実家

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「いせやホームセンター」という名のお店が、栃木市薗部にありました。このお店が、1978年に、「カインズホーム
センター」の一号店として開店しています。2018年度末の時点で、店舗数は28都道府県下に217店舗もあって、その年間の売上は4000億円にもなる、業界最大手の企業です。

何でも揃う大型店で、栃木に住み始め、また10月の第19台風で被災した後、引っ越しをせざるをえなくなって、移り住んだ家の家具や調度品や雑貨まで、このホームセンターに行って、手に入れています。帰って来れる《実家》ができて、年末には、二人の娘が家族で帰ってきますので、その準備もしているこの頃なのです。

車がなくなってしまったので、長男が車で来てくれる時に、出掛けていたりです。栃木店と大平店の二店が、自転車で行ける距離にあって、荷台に載せられる物を買いに行ったりしてきました。ところが、この両店も被災して、大平店は、この18日に再開するとの知らせがあります。ところが、創業の栃木店は、被災と店舗の老朽化とで、廃業を決定したのだそうで、先日のニュースにそうありました。

まあ被災仲間の私も、開店を待っていたのですが、残念な結果になってしまいました。水の勢いというのは、ものすごい力で、その動きも自在だというのを、今更ながらに経験した今年の後半でした。舟運で栄えた街ですから、川辺にできた街並みは、何度も水害を受けてきた街なのです。

その氾濫した巴波川の脇のアパートの4階に移り住んで、川面に、白鷺や鴨や鯉がいて、街中のオアシスの様な佇まいを、11月朔日以来楽しんでおります。年末と正月は、この狭い家で、8人が生活をし、正月には、二人の息子たち家族が加わって、14人になります。布団や食器、暖房やトイレ、『どうしよう!』という事態です。ところが家内は大喜びでいますが。

娘たちは、手ぐすね引いて、家の中を、配置換えするつもりの様です。近くの図書館が、孫たちの学習室に使えるでしょうか。歩いて3分の所に、「金魚の湯」という名の銭湯もあります。どうにかなりそうで、6人で過ごしていた子育て中の《ワイワイ》に《+α》になることでしょう。

この住み始めたアパートには、もう二軒、被災者家族が引っ越して来られています。何だか〈被災同窓会アパート〉になったみたいです。娘たちの好きな魚屋さんが、目と鼻の先にあり、郵便局も、市の無料駐車場も、デニーズやインドカレー店まであります。そう言えば、昔、『狭いながらも楽しいわが家』と歌った歌がありましたね。

(栃木市蔵の町美術館です)

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厳冬の山村で

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思い返しますと、父が亡くなって48年、母は7年になります。二人の兄と弟がいて、私を入れて6人家族でした。小説家で、物理学者の寺田寅彦が、こんなことを言っています。『日本人は自然の「慈母」としての愛に甘えながら、「厳父」の恐ろしさが身にしみている。予想しがたい地震台風にむち打たれ、災害を軽減し回避する策に知恵を絞ってきたところが西洋と違う。』とです。

日本の様に、こんなに自然の恵みを戴いた国は、めずらしいのではないでしょうか。でも、時としては、「雷親爺」の様に、自然界が牙をむき襲ってくることもあります。ビクビクしたと思ったら、「優しいお袋」の様に、満開の桜や山を萌えさせる紅葉を見せ、四季の彩りを色濃く見せてくれます。

育児法などの本を読んだこともない両親に、育て上げてくれたことを思い出しています。優しい母に、一度だけですが、叱られたこともあります。また、父に、褒められたり、煽(おだ)てられたり、抱きすくめられたり、ゲンコツをもらいながら、剛柔、織り交ぜて両親の子育てがあったのです。

不思議な思いがするのは、父が61才で、誕生日の直後に亡くなり、父よりも長生きしている自分が、父を思い返している今、父が年上の感じがしないのが、何となくすぐったいのです。やはり、父は記憶の中にある父だからなのでしょう。もう少し長生きして、親孝行をさせて欲しかった父に比べて、長寿を全うした母の晩年の穏やかな表情が思い出されます。

今日は、私の誕生月なのです。父の戦時下の業務手帳が、父の机の引き出しの中に残されてあって、そこに、『午前4時45分誕生!』と記されてありました。こんな厳冬の早朝に、村長さんの奥さんが、家に来られて、井戸の水を汲んで、お湯を沸かして産湯(うぶゆ)の用意をしてくれて、産婆役をしてくださり、その腕に、私を受け止めて、産衣を着せてくれたのだそうです。

山の渓谷の12月の水は冷たかったのでしょうね。終戦の8か月前の山村ですから、物資の乏しい時でもあったのです。父は水汲みや、湯沸かしを助けたのでしょうか。甲斐甲斐しく動き回って、3人目の〈また男の子〉の私を迎えようと、手慣れた手つきで準備に余念がなかったのでしょうか。そんな中、陣痛に耐えながら、母は産んでくれたのです。

毎年そうなのですが、今では、子どもたちが独立して、世帯を持っていますので、一緒に、一人一人の誕生祝いをしたいのに、そうできないのが残念です。先週、在米の孫娘の水泳大会の動画が送られて来ました。バタフライが得意なのだそうで、家族や友人たちに賑やかな応援の声が聞こえていました。〈工事中〉の孫たち4人と、年々〈いぶし銀〉の様に磨きがかかる様に願いながらも、〈粗鉄〉でしかない私との年齢差に、人生の面白さがあるのを楽しんでいます。

