面子

20131217-065014.jpg

映画全盛の頃、立川駅の南口の改札を抜けて、左に行きますと、東映の映画館があり、よく観に行きました。その映画というには、時代劇だったのです。その当時の私たちの遊びの一つは、林の中に入って行っては、適当な木を切って作った「刀」で、集団でやりあう「チャンバラ」でした。スクリーンに映っていたのと同じ動作の再現だったわけです。小学校の国語では教えてくれない、『おぬし』とか『せっしゃ』と言った台詞を覚えて、使うのです。それが、『おまえ』と『おれ』だと分かって使うのです。さらに、『めんぼくない』とか『かたじけない』も、よく真似たものです。

全神経を集中させて観て聞くのですから、何でも覚えてしまったわけです。漢字で捉えないで、耳で覚えるというのが、「ことばの学習」で、一番好いのではないでしょうか。『漢字でどう書くの?』と聞くと、『辞書を引け!』と言っていた父が買ってくれたのが、初版の「広辞苑」でした。それを手にしたのは、小学校の5年の時だったのです。ぶ厚い辞書を引いては、漢字の習得に心掛けたのです。意味を調べて、類似語を引くと言ったことを繰り返して、「ことば」を覚えたのです。ああ言うのを「知的遊戯」と言うのでしょうか。とても面白かったのです。

「めんぼくない」は、「面目ない」でした。その意味は、そう語る侍の表情や、相手とのやり取りで、『「めんぼく」っていうのは侍が持っていて、目には見えないけど、とても大切なものなんだ!』と、何となく分かったのです。町人や芸人やお百姓は、そんな言葉は決してしゃべらなかったからです。この日曜日に、私たちの住んでいる街の中心を流れる河の下流にある街に、車で行きました。車中で、「面子(めんつ)」が話題になったのです。これを類語辞典で調べてみますと、「面目 ・ 立前 ・ 点前 ・ 表 ・ 顔面 ・ 立て前 ・ 建て前 ・ 顔 ・ 建前」と出ています。中国人や日本人だけではなく、イギリスやフランスやどこの国でも、『誰でももっていて、人として保つべき大切なものだ!』と言う結論になりました。

その朝は、いつになく背広にネクタイの服装で、おめかしして出掛けたのです。『セーターとGパンでは失礼になるから!』、「礼儀」として、そうすべきだと思ったからでした。外国人の「点前(てまえ)」としてでした。これって、好い意味で「面子」とか「面目」を保つことなわけです。『面子があるから、こうしないわけにはいけない!』というよりも、「礼儀」だったのです。

映画の中で、侍が楊枝をくわえてる場面がありました。『あっ、「武士は喰わねど高楊枝」なんだ!』と、子どもの私は納得したのです。ひもじい侍は、絵になりませんし、「いざ鎌倉」の時に駆けつけられません。どうしても「型」や「格好」が重要とされてきたのです。それは『貧しくとも、身だしなみはきちんとして生きよう!』との生きる姿勢なのでしょう。さて、人としての「面目躍如」を期して、2013年の今年を終えたいものです。

(写真は、「面子」と書いて「めんこ」と読む、子ども頃に遊んだカードです)

20131213-225007.jpg

「今年の漢字」に選ばれたのが、「輪」だと報じらていました。「解字」で調べて見ますと、偏が「車」で、旁が「侖」になります。「車」は、二つの「くるま」が、何かを載せたり、腰を下ろしたりする部分の「田」の軸を挟んで対峙しています。「侖」は、「册」が順序よくならんだ様子を表しているようです。漢字を作った人が、どのように発想して作字したかは、推測するしかありませんが、漢字学者の白川静は、そのように論じています。

古来、人々は、一所に集まって、村落の必要などを話し合ったり、また、収穫を終えた喜びを、輪のようになって、語り合ったり、踊ったりしてきたのでしょう。「車座になる」のと似ています。私たちの国には、漢字が渡来する以前から、「わ」という言葉があったあったのです。漢字がやってきた時に、「和」、「倭」、「輪」というように表記したわけです。きっと「わ」という言葉は、それぞれに関係があったのかも知れません。これも、素人の推測なのですが。

