豊島園にて

 東京には、「後楽園」「花やしき」「豊島園」「東京ドームアトラクション(旧後楽園)」「よみうりランド」「東京サマーランド」などがあり、近県にも、「東京ディズニーリゾート」「西武園」「富士急ハイランド」など、たくさんの遊園地(今ではアミューズメンドパークというのでしょうか)があります。やはり圧巻なのは、浦安に1983年4月に開園した、「東京ディズニーランド」でしょうか。早起きをさせた子どもたちを乗せて、開園時間前に着いてしまったことがなんどもありました。高い入場券を払わなければならなくて、財布の底を叩いて払いましたが、子どもたちの喜びようを見て、『決して高くないな!』と思わされ、くり返し連れて行くことになってしまいました。

 私は子どものころにも、子供たちが与えられてからも、地理的な位置関係からでしょうか、「豊島園」には、一度も遊びに行ったことはないのです。近くに同じような遊園地があったからかも知れません。西武線や東武東上線沿線に育った子どもたちにとっては、この遊園地は、思いっきり楽しませもらったようです。家人の家族は、西武線沿線に住んでいた関係上、ここに遊びに行ったことがあるのだそうです。上の兄が、弟と二人の妹を連れて、出かけたときの話の顛末を、家人が、時々話てくれます。優しいお兄さんだったようで、弟妹を一日楽しませようと、彼らを引き連れて「豊島園」で遊び、「かき氷」を食べさせようと思ったのです。注文をして、いざ支払おうとしましたら、お金が足りなくて払えなかったのです。それを払うと帰りの電車賃がなくなってしまう、おばさんには叱られる、『どうしよう?』、涙をいっぱいためて戸惑っていた義兄を、家人は覚えているのだそうです。新聞配達をしたり、自分で鶏を飼って、卵を近所に売り歩いては小遣いを稼いでいたのですから、きちんとした子どもだったのです。その日、電車賃、かき氷代、その4人分を用意して家を出たのにです。

 ところが、遊園地のような場所は、「特別料金」が設定されていて、『えっ、ラーメンって、こんなに高かったっけ!』と驚いたことが、どなたにもあるのではないでしょうか。街場のかき氷代で計算したので、ぎりぎりのお金を握って飛び出した、小学校6年生に義兄には、そこまでの判断ができてなかったわけです。それで、すごく叱られた、これが理由でした。新聞や卵で稼いだお金を、お母さんは、困っている人に上げてしまったことも、家人がしてくれたことがあります。お父さんからもらったお金でではなく、自分の労働で得たお金である、その意味が分かったら、あのおばさんだって、『いいよ、安くしとくよ。さあ食べな!』と言ってくれたかも知れませんね。義兄にとっては、厳しい実社会の現実に直面させられた、貴重な体験だったのではないでしょうか。

 一般的な日本の家庭が中流になるには、まだまだ年月が必要な時期、自分の手で得た報酬で、弟妹を楽しませようとは、素晴らしい「心意気」ではないでしょうか。その「心意気」と「辛い経験」を秘めて、横浜の港からブラジルのサントスに、『一旗揚げて、故郷に錦を飾ろう!』と勇んで、1950年代の末に出かけたのです。出来た義兄で、いつも級長をしていたのですから、大学にだって行きたかったようですが、両親には何一つ言うことなしの移民の決断だったようです。『そのかき氷はどうしたの?』と私が聞いたら、『食べなかった!』と家人が答えていました。そんな懐かしい思い出話が山のようにあるのだそうです。今しがた、ブラジルに家人が電話をしていました。義姉に『兄をありがとう!』『ご苦労様!』『お元気で!』『ゆっくりしてください!』と伝えるためにです。

(写真は、「としまえん」の入り口付近です)

義兄

 もう何年前になるでしょうか、アルゼンチンで、日本の企業人を招いて、「企業研修」が行われました。私の上の兄も同業者でしたので、彼に誘われて参加をいたしました。それは実に長い飛行機の旅だったのです。東京から、カナダのトロントに行き、乗り継ぎの事情で、そこでしばらく市内見学をしました。その後に、ブラジルのサンパウロに向かったのです。サンパウロから、再び乗り換えてアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着したのは、東京を発ってから35時間後だったと記憶しています。年配者もいましたから、旅の疲れは、研修どころではなく、12時間の時間差、南半球といった旅先に慣れるには、数日を要したほどでした。トロントで一泊し、それからブエノスアイレスに向かったら、これほど疲労困憊することはなかったのではないと思ったのですが、後の祭りでした。まだ若かった私でしたが、「眠気」に、あれほど襲われたのは初めてのことでした。