中国語の「老」は、「老いていく」という意味だけではなく、「経験豊か」とか「箔(はく)」が付いて、値打ちがあって、貫禄があると言った意味が含まれているのです。その様に、「完成」に向かっているのでしょう。間も無く迎える新しい月と年に、心を弾ませてくれることが起こることを願いたいものです。そして、さらに「箔」をつけるために、輝いた「2020年」を、家内と共に迎えたいものです。

もうすぐ、お嫁に行った娘たちが家族で〈里帰り〉して来ます。東京圏にいる息子たちも、正月には、やって来ることになっています。この帰省が、私への《誕生プレゼント》なのでしょう。明治五年に創業した写真館が、引越し先の家の目と鼻の先にあって、『正月には、家族全員14人で写真を撮りたいの!』との家内が、予約を入れています。『早く来い来い』の12月17日の早暁です。

(しばらく食べていない「甲州ぶどう」です)

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medical cafe

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小春日和の中、今日は宇都宮に出掛けました。東武宇都宮線の始発から終着まで乗って、駅近のオリオン通りを行った、“ cafe “が会場で、「街中medical cafe in Utunomiya」の月一の定例会があって参加する家内の乗る車椅子を押して行ってきました。市内や近郊の県立がんセンターや自治医大などの医療に従事する関係者と癌患者と家族の情報交換や、激励を目的にした集いでした。会の代表の平林かおるさん(栃木県立がんセンター病理診断科)が、「私たちについて」で、次の様に、会の様子を語っています。

『国民の2人に1人ががんにかかる現在、がんを始めとして病気で悩んでいる方やそのご家族は少なくありません。各医療機関には外来診察や相談窓口を通じて、患者さんやご家族をサポートする機能が備えられていますが、病気や治療に対する情報提供が主体で、患者さんやご家族の不安や悩みに対して十分に対話をする余裕がないのが現状です。

日本では、欧米のように心のケアを行うカウンセリングが生活習慣の中に普及していないという事情もあり、今まで相談する場所がなかったと思われていた方もおられると思います。

病気になった時に誰に相談したいかという問いに対し、家族や友人を上回り、医療者、がん経験者と答えた方が7割を占め、より病気に身近な人との交流を望んでいるというアンケート結果もあります。

そこで私たちは、病院の外に出た、日常生活の場であるまちなかで、通常の医療では満たされない部分を埋め合わせるサポートができないかと考え、下野新聞社のご協力をいただき「まちなかメディカルカフェ in 宇都宮」を20134月、宇都宮市オリオン通りの「下野新聞NEWS CAFE」に開設し、活動を行ってまいりました。その後、201811月より、「Café ink Blue」に活動拠点を移動しましたが、今現在も下野新聞社の後援を頂いております。

ここでは、病気を持たれた方やご家族がお茶を飲みながら、リラックスした雰囲気の中で、安心して自由に話ができ悩みを語り合う場所を提供し、医療者やがん経験者などとの対話を通じて、病気を持ちながらも笑顔で前向きに生きることができるように少しでもお手伝いをさせていただきたいと思っています。

この考え方は「がんであっても笑顔を取り戻し、人生を生き切ることができるように支援したい」と願う、順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授の樋野興夫先生が提唱された「がん哲学外来・メディカルカフェ」を根源としています。

診療や診察はいたしませんが毎回、医師数名、看護師、医療ソーシャルワーカー、臨床心理士などの医療従事者や、教員、学生、市民ボランティアなどのスタッフが参加しています。

スタッフの中にはがん経験者もおり、相談に来られる方の必要性に応じた対応ができるように心がけています。月1回ではありますが、来てくださる方に寄り添いながら、このメディカルカフェが皆様にとってささやかなまちなかのオアシスとなれば幸いです。』

初参加の家内は、会の副代表をされている医師の面談(入会儀礼でしょうか)を経て、全体の交流会に加わり、シンセやハープやアイリッシュフルートの演奏の“ Xmas 祝会 も行われ、初めて参加した思いを、家内も語るように求められていました。けっこう何度も再発しながらも、その病状を乗り越えて来られた《歴戦の強者》が参加されておられ、そんなみなさんの〈発病とその後〉の体験が語られていました。

同じ栃木市から参加されていらっしゃる方がおいでで、『毎回、これが最後になるかという覚悟で、これまで7回ほど参加して来ています!』と家内に語っておられた言葉が、真摯(しんし)に聞こえてきました。城山三郎が、「そうか、もう君はいないのか」を著していて、奥様のがん発症を、夫の目から記しておいでだったのを思い出したのです。

この” medical cafe “を始められた、樋野興夫医師は、『死は人生最後の仕事です!』と言っておられます。確かに、生きるために仕事を積み上げ、果たして来た私たちは、双六の上がりの様に、死というステージを迎えて、それを《仕事》と捉えるのは、すごいことだと思わされたのです。それで、自分も『上手に取り組みたい!』と思わされながら、家内のお伴をして過ごし、帰りの車窓から男体山がくっきり見えた一日でした。

