おめでとう!

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老いゆきて 返しし免許 惜しむ猛暑(なつ)

 照り返しの強烈なアスファルトを、歩いて買い物に行きますと、『車があったらなあ!』と思わず独り言してしまいます。先週は、家内の通院日で、2時間かけて長男が来てくれました。〈男五十〉、親孝行には、忙しい身なのに、喜んで駆け付けてくれたのです。妹たちや弟の分も、との思いででしょうか。『あの免許証を更新して、今手元にあったらなあ!』、と仕切りに思う時がある私なのですが、その犠牲に感謝しているのです。

 十三年間の運転の blank(休止中の期間)で、『被害者になっても、加害者になったらいけない!』と決断して、免許の更新をしないでいたのです。その翌々年に、急遽帰国して、家内が入院したのです。車が運転できたら、様々に便利でしたが、東武宇都宮線で直に行けるので、定期券で病院に通ったのですが、それで3か月通い、退院後は、タクシーと息子の送り迎えで過ごすことができたのです。

 今回の通院の帰り道では、回転寿司で昼を済ませ、家内は、お土産に名物菓子店で、〈あんみつセット〉を買って、帰りに息子に持たせていました。『親しき仲にも感謝あり!』でしょうか。

 高校二年生の時に、母が、交通事故にあって、11か月ほど、隣街にあった共済組合病院に入院したことがありました。怪我で担ぎ込まれた街の病院での初期処置がよくなくて、化膿し、両足切断の恐れがあったのです。病院の待合室横のベンチに横になっている母は、苦痛に耐えていて、泣き言を言いませんでした。『こんなに強いのか!』と思わされた時でした。

 隣町の病院に転院して、切断は回避でき、長期入院となってしまったのです。兄たちは、家にいない時期でしたから、父と一緒に三男坊の私が、家のことを交互にし、母を見舞ったり、父が作った野菜スープや洗濯物を、バスに乗っては届けたりしたのです。

 興味深かったのは、母の入院した部屋が大部屋で、女性病室で、「女名主(おんななぬし)」が仕切っていたのです。副名主などがいて、序列の社会で、何かと意地悪やいじめがあったではありませんか。ぶん殴ってやろうと思ったほどでしたが、女に手を挙げてはいけない、しかも病人ですから、じっと我慢の子でいたのです。母の体を、行くたびに、お湯を運んで拭いて上げるのを、快く思わずに、そんな家族の世話を受けることのない名主が、母をいじめのターゲットにしたのです。あの子分衆のヘツライは大したものでした。

 母は、辛い子ども時代を通過してきたからでしょうか、クリスチャンだったからでしょうか、そんな仕打ちに〈平気の平左〉で、相手にしなかったのです。母は自分の痛みで、それどころではなかったこともあります。心根の強い母でした。病院社会の中に、治癒の遅い患者の自暴自棄、同病者への妬みと、様々に、心も病んでしまう人がるのです。それに追随して、自分への攻撃を交わす取り巻きがいて、もう悪社会そのものだったのです。

 母の傷跡を見たことがありますが、それは、医療ミスの跡で、夏場でも母は、厚手のストッキングを、その後ずっと着けていたほどです。その後、母が五十代の初めに、子宮がんになって、日赤病院に、9ヶ月ほど入院したのです。半年の余命の診断を、父に代わって、主治医から私が聞いたのです。

 それを父に伝えたら、『準、覚悟しような!』と言ったのです。その父は、61歳で、蜘蛛膜下出血、脳溢血で、あっけなく亡くなってしまいました。母は父と死別して、40年ほど生きて、95歳で帰天したのです。かく言う私は、外科系の怪我などで、入院を繰り返して、家内の入院以後、持病の腰痛も起こらず、風邪をひかないのです。一昨日、炎天下の散歩で疲れてしまったのでしょうか、めずらしきお腹を壊したのですが、もう回復しました。

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 祈りは、『二人が同時期に倒れないで済むように!』との嘆願ですが、父なる神さまは、それをお聞きくださっているに違いないと、感謝しているところです。そんな私たちに、声をかけてくれて〈日本ラーメン〉を食べたいと、遠慮がちに言った、二人の中国の街から見舞いに来てくださったお二人を、車で連れ出してくださる若き友人がいて、隣街のラーメン店にお連れいただきました。また老舗のケーキ店の焼き菓子を、お二人に、買うこともできたのです。

