新柔道?

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 ここに貼りつけた写真は、「新柔道?」のようです。身につけているのは、「柔道着」ではありませんし、素足であるのにクツを履いています。それに、帯も締めていません。また、畳の上ではなく、土の上です。さらに形相をみますと、怒りに満ちていますから、スポーツのようには見えません。この戦いを見ている人は、審判ではなさそうです。何なのかと、よく見ますと、アメリカ人とメキシコ人なのです。アメリカ人が、メキシコ人を投げ倒しているではありませんか。投げていますから、「柔道」だと思ったのですが、こんな柔道、見たことがありません。

 これは、ついこの間の「ワールドベースボール」の予選で、アメリカ・チームとメキシコ・チームとが対戦した「野球」の試合の一コマなのです。一コマと言っても、野球ではなく、怒り心頭のアメリカ選手が、メキシコ選手を、地面に叩きつけているのです。バットもグローブもボールもありませんから、「乱闘」なのです。私はこの写真を見た時に、「新しい柔道」が始められたのだと思ってしまったのです。ところが、多くの少年たちが憧れて、『何時かイチローのような、松井のような野球選手になりたい!』と願っている「野球」をしている選手同士の争いだったのです。

 父が、「プロ野球」が大好きで、とくに「読売巨人軍」のフアンでした。テレビの中継時間が終わると、小型ラジオに耳をつけて、最後まで勝敗を見守っていたのです。その父の影響で、兄弟4人が、同じように「ジャイアンツ」贔屓だったのです。すぐ上の兄は、高校球児になり、東京都の大会で、ベスト16位になったことがあったと思います。私は、兄たちとキャッチボールをしたり、友人たちと「三角ベース野球」をやったりしたのですが、鈍足だったので、野球は不得意でした。東京ドームではない、「後楽園球場」には、兄に連れられて2回ほど行ったことがありました。そのころの「プロ野球」は、とても面白かったのです。

 しかし、最近はつまらないのです。「高校野球」も、清々しい若者のスポーツの雰囲気がなくなり、青田買いのように、「契約金」をちらつかされて、「野球=お金」の算式になってしまいました。昔は、貧しい子が、一生懸命やって夢を叶えられた時代だったのでしょうが、今は、そうではなくなりました。ほとんどの「アマチュアスポーツ」が、「お金」に絡んできてしまいました。だからつまらなくなって、カサカサした乾燥感がしてきたわけです。そんな中での、「乱闘劇」、象徴的な出来事ではないでしょうか。

(写真は、2013年3月10日のカナダ対メキシコ戦の一こまです)

ランドセル

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 次女が小学校に入学するときに、ほんとうは、新しいのを買ってあげたかったのですが、従姉妹が6年間使った物が、『まだ使える!』と聞いた私は、次女を納得させて、それで入学し、通学することになったのです。新入生のことを、『ピカピカの一年生!』と言っていた時代でしたから、誰もが、着る物もクツもソックスも、全てが真新しかったのです。その小学校の新入生を象徴するのは、伝統の「ランドセル」でした。ところが次女だけ、中古だったのです。『ちょっと、可哀想かな!』と思いましたが、文句一つ言わないで、それを背負って、家内と入学式に行くのを見送りました。

 初めての保護者会があって学校に出かけ、5年の長男、3年の長女についで、次女のクラスに行きました。どのランドセルも一様に照り輝いていたのです。そんな中で、輝き一つない、くすんで傷のついた次女のランドセルだけが、『デン!』と馴染んで、教室の後ろの棚に置かれてありました。少しゆっくりな同級生の世話を焼いて、自分のしなければならないことを後回しにしてしまう彼女は、それ以降、マイペースで生きてきたようです。

 先日、次女に電話をかけたら、小学校の1年の孫のことを話していたでしょうか、そうしたら、『お父さん、小学校2年の時の試験で、あまりよくない点数をとったことがあったけど、そんな点数を取る生徒はいないよね。それなのに私なんか平気で、そんな点数だったよ!』、と言っていました。四人の子の試験の点数など、全く気にしなかった私は、それを初めて、本人の口から聞いたのです。それで、彼女の息子は、どうなのかなと、ふと考えてみたのです。『人間の価値を点数で測る事自体が無理!』と、常々思って来ましたし、欧米の教育は、日本と違うこともわかっていますので、まあどうでもいいことで得心しました。