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可能性

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「天の配剤」とは、夜があり昼がある事、男がいて女がいる事、冬があり夏がある事、貧しさがあり豊かさがある事、弱さがあり強さがある事なのでしょうか。互いに補い合い、助け合い、譲り合うために、二つの違いが背中合わせの様にあります。一日中昼だったら、人の心も体も休まらないのに、しっかりと眠れる夜があります。男だけだったらギスギスしているのに、女性がいる事によって和やかになれます。寒い冬ばかりだったら凍えてしまうのに、灼熱の夏があって人は活動的になります。貧しい人を支えるために、ある人には豊かさが与えられています。

もし世の中に、強者ばかりがいたらどうでしょうか。喧嘩や戦争で覇権争いに、人は明け暮れている事でしょう。小学校の同級生に長島くんがいました。「オランダ屋敷」に住んでいると言われていました。当時、『・・・オランダ屋敷に雨がふる』という歌詞の歌が流行っていて、雨漏りのひどい家だったからです。弟がいて、二人で破れた「番傘(紙と竹でできた雨傘)をさして、雨の日には登校して来ました。その内、雨の日に学校を休む様になったのです。傘が完全に使えなくなったからです。お互い悪戯小僧でした。

ある時、何かを仕出かして、彼と何人かで、廊下に立たされたのです。まだ給食のない時代、彼は弁当も持って来ませんでしたので、立たされ仲間にカンパして、彼を経済援助した事がありました。悪戯で、落ち着きがなく、我儘で、短気な私が、子どもの頃にした、たった一つの善事でした。小児麻痺で体の不自由な後輩がいました。彼の友になって、彼を励ましたのです(実はこちらの方が励まされたのですが)。生意気盛りにのたった一つの善事でした。

道路を歩いていたら、女性を殴っている男がいました。間に立って、『女をいじめるな!』と、その男に一発食らわしました。社会に出てした、たった一つに善事(!?)でした。両親のいない姉弟がいました。弟は鑑別所にいました。帰って行くのは施設で、そこで何時も<カツアゲ(上級生に金品を盗られる事)>されていました。家庭を味わってもらおうと、わが家に引き受けたのは、大人になってした、たった一つの善事でした。

まだいろいろなことがありましたが、テレビ放映が始まった時期に、やっていた「月光仮面」が、強きをくじいて、弱きを助けていたのをよく観たからでしょうか。自分が少しだけ強かった時に、弱く見えた人たちに加勢したのです。それは、性格の悪い私には、少し変えられるために、好い機会だったのです。

世の中に、<不要な人間>はいないのです。若い講師が、頬を紅潮しながら、『重度障碍児を日向に出したり、お風呂に入れたりと手伝いをした事があった。普段は完全に助けられないと生きていけないのに、彼らの表情に笑みが浮かぶんだ!人って、生きてるだけで、驚くほどの可能性があるんだよ!』と講義中に話してくれました。これは、高い授業料を払って、学んだ二つの内の一つの事でした。

自分も含めた誰にでも、どんな状況の人にも、生きる限りは、「可能性」が、溢れるほどにあると言うのは、自分勝手な生き方をし、我儘な男を変えた言葉でした。あの講師が、初老の学長になって、NHKの「Eテレビ」に出演していたのを見た事ことがありました。白髪になっておいででしたが、目の輝きは変わっていませんでした。人への「労(いた)わり」を、私に教えくれた方です。

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たたら

 

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島根県奥出雲町は、古代製鉄が行われた町として有名です。その製鉄法を、「たたら」と言います。この「たたら」について、次の様な解説があります。

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『日本列島における人々と鉄との出会いは、縄文時代末から弥生時代のはじめころで、大陸からもたらされたものと考えられています。

しかし、日本列島内で鉄生産が開始される時期については、研究者の間で、弥生時代説と古墳時代中期説および後期説とにわかれています。いずれにせよ、縄文時代末には、鉄器が日本列島にもたらされ、弥生時代のはじめには、鉄素材を輸入に頼りながらも、国内で鉄器の加工生産が開始され、やがて弥生時代後期になると、小規模ながら製鉄が開始され大陸からの鉄素材に、列島内産の鉄も加えて鉄器の生産が行われるようになり、そして、古墳時代後期には列島内の鉄生産が本格的になったものと考えられます。

そんな理由で、日本列島内の古代製鉄史のなかで、大きな転換期が6世紀にあったことが知られます。また、初期のころの原料は、鉄鉱石の場合が多く、以後、砂鉄も加わり、やがて砂鉄が主流になっていきます。

このことから、土製の炉に木炭と砂鉄を装入して鉄を作り出す、後に中国山地で盛んになる「たたら製鉄」の技術もこのあたりから始まったと考えられます。』

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この「たたら製鉄」が盛んだったのが、奥出雲で、日中戦争や太平洋戦争のころまで続けられてきたそうです。ほぼ1300年以上の歴史があるのです。この伝統の「たたら製鉄」を、次時代を担う子どもたちに継承してもらおうと、町内小学校の6年生を中心に、11月から12月の間に、体験学習が行われてきています。

この様に製造された鉄から、包丁や農耕具が作られていきました。その鉄の中でも、特に優れた鋼(はがね)を、「玉鋼(たまはがね)」と言うそうです。これが、「日本刀」の原材料として、刀鍛冶によって火入れや冷やしを繰り返し、打たれ叩かれて、名刀が誕生しています。

