なぜ

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 昭和32年(1957年)5月30日、銀座の山葉ホールで「講演会」が開かれました。〈東京~大阪3時間の可能性〉という主題で、「鉄道技術研究所(旧国鉄の研究所で、現在の鉄道技術総合研究所です)」の主催でした。鉄研の篠原武司所長の挨拶についで、「車両について」客貨車研究室長・三木忠直が、 「線路について」軌道研究室長・星野陽一が、「乗り心地と安全について」車両運動研究室長・松平精が、そして「信号保安について」信号研究室長 ・川辺一が、おりからの雨を押して集った500名もの聴取者に向かって、「東海道新幹線」の可能性を訴えたのです。この終戦後、最大の鉄道運輸事業の構想は、大きな反響を呼びました。

 おりから、鉄研創立50周年を迎えていましたから、その年の1月8日に所長に就任した篠原は、これまで地道になされてきた基礎研究の適用や、研究員の志気を高めるために、何かできないかを考えていたのです。戦争が終わって、働き場を失った旧陸海軍の技術者たちを、この研究所は受け入れていました。この新幹線事業の中心的な役割を担ったのが、三木忠直でした。彼は、インタヴューに応えて、『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ!』と答えています。戦時中、自分が設計した爆撃機や特攻機で、多くの若者を死なせたことの罪責に苦しんでいた三木は、今度は技術の平和利用を切望していたのです。この事業計画は、国会の承認を受け、昭和34年4月20日に着工されます。

 この講演会が開かれた年の4月に、私は国分寺を下車駅とした中学校に入学したのです。中央線の国立と国分寺とを結ぶ線路の右奥に、この研究所がありました。構想が公にされ、研究や試作や実験がなされていた研究所の脇を、中高と6年間通学したのです。鉄道マニアではなかったので、そんなプロジェクトが静かに着々と、しかも熱烈に行われているのに、全く気づかずにおりました。新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月1日、そのころ新幹線の帝国ホテルのビュッフェへ、食材の搬入のアルバイトを、東京駅でしていたのです。

 その開業から、今年で47年が経ちますが、この間、乗客の死亡事故が皆無であることは驚嘆のいたりであります。『なぜ?』なのでしょうか。その理念は、『安全神話など存在せず、唯一の神話は、決しておろそかにしない細やかな事前の制御と、いかにリスクを最小限に抑えるかにかかっている!』という、〈安全運転〉への飽くことのない研究、実験、検査、適用、反省、改善の努力の積み重ねを、今日の今日に至るまで積み重ねていることにあるのではないでしょうか。それは、事業の成功よりも、乗客一人のいのちの尊重が基本にあるからです。地震、台風、豪雨に見舞われる日本の気象や地形の条件のもと、決して無理な運行をしないことにも、人身事故の回避に繋がっていると思えます。

 私の父も、戦時中には、飛行機製造の軍需工場の責任者として、戦争に加担した過去がありますが、戦後は、旧国鉄の車両の部品を製造し納品する会社の経営に関わっていましたので、父もまた技術の平和利用に戦後を生きていたことが分かるのです。私は、こちらの大学の授業で、NHKが放映しました番組、「プロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線~老雄90歳・飛行機が姿を変えた~」のDVDを教材に、授業で使ったことがあります。戦争の被害を受けた過去のある国で生まれ育った学生のみなさんに、日本の「新幹線」が、戦闘機が姿を変えた鉄道車両であって、平和を祈念した技術者たちの血の出るような研鑽と努力の結果、生み出されたものであることを、知っていただきたかったからであります。

 結果には、必ず原因があります。死亡事故のない陰で、地道に頑固に不断に行われてきた事々の積み重ねがあってこそ、好結果が生まれ、《世界で最も安全な乗り物》との評価を受けているのであります。私たちの人生も同じに違いありません。地道な一歩一歩の歩みが、たとえ平々凡々たる生き方の中であっても、確かさや確信をもたらすのであります。『生きてきてよかった!』、そう思う生涯を送りたいものです。

(写真は、最新型のJRの「新幹線」の車両です)

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 「国民栄誉賞」があります。厳格な授与規定があるのではなく、『時の首相の人気取りで、決められるのだそうだ!』という話も、あながち間違っていないのではないでしょうか。今回も、女子サッカーチームが、ワールドカップで優勝したことを愛でて、その賞を授与するのだそうです。その受賞事由は次の通りです。

 『FIFA女子ワールドカップにおいて初優勝し、最後まで諦めないひたむきな姿勢によって国民に爽やかな感動と、東日本大震災など大変困難な中で日本国民がいる中で、困難に立ち向かう勇気を与えた。』

 1983年に、プロ野球・阪急ブレーブス(現オリックス・バッファローズ)の福本豊選手が、世界記録となる盗塁・939を達成したときに、中曽根康弘首相が、この賞の授与を打診しました。『そんなモノもろたら立ちションもでけへんようになる!』と言って断ったことがあります。また、2001年に、シアトル・マリナーズのイチロー選手にも、授与の打診がありました。『国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい !』と、彼もまた辞退をし、2004年、最多安打記録を樹立した時も、同じく断りました。

 貰ってしまった賞の大きさや重さに、受賞者が圧倒されてしまい、これからの歩みがなんとなく心配になるのですが、みなさんは如何お思いでしょうか。最近読んでいます本に、福沢諭吉についての記事がありました。明治維新政府ができた頃に、諭吉の功労に対して、何かの褒賞を贈りたいとの話が起こり、それが諭吉に伝えられたのです。それに対して、彼は、

