金環日蝕

 

 2012年5月21日、朝6時過ぎ、ここ華南の地の雲間から、「金環日蝕」が、はっきりと見えました。北京時間の6時半過ぎから始まったようですが、雲間にありましたので、しばらく見守っているうちに、見え始めてきました。次男が家内に、『これで見るといいから持って帰って、5月21日の早朝に見てね!』と言われた、昔、ノートの下敷きに使った、セルロイド(プラスチック)製の様な「日蝕観察用のグラス」を通してでした。薄目にして肉眼でも見えましたが。ベランダから東の空に目を向けていたのですが、やはり神秘的でした!こちらの方は、いつもと変わらない生活をされていて、バス通りに人がそぞろ歩いていて、私と家内だけが、興奮していたのかも知れません。写真を撮りましたので、掲載しましょう!

 

(写真上は、次男が東京で撮影したもの、下の4枚は華南の空の下で撮影したものです)

会津魂

 明治維新の折、朝廷側の薩摩・長州藩と徳川幕府側の会津藩が、1968年に繰り広げた戦いを、「会津戦争(大きな意味では戊辰戦争(ぼしん)」といいます。明治維新以降の会津藩の処遇に対しての不満から起った戦争で、会津藩・鶴ヶ城に立て籠もって城を死守しようとしたのが、16歳から18歳の340名ほどの「白虎隊」でした。実際は予備軍だったのですが、この戦いに駆り出されます。近代的な銃器の長州軍に、旧式装備しかない白虎隊は、一ヶ月の善戦むなしく、ついに降伏してしまいます。

 この会津は、新興勢力に、尻尾を振ってなびこうとしなかった「意気地」が高く賞賛されて、歌にも歌われ、映画の題材にもなっています。旧主君の徳川様に忠誠を尽くすといった「武士道」を、現代の日本の社会が、やはり高く評価するのでしょう。私の下の息子が、仕事で、この会津を訪ねた時の話をしてくれました。タクシーの運転手は、『お客様は、どちらからおいでですか?』と聞き、『山口からです!』と答えると、『降りて頂きます。あなたを乗せることはできません!』と答えるのだそうです。観光客に対しても、いまだに、「会津戦争(大きな意味で戊辰戦争)の遺恨」が残っているのだと言っていました。幸い息子は長州人ではなかったので、乗車拒否をされなかったのだそうですが、150年も経つのに、会津っ子の心意気に興味津々になりました。

 私が、高校3年の時に、入学したかった「同志社大学」は、新島襄が建学した学校でした。その新島の夫人・八重は、実に、この会津藩・砲術師範の娘だったのです。少女時代には、鉄砲を手にして、長州勢と戦った「女兵(おんなつわもの)」だったのです。会津では女性も子供も、「会津魂」をもって勇ましかったのですね。この会津には、もう一人、特筆すべき女性がいました。家老の娘で、「山川咲子(後の大山捨松)」で、明治4(1871)年11月12日明治維新政府から派遣されて、アメリカに留学をした、12歳の少女でした。岩倉使節団の一行の中に、女子留学生が加えられていたのです。『日本の近代化のために、どうしても女子もアメリカ社会で学ぶ必要がある!』との、黒田清隆(北海道開発吏次官)と森有礼(後の文部大臣)の考えによりました。その時、一緒に留学した5人の中には、後に津田塾大学を創設する6歳の「津田うめ(梅子)」がいました。

 

 

異国に留学させる決心をした親も、進取の精神に富んでいたのですが、自ら決心して留学の道を選んだ捨松は、やはり会津っ子の血を引く女性だったのでしょう。黒田にしても、旧幕臣の娘・津田うめ、仇敵の会津藩士の娘・大山捨松を選考した度量の広さは、さすがに薩摩武士に違いありません。15歳の次女を、アメリカのハワイに送った1991年、私は心配でなりませんでしたが、親しい友人が世話をしてくれると確約してくれましたので、肩を押すことが出来たのです。しかし情報量の遥かに少ない時代に、年少の女子が、11年間という留学を果たしたことには驚かされてしまうのです。