父の家の床の間に、鹿の角で作られた「刀置き」がありました。私が大きくなった時には、刀がなかったのですが、きっと戦時中、武器を作るために、「供出(きょうしゅつ)」されてしまったのでしょう。また男の子4人が、真刀を振り回したら危険だから、父か母が処分したのかも知れません。

平和利用のため、また伝統製法の保存のために、方言や習慣を残そうとする動きを含めて、懐古主義だけではなく、歴史や伝統技術を学ぶ意味でも大切なことに違いありません。「古き良きもの」と、「新しいもの」が共存するのは、今の時代を生きる者として願うべきことの様です。

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温め合う

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暮れになると、必ず演じられる落語に、「芝浜」があります。とても有名で、古今亭志ん生が演じ、その子の馬生も志ん朝も演じています。もう一つ寒くなってきましたので、「厩火事(うまやかじ)」は、どうでしょうか。こんなあらすじです。

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髪結いで、亭主を食べさせているお崎が仲人の家に来る。今度こそ愛想が尽きたので、別れたいという。仲人も、女房だけ働かせ遊んでいる亭主などとはもう別れてしまった方がいいと言い出す。すると、お崎の方は不満で、亭主の肩を持ち始め、のろけまで言い出す始末。

 呆れた仲人が、亭主のほんとうの料簡を知るための二つの話をお崎にする。

一つは唐(もろこし=中国)の孔子の話。

孔子の留守中に厩(うまや)が火事になって一番可愛がっていた白馬が焼死した時のこと。帰ってきた孔子は門弟や、家人の体のことを気づかい心配し、白馬のことには一言も触れなっかたという故事。

二つめは、瀬戸物に凝っている麹町のさる屋敷の旦那の話。

集めた品を客に見せた後、女房が瀬戸物をしまおうとして運ぶ途中に階段で転んだ時のこと。旦那は「瀬戸物は大丈夫か」しか言わず、女房に「怪我はなかったか」などとは一言も聞かなかった。以後、女房は里へ帰り、里の方からこんな薄情な家には嫁がせておくわけにはいかないので、離縁してくれと言われ、結局、離縁状を書くはめになったと言う話。

 お崎の亭主も瀬戸物に夢中だというので、仲人は亭主が一番大事にしている瀬戸物を落として割ってみろという。もし、亭主がお前の身体を少しでも心配すればよし、瀬戸物のことばかり言っているようなら見込みがないから別れてしまえと言う。

 お崎が家に帰ると亭主が夕飯を一緒に食べようと待っている。お崎は頃を見計らって、押入れから瀬戸物を出し、台所でよろけて割ってしまう。すると亭主は、お崎の体のことばかり心配し、瀬戸物のことは一言も言わない。うれし泣きして、

お崎 「あらまあ、嬉しいじゃないか。お前さん、麹町の猿になるかと思ってどれくらい心配したか知れやしないよ。お前さんは唐の学者だよ。ほんとによかった、嬉しいよ」

亭主 「何も泣くことあねえやな」

お崎 「お前さん、そんなにあたしのからだが大事かい」

亭主 「あたりめえだ、お前に怪我されてみねえな、あしたから遊んでいて酒が飲めねえや」

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この演目の枕で、『なんだって、あんなやつと一緒になってンだい?』、そう聞かれたお崎が、『だってさぶいン(寒い)だもん!』と答えています。江戸落語の面白さです。呑兵衛で役立たずだけど、おかみさんが、一緒にいる理由をそう言うのがいいですね。体も心も、温め合うのが夫婦、難しい理由を言わない落語の方が、真実味がこもっていて、実感がありますし、長持ちしそうです。

(NHKの「北風小僧の寒太郎」です)

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壁を壊そう

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<> at Harvard University on May 30, 2019 in Cambridge, Massachusetts.

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ドイツ連邦の首相であるアンゲラ・メルケル氏が、今年5月30日、アメリカ・マサチューセッツ州ボストンのハーバード大学の卒業式で祝辞を述べました。メルケル首相は、スピーチ冒頭にドイツの作家ヘルマン・ヘッセの言葉を引用。「すべての物事のはじまりには不思議な力が宿っている」とし、平和への思いと次世代への期待を熱弁しました。

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学長、フェローのみなさま、理事会、校友会、教職員のみなさま、卒業生を誇らしく思うご両親方、そして卒業生のみなさま。今日は歓喜の日です。みなさんが主役の日です。心よりお祝いを申し上げます。今日この場にいることをとても光栄に思うとともに、私自身の体験についても、少しお話ししたいと思います。

この卒業式で、みなさんの充実した、もしくは辛かった人生の一章が終わることになるでしょう。今まさに、新たな人生への扉が開いています。胸が高鳴る、感動的なことです。

ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、人生のこのような場面について、素晴らしい言葉を残しています。彼の言葉を引用してから、私の母国語でスピーチを続けたいと思います。

