『よくやった!』

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 ある年明けの新年の挨拶状に、次のみことばを記したのです。

 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 (箴言171節)』

 これを読まれた牧師さんが、すぐに連絡して来て、『この春に行われる、私たちの教会の聖会においでくださって、説教をお願いします!』と言われたのです。それで、喜んで、その講師依頼をお受けしたのです。

 二泊三日の聖会で、四回ほどのお話をさせていただいたのです。その奉仕を喜んでくださった牧師さんは、翌年もお招きくださったのです。『聖書から、こんなお話は聞いたことがありませんでした!』と、そんな臍曲がり牧師の話を喜んでくださり、こんな子を産んだお母さんにも、『お会いしたいし、その証をお聞きしたい!』とのことでした。それで、母と一緒に、この教会の「婦人会」を訪ねたのです。

 その証の機会は、母にとっては誉であり、激励や慰籍でもあったようです。小学校を終えただけで、紡績工場で働き始め、養父母に養われた母でした。でも、聖書の神と出会い、この神さまが、「父なる神(アバ)」であることを知って、〈父なし子(ててなしご)〉ではなく、自分を造り、愛し、認めてくださる本物の神の救いに預かったのです。

 その出雲市内の教会に行くきっかけとなった同級生と、カナダ人宣教師の導く教会で、信仰生活を過ごしています。その方は、「熱河(ねっか)宣教」を、ご主人と共に、旧満州の地でされたのだと、母から聞きました。産んだ子たちの二人が牧師になり、もう一人はミッションスクールの教師になり、次男は外資系ホテルで働きました。気性の荒い四人の子育ての賑やかさは、兄弟姉妹のない母には、辛い幼少期を忘れさせる、喜びのひと時だったのでしょう。

 父も、生母に育てられることなく、継母の手で大きくなったので、一つには、きっと境遇が似ていたこともあって、結婚へと導かれたのでしょうか。母は、父の事務所で事務員をしていたことしか聞いたことはありませんでした。そして男の子四人(弟は戦後の生まれですが)を産んだ母親は、「軍国の母」だったのでしょうけど、戦争が終わり、新しい時代を迎えて、《平和の時代の母》は、子育てに専心してくれたのです。

 夏がくれば思い出す出来事は、父や、母に愛されて育てられたことです。愚痴も、批判も、悔しさも、父も母も口にしたことがありませんでした。一人の信仰者として、95年の生涯を終えて、生かしてくださった父なる神のもとにあるのだと確信します。熱い油の中で、中華麺を入れてあげて、たくさんの具材で作った餡をかけて、思いっきり食べさせてくれたのです。大汗をかき、フウフウ言いながら食べました。

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 生涯の終わりに、母の祈りで、遂に救われた父は、子育て中の夏が来ると、ドライアイスを入れて、紙の箱に収めたソフトクリームを、東京から電車で持ち帰って、『さあ喰え!』と言った、嬉しそうな父の顔を見ながら、頬張りついたのです。学校では運動部にも入れてくれ、お忍びで試合観戦に来てくれた父でした。カルメ焼きも揚げ餅も、父の味です。

 鮮明な思い出の日々があって、賑々しい家庭でしたが、家族のために祈り続けてくれた母がいて、その母の信仰を継承した四人の《祈る男の子たち》が、老いを迎えて、まだ支え合っているのです。〈熱々のかた焼きそばがあって、喧嘩ばかりの家庭〉で育った私たちなのに、《平和な時》を過ごせている今に、ただ感謝するばかりです。

 『よくやった!』と、子が二親を褒めるのは、おかしいでしょうか。でも、褒めたい心境の真夏の今朝であります。

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家内の宝物たちです

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 『正しい人の行く道は平らです。あなたは正しい人の道をならし、平らにされます。(イザヤ267節)』

 人には、防護本能(防衛本能でしょうか)があるのでしょうか、今や〈老い〉との対決に違いなく、こちらに越してきてから、車がないこともあって、散歩に励んできたのです。それにしても、『ずいぶん歩いたなあ!』と言うのが正直な思いです。