 「捨松」とは、留学する娘に、母が、『あなたを「捨てる」つもりでいます!』という意味での「捨」、『帰ってくるのを「待つ」ています!』という意味での「松」だったと伝えられています。年長の二人は、異国の生活に慣れずに体調を崩し帰国します。ところが捨松は、ニューヨーク近郊のニューヘブンという街の牧師の家庭にホームステイをします。溌剌として生きる彼女は、アメリカ社会にすぐに慣れて、溶け込んでいきます。10年後、卒業時には、記念スピーチをします、その内容は、「イギリスの日本に対する外交政策」と題して話されイギリスが不平等条約によって日本国内に治外法権を維持し、その政策がこのまま継続されるなら、日本人は国の独立のために闘うことを決して止めないであろう!』、という内容だったのです。いやー、明治の女性は強くてしっかりして、自分の国の有様を正確に理解していたのですね。そのスピーチに、列席者からの拍手喝采がやまなかったそうです。そして祖国日本のために帰国するのです。

 「大山」という姓は、「大山巌」と結婚してからの名です。大山巌は、旧薩摩藩士の陸軍大将、亡くなった時には「国葬」が行われたほどの人でした。捨松は「鹿鳴館(明治政府の公的な社交場)の華」として活躍した、明治を代表する婦人だったのです。念のため、東日本大震災以降、山口と会津のそれぞれの市長が、握手してる写真が、新聞に掲載されていましたことを申し添えます。

(写真上は、鹿鳴館、下は、明治政府が1871年にアメリカに派遣した女子留学生、捨松は左端です)

驚き

 

 今朝は、近くに郵便局が無いので、F大学の正門の道路を隔てた反対側にある局に行くことにしました。近くのバス停から、大学方面行のバスに乗り込みました。空いていましたので、座席に座って、耳をすませておりましたら、ナナナなんと「軍艦マーチ」が聞こえてきたではありませんか。中国の公共バスの車内に流れるラジオかテレビの音声が、聞く耳を疑うような曲を奏でていたのです。最近、バスの車内では、FMラジオに替わって、移動テレビが放映されているのですが、『エッ!』と驚いた私は、テレビの画面を見たのですが、キャスターが何かをしゃべっているのが見えたのですが、画像と音声が一致していないのです。そうしますと、運転手が、旧来のラジオのチャンネルを回していたのかも知れません。学校に行ってる頃に、時間を持て余して、よく入り浸ったパチンコ屋で流れて聞き慣れていた、紛れもない、あの「軍艦マーチ」なのです。

 その曲が一段落したら、こちらの俳優か声優の日本語が聞こえてきました。聞き取れなかったのですが、今度は、みなさん、驚かないでください!「君が代」が聞こえてきたではありませんか。日本を「小日本」、日本人を「鬼子」という国の中で、日本の国歌が流れていることに、唖然としたのです。今日日、日本の公立中学や高校の卒業式などで、ある教師は国歌斉唱を拒否してるという事態を聞いていますから、ラジオであろうとテレビであろうと、かつての敵国の軍国主義を高揚したと思われている曲と、日の丸を彷彿とさせる日本国歌が流れることなど、『ありえない!』わけです。すでに戦争が終わって66年を迎えますので、年配者から聞いてはおいででしょうけど、軍靴で蹂躙されたという忌まわしい記憶が、この国の中で、じょじょに薄らいできてるのでしょうか。ほんとうに驚いてしまったわけです。

 聞きながら、車内を見回しましたが、どこかの景気のいい中国民謡か、物悲しい失恋の歌にしか聞こえなかったのではないかと感じてしまいました。「北国の春」とか「四季の歌」とか「昴」などは、翻訳されて歌われていますから、ほとんど抵抗を覚えないに違いありません。私の住んでいる5階の部屋から、南に位置する大きなアパートの下に、集会場があるのですが、そこで老人会がカラオケを歌っています。その1つの定番は、「北国の春」ですから、ここ華南の街では、敵愾心など、まったく感じないのは、ある意味では当然なのかも知れません。しかし、この二曲には、『いいんですか?!』と、あたりを気兼ねした私だったのです。

