735

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《735回》、このブログは、消失したものを加えると、これまで3000回以上の投稿になるのですが、その中で、一番多く話題や主題、軽く触れたのが、「父」なのです。数えてみますと、今朝のブログで、こんな投稿数になっています。

「母」に比べて、100回ほど多いのです。男の子は、《父との関係性》の方が、より大切なのかも知れません。ところで日本人の傾向は、母系社会だと言われるからでしょうか、母親との関係性が、民族的、社会的に強いと言われています。そうしますと私は、“ ファザー・コンプレックス(マザー・コンプレックスも含めてこれらは和製英語だそうで英語にはこんな表現はありません) “ が強い、〈日本の異端〉なのでしょうか。

ある時、家内と私を、とてもお世話してくださった方がおいででした。長い間支え、激励してくれたのです。この方が、食通、今流で “ グルメ"で、住んでいた街の和食、中華、焼き鳥などの店を連れ歩いてくれたのです。街中の鰻屋に連れて行ってもらった時に、新酒を注文されて、『ちょっと飲んでみませんか!』と、その時、お酒を勧められて、猪口(ちょこ)で一杯飲んだのです。40年ぶりのことでした。

若い時の酒で、美味しいと思ったことはほとんどなかったのですが、その時は、実に美味しかったのです。眠った子が起きまいかと心配しましたが、起きませんでした。この方が、だいぶ飲んだ後に、『お母ちゃんに逢いてえよ!』と、突っ伏して泣き出したのです。

懐かしい御母堂を思い起こしたのでしょう、60過ぎの男が、そう言って感極まって叫ぶように泣いたのを見聞きして、『いいなあ!』と、正直に思ったのです。それが自由な彼への印象でした。お父上は壮健で、お小遣いをもらいに、ちょくちょく顔を出す方でした。お父上を、彼は良くは言ってなかったのです。育ったのが、だいぶ複雑な家庭だったのを、この方から聞いたことがありました。

彼の様に、母を思い出して涙を流したことは、私にはありません。天寿を全うして95で召されましたし、どこに行ったかが分かり、再会の望みがありますので、泣いたことはないのです。ただ父が亡くなった時は、勤め先から病院に着くまで、滂沱(ぼうだ)の様にして泣き続けました。もっと親孝行をしたかったのに、できなかったとの悔いがあったからです。

父も、没後の所在は分かっていますし、再会の望みもあります。でも突然死、退院の朝の死は辛かったのです。兄が、父を葬り、4人で父の最後を見守りました。父は、辛い幼少期を過ごし、青年期は反抗的な生き方もあったのですが、母との結婚をする頃の二十代後半には、妻を迎え、子育てに当たる準備ができていました。親燕の様に出掛けて行っては、餌を運び続けてくれた父でした。

そうして一人前の男に育て上げてくれたのです。〈青春の蹉跌(さてつ/思い通りにならない挫折とか失敗のこと)〉って、誰にでもあるのでしょう。生まれた家の格式、伝統、見栄や面子が、子どもの一生に悪影響をもたらすことがあるのです。多少、誰もが傷を追いながら生きるのでしょう。父は、それを超えて生きたのです。

昨日の朝は、巴波川の流れが、雨で増水しているのですが、多くのツバメが水面を飛び交って餌をとっているのが眺められました。あんな風にして二親が育ててくれたのだと感謝が湧き上がってきます。戦後の食糧難の中、米も味噌も油も、わが家では尽きませんでした。あんな風に育ててくれたのは、本能ではなく、親の深い愛だったのですね。

それが大人になって分かってから、父を真正面で捉えられる様になりました。欠点ではなく、《父の優点》が思い起こされてきて、父への過分な期待過剰がなくなり、在りのままで父を受け入れられる様にされたのです。私が、自らの人間的な未熟さから、失敗を通して学んだ結果なのでしょうか。あのソフトクリームもカルメも美味しかったなあ、の梅雨の最中の朝です。

(「写真AC」から燕です)