 実は、18の時、アルゼンチン移住を夢見ていた時期がありました。「日本アルゼンチン協会」から、パンフレットを取り寄せて、眺めていましたら、ラテンの国の情熱が伝わってきて、まだ見ぬ国、南十字星の見える南半球に、『行く!』と決めたのです。決定的だったのは、メンドサという街の紹介の中に、アルゼンチン美人が、手招きをして『おいで!』をしていたのです。18の私は、いっぺんに頭に血が登ってしまったのでしょうか、心に決意し、スペイン語を学び始めたのです。彼女に会ったら、スペイン語で求愛しようと準備したのです。これって「ハシカ(麻疹)」みたいなもので、結局、動機の不順な私は、大学受験をして、補欠合格した大学に進学してしまったのです。儚い一場の夢でした。

 その研修旅行の帰りに、一行から離れて、私は、サンパウロを訪ねたのです。そこには、高校卒業と同時に、ブラジルに農業移民した、家人の兄・義兄がいましたので訪ねたのです。サンパウロから車で1時間半ほどの街に住んでいて、車で空港に出向迎えてくれました。始めての対面でしたが、優しい義兄でした。一緒に移民してきた若者の中には、その過酷な労働と、約束と違った処遇とで自殺をした仲間が何人も出たそうです。その異国で亡くなった旧友のために、墓を掘って埋葬もしたのだそうです。日本にいたら、決して味合うことのなかった、多くの辛い経験したのです。ついに農業開拓を諦めた彼は、手先が器用でしたので、時計の修理技術を教えてくれる人がいて、彼から学んで、その街のマーケットの中で、「宝石販売と時計修理の店」を開業したのです。地道に努力した義兄は、広大な土地を手に入れ、そこに家を建て、両親を日本から招いたのです。義父は、彼に見取られて天に帰り、義母は日本に帰国しました。

 一週間ほどの滞在中に、彼がサンパウロに、仕事の道具や商品を仕入れに行くというので、連れていってもらたいました。街中で売っている昼食をご馳走になっり、私たちの「銀婚式」の指輪をイタリア系の店に注文して、それをお土産がわりにくれたりしました。義兄の友人で、和歌山から母子で移民して来た親友がいて、リンゴ栽培していました。彼が昼食にレストランに招いてくださって、ものすごい量と種類の料理で歓迎してくれました。彼の作った「サンふじ」も、一箱、親友の義弟の私に届けてくれたのです。移民仲間の家族の葬儀に出たり、カトリック教会の集いに出たりしました。家の敷地には、大きな池があって、一廻するにも大変な時間がかかるほどでした。優しい義兄で、大きな声を出すこともなく、細い太い声で、『雅仁さん・・』と呼びかけてくれた声が聞こえそうです。義姉は、池の魚を刺身にしてくれたり、大おもてなしの一週間でした。

 この義兄が、食道がんを患っていて、手術後快復し、仕事にも復帰したのですが、昨日、不帰の人となりました。一度も帰国することがなかった義兄です。これが「人の世の常」とは言いながらも、あの優しい表情と寡黙、太い声を聞くことができないのは、一抹の悲しみを覚えてしまいます。家内は、兄との沢山の思い出を、昨日から語ってくれています。心からの哀悼を捧げ、義姉と三人の甥と姪の家族の上に、心からの慰めをお祈りします。

(写真は、ブラジルのサンホッケの「収穫祭」と「花」です)

日本の改革

 東北地方の日本海側に、山形県があります。その新庄市からやってきた同級生がいました。彼は東京での生活を始めて、『東京の冬は寒い!』と言いました。寒さを代表する東北人の彼が、そう言ったので驚いた私は、『どうして?』と彼に聞いたのです。彼の答えによりますと、東北では、寒さ対策が周到になされているのだそうです。もちろん屋外は寒いのでしょうけど、屋内は、暖房が効いていて、東京のような寒さをは、上京して初めて経験したのだそうです。そういえば、天津の街で1年過ごしましたときに、紫金山路沿いの河は、パンパンに氷が張って、大学生たちがその上で遊んでいる姿を、よく見かけました。ズボン下をはかないで過ごすことは絶対にできないほどでしたが、屋内には、「暖機」という、温水の暖房機が設置されていて、Tシャツでも大丈夫なほどでした。アパートの30メートルほど先にでしょうか、大きな煙突があって、その下では温水を石炭で沸かし、周り中のアパートの部屋に、温水を送っていたのです。太い温水管がはりめぐされている光景は、夏場に初めてやってきた私にとっては、『何だろう?』と不思議に思った初めての街の様子でした。

 華南の地にやって来てからは、街中に、その「送水管」が見当たらなのです、実は、黄河以南には、「暖機」はないのだということが分かったのです。ですから暖房は、それぞれの家が責任をもつのでしょうか、多くの人は室内で、外で着用している分厚いコートを着込んで、生活をしていましたので、これも驚かされたことでした。幸い、我が家には、電気温風ストーブが二基ありますので、コート無しで冬場の生活をすることが出来ています。