 『車屋は車を引き、豆腐屋は豆腐をこしらえ、書生は書を読む。人間当然の仕事をしているのだ。政府が褒めるというのなら、まず隣の豆腐屋から褒めてもらわなければならぬ!』
 
と言って、お断りをしたのだそうです。この辞退の理屈は、何と諭吉らしいのではないでしょうか。東北大震災、原発事故で、国全体が昏迷と不安の只中に投げ込まれている現状で、彼女たちが国民に勇気を与えたことは確かですし、喜ぶことができたことは確かです。この優勝を喜んだ私はブログまで書いてしまいました。嬉しかったからです。それでいいのではないでしょうか。もし国民栄誉賞を授与するのなら、中国人研修生20名を、家族の救出よりも優先し、示された「自己犠牲愛」に爆発的な感謝と感動を中国の国民から受けられた、佐藤充さん(佐藤水産専務)も、その候補としてあげられるべきではないでしょうか。また、福島原発の危険を冒して作業をしてきておられる自衛官、消防士、社員、ボランティアの方々、さらには、被災地で死臭の立ち込める中で作業され続けたみなさんを考慮しないとしたら、何か手落ちがあるのではないかと思うのです。

 こう言った選考をする、現政権、現首相の思惑を考えますと、深沢諭吉だったら、何と言うでしょうか。時を読み、空気を読み、人の心を読むに、実に浅薄なのです。「人気」と「支持」を取り付けるだけが、事の決定要件である限り、正しい選考ではなかったと思えて仕方がありません。「なでしこ」さんたち、ごめんね!

(写真は、「池田豆腐店(下北沢から渋谷へ抜ける途中)」です)

勝海舟

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 最後の幕臣、江戸市民150万の命と財産とを火の海から守って、無血開城した功労者の勝海舟は、諸大名と同位の直参旗本でした。勤王派の志士たちが、テレビや映画の主人公として、現代では脚光を浴びていますので、彼らの陰で脇役を演じているのが、勝海舟だといえるでしょうか。西郷隆盛や坂本龍馬が、外様大名の藩政のもとで下級武士でしたから、比べるなら身分的には雲泥の差があったことになります。それでも英米の外国勢力が日本を干渉し始める頃には、尊皇攘夷が叫ばれ、立場が逆転して、薩摩や長州や土佐の各藩の下級武士の間から、倒幕運動が起こり、大きく日本が変わっていきました。

 この勝海舟が、座右の銘としたことばがあります。中国の明代末の賢人、崔後渠(崔銑の異名)が残したことばですが、劉瑾(りゅうきん)という役人の間違いを諌(いさ)めたのが原因で、投獄されています。その時に、この名言を言い表したのです。

   自處超然(ちょうぜん)・・・自ら処すること超然とする
     世俗的な物事に拘らないで、外側から眺めるような余裕な態度と言えるでしょうか。
   處人藹然(あいぜん)・・・人に処すること藹然(あいぜん)とする
     雲や霞がたなびいているように、穏やかで和やかに眺められるような態度のことでしょうか。
   有事斬然(ざんぜん)・・・ことが起こったときに斬然とする
     一朝、事があるときはグズグズしないで活き活きとし、目的をはっきりさせることでしょうか。
   無事澄然(ちょうぜん)・・・何もことが怒らないときには澄然としている
     事が起こらないときは水のように澄んだ気持ちでいることでしょうか。
   得意澹然(たんぜん)・・・得意なときにはあっさりし、まだ足りなく思う謙虚な気持ち
     調子のよいときは、傲慢になってしまいがちなので、気をつけなくてはいけません。
   失意泰然(たいぜん) ・・・失意のときは泰然自若としている
     望みがかなわなく面白みのないように感じる時でも、物事に動じないで落ち着いてことでしょうか。

 これは、素晴らしい処世訓ではないでしょうか。こんな生き方ができたら、人生は楽しく、意味あるものとされていくのではないでしょうか。テレビの劇中でしか会ったことがありませんが、麟太郎も、その父・勝小勝も、武士でありながらも江戸っ子気質で、飄々とした型破りの人だったようです。それでいて賢いリーダーシップをもっていたのです。徳川幕府の終焉劇のために、必要な人材でした。彼は『なすなかれ天意に違(たが)うことを!』と言い残していますが、確りと〈天意〉を認めることができ、恐れることのできた人あったことになります。大田区の洗足池の廻りを散歩していたときに、『これが勝麟太郎、勝海舟の墓ですよ!』と、友人が教えてくれました。江戸っ子にとって、勝海舟は、江戸火消しの新門辰五郎に並び称される自慢の人物だったようです。

(写真は、「勝海舟(麟太郎)」です)

一衣帯水

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 中国新幹線が、浙江省温州で事故を起こしました。多くの犠牲者がでましたことをは、大変残念なことでした。犠牲者やご遺族にみなさんの上に、お慰めをお祈りしております。