 一人の姉妹は、事業で忙しいのに、一週間の休みをとって、あちらのみなさんの愛心を届けてくださったのです。ここにいる間、スマホでお仕事もされておいででした。もう一人の方は、ずっと説教の通訳をしてくださり、お世話くださった姉妹です。学校の教師を、定年退職されて、コロナも収まりかけて、『やっと機会が与えられて訪ねられました!』言って来てくださったのです。ですから、感謝のつもりで、教会のみなさんにも、日本の有名なクッキーを買って持って行ってもらいました。

 さて、ラジオ体操仲間も、入院、手術、参加不能と、入れ替わりに、体調不良のようです。加齢と病気、人間の命の現実を、自他共に経験したり聞いたりしてしています。聖書には、次のようにあります。

 『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」 (出エジプト1526節)』

 文語訳聖書では、『我はヱホバにして汝を醫す者なればなり(エホバ・ラファ)』と、最後の部分が訳されています。訪ねてくださったお二人の教会のみなさんは、このみことばの約束に立って、家内の「癒し」を、切々と祈っていてくださっといるのです。そして、『帰って来てください!』と言ってくださっています。

 一昨日は、「メディカル・カフェ・宇都宮」の集まりが、宇都宮市で開催され、家内は、家にいて、ZOOMで参加しました。会長をなさっている、宇都宮市内の病院の副院長さん、女医さんが、家内に、『お顔の表情がとってもいいですね!』と、医者の目で、映像で映し出される家内の顔を見て仰ってくれていました。そう言えば、このところ、元気が増し加わって来ているようです。ガンと闘う方、それを見守る医療関係者、患者家族、ボランティアのみなさんが、励まし合って続けている集いです。それは素晴らしい機会です。事務局の担当をされている方も、同信の姉妹で、時々、我が家を訪ねてくれ、良い交わりをさせていただいています。

主イエスの名に 主イエスの名に

癒し(勝利 救い)あり

主イエスの名に 主イエスの名に

病い(悪魔 とがめ)去り

神の御業を たれか知らずや

主イエスの御名により 勝利あり

 こんな賛美コーラスで感謝しているのです。賛美の好きな家内は、今日、八十歳の誕生日を迎えました。多くのみなさんに祈られ、励まされ、支えられて、《傘寿(さんじゅ)》を迎えられたのです。余命半年が、発病以来5年になり、回復途上にあります。まだ何かの生きる意味があるのだと、彼女も思っているのです。感謝ばかりの今であります。

 

 

身近な蚊やハエでさえも

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 『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。(マタイ62631節)』

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 『ブーン!』と飛び来る天敵の蚊は、父譲りの体質を好まれているのか、毎年、刺され続けて、滞華中は、卓上におく蠅帳の大型版の「蚊帳」を買って、春頃から晩秋頃まで、ベッドの上に置いて使っていたのです。それでも、すばしっこい中華蚊は、蚊帳の中に侵入して来たのです。伯仲の対蚊戦は、毎年のことで、夏だって好きな自分には、避け難い恒例の戦争なのです。

 こちらに帰って来てから、すぐに、ネット販売で、同じ中国製の蚊帳を買って使い続けているのです。ところが、今季、どうしたことでしょうか、まだ一回しか刺されないでいます。玄関とベランダの入り口に、生協で買った「人体無害蚊取りシート」を、家内が置いたからでしょうか、また先月、帰郷した長女が、蚊対策で “ BADGER ANTI-BUG BALM Made in USAを持って来てくれ、それを塗っているからでしょうか、対抗効果が出ているのです。

 以前は、刺されて痒さに耐えられない私は、蚊取り線香を焚きました、ところが、あの煙に、今度は翻弄されるのです。また化学薬品の液体蚊取り器では、化学成分が人体に悪いのです。子どもの頃、ハエだって、大変多かったのです。ハエ叩きなんかでは間に合いませんでした。蚊にしろ蝿にしろ、夏季の生活では敵なのです。だからカやハエは、撲滅されるべきなのでしょうか。

