[街]釜ヶ崎と山谷

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 東に山谷、西に釜ヶ崎、ご存知「ドヤ街」でしょうか、日雇いで働く人たちのl宿所が密集している地なのです。1950年代に、とくに大阪万博の時代、日本の経済が急拡大して栄えていく時代に、その労働力を提供した人たち、主に土木建設の仕事に従事した人たちが、その日の仕事を終えて、泊まっていた町です。一時期は、2万人ほどの方々がいた様です。

 芝浦や横浜などの海岸に出掛けて行って、私も働いたことがありました。そこには「寄せ場」があって、そこに手配師のおじさんがやって来て、『お前、お前、お前・・・!』と、その日に必要な頭数の労務者を雇うのです。仕事にあぶれる人たちの一部が、止むに止まれず売血をして、〈黄色い血〉と言われて社会問題になった頃に、アルバイト気分で働いたことがありました。弟がやっていたのを話に聞いて、一番電車で家から出掛けたのです。親に養われている身の私は、その日を必死に生きている方たちから、仕事のきかいを奪っているように感じて、申し訳ない気持ちもありました。

 でも社会勉強をさせてもらって、けっこう高い日給を稼ぐことができたのです。その頃から、少し経った頃でしょうか、岡林信康の作詞作曲、そして歌で、「山谷ブルース」が歌われ始めていました。

 

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今日の仕事はつらかった
あとはしょうちゅうを あおるだけ
どうせ どうせ山谷のドヤ住い
ほかにやることありゃしねえ

一人酒場で 飲む酒に
かえらぬ昔が なつかしい
泣いて 泣いて みたってなんになる
今じゃ山谷が ふるさとよ

工事終れば それっきり
お払い箱の おれ達さ
いいさ いいさ山谷の立ちん坊
世間うらんで 何になる

人は山谷を 悪く言う
だけどおれ達 いなくなりゃ
ビルも ビルも 道路も出来ゃしねえ
誰も解っちゃ くれねえか

だけどおれ達ゃ 泣かないぜ
はたらくおれ達の 世の中が
きっと きっと 来るさそのうちに
その日にゃ泣こうぜ うれし泣き

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 この人は、私たちの世代人で、お父さんが牧師さんでしたが、学んでいたキリスト教系の大学を中退し、フォークソングの世界で生きてきたのです。身一つで、地方から都会に出て来ざるを得なかった方たちからすれば、切迫感に乏しい日雇い経験をしてみた、親や社会に対しての反抗児だったのでしょう。

 生きるか死ぬかの瀬戸際で、釜ヶ崎や山谷に流れ込んで来た人たちがほとんどだったのですから、彼や私の意識は、みなさんとは違っていたのです。その一つの釜ヶ崎で、キリスト教伝道を、アメリカ人宣教師がされいました。その日雇いの労務者から献身され、神学校で学んで、牧師になられた方がおいでです。この方の教会で、お話をさせて頂いたことがありました。

 中流階級への伝道ではなく、この社会の底辺に生きる人々に、福音を宣べ伝えるという使命を、主からいただいて、忠実に奉仕されてきている教会です。江戸時代にも、こう言った日雇いのような人が、その釜ヶ崎周辺には集まっていたそうで、その歴史は長いのです。大阪万博の建築ラッシュ時には、多くの人が、ここで生活をしていたそうです。西成のど真ん中に、「通天閣」があって、その下に銭湯があり、入浴し、宿所で泊まったこともありました。山谷も、東京オリンピックの建築ラッシュ時に、多くの出稼ぎの方たちがいました。

 そこには、今は、外国人旅行者が、安い宿泊代金で、泊まるようになり、街は様変わりしているようです。でも、成長期の日本の歴史を刻んできた街であることに変わりがありません。山谷にも教会があって、きれいに選択した上着やシャツや食料を、車に載せて運んだこともありました。確かに東西にあった宿所があって、道路や施設が出来上がったので、そのために大きく貢献した街であったわけです。目をつむると、あの時、あの場所、そして人の群れが思い出されてまいります。

(大阪の釜ヶ崎、ツルハシの仕事ぶり、東京に山谷の絵や写真です)

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どんな時代が来るのでしょう

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『鉄腕アトム』ハリウッド実写映画化、脚本家決定で再始動

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 〈情報過多〉を痛感する昨今、「栃木市民大学教養講座」の第二日目、「人工知能やロボットの仕組みと社会展開(講師 宇都宮大学工学部 尾崎功一教授)」を、この11日に受講して来ました。

 初歩的な段階なのだと思いますが、人工知能を持ったロボットが、日本第一のいちご生産量を誇る、県下のイチゴ農家で実用されていて、なお、農耕に従事させたいロボットの開発に取り組んでいることに、講師が触れておられました。

 実際に、イチゴの収穫作業を、この農耕ロボットがして、もうだいぶ経過しています。色とか形状の情報を、あらかじめコンピュータに入力しておくと、ロボットは、その情報を元に、収穫の作業をし、一個一個を、定められた受け皿に収めて行くのです。作業自身は難しくないのでしょうけど、商品になるイチゴを見極める判断を下すのが、この「人工知能」になるのでしょう。