 長男の息子が、来月7日に、市立小学校に入学します。それでジイジの私は、帰国中に、「ランドセル」を買ってプレゼントしました。約束していたからです。やはり、「孫」には、中古は使わせられないので、「ピカピカ」を買ったのです。4人の子どもたちの入学の頃を思い出してみましたが、昨日のことのようです。家内が来月帰国し、入学式前に着きます。『入学式に出るので、きちんとしたスーツを持って行こうかな!』と言っていましたが、子どもたちの四回の入学式に、祖父母が列席していた試しがなかったことを思い出したバアバは、その願いを引っ込めてしまったのです。「慣例破り」をしてみても面白いのですが。

 「入学式」と「桜」はセットのような日本の社会なのですが、ことしの「開花予報」はもう出ているのでしょうか。満開の桜の木の下での記念写真は、みんなが撮りたいところですが、我が4人の時はどうだったのか、思い出せない三月の中旬であります。

(写真は、「桜ん坊ブログ」から、「坂戸橋の桜〈長野県上伊那郡中川村〉」です)

ふるさと

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 『ふるさとは遠きにありて思うもの。』と言ったのは、室生犀星でした。この言葉は、「小景異情ーその二 」という彼の詩の冒頭の部分で、その後に続くのです。

     ふるさとは遠きにありて思ふもの
     そして悲しくうたふもの
     よしや
     うらぶれて異土の乞食となるとても
     帰るところにあるまじや
     ひとり都のゆふぐれに
     ふるさとおもひ涙ぐむ
     そのこころもて
     遠きみやこにかへらばや
     遠きみやこにかへらばや

 犀星は、21歳で「物書き」として生きていくことを志して、故郷の富山から東京に出ました。若き犀星の「望郷の思い」が込められた詩ではないでしょうか。でも、悲哀に満ちて、輝かしい青春の光が感じられないのは、東京の貧しい生活のせいでしょうか、それとも彼の生い立ちのせいでしょうか。それとも「明治」という時代のせいなのでしょうか。

 飛行機で3時間、船ですと上海から丸二日で大阪港に着くことのできる「祖国」ですが、いつでも帰れそうで、そうできない現実があります。犀星が、東京から富山へ思いを向けたように、この華南の街から、中部山岳の我が故郷に思いを馳せますと、犀星のように「悲しくうた・・・」えない私は、情感が乏しいのでしょうか。親族も知人も友人もいない生まれ故郷ですが、空の高さ、川の流れの清さ、空気の清々しさ、野菜や果物の香りや味が、目の前の現実のように感じられるのは不思議な感覚です。もう何年も何年も前の夏、生まれた家が、「破れ屋」のようになっていたのを訪ねたことがありました。産湯の水を汲んだ井戸も、竈(かまど)も、そこにはありませんでしたが、『ここで生まれた!』という感覚を呼び覚まされたのです。いえ、産んでくれた母、養ってくれた父を思い出したと言うべきでしょうか。

 犀星のように、「涙ぐむ」ことはありません。そこだけが私の故郷ではなく、「永遠の故郷」の存在を知った今の私にとっては、生まれ故郷は「一里塚」なのです。苦しみ悩み痛むことのない世界への「憧れ」が、今、心を満たしています。もちろん、懐かしいことは確かですが、私の「ふるさと」への思いは、未来に向けられているのです。そこには幼い日の「団欒の賑わい」が待っているように思えてならないのです。だから、今、微笑んでいる私なのです。

(写真は、雲海の向こうに見える「ふるさとの山」です)

311

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 「311」、つらい経験を呼び覚ます数字、日付です。2年前の今日、大きな地震と津浪が、三陸海岸を中心に福島、茨城などの太平洋岸を襲った日です。