 刺されたり、食卓の上の食べ物にたかるだけではなく、たとえば、カの一種の〈ネッタイシマカ属の蚊〉は、黄熱病、デング病といった病気の主要な媒介生物なのです。撲滅すべきなのでしょうか。『蚊なんていらない!』と日頃思うのですが、万物を創造をなさった神さまは、この蚊もお造りになられたのです。
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 「生態系の均衡」ということを考えると、蚊にだって、存在の理由、役割があるわけです。蚊を捕食して生きる生き物がいるのです。クモやトンボやハエなどです。たとえばハエですが、私たちの食卓に飛んできて、厚かましくも食べ物の上に止まって、餌にしますが、私たちは、仇のように追い払いに懸命です。でもハエが絶滅したら、どんなことが起こるのでしょうか。ハエを追い払う日本人に、『蚊は、そんなに食べませんよ!』と、どこかの国で言われたそうです。

 実は、このハエは、森や林で生活する動物たちの死骸にたかるのです。それによって、体が分解して、地に帰って、花や木などの植物の培養土を作って、その生育を助けるのです。そのために、無用な蚊だと思われてもハエだって生態系を保つという、立派な役割を担っていることになります。金儲けだけ考える人が、森林を伐採して、ビルを作って、儲けだけが優先すると、自然界のサイクルを狂わしてしまうのです。

 おびただしい数の地を這い、飛ぶ昆虫や小動物は、土の再生のために、その死骸を横たえるのです。それが、再生のリサイクルなのでしょう。神さまは、自然界をそう言った均衡の中に保っておられるのです。ところが人間が、そに生態系を壊してしまい、有毒な化学物質を生成して、自然のものと置き換えてしまったのです。

 〈暴雨〉だって〈命の危険な暑さ〉だって、人類が蒔いたものの〈刈り取り〉に違いありません。自然の恵みは、神備えたもう良きものであって、私たちは、それに浴して、この地上を生活の舞台として、生きてきたわけです。自然の摂理に従う時に、神のいますことを信じることができ、感謝が湧き上がってまいります。

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真夏の麗花にニコニコと

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 このところ「外出禁止令」、強制力のない知らせが、市からあります。きっと戒厳令が敷かれた時には、そんな命令が国からあったのでしょう。まだ平和な今日日、年配者の私たちに、『ノドは乾かなくても、水分補給を励行してください!』と勧められてもいるのです。昨日もアメリカでも、ギリシャでも、異常な高温であることのニュースを知らせていました。

 それでも、私たちの家のベランダで、青々と朝顔の葉が繁り、花を咲かせ、ペチュニアも桔梗も咲いて見せてくれています。朝方と夕べに、水やりを家内がしてくれています。明日から八月(8よりも漢字の方が涼しそうです)、そろそろ夜間の涼しさが、戻ってきそうな期待感があります。

 昔の街中は、「打ち水」が打たれ、「簾(すだれ)」が置かれ、「風鈴」が涼しげな音を立てて、涼を感じさせてくれていたのを思い出します。小学生だった二人の娘に、「葦簀(よしず)」を、店に買いに行かせ、娘たちが、騒ぎながら担いで帰って来たことがありました。恥ずかしかったそうです。友だちに、その様子を見られたのでしょうか。

 あんな夏、こんな夏があったのを思い出しますが、二人っきりの〈空の巣(からのす)〉の生活です。昨日、われわれ世代のご夫妻が、家の中で扇風機だけはかけ、空調なしで、亡くなっていたとニュースが伝えていました。熱中症だと思われます。そういえば、大きな病院に急ぐ救急車の発動があって、家の近くの昨日は、6、7件あって、サイレン音が聞こえてきたのです。〈次〉にならないように、仕切りに、《水補給》を、家内に促されています。

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 先週の木曜日は、三か月ごとに送り迎えをしてくれる長男の車で、家内の通院に、水筒係で従いました。血液、尿、レントゲンの検査で、異変なしの診断でした。《胡蝶蘭》の花びらを、主治医の机上に置いて、『少しでも涼を!』と、家内のささやかな感謝の gift に、ニコニコと喜んでおいででした。

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散歩道のマロニエの花

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 昨日の散歩道の街路樹の「トチノキ(マロニエ(/栃ノ木)」に咲いていた花です。〈命の危険〉、〈災害的猛暑〉と言われる酷暑の中、ジッとでしょうか、爽やかでしょうか、綺麗に花開き、散歩人の目を楽しませてくれました。