 この学友を思い出して、同じ山形県で活躍した、一人の人物のことも思い出したのです。この山形県に、米沢という街があります。そこに「米沢藩」、江戸時代に全国から注目されていた藩がありました。名君と謳われた山内鷹山(ようざん、17511822)が藩主で、その彼の行政改革、産業改革、教育改革、社会改革が優れていたからでした。莫大な借金を十数年で返済し、その後は藩の財政が、驚くほどに潤い、その手腕が注目されたのです。倹約質素を旨とし、一汁一菜の食事で鷹山は過ごしたと言われています。この鷹山の優れていた点は、家庭にありました。

 米沢藩に男子の後継者がいませんでしたので、鷹山が、婿養子として藩主となりました。結婚しました婦人は、知的な能力が10歳ほどだったそうです。鷹山は、心からの愛情と尊敬を持って、この妻を愛したのです。妻に人形を作って与え、遊び道具を工夫して与えて喜ばせたのです。20年間、妻の亡くなる日まで、その愛は変わることがありませんでした。世の常として、「跡取り」が求められ、子を産めない妻に代わって、ただ一人、10歳年上の「側室」をもちます。その人を米沢に置きましたが、妻に代わる権限を移譲することなどありませんでした。そのように妻に対しての用意周到な配慮を、おろそかにしなかったほどの人でした。

 与えられた子どもたちの教育についても特筆すべきことがありました。鷹山は、『大きな使命を忘れて、自分の利欲の犠牲にしてはいけない』『貧しい人々へ思いやりの心をもて』『恩(親と師と君主)を忘れてはいけない』『徳を高めなさい』と子どもを教えました。また、嫁いでいく娘には『生まれた国に相応しく貞淑でありなさい』との言葉を残しています。こう言った理想的な家庭を建設した人ですから、藩内で行われていた「売春宿」を禁止してしまいます。このような社会改革を行った藩は、この日本では他に見られません。『犯罪が起こるのでは!』との反対意見がほとんどでしたが、そのような心配した事件は、一件も起こらなかったと記録が残されています。

 17歳で藩主になって、70歳で召される日まで、彼の生き方、在り方は変わりませんでした。彼の葬儀が行われた日、領内から数十万人が送葬の式に参列し、自分たちの祖父の死を悲しむように、哀悼を表したと言われています。日本の政治改革、行政改革が叫ばれる中、「二十一世紀の鷹山」が、この日本の若い人の中に、すでに用意されているのではないでしょうか。

(写真は、米沢城をめぐる「堀の桜」です)

されど人生短し!

 アパートの正門の右側に「幼稚園」がありまして、多くの園児が三々五々と登園してきております。外庭で遊戯や隊列を組んで行進したりしているのですが、おじいちゃんとおばあちゃんとお母さんたちが、孫子見たさに、塀の外側に黒山のようになって覗き込んでいる光景も、「一人っ子」のわが子、わが孫を、宝のように宝贵baogui)、大切にしているからでしょう。両親と子供一人、両親が働いてる家には、どちらかのおばあちゃんが、田舎から出てきて、一緒に住んで、その子の送り迎えと世話、家族の食事の準備をしているという生活の世帯が多く見かけられます。

 こういった様子を眺めていると、「公団住宅」ができたころの、高度成長期の日本の雰囲気を思い出してしまいます。私たちが過ごした東京都下には、1958年に、日本で有数の「多摩平公団住宅」が竣工し、広大な農地を造成して、あっという間に、一大近代型の街が造り上げてしまいました。入居者の多くは、都内に勤める新婚世帯で、子育て真っ最中だったのではないでしょうか。幼稚園や公立小中学校、高校、図書館、スーパーマーケット、病院、レストラン、ラーメン店、映画館などが次々に建てられて、今までになかった街作りがなされていました。機能的に造られていたのですが、いわゆる「団地サイズ」で、一間六尺が180cmであるのに、170cmのサイズに縮尺された部屋作りでしたから、『うわー狭いなあ!』というのが、初めて訪ねたときの団地の印象でした。

 あのころに建てられた団地は、住んでいた人は、すでに子育てを終え、子どもたちはそれぞれに自活してしまい、老夫婦が残り、おばあちゃんだけの世帯、世代が変わって息子たちが住む、そういった世帯が多くなっているのが最近の様子なのだそうです。それででしょうか、老朽化した団地を壊して、新たに高層の公団住宅を建て替えているようです。私の弟も、建て替えられた公団住宅の高層階に住んでいて、奥多摩の山なみを遠望できて、とてもロマンチックで、住み心地は快適のようです。