 山道も、畦道も、外国の道も、車の故障で高速道の端も含めて、この二本の足は、歩き続けてきたので、感謝の思いで、この年齢になって、ふと足元を見つめているところです。でも、上を見ないといけません。そこには、どんな凸凹道でも、「平にならされる神」がおいでだからです。

 YouTubeに、「100歩歩くより足振りを」と言う整体師の番組があって、天候や所用で、ちっと歩けなかったので、その勧めをやってみたのです。ほんの五分ほどでしたが、翌朝起きましたら、な、なんとお尻がいたくて起き上がれないほどだったのです。壁に手をついて、足を前後に振り、捻ったりしただけだったのです。どうもふだん使わない筋を傷つけたようです。

 『老いないために!』、『老いを蹴散らすために!』のスローガンは良いのですが、チェック機能のない〈代替運動の勧め〉は、要注意だと感じた次第です。家内が、スマホ操作を覚えてから、運動や食べ物や supplement 情報に耳と目を向けていて、なお、先日帰省した長女の勧めもあって、より敏感になっています。

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 朝食に、野菜スープを飲むようになって、数年経ちます。友人の奥さまから、いただいた本を読んでからです。それは私たちに適していて、励行しているのです。また東京にいる若い友人が、無農薬の糠(ぬか)を手配してくださって、それをフライパンで炒めて保存し、スプーン一杯を、そのスープに入れて飲み始めました。さらに、美味しくなって愛飲しているのです。

 先日、中国からお見舞いに来てくださったご婦人が、「プロティーン」を持ってきてくださったのです。以前ご主人が、関西方面の大学に出張で来られた折にも、時間をさいて、ここを訪ねてくださって、頂いたのと同じ物でした。それに、長女がコストコで買ってくれた、coconut oil 、有機蜂蜜、collagen powder 2種、友人がくださったイスラエル産のデーツ液などを、バナナ、ブルーベリー、ヨーグルトに入れて、食べているのです。何か身体が喜んでいるようです。

 それに、中国漢方の木の実や海産物、薬草も、中国本社から東京に戻って来られる中国人のご家族から、家内のためにと頂いているのです。良いものばっかり、『身体に良いから!』と、飲んだり食べたりしております。《愛》で押し流されそうです。臍曲がりの私は、逆に《採らない勧め》にも、何か意味がありそうに感じてしまうのです。家内は、『一番なのは、感謝だよね!』と言い、祈りによる神さまの祝福こそが、最高の秘訣なのだと言うのです。

 私は、サプリメント愛用家ではないのですが、適当な運動と、日常の普通の食事に、バランスよく、おかずの種類を多くして、それを口に運び、喜びと感謝で頂くことこそ、最大の健康の秘訣だと思っています。四人兄弟で、おかずを取られないために急いで食べて、残ったものを横取りしてしまうと言う、〈三男坊の悲しい習性〉で生きて来てきたので、反省点も実に多いのです。

 『来週行くからね!』との message を送って、次男が時々来てくれます。浅草の老舗和菓子店の「よもぎ餅」を欠かせずに入れ、紙袋いっぱいのお土産を持ってです。一緒に過ごせない代わりに、メールをくれる次女、家内の通院に送り迎えをしてくれる長男、四人を産んだ家内の《宝物たち》です。そんな《喜び》で、母親は輝くのです。そして私にも、そのお裾分けがあります。

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わが賛美の主よ

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 このところ、「ヨハネの黙示録」を読んでいます。この書の一説に、メロディーをつけて、いつも歌っていたのが、私の恩師でした。子どもたちは、もう幼い日から歌い出しの部分を、聴き覚えていて,時々、彼らは歌っていました。すでに大人になった今でも、この聖句に出くわすと、歌い出しているのでしょうか。

 『彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録512節』

ほーられた子羊こそは 力と富と勢いと 誉れと栄光と賛美とを受けるにふさわしいお方です

 この恩師は、アメリカの工科大学を終え、空軍の士官だったのですが、日本宣教をしている宣教師の帰国中に、テキサスに街で開かれた “ conference ” に参加し、そこでこの方と出会います。その人格的な感化と、みことばの迫りがあって、日本宣教を志したのです。パウロがテモテを、主の働き人として養成したのに倣って、恩師もその宣教師のもとで、聖書や教会の主への従順、教会への献身を学んだのです。