 マロニエの木が歌詞に出てくる歌に、「マロニエの木陰」がありました。坂口淳の作詞、細川潤一の作曲で、母と顔が似ていたと言われた松島詩子が歌った歌です。

空はくれて 丘の涯(はて)に
輝くは 星の瞳よ
なつかしの マロニエの木蔭に
風は想い出の 夢をゆすりて
今日も返えらぬ 歌を歌うよ

彼方遠く 君は去りて
我が胸に 残る瞳よ
想い出の マロニエの木蔭に
一人たたずめば 尽きぬ想いに
今日もあふるる 熱き涙よ

空はくれて 丘の涯に
またたくは 星の瞳よ
なつかしの マロニエの木蔭に
あわれ若き日の 夢の面影
今日もはかなく 偲ぶ心よ

 この歌に出てくるには、どこの街に咲いていたマロニエなのでしょうか。パリの街に咲くので有名ですが、先日、パリを思わせるような自作の「ケーキ」を、家内のために作って、華南の街のパン&ケーキ店の店主の息子さんが、訪ねててくれました。一緒に来られたケーキのパテシエの青年が、パリではなく、フランスの田舎町で、その地方独特なフランスの菓子作りを学んでみたいと、熱く夢を語っていました。夢が叶えられますように。

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教育

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 『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。 (箴言226節)』

 二十三歳の旧日本軍の青年将校が、奇跡的な復興を遂げた戦後の二十九年を、フィリピンの地で、戦争が終結しているのに、軍令に忠実に従って、軍務を続行したのです。この事実に、29才だった私は、それを聞いて、大変に驚いてしまったのです。

 その将校が、小野田寛郎(ひろお)氏でした。その「諜報活動の任務」を遂行するということは、その遵守義務のある部下が守り抜かなければならなかったことだったのです。フィリピン警察に拘束されたのですが、投降しませんでした。しかし、上官の命令解除があれば任務を終えると言ったのです。その命令こそ、軍人にとっては絶対だったからです。

 存命だった上官の谷口氏(元陸軍少佐)は、フィリピンに行き、直接、小野田氏に接見し、彼の上官として、任務から解く旨、小野田氏に告げると、それを承知して、フィリピン軍の司令官に投降して、彼の長い軍務を終えたのです。

 考えさせられのは、軍の上官の命令で、二十二歳で、陸軍中野学校二俣分校を終えて、少尉に任官した青年が、フィリピンに派兵され、そこで軍命を守り通したことなのです。職業軍人にとっての軍、上官の命令は、〈絶対〉だったと言うことでしょうか。軍隊の学校での短期の養成で、一人の青年の思いと時間を、これほどに拘束し、軍命を遵守させ、それに小野田氏は従ったわけです。

 一体、どんな教育が、その学校でなされていたのでしょうか。私の恩師の一人が、掛川駅から旧国鉄の浜名湖線の浜松の北の街で、宣教活動をしていました。その街の人たちは、駅を降りて、学校に歩いていく青年たちを怪しむことはなかったそうです。まさか遊撃戦(ゲリラ戦と言われます)の諜報や謀略などをする特殊な教育機関だとは思いもよりませんでした。社会人として、しっかり生きてきて、優秀な若者が選りすぐられていた学校だったそうです。

 私の最初の職場に、この学校を卒業生された方がいました。戦時中の経験を買われて、調査部門の責任を負っておられました。眼光の鋭い方で、お酒を飲むと、グッと暗くなっておいでだったのが印象的だったのです。この方から、学校でのこと、戦時中のことなどを聞くことはありませんでしたが、投降時の小野田氏を撮った映像や写真と、雰囲気がとても似ておられたのです。

 「教育」の力、影響力の大きさというものは、善悪や義不義や価値不価値を超えて、青年の心を縛ってしまうものなのでしょうか。古代のスパルタでなされた教育は、特別な教育だったのだそうです。生まれるとすぐに、健康に育つかどうかが点検され、軍人の適正が見分けられたそうです。不適正な子は穴や谷に投げ入れられ、そのまま放置されたのです。合格すると、7歳で軍務に服し、理不尽なことが行われ、それに耐えることが学ばされ、上下関係の厳しさを叩き込まれたようです。