 さて、一昨日でしょうか、『パッパパラリラ、ピーヒャラピヒャラ・・・』と、その幼稚園から聞こえてきたではありませんか。どこかで聞き覚えがあると思ったら、「ちびまる子」の歌、それも日本語のCDから流れてきたのです。リズミカルのメロディーは、万国共通なのですね。夜になると、いくぶん年をとられたご婦人たちが、輪になって旗を持ったり、手を打ったりしながら、音楽に合わせて、道路を挟んだ向こう側の広場で、踊り始めています。やはり春三月、夜気は、まだまだ冷たいのですが、春待望の踊りを繰り広げておいでです。そんな音楽の中に、あの「北国の春」が流れてきますから、「ちびまる子」にしろ、日本なのかと、一瞬錯覚してしまいます。

 この月末、家人の母親が百一歳、私の母が九十五歳の誕生日を迎えようとしています。上の兄からの連絡によりますと、私の母の認知度も進み、食べ物を飲み込む力(嚥下えんげ)が弱くなってきているようです。もう十分に生きてきて、最後のステージにある母ですが、やはり長生きして欲しいと思いながらも、「尊厳」も考えねばならない、苦渋の選択の時に、そろそろ差し掛かっています。四人の息子の感謝と愛、そして「孝」を、それぞれに、どう母に向けていくかの「正念場」を迎えております。考え思うほどに難しい課題であります。帰国時に、義母を訪ね、義妹に会ったのですが、ちょうど、その時は、主治医の回診日でした。二人の看護師を従えておいででして、「胃瘻(いろう)」の是非を尋ねてみました。長短所をお話くださったのですが、医療者と家族では、考えのスタンディングが違うのでしょうか、賛成も反対もされませんでした。

 街のおじさんを振り向かせ、視線を釘付けにしたほどの母ですが、これが人の一生なのでしょうか。こちらの幼稚園の園児のような時期が母にもあり、幼い私たちを精一杯に育ててくれた母も、いまや「老い」の只中におります。幸い、14歳で見出した「永遠のいのち」への道の上に母はおりますし、「憧れの天上の故郷」への帰還の望みを持っております。されど人生短し!

(写真は、母の故郷の近くの日本海の「日御碕・稲佐の浜〈jazzmineさんの旅行ブログ〉」です)

くノ一

 

 「くノ一」というのは、漢字の「女」の筆順であって、別に「女忍者」のことを言ってるわけではないようです。少々恥ずかしい話なのですが、私は、「筆順」を学んでないのです。「女」は、「一くノ」と、横線の「一」をまず初めに書いて、「く」、そして「ノ」と書いてしまいます。また「進」は、初めに「」を書いて、次に「旁(つくり)」を書いてしまうのです。「遊」も「迎」も「邂逅」 だって、「辶」が先になってしまうのです同。もう小学校の頃から、かたくなにずーっと、筆順はそうと思い込んでいるのです。とくに、「女」の筆順は、最近、自分が間違って覚えていると気付いたのです。

 しっかり小学校の国語の時間に、学ばれたみなさんには、そういった基本的な間違いはなさらないのだと思いますが、われながら、ちょっとあきれ返ってしまいます。家人に言ったら、『もう、覚えたとおり確信をもって書いていたらいいわよ!』と言われてしまいました。実は、授業で板書しなければならなのですが、最近はまったく自信が無くなってしまって、チョークを持つ手が震えてしまうほど(!?)です。注意しながらですが、最近は、教科書通りに「くノ一」、「遊ぶ」も「旁」を書いてから「偏」を書くようになりましたが、実にぎこちなく、書き直してしまったりするのです。

 『なぜだろう!』と考えて思いついたのは、自分が生半可に鵜呑みをしてしまう、「オッチョコチョイ」であって、注意深く、先生の手の動きを凝視して習得することがなかったのだと気付いたのです。今頃気づいても、どうすることができなく、まさに、年取った犬に芸を教え込むのと同じで、至極困難だと思うのです。実は、もう一つ理由に思い当たるのです。小学校入学前に、肺炎を患って、町の国立病院に入院し、入学式どころか、一学期の間は、学校に行った記憶が、ほとんど無いのです。父が東京のデパートに特注して揃えてもらった学生服、帽子、編上げの靴、ランドセル、下履き入れを身につけて記念写真をとってもらったのは、退院してからでした。その時、死線をさまよった私は、3年生までは、風邪をひいては肺炎になり、『今度肺炎を起こしたら、覚悟してください!』と主治医に母が言われたほどで、病欠児童でした。休んでいたことのほうがはるかに多い小学生でしたから、授業で、「筆順」を学ばなかったのです。自分流で、筆順を決めて書き始めてから、直されずじまいで、今日を迎えた、そういう顛末であります。