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祝福

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世界中で、自分の住む国、街のために、世界中の国や街のために、さらに祝福や平和や恩恵を求める歌が歌われています。現下の厳粛な事態や問題を見ても、悲観しないで、悲痛な顔をやめて、将来と希望が与えられるように、大能者に向かって歌われているのです。

シンガポールで、オーストラリアで、マレーシアで、ジンバブエで、カナダで、アメリカで、インドネシアで、その歌が歌われています。科学万能の時代の真っ只中で、人は自分の非力さを悟り始めています。スーパーコンコンピュータを作ることができ、宇宙旅行の実現目前の人類が、目に見えない微小な物に翻弄されている、これが世界の現実です。

ところが人類史上、コレラ、スペイン風邪、天然痘、結核、ハンセン氏病などで屈服させられ続けてきた人類が、それらを克服できたのは、人間の科学的な研究努力だけでよっただけはなく、時間の経過で消滅され、押さえ込まれた、と言えます。偶然などではありませんでした。

対抗薬や特効薬の発明でも、人が見付けるのですが、その特効や対抗の薬の原材料は、天然の中に、すでに備えられていたことによります。人を滅ぼすまいとする、大いなる意志があって、全てが成ってくていると考える以外にありません。人は、それを見付けた、見付けさせていただいたに過ぎません。

小学校の入学前に、私は肺炎に罹って、死にそうになりました。国立病院を退院する時、母は、医師に、『今度肺炎を起こしたら、死んでしまうので、風邪をひかない様に!』と警告されたそうです。それでも何度か再発を繰り返しましたが、そんな中を生き延びられました。母の必死の看病や世話のおかげです。

生き延びたのですが、ずいぶん人に迷惑をかけながら生きてきたのです。ペニシリンやストレプトマイシンなどの薬効によったのですが、『生きよ!』と願われる生命の付与者の保持であったとしか考えられません。もちろん母の献身や医療がありました。

それで生かされた意味を、探しながら、そして感謝しながら、今日まで生きてきました。そして、私も《歌う者》に変えられて、歌うのです。『世界を祝福してください。平和をもたらしてください。この問題から勝利させてください。祝福します!』と歌うのです。

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精神の恢復を願う

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現代は、あまりにも、多くの情報が世上に湧きかえり、百論出議と言うよりは、情報過多の時代の真っ只中に、私たちはあります。100の情報源が、100の意見を述べて、発信元によって違う意見が、実に錯綜しているのかも知れません。

今回の「コロナ騒動」の中で、疫学の研究者の弁よりも、素人の見解や政治的な思惑が多く出回っていて、どう聞くかに迷ってしまいまうのです。さらに〈暴露本〉なども多く出版されています。どれも、「事実」から、感情論に陥ってしまっていて、『人の感情に振り回されたくない!』と思うこと仕切りです。

どんな時代がやってくるのでしょうか。私を育ててくれたアメリカ人の起業家は、将来に起こることを、よく話して教えてくれました。その一つが、ご自分の国の将来についてでした。『いつかアメリカは経済、財政、文化などの面で、全世界に対する、良い影響力を失うようになります。特に財政的な力が弱くなり、これまで支えてきた弱小国を援助できなくなるのです。特に、中東で、イスラエルを助け切れなくなる時がくるでしょう。』と言ったことがあました。半世紀も前の話です。

《アメリカの弱体化》は、最近特に目立ち始めていないでしょうか。激しい言葉が、暴力や暴動を生み出して、多くの街でデモが起こり、社会不安で、この国が溢れています。それらは、将来への不安定さで不安や恐れが、人々の心の中に溢れているからに違いありません。

「建国の理念」など、もう忘れ去られ、絶対的な基準が失われて、失望をアメリカ市民に生み出しています。私は、“LALA(Licensed Agencies for Relief in Asia)物質“ に養われた世代です。アメリカの篤志家たちが、占領国の学童の栄養補給のために、大きな缶に入った「スキムミルク」を、終戦後、贈ってくれました。日本中の学校では、それを水に解いて沸かし、カップで飲ませてくれたのです。