 もちろん、神学校や聖書学校での教育を否定していたのではありませんでした。恩師も、私の兄も私も、この養成過程を経て、主の働きに召され、按手礼を受け、群れへの責任の委任を受けました。神学や教理には縛られませんでしたが、スポルジョン、内村鑑三、岡田稔、榊原康夫、竹森満佐一、リュティなどのみなさんの説教や書物から、浅学な私は。学んでまいりました。同じように、「神の恩寵」の教えは、私が受けたものと同じでした。

 系統だった神学教育の単位を履修しなかったこと、任職検定試験を受けなかったこと、教師や牧師の資格の認定を得ませんでしたが、man to man で教えられ、単立の群れで奉仕が、32年の間できたのです。全てを網羅するカリキュラムに従って学んではいませんが、多岐に亘って学んだのは事実です。どういった動機でか、どんな価値観か、誰のためにか、どんな態度で生き、どんな奉仕をするかなどを学んだのです。金銭や異性からの誘惑の勝利するにはどうするかも学んだでしょうか。

 私は、大学教育で、教育法に則った単位を履修し、東京都から教員免許証を、卒業と同時に得ました。それで、献身以前の5年ほど公教育に従事しました。中国の大学では、日本語教師を委嘱されて、10年ほど従事しました。何人もの教え子が日本に留学をし、博士号までとったりされていました。

 私には、日本キリスト教界での資格はありませんが、《神の選びと委任》があったと自負しております。家内と私の奉仕を通して、傷ついた人が回復され、病んでいる人が癒され、無目的な人が目的を見出し、嫌っていた夫や妻を愛し始め、絶望していた人が希望を見出し、永遠の命の約束をいただく、その助力をさせただきました。それで、私も、次のように賛美するのです。

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1 千歳の岩よ、わが身を囲め、
  裂かれし脇の 血しおと水に
   罪もけがれも 洗いきよめよ。
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2 かよわき我は 律法にたえず、
  もゆる心も たぎつ涙も、
   罪をあがなう 力はあらず。
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3 十字架の他に 頼むかげなき
      わびしき我を 憐れみたまえ、
      み救いなくば 生くる術なし。
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4 世にある中も、世を去る時も、
     知らぬ陰府にも 審きの日にも、
     千歳の岩よ、わが身を囲め。
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 『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示録411節)』
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わが神 あなたは 栄光と誉れと力を受けるに ふさわしい方 あなたは全てを造られ み旨のゆえに 万物は存在し 創造された (黙示録411節)

 さらに、わが特愛のコーラスは、詩篇6212節のみことばに、福岡の教会の一人の兄弟が作曲した賛美も歌い続けているのです。

 『私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。(詩篇6212節)』

私は静かに 神を待つ 私の救いは 神から来る 私は決して揺るがない 私の救いは 神から来る 

(“ Christian clip art ” の「過越の小羊」、震災前の熊本城の堅固な石垣です)

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 一昨晩は、閃光を放つ雷光と天を揺り動かすほどの雷鳴があり、少々寝不足の昨日でした。それで、栃木市立図書館から、「雷をひもとけば(新藤孝敏著/電気学会刊)」を借り出して、読み始めています。

 古来、「雷神」と恐れられ、「神鳴る」を語源だとされてきました。「雷」の光と、つんざくような音を聞きますと、思い出すのは、アメリカ人の Benjamin Franklin です。『雷は神ではない!」と言って、それを「電気」現象だとして実験し、「避雷針」を発明していることを、小学校の授業で学びました。1752622日に、彼の実験は、小屋から、棒を立てて、その先端に金属片を置く方法ではなく、金属針を凧につけて、雷雲からの放電を得ようしたのです。

 放電があって、突然タコ糸が毛羽立ったのだそうです。息子さんのウイリアムと一緒に実験をしたのを聞いて、この科学する人は、家庭の人でもあったことを知って、なんか安心したのを覚えているのです。

 後になって、雷の実態が解るようになってから、その時のフランクリンの実験は、実に危険だったのです。落雷が針の上に落ちていたら、糸を手にしていた彼は、即死していたと考えらえています。同じように実験中に、雷に打たれて亡くなられた科学者もいたのです。 