 被災された方、家族・親族・知人・友人などを亡くされた方にとっては、記憶を呼び覚まされることと思います。今朝のニュースによりますと、いまだに34万人以上のみなさんが避難生活をされているとのことでした。地震と津波のあった日は、家内の手術日に向け、長男の家で待機していたのです。揺れが激しかったので、家から出て、近くのコープの店舗の駐車場に非難しました。電線が激しく揺れ、余震が続いていました。揺れや弱くなって家に入って、テレビのスイッチを入れましたら、川を遡上していく津浪の様子が、中継されていました。それは驚くべき光景でした。人間の力では抗し切れない、自然の猛威を目の当たりにして、震えてしまいました。長い年月の営みの中で築きあげてきたものが、奪い去られていくのを見て、人の力の微力さを痛切に感じていました。

 津浪によって被害を被った「福島第一原発」の復旧は、遅々として進んでいないようですが、これから何十年という年月、同じ問題を抱えながら過ごしていかなければならないようです。大気、土壌、海水、地下水などの汚染は、どうしたらいいのか、考えると気が遠くなりそうです。それでも、アメリカ政府の報道官が、東北のみなさんの不屈の精神を賞賛していました。台湾の学校の教科書に、「日本支援への感謝状」が記載されたニュースも伝えられていました。多くの国々のみなさんから、物心両面の支援があったことは、忘れられません。佐藤水産の佐藤専務が、避難誘導した中国の若いみなさんは、お国で、どんな生活をされているのでしょうか。

 自然界のバランスが、少しずつ変調してきているように感じますが、私たち人間は、自然界の摂理の前で、その法則に抗うことなく、謙虚になって生きていく必要があるのかも知れません。被災されたみなさんの心が、強められますように心から願っております。

(標識は、「津浪警戒標識」です)

日本文化?

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 よく見かける光景に、警察官や市役所の職員が犯罪を犯すと、この人が務めていた部署の直属の上司たちが、マスコミとの会見の席上で、四十五度の礼をして、「謝罪」をしています。頭を下げている角度も時間も、長テーブルの前での人数も、ほぼ同じなのです。一人でも駄目、角度が高過ぎても、時間が長過ぎても駄目なのです。そんな光景を見飽きるほどに眺めるのですが、異様に感じるのは私ばかりではないと思うのです。「責任の在り処」は、本人なのに、どうして『監督が不行き届きでした。お詫び申し上げます!』と、組織の長が謝らなければならないのでしょうか。大の大人であるのに、自分の部下の罪を上司が詫びているは可笑しいのです。それが「謝罪会見」なのです。

 私の長男が、幼稚園に通っていた時に、近所の薬局でガムを無断で失敬してきたことがありました。単に欲しかったのでしょう。近所の悪友と一緒でした。買ってあげなかったガムを噛んでるのを見つけた私は、それが「罪」であることを教えて、彼に納得させました。そして、彼と一緒に薬局を訪ね、息子は、『ごめんなさい』と、店主に謝罪しました。親の私は、そばにいて、日本語で都合のよい、『どうも・・・』と言葉を濁していました。この店主は赦してくれましたし、『親の躾が・・・』とも言いませんでした。それ以来、息子は同じようなことは起こしませんでした。

 芸能人の子どもが覚醒剤使用で警察に逮捕されると、マスコミは親に取材をします。『どうして、こんなことになったのか?』、『どんな躾をしてきたのか?』、『普段の生活はどうなのか?』と、詰問しています。親は長い顔をして、沈痛な思いで無言でいるか、言葉を濁すか、最近では、ブログで何かをコメントしたりしています。もう選挙権があり、三十代でしたら、参議院議員や知事選に立候補できる年齢なのに、まだ《親の責任》を問うのにも、呆れ返ってしまいます。『息子に聞いてください!彼は大人なのだから!』でよいのではでしょうか。