それは私の骨が強くされるために、きっと良い栄養補給だったに違いありません。戦争に負けた憎しみよりも、戦後にしてくれたことへの感謝があるのです。私が教育を受けたのも、アメリカからやって来られた教育者で医師だった方が始められた学校でした。そこで学ぶことができたのも、感謝な思いでおります。

母も兄弟たちも、そのアメリカ的な良き感化を受けて、過ごすことができたのです。と言うよりはアメリカを支え続けてきた良き伝統の影響力と言った方が良さそうです。民族的な日本主義に凝り固まらないで、《ものの考え方》に均衡を持つことができたのは、私にとっては宝なのです。特に長じてから、8年間も、この起業家と、彼の友人たちから、様々に良い影響力を受けました。若い時期に学んだことが、今の在り方の基礎、強い根幹になっているに違いありません。

それで、アメリカ社会の現状を憂えているのです。どうしようもない、大きな力がアメリカに襲いかかって、健全な基盤や脊柱が破壊されているように感じるのです。もちろんアメリカが全部良いと思っているのではありません。ただ感謝を覚えるからなのです。娘たちや孫たちの生活圏でもあるからです。健全な精神の恢復を、心から願う、夏至の過ぎた朝です。

(合衆国の成立時の様子を描いた絵画です)

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コウシンソウ

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「わたらせ渓谷鉄道」の沿線の庚申山や、奥日光の男体山の山中に自生する花で、「庚申草(こうしんそう)」です。特別天然記念物に指定され、絶滅危惧種なのだそうです。先週、小遠足に行った「わたらせ渓谷鉄道」の電車の窓から遠くに眺めることができた山中に咲く、食虫植物です。この自然界には、まだ人に見付けられていないで、密やかの咲く花が、まだまだあるのでしょうか。

(〈日光旅ナビ〉掲載の「庚申草〈こうしんそう〉」です)

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舟を漕ぐ

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私の育った多摩地区の街に、昔、「渡し」がありました。江戸期、徳川幕府は架橋を禁じましたから、川の流れを、渡し舟や渡人足が、人や馬や荷を運んだのです。1941年、戦時歌謡として、作詞は武内俊子、作曲は河村光陽で、「船頭さん」が歌われ始めました。

1 村の渡しの船頭さんは
今年六十のお爺さん
年を取つてもお舟を漕ぐときは
元気いっぱい艪がしなる
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

2 雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて舟漕ぐ お爺さん
けさもかわいい 子馬を二匹
向こう牧場へ 乗せてった
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

3 川はきらきら さざ波
渡すにこにこ お爺さん
みんなにこにこ ゆれゆれ渡る
どうもご苦労さんと いって渡る
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

この歌詞は、戦後、軍事色を除いて改作さたもので、長閑(のどか)な、風景を思い起こさせてくれる歌です。六十になると、男は、この歌を思い出して、自分に当てはめて、こっそりと歌うのだそうで、私も例外ではありませんでした。『もう六十、還暦!』と、ショック気味になって、切なく歌いました。

夏休みになると、兄の後の追っかけで、川に行って泳いだり、潜ったりしました。高学年になると、友だちや近所の遊び仲間と連れ立って、川泳ぎを楽しみました。

江戸に行くには、その川を渡らなければなりませんでしたから、高速道路で一っ跳びで通過する現代人には、想像のつかない悠長さと煩雑さがあったのでしょう。川の水の増水で、足止めになることもしばしばのことだったのでしょう。ちょうど今頃の梅雨の時期には、急がなければならない旅人はやきもきしていたに違いありません。

江戸川を、柴又と下総(しもうさ)の松戸の間の「矢切の渡し」は、どこにでもある渡し場で、特に有名でもなかったのですが、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の舞台であり、また歌で歌われた昭和になってから有名になってしまいました。ここ栃木の巴波川は、舟運でこの江戸川(新利根)を上り下りしていたことでしょう。

もう少し若かったら、盥舟(たらいぶね)かゴムボートで、巴波川、渡良瀬川、利根川と下ってみたいのですが、無謀な計画だと言って、誰からも非難されることでしょう。華南の街の新旧市街を分けている川は、いつも誘惑でした。上流に世界遺産があって、小舟で遡上するなら行くことができそうで、貨物船の船長をされていた方がいて、この方を誘惑したのですが、ただニコニコされていただけで、相手にしてくれませんでした。