 私たちは、学校でフランクリンの業績は、雷実験をした科学者と学んでいますが、アメリカでは、政治家としての業績が大きく、あの「独立宣言」の起草者、合衆国憲法の制定の制定に関わって、合衆国の建国時への貢献は、大変大きく、「建国の父」だった人です。

 『青年よ。私からの忠告は、聖書への知識と堅い信仰を深めることだ。なぜなら、これはあなたにとって確実に有益だからだ。』と言うことばを残しています。
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 日本でも雷で有名なのは、平賀源内で、「えれきてる」と言う電気の外来語の日本語表記に関わった讃岐の人です。江戸期の発明家ですが、この源内の友人の杉田玄白に、『あゝ非常の人。非常の事を好み。行いこれ非常。何ぞ非常の死なる。』に言わしめた人だったのです。

伊香保嶺に雷な鳴りそね我が上には故はなけども子らによりてぞ

 これは、「万葉集」におさめられた、「雷」を詠んだ和歌で、隣県の伊香保の山嶺に響き渡る雷鳴や、きらめく雷光は印象的だったのでしょう。この上野国や隣の下野国は、この雷で有名で、宇都宮は「雷都」と言われています。

 八王子に富士森公園がありますが、そこに車を止めて、しばらく大きな木の下で、休んでいたことがありました。雷鳴が鳴ったので、車に戻って公園を後にしたのです。その木に落雷があって、どなたかが亡くなったと、後で聞いたのです。すんでのところで、感電死をまぬがれた学生だった私は驚きました。

 ある方は亡くなり、またある方は生き延びます。フランクリンは生きて、別の科学者は命を落としました。そんなフランクリンも、84歳で亡くなり、この私もいつか死にます。神の国に貢献したり、社会にとって有益だから、その人は長生きをし、そうでないから短命だとは結論できません。全ての人の生と死の時を定められる、創造主なる神さまがいらっしゃるのです。それゆえ、神さまは畏れられるです。

 私は、《雷好き》で、あの雷光を見、またゴロゴロと鳴る《雷鳴》を聞きますと、スカッとするのです。とくに大陸で聞いた雷鳴は、言いようもなく dynamic だったのに驚かされました。お腹の底で響くような感覚が好きなのです。いつか、《雷三郎》と言うpen name にしたいと考えているほどであります。

(フランクリンの凧揚げ、雷光です)

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七月の花々

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 『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 (詩篇9010節)」

 20237月になりました。瞬く間に、半年が経過したわけですが、ジェット・コースターか新幹線、ジェット飛行機に乗ったように、時の過ぎゆく〈速さ〉に驚かされております。

 一年、半年が時間の過ぎて行く区切りになって、何か追い立てられているようにも感じられています。ところで私の一生涯の区切りは、「死」ではなく、《永遠のいのち》への出立だと信じられてからは、《永遠への思い》が、心を占領していて、病も苦悩も未解決の課題も、過去でさえ、主にお任せできたことで、肩の荷が降りたように感じております。

 過ぎ去った日々に思いを向けることが、多くなっているのです。出会った人々、さまざまな出来事、いろいろとしてきた仕事、成功も失敗も未解決なこともあります。どうすることもできないことごとは、もう過去に任せて、『主に赦された!』と思うことにしています。

 7月の家の中で二種の胡蝶蘭と、ベランダでペチュニアとバラが咲いています。

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[街]可愛い子には旅を「ヒロ」

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 長男が、中学を終えて、高校進学をどうするかを考えていました。いくつかの選択肢があったのです。一つは、私立高校に、推薦入学で誘われていました。そして県立高校の受験もあったのです。しかし、彼の本命は、留学でした。「五月聖会」があって、そこで知り合ったハワイ在住の牧師さんと話をしている間に、『私が、息子さんのお世話をしますから、来ませんか?』と誘ってくださって、それでハワイ留学に落ち着きました。

 息子は、三月に卒業をしていたのです。県立高校の受験も考えていたのですが、彼の担任が、『留学を考えているなら、その一人の枠を、他の受験生に譲るべきではないでしょうか。』言われて、入学試験を受けないで、五月になっていたのです。級友たちは高校生活を過ごしているのに、彼だけ1ヶ月以上、未定のままでいたのは、不安だったのでしょう。そんな中で、このハワイ留学が決まったのです。