 そうしてもらわないと困る日本社会に、やはり問題があるのではないでしょうか。『形だけでも謝罪しておけば、それで済むんだから!』と言った思いが、その背後にあるようです。責任追及の矛先を弱めたり、反らせたりする計画的な謝罪が多いようです。この間、「丸刈り号泣謝罪」をした若い女性がいました。世界中に、その動画が配信されて、驚きの声が上がっていました。うら若い女性が、《頭を丸めた》ことは、これも「異様」なことでした。彼女の所属している芸能グループから外されて、その世界で活動できなくなることを避けるために、誰かが入れ知恵をしたのかも知れません。『ちょっと恥ずかしいけど、また髪の毛は伸びてくるし、カツラだって使えるから、ここは、ちょっと我慢して丸刈りにして、意思表示したら!』とです。『ゴメンナサイ!』をすれば赦してもらえる、《甘い社会》が、私たちの社会であって、実に「強(「したた)か」ではないでしょうか。

 中国語にも、謝罪のことばがあります。『ごめんなさい!』は、〈対不起・ドイブジイ〉でしょうか。「面子」を、極めて大切にするこちらのみなさんは、ほとんど言わないそうです。交通事故を起こして、こちらが悪くても言いません。『こうなったのには、あなたにも責任があるのだから、私は謝る必要はありません!』という接し方をすると聞いています。例えば、道路を歩いていて、肩がぶつかっても、無言のままです。日本人の私なんか、卑屈なのでしょうか、自分が《悪太郎》であることを認めてますので、《ごめんなさい人生》を生きてきました。そんなに苦にならないで、平気で言えるのです。教師や警察官や大人のみなさんに、叱られ、注意されて、当然謝罪すべきことでしたから、『ごめんなさい!』と言ってきました。でも、一度だけ、根本的な「謝罪」をしたことがあります。それで完全な赦しを経験したのです。広い大陸のどこでも行って住み替えられる中国のみなさんと、狭い村社会の中で生きてきた日本人の《文化の違い》かも知れません。『ごめんなさい!』も、一つの日本文化なのでしょうか。

その味で養われたのですから

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 子育て中に、いろいろなことがありましたから、私の両親にとっても、四人の男の子を育てていて、様々な思い出があったことでしょう。父は、「手帳」には、日々の覚えておくべきことや、すべきことの記載はしても、「日記」をつける習慣はありませんでした。ですから、どんなことを父が思い、何を考え、何をしたのか知る術がありません。それでも、『俺の小さい頃は・・・』とか、『中学に入学するときには・・・』とか、『おやじは・・・』とか、『たつえさんは・・・』とか言いながら、話を聞かせてくれたことがありました。明治の終わりに生まれたのですから、大正期の出来事であったことになります。
 
 時々、「古写真」をネットの中に見つけてみたりしますが、戦後の平和な時代に育てられた私には、想像もつかないほどに、多くの事々が起こった時代だったことを歴史から知らされます。飛行機は軍用はあったのでしょうが、民間で旅客に利用されることもありませんし、新幹線も自家用車だってない時代です。蛇口をひねると水がで、コックをひねるとガスがで、温水がでてくることもありませんでした。夏場に西瓜を冷やしておく冷蔵庫も、肉や魚を凍らせて貯蔵する冷凍庫もありません。無い無い尽くしの時代でしたが、人と人との距離が、とても近かったのではないでしょうか。父の育った家は「躾(しつけ)]が厳しかったようで、畳には踏んでよい場所と、そうでない場所もあったのだそうです。年寄りと生活をしていない私は、細々としたことを注意しない両親のもとで、自然児のようにして生きていたのです。
 
 日本の新暦の「正月」には、まだこちらにおり、こちらの「正月(春節)」には、それが終わってから戻りましたので、今年も、「正月気分」を味わうことがありませんでした。あの独特な空気が感じられる「元旦」は、もう何年もご無沙汰しております。元旦には、母が暮から、破れた障子や襖を張り替えながら作り始めた「おせち料理」と「関東風雑煮」で、家族全員で朝食を食べるのが常でした。『雅、いくつ喰う?』という声が思い出されます。コメ屋から配達された持ちを、父が定規をあてて、ほとんど同じ大きさに切った餅を、七輪に編みをのせて焼くのが、父の役割でした。鶏肉と小松菜のだし汁に、焦げ目の入ったその餅を入れての「雑煮」でした。「田作り」、大根と人参の紅白の酢の物の「なます」、「黒豆」、牛蒡や里芋や人参などを一つ一つ煮分けた「煮物」、母の故郷から送られてくる「野焼き蒲鉾」、紅白の「蒲鉾」、「伊達巻き」、それに「ハム」などが添えられて、「重箱」に盛り込まれていました。
 