 人間としての尊厳など、ほとんど尊ばれなかった社会で、国に忠誠を果たす義務を負わされたのです。でも、そんな人間観によって、成り立ったこの国は、名だけを残して、歴史から消えて滅んでしまいました。国家に有用な人材を養成するのが目的でなされたからだったのです。

 小野田氏が訓練を受けた、この陸軍中野学校二俣分校では、語学、武術、細菌学、薬物学、法医学、実習謀略、防諜、ゲリラ戦術、破壊戦術などが教えられていたそうです。そう言った特殊な軍人教育が、人の一生を、固定させ、選択肢のない生き方に連れていったとすれば、それは怖いことではないでしょうか。自由意志や選択の自由を奪って、命令が人の一生を縛ったとするならば大きな問題です。しかし教育の効果という面で、これを思いますと、旧軍の教育が、どれほど徹底していたかに驚いてしまうのです。

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 「軍人勅諭(1882年、明治1514日、明治天皇の御名で発した本分)」がありました。天皇の統率する軍隊(軍人)に、忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五項目を求めたものです。その後、「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」という項目で有名な、「戦陣訓(1941年、昭和16年発令)」がありました。陸軍大臣東条英機が全陸軍に発した戦場での心得です。これも軍人の小野田を縛っていたものの一つです。

 戦前、日本人は、『命を惜しむな!』と教えられ、死を恐れないで生きたのです。そんな時代を生き、ジャングルで任務を全うしようと生きた小野田氏は、次の様に言っています。『戦後、日本人は、何かを「命がけ」でやることを否定してしまった。 覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である。だが、死を意識しないことで、日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。』

 人生の大切な時期を、30年に及ぶジャングルで、3人の部下と共に、軍命を全うして過ごしたのですが、帰還後、さまざまなことがあって、小野田氏は、お兄さんのいるブラジルに行かれ、牧場経営に当たっておられました。そこから日本に帰国され、2014年に、波乱に満ちた91年の生涯を終えて亡くなられています。この小野田氏の死去に際して、ニューヨークタイムズは、『戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した。』と述べています。

 この方の生涯を思う時、一時期に、しかも短期でなされた「教育」の力の感化力の強さです。特定の思想教育が、よい分野で結果を残すのは素晴らしいことですが、例えば〈独裁者〉を生み出し、人権を踏み躙るようになるなら、大変な結果をもたらします。人命軽視を生み出すからです。ある指導者が、『4億の国民のうち、1億人の犠牲があっても、3億人が残るから、いいじゃあないか!』と言ったのですが、そう言った指導者を作った社会、その失敗の反省に立たない後継者の暗躍は、やがて国を滅ぼします。

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 『父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。 (エペソ64節)』

 素晴らしい教育者がいて、教育法があります。でも、「主の教育と訓戒」によって育てられた子たちは、強固な国家を建て上げていくことができるのです。リンカーンは、信仰者の義母サラによって、10歳から育てられ、聖書を教えられる養母と共に子ども時代を過ごしたそうです。喜びやさしいい女性でした。そこには、リンカーンを立派な人に育て上げた、素晴らしい家庭教育があったのです。

 もう一言、小野田氏が六歳の頃、級友に短刀で切り付けられます。その仕返しに友人の短刀を取って仕返しをし、傷付けてしまった時、お母さんは、『腹を切って死ね!』と言ったそうです。軍国の母だったのでしょうか、自分の母親やリンカーンの養母を思うと、小野田氏には、そんな幼い日に、そのように迫ったお母さんとの間に、そんな出来事があったのを知って、複雑な思いがしてしまったのです。

(「若葉」、「戦陣訓」の一節、リンカーンの育った家です)

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白髪になっても

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 漢詩の中に、次の様な詩の一節があります。 

「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず)  (代悲白頭翁 劉希夷)」

[現代語訳(漢文の原文は省略しました)]

『洛陽の町の東では桃や李の花が舞い散り、
飛び来たり飛び去って、誰の家に落ちるのだろう。
洛陽の娘たちはその容貌の衰えていくのを嘆き、
花びらがひらひらと落ちるのに出会うと長い溜息をつくのだ。