今年は、2020年に開催されるオリンピックの開催国として、日本が選ばれた年ですから、「五輪」の「輪」に因んでの漢字の選考の理由の一つだったそうです。「輪」の入った言葉に、「内輪」があります。揉めたりしては困りますが、家族内、友人内、会社内など、親しい関係にある人たちの和やかな交わりのことをいうのでしょうか。「輪っか」の中に収められている状態なのでしょう。

この十年ほど、交通事故で亡くなる方が少なくなってきているのに驚きます。1万5千人もの方が事故死していたのに、年々減少傾向にあることは、喜ばしいことです。この交通事故のことを、「輪禍」と言っていますが、車の車輪のことを言うわけです。その他に「輪」のつく字には、「輪廻」、「輪番」、「輪郭」、「輪舞」などがあります。これらは、「輪」が軸の周りを回るように、丸くなって外縁を描く様子を表しています。そう言えば、市内の古い街並みを観光開発した地域に、人力車が走る光景を目にしたことがあります。ハッピは着ていませんが、車夫が観光客を乗せて、石畳の上を二輪の輪っかを回しながら走っていました。

今年は、「車軸を流すような豪雨」が、世界中でありましたが、過去の面倒なわだかまりや因縁などが流れてしまうのは歓迎ですが、人を怯えさせるような豪雨は遠慮したいものです。来年は、あのような被害のないことを願う十二月も中旬、『もう幾つ寝るとお正月・・・』と数えられほどの日数になって参りました。好い年の暮れでありますように!

(写真は、トヨタ博物館の「人力車」です)

『起きなさい!』

20131211-083134.jpg

「(財)日本青少年研究所」が、2012年4月に「意識調査」を行っています。その一つの項目に、『自分はダメな人間だと思うことがある。』 がありました。これについて、『よくあてはまる。』、『まあまああてはまる。』と答えた、アメリカ、中国、韓国、そして日本の高校生の割合は、次のようでした。

日本 83・7%
アメリカ 52・8%
中国 32・9%
韓国 31・9%

この数字を見ますと、日本の高校生たちの割合は、他の三国に比して突出していることが分かります。どうしたことでしょうか、日本の若者たちは、自分に対する確信や自信、肯定的な受け入れがなされていないのです。こんなに自然的にも精神的にも経済的にも祝福されているのに、それを享受していないのです。

日本語学科の学生に、「作文指導」をさせてもらって五年ほど経ちます。ある学生が、『私たち中国人は、胸を張って堂々と歩くのです。それは人にバカにされたくないからなのです。』と、ある主題の中に、そう書いていました。そういえば、街中で行き交う人を眺めていまして、建設工事現場などで働く「打工dagong(内陸部の農村からの出稼ぎの人をそう呼びます)」の人たちも、大学教授も商店主も学生も、堂々としているのです。

20131211-084801.jpg

日本に帰って来て、空港や港から上陸した途端、『中国の街中と違っている!』と感じる一つのことは、日本人が猫背のように、俯き加減に歩いている姿です。生きる問題に圧倒されているのか、大事な物をなくしてしまったのか、お腹が痛んでいるかのようにしか見えないのです。自信がなくて、うつろな雰囲気が日本人を満たしているのです。いつも思い出すのは、中学の時の担任が、『鎌倉時代の日本人は快活で闊達で溌溂といて生きていたのです!』と言った言葉です。

