ちらし寿司でもてなしを

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 《得意料理》が、私にはあります。母の作ってくれた「ちらし寿司(母のふるさとでは〈ばら寿司〉と言っていたようです)」を思い出しながら、見様見真似で、酢飯の好きな家内のために作り始めたのです。『何食べたい?』の答えが、いつも、これなのです。

 二人のご婦人が訪ねてくれて、夜9時過ぎに、成田空港から浅草、そこから東武日光線の特急電車で駅に着き、迎えに出て、家にお連れしました。このお二人に、この〈ばら寿司〉を用意したのです。酢豚だってできるのですが、《にっぽん料理》のつもりでした。

 初めて来られたのは、今春、55歳で定年退職された姉妹が、19年ぶりに、今度はお見舞いで来られたのです。コロナ禍で足止めされていたのが、やっと来れたのです。在華中、ずっと説教の通訳をしてくださり、あちらこちらの教会に招かれて、いつも3人での移動でした。訪問や教会のレクレーションにも、この姉妹がお連れくださったのです。

 中国地方にある国立大学に留学されて、博士号を取得されて、帰国され、省立の大学の法学部で教鞭をとってこられたのです。民法の選考で、省や市の法整備にも当たってこられた方です。警察学校に教師として招かれておいでですが、教会の用に当たりたいと言っていました。取り締まり対象の家の教会のメンバーなのに、招かれていると言って苦笑いをされていました。

 私たちが、その街に移った時に、間も無く訪ねて来られて、家内と3人で食事をしました。日本人の年配者が来ているのを知って、『必要があったら助けたいので、なんでも言ってください!』と言ってくださってから、13年ほどご一緒でした。

 もうお一人の姉妹は、長女と同じ歳で、二人の大学生のお母さまです。家内が二度入院した時に、まるで娘のようにしてお世話くださったのです。彼女の家で、毎週水曜日に聖書研究会があって、そこでもお話をしていました。季節季節の果物やお菓子を用意してきださって、30人ほどの交わりだったのです。

 お父さまとお母さまの始められた「鮑」の生産と販売、輸出までされていらっしゃって、ご主人を立てて、敏腕にお仕事をされているのです。故郷にもお連れいただいたのですが、村の90%がクリスチャンで、彼女は《五代目の信仰者》です。女性が元気な中国で、実に穏やか方なのです。

 わが家の近くの魚屋さんで、北海道産の生鮭の切り身を買って、野菜サラダに、いつもは〈しらす干し〉で済ますのですが、このお二人には、VIP待遇で、バラ寿司に《国産ウナギ》を奮発して添えたのです。いつもご馳走になり、生活の支えもしてくださった姉妹たちへの、せめての歓迎と感謝を表せたでしょうか。

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 お祈りの要請があって、いつも一緒に祈ったのです。親戚の方が、船で漁をされていたのですが、出漁後に行方不明になってしまい、『祈ってください!』と言われたことがありました。近くの島陰で沈没されて、お父さまと息子さんが亡くなられたのです。それで、ご主人と息子さんを亡くされた夫人とお嫁さん、二人の小さなお子さんを励ましたいと、誘われて訪ねたのです。

 今回の訪問で、親戚のおばさんはお元気になって、お嫁さんは再婚され、お子さんたちも大きくなっておいでとのことです。もう一人の息子さんは、この姉妹の会社で働いているとお聞きしたのです。中国の家族と親族に繋がり、関係は、とても深く強いのです。貧しい時代は、親族や近隣が、経済的にも精神的にも支え合って行きてきたからでしょうか、今は豊かになっていますが、いまだにその絆は強固なのです。

 わが家から2、3分の所に、「9R hostel」があって、そこに1週間泊まっていただいたのです。もう少しホテルらしい宿所をご用意したかったのですが、近いので、とても行き来が便利で、前の月に来てくださった、もう一人の姉妹も、同じ hostel に泊まっていただいていた所です。