 今日、私は、中国と日本の関係を、『もう心配しなくていいのではないか!』と思ってしまうほどでいた。こちらで生活をされていらっしゃる一般のみなさんが、ちょっとおかしな私の中国語を聞いて、『あんた、何人?』と聞いてこられるので、『日本人!』と答えると、躊躇なくニッコリと笑いを返してくれるのです。午前中の驚きの興奮がさめないまま、午後は、「マッサージ(按摩)」に連れていってもらいました。寝違いなのでしょうか、この2週間ほど肩が張って、首がまわらない私を心配して、若い友人が連れていってくれたのです。鍼とマッサージと温湿布などをしてくださった方が、ナナなんと、招かれて8年間、中国医学を日本で教えておられたお医者さんだったのです。流暢な日本語を話されるではありませんか。更にこの方は、家内と時々交わりをしておられる日本人のご婦人の義理のお兄さんだということも分かったのです。彼女は、わが家にも2、3度おいでになったことがありました。こういった奇遇に、『世界は狭いものですね!』とお医者さんが中国語で話されておられたのです。

 私の愛読書に、「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。とあります。二人の兄と一人の弟がいまして、家内が羨むほどに仲がいい兄弟なのです。しかし、異国で出会った友人や隣人たちもまた、私の人生の「宝」に違いありません。欲しくて出会うとは限らない友が、今や何人も与えられているということは、何にも勝る「富」であります。この方々に、心から感謝して!

(写真は、中国の市内を走る公共バスの車内風景です)

すき焼き

           野菜を食べて愛し合うのは、

           肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

 『何よ、これ豚肉じゃない。すき焼きは、牛肉でしょ・・・』、映画「三丁目の夕日(ALWAYS)」の中で、知人の少女を、事情があって家に迎えた一家の夕食の折に、この娘(こ)が文句を言った言葉です。父から独立して所帯を持ち、新しい事業を始めるアメリカ人企業家の手伝いで、仕事をやめて彼にしたがって、越していった新開拓地は、私の生まれ故郷でした。この方には、起業の助手として、三人の候補者がいたのですが、なぜか私を選んでくれたのです。『旨いものを喰おう!』という時、この土地の人が最も好んだのが「鮪の刺身」で、日本でも有名なマグロ消費県だったと聞いています。山にめぐりを囲まれて、海産物に恵まれなかった土地柄でしたので、『新鮮な魚が食べたい!』と切に願っていたからです。道路が整備され、汽車が走るようになってから、いままで手に入れることの出来なかった魚を、食卓に並べることができるようになって、最高のご馳走が、「鮪」だったのです。

 肉だって、豚肉でした。私たちの家族を夕食に招いてくださった家庭で、「すき焼き」が供されました。その時、『あれ、これ豚肉じゃあない!』と、牛肉だと期待していたのに、違っていたのです。心の中で、あの小学生の少女と同じ事を、私はつぶやいてしまったのです。意外だったからです。父は、自分で〈割下(わりした、砂糖と日本酒と醤油を調合された調味料)〉を作って、特級のロース肉を、すきやき鍋で調理して食べさせてくれました。『卵なんか、田舎者が使うんだ!』と言っていましたから、わが家では卵を使わないで、肉、長ネギ、春菊、焼き豆腐、しらたき(糸蒟蒻)でたべました。そういえば「すき焼き」を最近食べていません。牛肉の値は高かったから、庶民には手が出なかったのかも知れませんので、食べる習慣がなかったのでしょう。『牛肉は臭くってダメだよ!』と食べない理由、言い訳をあげていました。豊かになった現在、健康を考えて豚肉で「すき焼き」を食べる人はいますが、「すき焼き」の定番は牛肉になっています。