 33年前の1978年に、時の主席・鄧小平氏の指揮の下、「改革開放政策」が始まり、それまで遅れをとっていた経済やインフラや教育など、すべての面での新たなスタートが切られました。その政策の基本原則は、「先富論(先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよい)」と言う、劃期的(かっきてき)なものでした。 その勢いは、焼土とかした日本が、その壊滅状況から立ち上がって、世界有数の経済大国になった勢いに比べ、遥かに勝るものがありました。もう20年近くなりますが、私が初めて、北京・フフホト・上海・広州を旅したとき、北京でさえ、車が僅かで、信号など数カ所しかありませんでした。道路で幅を効かせていたのは歩行者と自転車でした。ホテルも高級の割には、薄暗かったでしょうか。それが、6年前、久しぶりにやってきた中国は、激変していました。それから6年した今、道路は車で溢れ返っており、高層アパートが林立し、建設中ですし、道路は高架になって、さながら都内を髣髴とさせる光景を、さらに何倍かしたような様を見せております。街は物で溢れ、外資系のスーパーマーケットもあちこちに開店営業し、大きな商業施設(モール)も、そこかしこに建設中です。

 ちょうど日本が、欧米諸国の水準に近づこう、追いつこう、追い越そうとして躍起になっていた頃の、あの高揚する雰囲気と同じものを、今、ここ福州の街にあっても感じております。日本も急ぐあまり、多くの問題を生起していましたし、その問題処理も、高度成長期の躍進の陰で、国土の保全、環境保護、人権の擁護などが求められ、それらを実現していた時代だったと思います。今の中国をみますと、1960年代の日本と同じで、後にされている問題に、大きく焦点が当てられ、関心を寄せ始めております。国際社会から指摘されている問題点を、非難としてではなく、改善点としていくべき今であります。この後手に回された問題の対処こそ、事故や失敗や不都合が改善され、国際社会の水準になっていく、ひとつの大きな動機付けに違いありません。

 ですから、『そら、見たことないじゃあないか!』と、私は非難しません。躍進途上には、やはり何かが後回しにされるのが常なのです。アメリカ然り、韓国しかり、日本然りなのです。露にされた問題を隠さないで、表に出して、一大課題として対処改善していくときに、中国は経済面での一等国となっていくに違いありません。『新幹線の大事故のダメージは実に大きい。しかし、この問題を徹底的に改善していくときに、中国の技術はフランスやドイツや日本を凌駕していくに違いない!』と、私は感じるのです。

 先日、泉州に旅行した際、「和谐号(Hexiehao=『調和された』の意、中国バージョンの新幹線)」に乗りました。50年の開業の歴史のある日本の新幹線と比べて、気づいたことが幾つかありました。横揺れの回数が多かったこと、振動があったこと、トンネルの出入りの際の風圧が大きいこと、トンネル内で耳鳴りがあること、停車時や減速時の振動の大きさなど、幾つかの違いが気になりました。これも経験と時間とによって、きっと改善されていくことと思われます。日本の新幹線の技術の多くが、『優れた戦時中の航空機製造の技術を、どうしても平和利用したい!』という切々たる思いを根底におき、始められていますから、その技術の研究の歴史は70年にも及ぶと思われます。その差は、仕方のないことだと思います。

 しかし、中国の追いつこう、追い越そうという意気込みは、実に素晴らしく凄まじいものがあります。それを脅威と感じて、日本はさらなる技術の躍進に努める必要があると思われます。韓国の「現代製」の乗用車は、日本製を真似し、改善し、今では比肩するほどの優秀な車として好評をはくしております。彼らが「改善」の努力を積み上げてきたからです。日本はアメリカを追って追い越しましたが、今や韓国や中国に追い抜かれようとしているのですから、うかうかしないで、さらなる努力を、持ち前の緻密さに磨きをかけ、技術を高めていよう邁進して欲しいものです。中国、恐るべきであります!持ち前の積極的志向で、この困難を乗り越えていって欲しいと願うのです。だって、中国と日本は、「一衣帯水」の親子のような間柄なのですから!

(写真は、泉州駅のホームに入ろうとしている厦门発の「和谐号」です)

敬慕

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 代議士の西村眞悟氏が、次のような記事を投稿されていました。その一部を引用してみましょう。『・・・そこで、店舗を各国に展開するコンビニのセブン・イレブンが各国の店舗内に設置した義援金箱に入れられた金額を公表しているので、それをご紹介したい。言うまでもなく、コンビニは子供から大人までの普通の庶民が、大金を持たずに日常の買い物をする場所である。従って、一店舗当たりの義援金額は、その国の国民の素朴な対日感情を表していると思われる。これは、我が国の友好国は何処なのかという我が国の国家戦略にも影響を与えるべき要因である。次が、各国内のセブン・イレブン店舗内の義援金箱に入れられた一店舗当りの金額である。
   第1位、インドネシア   108519円
   第2位、台湾        63892円
   第3位、シンガポール    20491円    2011.08.08 Monday name : kajikablog 』

 親日家のインドネシアのスカルの大統領が、大変好んだ日本の歌があるようです。「愛国の花(昭和13年、作詩・福田正夫、作曲・古関裕而で、渡辺はま子が歌いました)」です。彼自身もよく口ずさんだと言われています。

