言い表せない喜び

.

.
 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53章3節)」

 明治8年4月に「勲章従軍記章制定ノ件」が公布され、私たちの国の勲章制度が始められていると言われています。国に貢献し、功績を挙げた人たちを表彰するためでした

 私が中高と学んだ学校は、大正デモクラシーの動きの中で誕生した、穏やかな校風の私学でした。この母校の記念誌が刊行された時に、その巻頭に、設立者で校長の写真が載っていました。なんと、胸いっぱいに、数え切れないほどの「勲章」を下げておいででした。ご自分でそうされたのか、家族か学校の役員に勧められたのか、まさに〈勲章男〉でした。

 〈教育者と勲章〉は不釣り合いの感じがして、ページをすぐに閉じてしまいました。私も教育者の端くれでしたから、教師の勲章は、錦糸銀糸の紐のついたメタルではなく、《教え子》ではないかと信じていたのです。社会の中で、家庭人として、職業人として、目立たなくてもよい、一市民として謙虚に生きていることだと思っていました。ですから、〈勲章の校長〉は、とても意外でした。

 私の霊的な恩師たちは、『金と名誉と異性を求めるな!』と、口を酸っぱくして教えてくれました。そんな誘惑に負けそうな私の弱い資質を見抜いたからかも知れません。としますと、『名誉や勲章を求めずに生きよう!』と願ったのでしょう。

 若い頃の父の写った、父の親族との集合写真の中に、帝国海軍の軍人がいて、この方も勲章男でした。どうも軍人も、二十一世紀の政治家も、勲章を得た誇りを大切にしたいのかも知れません。『俺は、この国に、この団体に貢献したんだ!』という自慢(中国語は〈自誇zikua〉)の表明なので、名誉職を求めてやまないのです。

 五十年以上、この私が従い仕えて来たお方は、蔑まれ除け者にされたお方でした。一冊の本も著すことなく、高き座を求めず、王冠も勲章も与えられませんでした。かえって十字架で刑死され、他人の墓に葬られたお方です。でもその墓を破り、死を破り、蘇られたのです。今、創造の神の右の座に着座され、信じる者を執り成し、助け主である聖霊を遣わされ、信じる者を迎える場を設け、やがて迎えに来てくださるお方だと、不信心だった私は信じられたのです。

 この分だと、勲章はおろか、ビールの蓋の偽勲章でさえも、私は貰えることなく終わることでしょう。でも《神国の市民権》を得たことは、言葉では言い表せない喜びで、今朝も心が溢れています。

(” photoAC “ の「毛嵐〈けあらし〉」です)

.

春一番

.

.
 今年は、関東地方では、2月4日に「春一番」が吹いたとニュースが報じていました。コロナ旋風のただ中に、いつもよりも早い春の到来でした。その後は朝晩マイナスの気温で、ちょっと宣言が早過ぎていないかな、と思わされています。

 次女が生まれた年に、よく聞こえて来たのが、作詞と作曲が穂口雄右、キャンディーズが歌った「春一番」でした。

1 雪がとけて川になって 流れて行きます
つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気取ってみませんか
風が吹いて暖かさを 運んできました
どこかの子が隣の子を 迎えにきました
もうすぐ春ですねえ
彼を誘ってみませんか
泣いてばかりいたって 幸せはこないから
重いコートぬいで 出かけませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか

2 日だまりには雀たちが 楽しそうです
雪をはねて猫柳が 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気取ってみませんか
おしゃれをして男の子が 出かけて行きます
水をけってカエルの子が 泳いで行きます
もうすぐ春ですねえ
彼を誘ってみませんか
別れ話したのは 去年のことでしたね
ひとつ大人になって 忘れませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか
雪がとけて川になって 流れて行きます
つくしの子が恥ずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですねえ
ちょっと気取ってみませんか
別れ話したのは 去年のことでしたね
ひとつ大人になって 忘れませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか
もうすぐ春ですねえ 恋をしてみませんか

 日本には「四季」があり、けっこうはっきりした季節感の特徴があります。春には、その季節季節の象徴があって、春には桜の開花の時期に「入学式」があって、4人の子どもたちの入園式や入学式の思い出があります。いつからいつまでが、その捉え方が様々にある様です。

 「暦」の上では、一年は冬の一月から始まるのですが、春夏秋冬の順に並んでいます。
 「季節の色分け」ですと、春は〈青〉、夏は〈朱〉、秋は〈白〉、冬は〈黒〉と四色に配列されて、青春、朱夏、白秋、黒冬と言っています。
 「文学の世界」では、「春」は〈立春〉から〈立夏〉の前日までを言います。
 「気象学」では、三月・四月・五月を春と言います。
 「太陰暦」では、一月・二月・三月が春です。
.