何が、その快活さや闊達さや溌溂さを奪ってしまったのでしょうか。どうしたら、それらを取り戻すことができるのでしょうか。<勤勉で律儀な日本人>なのですから、好い意味での<誇り>と<自信>を、若いみなさんに持っていただきたいものです。「山紫水明」の国土の中で生を受け、篤い両親の愛に育まれ、守られてきたのですから、感謝をし、期待に応えて生きて欲しいものです。そうですね、自分を<愛すること>です。ありのままの自分を受け入れて、感謝して、この自分で生きて行くことです。不満や不足を数えるより、「優点(優れて秀でたもの)」を数え上げて生きる方が、どんなにか素晴らしいに違いありません。

その確信を持って、近隣諸国に住む方々と、和して、友好を深めて生きて欲しいものです。『青年よ、あなたにいう。起きなさい!』

(写真は、”MSNの画像”から「城址の紅葉」、"JAPAN WEB MAGAGINE"の「桜」です)

豆腐

20131209-200847.jpg

我が家の上の階のご婦人のお母様が、時々、「豆腐」を作られて、そのおすそ分けに預かることがあります。「木綿ごし豆腐」と言うよりは、「生・高野豆腐」のような硬くてしっかりした感触で、とても美味しいのです。昨日も、頂いて、今夕の食卓にのって、食べたところです。こちらのスーパーの「豆腐売り場」には、「日本豆腐」と印字されたパックが売られていまして、黄色がかった「卵豆腐」のようなものです。買って食べたことがありませんが、これが日本の豆腐だと思われているのは、ちょっと残念なことですが。「絹ごし」もありますし、「豆乳」もパック入りで売られていて、これも時々買っては飲んでいます。ちなみに、豆腐の起源は、八、九世紀の中国(唐代中期)で、日本には鎌倉時代に伝わってきたそうです。

この豆腐を代表にして、日本食の中で、「大豆」を加工した食べ物が豊富なことが、一つの特徴だと言えるでしょうか。中国の「醤(jiang)」から、自然的に作られてきたのが(上澄みににじみ出てくる液体)、どうも「醤油」だと言れています。こちらの物は、千葉の野田あたりで作られて市販されている日本のものとは違って、ずいぶんと「濃厚」です。醤油コーナーには、「台湾産」や「韓国産」も輸入されていますし、こちらで製造している「キッコーマン醤油」も、わが家で使い続けてきた物とは、ちょっと 違うのです。調味料として、この「醤油」は欠かせないので、悲しいかな、日本育ちの私は、贅沢はしたいとは願いませんが、『美味しい醤油が欲しい!』と思ってしまいます。

この「醤油」は、<隠し味>に使われていて、何と、日本の「アイスクリーム」の中にも入っているのだと聞いたことがあります。私たちの味覚には、欠かせない物だということが分かります。その他にも、「味噌」があります。これも悲しいかな、若い時は、ほとんど飲まなかったのですが、昨今、『味噌汁が飲みたい!』との思いが、時々やってきて、根っからの日本人なんだと思わされています。先ほどの「醤」は、「びしお」と読み、味噌の源になります。スーパーの棚を探しても、日本の様な「味噌」は見つけることができません。日本の物は、発展的に改良されてきているのでしょうか。

もう一つは、「納豆」です。中国の友人に、日本食品店から買ってきた納豆を出したことがありますが、みなさん顔をしかめて口に入れておいでで、出したそうな顔をして飲み込んでいました。こちらには「臭豆腐」と言う食品がありますが、納豆以上の臭みのある物ですが。それでも、欧米人にように嫌っておられます。だいぶ値が高いので、たまにしか買うことができませんが、これも、時々、『 食べたい!』と思うことがあります。久保田万太郎が、次の様な俳句を詠んでいます。

湯豆腐や いのちのはての うすあかり

死期の迫った作者が、求めたものの一つが、「湯豆腐」だったのです。過ぎ去った日々を、思い返しながら、食しつつ詠んだのでしょうか。冬場、湯気の立った鍋から、熱くなった豆腐をすくい上げて、醤油に小葱や生姜などの薬味を入れてたタレにつけて食べると、『美味しい!』と言ってしまいます。そんな湯豆腐が食べたくなってくるほどの季節の到来のようです。まだ、万太郎の亡くなった年まで、大分ありますのでご心配なく。