今年も花が散って娘たちの美しさは衰える。
来年花が開くころには誰が元気でいるだろう。

私はかつて見たのだ。松やコノテガシワの木が砕かれて薪とされるのを。また聞いたのだ。桑畑の地が変わって海となったのを。昔、洛陽の東の郊外で梅を見ていた人々の姿は今はもう無く、それに代わって今の人たちが花を吹き散らす風に吹かれている。

来る年も来る年も、花は変わらぬ姿で咲くが、
年ごとに、それを見ている人間は、移り変わる。

お聞きなさい、今を盛りのお若い方々。よぼよぼの白髪の老人の姿、実に憐れむべきものだ。この老人の白髪頭、まったく憐れむべきものだ。だがこの老人も昔はあなた方と同じく紅顔の美少年だったのだよ。

貴公子たちと共に花の咲く木のもと、
花の散る中、清らかな歌を歌い、見事な舞を舞ったりもした。

漢の光禄大夫王根が自分の庭の池に高楼を築き錦や縫い取りのある布を幕としたように、
後漢の将軍梁冀《りょうき》が権勢を極め、自宅の楼閣に神仙の絵を描かせたように、そんな贅沢もしたものだが、

ある日病に臥してからというもの、友達は皆去って行った。
春の行楽は、誰のもとへ行ってしまったのだろう。美しい眉を引いた娘もどれだけその美しさが続くだろう。
たちまち白髪頭となり、その髪が糸のように乱れるのだ。

見よ、昔から歌や舞でにぎわっていた遊興の地を。今はただ黄昏時に小鳥が悲しげにさえずっているだけだ。』

 人の一生を、一日に例えると、もう「黄昏時」を迎えており、越し方を思い返しますと、長いようであり、また短かったなと思い返すのは、劉希夷ばかりではなく、まさに自分の実感でもありす。「来る年も来る年も、花は変わらぬ姿で咲くが、年ごとに、それを見ている人間は、移り変わる。」、紅顔可憐な美少年も、容色は衰え、背も縮み、歩幅も狭くなり、躓きやすくなってしまうのですが、これがまさに今の実感であります。でも、美しく咲く花、人々から好意は、心を踊らせて楽しませてくれています。

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 李白も、「秋浦歌」の中で、「白髪三千丈」と言ってもいます。その「白頭を掻けばさらに櫛にたえざらんとす」と言いました。

 杜甫も、「春望」の中で、毛が薄くなって、櫛など無用な「白頭」と言っています。

『国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連なり 
家書万金に抵(あた)る
白頭掻けば更に短く
渾(す)べて簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す』

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 この二人に感化された芭蕉も、「老い」を迎えたと告白しています。

『舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅にして旅を栖(すみか)とす。』

『月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は日旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置』

 また、「草加」に至って、「白髪の根」に触れています。

『ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共耳にふれていまだめに見ぬさかひ若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた雨具墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。』

 時は過ぎていき、人は歳を重ねて老いていくのですね。老いても、それを受け止めて、定められた時間を、精一杯に生きることです。旅の途上で、行路病人として倒れても、永遠の時を、どう迎えるかが、だれにでも問われているのです。聖書は、次ように言います。 

 『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ464節)』

 今は、永遠へ時や永遠の都への思いへの憧れで心が溢れている感じなのです。生まれ故郷がぼやけてきていますが、天をわが故郷として、そこへの帰郷を許された身としては、これに勝るものはない感じがしております。そこへ着くまで、なお、白髪になっても、「背負って運んできださる神』がいてくださるのです。

(「李白」、栃木県の「黒羽宿」にある芭蕉の句碑です)

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沈黙

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 『観まい!』と思いながら、ついに観てしまった映画がありました。遠藤周作の書いた小説を、マーティン・スコセッシ監督が、2016年に監督制作した「沈黙-SILENCE」です。

 小説を読むのを躊躇してしまったのですが、帰国中、小山市の上映館に足を運んだのです。観客が少なかったのが意外でしたが、極めて強烈な impact を受けたのです。もちろん拷問され、殉教していく島原の農民への思いは強かったのですが、彼らを迫害し、罪に定める裁きを行った、長崎奉行所の代官の井上筑後守への想いが強かったと言えます。