     1 真白き富士のけだかさを こころの強い楯として
       御国につくす女等は  輝く御代の山ざくら
       地に咲き匂う国の花

     2 老いたる若き諸共に 国難しのぐ冬の梅
       かよわい力よくあわせ 銃後に励む凛々しさは
       ゆかしく匂う国の花
                
     3 勇士の後をあとを雄々しくも 家をば子をば守りゆく
      優しい母や、また妻は  まごころ燃える 紅椿
      うれしく匂う国の花

     4 御稜威のしるし菊の花 ゆたかに香る日の本の 
       女といえど生命がけ こぞりて咲いて美しく 
      光りて匂う国の花 

 インドネシアは、16世紀頃から、特産の香辛料の権益を得ようとしていた、イギリスやポルトガル、そしてオランダなどの国が、覇権を競って植民地化を画策していましたので、そういった動きの矢面に立たされていました。しかし18世紀に入りますと、インドネシア全土がオランダ統治下におかれてしまいます。そのオランダの植民地であったインドネシアが、独立していくために、日本と日本軍の果たした役割は実に大きなものがあったのです。もちろん、日本の軍政下におかれた時期がありましたが、日本の敗戦後に、再びオランダがインドネシアを支配しようとしたときに、スカルノらによる独立運動が起こり、その運動に、残留していた日本軍が協力を惜しまなかったのです。ついに1949年12月に、独立が国際的に承認されるのです。 その残留日本人への感謝を込めて叙勲も行われております。

 白人支配下にあったアジア諸国の先駆けとなって、日本が勇敢に戦ったことを、このインドネシア国民は高く評価しているのです。とくに日本の軍政下に置かれたときの司令官が、今村均中将で、その軍政は、実に紳士的で、未だにインドネシアの学校の歴史教科書には、その軍政の模様が記されているとのことです。この今村中将の甥子が、私の大学の級友でした。彼のお父さんも軍人で、ベルリンで行われたオリンピックの「馬術」で惜しくも優勝を逸っした西中尉(ロスアンゼルス大会では優勝)の補欠として参加したほどの馬術の名手でもありました。戦後、山西省に残留し、昭和24年4月、太原攻防戦に敗れた残留部隊は、解放軍に投降しました。今村方策隊長(中国の「百度百科」でも、写真付きで来歴が紹介されていますhttp://baike.baidu.com/view/3324446.htm)は、その直後、敵将と掛け合い、部下の身の安全を確認し、青酸カリを飲んで自決したのです。戦時下で、日本軍兵士が、虐殺だけしかしなかったのではなく、インドネシアでも中国でも、現地人から尊敬を受けた兵士たちが、またいたことを覚えておきたいものです。

 父君が、武人として、部下から敬慕された上官で、中国の蒋介石軍にも解放軍にも尊敬された方だったのですが、級友も、また凛々しい男だったのを思い出します。日本の過去を否定だけするのではなく、輝いていた過去、戦時下にも、敬意を受けていた人々のいたことを知るべきかと思うのです。大震災に見舞われた日本へ、そういった過去を評価するインドネシアのみなさんの草の根の支援が、抜きん出て多額なことは、よい対日感情の表れなのであります。

(社員は、インドネシアの「一風景」です)

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 最初に手に入れた自動車は、いすず製の「ベレット」でした。私たちの事務所を建てるために、東京の本社が、土地を購入してくれたのですが、その地主さんが、『息子が乗らなくなった車が東京にありますから、使ってください!』と言われて、頂いたものです。本当に小さな車でしたが、それ以来、兄の載っていたのをもらったり、中古屋で買ったり、友人から頂いたりで、これまで15~6台乗り継いできたでしょうか、すべてが相当に古い代物(しろもの)でした。最後の車も、自動車販売店が都合してくれて、無料で2年ほど乗せていただいた、トヨタ製の「カローラ」でした。わが自慢は、《新車に乗ったことがない》ことなのです。《分相応》ということばがあります。goo辞書によりますと、『[名・形動]その人の身分や能力にふさわしいこと。また、そのさま。応分。「―な(の)生活をする」 』と出ております。《高望み(『[名](スル)身分や能力以上の高い望みをもつこと。分不相応な望み。「―しないで分相応な生活を送る」 』)》しないで、この40年来、まあつつましく車も利用してきました。

 仕事の仲間に、日系ハワイ人がおられましたが、この方も、高級志向ではなく、『車って、動けばいいんですから!』と低燃費の経済車に乗っておられましたが、今はどうされておいででしょうか。それとは逆に、『僕は、いい物好みで、高級車でないと!』と言って外車に乗ったり、『社員が、この車に乗ってくださいと、プレゼントしてくれました!』と言って「セルシオ」のような分相応の車に、颯爽と風を切って乗って、言い訳しておられる方もおいででした。

 何時でしたか、ポートランド旅行をしたことがありました。その隣にビーバートンという街があって、そこにモデルのような研究所がありましたので、そこを訪問しました。その所長さんに、「ベニハナ」という日本レストランでご馳走になったとき、同席していたのが、アメリカで有名な〈ソース〉を製造販売している、サクセスストーリーの主人公の社長さんでした。日系移民の方で、辛酸労苦の末その成功を手に入れたのだと、言っておられましたが。彼が、この所長を、こう語ってくれました。『わたしたちの業界でも、彼のような業種でも、有名になったり成功したりすると、着ている背広と乗る車が変わるんです。ところが友人のロンは、そういったことに全く頓着しないのです。背広や乗用車で、自分の成功度をアピールしないのです。そんな彼の謙遜さが好きで、長年交わりを楽しんでいます!』とです。そのような評価を聞いたとき、彼は、どこから見ても素人が手で編んだ、ちょっと寸法違いなセーターを着て座っていました。『これ、年取った母が編んでくれたものなんですよ!』と、誇らしげに着ていましたので、納得させられたのです。