(写真は、「絹ごし豆腐」です)

フェイス

20131208-112129.jpg

英語教師をしていたフェイスが、『ボクと一緒に行ってくれますか!』と言うので、禅宗のお寺に、その住職を訪ねたことがありました。フェイスは、東洋的な神秘さを求めて、この住職と出会って、指導を受けてきたのです。ところが、座禅をしても、彼の心の隙間が埋められることがなく、悶々としていたようです。そこで彼は、この交わりを断ることを決心したのです。どう瞑想しても、一向に邪念を追い払うことができなかったのです。それで、この住職からもらったプレゼントを返したかったのです。不安だったのでしょうか、私の同行を求めたのです。

一緒に行き、応接間で、和やかに話が始まったのです。しばらくすると、何かの言葉の行き違いがあったのでしょうか、まだ若い住職が、烈火の如く怒り始めたのです。フェイスは日本語ができると言っても、宗教的な難しいことを表現することなど、まだできる水準ではなかったのです。忍耐の緒を切ったのか、断られたことや、プレゼントの返却に不興を表し、激しい言葉をフェイスにぶっつけたのです。フェイスは驚いていました。彼が怒りをぶつけたことで、フェイスは、自分の決断が間違いでなかったことを得心したようでした。

同職の方、みなさんが、彼のようだとは思いません。立派な人格者もおいでです。 この方は、フェイスと同世代、まだ若かったのです。教えと自分の現実とに、まだギャップのある年代だったのです。心の大波や小波、さらには細波(さざなみ)を鎮めることができるのは、別のことなのだと感じたのです。

このことを思い出したのは、私たちの国の首長が、「禅」を組んだと、今朝のニュースで読んだからです。国会が一段落して、何か「しずまり」が欲しかったのでしょうか。それを終えた首相は、『何か、嵐が過ぎ去ったようだ。』と感想を語ったそうです。国政を司る、大きな責任を負う人でないと、こう言った境地にはならないのかも知れません。首相の顔とフェイスの顔がダブって見えてしまったのです。

盲腸の手術の時、一晩、彼のベッドの下に寝て、世話をしたことがありました。その後の消息をつかんでいません。こちらからも連絡をしていませんから、きっと帰国していることでしょう。可愛いお嬢さんがいました。もう、彼女も、あの頃のフェイスの年齢以上になっているのでしょう。フェイスの心の隙間は、今では、しっかりと埋まっているのだろうと思う、年の暮れであります。

(写真は、アメリカ合衆国の国花の「薔薇」です)

「インビクタス」

20131206-095938.jpg

“invictus”という言葉があります。ラテン語の「征服されない」、「屈服しない」という意味です。”morior invictus”は、「死ぬまで屈服しない」と日本語に訳されるようです。強い圧政のもとにいる民衆が、『いつか自由な時代が必ずやってくる!』との「不撓不屈の精神」を持って、自分の信念の上に、立ち続ける姿をいうのでしょうか。

今朝一番のニュースは、ネルソン・マンデラ氏が亡くなられたことでした。アフリカ大陸の最南端の国、南アフリカ共和国の身分差別制度の「アパルトヘイト」に反対しながら、27年間もの間、牢獄に入れられながら、屈服することなく立ち続けた政治家です。1991年、ついにこの悪法が撤廃され、1993年には、ネルソン氏は「ノーベル平和賞」を受賞しています。 1994年には、大統領に就任し、1999年に退いておいます。2009年には、クリント・イーストウッドの監督による、映画『インビクタス/負けざる者たち』が制作上映されました。この映画は、マンデラ氏が、決して屈服することなく、アフリカ人の自主独立を勝ち取った、その生涯を記念して描いた作品でした