 ああいうのを、「明治の味」とか「大正の味」と言って、江戸時代から伝えられてきた日本古来の味なのでしょうか。「昭和」が終わって、もう二十五年になりますから、「昭和の味」も、遠のいていってしまうのでしょうか。三月になっているのに、今日は、「正月の味」、つまり「父の味」と「母の味」とが思い出されて仕方がありません。その味で養われたのですから。食いしん坊だからでしょうか、ロマンチストだからでしょうか、いえ甘えん坊だからでしょう。「母の味」を知ってるのが、母を四十年も面倒みてくれた、すぐ上の兄嫁なのです。『私は、お義母(かあ)さんの味を教わったんです!』と、この一月に帰国した時に、義姉が話していました。今日の昼食に、家内の学生たちに、《特性サンドウイッチ》を作ってみました。美味しいそうに、大きな口で食べてくれたのです。牛肉と玉ねぎの炒め物、卵の薄焼き、チーズ、トマト、キュウリを、トーストしたパンにバターを塗ってはさみました。それに、「金柑」を添え、紅茶を入れました。そんな28度の春の昼でした。

(写真は、母が作ってくれたのに似ている「雑煮」です)

「東洋の奇跡」

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 「東洋の奇跡」、英語では、”Japanese miracle ”と言いますが、戦いに負けた日本が、焼土の中から、驚くべき経済復興をしたことを、そうアメリカが言いました。しかし、一番の復興というのは、「生きていく自信」や「夢を持つこと」だったようです。1975年に新潮社から発売された小説に、「官僚たちの夏」という作品があります。一切のものを失ってしまったように見えた日本でしたが、『まだ戦争は終わっていない!』、つまり、武器使用の戦争は負けたが、「経済戦争」が日米の間に行われているという思いの中で、圧倒的な物量で占領支配をし、日本をアメリカ製品の「市場」にしていく動きがありました。ところが、その「物の攻勢に、敢然と立ち向かった男たちの獅子奮迅の戦いを、城山三郎が描いたものです。

 この物語の舞台は、「通商産業省」であり、事務次官となってトップに上り詰めていく、佐橋滋をモデルに描かれた作品です。佐橋は、『国家の経済政策は、政財界の思惑や利害に左右されてはならない !』との信念をもって、アメリカ製品に対して、国産繊維製品、国産自動車、国産コンピューターなどの研究開発を、主に中小の経営者に促し、やがて実用化させ、ついには、アメリカのフリーウエーを日本車が満たし、疾走し、アメリカの自動車市場を席巻するまでに導いたのです。彼は『ミスター・通産省!』とまで呼ばれた名物官僚でした。

 大陸から伝えられたものに「絹製品」がありました。それは、やがて「西陣織」などに代表される高級で美しい絹織物を盛んにさせます。維新政府が、「富国強兵」を掲げて、欧米諸国に追いつき、追い越そうとして取り組んだ国家プロジェクトの事業の一つが、その「絹(生糸)生産」でした。その代表工場が、国の出資で群馬県に造られます。「富岡製糸場」です。生産された「生糸」を、そこから陸送して横浜港から、輸出していたのです。それで外貨を稼ぎ、そのお金で軍艦を買って軍事力を欧米並みにしていった時代です。私が小学時代を過ごした街に、「蚕糸試験場」がありました。そこに友人たちと出掛けて、捨てられてあった「おかいこ(桑の葉を食べて絹糸を吐く虫)」を拾って帰り、桑の葉を与えて育てたことがありました。「繭玉」が作られていくのを観察するためでした。父の家があったところから高台の大地に上がると、一面が「桑畑」だったのです。農家では、まだ「養蚕」が盛んに行われていて、そのおかげで、「ドドメ(桑の実のことです)」を〈おやつ〉に腹いっぱい食べていました。