六十の船頭さんだったら、艪をしならせて、自在に舟を操ることができるでしょうね。ところで政治家も官僚も、国を動かす人は、五十代くらいでないと務まりません。ある時、国会の様子を撮った写真に、われわれ世代の代議士さんたちが、椅子の上で舟を漕いでおいででした。寝ずの番をしなければならない激務に携わるのは、もう年齢的にも、体力的にも、もう無理だということでしょうか。殊の外、一国の首長も、若く俊敏でないと無理に違いありません。老害と言われる前に、職責を譲らなければいけません。

先月のことでした、この歳になって、家内の付き添いで、病院の待合室で、生涯初めての居眠りをしてしまいました。不徳よりも、年齢、さらにコロナでマスク装着で、酸欠気味もあったかも知れません。もう私たちの時代は、過ぎた証拠です。かの国では、処刑ですからね。涎(よだれ)を手で拭って、ニコニコなどしてはおられません。目の下がたるんできたら、もう時節到来、引退の〈潮時〉なのでしょう。

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乖離

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常々思っていることです。心理学を学んでカウンセラーになろうとする人、社会福祉学を学んで心身に障碍(しょうがい)を持っておられる人の援助者になろうとする人、また様々な分野でのボランティアをしようとする人には、やはり独特の動機付けがあります。これは全ての人を言っているのではなく、そう言った傾向があるという意味でです。

例えば、身内の兄弟姉妹や家族や親族が、様々な必要を持っていますと、そうでない人に比べて、社会的な精神的な肉体的な弱者に同情的に、献身的になられる様です。それで職業選択についても、普通の会社勤めをするよりは、医療や福祉関係を選ぼうとする傾向が強くなるのかも知れません。

もちろん優しい心の持ち主で、どうにかして助けて上げたい、一緒に生きていきたいと思う方が多くおいでです。アメリカ社会は博愛精神が溢れるほどにあって、様々なボランテアが行われています。賀川豊彦は、神戸の新川という、当時のスラム街(貧民窟)に、1909年に入り込んで、窮民救済のために労し続けました。彼の生活ぶりを、一人の慶應義塾の学生が、次の様に記しています。

『・・・当時神戸で、新川といえば、市内最大の細民街を意味するように、いつのまにかなっていたのである。一年中乾くまもない低湿地帯だったこの辺は、すこしの雨でも、たちまちあたり一面水浸しになった。そうした不衛生な自然の環境に、畳が一戸あたり二畳から四畳ぐらいしかない棟割長屋が庇(ひさし)と庇をくっつけて幾十と並んで、その戸数は約2000戸(明治末)あったという。だから、狭い家には、一日中、陽があたらず、つねに暗く、2メートルもない狭い路地には、浅い溝から汚水があふれ出て、ところどころ水溜りをつくっていた。

そこには、何らかの労働災害で不具になり、働き場所から放り出された人たちや、失業者、寡婦、事業に失敗した人たち、生活能力を失って転落して来た人たち―その犠牲になった人たちが、さまざまな差別をうけ、何の保護もあたえられずに住みついていた。彼らは、にわか仕込みの技術で、たとえば、履物直し、皮革職人、手伝い、掃除夫、葬式人夫などをやって飢えない程度に糊口をしのいでいた。マッチ工場の職工や沖仲士のように、職のある者はいい方である。大半は、その日その日をようやくしのぐ生活であった。明治末年で約8500人ほど住んでいたといわれる。その後、新川の住人は、日増しにふえていったようだ。』

賀川は、困窮し、不衛生な生活をしている人を見捨てられませんでした。実は、この人は、「芸者の子」として誕生していました。そう言った生まれの背景の人が、みなさん同じだとは言えませんし、それを私は嫌っているのではありません。なぜなら、彼が選んだ境遇ではないからです。その様な生まれの背景も、社会的弱者に心を向けて生きていく、一つの動機であったかも知れません。