 昨日のMSN外信ニュースに、《車の格、人の格》という記事が載っていました。中国駐在の日本大使の車についてのコメントでした。『経済大国の日本の駐在大使が、中型セダンに乗るには、日本の顔として相応しくない!』との意見です。〈格〉って何でしょうか。以前、車で、姫路、伊予三島、宇和島、別府、熊本、門司神戸、東京と旅行をしたことがありました。すぐ上の兄が使い古した、トヨタ・カローラでした。エンジンは抜群に良かったのですが、車体は錆びて穴が開いて、相当の年代物でした。それに乗って行きましたら、『こんな車に乗って、よく来ましたね!』と感心されたのか、呆れられたのか、そう言われてしまいました。

 年相応、立場相応の車の格や、背広、住宅、学歴などがあるのでしょうか。会社の部長や重役になったりすると、東京だと、三多摩や墨田区では駄目です。麻布、代官山、奥沢などに住まないと、格に合わないのでしょう。セルシオやベンツやBMWに乗らないとみっともないのでしょうか。私の家内が、学年の委員長をしていたときに、ある父兄から、『廣田さん、みっともなから自転車なんかに乗って、ホテルに来ないでください!』と言われたことがあったそうです。委員長に相応しい乗り物ってあるのだと、初めてその時に気づいたのです。家内は、何を言われようと飄然として、自転車で風を切ってホテルの会合に向かっていました。いいじゃあないですか、何に乗ろうと何を着ようと、どこに住もうと、犯罪を犯しているのでも、人に迷惑をかけてもいないのですから。

 人間の格付けというのは、車や背広や住宅などのよるのでしょうか。『人格」は、goo辞書によりますと、『・・・②すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。「能力・―ともに… 』とあります。人間が優れているのであって、乗り物や着物などの持ち物にはよらないわけです。ヤクザや詐欺師は、超高級車に乗っていても、社会的には真っ当ではないし、心が貧しいのですから、格が高いとはいえませんね。心の中に何を宿しているかによって、その人の格や価値が決まるのではないでしょうか。よく血統書付きの高級犬を連れて得意満面で散歩している方と、この街でも出合います。この犬は、どこででも排尿や排便をしています。犬は犬であって、いい犬を飼っているからって、得意になったり優越感にしたっているのは滑稽なことです。もっと高尚なことの中に、「格」が定まっているに違いありません。きっと棺桶に入って、人は再評価されて、初めて、高・中・低と格付けされることになりそうですね。私の評価をしています。ある方は〈高〉、ある方は〈低〉、そこにねずみがやって来て、『チュー(中)』と一声・・・・・。

(写真は、1964年当時のいすゞの乗用車「ベレット」です)

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 先日、美味しい「粥」を食べました。ピータン(皮蛋)と豚肉(痩肉)と椎茸(香菇)と香菜などの入った、まるで横浜・中華街の高級飯店で食べるような、実に味の深い、体に馴染むようなお粥でした。中華料理の味の深さというのでしょうか、調理をする人の腕によるのでしょうか。このお粥を作ってくださったのは、23歳になったばかりの学生さんです。教え子のボーイフレンドで、引越しの準備のさなかの家内と私とが、暑さ負けしないようにと、夕食を作りに来てくれたのです。ついお替りをしてしまいました。デザートには、〈仙草xiancao〉という夏場に適した中国版ゼリーを出してくれたのですが、前もって家で作って持ってきてくれたのです。少々疲労気味でしたから、胃に負担の少ない夕食になりました。

 先日、旅行に誘ってくださり、いっしょに泉州の実家に泊めていただいた方で、外国人で友人の教師ということで、おもてなし頂きました。彼には世話になってばかりでおります。日本で食べてきた「粥」は、梅干をのせた病人食(それしか知りません)で、塩味だけのさっぱりしたものですが、こちらの粥は、栄養価が高く、しかも胃に負担は少なく、『食べ過ぎないほうがいいようです!』との注意もしてくれました。こちらの街で食べる中華料理は、その味付けは「味精(味の素)」が多く使われて、様々な具材を油で炒め、揚げ、煮て食卓に供される場合が多いようです。もちろん、先日の泉州旅行で、彼の家でごちそうになったお母様の料理は違っていました。家庭料理は、それぞれの特徴があるのですが、一品一品を真心込めて作ってくださいました。好きな〈シジミ〉が出てきたので、つい、『我最喜欢这个东西!』と無遠慮に声を出してしまいました。きっと北京の紫禁城や南海で称された料理は、気品料理だったのでしょうね。

 誰かから聞いてウル覚えなのですが、『ヨーロッパに家に住み、日本人の女性を妻に、中華料理を食べることが、男の理想なのです!』だそうですが、《やはり食は中華》に違いありません。長年食べてきました日本料理は、素材の味を引き出すのに注意しているのでしょうか。関東と関西とでは味つけが違います。関西圏と言っていいでしょうか島根県出雲の出身の母と、関東は神奈川県横須賀で生まれ東京で育った父とは違っていました。醤油も味噌も違うからです。母は、父の好みに味を変えていましたから、我が家は関東圏の味だったのです。日本の会席料理をみますと、一品ごとに調理をし(もちろん炊きこみご飯、ちらし寿司、鍋などは例外ですが)、皿に盛り分け、各自に一人前ずつ運ばれてきて、食卓に並べられます。高級料理店に参りますと、皿だって半端ではなく、〈何々焼き〉といった銘柄なのです。そそっかしい私は、壊さないように注意を払わなければならなので大変ですが。

