映画全盛の頃、立川駅の南口の改札を抜けて、左に行きますと、東映の映画館があり、よく観に行きました。その映画というには、時代劇だったのです。その当時の私たちの遊びの一つは、林の中に入って行っては、適当な木を切って作った「刀」で、集団でやりあう「チャンバラ」でした。スクリーンに映っていたのと同じ動作の再現だったわけです。小学校の国語では教えてくれない、『おぬし』とか『せっしゃ』と言った台詞を覚えて、使うのです。それが、『おまえ』と『おれ』だと分かって使うのです。さらに、『めんぼくない』とか『かたじけない』も、よく真似たものです。
全神経を集中させて観て聞くのですから、何でも覚えてしまったわけです。漢字で捉えないで、耳で覚えるというのが、「ことばの学習」で、一番好いのではないでしょうか。『漢字でどう書くの?』と聞くと、『辞書を引け!』と言っていた父が買ってくれたのが、初版の「広辞苑」でした。それを手にしたのは、小学校の5年の時だったのです。ぶ厚い辞書を引いては、漢字の習得に心掛けたのです。意味を調べて、類似語を引くと言ったことを繰り返して、「ことば」を覚えたのです。ああ言うのを「知的遊戯」と言うのでしょうか。とても面白かったのです。
「めんぼくない」は、「面目ない」でした。その意味は、そう語る侍の表情や、相手とのやり取りで、『「めんぼく」っていうのは侍が持っていて、目には見えないけど、とても大切なものなんだ!』と、何となく分かったのです。町人や芸人やお百姓は、そんな言葉は決してしゃべらなかったからです。この日曜日に、私たちの住んでいる街の中心を流れる河の下流にある街に、車で行きました。車中で、「面子(めんつ)」が話題になったのです。これを類語辞典で調べてみますと、「面目 ・ 立前 ・ 点前 ・ 表 ・ 顔面 ・ 立て前 ・ 建て前 ・ 顔 ・ 建前」と出ています。中国人や日本人だけではなく、イギリスやフランスやどこの国でも、『誰でももっていて、人として保つべき大切なものだ!』と言う結論になりました。
その朝は、いつになく背広にネクタイの服装で、おめかしして出掛けたのです。『セーターとGパンでは失礼になるから!』、「礼儀」として、そうすべきだと思ったからでした。外国人の「点前(てまえ)」としてでした。これって、好い意味で「面子」とか「面目」を保つことなわけです。『面子があるから、こうしないわけにはいけない!』というよりも、「礼儀」だったのです。
映画の中で、侍が楊枝をくわえてる場面がありました。『あっ、「武士は喰わねど高楊枝」なんだ!』と、子どもの私は納得したのです。ひもじい侍は、絵になりませんし、「いざ鎌倉」の時に駆けつけられません。どうしても「型」や「格好」が重要とされてきたのです。それは『貧しくとも、身だしなみはきちんとして生きよう!』との生きる姿勢なのでしょう。さて、人としての「面目躍如」を期して、2013年の今年を終えたいものです。
(写真は、「面子」と書いて「めんこ」と読む、子ども頃に遊んだカードです)