 中国の東北地方にある工科大学に行っている学生さんが、帰省中にわが家に来ては、日本語の交わりをして、日本の大学院への留学の準備されていました。性格の素晴らしい青年で、卒業後、日本に実際に留学したのですが、しばらくの滞在で、大学院入学を諦めて、帰国され、お父さんのおられる上海の会社で働き始めています。

 この方は、「医療ロボット」の開発に当たりたくて、大学で学び、留学を願ったのですが、方向転換をされたのです。家内を見舞いに、彼を訪ねて、応援に来られたご両親と一緒に、こちらにおいでになったこともありました。その彼の訪問で、家内は、ずいぶん元気になっていました。

 お母さんが、海辺の出身の方で、おじいさんのところに遊びに行った帰りに、一緒に獲ったという、小ぶりの貝を茹でて持って来てくれたことがありました。東シナ海の貝は、ほんとうに美味しかったのです。何度も手術をした経験者の私は、彼の学びを応援していたのですが、他に生きる道を見つけたのでしょう。

 今の驚きは、病状、病巣などを、診察された結果の情報を教え込まれたロボットが、これからは、医者の手ではなく、情報を提供しされたロボットが医師の主導で、医療行為をする時代が現実になっているのでしょう。何度も手術をした経験者の私は、麻酔をしていて、その手術の様子は分かりませんでしたが、あれも医療ロボットと呼ぶのでしょうか。

 機械には、感情がありませんし、疲労をもしませんから、混乱しないのでしょう。正しい情報があるなら、それを忠実に判断し、診察もできるのでしょう。家内の治療を見てきて、血液検査、尿検査などの化学検査、摘出された病巣部分の検査、CT MRIなどの映像をもとに、医師の経験から、診察がなされ、薬に投与がなされてきたのが、これまでの経過です。

 こう言った情報も、人工知能に提供して、その人工知能が、治療法を弾き出す時代になって行くのでしょうか。よく治療のことを、「手当て」と言われて、手での触診、目で患者さんの顔色とか肌の状態とかを診て、耳で声や内臓の動きを聞き取ったりしていたのに代わって、人の手ではなく医療ロボットが、診断を下すのでしょうか。

 どこまで専門職の領域で、用いられて行くのでしょうか。ロボットが、医者を指示し、また間違いを矯正し、いえ、もっと専門的に、医師の適性までも判断して、監督者のような立場になって、〈人工頭脳病院〉に変わっていきそうですね。院長は、スーパーコンピューターのような情報を持っている〈ロボット先生〉になっていくと、もう給料を払わないで済む時代が来そうですね。

 そうしますと、愛とか悲しみとか同情とか憐れみのない鉄の塊、コンピュータの変形が、人や組織を支配する時代が、来るのではないでしょうか。時々思うのですが、体をめぐる血液や体液、皮膚などから、今後の分析学や病理学が躍進していくと、これまでの病歴や疾患の患部、そして処方の仕方、どんな薬剤を投与するかまで、教えてくれそうです。

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 イチゴの収穫、道路上を移動する自動車、空を飛ぶ航空機、お使い、送り迎え、接待、慰労接待まで、なんでも作業をしてくれそうなロボットの天下になりそうで、ちょっと怖くなってしまいます。昔、忍者が、一粒の丸薬を飲むと、それだけで一日中生きていける体力を養えのだと言う話を聞いたのです。食べ物だって、そんな人工知能が作り上げてくれるのでしょうか。でも、夕張メロンを美味しく食べた先月、あの名前の持つ定評ある価値、色合いを見て、実際に味わい、目で舌で耳で楽しむ期待感や満足感がない、夕張メロンに代わるものなんかできるのでしょうか。

 もし、すべての感情を満足させてくれるような人工知能ができたら、もうロボットはロボットではなくなり、人間は、人間ではなくなってしまいそうです。神さまは、人間がそうなる様には願っていません。神さまの「愛」が、あるから人でいられ、本来の人になれるのですから。

 次回の市民大学講座は、「徳川家康の半生と下野国」です。人工知能のなかった時代に、戦乱を終わらせ、徳川260年の治世の基礎を置いて、日本を支配した人物です。彼にも、彼のbrain(陰の知恵者たちや助言者たちや協力者のことです)がいて、政治・行政・外交・教育など政治的知恵袋、さらには商人・僧侶・儒者・技術者(経済官僚)・外国人なそが、側近にいて、さまざまな情報を提供したことでしょう。ちょっと興味深い講義になりそうです。

(手塚治虫の「鉄腕アトム」、「イチゴ収穫ロボットの手」です)

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帰ってこいよ

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 自分が、似ていたからでしょうか、新約聖書に記されてある「父と二人の息子の物語(放蕩息子の話として有名です)」で、弟息子の生き方を興味深く読んだのです。彼のように、父に財産分与を要求したことは、私にはありませんでした。父の最後の財産は、50坪弱の敷地の平屋の建売りの家でした。株で若い時は生きていたわりには、株券の所有も、貯蓄もなかったようで、そんな人生を父は送って、帰天したのです。