長じて明治学院や神戸の学校で学んでいますが、社会的な弱者への同情は強烈でした。今、どこの街にもある、「生活協同組合(コープ)」を始めた方でもあります。そう言った誕生の背景が、彼のやっていた社会事業との間には、強い関係がありそうに思われるのです。

これは、思想的にも言えそうです。精神的に辛い経験をしている人の洞察や考えは、今まさに同じ境遇にある人に受け入れられ、共感する様になります。『類は友をもって集まる』と言うのでしょうか、中国語にも、「物以类聚=wù yǐ lèi jù」と言う言葉があり、英語にも、“ Birds of a feather flock together “ と言う表現があります。同じ羽を持っている鳥は群れるわけです。

これには《強さ》もありますし、〈弱さ〉もあります。それで、自分と同色、同類の集まりから出て、全く違ったものの感化を受けようとする人もおいでです。『何か惹かれるものがある!』と言って惹かれていくと、けっこう狭量な世界に入り込んでしまい、広く、高く、公平に考えたり、結論づけたりできなくなることがあるからです。それで、無理に、そう言った風にするのです。

偏り過ぎた思考や行動から自由になることは、どうしても人には必要です。発想の転換と言うものは、自分の趣味や性向や傾向を、よい方向に変えさせてくれます。私も偏向傾向の考え方に囚われていましたが、そうでない考え方を理解することによって、偏執から出ることができたのです。

同じ傾向や思想の書籍ばかり読まないで、同意見の論者の論に傾倒ばかりしないで、全く違った観点や考え方に、私も学んだことで、均衡が取れた様に思えるのです。病質者の思考は、素晴らしくとも、その方の根本の問題が露わにされると、『やっぱりそうだったのか!』と思えるのです。思想や思考の形成期や背景に、気をつけなければいけない点です。

教育論で優れた方が、その論とは裏腹に、自分の何人もの子の子育てを放棄していた事実を、後になって知らされて、私は、そう言った考え方をすべきだと軌道修正したのです。その人の思想と、その人の実態とが、もし大きくかけ離れているなら、どんなに優れた思想でも論でも、受け入れない様にしたのです。一度慣れ親しんだものから、出るのはけっこう骨ですが。

賀川豊彦についても、そうでした。戦時下での彼の変節、戦後の無反省を知った時、いかに素晴らしい社会事業家であったとしても、『どう言う人だったのか?』を知って、人物像も偉業も、見方を変えてしまったのです。幾度もノーベル平和賞候補になりながら、受賞に至らなかった理由が、その辺にあったのかも知れません。もちろん、だれにでも弱さがあります。『何をしたか?』、『どんな思想だったか?』が、《人となり》と大きく乖離(かいり)していたら、気をつけるべきだと学んだのです。あくまでも、これは私の意見であります。

先日、この生活協同組合の会員になり、自転車でちょっと遠いのですが、COOPに出掛けて買い物を始めました。もう一つ、宅配サーヴィスの「よつ葉生協」にも入っていまして、けっこう好い物が精選されていて、食が安全に保たれそうで感謝しています。これは主夫の弁です。

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果して

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2010年5〜11月まで、上海で、「世界博(上海国際博覧会/世博shibo)」がありました。その開会のセレモニーで、谷村新司が、「昴(すばる)」を歌ったのです。

1 目を閉じて何も見えず
  哀しくて目を開ければ
  荒野(こうや)に向かう道より
  ほかに見えるものはなし
  嗚呼(ああ) 砕け散る
  運命(さだめ)の星たちよ
  せめて密(ひそ)やかに
  この身を照らせよ
  我は行く 蒼白(あおじろ)き頬のままで
  我は行く さらば昴よ

2 呼吸(いき)をすれば胸の中
  凩(こがらし)は吠(な)き続ける
  されど我が胸は熱く
  夢を追い続けるなり
  嗚呼 さんざめく
  名も無き星たちよ
  せめて鮮やかに
  その身を終われよ
  我も行く 心の命ずるままに
  我も行く さらば昴よ
  Mmmm……(ハミング)
  嗚呼 いつの日か 誰かがこの道を
  嗚呼 いつの日か 誰かがこの道を
  我は行く 蒼白き頬のままで
  我は行く さらば昴よ
  我は行く さらば昴