 書類の準備をし、ビサの発給を受け、私は息子に同行して、ホノルル空港に着いたのです。その税関で、『留学の書類が不足しています。』と言うことで、別室に呼ばれてしまいました。しばらくの話し合いの後、入国許可がおり、ハワイ島のヒロ空港着いたわけです。Yさんが迎えに来てくださって、彼の家に泊めていただいたのです。翌日、その牧師さんとレストランで、これからのことを話し合ったのです。

 『僕の教会のメンバーが、校長をしている高校があるから、入学予定の学校ではなく、そこに行ったらいいでしょう!』とのことで、これも急遽変更になったのです。紆余曲折、” Nat smooth “ な状況下で、その high school に息子は入学し、2年次は、カルフォルニアの Sacramento の高校に行き、3年次に、そのヒロに戻り、高校を終えたのです。

 友人の牧師さんのお世話で、過ごした年月は、感謝でいっぱいでした。当時のハワイの公立学校は、授業料は外国人に対しても、極めて安かったのです。ホームステイの費用も少なくて過ごすことができ感謝でした。

 次女も、この牧師さんのお世話で、このハワイ・ヒロで、3年間を過ごしたのです。娘の時は、家内が連れて行ったのですが、転校をしたり、元に戻ったりしながら、無事に卒業することができました。沖縄からの留学生がいたり、Croatia からの級友もいて、国際情勢が厳しい中を、帰って行く彼女を、ホノルルまでの飛行機に乗り合わせて、見送ることができました。

 このハワイ島には、ハワイ最大の島で、マウナ・ケアと言う活火山があり、そのやまでは、天体観測が行われ、東京天文台が管理する「すばる望遠鏡」があります。天候が安定していて、観測条件が満たされているのだそうです。キラウエアーと言う火山は、溶岩流が見られ、最初に訪ねた折にお連れいただきました。また、アメリカ合衆国内で、最大規模の牧場が、この島にあって、「Parker牧場」と言われています。
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 また、西海岸には Cona と呼ばれる観光リゾート地もあり、ハワイ島には、入植された日系人が多く住んでいるのです。そんな中で、ヒロは「港町」で賑わっていたそうです。

 この街で過ごした長男と次女とは、そこで教育を受けたのは大きな祝福でした。そこに教会生活があったからです。お世話くださった牧師さんご家族、教会のみなさんの愛や善意に触れ、人格的な、信仰的な感化を受けたのは、一番の祝福だったように思われます。二人とも、信仰者として、今を生き、家族と共に、素晴らしい影響を受け継いでいるのです。次男も、お世話くださると約束してくださったのですが、彼は別の道を歩んで、今を祝福のうちに過ごしています。

 同じハワイのオアフ島のKaneohe に、今は長女が住んでいます。この街に素敵な教会があって、一度訪ねたことがありました。かつて、真珠湾攻撃は、この街から、山の間を低空飛行して、奇襲攻撃をしたのですが、今では、そこに Fre way が走っていて、大学での学びを終えて、ホノルルの教会で奉仕をしていた長男の運転する車で、複雑な思いで通過して、ホノルルに戻ったことがありました。

 『可愛い子には旅をさせよ!』、旅や訪問や home stay には、楽しい面と、そうでない面があるようです。辛い経験もあったのでしょう、それも子どもたちを成長させてくれたとお思い返しています。親には語れない心の葛藤もあったのでしょう。それは人を成長させる《肥やし》で、買ってでもすべきだと、昔の人が言い伝えています。大人になったからでしょうか、ボチボチと、その頃のことを語ってくれるようになってきています。

 どの街でも、主にあるみなさんとの交わりとお世話があって、その経験の上に、それぞれが家庭を持ち、祝福を得ているのです。そのことに、ただただ感謝あふれてまいります。《人を育てた街》、人もひっくるめて教会、家庭、community 、行政、商業、amusement  などがあって、人は育つのでしょうか。でも、愛と忍耐とで好意をお示しくださった人々から、素晴らしい人生修行をさせていただいたのではないでしょうか。