 私たちを、友人や兄弟や子どもたちが、物心両面で支えてくれて、出かけて過ごしたのですが、学校での教師の勤めを紹介てくださって、ずっと週2日教壇に立って教える機会が与えられて、大学からもその給料をいただいたのです。初期に、私たちがいただいた献金は、団体所属の費用が、けっこう経済的に高額でしたので、残額が少なく、大変な時期があったのですが、その収入は大きな助けとなっていたのです。
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 学校を退職した後、この教会から、牧師給をいただいたのです。『十分に支えられていますので、大丈夫ですから!』と言いましたが、主から、愛兄姉からですから受け取って欲しいのです!』と言って、断り切れず、ずっといただいてきたのです。帰国してからも、見舞ってくださる方たちが届けてくださり、今回も、考えられないほどの分を、『みなさんから預かってきましたから!』と、渡されました。

 もう涙が出るほどの愛をいただき続けているのです。在華中、体調が思わしくないと、兄弟姉妹のいる省立や市立の大きな医院に、なん度もお連れくださり、治療費も払っていただいたりでした。この街の大き河の河岸に、何百メートルもの石板が組み込まれて、この街に歴史が刻まれているのです。そこには、日本軍の侵攻、爆撃、その死者数までもが、刻み込まれています。初期に、この街でお会いしたご婦人は、日本軍の放った火で、少女時代に、腕に大きな火傷を追われていました。無理にお願いして見せていただいたのです。

 そんなことをした日本から、被害に遭われた人の住む街、また井戸に毒を投げ込まれて死者を出した街で、救われた基督教徒のみなさんから、そんな愛を受けてきているのです。まだ書きたいことがありますが、内分にした方がよいことなので、口頭でお話しできる時にお分かちしたいと思っております。

 美味しい「面mian/麺」が、この街にあるのです。最初に食べた時は、「三元(3050日本円)」でした。野菜と海鮮と肉の入った細麺なのです。南の方に行った街の名物ですが、その街には、そこからの多くの出身者がいて、面店があるのです。師範大の旧キャンパスの店は抜群に美味しかったのです。それよりも、その姉妹が作ってくださった麺は、その何倍も美味しかったのです。素敵な13年を思い起こす、再会を喜ぶことができました。家内は、いっぺんに元気になってしまったのです。好い体験をさせていただいて、こんな素敵な今を過ごしています。

( 中華麺、 鮭、エルサレムに教会が誕生した様子です)

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胸キュンの思い出と

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 散歩コースの一つが、巴波川散策で、この河岸に、市の終末処理場があって、田んぼが広がっています。土手伝いに歩くのですが、斜面に、このヒルガオが咲いていました。畦の流れの上を、シオカラトンボが飛んでいたのです。華南の街でも、ヒョイヒョイと飛んでいました。蜻蛉三題です。

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もう飛ぶか 秋の知らせの 赤とんぼ

トンボ釣り 追いかけ走り 弟と

シオカラも 連なり飛んで 水面かな

 

   こんな異常な暑さでは、まだ赤とんぼは飛ばないのでしょうか。NHKのラジオで放送されていて、大変人気のあった、「にっぽんのメロディー」の opening に流れていたのが、「赤とんぼ」でした。

1 夕焼小焼の赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か

2 山の畑の桑の実を
  小かごに摘んだは まぼろしか

3 十五でねえやは嫁にゆき
  お里のたよりも 絶えはてた

4 夕焼小焼の赤とんぼ
  とまっているよ 竿のさき

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 子育ての真っ最中、早く床について、携帯ラジオで聞いた番組ででした。その「赤とんぼ」のメロディーに載せて、『歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。皆さんこんばんは、にっぽんのメロディー、中西龍でございます!』というアナウンスがあったのです。