 この井上は、後に大目付で、宗門改役になっています。実在の人物で、家康の家臣の子として生まれたのですが、彼自身がキリシタンの過去を持っていたのです。映画では、人の弱点を、巧みに突いていく様子が、圧巻でした。元キリシタンであったことから、彼らの心の動きや弱さを熟知して、追い詰めていくのです。  

 徳川家康は、幕藩体制を盤石なものにするために、さまざまな政策を取りました。まだ三河にあった家康は、「一向一揆」、大きな宗教勢力であった「一向宗」に危機感を感じていたのです。それを上手に懐柔策で治めて、味方にした家康は、一方では、キリスト教の布教を認めていました。しかし幕府運営、とくに文治政策に、天海という天台宗の仏僧を招き入れるのです。キリスト教は、《神の下に人は平等》を説きましたから、うって変わって、禁教に転じるのです。

 福島県の会津が、この天海の出身地でした。十一歳で出家し、下野国の足利学校で学び、比叡山延暦寺で修行をし、禅寺でも修行をした人でした。家康と、七十三歳で出会って、その健康や仏教信奉、仏門との関わり、京の朝廷との関わりなどで、政策顧問として重用されるのが、この天海だったのです。

 陰陽道をもとに、江戸の町作りにも手腕を発揮し、そのために五十年もの歳月を費やしています。仏教の振興に励み、寺を建立し、やがて家康を葬る日光山にも手をのばしていたようです。家康没後は、天海は家康を「大権現」として神格化し、秀忠、家光にも、徳川三代に仕えています。天主教に対する危機感があって、仏門重用、寺請制度、宗門改帳(宗門人別改帳)などで、支配体制を確立していき、二百六十年の徳川幕府をもたらしたのです。

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 初期の宗教政策は熾烈で、多くのキリシタンの殉教を産んでいます。その政策を推進したのが、臨済宗の僧の以心崇伝であり、天海だったと考えられます。その弾圧者が、長崎奉行であった井上筑後守でした。これを演じたのが、イッセー緒方でした。自らキリシタンの過去がある奉行の、懐柔策で上手に転ばせてしまう演技、そして転んでは告解するキチジローを演じた窪塚洋介で、信徒でありながら、惑や恐れを上手に演じている心理描写が、実に巧みに演じていたのに驚かされたのです。

 私が、初めて訪ねたお隣の国で、3人に教会の指導者にお会いしました。十数年も収容所にいて帰って来られた方とお会いし、山の中の河辺でバプテスマが行われ、奥まった街中の小さな家に溢れるような人が溢れて礼拝を守り、建国記念の歌を、心情に反する内容の歌を歌わないと拒んだ老婦人伝道者とお会いしました。

 その後私たちが13年過ごした街でも、仕事を取り上げられ、軟禁されても、棄教しない、強固な信仰を持つみなさんと、共に過ごすことができたのです。五代、六代の信仰者もいました。

(映画に出てきた、「井上筑後守」、「キチジロー」です)

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秋近し

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 今朝、開いた朝顔です。暑さの中に、涼を感じさせてくれて、なんともホッとさせらています。沖縄の近くに台風が迫っているようです。豪雨、猛暑、今度は〈台風〉、矢継ぎ早の気象の変化が、日本列島を包み込んでいます。それでも、もう直ぐ秋になることでしょう。味覚の秋、芸術の秋、読書の秋、それに錦秋、麦秋、爽秋などという季節が来てくれます。「秋近し」と言って、この酷暑を乗りこえたい覚悟です。

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鯛料理をご馳走に

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 先週末、この街で、最も新鮮な魚を売るお店で、一匹の鯛を買って、それを調理していただきました。夕食のおかずにだったのです。私たちが過ごした華南の街から、そう遠くない田舎街の出身のご婦人が、友人とお二人で、訪ねてくださって、夕食に作ってくださったのです。

 その方の出身は、海辺の村なのですが、ちょっとカッコウをつけて街なんて言ってしまいました。確かに、その周辺では中心地で、一度お招きいただいて訪ねたことがあったのです。この方のお母さんは、その村の市場の入り口に、魚の入ったバケツを置いて、通りすがりの買い物客に、新鮮な魚を売っていたそうです。その脇で、幼い頃から彼女は、お母さんと一緒に、貧しかった家庭を助けていたと、そう話してくれました。