「すべての物事のはじまりには不思議な力が宿っている。その力は私たちを守り、生きていく助けとなる」。

私が24歳で物理学の学士号を取った時、この言葉に鼓舞されました。1978年のことでした。世界は東と西に分断されていました。冷戦の時代です。

私は旧ドイツ、つまりドイツ民主共和国で育ちました。母国は一党独裁政権の下にあり、自由はありませんでした。人々は抑圧され、国家の監視下に置かれていました。政権に反対する者は迫害されました。東ドイツ政府は、人々が自由を求め、脱走することを恐れました。ベルリンの壁が構築されたのは、このような理由でした。

それは、コンクリートと鉄の壁でした。壁を乗り越えようとしたところで発見された者はみんな、逮捕されるか、射殺されました。ベルリンを真っ二つにした壁は、人々をも分断しました。私の家族も引き裂かれました。

私は新卒で、東ドイツ科学アカデミーの物理学者となりました。私の住居は、ベルリンの壁のすぐ近くでした。毎日、研究所での仕事が終わって徒歩で帰宅する道の先に、ベルリンの壁がありました。壁の向こうにあるのは西ドイツ、つまり自由でした。

毎日、私は壁のすぐそばに行きますが、最後に折り返して、アパートに帰宅しなくてはなりません。日常の終わりに、自由から歩み去らなければならなかったのです。「もう限界だ」と何度感じたかはわかりません。すさまじい閉塞感でした。

私は反体制派ではありませんでした。壁に体当たりすることもありませんでした。一方で、自分に嘘をつきたくなかったので、壁を否定もしませんでした。ベルリンの壁は、私の可能性を狭めました。文字通り、私の行く手を阻んでいました。

しかし年月が経ても、壁が成し遂げられなかったことが一つだけあります。壁は、私の内なる思考を阻むことはできませんでした。私の人格、想像力、夢、願望は、どんな禁止や弾圧でも抑え込むことはできませんでした。

「ベルリンの壁」崩壊が意味するもの

そしてついに1989年が到来したのです。人々の自由への思いが、ヨーロッパ中で想像を絶する力を解き放ちました。ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、そして東ドイツでも、数十万人という人々が勇気を持って街路に集結しました。人々はデモを行い、壁を崩壊させたのです。

私自身を含め、多くの人々が不可能だと思っていたことが、現実となりました。かつては暗い壁だけがそびえていた所に、突如扉が開かれました。そして私にも、いよいよその扉をくぐる瞬間がやって来ました。一歩手前で自由に背を向ける必要はなくなりました。私には、境界を超え、広大な地へ足を踏み入れることが可能になったのです。

30年前のその数ヶ月間で私は、何も変わらないことは決してありえないと、初めて体感しました。卒業生のみなさん。私のこの実体験が、みなさまの未来のためにお伝えしたいことの、最初の一つです。もはや変えることができない、不変だと思われることでも、変わってしまいます。

大なり小なりに言えることですが、事実、全ての変革は思考から始まります。私の両親の世代は、これを大変な苦痛をもって学ばなければなりませんでした。私の父母は、それぞれ1926年と1928年の生まれです。2人はみなさんと同じくらいの年頃で、文明への裏切りを経験しました。そして、価値観の崩壊であるホロコーストと、第二次世界大戦が終結しました。

私の母国ドイツは、ヨーロッパと世界に想像を絶する災厄をもたらしました。戦勝国と敗戦国が、長い何月を和解せずに過ごす可能性は、十分にありました。その代わり、ヨーロッパは数百年にも渡る、旧来の争いを克服しました。結果として生まれたのは、虚勢に満ちた強国ではなく、連帯に基づく平和的秩序でした。

言い争ったり、一時的な後退が起きたとしても、私たちヨーロッパ人はより良きもののために団結してきたと、私は固く信じています。

(会場拍手)

また、ドイツとアメリカの関係は、かつての敵国が盟友になれることを示しています。1947年、まさにこの会場で卒業スピーチとして表明された「マーシャル・プラン」が大きな貢献をしました。

民主主義と人権という私たちの価値観に基づいた、海を越えたパートナーシップは、両国に70年以上に渡る平和と繁栄の時代をもたらしたのです。

では現在ではどうでしょうか?、私の世代の政治家は、もはや「リーダーシップの発揮」の政綱に従うことはなく、むしろ「歴史に残るリーダーシップ」と見なされることでしょう。

孤立するではなく、協働するべき

2019年ハーバード大学卒業生のみなさん。みなさんの世代は、ここ数十年のうちに21世紀における大きな課題に立ち向かうことになります。みなさんは、私たちを未来へと導くリーダーの一員です。

保護主義や貿易戦争は、自由貿易を危険に晒し、繁栄の基盤を揺るがします。デジタル化は生活の全般に及んでいます。戦争やテロリズムが起こると、難民や避難する人が生まれます。

気候変動は地球の天然資源を脅かします。気候変動と災害は人の手によるものです。この人類の危機を制御するには、人類の叡智を結集して対処できるはずであり、するべきです。そして、まだそれは可能です。

そのためには、自戒を込めて言いますが、私たち一人ひとりができる限りのことをして、物事を良くしていかねばなりません。私は、我が国ドイツが2050年までのクライメイト・ニュートラル(Climate Neural)の目標を達成することに、全力を尽くすつもりです。