.
 中国では、毎年違うのですが、2021年は、今日、二月十二日を「春節」と呼んで、一年の始まりとしていて、西洋暦とは違う陰暦での正月を大事にしています。滞華中、一月一日は学校や官庁は休みですが、格別に正月気分はありませんでした。でも気分的にも、行事的にも、「春節」が中華圏では「正月」なのです。

 中国のみなさんの「春節」への思い入れの大きさや強さに触れて、まさに『もうすぐ春です!』と言う、酷寒の冬が終わり、万物が芽吹く季節の到来への期待が、ものすごく大きいのを感じたのです。『美味しい物が食べられる!』、『晴れ着が着られる!』、『家族親族が帰って来て集まる!』、『お年玉をもらえる!』と言う待望が、心だけではなく、街に溢れていたのを思い出します。

 戦争があっても、革命があっても、祝われて来た「春節」なのですが。今年は行動制限、不要不急の外出の自粛、会食の禁止などで、寂しい「春節」を迎えておいでなのでしょう。街々村々では、炸裂する爆竹や花火、あの火薬の匂いがあふれているのでしょうか。足元で追い立てられる様に弾いていた爆竹の音が懐かしく思い出されてまいります。

.

器から器へ

.

.
 「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。 (エレミヤ48章11節)」

 恩師が、ある時、主の家の奉仕をしてる私たちの交流会で、次の様に言いました。『あなた方、” mature “ な経験のある人は、若い人に奉仕の責任を譲って、新しい任地に出て行きなさい!』と挑戦したのです。また、実業界で働いてきた私のすぐ上の兄も、自分の城を大きくしたりしないで、責任を他の人に任せて、新しい働きを始める勧めをしていたのです。

 私は、そう言った勧めを聞いて、私たちの仕えてる奉仕は、そう言ったものだと理解したのです。多くの人を集めて、人に褒められる様な働きを誇示する誘惑から出て、新しい一歩を取る様に機会が開くのを待っていました。

 居心地のよい〈安定の城〉の中に留まり続けて、別の器にあけられることなくて、葡萄酒が芳醇さを失ってしまう様に、ある方たちの奉仕も、そうなってしまう様子を何度もみてきたからです。それで、宣教師から受け継いだ奉仕の機会を、他に譲ろうと、心に決めたのです。イスラエルの葡萄の醸造の過程では、器から器へあけられたようです。
.


.
 私は日本が侵略した過去を持つ国に出掛けたい思いを抱いたのです。中国の四都市を訪問した私は、一つの街で、一人の方と出会って、家に食事に招かれました。その方が、『中国においでください!』とおっしゃったのです。それ以来、ちょくちょく、その言葉が思い起こされたのです。そうすると恩師の挑戦が思い起こされてきては、時の到来を待ったのです。すると、次のみことばが強く迫ってきたのです。

 「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(中国語訳も英欽定訳も《平和》です)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。(エレミヤ書 29章7節)」

 それを “ go sigh “ として出掛けたのです。まさに、器から器に移されたかの様に思えたのです。それで天津で一年間漢語を学び、父が若い日に過ごした東北地方に行くのを考えていましたら、長男の友人で華南の街の方が、招いてくれて、その街に行き、そこで12年を過ごすことになった次第です。実に素敵な年月でしたが、家内が病んだのを契機に帰国を致しました。

 その年月は一言では語り尽くせません。時々、” face time “ で、華南のみなさんと交わりを持ちますが、いつも、『あなたたちはいつ戻ってきますか?』と言われます。まさに実の兄弟姉妹の様なみなさんと共に過ごした日々が懐かしくて仕方がありません。東京で新しい事業の準備をされておられる、中国人のご家族がいて、彼の友人父子と、先月は、マスク姿で見舞ってくれました。

 あの日の決断は、自分勝手な願いによるものではなく、一歩一歩の導きがあったと、今になって思うのです。かつての敵国からやって来た老夫婦が、一緒に座し、共に聖餐に預かり、声を合わせて賛美を歌い、説教をし、そんな交わりをした年月は、主に導かれたものでした。器にあけられ、カスが除かれたからできた日々だったに違いありません。
 

.