 また、兄たちや弟と財産相続争いもしたことがありませんでした。ですから、父に、財産の取り分を要求した〈give me息子〉ではなかったのです。父からは、教育の機会を与えてもらいました。それで劣等意識に苛まれないで、社会人として生き始められたのは感謝なことでした。また父の伝手(つて)を頼りに、世渡りをするようなきともありませんでした。

 中学と高校で、一緒に発掘調査をさせて頂き、教育実習でお世話くださった恩師の勧めで、最初の職場で働くことができました。そこの責任者の方の connection で転職をし、恩師となる宣教師の招きで献身し、みことばに促されて、海を渡って隣国に出かけたのです。そんな半世紀でした。

 〈お金〉で人生を切り開こうとしたのが、この弟息子でした。その使い方を知らなかったのに、失敗することが解っていたお父さんは、敢えて財産の分与をしたのでしょう。案の定、遊興にそれを費やし、すっからかんになってしまうのです。賭け事、女性、趣味などに、お金を使って、家庭を顧みない男が、家庭を壊しています。

 弟息子は、大金をなくし、軽い繋がりの遊び仲間を失い、豚の餌のいなご豆を食べたくなるほど、自尊心も、生きる自信もなくしてしまったのでしょう。得るには大変なのに、失うには、鳥の羽毛のように軽く去ってしまうのです。

 好奇心の強い人だったのでしょう、未知の世界に勇躍出かけて、快楽に、時とお金と心を使い果たしたのが、弟息子でした。誘惑は、通りを行く男を、二階の窓から誘惑する遊女のように、常套手段を用いて、破滅に誘うのです。素敵な背広を着て、きりりとネクタイを締め、磨き上げた靴を履いて、若さと力でみなぎっていた私でしたが、心の中はスッカラカンでした。

 母を生かしてきた信仰への道に誘われても、それを拒んで〈己が道〉の迷路に入り込んで、我が世の春を生きていました。この世のキラキラした輝く誘惑に、『寄ってらっしゃいよ!』と言う誘いに無防備で、欲に負けた私は、そういった世界に身を晒して、まるで奈落の底に引き込まれそうだったのです。

 この弟息子は、「我に返った(17節)」のです。英欽定訳では、  He come to himself “ とあります。その時を定められたのは、「神」さまでした。自分に、自分の本来あるべき自分に戻る、そう言う意味でしょうか。それは、「気付き」でした。全く考えもしなかった自分の実態への理解がやってきたわけです。きっと、子どもの頃から、絶対的な存在者と価値観などを、彼が暮らした父の家庭の中で、教えられていたのだろうと想像します。

 私は、信仰の強要を、母から受けなかった〈第二世代の信仰者〉で、聖書を読み、讃美歌を歌い、礼拝を守り、献金もし、キリストの救いの素晴らしさを証しして生き、人の悪口や影口をきかず、女性週間紙などを読まず、妻として、母として、信徒として、一市民として生きる母を見て大きくなったのです。母を励まし、強め、生かしているものが何か、分かっていたのです。

 時折、「みことば」を母は教えてくれ、天地万物には創造者がおられ、その神さまが父であること、義なる神で、イエスさまが人となられた神で、信じる者の罪の身代わりに十字架に死なれ、死と陰府から蘇り、天の父の右に座され、そこで信じる者を執り成し、助け主聖霊をお送りくださり、私たちを迎える場所を備え、備えられたら迎えにきてくださることを教えてくれたのです。

 何よりも、『去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。 (イザヤ5211節、2コリント617)』を、母から警告的に教えられていたのです。罪から離れることです。でも守れないで、ズルズルと罪に引き込まれ地獄に落ちそうに感じて、身震いをしてしました。まるっきりの汚れた男に成り下がっていました。

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 裸同然になった自分に、弟息子は「気付いた」のです。自分の実態が分かり、この生き方の結末が分かったのです。上の兄が、将来を嘱望されて働いていた仕事を辞めた日がありました。そして、北九州の教会で、宣教師の留守居役をして、五、六人の高校生たちのお世話をする激変ぶりに驚かされたのが、私の大きな転換のきっかけで、主に従ったのです。

 弟息子は、「思い出した」のです。自分の過去の、〈好い子であった日々〉ではなく、生まれてから過ごした「父の家」を思い出したのです。その思い出の中にいた、有り余るパンに預かっている「父の雇人」の生活ぶりを思い出しました。自分の現実との開きの大きさに愕然としているのです。それは、「父」を思い出したことなのです。

 そして、“ make me (雇人の一人にしてください)(19節、英欽定訳)とお父さんに言います。本当に、《父の子》になること、《父に愛される息子》に戻ることこそが、弟息子の人生復帰のゴールなのでしょう。

 これまで、いろいろな意見、主張、思想などを聞いたり、読んだりしてきたのですが、私は、『父は父なるが故に、父として遇する!』ということばほどに、痛烈で、格別な出会いをした明訓はありませんでした。そして、説教の度に、物を書く度に、そのことに触れてきたのです。

 どんな父親(母だったり、妻や夫だったり、担任や上司だったりしましが)であっても、その人たちは、自分が成長し、一個の人となるために、神が備えあてくださった養育者(助言者であったり、叱責者であったり、権威に服することを教えてくださったみなさん)だからです。多くの人が、人間関係を作り上げられないで悩み苦しむのを見てきました。