 長野の「長」ですが、先日、「筆順サイト」を見て分かったのですが、初めに「l」を書いて、「一」を一本一本下に向かって書いていくのですが、私は、まず「一」を書いて、つぎに「l」を書き、「一」、「一」、そして、長い「一」を書いてしまうのです。病気で失った小学校の年月というのは、こう言った結果をもたらすのだと、言い訳と自己弁護をしております。「女」だって、さいしょに「一」を欠いたほうが、字が安定していいと思いますし、左から右に向かっての横書きの場合、「」を先に書いたほうが、字に安定感があると思うのですが、それは私だけの見解でしょうか。「字統」「字訓」「字通」という国宝級の辞書を編集された白川静博士が、もし生きていたら、一言文句を言いたいなと思ったりしていますし、文部省にも提言したい気分の日本の学年末の時期であります。中国文字の「汉字hanzi」と日本の「漢字」と違うのではないかと思って、調べたのですが、やはり、両国字とも筆順が違う文字が多いのです。ある本には、『筆順には複数あり、それはあって不思議なことでありません!』とありましたので、家人の言うように、確信を持って書くことにしようと、決心しました。

(この字は、「 中国汉字中笔画最多的文字」です)

切望

 昨年の3月11日に、大地震が、この日本列島を揺り動かし、だれも想像しえなかった大津波が、東北太平洋沿岸を突然に襲い、実に甚大な被害をもたらせました。亡くなられた方々、行方がまだ判らないでおられる多くの方々のことを思って、心が震えてまいります。またご遺族のみなさまのお気持ちを考えますと、どう気持ちを言い表してよいのか、見当が尽きません。ただ、衷心から同情とお慰めを申し上げます。この辛い経験を超えて、亡くなられたみなさまとの懐かしい思い出をもって、美しい郷土が、もとの「たたずまい」を取り戻し、その地で連綿と続けられてきた営みが、また引き続けられていかれますよう、切に願っております。

 震災をまぬがれた私たちは、犠牲になられた方々のことを忘れず、また、人の力では抗しがたい自然の力の前に、驕りを捨てて謙虚になるべき時なのかも知れません。人間の飽くことのない欲望が、自然界の均衡を崩してきたことを顧みて、その摂理を侵さない努力も必要かと思われます。災害の死をまぬがれた私たちには、なにか、重大な使命が託されているように感じてなりません。

 ドイツでは、この日本の大震災を「教訓」にして、2020年の「脱原発」を、政府決定したと聞きました。私は、日本経済を支えていくために、『工場の稼働を、是が非でも続けなければならない。そのためには、どうしても原発は必要!』と考えていましたが、もう1つの重大な問題を見落としていたのに気付かされたのです。 

 「原子力発電所」で、使い終わった燃料ウランの処理問題です。これは、再利用できませんし、処理することもできない、これが現状です。「ゴミ」として、人里離れた「格納庫」に貯蔵する以外ないのです。人類が滅亡しない限り、地球の何処かに、置かれているだけで、その量が増せば増すほど、その危険度は増し続けていくことになります。電気の恩恵をうけて、快適な生活を営んでいる今の私たちは、プラスの面を享受しています。しかし、マイナスの面は、私たちの子や孫の世代に先送りしていることになります。

 先進工業国の電気消費量も、年々増えていきますし、今や後進国と呼ばれていたアフリカやアジア諸国の工業化が進み、先進国の生活水準に近づいてきております。本来、空調設備を、最も必要とするのは、赤道直下の諸国でしたのに、経済力が乏しかっために、その恩恵に浴すことが、長くありませんでした。しかし、今や経済力を高め、欧米並みの生活をし始めている、これらの国々では、おびただしいほどの電力生産が必要とされています。これが世界の今であり、将来であります。

 私たちの父母や祖父母、先人たちは、私たちの幸福を切々と願って、貧しさや不自由の中を辛抱し、明日の光明を信じて励んでくれました。それによって、様々なよきことを受け継がせてくれたのであります。こんな素晴らしい国を形作る「特権」に預かっているのは、私たちの世代の業績ではありません。その役をになわされただけであります。今度は、次の時代の幸せを、私たちが願わなければなりません。多くの「つけ」を、孫子の世代に残してはいけません。多くの教訓、金言、そして「美しい日本」を、さらに、この掛け替えのない「地球」を、造物主と先人から受けたのですから、孫子の世代に残してあげなければと切望しております。

(写真上は、鈴木康夫氏の撮影された「霞ヶ浦の自然~夕日~」、下は、「鉄道情景への旅」から岩手県・岩泉線の駅舎の雨上がりの美しい光景です)