(ヒロの街の風景とイラスト地図です)

 

那須野が原の花や木など

 

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 先月末、長女の運転で出かけた「那須野が原」にあった、レストランで、昼食を戴きました。その玄関脇にあった、木が珍しかったのでスマホで撮影したものです。そして、席に座ってから、周りの緑が素敵でしたので、これも撮ってみました。

 東京で過ごした時間が長かったからでしょうか、行楽で出かけるのが、西の八ヶ岳や富士山、信州長野の近辺ばかりを訪ねて来た私でしたが、今回、那須塩原の周辺に、初めて出掛けたわけです。

 皇室や明治の元勲たちが好んで御用邸や別荘や牧場を、この地に設けましたから、それほど魅力的で、実益的な地だったわけです。明治維新政府の要人、特に長州藩や薩摩藩の藩士たちが、こぞって用地を取得したわけです。

 栃木の県令(県知事)をした三島通庸(いしまみちつね)は、塩原街道を建設し、那須野が原の開墾のための那須疏水を設け、人の住めない地を、肥沃な地に変えた、その功績は大きかったのだそうです。「土木県令」とあだ名されるほど、道路御意性にも熱心でした。国道4号線(奥羽街道)の整備も手掛けています。後に、警視総監の要職に就く、旧薩摩藩士でした。54歳で病没しています。

 今回は訪ねませんでしたが、塩原温泉には、文人たちが好んで逗留したのだそうです。そこで構想を練り、執筆した人に、明治期の名作、「金色夜叉」を塩原温泉で執筆した徳富蘆花、その他に、夏目漱石、国北独歩、与謝野晶子と鉄幹などがいたそうです。

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神の健やかさのために

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 『新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。 (詩篇981節)』

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 『僕のただ一つの努力は、いつか自分にできる限りのことで、パパを助けるとことだけです。僕を今も神学に引き留めているのも、そのことができると言う希望だけです。もしその希望がなければ、これ以上慰めのないことはありません。』

 これは、南ドイツで長年牧会をされた、クリストフ・ブルムハルトが、後年語った言葉です。主への献身の理由、神学を学ぶ動機が、《パパ》だと告白したのです。よく、人の誕生を、〈ある星の下に生まれた〉といった表現があります。運命的な出来事のことですが、メットリンゲンという南ドイツの村で、牧師として仕える父ブルームハルトの子として、クリストフ・ブルームハルトは、184261日に生まれています。

 その誕生の翌日に、教会員の若い姉妹のゴットリービングの精神錯乱問題、悪霊の蹂躙の様子を、村長や教会の長老たちが、その調査を開始したのです。クリストフが、どのような家庭で育ったのか、70歳の頃に、バートボルに転居し、その街の教会の聖日曜日の礼拝で、こうも語ったのでした。

 『私の少年期の思い出の最大なものは、私が、父の家で少年として経験したものであった。メットリンゲン教会で、神の力の証明がはっきり示された後でも、父の家には非常な暗黒があり、あらゆる悪魔が跳梁(ちょうりょう)しており、山のような災いが侵入しようとしていた。しかも、事態が真に厳しく困難になった時には、いつも私たちは、私たちの讃美歌を歌い、神の国を賛美した。そして心の中で、「わが魂よ、主をほめまつれ」と言っていたそのようなことと共に、私は成長した。それ以外のことを、私は知らない。』

 どんな家庭で、どのような親に育てられるかは、だれも選び取れません。私たちの4人の子どもたちも、地方の街の単立のキリスト教会に仕える私と家内を、親として育っています。光り輝く世界を見つつも、その光の影をも見て育ったのです。いわば、「教会の子」であったのです。様々な背景の方々がやって来ては、教会が形成されていたのですが、子どもたちの人間観察の眼は、けっこう鋭いものがあったのではないでしょうか。

 必要があって、主のもとにやって来た人たちは、救いや解放を求めていました。私たちは、カウンセラーではありません。祈祷師でもありません。召された務めは、《神のことば》を、淡々と説くことでした。もちろん、祈りもしました。癒しを求め、解放を求めて祈ったのです。そして癒しがあり、解放がありました。