 

わが心の街

.

.
 一度訪ねて観たい街があります。ライン川と合流するネッカー河畔の街で、ドイツ最古の大学街と言われる「ハイデルベルク」です。ここには、わが国の京都にもある「哲学者の道」があるのだそうです。京都は西田幾多郎の散策で有名ですが、このハイデルベルクはゲーテがよく逍遥したと言われています。

 私は母の信仰を継承し、アメリカ人宣教師から教えを受け何を信じるかを、またどう生きていくかを学びました。そして多くの本を読みました。その信仰の基礎の部分を作りあげる上で、二十代に手にした、竹森満佐一師の翻訳した小冊子の「ハイデルベルク信仰問答」を読んで、学ぶことによって、確証の印を押された経験をしたのです。

 その体系的にまとめられた問答書は、1561年、フリードリヒ3世によって選任されたウルジーヌスとオレヴィアーヌスによって作成されています。「神の恩寵」を掲げる改革派の教えが根底にあって、若い神学者たちによる問答書で、「聖餐論争」を終結することが主たる目的での作成でした。

 それまで個人的に、教えられて来たことと、自ら学んでいたこととが、まるで「勘合符」の様に、この問答書とピッタと合わせられ、承認されたのを感じたのです。当時、一線を退かれた岡田稔師の説教を、テープで聞く機会がありました。師のお話の内容と人間性の高さに感じ入ったのです。自分が模索しながら学び、立とうとしていた信仰的立場を確認することができ、安心を得たのです。
.


.
 それは知識だけのことではなく、書かれた文章でも、人の思想でもなく、「真理の解き明かし」でした。同じ頃に読んだ本に、榊原康夫師の「聖書読解術」がありました。その書の最後に、『・・・聖書という書物に関する限りは、その術だとかこつだとか理論だとかでやっていても、やっぱり最後に、どうしてもことばでは言えない神秘が残るのです・・・どうしても聖霊の自由なお導きとみわざに最後の極意を譲り渡すということ。』と言われました。

 若い日に学び諭されたことは、今なお新鮮な教えです。右にも左にもそれず、偏らないで真っ直ぐに歩んでこれたと、今なお思わされるのです。その出発点が、どうもハイデルベルクにある様に感じてなりません。500年近く前の異国で生まれた思想に、何か郷愁を覚えていますので、訪ねてみたいのです。何度も行こうと思ったか知れない街ですが、今まで叶えられずじまいでした。昨年来、不要不急の外出をしない様にしていますので、行けるかどうかは不明です。

 今すべきことは、闘病している家内と共にいて、一緒に過ごすことと決めていますから、家内が癒えたなら、緩やかな旅程で訪ねられるように願っております。でも出たがり屋の私の心は、飛んでいっているかの様です。思想も街も、私の心に中に宿っているからでしょうか。

(この街の様子と、5月頃に咲くアーモンドの花です)

優しい国に

.

The Pilgrim Fathers arrive at Plymouth, Massachusetts on board the Mayflower, November 1620. Painting by William James Aylward (1875 – 1956). (Photo by Harold M. Lambert/Kean Collection/Archive Photos/Getty Images)

 これまで両親、恩師、書物から、多くのことを教えられてきました。まだ、その教えを咀嚼(そしゃく)していないのを感じながら、時間のできた今になって、いろいろな学びを思い返したり、図書館に行って本を借りて読んだり、ネット検索をして、資料に目を向けたりしている今日この頃です。

 「物の考え方」で、合理主義と個人主義と民主主義の背景を生きてこられたアメリカ人から、青年期に学ぶことができことに、今更ながら感謝を覚えるのです。この方たちと交流し、学ばなかったら、きっと〈日本主義〉で、日本人の優秀性の亡霊に片寄って、今頃偏屈な老人になっているのだろうと思ってしまいます。