 私が以前、住んでいました街に、国立大学があって、その工学部の大学院に、中国の青海省の省都・西寧から留学生が来られていました。わが家に食事にお招きしたりして、親しく交わりを持っていました。お父様は、青海省の政府の要人だそうでした。そういったことをおくびにも出さないで、スーパーマーケットでアルバイトをしながら、博士号をとられたのです。家から送られてきた、本場の「月餅」を頂いたりしました。当時、『中国に行かれませんか。父に話しますから、西寧の大学で日本語を教えてくださいませんか!』と頼まれたことがありました。仕事の責任があって、その時は、せっかくのご好意でしたが、お断りしなければなりませんでした。彼女は今、北京の国の政府の要職にあって、世界を跳び回っておられるご婦人です。

 彼女の招きによってではなく、6年前に中国にやって来ました。住所録に記してあった彼女の連絡先に電話を入れましたら、『そうでしたら北京に来られませんか。我が家から奥様と一緒に学校に通われたほうがいいでしょうから!』と、また誘ってくれたのです。そのときには、こちらの学校で教える責任があって、それも断わらざるを得なかったのです。

 この方のことを思い出したのは、今日が3月10日だからです。昭和20年(1945年)の終戦の年のこの日、東京大空襲が、最も激しかった日だそうです。「帝都東京」は壊滅的な被害を受け、多くの犠牲者を出し、美しかった街が焼土と化したのです。我が家は、中部地方の山の中にありましたので、空襲にあうことはありませんでした。それでも父は、仕事の関係で、東京を往復をしていましたので、空襲下に晒されることもあったようです。ですから、東京都民は、『この日を忘れないようにしよう!』『戦争の怖さを語り継ごう!』と声を上げ続けています。

 

 さて、この方が留学されている間に、何度か旅行をされたそうです。広島にも、興味津々で行かれました。そして、昭和20年8月6日の原爆投下の被害を、後世に語り継ぐために建設された、「原爆記念館」を見学したのだそうです。彼女は、この広島で、特別な思いがあったようです。私に、その見学体験の感想を話してくれたのです。『日本は、〈被害者〉として、原爆の記念館を建設して、その被害を忘れないようにしていますが、それは片手落ちです。あの戦争では、日本は〈加害者〉でもありました。ぜひ、広島の記念館の隣に、「戦争加害の記念館」を建てて、加害者であったことも忘れないで頂きたいと思いました!』と、少々激して言われたのです。それを聞いて、中国のみなさんの本心を話してくれたのだと思いました。だれにでも話されなかったのですが、私には心を許して、そう語ってくれたわけです。

 日本の学問水準の高さを認めて、アメリカ留学の機会を、選べたのですが、日本の大学院で学ぼうと決心してやって来た彼女でしたが、思いの深いところには、お父様やお母様、おじい様やおばあ様の世代に被った、辛い体験を聞いてこられたのが分ったのです。こう言った思いがありますから、一国の政治の指導者の靖国参拝は、容認できないのでしょうか。 

 この彼女の広島旅行の話しを聞いて、中一の私たちに、「奥の細道」を教えてくれた高校の教師の話を思い出すのです。中国戦線の前線で戦った、この方の〈武勇伝?〉は、12歳の私には衝撃でした。どうしてそんな酷い体験談を話したのか、今でも解せないのです。この大陸で、人道に反した蛮行を繰り返したことの、それは独白であります。

 私たちは、『戦争だったから仕方がない!』とか、『過去のことだから!』と言い訳をするのではなく、真摯に、父や祖父の時代の「血の責任」を、考えるべきだと思っております。そのような思いで、こちらで生活をしていますと、『過去のことであって、先生には、責任がないのですから、いいのです!』と、学生のみなさんが言ってくれます。そうですね、償いをしようとしても、私のような者にできることではありません。ただ、一人の日本人として誠実に、みなさんの間で生きる以外なさそうですね。まだ卵をぶつけられたことなど一度もない私たちですが、後どれだけ、こちらにいられるでしょうか。

(写真は、大空襲後の東京の街の様子です)

はやく来い!

 『もう、そちらは暖かくなってきたことと思いますが・・・』という便りを、先週受け取りました。ところが、ここ華南の街で、この季節、ほとんどの人が、まだ冬用の厚手の「大衣(dayi)」、コートを身に着けて街中を歩いています。『いつものこの時期と、ちょっと違うよね!』と言っていたら、『こんなことないんですよ、やっぱり異常です!』と、こちらの方が、言っておられるのです。ニュースによると、アメリカも異常気象だそうですし、日本でも例年になく大雪が降ったりで、寒波の襲来も度々あったようです。帰国中は東京にいましたし、屋内にばかりいたような気がしていますので、日本海側の様子は間接的にしか分かりませんでしたが。やはり『おかしい!』と思うのです、気候がです。