 これほど秋を感じさせてくれる歌はなさそうです。人恋しくなって、父や母を思い出させ、兄たちや弟と一緒に過ごした日々が、懐かしくて仕方がなくなってきます。ちゃぶ台に代わる、掘り炬燵を一年中囲んで、どんな話題だったのかは記憶にないのですが、大賑わいで食事をしたことが、胸がキュンとして思い出されます。

 子育て中の私は、責任の重さ、食べさせること、着せることなどに気を遣って、大忙しでしたが、今は、家内と二人で、実に静かな時を送っております。

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暑気払い

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 今朝のベランダの朝顔です。こんなに暑いのに、朝ごとに、咲いている花を見ると、暑気払いになるのでしょう。昨夜は雨があってたようで、涼しい朝を迎えています。来客される方は、この朝顔を羨ましそうに眺めておいでです。今日もガンバレそうです。
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真夏の華

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 『仕掛け花火のような・・・』と形容される人の一生ですが、尺玉のような大輪なのか、パチパチと光る線香花火なのか、この仕掛けの大掛かりな花火なのか、自分の一生は、どれに当てはまるのだろうか、と考える季節になりました。

 大曲、長岡、隅田川などの地は、打ち上げ花火が盛んで、コロナ禍で開催を見合わせてきたからでしょうか、今年は、満を持して打ち上げと、花火の開く炸裂音がこだましているようです。風物詩としての「花火」は、どなたにもきっと懐かしい記憶がおありなのでしょう。

 東武日光・鬼怒川線の新栃木駅前のお店に、遊戯用の花火が並んでいて、通りすがりに覗き見をしてみました。商業用では、花火玉の価格は1尺玉で5万~10万円、3尺玉で約150万円、4尺玉は約250万円(2023年現在)なのだそうで、〈一発250万円〉には驚かされてしまいました。

 2010年8月に、下の息子の招待で、京王線桜ヶ丘駅に近い、多摩川の河川敷で、花火大会がありました。事前に席を予約してくれて、一年ぶりに帰国した私たち両親を招待してくれたのです。家内は、どうしても都合が取れなくて、私だけで出かけたのです。遠くから眺めるよりも、打ち上げ音がして、真上で花開く花火は圧巻でした。 

 『来年はお母さんも一緖に観たいな!』と息子に言いましたが、一卓四席で3万2000円だと値段を聞いて、驚いてしまったのです。その席に、フライドチキンを注文して、テーブルで食べた味が忘れられません。それは、大きな親への愛で楽しませようとしたのです。その心意気に触れて、親冥利に尽きる感じがして、本当に嬉しかったのでです。

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 大掛かりではなかったのですが、父が、花火を買ってきてくれて、庭で一緒に火をつけて、花火遊びをしたことが、子どもの頃にありました。かがんだ父が、線香花火を持って、パチパチと火花を飛ばすのを見入ってる父の表情が、なんとなく朧げで、普段の父と違ったものがあったのが、思い出されて参ります。

 どんな花火でも、音の後に火花を煌めかせ、音も火花も消えて煙を残すだけで、その煙も薄れて消えてしまいます。あの火薬の匂いが、鼻腔に残っているだけのひと時ですが、その儚(はかな)さが、かえって、日本人にはいいのでしょうか。残影が残るだけですが、数秒の花の火の舞いは、子ども心を楽しませてくれるには十分だったのです。

 今度花火屋さんの前を通ったら、それを買って帰ろうかなと思っています。この季節がもたらす郷愁に、きっとひたりたいのかも知れません。上海の「外灘waitan のそばにあった「CAPTAIN 船長」と言うホテルに泊まったことがありましたが、そこの近くに、大阪や神戸とを結ぶ航路の波止場があって、何度も乗り降りをしたことがありました。