 もちろん私はアメリカ礼賛(らいさん)者ではありません。でも、イギリスからメイフラワー号で渡った、清教徒たちの作った国、その国に移民として渡り、アメリカ市民として教育を受け、生活した方たちの子や孫たちから、感化を受けたことに、とても感謝しているのです。

 コーヒーやアイスクリームやコーラが飲めたことも感謝ですが、神を畏怖し、信頼し、叫び求め、感謝する生き方は、人の本来的なあり方だと学べたことです。母は、少女期に、その隣国のカナダ人宣教師から、真理や義や愛を学んで、恵まれない生まれを恨まずに、天父と出会い、神の恵みを知って生きることを学びました。

 そんな素敵なアメリカが、今危機に瀕してます。民主主義の申し子の国が、危いのです。経済力も弱くなり、世界への影響力が後退しつつあります。でもまだ余力があります。どんなに混迷し、暴力的になったとしても、アメリカの持つ《底力》、つまり建国の父たちから受け継いだビジョンの継承、富や祝福の分配、祈ることのできる神を満ち続けてきていること、それこそ天来の祝福が溢れていることです。

 暴力がことを決める様な、西部劇の世界の様なアメリカになってしまい、堅実に生きてきたアメリカ市民の嘆きが聞こえてきそうです。メイフラワー盟約に、次の様にあります。

 『神の名においてアーメン。われらの統治者たる君主、また神意によるグレート・ブリテン、フランスおよびアイルランドの王にして、また信仰の擁護者なるジェームズ陛下の忠誠なる臣民たるわれら下記の者たちは、キリストの信仰の増進のため、およびわが国王と祖国の名誉のため、ヴァージニアの北部地方における最初の植民地を創設せんとして航海を企てたるものなるが、ここに本証書により、厳粛に相互に契約し、神およびわれら相互の前において、契約により結合して政治団体をつくり、もってわれらの共同の秩序と安全とを保ち進め、かつ上掲の目的の遂行のために最も適当なりと認むべきところにより、随時正義公平なる法律命令を発し、かく公職を組織すべく、われらはすべてこれらに対し当然の服従をなすべきことを契約す。(大木英夫『ピューリタン』中公新書)』

 建国の精神に立ち返って、強いだけのアメリカではなく、優しく人々を尊重する国家が再建されることを、心から願うのです。孫たちを始めとして、この国の子どもたちが、一市民として、平和を享受し、国を愛し、すべての人を愛して、神を畏怖して生きることができる様にも願っているからです。

.

一冊の本

.

.
 もう30年ほどになるでしょうか、家内と私は、一冊の本を毎朝読んできています。華南の街にいた間も、帰国した今も続けてるのです。病気や入院や旅行中に欠いたことがありますが。それは、「366日の黙想」と言う副題のついたもので、ロンドンの神学校の校長をされて、四十代の前半で亡くなられた、オズワルド・チェンバース(1874〜1917年)の死後に、夫人が夫の教える神学校での教えの速記録をもとに編集して著した本です。

 英語の題は、” My utmost for his hightest “ 、日本名の「いと高き方のもとに」です。「百万人の福音」と言う月刊誌に、1971年から一ヵ年の間、掲載字数の制限があったので、意訳されて掲載されたものに、訳者の湖浜馨師が手を加えて、1990年に出版されたものです。それを手元に入れて読んでいるのです。

 あの頃、送られてくる月刊誌に掲載されたものの一年分を切り取って、自己流に製本して繰り返し読んでいました。本として刊行されてから、それを購入し、読み継いでいるのです。けっこう長い年月になりますが、毎朝新鮮な語り掛けを受けているのには驚かされます。

 多くの本を失ったのですが、実は、下の息子に読む様にして、家内が上げたものが、何故か親元に帰ってきたものなのです。〈1995年1月5日 母〉と、第三表紙に、家内の記入があります。家内が中三の次男に贈呈しました。次男には新たに買って上げていると思います。
.


