そう言ってくれました。

 あの時、退学され、家裁や鑑別所送りにされ、少年院に送られていたら、高倉健は演技でヤクザを演じただけですが、自分は、歴(れっき)とした裏社会の極道に堕ちていただろうかと、震えながら思い出すのです。

 それででしょうか、今も、《赦された罪人》を自認している自分なのです。今回家内の見舞いに来てくれた中国の方から、一緒に教会生活をしていた兄弟が、『今刑務所に入っています!』と知らされました。彼が大事にしていた清時代の骨董の鍵をくれたことがあって、大切に保管してあります。

 刑務所に入り損なった自分と、現に入所中のこの方と、何が違うのでしょうか。世の中を、「甘え」で生きてきた、いえ、正確に言うと、《神の憐れみ》で、方向を変えられて生きてきた私は、彼の出所後のことを考えています。奥さんと二人で、田舎から出て来て、一生懸命働いて、息子さんとお嬢さんを大学にあげ、この子さんたちは、社会人として活躍しているのだそうです。何か間違いがあったのでしょう。彼も「甘え」た一人なのでしょうか。でも主は、憐れみ深いお方なのです。

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 「甘え」と言うことばは、「甘い」とか「甘み」「甘い物」と、「得る」に分解できるそうで、「甘える」は、糖質の高い饅頭やチョコレートなどを手に入れる、『手に入れたい!』と言う行為と似ているのでしょう。

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海と山と父との一景色

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Mt.Fuji and Yokosuka city at twilight in spring season

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 1910年(明治43)123日に、辻子開成中学の学生12人の乗ったボートが転覆して、全員亡くなった事故がありました。作詞が三角錫子、作曲がジェレマイア・インガルスで、「真白き富士の根」です。

1 真白き富士の根 緑の江の島
  仰ぎ見るも 今は涙
  帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
  捧げまつる 胸と心

2 ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原
  風も浪も 小(ち)さき腕(かいな)に
  力もつきはて 呼ぶ名は父母(ちちはは)
  恨みは深し 七里が浜辺

3 み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて
  月も星も 影をひそめ
  みたまよいずこに 迷いておわすか
  帰れ早く 母の胸に

4 みそらにかがやく 朝日のみ光
  やみにしずむ 親の心
  黄金も宝も 何しに集めん
  神よ早く 我も召せよ

5 雲間に昇りし 昨日の月影
  今は見えぬ 人の姿
  悲しさ余りて 寝られぬ枕に
  響く波の おとも高し

6 帰らぬ浪路に 友呼ぶ千鳥に
  我もこいし 失(う)せし人よ
  尽きせぬ恨みに 泣くねは共々
  今日もあすも 斯(か)くてとわに

 この悲しい歌が歌われ始めた1910年の弥生三月に、私の父は、逗子の隣町、横須賀の海を見下ろす高台にある家で生まれています。そこには海軍の鎮守府があって、その技官の家だったのだそうです。その家が、まだ残されていて、すぐ上の兄と弟で訪ねたのです。

 「鎌倉武士の末裔」であることを、父が話してくれましたが、鎌倉の街を訪ねた時も、その府庁への若宮大路を歩いてみた時も、ちょっとsentimental になったようです。きっと父に聞いた「祖」は、そこを歩いてか、馬に跨ってか、参内したのでしょうか。それが、たった一つの、父の自慢でしたが、『いい国作ろう鎌倉幕府!』と言いながら、鎌倉幕府の開府の年号を覚えた「1192年」ですが、800年以上も昔のことは、私には辿りきれないほどに、「おぼろげ」に感じるのです。

 その父の街を訪ねた時、叔母と従兄弟に会って、そこでご馳走になった、「お寿司」が美味しかったのです。それだけでは飽き足りなかったのか、次兄がおごってくれた「海軍カレー」も美味しかったですし、父を思い出し、父の生まれた町への親近感からか、父との交わりを懐かしく思い出したのか、「焼き鳥」までご馳走してもらったのです。「どぶ板通り」と呼ばれる道も歩いてみました。どこの街にもある、変哲のない商店街なのですが、父にちなんだ街だという理由で、やっぱり、そきが息子たちの街のようにも感じてしまったのです。

 日本海海戦の主艦だった「三笠」が、記念館として係留されていて、東郷平八郎の仕草をした兄が、印象的でした。私たち4人の息子の中で、この兄が、一番の孝行息子で、父ばかりではなく、母の最後まで世話をしてくれたのです。姿格好も、優しさも、父に一番似ているでしょうか。

 父の通った小学校も、中等学校も訪ねなかったのですが、行かず仕舞いでした。イタズラできかん気だった父にとっても、《垂乳根の母なる街》だったに違いありません。どうも時々父は、義姉の運転で、古里を訪ねていたのだそうです。父が帰天して、五十年以上も経ってしまっても、父の生まれ育った街も、東京の大森、荏原、浅草、さらに秋田、山形、そして京城、上海、奉天(瀋陽)などの街々を、ゆっくり歩いてみたい思いが、いつもあります。

 「真白き冨士の根(嶺)」、「めんこい仔馬」、「櫻井の訣別〜大楠公の歌(楠正成、正行父子)〜」、そして「主我を愛す」など、父の歌っていた声が聞こえてきそうです。行き先や残された時間が少なくなってきているからでしょうか、秋が待ち遠しいからでしょうか、過去に思いが向いてしまう、今日も暑そうな明け方です。

(海上から観た横須賀市の景色です)

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