 その外灘で、吉良常が花火師になっって、腕を失うくだりが、尾崎士郎の著した「人生劇場」にありました。かつて上海にあった日本租界の住人たちが、この時期に、景気付けで、花火を上げていたのでしょう。その港を出た船が、東シナ海を渡ると、やがて五島列島の島陰が見えてくるのです。上海に向かう航路でも、大阪に帰る航路でも、なんとも言えない心の動きが、その辺りにはあったのです。父の青年期に、きっと、同じ航路で、下関あたりから船旅をしたのだろうと思うと、一入(ひとしお)思いが懐かしさを呼び戻すのです。

( 越後長岡花火大会の花火、先行です)

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あらゆる悪の根

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 添田唖蝉坊と言う、演歌師がいました。明治、大正期に、近代化していく日本の世の中の矛盾や汚点を取り上げて、歌によって社会風刺をしいた方で、非暴力、権力に阿(おもね)ることのないこの方の歌は、痛快だったようです。「演歌」の原点とも言えるそうで、『演説の歌である!』と言っています。そんな多くの歌の中に、「金金金節」がありました。

金だ金々 金々金だ 金だ金々 この世は金だ
金だ金だよ 誰が何と言おと 金だ金だよ 黄金万能

金だ力だ 力だ金だ 金だ金々 その金欲しや
欲しや欲しやの 顔色目色 見やれ血眼 くまたか眼色

一も二も金 三・四も金だ 金だ金々 金々金だ
金だ明けても 暮れても金だ 夜の夜中の 夢にも金だ

泣くも笑うも 金だよ金だ バカが賢く 見えるも金だ
酒も金なら 女も金だ 神も仏も 坊主も金だ(以下省略)

 『金がなくては何もできない!』と言うことで、〈お金第一〉の風潮というのは、明治や大正の世にあったことだけではなく、令和の今でも同じです。あらゆることがお金とつながっているからです。太陽光発電も海洋エネルギー発電など、新しいエネルギー源の開発は、政府からの援助で潤う、絶好の機会なので、金儲けの機会になっているのでしょう。

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 金が亡者なのではなく、〈天下の回りもの〉なのに、個人や団体が占有するので、流通しないで、カビが生え、腐敗して異臭を放ってしまうのです。亡くなった後の、残されたものの中に、貯められたお金が残されていたと言う事例が多くあります。流通しないで貯め隠されてもお金はただの紙切れなのにです。

 お金ではなく、《愛》の動機で、ことがなされるなら、個人も国も潤い、素晴らしい社会ができるのです。大陸や東南アジアへの侵略だって、〈カネ〉のためだったのです。その求めの帰結は、滅びや衰退でした。そう歴史が証明しています。聖書は言います。

 『金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 1テモテ610節)』

 一昨日の七時のNHKニュースで、洋上風力発電の資金提供の問題が取り上げられています。お金に群がった男や組織の末路は、苦いものです。〈黄金万能〉だと信じるか、《博愛万能》、《愛神万能》と確信して生きるかによって、人の一生は変わってしまいます。夢幻の黄金の夢から醒めて、天国を目指して進んでいきたいものです。

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人は神になれるのでしょうか?

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 権威の座に上りつめて天下人となった者も、その後継者も、この人の同調者も、この偉業を遂げた人物を、〈神の座〉に就かせたい願いが強固にあるのでしょうか。

 昨日の市民大学教養講座は、徳川家康を取り上げて、国学院大学栃木短期大学の坂本達彦教授の講義がありました。「徳川家康の半生と下野国」と題してでした。この栃木との関わりを中心に、「神としての家康」についてお話があったのです。東照大権現、不動明王、神として家康の亡骸(なきがら)は、その子・二代将軍秀忠が造営した日光東照宮に納められてあるのです。

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 まず、スクリーンに、その家康を描いた絵が映し出されたのです。『徳川家康三方ヶ原戦役画像』と言われているものです。およそ江戸期以前、人物を描く時、ほとんどの画が、斜めに顔を向けた姿が描かれています。ところがこの絵は、真正面から描かれてあるのです。講師は、家康の座る椅子に聞き手を注目させて、この椅子は、戦場では座ることのない物であることを言いましたから、画が戦場の家康であるのは誤りあるとしています。表情も、足組も独特です。少なくとも、〈神とされた家康〉が、ここに描かれているのです。