 長野県の諏訪湖にも、「生糸工場」がたくさんあって、周りの県下から多くの若い女性がやって来て、働いていたのです。「ああ野麦峠」という作品の舞台となったところです。時代とともに衰微していった業界でしたが、諏訪湖の周りには、今は「味噌工場」が沢山あります。なぜなのかといいますと、そこで働く製糸女工たちの食事に欠かせない「味噌」が、その近辺で作られていたからです。「生糸」は、ほとんど姿を消してしまいましたが、「味噌」だけが、そんな歴史を秘めて残っているわけです。

 戦後の経済を支え、牽引してきたのも、「繊維業界」でした。「自動車」に取って代わるまで重要な産業だったのです。そう言えば、中学の時に、クラブ活動の後に、よく「中華そば」とか「カレー」をご馳走してくれたのが、八王子の繊維組合の組合長をする、お父さんに持つ先輩でした。そういった産業界を舵取りしてきた佐橋は、〈天下り(goo辞書によると、『退職した高級官僚などが外郭団体や関連の深い民間企業の相当の地位に就任すること。「所轄官庁から―する」 』とあります)〉をしなかった潔い、《戦後のサムライ》だったのです。こういった国民を思い続け、日本を再建していった役人たちがいたことは、今日の日本人の私たちは忘れてはならないのだろうと思われます。

(写真は、こちらの道路でも時々見かける、高級日本車「レクサス(トヨタ)です」

『父は父なるが故に、父として遇する!』

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 中国で日本語を学ぶ日本語学科の教科書の中に、日本の歌がいくつか掲載されています。その中で、学生のみなさんの誰もが知っている歌の一つが、「四季の歌」です。一緒に歌ったりしますが。荒木とよひさが、学生時代に怪我をして、湯治をしていた妙高高原で、あたりの風景を眺めながら作詞したのです。それに、彼自身が作曲したのが、この歌です。芹洋子などの多くの歌手が歌っていました。

    春を愛する人は 心清き人
    すみれの花のような ぼくの友だち

    夏を愛する人は 心強き人
    岩をくだく波のような ぼくの父親

    秋を愛する人は 心深き人
    愛を語るハイネのような ぼくの恋人

    冬を愛する人は 心広き人
    根雪をとかす大地のような ぼくの母親

 四季の移り変わりを歌った、実に清楚な歌です。やはりハイネの詩に憧れる気持を表現しているのですから、青年が詠んだものであることが一目瞭然ですね。とくに「父親像」がいいのです。毅然とし、確固としている「父」は、このところ流行りの「友達のようなお父さん」でないのがいいのです。〈ゲンコツ親爺〉、〈ガミガミ親爺〉、それでいて〈涙もろい親爺〉の方が、男の子のうちに〈父性〉を築きあげていくのに、二人の息子を持つ父親として理想的ではないかと感じるのです。さらに女の子にとっても、理想の「男性像」は、先ず父親から始まるのですから、〈男気〉が旺盛な方が、いいのではないかと、二人の娘を持つ父親として感じるのです。

 今月は、父の誕生月でした。晩婚だった父の三男として、中部山岳の山の中で生まれた私は、誰もが、そうであるように、〈父の背中〉を見ながら育ったのです。祖父に連れられていったことのある集会で、歌い覚えた、『主我を愛す・・・』を、よく口ずさんでいた父でした。旧海軍の軍港の街で生まれ育った父は、〈ゲンコツ親爺〉でしたが、拳骨だけではなかったのです。出張に行っては、「温泉まんじゅう」や「崎陽軒のシュウマイ」を買って帰ってき、会社の帰りには、「ショートケーキ」、「ソフトアイスクリーム(ド」ライアイスで凍らせたもの)」、「あんみつ」、「カツサンド」、「鰻」、「玉木屋の佃」などなどを買ってきては、『さあ、みんな喰え!』と進めてくれたのです。