 ありのままの父親を、父とする学科を学ぶ者が、この世を正しく生きていけるからです。もう亡くなっていても、痴呆だったりしても、自分のそばに父親を置いてくださった事実を受け入れ、そうしてくださった人格神を認めることです。弟息子は、父親のいる場をしっかり定めることができたのです。

 そう、「帰って行く場所」が、どこにいても、彼の心の中に記されていて、それを人愛句できたのは、破滅的、絶望的な現実の中ででした。一切のわだかまりを捨てて、彼は、「父」のいるところに、跳んで帰ったのです。

 そのお父さんは、弟息子が言い訳などする前に、謝罪をする前に、それを遮るかのようにして、彼を、「子」として受け止めたのです。出ていった日から、『必ず帰ってくる!』との確信で、お父さんの思いはいっぱいでした。その歓迎ぶりは、実に微笑ましいものではないでしょうか。このお父さんが何をしたかは、

 『こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカ1520節)』

 「見つけ」、「かわいそうに思い」、「走り寄って」、「抱き、口づけした」とあります。そう「父の抱擁」、それは、「お前は、私の本物の息子だよ!」と言う、無条件の受容、立場の回復、父を受け継ぐ者との宣言を、全てを失った段階で、父親が付与したのです。

 「帰ってこいよ(秋田ひろむ作詞作曲)」と呼びかける、こんな歌があります。都会で何があっても、田舎に帰ってこいよと促している歌なのです。

♯  稲穂が揺れる田舎の風は 置いてきぼりの季節の舌打ちか溜め息
駅の待合室でうらぶれて 誰彼構わず 憂鬱にする 憂鬱にする
どうせ出てくつもりなんだろ この町ではみんなそう
決意は揺るがないか 迷いなどはないか
故郷を捨てるつもりか 気に病むな、それでいい
振り向くな 立ち止まるな

花、そぞろ芽吹くとも、芽吹かざるとも

幼い頃に遊んだ校舎の壁が ひび割れた分僕らも傷ついた
ガードレール ゴールポスト 漁港のはしけ この町は何もかも錆び付いて
美しい思い出なんてあるものか 記憶の中じゃ泣いて挫けてばかり
この町が嫌いだとみんな言うが 早く出ていくんだと決まって言うが

帰ってこいよ 何か成し遂げるとも、成し遂げずとも

君のその愚直な心は 満員電車などに潰されたりはしないのだろうが
額に汗 将来 野望 人間関係 地下鉄の路線図みたいにこんがらがって
信頼出来る人が傍にいるならいい 愛する人ができたなら尚更いい
孤独が悪い訳じゃない ただ人は脆いものだから
すがるものは多い方がいい

真っ黒な夜 真っ黒な夜でこそ思い出せ
生まれた町を 今年も花が咲いたよ

遠くで鳴る境内の祭り囃子 君が居なくたって夏は過ぎるけど
知らせ無くとも 今か今かと 待ち人の面影に振り返り
祭りの後、闇と静寂が落ちて 砂浜に花火と狂騒の残骸
季節巡れど心は止まったまま 君が出てったあの時のまま

帰ってこいよ 何か成し遂げるとも、成し遂げずとも

菜の花畑の風車 コンビニも出来て 分校の校舎も建て替えられて
あれから大分経った この町も様変わりしたよ
勤め先は相変わらずないから 若い奴らはみんな出ていった
昔よく遊んだあの公園も 今年取り壊されるってさ

夢を叶えたって胸を張ろうが やっぱ駄目だったって恥じらおうが
笑って会えるならそれでいい 偉くならなくたってそれでいい
ビルの谷間勇ましく歩く君が 陽に照らされた姿を想うのだ
忙しくしてんならしょうがないか 納得できるまで好きにしろ

帰ってこいよ 何か成し遂げるとも、成し遂げずとも ♭

 田舎はともかく、親というのは、歳ごろになって、自分の道、独立独歩の道に歩んでいく息子や娘の背中に向けて、『帰ってこいよ!』と、お腹の中で叫んでいるのでしょう。人生には、〈実験〉などなく、いつも〈本番〉、一回きりの人生だということが分かるのは、だいぶ先なのかも知れません。自分の責任で生きて行くのですが、親心は、『いつになってもいいから、ここにはお前のための場所があるんだからね!』と、呼びかけるものなのでしょう。

 先日、長女が、3年ぶりに帰ってきました。実家が中国に行っていたのに、帰国して、思いもしなかった栃木の街に住み始めた両親のいる場所こそが、彼女の「実家」だから、帰って来たのです。長男が、次女が、次男が出て行った時に、家内と私たちは、いつも借家で狭かったのですが、傷ついたり、問題に圧倒されたり、困難な時に、また疲れた時に、ホッとしたかったら帰れる、場所と心の空間、〈移動式実家〉を残して置いたつもりでした。