 大権現、東照宮という名で、礼拝を目的に、神格化された、神とされた家康を描いたのだと解説しておられました。家康がなくなった時には、家康の子の秀忠は、亡骸を久能に埋葬し、後に日光に改葬し、日光東照宮に神格化された家康を祀ったのです。その資材は、江戸から利根川、渡瀬川、巴波川を経て運ばれています。

 織田信長(15341582年)、この人の死後に豊臣秀吉(15371598年)、この人の死後に徳川家康(15431616年)が、群雄割拠の戦国の世を平定して、征夷大将軍となり、260年の徳川幕府を開幕しました。

 死して神となって祀られている家康が、関東平野全域を、今も霊的に支配しているから、そのために祈らなければならないという人たちがおいでです。日本一の高い富士山に登って、そこから霊的な支配を打ち破り、日本を支配するキリストなるイエスの名を宣言する人たちもいました。

 全天全地は、神の支配の元にあります。イエスさまは王の王、主の主、栄光の王、万軍の王でいらっしゃいます。高い山に登らなくても、普段の場所で賛美し、御名をほめたたえ、感謝することでよいのではないでしょうか。私は、毎日、神の御名をあがめ、神の国の到来、世の初めからよいことをなされる神のみ旨の今日の分がなされるように、信じて祈っています。またエルサレムの「平安」、遣わされた自分の住む街の「平安」、これまで遣わされた街々、子どもたち四人の住む街の「平安」を、静かに祈るのです。

 霊的な格闘というようなことは致しません。あえて言うなら、イエスさまの勝利を告白し、賛美し、感謝しているでしょうか。家族や親族や友人や主にある兄弟姉妹、近隣のみなさんの祝福を願って祈ってもいます。思いの中に示されたことも祈るようにしています。もちろん自分の生まれて住む国のために、そして世界のためにも祈ります。

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 家康は、数度、この下野国を訪ねていますが、亡くなった後、棺に収められて、葬送の道を、久能山から上野国の館林、佐野、後に「例幣使街道」と呼ばれる道を通って、日光の地に葬られているのでしょう。そこで今も神として支配しているとは信じていません。すでに死した物故者であって、人や社会や国家に影響力を及ぼすことはできないのです。やがて、父なる神の御前に出るのです。

 昨日は、低冷房の市民会館で、汗を流しながらの聴講でした。テレビで、家康が取り上げられているそうですが、テレビを置かないわが家は、史実通りに描かれているのかが気になります。裏切り、謀反、寝返りのあった世を、家康が天下人に上り詰めたのには、驚きを隠し得ません。隣の小山市では、「評定(ひょうじょう)」があって、会津攻めをやめ、関ヶ原の戦いに、家康が向かっています。歴史のなかの人間模様が興味深くてなりません。

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人の顔

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『だれが知恵ある者にふさわしいだろう。だれが事物の意義を知りえよう。人の知恵は、その人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる。 (伝道者8章1節)』

 私たちの国では、いいにつけ悪いにつけ、「男の顔は履歴書」と言われるそうです。また、若い頃に、教えられたのが、アメリカ合衆国の第十六代大統領のリンカーンが語った、『40 歳になったら、人は自分の顔に責任を持たねばならない!』と言ったことばです。

 どうも〈年相応の顔〉があるのだそうで、歳を重ねたら、それなりの人間の《実り》が顔の表情に現れ、責任感や成熟さなどの重みのある顔であるべきなのかも知れません。ある時、リンカーンが会った男の人の顔が、なんとも良くなかったのだそうです。それで、はっきりとものを言うリンカーンが、そう語ったわけです。社会に対して、次の世代の若者たちに、どう生きてきたかの投影のような顔の表情に、やはり責任があるのでしょう。