これ以前に、谷村は、上海の音楽学院に招かれて、教授として教えてきておりました。この「昴」は、谷村と同世代の中国の人たちの圧倒的な指示を受けていますが、若い人たちにも、大変人気な日本人歌手、音楽家として評価されています。

『この日本人の先生は、本物の音楽を教えてくれた。本物の音楽は、心で歌われ、心を響かせるものだ。それに比べ、万博開幕式に出演した中国人のスーパースターたちには、すっかり失望した。自分が感動していない歌で、人に感動を与えられるわけがない。谷村先生アリガトウ!』とまで、ある方は言っていました。

私は、その日、華南の街の学校で、日本語を教えていたのですが、学生さんが、次の様に言っていました。『あんなお爺さんが、精一杯の声で歌っているのは素晴らしいです。私たちの国では老人が、人の前で歌を歌い、そんな風に溌剌とすることなどないからです!』と。

谷村は、この時、62歳でしたし、私は66歳だったのです。『自分たちの国に来て下さって、中国人を愛し、仕え、教えてくださるのに感謝してます!』と私の学生さんも、感謝を表してくれました。かつて日本がしたことにしたら、感謝など受ける資格などはなく、私は、ある面で、《償い》の気持ちで、学校や倶楽部で奉仕させていただいていただけでした。

それにしても、「世博的开幕式kaimushi(開会式)」で、日本人の歌手が招かれて歌ったことに、驚かされたのです。実行委員会が、そう言った「選び」をされた、その懐の深さが感動的でした。果たして逆に、そう言ったことが私たちにはできるでしょうか。

(上海の世界博の会場です)

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父として遇する

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 今日は「父の日」で、午後3時に、コーヒーを淹れて、飲もうとしていたら、玄関のインターホンが “ピンポン!” となりました。郵便配達の方が小包を届けてくれたのです。嫁からのギフトの菓子箱でした。このタイミングが不思議で、嬉しくなって家内とコーヒーで、美味しく頂いたのです。それで、自分の父を思い出しました。

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     「父は父なるが故に父として遇する」

 中国で日本語を学ぶ日本語学科の教科書の中に、日本の歌がいくつか掲載されています。その中で、学生のみなさんの誰もが知っている歌の一つが、「四季の歌」です。

 一緒に歌ったりしますが。荒木とよひさが、学生時代に怪我をして、湯治をしていた妙高高原で、あたりの風景を眺めながら作詞したのです。それに、彼自身が曲を付けたのが、この歌です。芹洋子などの多くの歌手が歌っていました。

    春を愛する人は 心清き人
    すみれの花のような ぼくの友だち

    夏を愛する人は 心強き人
    岩をくだく波のような ぼくの父親

    秋を愛する人は 心深き人
    愛を語るハイネのような ぼくの恋人

    冬を愛する人は 心広き人
    根雪をとかす大地のような ぼくの母親

 四季の移り変わりを歌った、実に清楚な歌です。やはりハイネの詩に憧れる気持を表現しているのですから、青年が詠んだものであることが一目瞭然ですね。

 とくに「父親像」がいいのです。毅然とし、確固としている「父」は、このところ流行りの「友達のようなお父さん」でないのがいいのです。〈ゲンコツ親爺〉、〈ガミガミ親爺〉、それでいて〈涙もろい親爺〉の方が、男の子のうちに〈父性〉を築きあげていくのに、二人の息子を持つ父親として理想的ではないかと感じるのです。

 さらに女の子にとっても、理想の「男性像」は、先ず父親から始まるのですから、〈男気〉が旺盛な方が、いいのではないかと、二人の娘を持つ父親として感じるのです。

 今月は、父の誕生月でした。晩婚だった父の三男として、中部山岳の山の中で生まれた私は、誰もが、そうであるように、〈父の背中〉を見ながら育ったのです。祖父に連れられていったことのある集会で、歌い覚えた、『主我を愛す・・・』を、よく口ずさんでいた父でした。旧海軍の軍港の街で生まれ育った父は、〈ゲンコツ親爺〉でした。