 もう一つ、中日の違いは、食卓を囲んだ時の様子です。食卓は、ほとんどが円形ですから、何人増えてもちょっと椅子を寄せれば大丈夫です。1つの皿や器に盛られた料理を、箸がぶつかり合うこともあり、突っ付き合いながら食べるのです。どれだけ食べたらいいのかを暗黙のうちに考えながら食べ、相手に、『どうぞ!』と勧めていきます。食べながら何回も乾杯を交わします。時々、テーブルをコップでコツコツたたきながら杯を交わすのです。それと賑やかなことです。大声で話が混線しています。食器の音だってやかましいこともあります。話し声が、『エッ?』と聞き返さなければならないこともあります。まあ日本語で言うと〈無礼講〉といったらいいかも知れませんが、仲間意識が強くなる食卓の雰囲気がとてもいいですね。こちらでは、『吃韩饭了没有?chifanlemeiyou』というのが、あった時の挨拶言葉ですから、『飯食ったかい?』と聞き合うことによって、相手の生活に心配りをしているのでしょうか。『食っていなかったら、一緒に食って行けよ!』と招いているのでしょう。村意識、親族や仲間の意識がとても強烈なものを感じております。そういったものが無くなってしまった日本を考えて、とても懐かしくも羨ましい風俗習慣伝統であります。

 四人の子共や、来客者や同居の方々と、家族のように「すき焼鍋」や「水炊き鍋」を囲んで食べていた時代が懐かしく思い出されてきます。「ピータン粥」を食べましたら、昔、よく食べたおじや(雑炊)や水団が懐かしくなって、「赤とんぼ」を歌いたくなってしまいました。

    夕焼小焼の、赤とんぼ
    負われて見たのは、いつの日か

    山の畑の、桑(くわ)の実を
    小籠(こかご)に摘んだは、まぼろしか

    十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き
    お里のたよりも、絶えはてた

    夕焼小焼の、赤とんぼ
    とまっているよ、竿(さお)の先 (三木露風作詞・山田耕筰作曲)

(写真は、「赤とんぼ」です)

九段

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 私が勤めていた研究所の本部が、東京の市ヶ谷にありました。仕事で、そこに一週間に何度か出掛ける機会があったのです。ある時、そこから歩いてすぐの九段に、靖国神社がありましたので、同僚を誘って行ったことがありました。歌で歌われていましたし、日本人にとって、とりわけ戦争で亡くなられた方の家族にとっては、格別な思い入れのある特別な場であることは分かっておりました。そこには大きな鳥居があって、厳かな雰囲気がこぼれ出てくるかのような佇(たたず)まいを感じたのです。

 生来、神社に参拝したことは一度もありませんでしたが、母に隠れて、育った街の神社の境内で行われていた、伝統的の笛太鼓の踊りをのぞき見にいったことが、たびたびありました。カンテラ(照明器具)に照らされた夜店を徘徊し、あのカーバイトのガスが燃える匂いをかいで、ヨウヨウや金魚を釣ったり、綿アメを食べながら溢れるような人の間を歩いていた記憶があります。また旅芸人の小屋がかかっていて、田舎芝居の時代劇を観劇したこともあります。なんとも言えない芝居小屋の様と匂いと光景は、やはり懐かしいもののひとつです。神社は、私にとって、そういった幼い日の思い出があるだけで、父も母も、神社とかお寺とかとの関係の皆無の人でした。


 ところが、二十代の前半に、その靖国神社に行きましたときに、その境内(けいだい)に厳かさとか幽玄さというのでしょうか、独特な雰囲気がたち込めていたのが、実に重く感じ取れたのです。子どもの頃に遊んだ記憶の中の神社とは、それは異質でした。明治2年に始まる、この神社が、どういった意味のものであるかは、よく知っていました。戦没軍人・軍属が祀られていて、とくに戦争に関わった〈英霊〉といわれる死者を祀っていることもです。東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けて、処刑された人たちも、それに含まれていることもです。

 だいぶ以前の「毎日新聞」に、A級戦犯の分祀について、同神社の前宮司の湯沢氏が、『一度神様として招いたものを簡単に人間の考えで左右するわけにはいかない。時代が変わっても永久に分祀はあり得ない!』と言われた記事が載っていました。人間である天皇を、神に祀り上げて、それを頭にして戦争を遂行したのです。民意をひとつに結集させるために作為的に行われたのではないでしょうか。人間宣言をされる以前から、ご自分が人であることを認めておられたのが、裕仁天皇だったのです。イギリス人がするように、天皇を一国の王様として、心からの敬意を私はもっております。

 しかし、国として幾度となく、被害に合われた国々に、謝罪を表明していることも事実なのです。あの侵略戦争の結果、アジアで多くの犠牲者を出してしまったことは、大変な責任と呵責があります。私の級友たちのお父さんの多くは、徴兵されて戦死しましたし、職業軍人でも、祖国の父や母や兄弟姉妹や子たちのために戦って召されたのです。そういった戦死の責任だって国は負っていることになります。私が靖国に行ったときに、ここに友人たちのお父さんや、私の叔父がいるとは思いませんでした。仏壇の中にも墓の中にもいないこともです。級友たちの記憶、思いの中に残っておれれるに違いありません。