 《いい男》とは、造作や容貌が彫刻の彫り物にように整った顔だと言うのではないのです。責任を持って生きてきて、それなりの経験や実績、自信や落ち着いた実りが、顔の表情の中に見られるのでしょう。少なくとも女性のように化粧をしない男性は、生き様、生きてきたように、顔が作り上げられてくるのかも知れません。

 ですから、男の履歴、遍歴によって、《イイ顔》だったり、〈ワルイ顔〉だったりするのです。朝、起き掛けに、ヒゲを剃って、顔を洗って、歯を磨いているのですが、必ず、顔色、目つきを鏡の中で、私はチェックしています。ハタチを過ぎた頃に、友だちに、『どうしてもお前と観たいから一緒に!』と誘われて、新宿の映画館で、映画を観たことがありました。

 それが、ここに貼り付けた写真の高倉健の演じた映画でした。主演の「昭和残俠伝 唐獅子牡丹」で、35歳で演じた時の写真(上から2番目です)なのです。それ以降、この人は、10年ほど、ヤクザを演じたのです。日本人の多くの男性が、『こんな顔の男になりたい!』、『悪しきを切って成敗し、義理に生きるような、こんな男になりたい!』と、当時の閉塞的な社会の中で、爆発的な勢いと決意の溢れる姿に憧れ、そんな風になってみたい対象、願望のモデルが、この俳優の演じた時の顔や姿だったのです。普通の社会人では、超えられない一線を超えた男の在り方への憧憬だったに違いありません。

 デビュー当時の顔、博徒役の初期の頃の顔はともかく、四十代で浅草ヤクザを演じていた頃には、俳優なのか、本物ヤクザなのかが見分けがつかず、かえって、この演者の口調ややさぐれた生き方や目の鋭さの方が、本物のように見え、本職に一目も二目も置かれるほど、鬼気迫っていました。もちろん演じた(正確には演じさせられたのですが)時の顔です。確かに顔が悪くなっていったのです。演技でしてる顔ではなく、彼が悩んでいて、『これでイイのか!』の不安な葛藤もあって、あんなドスの効いた顔に、じょじょになっていっていたのではないでしょうか。

 そんな自分を、隠すように、大衆の目から隠れるようにして、私生活を送ったのかも知れません。斜陽な映画業界が、生き残りを賭けて打って出たのが、その博徒映画でした。一時期はブーム、旋風を吹き荒らしたのです。その動きに、ハタチの私も友人も載せられましたが、それを架空の世界の中に収めて、ただの観劇者で終わりました。一緒に観た彼は、戦死したお父さんの縁故で就職をし、自分も恩師の推薦で仕事を得たのです。

 2013113日に、秋の褒賞でしょうか、文化勲章を、高倉健が受賞しています(一番下の写真です)。その翌年の1110日に、83歳で亡くなっています。皺や表情に、その翳りが残っているように思われます。博徒や受刑者などを、おもに演じた役者でしたが、晩年は、穏やかな目になっていました。しかし、映画で役者として、outlaw の世界の男を演じ続けて、この人の顔が出来上がったに違いありません。

 まさに演じた演技が、人の顔の表情を作ったに違いないなと思わされて仕方がありません。まだ二十代前半に、大学を出て、俳優としてデビューして間もない頃の写真(一番上にある写真です)のまま、『堅気のサラリーマンや父親を演じていたら、あんな顔にはならなかったのではないのでは!』と思ってしまうのです。

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 反社会の人を演じたこの人の〈心の葛藤〉を思う時に、演技が人の顔を作ってしまったのは、残念で仕方がありません。聖書の中に、

『これは、預言者(ゼカリア)を通して言われた事が成就するために起こったのである。 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ2149節)』