ところが拳骨だけではなかったのです。出張に行っては、「温泉まんじゅう」や「崎陽軒のシウマイ」を買って帰ってき、会社の帰りには、「ショートケーキ」、「ソフトアイスクリーム(ドライアイスで凍らせたもの)」、「あんみつ」、「カツサンド」、「鰻」、「玉木屋の佃」などなどを買ってきては、『さあ、みんな喰え!』と進めてくれたのです。

 この冬休みに帰国して、次男の所で過ごしたのですが、彼が、『お父さんが作ってくれた、サンドイッチが美味しかったよ!』と言ってくれました。それは、8枚切りのパンをトーストしたものにバターを塗り、バターと塩コショウで味付けした牛肉、炒めた玉ねぎか長ネギ、輪切りにしたトマトとキュウリ、薄焼き卵を挟んだものでした。4人の子どもたちに、何かといっては作ってあげたのを思い出します。

 そう言えば、父は、「カルメ焼き」を、時々作ってくれたことがありました。七輪に金属製のおタマをのせ、そこに水とザラメを入れて割り箸で溶かし、タイミングを測って重曹を割り箸の先につけて、ザラ目液に入れると、膨らんできて固まるのです。あの味は、スーパーの菓子コーナーに並ぶ市販のものと比べて、及びもつかないほどに美味しかったのです。舌や胃袋に感じた〈親爺〉が、やはり懐かしく思い出されます。

 『大波に微動もしないで巌としてる「岩」のような父』、自分だったら、そんな言葉で〈父〉を表現して、春到来の華南の地で、心から感謝したいものです。『父は父なるが故に、父として遇する!』(2013年3月に掲載した分に少し加筆しました)

(崎陽軒のシウマイです)

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穏やかさ

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現代では、ほとんど使わないのですが、「意趣(返し)」という言葉があります。“ コトバンク “ に次の様にあります。

1 恨みを含むこと。また、人を恨む気持ち。遺恨(いこん)。
「意趣を晴らす」
2 心の向かうところ。意向。
「格調高雅、―卓逸」〈中島敦・山月記〉
3 無理を通そうとすること。意地。
「二人はわざと―に争ってから」〈有島・生れ出づる悩み〉
4 理由。わけ。
「神妙に―を述べ、ものの見事に討たんずる」〈浄・堀川波鼓〉
5 「意趣返し」に同じ。
「昨日の―に一番参ろか」〈浄・矢口渡〉

この言葉から、「意趣返し」と言ったりします。「恨みを返すこと」で、「仕返し」をすることと同じです。

子どもの頃に、「トニー谷」と言われる芸人(よく” ボードビリアン ” と言われたのです)がいて、テレビの司会などで活躍していました。ソロバンを片手に歌ったり、踊ったり、司会をしていました。国籍不明の英語化した日本語を喋りまくって、人を煙にまいていました。

人気があったのでしょうか、この人の子どもさんが誘拐された事件が起こったのです。彼を知る芸人仲間は、まことしやかにテレビの前で泣いて、子を返してくれる様にと、必死に泣きながら訴える姿を見て、「狂言誘拐」だと言って、信じませんでした。この人は、芸風はともあれ、同じ芸人仲間にも嫌われていて、『それも芸の内!」だと思われていたほどの芸人でした。

ところが1週間ほどして、犯人は逮捕され、無事に息子さんが帰ってきたのです。事件は落着したのですが、これには後日譚がありました。トニーが、『子どもを大事に扱ってほしい!』と犯人に要求した通り、子を大事にしてくれた誘拐犯に、感謝の思いで、お金や衣服をあげたのだそうです。だいたい、こんな事態では、「意趣返し」を考えつくのに、このトニーは、そんな風にできた人でした。この犯人にしたことは秘されいて、ずいぶん後にな分かったことでした。

