日本文化?

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 よく見かける光景に、警察官や市役所の職員が犯罪を犯すと、この人が務めていた部署の直属の上司たちが、マスコミとの会見の席上で、四十五度の礼をして、「謝罪」をしています。頭を下げている角度も時間も、長テーブルの前での人数も、ほぼ同じなのです。一人でも駄目、角度が高過ぎても、時間が長過ぎても駄目なのです。そんな光景を見飽きるほどに眺めるのですが、異様に感じるのは私ばかりではないと思うのです。「責任の在り処」は、本人なのに、どうして『監督が不行き届きでした。お詫び申し上げます!』と、組織の長が謝らなければならないのでしょうか。大の大人であるのに、自分の部下の罪を上司が詫びているは可笑しいのです。それが「謝罪会見」なのです。

 私の長男が、幼稚園に通っていた時に、近所の薬局でガムを無断で失敬してきたことがありました。単に欲しかったのでしょう。近所の悪友と一緒でした。買ってあげなかったガムを噛んでるのを見つけた私は、それが「罪」であることを教えて、彼に納得させました。そして、彼と一緒に薬局を訪ね、息子は、『ごめんなさい』と、店主に謝罪しました。親の私は、そばにいて、日本語で都合のよい、『どうも・・・』と言葉を濁していました。この店主は赦してくれましたし、『親の躾が・・・』とも言いませんでした。それ以来、息子は同じようなことは起こしませんでした。

 芸能人の子どもが覚醒剤使用で警察に逮捕されると、マスコミは親に取材をします。『どうして、こんなことになったのか?』、『どんな躾をしてきたのか?』、『普段の生活はどうなのか?』と、詰問しています。親は長い顔をして、沈痛な思いで無言でいるか、言葉を濁すか、最近では、ブログで何かをコメントしたりしています。もう選挙権があり、三十代でしたら、参議院議員や知事選に立候補できる年齢なのに、まだ《親の責任》を問うのにも、呆れ返ってしまいます。『息子に聞いてください!彼は大人なのだから!』でよいのではでしょうか。

 そうしてもらわないと困る日本社会に、やはり問題があるのではないでしょうか。『形だけでも謝罪しておけば、それで済むんだから!』と言った思いが、その背後にあるようです。責任追及の矛先を弱めたり、反らせたりする計画的な謝罪が多いようです。この間、「丸刈り号泣謝罪」をした若い女性がいました。世界中に、その動画が配信されて、驚きの声が上がっていました。うら若い女性が、《頭を丸めた》ことは、これも「異様」なことでした。彼女の所属している芸能グループから外されて、その世界で活動できなくなることを避けるために、誰かが入れ知恵をしたのかも知れません。『ちょっと恥ずかしいけど、また髪の毛は伸びてくるし、カツラだって使えるから、ここは、ちょっと我慢して丸刈りにして、意思表示したら!』とです。『ゴメンナサイ!』をすれば赦してもらえる、《甘い社会》が、私たちの社会であって、実に「強(「したた)か」ではないでしょうか。

 中国語にも、謝罪のことばがあります。『ごめんなさい!』は、〈対不起・ドイブジイ〉でしょうか。「面子」を、極めて大切にするこちらのみなさんは、ほとんど言わないそうです。交通事故を起こして、こちらが悪くても言いません。『こうなったのには、あなたにも責任があるのだから、私は謝る必要はありません!』という接し方をすると聞いています。例えば、道路を歩いていて、肩がぶつかっても、無言のままです。日本人の私なんか、卑屈なのでしょうか、自分が《悪太郎》であることを認めてますので、《ごめんなさい人生》を生きてきました。そんなに苦にならないで、平気で言えるのです。教師や警察官や大人のみなさんに、叱られ、注意されて、当然謝罪すべきことでしたから、『ごめんなさい!』と言ってきました。でも、一度だけ、根本的な「謝罪」をしたことがあります。それで完全な赦しを経験したのです。広い大陸のどこでも行って住み替えられる中国のみなさんと、狭い村社会の中で生きてきた日本人の《文化の違い》かも知れません。『ごめんなさい!』も、一つの日本文化なのでしょうか。

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