 この冬休みで帰国して、次男の所で過ごしたのですが、彼が、『お父さんが作ってくれた、サンドイッチが美味しかったよ!』と言っていました。それは、8枚切りのパンをトーストしたものにバターを塗り、バターと塩コショウで味付けした牛肉、炒めた玉ねぎか長ネギ、輪切りにしたトマトとキュウリ、薄焼き卵を挟んだものでした。4人の子どもたちに、何かといっては作ってあげたのを思い出します。そう言えば、父は、「カルメ焼き」を、時々作ってくれたことがありました。七輪に金属製のおタマをのせ、そこに水とザラメを入れて割り箸で溶かし、タイミングを測って重曹を割り箸の先につけて、ザラ目液に入れると、膨らんできて固まるのです。あの味は、スーパーの菓子コーナーに並ぶ市販のものと比べて、及びもつかないほどに美味しかったのです。舌や胃袋に感じた〈親爺〉が、やはり懐かしく思い出されます。

 『大波に微動もしないで巌としてる「岩」のような父』、自分だったら、そんな言葉で〈父〉を表現して、春到来の華南の地で、心から感謝したいものです。『父は父なるが故に、父として遇する!』

(写真は、http://img.pics.livedoor.com/012/5/d/5d66eb2430e702d2c072-1024.jpgから、「波と岩」です)

Mercedes-Benz

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 子どもの頃に、バスに乗るとよく歌っていた歌がありました。三木鶏郎の作詞作曲で、中村メイコが歌っていた、「田舎のバス」です(1955年に流行りました)。

1.田舎のバスは おんぼろ車(ぐるま)
  タイヤはつぎだらけ 窓は閉まらない
  それでもお客さん 我慢をしているよ
  それは私が 美人だから
  田舎のバスは おんぼろ車
  デコボコ道を ガタゴト走る

(2.3.は省略)

4.田舎のバスは のんきなバスよ
  タイヤはパンク エンジン動かない
  そのときゃ馬に ひかせて走る
  それは私の アイデアよ
  田舎のバスは おんぼろ車
  デコボコ道を ガタゴト走る

 これは、『どんなバスに乗ってもガタゴト走る!』と思われたのですから、バス会社には迷惑な歌でした。それが、いつの間にか、フワフワな乗り心地に代わってきたのです。車の性能が良くなったのと、道路の舗装率が上がり、アスファルトの厚みも増したからなのでしょう。こちらに来たての頃に、市内を走る「公交車」という路線バスに乗ると、真冬はすきま風、夏場はカーテンのホックが外れ、ひどい車は車体の後部が赤く錆びていました。それに車体を支えるスプリングが、揺れを吸収しないで、少しの段差を走っても、頭に『ドン!』と衝撃がきていたのです。よく、故障して道路の真ん中に乗り捨ててありました。ところが瞬く間に、新車が導入されて、今では、運転手さんがギヤー・チェンジをしないですむ「オート・ギア」、ガソリンではない「アルコール燃料」の車に代えられてきているのです。

 今日学校が終えて、街中で家内と落合い、行きつけのパン店で、サンドイッチ(中国語は[三明治]と言います)とコーヒーで昼食をしましたが、その帰りに乗った、わが家のそばで始発着するバスが、そういったバスなのです。それに乗って帰って来ました。「長足の進歩」と言うのでしょうか、中国の社会全体が豊かになってきているのが歴然としています。

 実は最近、世界の高級車、「ベンツ」に乗せて頂く機会がありました。私の周りにも友人知人にも、このドイツ車を持っている方はいませんでした。ここ中国に来てから、初めての経験をさせていただいています。私は、車を二台も持っていた時期がありましたが、それらは何時も「貰い物」か「中古販売店で買ったもの」で、燃費の良い「経済車」でした。それで、われわれの時代は、『何時かクラウンで!』と言われていました。その後、『何時かレクサスで!』になって、今、私は、『今、ベンツで!』を、後部座席で体験しているのです。それも、日本では野球選手や有名芸能人たちの乗る、一番上のクラスの車種の「ベンツ」なのです。まるで雲海の中を走っているようです。初めの頃に持っていた「ダットサン」と比べたら雲泥の差、「月とスッポン」です。普段、徒歩で移動し、路線バスに乗り、たまにタクシーを利用している身ですので、その違いの大きさを体験してるのでしょうか。