 子どもを乳母車に乗せて散歩をしていたとき、近所の小さな祠(ほこら)のある神社を通りました。人通りが少なかったので、好奇心満々の私は、その中を『見たい!』との衝動に駆られたのです。子どもを乳母車に任せて、その祠の扉を開いて中を見ましたら、中くらいの石が置いてあるだけでした。何の変哲もない平凡な石が、ご神体だと分かって、驚いたり納得したりでした。春と秋に祭礼が行われて、そこには近所の人たちが集っていましたが、この中の何人の方が、その事実を知っているのかと思いましたら、日本人の神観や宗教観は、何と貧しいものなのかと感心させられ、父と母の生き方の意味が少し分かるようでした。
 
 「・・死んだ人々が・・御座(大きな御座)の前に立っている」のです。戦没者だけではなく、死んだ全ての人がであります。祀ること、分祀、首相の参拝よりも、人が祀った英霊と言われる神もまた、「至高者」の前に立たなければならないのです。その最後の審判こそが、最も厳粛なことなのですが。

(写真上は、「九段」の周辺図、中は、カーバイトをガス化した「灯」、下は、「乳母車」です)  

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 「公僕」、新明解辞典によりますと、『[権力を行使するのではなく]国民に奉仕する者としての公務員の称[但し実情は、理想とは程遠い]』とあります。英語ですと、”public servant”と言ったらいいのでしょうか。中国語では「公仆(gong pu)」で、日本語と同じで、下僕の心で、公の仕事をする人のことです。

 素晴らしい 組織も人も、始まりは清廉潔白です。受益者のために献身的に働き機能します。しかし、その内部は何時の間にか腐敗していきます。それは組織の持っている宿命なのかも知れません。その責任者の保身や、役得で、甘い汁を吸えるとの誘惑から、堕落が始まります。誘惑する者が手ぐすねひいて待っているのも事実です。一歩坂を転がり始まりますと、抑止力が効かなくなります。そうすると、世間に漏れることを嫌って、それを隠そうとします。問題の解決ではなく温存が、やがて腐敗をうみます。ある組織では、18人も愛人を持っているリーダーも出るほどになっているようです。それを養うには、次の甘い汁を求めて飛び回る蜜蜂のようです。転がり始めたら急加速です。蜜蜂は、私たちの滋養のあふれた蜜を提供しますが、組織で腐敗した輩は、害悪をもたらすのみで、やがて自己矛盾から破滅していくのです。

 そういった組織や責任者からの不当な取り扱いをうけ、虐待の被害をうけた人たちは、自殺をしたり社会不適応が始まります。ついには精神疾患の問題をもたらす被害者だっておいでです。そういった被害者を持つ家族の二次被害の問題、そんなことに関する意見が、今日日、マスメディアに多くみられます。幸いなことに、ある機関では、義の故にでしょうか、良心の叫びからでしょうか、苦渋の選択をなさって、〈内部告発〉をなさる方がおいでです。これって「チクリ」かも知れませんが、日和見な生き方ではなく、復讐でもなく、栄達や出世のことよりも、社会的な責任の故に、勇気をもってのことと、私は心から尊敬しているのです。看過ごされて、隠蔽されることによって問題が潜ってしまって、世の中から忘れされることを願わない勇気ある人が、被害者の立場からでしょうか、義の立場からでしょうか、義憤をこめて糾弾しているのです。


 私は、昨年の夏に帰国しまして、中国に戻る日の早朝、新横浜から新幹線に飛び乗りました。日曜日の午前中に開催されていた京都での講演を聞きたかったからです。関空からの飛行機の搭乗時間が迫っていて、時間がありませんでしたので、身分職分を名乗り、共通の知人の名前を出し、ご挨拶だけして辞したのです。この講演者は、公務員犯罪ではなく、ある組織の中に隠され、看過ごされている問題を露にし、その被害にあわれた方を助けておいでです。同業界人として、義の故に赦せないからでしょうか。その被害者の精神的、肉体的、社会的、金銭的な被害を公にし、加害者を実名で公表して、法に訴えることを進めておられるのです。彼の働きに賛同していましたが、彼の人間を確かめたくての訪問でした。講演を聞き、奥様からお話を伺い、彼の誠実さ、奥様の私への接し方などをみて、全く疑う余地がありませんでした。思ったとおりの人を彼のうちに認めて、平安な心で、京都駅から特急に乗り、関空から機上の人となることができました。

 被害者が、加害者に抵抗の術を奪われて、泣き寝入りの場合が多いのです。神奈川県のある街で、その業界で名の知れた男が、全国展開の業務を長年進めていました。その立場を利用して、一人の女性を犯してしまったのです。結局、被害者は自殺に追い込まれ、残された家族は悲痛な心で、日々を送っておられるのです。それなのに、加害者は、その団体から追放されてもなお、その加害の事実を覆い隠し、裁かれることなく、同じ街で、同じようにして、幼児教育に携わりながら生きているのです。その夫人が、夫の過ちを容認しているのが、不思議でなりません。こう言った問題が、今日、あちこちで起こっているようです。心ない者の非難や揶揄をよそに、その不義を糾弾してやまない彼の働きを、ここ華南の地から応援しておりまます。