早くに両親を亡くし、親戚にいじめ抜かれて育った過去を、この人は通ったそうです。芸人としては面白く、人気がありながら、人間性が問題視されていた人でもありました。もしかしたら、それも芸の内だったのかも知れませんが。様々な事件の被害者の肉親が、記者会見をしますと、恨みや殺意であふれているのですが、この人は、そんな風に振る舞うことをしなかったのです。

ある時、めぐみさんの弟さんが、北朝鮮に向かって、殺意を表した言葉を放った時に、お父様の滋さんは、『そんなことを言うもんじゃあない!』と、厳しく息子を窘(たしな)めていたのです。お父さんにも憤り、怒りだってあったはずです。ところが滋さんは、「意趣返し」をすることなく、穏やかに帰天したのです。きっと再会の望みが、そうさせていたのでしょう。

(一話のすずめです)

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わたらせ渓谷鉄道の旅

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昨日は、『出掛けてください、あなた!』と言う家内に押し出されて、栃木駅から両毛線で桐生駅に行き、桐生駅で「わたらせ渓谷鉄道」に乗り換えて、足尾駅まで出掛けてきました。全線41.1kmの、ジーゼルエンジンの気動車でした。この鉄道事業について、日光市の案内などに、次の様にあります。

『足尾銅山を支えた物流システムは、当初は近世街道を主要経路とし、馬車道や鉄骨橋梁(古河橋)の整備、簡易軌道、馬車鉄道、架空索道、足尾鉄道の開通まで、多様な方法が行われました。地表の軌道や道路のみならず地下や上空も利用して、立体的かつ複雑な物流ネットワークが形成されました。また、足尾銅山は、日本で民間初の私設電話が架設された場所であり、足尾銅山全域と関連施設を対象に独自の電話網が整備されました。

わたらせ渓谷鐵道の前身である足尾鉄道は、足尾銅山の貨物輸送を目的として1911(明治44)年4月15日に下新田~大間々間で開業しました。その後、神土(現・神戸)まで、沢入まで、足尾までと部分開業を重ね、1914(大正3)年8月26日に足尾本山まで全通しました。最初に開業した下新田~大間々間が、まもなく2011(平成23)年4月15日に開業100年目を迎えるのを皮切りに、2014(平成26)年8月26日まで開業100年目ラッシュが続きます。足尾鉄道~国鉄~JR~わたらせ渓谷鐵道と続いた鉄路は、貨物輸送から観光客輸送へと形を変えながら、今なお輝き続けています。・・・平成21年には、足尾駅や通洞駅などが、「国登録有形文化財」に指定されています。』

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単線の鉄道ですので、途中駅で、上下線の待合停車時間が、5分ほどあって、電車の運転手の方に話しかけて、お話を聞かせてもらいました。「わたらせ渓谷鉄道」には、31年の歴史があり、この方が入社した当時、旧国鉄・足尾線時代に運転手をされていた方がいて、この鉄道にまつわる面白い話を聞かされたそうです。

『みなさんには楽な仕事に思われるんですが、神経を大変使って運転しているんです!』、『夜間走行時には、カモシカや日本シカが線路上に出てきて、轢(ひ)いてしまうことが、3週間に一度くらいあるんです!』、それで質問を私がしました。『事故処理は、どうされるんですか?』と、すると、『電車を止めて、線路上に降りて、自分でするんです!』と話されて、その為の道具の入ったカバンを示してくれました。

私の下の息子ほどの年齢の運転手さんで、いききと強い責任感をもって、輸送業務に当たられていて、実に爽やかな方でした。田舎の第三セクターの小規模の鉄道事業に従事されているのですが、JR新幹線の運転手に負けず劣らず、素敵な笑顔と凛々しい男の顔を見せて運転されておいででした。

足尾駅からは、日光市営バスに乗車し、山道を走って、東武鉄道日光駅で下車し、そこから東武日光線で帰ってきました。行きの電車には15人、帰りのバスには、途中で降りたご婦人を含め5人の乗客でした。前日が雨でしたから、緑が映えて、渓谷に流れも豊富で、何よりも空気が美味しかったのです。『あなた!』と言って送り出して家内に感謝した1日でした。家内は、訪ねて来られて友人と女子会でした。

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