 責められたり、無能呼ばわりされたり、成功している牧会者と比べられたりされました。あからさまに詰(なじ)られることもありました。きっとクリストフにも、そんなことがあったのでしょう。

 このバートボルの街の教会の敷地の脇には、うず高く歩行補助の松葉杖や歩行器などが積まれていたのだそうです。ヨーロッパ中から、癒しや奇跡を認めて、人々がやって来たからです。クリストフが、癒しを祈り、解放を祈った結果でした。

 ところが、奇跡だけを人びとが求め、主なる神さまを求めていなかったのです。〈宗教的エゴイズム〉に批判的になっていきます。地上の幸福を最大のこととする態度に対して、医学を補完する役割を、神に期待する態度、神を自分の召使と考える態度に対して、クリストフは厳しいことばを語ります。

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 『われわれの心が燃えるのは、神の栄光のためであって、われわれの肉のためではない。神の健やかさのためであって、われわれの健やかさにためではない!』とです。

 それで、彼は、そういった祈りをや、やめてしまうのです。『みなさん、聖日曜日の朝の礼拝に、主のみことばを求めてやって来て、礼拝を守りなさい!』と講壇からから語って、奇跡や癒しの祈りをやめてしまいます。奇跡の周りに集まる人がいなくなり、主が、その日曜日に語る「主のことば」に、耳を傾けるようになっていきます。

 『イエスは勝利者だ!』から、その勝利を賛美するのが、キリストの教会でありクリスチャンなのです。イエスさまの《義》、《栄光》、《尊厳》、《威光》、《力》を、礼拝や普段の生活の中で賛美し、高らかに歌うことが、私たちの信仰の喜びなのでしょう。

 ですから、『イエスは勝利をとられた 十字架の上で イエスは勝利をとられた 十字架の上で イエスは勝利を すでにとられた イエスは勝利を すでにとられた』と、《神の健やかさのために》、今朝も賛美するのです。

(“ Christian clip art “ のイラストです)

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キキョウの花が咲く

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 6月最後の日の朝、「桔梗」が、ベランダで咲きました。清楚な白色の花びらを見せてくれています。西方にある道の駅で買った苗です。下の紫色の桔梗は、昨日の散歩の途上、道路側に咲いていたものです。

 梅雨が開ける前に、秋の花が咲いたのですが、真夏の暑さの中に、清涼な気分を楽しませてくれる花なのですね。

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道、道、そして道

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 人には、防護本能(防衛本能でしょうか)があるのでしょうか、〈老い〉との対決に違いなく、こちらに越してきてから、車がないこともあって、散歩に励んできたのです。思い返してみますと、『ずいぶん歩いて来たなあ!』と言うのが正直な思いです。

 『正しい人の行く道は平らです。あなたは正しい人の道をならし、平らにされます。(イザヤ267節)』

 山道も、畦道も、外国の道も、車の故障で高速道の端も含めて、この二本の足は、歩き続けてきたので、感謝の思いで、足元を見つめているのです。でも、上を見ないといけません。そこには、どんな凸凹道でも、「平にならされる神」がおいでだったのに気付いて、驚かされています。さまざまな道があるのです。

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「アジアンハイウエー(道路元標 日本橋起点)」

「ASIAN highway 1 終点 トルコのカプクレ)」

「天空の道(熊本阿蘇山)」

「金色の道(JR青森駅)」

「アッピア街道(ローマ街道)」

「日光例幣使街道」

「甲州街道(江戸名所絵の〈日野津〉」

「鯖街道」

「哲学の道(京都)」

「道(映画)」

「奥の細道」

「行く道 来た道」

「帰り道」

「route 66」

「country roads」

「アメリカへの道(新島襄がアメリカ船で密出国した函館港)」

「登山道」

「わたしは道であり・・・(救いに至る道はイエスさま)」

 

 最近は、病院や薬局への道、図書館への道、食べ物を買うためにお店に行く道を歩むことばかりになりました。昨日は、採り立ての野菜を買いに、〈ゆうゆうプラザ〉に、これは自転車で出かけたのです。ついでに、入浴施設にも寄ってみました。

 いつも聞いてきたのは、『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ30章21節)』と言われる主の声でした。これって永遠不動、永遠不変の道なのです。

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