とあります。《柔和さ》に溢れたイエスさまを記しています。人を威嚇したり、激しい口調で話さず、慈愛のこもった眼差しで見つめられた、救い主でした。ただ偽善や罪に満ちた者たちには、激しい叱責や怒りを示されたのです。なぜかと言いますと、《義》に生き、《義》を行ったから、罪を憎まれたのです。この救い主を信じる私も、《柔和さ》に溢れた者でありたいと願いながら、今でも生きております。

 役者を演じて、自分の人生を生き通して、この方が、国から表彰されたのは、素晴らしいことだったと思います。一事に励んで、主人公に成り切ろうと、懸命に演じ続けて、自分の生を全うしたことは事実です。その顔が、さまざまな経験の上に出来上がり、変えられ、その一生は、彼独自のものなのです。それぞれ、だれの顔も、〈表看板〉であって、きっと生き様が刻み込まれていて、拭えないのでしょうか。休みなく演じ続けた10年の年月は、重いものなのでしょう。

 顔が、〈心の鏡〉であると言われるのは、生き様や、生きる上での価値観や人生観が、顔に歴然として現れてしまうからなのでしょう。何を見ながら生きたか、何を思いながら過ごしたかと、今とは深く繋がっているのだろうと思われます。これは観相学の世界のことではありません。リンカーンが言った言葉も、その人の顔に、無責任な、変えようとしないで生きてきた生き様が、映し出されていたのを見て、『四十男の責任を持て!』と言ったのでしょう。

 高倉健の顔は、男にモデルのような顔だと思わせた顔でした。二十歳の私も、映画俳優のような顔になりたいと思ったのです。心や価値観などを真似るのではなく、架空の世界に生きる役者の演じた顔を求めたのです。もう、今やそんな願いはありません。二十代の半ばで、生きておられるイエスさまにお会いして、願望も変わって、今を迎えています。付け焼き刃ではなく、本物の柔和さを表わしたい願いなのです。

 ピカートと言う人が、『顔はなによりも、先ず神によって眺められるために存在してるのだからである。一人の人間の顔を眺めること、・・・それはあたかも、神の行いを吟味しようとするもののようなのだ。(略)人間の顔が愛によって取り囲まれていない場合、顔は硬化してしまう。(みすず書房刊「人間とその顔」p.6)』と言っています。そう、硬化してしまうことないように生きる必要が、私たちにはあるのでしょう。

( “ Christian clip art “ の「子ロバに乗られイエスさま」です)

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話すということの謙遜さ

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 ラジオに育てられた自分なので、最近のラジオ放送を聞いていて思うことがあります。朝七時、夕方六時のニュースを、NHKのラジオ放送で、ほとんど毎日聞くのですが、アナウンサー、今はキャスターというそうで、エグティブとかシニアの付く方たちでも、言い淀んだり、噛んだり、言い間違ったりする語りが目立つのです。

 父の仕事場に、街のNHKの放送局から、ラジオ放送取材に来たアナウンサーがいたそうです。東京に越してから、上の兄が、テレビに出ると言うので、父がテレビを買って観るようになった頃でした。テレビに映し出されるアナウンサーを見た時、父が、『彼の取材を受けたことがあったよ!』と、誰かも、名前で教えてくれました。ほとんど完璧という語りを繰り返しておいででした。

 放送のミスが、批判対象ではなく、楽しく語り継がれたそうで、その人柄が、ニュースアナウンスに出ていたのでしょう。大きな日本放送協会と言う組織の中にあって、『争い事が大嫌いで、権力や地位に、何の興味も無かった父でした!』と、お嬢さんが語ったそうです。民放に横滑りする人の多い中、古き良き時代の代表のようで、頑固だったのでしょう。

 自分の同窓の先輩で、人気のあったアナウンサーがいました。この方は、〈当マイクロホン〉と、一人称で自分を語る、破格の話し手でした。若い日の鹿児島放送局勤務時に、この季節の高校野球選手権の県大会で、鴻池球場で実況中継を担当していました。『お母さん、あなたの息子さんがバッターボックスに入っています!』、と個人的なことに触れたことで有名でした。

