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ある年明けの新年の挨拶状に、次のみことばを記したのです。
『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 (箴言17章1節)』
これを読まれた牧師さんが、すぐに連絡して来て、『この春に行われる、私たちの教会の聖会においでくださって、説教をお願いします!』と言われたのです。それで、喜んで、その講師依頼をお受けしたのです。
二泊三日の聖会で、四回ほどのお話をさせていただいたのです。その奉仕を喜んでくださった牧師さんは、翌年もお招きくださったのです。『聖書から、こんなお話は聞いたことがありませんでした!』と、そんな臍曲がり牧師の話を喜んでくださり、こんな子を産んだお母さんにも、『お会いしたいし、その証をお聞きしたい!』とのことでした。それで、母と一緒に、この教会の「婦人会」を訪ねたのです。
その証の機会は、母にとっては誉であり、激励や慰籍でもあったようです。小学校を終えただけで、紡績工場で働き始め、養父母に養われた母でした。でも、聖書の神と出会い、この神さまが、「父なる神(アバ)」であることを知って、〈父なし子(ててなしご)〉ではなく、自分を造り、愛し、認めてくださる本物の神の救いに預かったのです。
その出雲市内の教会に行くきっかけとなった同級生と、カナダ人宣教師の導く教会で、信仰生活を過ごしています。その方は、「熱河(ねっか)宣教」を、ご主人と共に、旧満州の地でされたのだと、母から聞きました。産んだ子たちの二人が牧師になり、もう一人はミッションスクールの教師になり、次男は外資系ホテルで働きました。気性の荒い四人の子育ての賑やかさは、兄弟姉妹のない母には、辛い幼少期を忘れさせる、喜びのひと時だったのでしょう。
父も、生母に育てられることなく、継母の手で大きくなったので、一つには、きっと境遇が似ていたこともあって、結婚へと導かれたのでしょうか。母は、父の事務所で事務員をしていたことしか聞いたことはありませんでした。そして男の子四人(弟は戦後の生まれですが)を産んだ母親は、「軍国の母」だったのでしょうけど、戦争が終わり、新しい時代を迎えて、《平和の時代の母》は、子育てに専心してくれたのです。
夏がくれば思い出す出来事は、父や、母に愛されて育てられたことです。愚痴も、批判も、悔しさも、父も母も口にしたことがありませんでした。一人の信仰者として、95年の生涯を終えて、生かしてくださった父なる神のもとにあるのだと確信します。熱い油の中で、中華麺を入れてあげて、たくさんの具材で作った餡をかけて、思いっきり食べさせてくれたのです。大汗をかき、フウフウ言いながら食べました。
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生涯の終わりに、母の祈りで、遂に救われた父は、子育て中の夏が来ると、ドライアイスを入れて、紙の箱に収めたソフトクリームを、東京から電車で持ち帰って、『さあ喰え!』と言った、嬉しそうな父の顔を見ながら、頬張りついたのです。学校では運動部にも入れてくれ、お忍びで試合観戦に来てくれた父でした。カルメ焼きも揚げ餅も、父の味です。
鮮明な思い出の日々があって、賑々しい家庭でしたが、家族のために祈り続けてくれた母がいて、その母の信仰を継承した四人の《祈る男の子たち》が、老いを迎えて、まだ支え合っているのです。〈熱々のかた焼きそばがあって、喧嘩ばかりの家庭〉で育った私たちなのに、《平和な時》を過ごせている今に、ただ感謝するばかりです。
『よくやった!』と、子が二親を褒めるのは、おかしいでしょうか。でも、褒めたい心境の真夏の今朝であります。
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