私たちが力を合わせれば、より良い変革は可能です。単独行動しても大きな成果は出ません。そしてこれが、みなさんにお伝えしたいことの2つ目です。

私たちはこれまで以上に、一元的にではなく多元的に考え、行動するべきです。国粋主義的にではなくグローバルに、孤立主義ではなく世界主義に基づいて考え、行動するべきです。つまり、私たちは孤立するではなく、協働するべきです。

(会場拍手)

卒業生のみなさん。みなさんはこの件に関して、私たちの世代とは全く異なるチャンスを未来に有しています。みなさんのスマートフォンは、私が1986年に東ドイツで博士論文を作成する際に使用許可が下りた、ソ連製のIBM汎用コンピュータのレプリカよりも、おそらくははるかに優れた性能を誇ります。

(会場笑)

現在の私たちはAIを駆使し、何百万もの病理症例の画像をスキャンすることができます。例えば、癌をより正確に診断することが可能です。将来的には、情動発達ロボットが医師や介護士をサポートして、患者個人個人のニーズに対応できるかもしれません。どのような運用が可能かはまだわかりませんが、AIのポテンシャルは息を呑むほど大きなものです。

卒業生のみなさん。このチャンスを活用できるかどうかは、卒業生のみなさんにかかっています。働き方やコミュニケーション、人の生き方をどのように発展させるか、決定権を握るのは、まさにみなさんとなることでしょう。

首相として、これまで私は何度も自問自答しなくてはなりませんでした。私は正しいことをしているのだろうか? 私は正しいから何かをしているのか? それとも単にそれが可能だからなのか? みなさんも、この問いを繰り返し自分自身に問い直すべきです。

私たちを阻む「壁」を打ち壊そう

そしてこれが、今日私がみなさんにお伝えしたいことの3つ目です。人がテクノロジーのルールを設けているのでしょうか。それともテクノロジーが人間同士のあり方を下知しているのでしょうか。

私たちは人を、その多面性すべてにおいて尊重できているのでしょうか。それとも単に顧客、情報源、監視対象としてしか見ていないのでしょうか。これは難しい問いです。この難問の答えを得るには、常に他者の視点で世界を観察すべきことを、私は学びました。

他者の歴史、伝統、宗教、アイデンティティに敬意を払うのです。自分が大切に思う信念を決して譲ることなく、それに従って行動するのです。

内なる衝動に従うことができなくなったら、どんなに英断を求められる重圧下にあっても、いったん足を止め、沈黙し、考察し、一息つくべきです。もちろん、これには大きな勇気が必要です。

何よりも、他者へ真摯に向き合う態度が要求されます。そして、もっとも重要なことかもしれませんが、自分自身に偽らずに向き合うことが必要です。

そしてそのスタート地点として、世界中から若い人が集い、真実というモットーの下で学び、研究し、この時代の問題について議論が行われている、まさにこの場以外にあり得ません。それには、嘘を真実とせず、真実を嘘としないことが必要です。また不当な苦しみを当たり前のこととして受け入れないことです。

卒業生のみなさん。みなさんや私たちを阻むものは何でしょうか。それはやはり、壁なのです。心の中の壁、無知の壁、狭量な思考の壁です。この壁は、家庭内や社会の集団、肌の色の違い、民族、宗教の間にも存在します。みんなでこの壁を打ち壊しましょう。

(会場拍手)

世界共存の実現を、何度も阻んできた壁です。成功するかどうかは、私たちにかかっています。そして卒業生のみなさん、これがみなさんに伝えたいことの4つ目です。

当たり前のことなど、何一つとしてありません。個人の自由、民主主義、平和と豊かさも、当たり前ではないのです。

しかし、もし私たちが壁を打ち倒し、扉を開いて広大な場所に一歩を踏み出し、新たなスタートを切ることを受け入れれば、どんなことでも実現可能です。壁は崩壊し、独裁制は消滅します。地球温暖化を食い止め、飢餓を乗り超えることができます。病気を根絶できます。教育の機会を人々に、とりわけ女の子に与えることができます。難民や避難民が生じる根源と戦うことができます。すべては実現可能です。

(会場拍手)

「終わり」のない「始まり」はない

「何を始める時に、できないことを上げつらったり、今まではどうだったかを問うのはやめましょう。何ができるのか、これまで一度もなされなかったことは何かを問いましょう」。

これは、ドイツ連邦共和国の新首相として、当内閣初の女性として、2005年、私がドイツ連邦議会で初めての所信表明演説として表明した言葉の再現です。そしてまさにこの言葉を、お伝えしたいことの5つ目として、みなさまにお伝えしたいと思います。

これほどのことが実現可能なのか、これほどの力が自分たちにあるのかと、自分でもおどろくようなことを実現させましょう。

私の人生では、約30年前のベルリンの壁の崩壊が、開かれた地へ足を踏み出すきっかけを与えてくれました。私は研究者としてのキャリアを捨て、政治の世界へ足を踏み入れました。それは、みなさんのこれからの人生同様、胸がワクワクするような、魔法のようにすばらしい時でした。当然のことながら、疑念や不安もありました。

私たちはみんな、過去は知っていても、未来にあるものは知るよしもありません。みなさんも今日、卒業式の大きな喜びのただ中にあっても、そんなわずかな不安を感じていらっしゃるかもしれません。

お伝えしたいことの6つ目です。広大な地に一歩を踏み出す瞬間は、同時にリスクを背負う時でもあります。古いものを手放すことは、新たな始まりの一部です。終わりのない始まりはありません。夜が訪れない昼、死のない生もまた存在しません。