.
 スコットランド人の思想、信仰でしょうか、伝道を志して入学してきた若者たちに、情熱を込めて「真理」を曲げることなく教えたことごとの記述です。確かに創造者を崇め、人を啓発する教えが、簡潔にまとめられています。華南の街にいた時も、非合法本の中国語訳があって、それを買っては、何人かの若者に上げたことがありました。

 短い生涯を、最高に輝いて生きた人の内に宿った永遠の命の喜びと確信が、今朝も伝わってきます。金が錬金される様に、純化された《古(いにしえ)の教え》が止まっていて、安定さを感じさせてくれます。人を喜ばそうとはしない、また人をもてなそうとはしないで、神の真実や、生きる道を語っています。《古典》と言ってもよい一冊です。

 聖書の他に、こんなに長く読んできている本は、他にないのです。読むたびに、まるでこの方の学生になった様に、新しいことを示されたり、警告されたり、叱られたりすることもあります。『自分のために書かれているのかも知れない!』と思うことがしばしばあります。ちなみに、ロンドンで彼が教えた神学校の卒業生の中で、四十人ほどの人が宣教師となっているそうです。

(その本の英語版、オズワルドが生まれたアバディーンの街に咲くスノードロップ〈マツユキソウ〉です)

.

上杉のお殿さま

.

.
 《一度訪ねて見たい街》があります。その一つは、蔵王山で有名な米沢(山形県)です。スキーをしたり、美味しい米沢牛を食べたいからでもありません。もちろんスキーが出来て、米沢牛にステーキを食べられたら好いのですが。若い頃に読んで感動した本がありまして、その本の中で、旧米沢藩の藩主・上杉鷹山のことに触れてあって、その高潔な人格に心が揺すぶられたからです。その鷹山が治世をし、生涯を過ごした街に行ってみたいのです。

 内村鑑三が、「代表的日本人」として、西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮と、この上杉鷹山の五人の歴史上の人物を取り上げて、紹介しているのです。内村は、1906年に、アメリカのニューヨークで、“Japan and The Japanese” と言う題で、英語で書きました一冊の本を出版しています。鎖国を打ち破って、国際社会に参入して行く中で、日本と日本人を、欧米人に知らせようとしたのです。と言うよりは、自らの「日本人としてのアイデンティティー(日本人像)」を明確にしたかったのだと評されております。

 鎌倉時代の日蓮以外の他の四人は、徳川幕藩体制下に生きた人でした。私が感じ入った上杉鷹山は、藩財政に逼迫していた米沢藩を、建て直すために善政を行った稀代の藩主でした。1751年に、九州の日向高鍋藩主・秋月種美の次男として、江戸藩邸で生まれています。十歳で、出羽国米沢藩の幸姫の婿養子となって、第九代の米沢藩主となっています。
.


.
 奥方の幸姫は、発達障害を持っていて30歳で亡くなっています。この方は、妻のために雛人形を自ら作って上げたりして、生涯変わることなく愛し続けたのです。子を設けることがができなかったので、世継ぎの子を得るために、側室を持ちます。しかもただ一人、自分より十歳も上の女性を得て、子をなすのです。

 また藩改革の中で、特異なことを行っています。藩内の遊郭を取り潰したのです。遊郭がなくなれば、欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の風紀が脅かされるという反対がありました。でも、鷹山は『欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。』と言い切ったのです。実際、廃止しても領内には何の不都合も生じませんでした。

 この鷹山の葬儀の日、その死を悲しみ惜しむ人々の弔問の列が、米沢の街に途切れることがなかったそうです。「蓋棺自定(がいかんじてい)」、人は死して、その徳が正しく評価されるのですが、鷹山は、農民にも慕われた名君だったのです。この街を訪ね、米沢ラーメンを食べたら、そんな息吹を感じられるのでしょうか。米沢気質に触れてみたいものです。

(米沢城と市花の東石楠花〈アズマシャクナゲ〉です)

.

評価

.

.
 「その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。 (レビ記27章3、5〜7節)」

 これは、古代ユダヤ民族の《人身価値》をお金で換算したものです。性別や年齢に応じて、人の価値が変わっていたのです。長男と次女の息子たちが、今十代ですから、「二十シケル」です。ところが、もうとっくに六十を過ぎた私は「十五シケル」、家内は「十シケル」で、孫よりも少なくなっているのです。

 では現代社会は、人の価値を、どんな度量衡で図るのでしょうか。日本政府は、もう年金生活で納税しなくなった上級国民ではない私に、どんな価値づけをしてくれているのでしょうか。しかも国外で十数年も過ごして留守をしていた私をです。国への貢献度を測ってみますと「ほとんど無」と認定されるのでしょうか。