 時々母の話をしていますが、山陰出雲の養母の家が、母を受け止めてくれる、唯一のこの地上の「場所」だったのです。父と母の間に何があったか、子どもの私には分かりませんでしたが、よほどの決断で、四人の子の手を引いて、ある年の暮に、鈍行列車に乗って、コブ付きで帰省したのです。何か悪戯をして、養母に叱られたことがありましたので、養母は養女にも、養女の産んだ子にも、真剣だったのでしょう。その養母の元で、『四人の将来を考え、身を低くし、夫のもとに帰りなさい!』と諭されて、帰ったのだと、後になって母が語ってくれました。

 『 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。  わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ142~3節)』

 旅の途上に、今はいて、寄留者である私にも、「帰って行く場所」があります。私を、「永遠におらせてくれる場所」がです。そこには、病も、悩みも、苦難も、労苦も無く、それらから解き放たれて、『アバ!』と言って帰っていける場所にです。それでも、家内にだけは、家賃を払わないで住める家をと思っていますが、それが叶えられないままの栃木住まいでも、満足できるのは、なんと感謝なことでしょうか。

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わが dandyism について

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 男子の〈丸刈り〉が嫌われていて、『野球部員になりたくない!』と思ってる少年が増えて、部員数の少数化が起こって久しいのだそうです。自分の中学の三年間は、校則で〈丸刈り〉、坊主刈りでした。中2頃の生意気盛りには、夏休みに入ると、スソ狩りをして、長髪の真似を、反抗的にしていたのです。

 クシを持ち歩かなくていいし、第一、ジャバラの制服に帽子を被らなければならなかったのです。あの3年間の後に、慎太郎狩りでしょうか、短髪が流行っていて、上の兄がしていたので、いつも別名で〈スポーツ刈り〉をしていました。就職後は、長髪で、整髪剤をつけて、跳ね上がった箇所を、蒸しタオルまでして直して、出勤していました。

 その職場を辞めて、宣教師のお手伝いをした後、その教会の責任を負ったのです。初期に、県立高校でラクビーをしていた高校生が、問題児で、彼のお世話をし始めたのです。その間に、彼が問題を起こして停学になり、罰で『丸刈り」になりました。彼の監督者としての責任を感じた私は、床屋に行って、〈丸刈り〉になったのです。停学が解けて復学したあと、彼のクラブ連中が、大挙して、〈丸刈りになってくれたおじさん〉って、どんな人か、首実験に来たことがありました。そんなことがあって、中学以来の〈丸刈り〉だったのです。

 ある時、自転車で転倒して、左肩の鍵盤の断裂の怪我をしてしまったのです。その縫合手術で、ひと月ほど入院しましたら、同室に、教会のメンバーの方のお兄さんが、一緒でした。 両手を使えないほどの重症の怪我をされていたのです。私の手術後の左腕は、アメリカンフットボールのプロテクターのような道具で、縫合した腕を固定していましたが、右の利き腕が使えましたので、この方の食事のお世話をしたり、お手伝いをしていました。

 同じ年齢で、彼は、同じ県の私の生まれた山あいの沢の二本ほど西にある沢の山の中で、同時代に産まれていましたので、仲良しになってしまいました。彼が〈丸刈りで、看護婦さんに髪を切ってもらったので、彼の真似をして、同じように切ってもらったのです。あんなにさっぱりしたことはありませんでした。それ以来、今日まで、牧師なのに〈坊主狩り〉をし続けて、今日に至っています。

 中国に参ります時には、〈日本兵〉が、丸刈り頭だったことがあって、悪い記憶を呼び覚ますことにならないか、実は迷ったのですが、〈ごめんなさいの気持ち〉で、バッグにバリカンを入れて、海を渡ったのです。同じ大学の先生の中にも、坊主頭の方がいましたので、それを十三年間通して、今や三機目の電気バリカンを、一人で使って髪を切り続けていのです。

 もう長髪にすることはないでしょう。長髪にしても、もう髪の毛が薄くなっていて、どちらでも同じで、ポマードやチックを使うようなことはなさそうです。で、考えているのは、〈鬘(かつら)〉です。でも、そんなものを買うよりは、季節の果物を食べた方がよさそうです。ざんねんながら、もうダンディーとは縁がなさそうです。背広も、ネクタイも、ワイシャツも、黒革シューズも、一応ありますが、着る機会がなくなりました。

 あの同年齢の方は、私が中国に参ります直前、別の病院に入院されていた時に、バプテスマをさせていただきました。通常は、浸礼でしていましたが、滴礼で式を、入院先の病室で行なったのです。あれ以来、お会いする機会がありませんが、どうされてておいででしょうか。気にかかる、同じ〈丸刈り仲間〉です。

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今季の朝顔です

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 今季、夏の訪れを告げるかのように、今朝、一所懸命に咲いてくれた「朝顔」です。在華中の二ヶ所の家のベランダでも、日本から持って行った種で、鉢の中で芽を出して、様々な彩りで、毎年咲いてくれました。鉢の中に落ちた種が芽を出し、年が明けても咲いていたこともありました。

 奈良朝末期に、遣唐使が持ち帰って、日本中の庭先で、タネが蒔かれ、この国を長く飾ってきた園芸の雄とでも言う花なのです。難しく複雑ではなく、単純に朝咲いて、夕べには萎んでしまう花なのですが、1日分の元気を呼び覚ましてくれている花なのです。