久しぶりに帰国した時に、次男が、『とても好い映画があるんだけど、観る?』と言って、ビデオで観せてくれたのが、この映画でした。大統領に就任した時のことです。前大統領の警護要員たちを継続して雇用し続けるとの配慮が、彼らの信頼と忠実さを、新大統領が勝ち取って行く心理描写が 、とても好かったのです。また、南アのラグビーのナショナルチームが、貧困地域の子どもたちを訪問して、人種の垣根を超えて、子どもたちの心をつかんで行くくだりも見ものでした。演じたモーガン・フリーマンの演技がとても好かったのが印象に残っています。

ああ言う風に国が変わって行く様子を、スクリーンの中に見て、主義主張や腕力でもなく、一人の人の「人格の力」の力と影響の大きさを感じてなりませんでした。もちろん彼にも弱さがあったのですが。日本が封建社会から近代化して行く中で、 若者たちが、『この自分の国を変えて行くのだ!』と言った使命感を持って立ち上がったのを思い出すのです。時代そのものが、そして民衆自身が、新しい時代を求めようとしていた情熱を、上手にまとめ上げて行くことができたから、ああ言った変化があったのです。とくに「市民」の思いが、十二分に熟成し、機が熟していたことを忘れてはいけないようです。その力に、旧封建体制は、必ず崩壊していかざるをえなかったのです。

政治家には、何千万、何億、何十億人もの人たちの命、何世代にも及ぶ平和な生活の責任があります。自分の力ではなく、民衆の力でもなく、人の歴史を大きく動かしてやまない、「偉大な力」に押し出されて、その任に当たるのが、政治家なのではないでしょうか。国の命運と、国民の将来がかかっているのです。誤ることのない判断と決断が下されるにように、どの国の国民も、それぞれの首長のために願い求めていかなければなりません。二度と戦争の起こらないこと、銃弾に子や孫が倒れないことを願いつつ。

(写真は、南アメリカの「ケープタウン」を衛生写真から作り上げて描いた鳥瞰図です)

まだまだの今

20131202-201626.jpg

十二月になって、巡り来る季節は正直なのでしょう、学校に行くためにバス停で待つ間に、吐く息が、白くなってきています。さしもの華南の街にも、冬が忍び寄ってきたようです。それでも日中になって日の光が射してきますと、朝、出がけに着た冬用の防寒服を脱がなければならなくなり、気温の日較差の大きさに、注意を払わないと風邪を引いてしまいそうです。この時季、一日に、夏と冬が感じらるというのが、こちらの気候の特徴なのです。先週、『週末には寒くなりますので、着る服にご注意くださいね!』と、今年も学生さんから言われました。外国人で、気候の変化についていけないといけないのでと、そんな優しい気持ちをあらわしてくれるのです。

私を身ごもった母が、中部地方の山岳地帯にある「軍需工場 」に、父が着任したのを追って、険しい山路をやって来たのだそうです。山と山がせめぎ合った、狭い山あいの旅館の離れを借りて住まいとしたのです。冬場の日照時間が、きっと少ない、湿り気の多い寒々とした山村でした。山陰生まれの母には、そんなに苦にはならなかったのかも知れません。その年の暮れの十二月に、私を産んでくれたのです。村長夫人が出産のお世話の経験があったのでしょうか、私を受け取ってくださったのだそうです。弟も、そこ生まれております。

『この子は村長さんのお孫さんですか?』と、村長宅の玄関に置かれてあった私の写真を見て、訪ねてくるお客さんが尋ねたのだそうです。今は全く面影がないのですが、生まれたばかりの私は、『結構可愛かった!』と、母が言って、励ましてくれたのです。やはり、『バカな子ほど可愛い!』のでしょうか。そんな母が老いて、病んだ時に、一度だけ、病院の行き帰りに、おんぶしたことがありました。世代交代を演じたわけです。まだ元気ですが、長生きできたら、息子たちや婿殿は私を背負ってくれるのでしょうか。そんな経験ができるのは、ちょっと楽しみです。

今朝、バスに乗りましたら、すぐに女子高校生が席を譲ってくれました。いつもの『謝謝!』で座らせてもらったのです。まだ90分、立って授業をすることができるのですが、親切を受けるのも大切な生き方の一つのようです。「まだまだ」の今を喜んで生きています。ご安心を!