私たちの人生はすべてこの変化、つまり始まりと終わりの間からできています。この間(はざま)に存在するものを、私たちは人生や経験と呼ぶのです。

始動の魔法を感じ、チャンスを活かし切るため、私たちは時に、何かを終らせることを意識していなければなりません。これは、私が学生として、科学者として得た経験であり、政界で得た経験でもあります。私の政治家としての人生をまっとうした後に続くものは何でしょうか。知るよしはありません。広大な地が広がっています。しかし、これだけは確かです。これもまた、今までとはまったく異なる、新たなものになるでしょう。

メルケル首相、希望の6か条を託す

だからこそ、みなさんにこれらの希望を託します。6つあります。

1.無知の壁、狭量な思考の壁を打ち壊しましょう。不変のものなど何もありません。

2.グローバルで多国間の利益となる共同行動を起こしましょう。

3.常に自問自答し続けてください。自分は正しいからこれを行うのでしょうか。それとも、単にできそうだから行うのでしょうか。

4.自由とは当然あるものだと、決して思ってはいけません。

5.これほどのことが実現できるのかと、自らを驚愕させてください。

6.広い場は、常にリスクを伴います。古いものを手放すことは、新たな始まりの一部です。

そして何にもまして、当然あるものなどは何もありません。あらゆるものが、実現可能なのです。ありがとうございました。

(会場拍手)
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芥川賞作家に火野葦平がいます。福岡県北九州市(若松)の出身で、早稲田に学んでいます。1937年(昭和12年)に、「糞尿譚(ふんにょうたん)」で文壇の登竜門である芥川賞を受賞しました。また「麦と兵隊」、「土と兵隊」、「花と兵隊」で、《兵隊作家》と呼ばれ、流行作家の売れっ子でした。ところが戦争が終わってから、〈戦犯作家〉の汚名を着せられ、公職追放となってしまうのです。

火野自身、二度、兵士として軍隊生活をしています。1937年に、日中戦争に駆り出されますが、翌年、芥川賞を受賞式が、大陸の出征先で行なわれています。あの〈南京攻略〉の時には、報道部へ転属となっています。その時、中国軍の捕虜が全員殺害された様子を、手紙で知らせているのです。

軍歌に、『徐州徐州と人馬は進む・・・』とある、徐州進撃の日本軍の隊内や兵士にあり様を著したのが、「麦と兵隊」でした。私の父と火野葦平は同世代でした。この火野葦平のお父さんは、石炭の荷役で、若松港で「玉井組」の親方をしていた方でした。このお父さんの一代記が、1952〜53年に、読売新聞に連載された、「花と龍」でした。好評を博した小説で、何度も映画化されています。

私は、高倉健が演じた映画を観たことがあります。港湾で、石炭などの荷役をする労務者を、「ゴンゾウ(沖仲仕/おきなかし)」と呼びました。火野葦平自身が、「青春の岐路」で、次の様に、沖仲仕を解説しています。『請負師小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒と博打と女と喧嘩とによって、仁義や仁侠を売り物にする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている。』とです。

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私は学校に行っている時に、特段にバイト料が高かったので、この「沖仲仕」をしたことがありました。まだ朝が来る前から〈立ちん坊〉をし、手配師が、『お前、お前・・・・お前!』と指差しで選んで、その日の仕事に雇われるのです。横浜や芝浦では石炭の積み下ろしはありませんでしたが、ポンポン船に乗って船に行き、その船倉からの荷揚げなどの仕事でした。その日の仕事にあぶれると、〈売血〉でお金を手にするのです。私は、元気でしたから、彼らから仕事の機会を奪ってしまっていたかも知れないと思うと、申し訳ない様な思いに駆られます

アフガニスタンで銃撃されて亡くなられた中村哲氏は、この「花と龍」の主人公・玉井金次郎が、母方の祖父に当たるのだそうです。ですからお母様は、火野葦平の妹に当たるわけです。おじいさんは、龍の彫り物をしていて、義侠心に富んだ名物男だったそうです。しかし、中村哲氏は、「義」に溢れておいでで、社会的な弱者のハンセン氏病を病んだ方たちへの医療に当たった方でした。後に、砂漠の民の農業や飲料水のための灌漑用井戸や水路の敷設に力を注がれておいででした。

そのお働きの途上で、襲われて亡くなられたのです。アフガニスタンの大統領や国民から、「英雄」の様に慕われ、その死を惜しまれる様子は、尊敬に値します。名のためでも、財のためでも亡く、困窮する人にために尽くそうとした志は、素晴らしいものであります。

(大統領が担ぐ中村哲氏の棺、向井潤吉の筆による「花と龍」の挿絵です)

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光と陰

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子どもの頃に、「偉大な日本人」として、幻灯や紙芝居に描かれた人物がいました。小説家や映画俳優や野球選手ではなく、科学者でした。教育界では、『君たちは、こんな科学者になって欲しい!』と、《日本人の誇り》と謳われていたのが、「野口英世」でした。