 としますと、「楢山節考」のお婆ちゃんの様に姥捨山、爺捨山行きの対象者なのでしょう。ところが私の愛読書には、

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43章4節)」

と、がっかりしている私に、「創造者」の評価が記されています。《愛の対象者》だと言って接してくださるのです。しかも《高価》で《尊い》と言って優遇してくださるのです。年齢には関係なくです。昨日も、私たちより少々シワが多いだけの九十歳のご婦人が、わが家を、お嫁さんと一緒に訪ねてくださいました。渋茶と煎餅を食べながら談笑させていただいたのです。どこも悪くなくお元気でした。

 このご婦人も私たちも、とうの昔に〈山行き〉か〈佃煮〉だったのに、街中に住むことができて、なんと感謝なことでしょうか。イスラエルの社会では、ご用のすんだ老人の価値は低かったのですが、

 「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 (レビ19章32節)」

とも定めて、《敬意》を示すように勧めています。しかも《起立》してです。私が中国の大学のクラスで、「北国の春」を歌った時に、『老人が、人の間で声を張り上げて歌うなんてことは、ここ中国ではありえないんです!』と起立した学生さんに言われたことがありました。

 ところが帰国して、山手線に乗った時、「優先席」の前に立った家内と私をチラッと見ながらも、三人の高校生がゲームに興じていたのとは違って、中国でバスに乗ると、若者たちは、席を立って、『どうぞお座りください!』と、席を譲ってくれるのです。四十代の男の方にも譲られました。

 『アッ、老人の前の起立って、こういうことなんんだ!』と思わされたのです。無神論や唯物論で教育を受けてきた若者たちが、聖書に従った行動をとるのに驚かされたのです。そう「十五シケル」の私は、懐かしく中国での《起立の出来事》を思い出しています。
.

.

すみません

.

Mimosa pudica, a creeping annual or perennial herb of the pea family

.
 個性的に生きるよりも、周りのみんなと仲良く生きていきたい日本人が、もっともよく使う言葉があります。『すみません!』です。相手に対しての謝罪の気持ちを表す言葉で使いますし、敬語でもあります。何かをお願いする時にも、ありがとうの思いを込めて感謝する時にも、また家を訪ねた玄関で、玄関に人を呼ぶために、そう言ったりして使っています。

 その語源は「済む」の打ち消しで「ぬ」をつけたもので、丁寧語の『すみません』と言ったりします。でも一番は、事を済ませなかったので、し終わらないことの「謝罪」で使うのです。だいぶ卑下した言葉でもあります。

 社会生活をする上で、この一言を言うか言わないかによって、世間の目は全く違ったものになります。言われた方は、それを聞いて、『すまないと思ってるなら、まあいいか!』と言う気持ちにされて、不問にふしたり、『次からは気をつけてね!』と言ってくれるのです。

 病院の待合室で、看護師さんが、『お待たせしました!』と言いましたら、40ほどの患者が、『すまねえじゃあねえよ、こんなに待たせて!』と、正直な思いを口にしていました。そう言うことが多いからでしょうか、診察前の医師の最初の言葉は、『長らくお待たせしてすみません!』を、『如何でしたか?』を言うよりも、会うなりに言ってます。きっと、そう言う様な話し合いがあっての取り決めなのでしょう。

 ところが、その一言を言わないばかりに、仲間外れにされたり、はたまたは〈村八分〉にあったり、先程の怒れる男の様な目にあいます。ペコペコするのが嫌いな私は、〈事実としての《理由》を言って、へんに詫びないのです。それで謝罪のない人は、人に嫌われてしまいます。

 日本人は、三十の息子の不始末を、親が人々の前で謝罪します。有名な女優の息子が、犯罪に手を染めた時に、マスコミの前で謝罪していたのを見聞きしました。また学校の教師が社会的な犯罪をした後も、校長が、マスコミに前に身を晒して、『すみませんでした!』と、よく言っています。企業犯罪の場合もも同じです。

 それは、世間やマスコミを納得させるために、どうしても必要だとされる一言です。でも、それっておかしいのではないでしょうか。知事や市長になれる年齢なのに、本人の代わりの様にしての謝罪を、母親がするのはおかしいのです。母親の一言に「涙」が添えられるなら、『まあいいか!』を世間から生み出せるのです。