(写真は、冬の「朝」の風景です)

20131201-180041.jpg

「ひつぢ」という言葉があります。昔は「ひつち」と言われていたそうです。漢字で「穭」と書きます。「稲孫」とも書くようですから、もうお分かりでしょう。秋に稲を収穫した切り株から、生出てくる「二代目」の稲のことなのです。まだ私たちが小学校に通っていた頃の通学路の脇には、水田が広がっていました。都内に通勤している人のベッドタウンになる前の都下の街の「原風景」です。この時期、稲の切り株が、ちょっと邪魔でしたが、稲刈りを終えた田の中で、追いかけっこをしたり、遊びながら下校をしたのです。その枯れた切り株から、青々として出ているものを見て知っていましたが、「ひつぢ」という名だったのを知ったのは、大人になってからでした。

「草」にちがいないのですが、「ひつち」と呼んだことに、農耕民族の先人たちは、自分たちの命を支える、重要な食物としての「米」や「麦」などを、どんなにか愛でていたことかが分かります。そう言った先人たちの感性に、今更ながら驚かされるのです。悪戯小僧が、田の中に入るからでしょうか、いつの頃からか、耕耘機で田おこしをするようになって、遊べなくなってしまいました。「え、いじわるっ!」と思ったのは昨日のことのようです。

長く仕事をしていた中部地方の内陸の街から、郊外に抜けて行くと、茅などが生えた、かつての田んぼが散在していました。「減反政策」で米を作らなくなってしまったからです。「再び、米作りをするには、大変な苦労をして、田んぼ作りをしなければならないいのです!」と、お百姓さんが嘆いていました。

最近のニュースですと、休耕地で米作りを再開するようです。原野を切り開いて、並大抵ではない努力をして、新田の開墾をした時代がありました。そう言った田んぼには石ころ一つ見つけることができないほどに、米作りのために最適な環境を備え、整えててあったのです。知り合いの方の田植えをしたことがありました。雨降りでしたので、カッパを着て、腰を屈めながら、見よう見まねで手伝いをしたのです。やはり、大変な労働でした。その労を感謝されて、農家の食事をご馳走になったのですが、本当に美味しかったのです。

米で年貢を払っていたほどに、貴重な穀物の「米」には、農耕民族の末裔の私たちには、特別な肝入りがあるようです。春から夏にかけて、青田の苗が青々としている 風景が、日本の津々浦々に見られる日も近いのではないでしょうか。今、娘が買ってくれた「お米」を食べていますが、日本の高級銘柄と遜色がないほどに美味しいのです。第一次産業が脚光を浴びたら、日本は元気を取り戻すのではないでしょうか。

(写真は、盛夏の頃の「稲田」です)

ハイジャンプ

20131130-202639.jpg

古代イスラエル民族には、人の価値を「金銭」で量ることが、伝統的に読み継がれている書の中に記されてあります。この「人身評価」には、次のように書かれてあります。

「その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。」とです。孫たちのうち、男の子たちは、もうすでに5歳を越えていますから、60歳をはるかに過ぎた私よりも、「5シェケル」も高価だということになります。女の子も、二十歳を過ぎますと、母親よりに評価が高くなるのです。

私たち男は、61歳になると、3分の1以下の価値に激減するわけです。日本の公務員や企業人の「定年」、つまり「退職年齢」は、2013年から、「65歳」に引き上げられたようです。私たちの時代は、「60歳定年」でしたが、労働人口が少なくなってきたからでしょうか、変えられてきています。ここ中国では、男性が60歳、女性が55歳が、「定年」ですが、引き上げが検討されているそうです。まあ、「後進に道を譲る」ことは、理にかなったことなのではないでしょうか。がっかりすることはやめにしましょう。