 また、〈立て板に水〉の様な、お笑い芸人の話しっぷりには疲れますが、落語家の噺には、この「間」があるのです。その一瞬が、次への期待を膨らませて、次の言葉に聞き耳を立てて、集中させてくれるのです。この方の「間(ま)」の撮り方が独特でした。どうも、この方の先輩のアナウンサーに似た話し方だったでしょうか。説教の時に、「間」を話の中に置くことの大切さを感じた私は、よく真似をしました。

 聞く人を疲れさせないで、次の話に、瞬間、期待をもってもらうために、私が学んで、真似たただ一つの説教術でした。私の恩師は、説教の方法もでしたが、態度を教えてくれたのを思い出します。昔、山室軍平と言う救世軍の大将がいました。牧師さんです。江戸時代に行われていた講話の話を、福音宣教に応用し、聴衆者、教会に来られる信者さんや、初来者に語ると、多くの人が、福音説教に応答して、信仰者とされたと聞いています。

 話せばいいのではなく、どう言う風に話すか、どんな態度で話すか、が大切だったのです。人気取りのためではなく、当然で、先輩たちが、実に厳しく指導した時代があって、その叱責や叩かれるようなこともあったようです。それが、アナウンサーでも、噺家でも、牧師さんでも、「プロ Professional 」の自覚を持った話し手が育ったのだそうです。

 今朝も、メインキャスターが、聞いていた間で、二度 ミスしていました。いつでしたか、NHKのアナウンサーが講師の「朗読奉仕」の講習会があって、家内が参加していた時期があったのです。裏話から、極意まで、間違えても心の平静を保つ方法などを学んで、実に有益だったと言っていたことがありました。四十年以上も前のことです。

 人は、だれもが話すのですが、日曜日の講壇で話した後、夕べになって家内に点検をしてもらった時期がありました。それは、自己満足させないで、改善させてくれたのは感謝だったのです。ある教会で説教をした後に、一人の方が、『私が以前いた教団の牧師さんたちの話し方、話の構成などが似ておいでです!』と言ってくれました。同じ福音を語る者として、宣教師さんから学んだのですが、日本の歴(れっき)とした説経者に似ていると言われて、若い私は、劣等感から出られたのです。

 けっこう厳しい基準で、人の話を聞く習性があって、とても印象的だったことがありました。改革派の牧師さんで、穏退後、開拓伝道をされた伝道所でなさった、岡田稔牧師の説教を聞いた説経だっでしょうか。決して届きえない素晴らしい説教だったのです。上手な人は多くおられますが、まさに《実》のある話ぶりに圧倒された若い日でした。

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 『主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。 (箴言1533節)』

 『謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。 (同224節)」

 牧師にしろ、アナウンサーにしろ、噺家にしろ、「話」は、一朝一夕には成らないものだというのが分かるのです。賞賛される跳ぶような勢いの若い人には、《謙遜》が必要で、燻銀のような老成した器からは、《謙遜を学ばれた跡》が見られるのです。今、友人の説教を毎週聞かせてもらっています。大好きです。

[付録]  名物アナウンスを活字でお伝えします。ベルリンオリンピック(1936年)で、二百米平泳ぎで、前畑勝利を実況した、河西三省アナです。

 『🏅 前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ! ゲネルゲン(※引用ママ)も出てきました。ゲネルゲンも出ております。がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! 前畑、前畑リード! 、前畑リード! 前畑リードしております。前畑リード、前畑がんばれ! 前畑がんばれ! リード、リード、あと5メーター、あと5メーター、あと4メーター、3メーター、2メーター。あッ、前畑リード、勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑の優勝です、前畑の優勝です。』   YouTubeで聞くことができます!

( 「旧式のマイクロフォン」、「謙遜な人モーセ」です)

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