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ガマンと頑張りで

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 『ガマンしないで、適切に冷房機器をご使用ください!』と言う、ニュースでの注意事項を、今朝聞いていて、悲しいかな、ある歌の一節、「 ♭ 我慢だ待ってろ  # 」が、思い出されてしまいました。

今日も暮れゆく 異国の丘に
友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る 春が来る

今日も更けゆく 異国の丘に
夢も寒かろ 冷たかろ
泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
望む日が来る 朝が来る

今日も昨日も 異国の丘に
おもい雪空 陽が薄い
倒れちゃならない 祖国の土に
辿りつくまで その日まで

 これは、望郷の歌の一つなのでしょう。終戦後に、旧満州に攻め込んできたソ連軍によって、はるか北のシベリヤに抑留された日本兵が、山紫水明の祖国を思い出しながら歌っていた歌です。後に分かったのは、作詞家の増田幸治も、作曲家の吉田正も抑留経験者で、収容の兵舎で作り上げたのだそうです。その旧作の歌を、一人の復員兵が、NHKのど自慢で歌ってから、大反響が起こったのです。それからしばらくして、二人の作詞、作曲家が名乗り出て、日の目を見た歌だと言われています。

 ある方が、お父さんの抑留体験を、次のように記していました。

 『私の父はシベリア抑留者です。幸い、昭和24年無事に復員することが出来ました。しかし、4年間の抑留生活については多くを語ろうとはしませんでした。約60万の日本軍捕虜が酷寒のシベリアで強制労働をさせられ、その内約6万人が亡くなっています。父は28年前に亡くなりましたが、生前TVでこの「異国の丘」が流れると泣いていました。シベリア抑留者の血を吐くような望郷の思いを謳った「異国の丘」は、私たちの心にいつまでも残る絶唱でしょう。』

 子どもの頃に、「りんごの歌」、「とんがり帽子」などと一緒に、この歌がしきりに歌われ、ラジオから聞こえてきたのです。父は、戦時下には軍需工場で働いていて、軍隊の経験はなく、抑留経験もありませんでした。当時の若者が、「お国のために」、いえ「両親や妻や子や孫のために」、ある者は兵士として、ある者は軍属として、また背後の工場で働きながら、戦中を生きていたわけです。

 焼夷弾で日本中が焼かれて、広島と長崎には原子爆弾が投下されて、あの戦争が終結し、様々なことがあったのです。この歌を歌いながら、日本の再建のために働いて、平和と繁栄を手にしたのです。

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 中部山岳の山の中で生まれて育ちましたから、都会生活者だった家内の家族の通ったような、食べ物に窮して、着物を手にして、さつま芋や野菜と交換するような戦後を、私の家族は通らなかったのです。よく、「尋ね人の時間」が、NHKの放送があって、大陸などから帰って来ている人の現在の所在を尋ねていたのを聞きました。

 また駅等や電車に車内では、が、アコーデオンを手にしたり、募金箱を手に下げた「傷痍軍人(しょういぐんじん)」がいたのを見かけました。『勝ってくるぞと 勇ましく 誓って国を出たからにゃ・・・』とか、『ここはお国の何百里 離れて今は 満州の・・・』とか歌う、復員兵の声が耳の奥に残っています。

 『ガマンだ待っていろ!』の歌詞を、ニュースを聞いて、戦後の歌の一節を思い出してしまう自分が、そんな世代であることを思ってみますと、ずいぶん昔、いえついこの間を忘れないでいることが不思議でなりません。頬が痩せ落ちてしまった、戦後東京の街角で撮ってもらった父の写真があったのも思い出します。目が映るような雑炊をすすって、子どもたちのために、シャニムに働いた父の世代の《頑張り》があって、生き延びて、令和の時代を迎えていることになるのですね。

(原田泰治の「故郷」、金峰山から富士を仰ぐ写真です)

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[街]シンガポール

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 マレー半島(旧インドシナ半島)の南の突端に、中華系の客家の出の、リ・クワンユウが建て上げた、585万人ほどの人口を擁する国です。長女が10年ほど、この街の会社で働いていましたので、何度となく訪ねたことがありました。

 アジアでは、実にきれいな街で、厳しい法律のもと、街の美化が保たれているのです。ゴミを捨てると、罰金刑が課せらているほどで、ポケットに手に突っ込んでいて、それを出す時、紙切れでもすり落としてしまうと、キョロキョロ辺りを見回して、拾わなければなりませんでした。

 人口構成は、中華系が74%、マレー系が14%、インド系が7.9%、その他が1.4%で、スーパーやコンビニに入ると、中国語や福州語や閩南語が飛び交っていますが、公用語は英語です。

 もともとは、マラッカ王国があったそうで、1500年代に初めに、ポルトガルが、マラッカ(航路だったマラッカ海峡で重要地でした)を占領し、1824年には、イギリス統治の時代がはじまっています。イギリス人のラッフルズという商人が、商館を建ててからの関わりです。1942年に、北から日本軍の自転車部隊が、この街に侵入し、占領してしまいます。海峡の近くには、その屈辱の歴史を記す石碑が残されてありました。

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 中国でも東南アジアでも、ここまで日本軍が侵攻したのかと思うと、平和の時代に育った私には、驚きの他ありませんでした。マレーシアの一部の島嶼部が、国家として、1965年に独立しています。