 太陽が雲隠れしてるのでしょうか、日照時間を合計しても、ほんのわずかだと思われます。そのかわり、曇天で、ときどき小雨が降る日が続き、ある晩は雷鳴が轟き、豪雨もありました。台所側のベランダから、となりのアパートが見えるのですが、満艦飾の洗濯物がベランダに干されてあって、『乾かないなあ!』という、洗濯物たちの声が聞こえてくるようです。わが家も同様ですが。

 今朝、なんとなく外が明るく感じたので、カーテンを開けましたら、その明るさは、私の願いだったようで、矢張、いつものような曇天でした。公園の樹木は、雨の多いのを喜び、「辛夷(こぶし)の花」も咲き始めているのですが。まだまだ、シベリヤの奥から吹いてくる風は、冷たく感じるのです。2003年だったでしょうか、『いい歌だなあ!』と思って、森山直太朗 が歌った、「さくら(作詞作曲も直太朗)」を聴きました。

   僕らはきっと待ってる  君とまた会える日々を
   さくら並木の道の上で  手を振り叫ぶよ
   どんなに苦しい時も  君は笑っているから
   挫けそうになりかけても  頑張れる気がしたよ
   霞みゆく景色の中に  あの日の唄が聴こえる
   さくら さくら 今、咲き誇る  刹那に散りゆく運命と知って
   さらば友よ 旅立ちの刻  変わらないその想いを 今

   今なら言えるだろうか  偽りのない言葉
   輝ける君の未来を願う  本当の言葉
   移りゆく街はまるで  僕らを急かすように
   さくら さくら ただ舞い落ちる  いつか生まれ変わる瞬間を信じ
   泣くな友よ 今惜別の時  飾らないあの笑顔で さあ

   さくら さくら いざ舞い上がれ  永遠にさんざめく光を浴びて
   さらば友よ またこの場所で会おう  さくら舞い散る道の
   さくら舞い散る道の上で

 さすが、お母さん子で、歌唱の表現力も上手だと思いました。学び舎を後に、巣立っていく若者たちへの「激励歌」で、「平成の名曲」です。何よりも、こちらの公共バスの中で、この曲が流れてきたときは、ほんとうに嬉しかったのです。桜の木は、こちらではほとんど見かけないのですが、かつて観た桜の満開の風景を彷彿とさせてくれたのです。記憶に残る映像が、こんなに鮮明だということを知って、目の前で、桜が〈パッ!〉と咲いたように感じたのです。

 これって、今の心境です。『早く、暖かな春がやってきてほしい!』と願ってやまないのです。去年の板橋・小豆沢公園の満開の桜は、実にみごとでした。家人の術後に診察に行った日に、アイスクリームを食べながら、桜を見ましたが、やはり、『はやく来い!』の今です。

(写真は、2011年の春、板橋/小豆沢公園の「満開の桜」です)

週末

 

 週末の土曜日だったのですが、昨年末に開店した、近くの商業施設(モール)に出かけて、マクドナルドの店の奥の椅子に陣取って、仕事を始めました。作文の添削作業です。こちらでは、「麦当劳(マイダンラオ)」と漢字で書きます。日本ではカタカナを外来語表記に使うのですが、こちらではアルファベットも使わないで、欧米語を漢字表記するのです。時々、類推できない表記に戸惑うのですが、後になって、『アッ、そうだったのか!』と思うことがよくあります。昼頃になって、客の出入りが激しくなってきて、長居しているのを気兼ねして、1時過ぎに出てしまいました。土曜日だという意識がなく入店したので、客の出入りの多さに、改めて週末を感じたのです。

 前も横の席も、入れ替わり立ち替わり、親子連れ、とくに、仕事の休みのお父さんと学校や幼稚園の休みの子どもさんのカップルが目立ちました。実に美味しく食べているのを見て、微笑ましく思い、我が家の4人の息子たちと、こんなふうにラーメン屋などの行ったことを思い出していました。日本のように、まだ遊び場所の多くないこちらでは、新規開店のモールは絶好の親子の交わりの場なのでしょうか。このモールですが、ホノルルのアラモアナショッピングセンターにひけを取らないほどの、実に超大型のモールで、アメリカのジーンズのメーカーが、数店入っていますし、さながらシンガポールか香港、ホノルルのような趣きがあります。こちらから向うの端を見て、霞んで見えるほどの距離がありそうです。飲食店階には、日本の回転寿司と和食の料理店が入っており、一階には、「無印良品」の店もある、驚くほどの物量と客数のモールです。

