[ことば]恵みと重さ

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 一時は、80kgもあった体重が、一念発起、好きなカリントウを断ち、70kgほどに安定してきていました。もう少し減量の65kgが目標値なのですが、なかなか到達が難しいのです。ただ、この目標設定値は、ちょうど良いのだそうです。

 そんな目標がありながら、長女の単身帰国、隣国からの二組のお見舞い客、1週間前からは次女家族の訪問が続いて、〈食事事情〉が変わってしまったのです。散歩の日数と歩数とが減ったこともあって、3kgも体重が増えてしまいました。先日、次女の勧めもあって、日帰り温泉に久し振りに出かけ、そこにある体重計に乗って判明したのです。

 ご飯の量が増えたこと、ずっと食べなかったベーコンとシャウエッセンのソーセージを孫たち用にと買って一緒に食べたこと、訪問客の持参した菓子類を『食べなくては申し訳ない!』と食べたこと、調理を長女や訪問の姉妹たち、そして次女任せにして楽をしたこと、買い物を彼女たち任せにして外出が減ったこと、その上、婿殿が『何か欲しい飲み物ありますか?』と聞かれて、喉をスッキリしたくて、懐かしく『サイダー!』と言ってしまいましたら三本も買ってきてくれて、500mlを一本飲んで、もう一本も半分も飲んでしまったこと、自分に鬼にならないければいけないのに、優し過ぎて、自制力が欠如したのが原因でした。

 それで今は、『どうしよう?』と、仕切りに思っているのです。この体重の〈重さ〉は、正直な体重計で歴然としています。

 「重さ」ですが、体重だけではなく、人の語る「ことばの重さ」をしばらく考えてきています。この「ことば」にも、重さと軽さとがあるようです。長く、聖書から語ることを仕事にしてきましたが、若い頃と、中国の学校の教壇から、多くの「ことば」を語ってましたが、これと教会の会衆に語る「ことば」とでは、その重さの違いは歴然としているようです。両方とも、教科書や聖書があって、語るのですが、語る動機も、聞く対象も、お聞きになる態度も、聞いた後の感想も、両者は違うのです。

 語りの上手さは、経験だけではありません。二つ違う向こうにある教室の生徒が、『先生の話す声が、私のいる教室からいつも聞こえる!』と言われたことが何度かありました。大声で教えていたからです。宣教師さんと路傍に立って、伝道説教をした時、バプテスマのヨハネに真似たつもりで、力一杯声を上げて話していたのですが、宣教師さんから、『絞るような香具師が語るのに似たのはクリスチャンとしてはふさわしくありません!』と注意され、それ以降やめました。

 私たちが語る、救い主イエスさまは、柔和なお方で、巷で声を上げて、叫んだりされなかったからです。またこんな話をお聞きしたことがあります。あるラジオ牧師さんの弟さんが、ある集会にやって来たそうです。その夕べの集いの説経者は、ズーズー弁で高学歴ではなかったのだそうです。弟さんは、T大出の秀才で、ある政党の機関誌のお仕事をされていたそうです。『こりゃあダメだ!』と思ったのです。ところが、訥々として語る説教者の語る「ことば(福音)」を聞き、その方の招きに応じて、信仰を告白して、救いを受け入れたのです。

 どうも説教の上手さ、説経者の優秀さや学歴と、聞く人との関係は、未知数なのでしょう。頭の上を飛んでいってしまうような高邁な神学や例話が語られても、立て板に水の説教を聞いても、それだから人は救われるわけではなさそうです。その弟さんは、やがてお兄さんと同じく献身して、牧師になられたのです。

 またブレーナードの話を、本で読んだ若い日がありました。この方は、夭逝してしまいますが、アメリカの native のみなさんに重荷を持って伝道をされた方だったのです。ある夕べ、集会を開こうとしましたが、通訳者がいなかったのです。思案の末、酔った男に通訳者としてお願いして、集会がもたれました。その酔っぱらい通訳者のことばで、何人もの方が救われたのだそうです。神さまは、こんなことをされることを知って驚くとともに、「神のことば」に力があって、語る側の事情とは無関係に、人の心に届き、悔い改めに導くことができるのです。

 責任をもって語る「ことば」に、重みがあります。それとは逆に、「ことばの軽さ」もあります。その場限りに語る軽口、軽率なことばが、責任ある立場の人によって語られる時、その〈軽さ〉に人は大きく躓くのです。

 私は、「聖書のことば」を聞いて、嬉しくて仕方がない言葉があり、今でも、それを誦(そらん)じますと、感動で心がいっぱいにされるのです。

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 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 《功のない者への一方的な好意》という意味を持つ「恵み」、「恩寵」が、自分の人生に深く染み込んだのです。安心がやってき、喜びが湧き立ったのを鮮明に覚えています。自分にとって画期的な「ことば」でした。「赦し」の確信でした。《再スタート》、《やり直し》をさせてくれた「ことば」だったのです。ある晩、宣教師さんが、この「みことば」を読まれた時、電撃的に重く心に置かれて、今日に至っています。

 そんな「ことば」」が、食べ物だけではなく、自分を生かしているのを感じております。昨日も、弟と姪が、久しぶりに訪ねてくれました。たくさんの「ことば」が交わされ、励まし合うことが、次女の家族と共にできたのです。素敵な時でした。

( Christian clip arts のイラストです)

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