 だからでしょうか、私たちが出会った街で、よく海鮮料理の料理店に招待してくれたのです。ある時、注文した魚が卓上に運ばれてきました。すると、〈服務員fuwuyuan/ウエイター〉に、『この魚はダメ、新鮮なのにかえて調理して持ってきてください!』と彼女が言ったのです。そんなにはっきりと物言いをするのが、おとなしい彼女にしては珍しかったのです。

 魚を獲って生活していたお父さんが、市場に卸して、残った魚を、お母さんが商いしていたから、彼女も目利きが鋭いのです。大切な客として接してくれた私たちに、新鮮な魚を食べて欲しかったからです。

 先日、こちらで買った鯛は、彼女の目に新鮮だったようです。20194月に、退院間もない家内の見舞いに来てくださった時に、作ってくださった同じ料理でした。あれ以来食欲が出て来て、その愛が功を奏して、家内は回復していったのです。鯛の頭部に、ネギとニンニクとしめじと豆腐で、〈tang/スープ〉にしてくれたのです。また鯛の身を、蒸して、その蒸し汁に、醤油やニンニク、小ネギで味をつけて、かけてくれ、薄味にしてくださったのです。

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 家内が、2019年の正月に、急遽入院した省立医院は、完全看護ではありませんでしたので、24時間三交代で、家内の身の回り、看護室への連絡など、お世話をしてくれる当番表を作ってくださって、姉妹たちを割り当ててくれたのです。前回の入院時にも同じようにしてくれました。1週間で退院になって、私の知らない間に、治療費も教会と彼女が支払ってくださったのです。即刻帰国する時には、ビジネス席の航空券を買ってくださって、硬くない席で3時間のフライトでした。。

 《来客効果》ってありそうです。母のようにして、家内を慕ってくださり、それも十数年来、変わらない愛と敬意があっての再会なのです。今も、ご主人と一緒にアワビの養殖、卸、出荷などの事業をされておいでです。忙しい中のお見舞いに、どんなに励まされていることででょう。家内を「師母shimu」と敬意を込めて呼んでくれています。今日、成田から帰国します。神さまが、出会わせてくださった方々のお一人なのです。

(「鯛」と「鮑の養殖場」です)

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人の性格と高温と

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 『言いたくはないのですが、暑いですね!』、毎週メールをしてくれる友への返信で、ついそう言ってしまいました。〈性格と死因〉について、医者ではない物書きの内田百閒(うちだひゃっけん)が、次のように言ったそうです。

 『芥川君の死因についてはあんまり暑いので腹を立てて死んだのだろうと私は考えた(「河童忌」にそうあります)。』、どうも芥川龍之介は、立腹癖があったとかで、あまりにも暑い夏に辟易したのでしょうか、その暑さに腹を立てて、自死してしまったのだと、独自の見解をしています。

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 生い立ちの時期に、家庭に辛い経験があったこともあって、芥川は繊細な性格だったそうです。頭は鋭く切れた人だったのですが、自信がなかったようです。しかも、厭世的なものの考え方をする人だと言われています。育った家庭に問題があって、心や過去に傷のない人などいないと思われますが、そう言った心の戦いの中で、彼の書いた作品が世に出て、共感を呼んだのでしょう。

 鉄道マニアの先駆者の内田百閒は、友の死に際して、青酸カリ自殺や睡眠薬自殺とされていた死を、〈立腹〉のせいにしたのでしょうか。しかも、高温な夏の友の死だったので、そう言って退けたにちがいありません。ちなみに、その日の気温は、今日本列島を包み込んでいる356℃だったようです。

 ある統計に、〈日本人は自殺しやすい気温〉に触れていました。その温度は、〈25〜26℃〉なのだそうです。気温を地図上で、高温地帯を赤で表記するものを見ていましたら、日本中が、真っ赤になっています。真夏日、危険な夏日に見舞われている日本列島であります。

 今日日、高温の日の連続で、『溶けてしまいそう!』と、家内が言うほどに、〈災害級の暑さ〉が続いているのです。それで、ゆめゆめ腹を立てずに、さっぱりしたものでも飲んだり、食べたりしながら、もう3週間ほどのピークを、『よく生きてるよ!』と、自分を褒めて、凌いでまいりましょう。

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