 マクドナルドですが、私の恩師のアメリカ人が、ここが大好きでした。私たちが共に過ごした町の中心に、県内一の百貨店があって、その南の角に、このマクドナルドが、県内の第一号店として開店していました。用があって街中に出て行ったときに、私は2回ほど、家内も数回、この恩師が、一人でテーブルに着いて、このハンバーグを食べているのを見かけたことがあったのです。これはアメリカの文化であり、味であり、嗜好なのですから、彼としては、懐かしく、また当然のようにほおばっていたのでしょう。日本人の奥さんの手料理も好きだったのでしょうが、この味は、子どもの頃に覚えた「祖国の味」なのでしょうね。そういった一面を見て、人間として彼に安心を覚えたのを、昨日のことのように思い出されます。

 異国の地、京都で病んで、入転院を繰り返して、最後の入院先の東京の病院で召され、師は日本の土となられたのです。65歳の生涯でした。彼もまた、眼の涼しい人で、日本語の流暢な方でした。何冊もの本をアメリカと日本で書き、出版されました。内村鑑三が、名著「後世への最大遺物」で、人の生涯で、後世に残すものがあるとして、次の4つを上げています。1つは「金」、2つは「事業」、3つは「思想」、そして「勇ましい高尚なる生涯」です。「書」とは「思想」になるのでしょうか。手元に師の本があります。彼自身は、この地上にありませんが、「書」の中に、彼の価値観、人間観、人生観などが書き残されていますから、内村の言葉を借りますと、それこそ「後世への最大遺物」と言えるに違いありません。彼の一番弟子を自認する私も、「書」を残すことができるのでしょうか。読んだ「書」の中にある、知識のや思想の切れ切れを、あの本、この本から切り取ってつなぎ合わせる作業はできそうですが、終始一貫した「思想」は、なかなか残せるものではなさそうです。そうかと言って、「勇ましい高尚なる生涯」など、おこがましくて全く無理です。それならば、かろうじて、「正直に生きる」ことだけはしてみようと考えるのみです。

 マクドナルドの奥の席で、仕事をしながら、こんなことを思っていた、三月最初の週末であります。次には家内を伴って来るときには、三階の「回転寿司」に入って、その席に座し、我が祖国の味に舌鼓を打ちながら、思いにふけることにしましょう。

(写真は、帰国中度々買ってきてくれた代官山「SASA」のハンバーガーです)

師と詩

 

 

 今年頂いた、挨拶状の中に、「ブラウニングの詩」が記されているカードが挟まれてありました。このロバート・ブラウニング18121889年)は、イギリスの詩人で、教育を受ける機会が少なかったにもかかわらず、彼の作った詩は、今でも多くの人の魂を揺り動かしてやまないものがあります。私たちは、中学か高校の国語の教科書(「時は春、日は朝・・」の一節だったでしょうか)に、彼の詩が載っていて、それを学んだのです。挨拶状の詩は、次のようなものでした(英語の原文が印刷されていました)。

Grow old along with me

the best is yet to be

the last of life for which the first was made”

我とともに老いてゆけ!
最良のときはいまだ来たらず。
人生の終わりのために、人生の始まりは作られた。  

     

 この詩をカードに記されたのは、私に「社会思想史」という講座で教えてくださった恩師なのです。 それは、私の在米の先輩へのカードでしたが、恩師を共有する私に、師の消息を知らせてくださるために、添えてくれたのです。学校で一番大きな教室を満杯にするほどの人気講義をされており、私たちが学んだのは、師が三十代だったのではないでしょうか。『こんな澄んだ、きれいな目をしている大人っているんだ!』と感心させられたのです。師は、『みなさん、詩心をもって、これからを生きていってください!』と、最後の講義で話されたのです。今思い返しますと、師の愛唱の詩が、ブラウニングだったのでしょうか。写真に写った80代半ばになられた師の目は澄み、表情は穏やか、その心もまた、ブラウニングに感動させられていらっしゃいます。それよりも何よりも、ブラウニングの詩を心の中に宿しながら、詩心を生きておられるということになります。

 私は、学んだブラウニングを全く忘れてしまっていましたが、家人は、いまだに口ずさむことができるのには驚かされてしまいました。彼女の教師は、『素晴らしい詩ですから、暗記しなさい!』と勧めたそうで、それを守ったからなのです。

 実は、『詩人たれ!』と師が言われた言葉が、この挨拶カードで、やっと理解できたのです。なんと46年ぶりに修得できたことになります。この師から、このひと言を託されたからこそ、私は、受け、授けることのできた教育に、大きな感謝を持っております。幸いなことに、再び教壇、しかも異国の教壇に立たせていただいているのです。こんな素晴らしい機会(とき)はありません。白髪三千丈、昔のことばかりが思い出される今こそが、「最良のとき」とブラウニングが言っているのですから、師に啓発されて、もう一度ブラウニングを読み直したい気持ちにされております。

(写真は、ロバート・ブラウニングの肖像画です)