 お隣の韓国など、東アジアでは、どこでもありそうなことですが、島国日本では傑出して多いのです。欧米諸国では、〈個人責任〉で事を収めています。

 〈任命責任〉が問われることがあります。自分の派閥の議員が汚職をしたり、反社会的な行為をしたり、世間を騒がせた時に、派閥の長に求められる〈謝罪〉です。でも、会社の上司が謝罪して、4、5人の会社の幹部が横になって、九十度頭を下げて、『申し訳ありませんでした!』と頭を下げている光景はよく目にしますが、国政の派閥の長がするのは見たことがありません。大人扱いをしてるのでしょうか。

 『あれは、もう大人なのですから、あれに聞いてください!』と言う、成長した社会に、日本がなるのは難しいのでしょうか。少なくとも選挙権を与えられた年齢以降は、個人で謝罪をし、事を収めたらよいのでしょう。折しも、オリンピック委員会の会長が、昨日の女性蔑視の発言に、〈すみませんでした〉をしたと、ニュースが伝えています。それで、辞任は解消になるのです。撤回を即座に受け入れてしまう寛容(?)な社会だからです。

(オジギソウです)

.

舟と船

.


.
 バスコダ・ガマなどの航海時代の100年も前のことです。中国は明の時代に、鄭和(ていわ)が、大船団を従えて、見果てぬ海を、アフリカまで航海をしています。福建省泉州に行きました時に、港に古代の巨大な船の残骸が残されていたのを見ました。それは鄭和の船ではなかったのですが、それを彷彿とさせるほど大きかったのです。鄭和の率いた船は、全長130mもの巨大な木造船の船団でした。

 ところが遠洋に出ることができない、わが国の北前船や千石船は、日本の港から港をつなぐ商用船で、京大阪に諸国の米や染料や海産物などを運んだのです。北前船は30mほどの大きさでした。また多くの河川では、「舟運」が行われていて、わが家の脇を流れる巴波川でも、部賀舟でくだり、渡良瀬川の合流地近くで、高瀬舟に荷を載せ替えて、江戸との間を商用が行われていた歴史があります。

 『行きはよいよい帰りは怖い!』で、江戸へは流れを下るので容易でしたが、利根川を上る道も、帆を使ったり、手漕ぎもありましたが、支流に入る脇道を、「網手道」と呼ばれる土手があって、上り舟を、人力で曳いて上がった道で、男衆の大変な労働に支えられていた様です。それでも盛んな舟運が行われていたのです。
.


.
 いつか、ここを浅底の舟に乗って、思川、渡良瀬川、利根川、江戸川を下って、東京湾へ行ってみたいのです。でも河川って、勝手に舟で上ったり下ったりできるのでしょうか。若い頃に、富士川を下ることを考えていたことがありましたが、治水のための堰(せき)があったりで、自然の流れにしたがっては下れないのを確かめて、諦めました。

 さらに華南の街の大きな河川を、小型船で上る計画を、外洋航路の船長をされた方に持ちかけたまま、帰国してしまいました。小さなエンジンをボートにつけたらだいぶ上流まで上れそうでした。池に木っ端を浮かべただけでは満足できない子の幼い日の夢でした。

 上海から蘇州号で、大阪に着く丸二日間の旅は楽しかったのです。飛び魚と競走している様に、大海のど真ん中を行く船旅は、船内に風呂場があって、喫水線あたりに波の飛沫を見ることができ、船風呂を楽しめたのです。あの阿倍仲麻呂には経験できなかった優雅でのんびりな船旅でした。
.

untitled

 海洋国家の日本は、北前船に見られる様な「廻船(かいせん)」が行われ、江戸期以前は、御朱印船などで海外に出かけることが多かったのです。江戸の前期、山田長政はシャム(今のタイです)に出掛けた人で、ついにはシャムで王にもなっています。その話を子どもの頃に聞いて、冒険心を呼び覚まされたことがありました。
.


.
 “ Covid-19 “ の影響で、外出も旅行もままならない今、海に出て行った人たちのことを思いながら、鄭和や長政や船頭さんたちのことを思ってみると、ちょっと閉塞感が広げられてきそうです。
(鄭和の船団、航路、高瀬舟、北前船、山田長政の乗った船です)

.