 そう言えば、この日曜日、忘れ物を取りに家に帰って、戻る時に、タクシーのドアーに右目の下を、しこたまぶっつけてしまいました。今週は、目の下の「青あざ」で出かけています。いくつになっても、「オッチョコチョイ」が直らない私を家内が見て、開いた口のままでいる、25度の春到来の日の夕方であります。

(絵は、http://www.shinrin.co.jp/g20070223_2.htmlから、「田舎のバス」です)

「精力善用」

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 「武芸百般」とか「武芸十八般」とか言われて、古来、日本には多くの「武道」がありました。平時、武士は日夜鍛錬して、一朝事あるときに、主君のために戦う備えとして、「武芸」に励んでいました。つまり、究極の目的は、「戦場」での武闘に勝つことでした。人を打ち倒し、立ち上がれないほどに打撃を与え、殺そうとしてきたものです。それは、「死ぬか生きるか」の戦いでした。その中に「柔術」もありました。明治になってから、嘉納治五郎が「柔術」を改良して、「講道館柔道」を始めており、一般的には「柔道」と呼ばれています。それを「近代スポーツ」にするために、嘉納治五郎は、「柔術」の中にあった「禁じ手(打ち身、拳を急所に当てる技などです)」の使用を禁じる「ルール作り」をしたのです。

 この「柔道」のほかに、「剣道」、「弓道」、「合気道」、「空手」、「テコンドー」、「「カンフー」などが、「格闘技」として、一括りでいわれているものがあります。この試合で対戦するときに、『ヤア―!』、『トゥー!』、『ソリャッ!』などの「掛け声」が発せられます。それを聞くと、「戦場」で戦った戦国武将などが、死闘を戦わせた光景を思い起こさせるのです。私は、「松濤館流空手」というのを少しかじったことがありました。ボール競技を中・高でしていましたが、社会人になってから、運動不足の解消のためにでした。「柔道」は、上の兄と弟がしていましたが、私はしたことがなかったのです。

 ただ、「柔道」の開祖である、この嘉納治五郎という方は、実に高潔な人格者であったと聞いております。「柔術家」、「柔道家」だけではなく、東京第一中学校(現・都立日比谷高校)、学習院、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長を務めた方で、「教育者」でした。また貴族院議員、国際オリンピック委員にも推挙され、その務めを果たされています。この方は、「弘文(宏文)学院」を開き、中国人留学生の世話をされており、中国文学者の魯迅も、嘉納治五郎に師事した一人でした。

 『なぜ柔道をしなかったのか?』には、単純な理由が私にはありました。「がに股(蟹股,、O脚のことです)」になりたくなかったからなのです。まあ柔道をしても「がに股」でない人も多くおいでですが、子どもころにそう思って決心したので、結局はしなかったのです。でも、「嘉納治五郎の精神」には、傾倒すべきものを感じてきております。

 嘉納治五郎は、子どの頃から虚弱体質だったので、体を強くするために、東京大学に入学した頃に、「柔術」を習い始めました。「武芸」の時代ではなくなった明治の御代に、近代的な考えをもって「柔道」を始めたのです。この嘉納治五郎の「講道館柔道」は、「精力善用」、「自他共栄」を精神としていました。この方が亡くなる前にお弟子たちに、『私を棺に収めるときに、白帯を締めてください!』と頼んという逸話を聞いたことがあります。「白帯」というのは、無段位者のことで、「初心者」が、腰に締めたものでしたから、この方は、「紅(赤)帯」を占める最高段位を得ていたのですが、「生涯白帯」で生きられたのです。きっと、『私はまだ学び始めたばかりの者に過ぎません!』という生き方をされた方だったことになります。21世紀のスポーツ選手、いえ日本人は、こういった精神や生き方に学ばなければならないのかも知れません。

(写真は、講道館柔道を始めた「嘉納治五郎」の二十代のものです)