福島県の猪苗代湖の貧しい農家で生まれ、1歳の時に、どこの農家にもあった〈囲炉裏(いろり)〉に落ちて、左手の指に、大きな火傷を負うのです。それで、「てんぼう」という渾名がつけられていじめられます。でも学校の成績は優秀で、高等小学校の時に、みんなに募金を働きかけて、会津若松の医師によって、整形手術が施されます。

その手術の成功で、清作(野口英世の幼名)は、将来医者になる思いを強くするのです。こう言った物語で始まる紙芝居を、感動しながら観たものです。後に、日本医科大学の前身の学校などで医学を学び、アメリカの大学や研究所に留学をして、ペンシルバニア大学の助手、ロックフェラー医学研究所の研究員などを歴任します。

そして、野口を有名にしたのは、細菌学者としての功績でした。アメリカで「梅毒の研究」、エクアドルで「黄熱病の研究」をして、ノーベル賞候補にもなりましたが、アフリカのガーナで、黄熱病に感染して、51歳で亡くなっています。国際社会で活躍した人で、「千円札」の肖像になっています。

しかし、この野口には「陰」の部分があることを、大人になってから、私は知ります。これは個人のことですが、若い頃は放蕩な生活を送ってるのです。子どもの私が知らなかった点です。また、研究の被験で、〈人体実験〉も行っていたのが判明しています。孤児らに、梅毒菌を接種していて、その野口の研究姿勢を社会は糾弾していました。

ある物質が、梅毒の血清に使えないか 、400人もの被験者に人体実験を行っています。しかも、その被験者の多くは、精神病院の入院患者、施設の孤児、公立病院の患者でした。実験について事前に説明したり承諾を取る様なことはしていなかったのです。パスツールが、自分の子どもに、種痘を植えて、実験としたことが有名ですが、野口の被験者の人選には、人権問題が潜んでいるのです。

何度もノーベル賞候補になりながらも、受賞にいたらなかった理由が、この辺のことにありそうです。〈科学優先〉で、人間の尊厳を無視したことは受け入れることはできません。『多くの人の益のために、少数者、しかも障碍や弱さを持つ人の犠牲はやむを得ない!』と言った論理がまかり通るとしたら、大問題です。

伝記を読んで、英雄視していた子どもの私には、人となりの全体像を見て評価することなどできませんでした。自然の猛威を鎮めるために、人身御供が行われていた時代や部落があった話も、子どもの頃に聞いた覚えがあります。『仕方がなかった!』と言う言い訳は通用しないのです。

(友人が四月に撮影した写真です)

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カレー

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「統計」が面白いのです。学問にも「統計学」があり、社会学の一分野なのです。新聞社が、無作為に選んだ一定数の人に質問をし、得られた回答で、内閣や政党や政策の「支持率」を調べて、新聞紙上で、公表しています。どこの新聞社も、同じように調査すると、だいたい同じ数値が出てくるところに、この「統計」が持っている妙味がありそうです。

『日本人は、一年に何度ど<カレーライス>を食べるか?』を食品会社が調べました。どのような調査方法をされたか分かりませんが、その結果は、<78回>でした。そうしますと月に6回以上、週に1回以上も食べていることになります。「国民食」とまで言われるほどの人気料理であることがうなずけます。

3年ほど前でしたが、帰国時に、すぐ上の兄と弟と、父の故郷の横須賀を訪ねました。叔母と従兄弟が住んでいて、お元気な内にと、表敬訪問をしたわけです。ずいぶんしばらくぶりの訪問でした。兄はJRで、弟と私は京浜急行で行ったのですが、JRと京急の駅は別々にあって、結局兄はタクシーで、京急の駅に回って来てくれたのです。横浜駅で落ち合う予定でしたが、会えないままだったのです。

叔母の家で談笑して、昼食にお寿司をご馳走になってから、東郷平八郎の「三笠艦」を見学しようということで、従兄弟も一緒に四人でワイワイし、港遊覧船にも乗ったのです。

それから、『ここに来たのだから!』と、「海軍カレー」を食堂で食べたのです。流石プロ、自分が作るのよりも、はるかに美味しかったのです。期待感もあり、外で伝統食を食べたので、より、そう感じたのでしょうか。「国民食」になった所以は、ここで食べた海軍の兵隊さんが、自分の田舎に帰って、見よう見まねで作って、家族や親戚や友人に振舞って、それで日本中に広まって行ったのだそうです。その後、四人で焼き鳥まで食べてしまいました。

在華の折、訪ねてやって来る学生や友人家族のために、何度、カレーライスを作ったか分かりません。そのカレーは、牛肉、ジャガイモ、ニンジン、ニンニク、ナス、トマト、りんごを煮込み、塩、醤油、ケチャップ、コンソメ、ココナッツパウダーとカレールーで調味して作っています。トマトを結構多く使うので、酸味を感じますが、それとココナッツパウダーが合うのでょうか、我が家にやって来る学生さんたちは、『とても美味しい!』と喜んでくれました。

中国の街にスーパーでは、擬似カレールーが売られていて、専門店においてある日本の物とは、味が違っていました。でも、みなさんは、カレーを食べる様になってきているのです。わが家の冷凍庫には、作り置きが凍らせてあって、不意の来客時に溶かして出すのです。けっこう便利です。

帰国後、あまり作っていないのです。家内の食が変わったのか、ちょっと刺激が強いのか、食べないからです。また作って見ることにします。

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