 この街の中心部に、Chinese town があって、移民の歴史を語り継ぐ記念館があって、そこに入ってみたことがありました。上海が、そうであったように、アヘンを吸っていた歴史も、生活振りの再現の展示で、忘れないようにしているのでしょう。そこに、蘭州ラーメンの店があって、麺を手延べする作業を、店主が実演していて、娘は贔屓筋で、両親の同行を喜んでくれました。撮っていただいた家内と娘と私の写真が、壁に貼られてあります。

 いつでしたか、船に乗って渡った島で、自転車を借りて、家内と娘と3人で、島巡りを楽しんだことがありました。ジャングルのような中を、走ったのですが、家内はまだ元気だったのです。美味しい食事を食べて、家に帰って、シャーワーをして、ぐっすり寝てしまったのです。朝起きたら、娘が騒ぎ出したのです。スマホも財布も身分証明書も銀行カードもパスポートもなくなっていて、私の愛用の帽子もなくなっていたのです。

 玄関の施錠を忘れていたのです。十分に注意して生活していた娘が、疲れて、確認を忘れてしまったわけです。シンガポール警察が、やって来て現場検証をしましたが、犯人は出ませんでした。ただ、いのちの無事を感謝したのでした。どうも夜中に、玄関のノブを回しながら、機会を狙っているドロボーが、このシンガポールにもいたのです。

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 ある訪問の時でした、街を歩いていて、家内が具合悪くなったことがありました。あの時もemergency car を呼んだのです。そして病院に搬送され、そこで手当を受けたのです。回復して、入院することもなく、帰る段になって、医療費の精算をお願いしましたら、旅行者だったからでしょうか、日本人だったからでしょうか、娘が働いてる街で親が具合が悪くなったからでしょうか、なんと治療費の請求がありませんでした。それが、この街での驚きの二段目だったでしょうか。

 そこには、「シンガポール植物園(Singapore Botanic Gardens)」があり、とくにシンガポール国立蘭園 (National Orchid Garden 」もあって、多種多様の蘭の花が見られるのです。今も、わが家の室内では、胡蝶蘭の白と赤の花が、晩期を迎えても綺麗に開いています。中華系のみなさんは、とくにランの花が好きなのでしょう。わが家で、こんなに長く咲く花は、今まで見たことがありません、第四期目の花なのです。

 チキン・ライスも飲茶も蘭州ラーメンも伊勢海老も、食べ物が美味しい国、街でした。滞在期間延長で、マレーシアのジョーホールバルに連れて行ってもらった、国境付近も、懐かしく思い出されます。マーライオンも、大小が港にあって、また行ってみたいなと思い返しています。忘れていたのは、娘の言っていた教会の牧師さんのお母さんが、夜景の実にきれいな海辺の高台にあるレストランにご招待いただいて、食事をご馳走してくださったことです。高校の校長をなさっていた方で、柔和な方でした。好い思い出ばかりにしておきます。

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越水?!

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 昨夕、”weather news“ を見ていましたら、雷雨予報欄が、〈40mm〉を記していたのに驚きました。通常〈1mm〉なのにです。眼下の巴波川の水位が、見る間に上がってきて、もう少しで、「越水(えっすい)」するところでした(NHK の天気予報のニュースで、仕切りに福岡や大分や佐賀の皮の水が堤防を越えたのを、「越水」と言っていました)。それを初めて聞いたのです。まさに「線上降水帯」の地上の現実は、これで二度目で、自然の猛威に驚かされた夕べでした。

 それでも昨日の散歩で、大好きな「木槿(むくげ」の花が咲いていました。夏の到来を実感させてくれる、特愛の花です。それに、桔梗の花です。

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神さまの喜ばれること

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 『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。(詩篇14710節)』

 古代社会では、力の象徴や速さのトップは、野や宿場間や戦場を駆ける交通手段や、運搬や、戦いに、大いに用いられた「馬」でした。貴重な家畜、助け手だったのです。私たちの生活を、多方面で助けていましたから、重宝されていたのでしょう。1964年、東京オリンピックの開催の年に、東京と大阪を結ぶ「東海道新幹線」が、線路の上を疾走しました。今や、「リニア新幹線」が、宙を浮いて前進する、超スピードで移動ができる時代になっています。

 この詩篇は、そう言った「力」や「速さ」を、神さまは好まれないと言うのです。せっかちな私は、のんびりした性格の家内を受け入れるのが難しかったのです。でも、今振り返って、この五十数年を思い返して、比べてみますと、確かに行動が早かった私ですが、いつも物にぶつかったり、転んだりで、怪我することが多かったのが、私でした。堅実に、歩き始める前に、走る出す前に、よく考えて行動する家内の方が、優っていたので、もうすでにキャップを脱いでしまいました。

 「牛歩豚行(ぎゅうほとんこう)」と言うことばがあるようです。牛も豚も、ノシノシと行く様を見せていますが、馬はつまずき倒れたり、塀にぶつかったりしますが、牛歩の牛や豚行のブタは、そう言った危険性はないと思われます。