 ここ中国では、一番大切な徳は、「義」です。長い歴史の中で「義」こそ、中国の良心の拠り所であり続けました。それは日本でも、どの国でも同じです。臆することも、怯えることも、躊躇することもなく、「義を行うこと」こそ、その業界を、街を、国を、そして家庭を健全に保つからであります。家庭が正しく保たれる必要があるのは、次の世代がここから始まるからであります。

(写真上は、「義」、下は、青島の海岸での藻の「腐敗」です)

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 犯罪が起きますと、街中に設置されてある防犯カメラの映像記録を巻き戻して、同じ時間帯の犯罪が起きた周辺の様子が点検されます。そういったことが頻繁に行われて、犯人像が浮かび上がり、逮捕に結びつき、一件落着といった事案が多いようです。街中には、防犯カメラが、数多く設置されているのを、犯罪が起きて改めて認識させられます。それが防犯に役立ち、犯人の検挙に益するなら、犯罪とは程遠く生きる一市民の私たちには、抵抗感はありません。

 この防犯カメラではなく、今日一日の私の網膜に写った光景が、VTRで巻き戻し上映されたら、どうなるでしょうか。決して他人に見られたくない光景が、幾場面もあることでしょうか。表現の自由というのでしょうか、メディアの攻勢は驚くほどで、雑誌、漫画、テレビ、DVD、ネットなど、様々な領域に溢れ返っています。もし自己規制をして制限しなければ、心を荒廃させて生きる意欲をそいでしまい、その劣悪な映像の虜とされてしまいます。『ポルノの問題は、人を犯罪に誘発するよりも、人を無気力にさせることにある!』といったことを聞いたことがあります。たしかにそうだと思います。目に焼き付いた光景はなかなか忘れられないものです。中学の運動部が、高校と一緒で、そこには様々な先輩、大学生や社会人が出入りしていました。当然、猥褻な雑誌や写真に触れる機会が多くありました。そこで見た、見せられた映像は、半世紀も経つのに、いまだ鮮明に眼に焼き付いているのです。高校の時に、お父さんが有名な映画会社の映画技師をしている同級生がいて、彼が手に入れた写真を、学校で売りさばいたことが露見して、彼は退学処分になりました。中学から一緒に上がってきたのに、高一で処分されて、その後、音沙汰なしです。仲間に誘われなかったのは幸いでした。

 古代人のヨブという人が、こんなことを言っています。『私は自分の目と契約をした。どうして乙女に眼を留めよう。』とです。目の焦点を、どこに合わせるかの問題です。何を見るかが課題なのです。これは、女性への誘惑ではなく、特に男性への強烈激烈熾烈な誘惑であります。十代の男の子だけではなく、有名大学の教授とか、警察官とか裁判官とか医者とか、社会的な立場や役割とは関係なく、激しく男性が誘惑される領域です。ヨブという人は、自分の弱さを知っていて、それを誤魔化したり、言い訳したりしないで、確りと認めていたのです。『見たいものを見る!』という生き方ではなく、『見てはいけない物は見ない!』と決心した人ではないでしょうか。古代にも誘惑はあったことになります。私が戦ってきたのは、見ることではないのです。つまり一瞥することは仕方が無いのですが、〈見続けること〉に問題があるのだと思うのです。見て、男は想像し、それをふくらませていくときに、妄想の世界に導かれ、罪を犯し、罪責感にさいなまれるのです。そういったことを、『避ける!』と決心したのが、このヨブでした。契約とは、そういった決心を言うのでしょう。眼に人格はありませんし、自分の目の所有は自分ですから、隠れたところで見ておられる至高者、そして自分の心と約束をしたことになります。それほど注意深く生きた人がヨブだったのです。


 何時でしたか、街の市場でアルバイトをしていたときに、野菜をネコという一輪車に乗せて運んでいました。ふと行く道の先に、大きなお尻をしたご婦人が同じように野菜を運んでいたのです。つい見たとき(見ただけは罪がないのですが)、少々長めに眺めていましたら、眼に野菜の葉物がぶつかってきて大変な目にあいました。医者に治療をしてもらうほどだったのです。その野菜の葉っぱは、『ノー!』のサインを送ったのです。痛い目をして学ばさせられた若い日を思い出します。それで完全に勝利したのではありません。六十を過ぎた今日でも、この目は激戦の戦闘領域です。ある知恵者は、『右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。』と進言しています。私の友人の友人が、初めて場末のストリップを観ました。真面目に彼は、それまで生きてきたのだそうですが、悪友に誘われて観てしまってから、彼は精神に異常をきたしてしまい、学業放棄をしてしまったのです。中学の頃から先輩に鍛えられて免疫のある私は、そうはなりませんでしたが、未だに戦いの最中にあります。契約をしても再契約になることのほうが多いようです。

 これは私だけの戦いではなく、男性諸氏の止むことのない戦いの領域でありますから、えぐり出してしまうよりも、眼と契約をすること、これを繰り返すことだと思っています。敵は、猛攻撃を仕掛けてくることは必死ですが、問題は、こちら側にあります。手堅く防備しつつ、良い物、爽やかな物、高尚な物に目と心を向ける努力をし続けたいものです。加油!

(写真は、ヨブの住んでいた「ウツ」、下は、「防犯カメラ」です)