ところが、その書の中には、「老人の前では起立せよ」、「白髪は光栄の冠である」とも書かれてあるのです。深沢七郎の小説「楢山節考」に出てきます、「姥捨山(うばすてやま)」の伝説に比べて、老いた者に対する「敬意」がることに、何となくほっとさせられます。まだ溌剌としていた壮年期に、あるお婆さんにお会いしたー時に、彼女は、『こんな汚いばばあになってしまって・・・・』と言っていたのを聞いて、悲しかったのです。誰かに、そう言われたのでしょうか。または、才色が衰えてしまった悲しさでそう言ったのでしょうか。老人は、もっと輝いて好いし、感謝されて好いのではないでしょうか。その書の勧めは、「もっと誇らしく生きるように!」との激励に違いありません。

誰でしたか、正月になると腰に髑髏(しゃれこうべ)を下げて、「正月や 冥土の旅の 一里塚・・・」と詠んで出歩いた人がいたようです。私は、「15シェケル」を満額受け入れて、こう詠みましょう。「人生の 仕上げのための ハイジャンプ」と。

(写真は、「血圧計」です)

慈母と厳父

20131130-113530.jpg

明日から十二月、最後の月を迎えます。どなたも、この2013年を、感慨深く思い返しているのではないでしょうか。毎年、その年を、「漢字」の一字で表すのですが、「暑」が選ばれても好いほどの猛暑、酷暑の夏を思い出します。豪雨、ゲリラ豪雨などと呼ばれた、異常な降雨量の年でしたから、「豪」も好いかも知れません。ということは異常気象の年でしたから、「異」はどうでしょうか。

小説家で、物理学者の寺田寅彦が、こんなことを言っています。『日本人は自然の「慈母」としての愛に甘えながら、「厳父」の恐ろしさが身にしみている。予想しがたい地震台風にむち打たれ、災害を軽減し回避する策に知恵を絞ってきたところが西洋と違う。』とです。日本のように、こんなに自然の恵みをいただく国は、めずらしいのではないでしょうか。でも、時としては、「雷親爺」のように、自然界が牙をむき襲ってもくる国でもあります。ビクビクしたと思ったら、満開の桜や山を萌えさせる紅葉に慰められたりされて、私たちは生きてきたのです。

二人の兄と一人の弟、四人兄弟の私たちも、母の「優しさ」と父の「厳しさ」とで育て上げてくれたことも思い出されます。そんな母に、一度だけですが、叱られたこともあります。また、あの父に、褒められたり、煽(おだ)てられたり、抱きすくめられたこともありました。剛柔、織り交ぜて両親の子育てがあったのです。

不思議な思いがするのは、父が六十一の誕生日の直後に亡くなり、父よりも長生きしている自分が、父を思い返している今、年上の感じがしないのが、なんとなくすぐったいのです。やはり、父は記憶の中にある父だからなのでしょう。もう少し長生きして、親孝行をさせて欲しかった父に比べて、長寿を全うした母の晩年の穏やかな表情が思い出されます。

今月は、二人の孫と私の誕生月なのです。みんなバラバラに別れ住んでいますから、一緒に誕生祝いをしたいのにできないのが残念です。これからの孫たちと、年々老いていくジイジの私ですが、その年齢差に、人生の面白さがあるのに気づくのです。中国語の「老」は、「老いていく」という意味だけではなく、「経験豊か」とか「箔(はく)のついた(値打ちがあって貫禄があると言ったことでしょうか)」との意味があるのです。それで、奥さんのことを「老婆(laopo)」と言います。これは、「老いてしまっておバアになってしまった妻」ではなく、「愛妻」のことです(夫のことは「老公(laogong」)。

としますと、「完成」に向かっているのでしょう。明日からの新しい月に、心を弾ませてくれることが起こることを願いたいものです。そして「箔」をつけるために、輝いた「2014年」を迎えたいですね。

(写真の花は、「水仙」です)