 豚に似ている猪(いのしし)ですが、その走る様を、「猪突猛進(ちょとつもうしん)」と言ったりします。その意味は、ある人間の性格や、生き方をそう言うのですが、この「猪突猛進」の人は、目標に向けて、傍を見て、状況を見ることをしないで、一直線に進むのです。設定した目的を達成するためには、がむしゃらに進んで行きます。

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 そう言った人は、行動の人として、好まれて、『こんな政治家がいたら、日本は変わる!』と好まれますが、実は失敗する可能性も大きくて、危なくて任し切れません。確かに、ラグビーの試合向きの性格ですが、それでも一歩一歩の前進の方が、勝利に近そうです。失敗の確率は少ないのでしょう。創造者でいらっしゃる神さまは、《堅実さ》を好まれ、人に、それを求めておられのかも知れません。だからでしょうか、イエスさまは、エルサレム入城の折に、ろばに乗っておいででした。

 人間の歴史を見る時に、馬よりも牛を、力よりも技を、速さよりも一歩一歩の大切さを生きた人、団体、国家の方が、長らいでいるのです。先日も、『ずいぶん歩いて来たものだ!』と、自分の過ぎた年月を思い返したてブログに記しましたが、倒れては立ち、病んでは癒え、泣いて流した涙を拭き、悪さをしては謝りをくりかえしてきた自分ができなかった「牛歩」の家内の方が、はるかに優れた生き方をしています。それが「馬の力(速さ)」や「歩兵」を好まれない神さまの、御心に適っているようで、もうバンザイのこの頃の私であります。

(”https://www.vecteezy.com/members/alexander7david“のイラストです)

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『よくやった!』

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 ある年明けの新年の挨拶状に、次のみことばを記したのです。

 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 (箴言171節)』

 これを読まれた牧師さんが、すぐに連絡して来て、『この春に行われる、私たちの教会の聖会においでくださって、説教をお願いします!』と言われたのです。それで、喜んで、その講師依頼をお受けしたのです。

 二泊三日の聖会で、四回ほどのお話をさせていただいたのです。その奉仕を喜んでくださった牧師さんは、翌年もお招きくださったのです。『聖書から、こんなお話は聞いたことがありませんでした!』と、そんな臍曲がり牧師の話を喜んでくださり、こんな子を産んだお母さんにも、『お会いしたいし、その証をお聞きしたい!』とのことでした。それで、母と一緒に、この教会の「婦人会」を訪ねたのです。

 その証の機会は、母にとっては誉であり、激励や慰籍でもあったようです。小学校を終えただけで、紡績工場で働き始め、養父母に養われた母でした。でも、聖書の神と出会い、この神さまが、「父なる神(アバ)」であることを知って、〈父なし子(ててなしご)〉ではなく、自分を造り、愛し、認めてくださる本物の神の救いに預かったのです。

 その出雲市内の教会に行くきっかけとなった同級生と、カナダ人宣教師の導く教会で、信仰生活を過ごしています。その方は、「熱河(ねっか)宣教」を、ご主人と共に、旧満州の地でされたのだと、母から聞きました。産んだ子たちの二人が牧師になり、もう一人はミッションスクールの教師になり、次男は外資系ホテルで働きました。気性の荒い四人の子育ての賑やかさは、兄弟姉妹のない母には、辛い幼少期を忘れさせる、喜びのひと時だったのでしょう。

 父も、生母に育てられることなく、継母の手で大きくなったので、一つには、きっと境遇が似ていたこともあって、結婚へと導かれたのでしょうか。母は、父の事務所で事務員をしていたことしか聞いたことはありませんでした。そして男の子四人(弟は戦後の生まれですが)を産んだ母親は、「軍国の母」だったのでしょうけど、戦争が終わり、新しい時代を迎えて、《平和の時代の母》は、子育てに専心してくれたのです。

 夏がくれば思い出す出来事は、父や、母に愛されて育てられたことです。愚痴も、批判も、悔しさも、父も母も口にしたことがありませんでした。一人の信仰者として、95年の生涯を終えて、生かしてくださった父なる神のもとにあるのだと確信します。熱い油の中で、中華麺を入れてあげて、たくさんの具材で作った餡をかけて、思いっきり食べさせてくれたのです。大汗をかき、フウフウ言いながら食べました。

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 生涯の終わりに、母の祈りで、遂に救われた父は、子育て中の夏が来ると、ドライアイスを入れて、紙の箱に収めたソフトクリームを、東京から電車で持ち帰って、『さあ喰え!』と言った、嬉しそうな父の顔を見ながら、頬張りついたのです。学校では運動部にも入れてくれ、お忍びで試合観戦に来てくれた父でした。カルメ焼きも揚げ餅も、父の味です。

 鮮明な思い出の日々があって、賑々しい家庭でしたが、家族のために祈り続けてくれた母がいて、その母の信仰を継承した四人の《祈る男の子たち》が、老いを迎えて、まだ支え合っているのです。〈熱々のかた焼きそばがあって、喧嘩ばかりの家庭〉で育った私たちなのに、《平和な時》を過ごせている今に、ただ感謝するばかりです。

 『よくやった!』と、子が二親を褒めるのは、おかしいでしょうか。でも、褒めたい心境の真夏の今朝であります。

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