 この冒頭の言葉は、イスラエル民族の伝統的な書物にある一節です。このイスラエル民族は、「よそ者」とか「流浪の民」とも呼ばれ、とくにヨーロッパ諸国では嫌われ者であったと、歴史が伝えています。ところが、この民族の優秀性というのは、驚くべきものがあるのです。アメリカ合衆国に移民したこの民は、金融業界のみならず、多くの領域で、大変な活躍を見せております。この民族は、美味しい物を食べることよりも、家族の「関係」を一番大切なものにしていたということなのです。昨年でしょうか、一年を表す漢字が、「絆」でした。

 野菜といえば〈煮物〉、これは日本食の中の日本食ではないでしょうか。年をとったからでしょうか、野菜を薄味で煮たおかずは、米のご飯には一番似合っているのです。鼻の穴から、牛肉が溢れ出るほどに躍り出て、「豊かさ」を見せていても、愛し合っていなかったら、家庭の機能を果たしていないのです。憎しみ合っている家庭は家庭ではないからです。「愛」ほど、安っぽくされてしまった感情はありません。「人類愛」「祖国愛」「師弟愛」「家族愛」「夫婦愛」など、「愛」はあらゆる関係の《要(かなめ)》なのです。ブラウン管やスクリーンが映しだす、偽愛ではなく、《本物の愛》が、日本を困難の中から回復させ、中国と日本の友好を実現させ、明るい明日を向かさせてくれます。もちろん、牛肉の〈すき焼き〉を食べてはいけないのではありません、念のため!

(イラストは、の「すき焼き」です)

安全

 日本に帰って、『高い!』と思うのは物価ですが、『収入が多いから、高いのは仕方がない!』と納得してしまいます。しかし、高さの基準となるのは、「人件費」なのです。物を作るにも、サーヴィスをするにも、人の賃金が高ければ、それにスライドして、値段や料金が高くなるのは当然です。逆に、中国に戻ってみると、『安い!』と感じてしまいます。これも、人件費が低いので、値段も料金も安く抑えられているわけです。ところが、最近、人件費が高くなってきていますし、物の値段が高くなっていますので、「ルーミエン」と呼ばれる美味しい麺料理ですが、一番初めに食べた時には3元でした、ところが今では、7元と10元との二種類になって、10元のほうが、丼の中の具に驚くほどの違いがあるのです。野菜も肉もお菓子も、すべての価格が高騰してきているのですが、収入の少ない家庭では、やりくりが大変だろうなあと思うことしきりです。それでも、米とかバス代のような公共性のあるものは安くされております。

 昨年の6月に、広州まで飛行機で出かけ、帰りは「長途汽車」という、遠距離バスを利用しました。二階式の寝台バスで、肩幅ほどのベッドがあって、音とトイレの臭気で、熟睡はできませんでしたが、料金は安かったのです。安さに負けて、バスを利用したわけではないのですが、この国は、「公共料金」が安く抑えられているのです。そのためにバスの運転手は、月給も少ないようです。私が夕方に乗り込んだバスは、個人経営だったのですが、過重な運転手の負担を軽くするために、安全策が講じられていたのです。運転手が、途中で乗り込んできて運転を変わったり、交代で運転をしていました。私服を着た運転手で、外観から見て、『あれっ!』と、いつも思うのですが、運転は熟達していて、配慮があったのです。日本は制服を着ますが、心に制服を着せていないので、事故を呼ぶこともままあるようです。

 日本の交通機関の料金は、高過ぎるのではないでしょうか。とくに「JR新幹線」は、公共性を忘れているのでしょうか、実に高いのです。関空を利用していた時も、東京まで行くのに、『バスにしようかな?』と思わせる1つの理由は、料金の問題なのです。「三公社五現業(日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社が三公社、郵便・林野・日銀・造幣・アルコール塩専売が五現業)」の頃の国鉄は、赤字経営でしたが、公共輸送機関としての役割を、しっかりと果たしていたのではないかと思っています。

 私は、『何時か乗ってみたい!』と思っていたJRの路線がありました。宮古と盛岡を結ぶ山田線に茂市という駅があるのですが、ここから始着発していた「岩泉線」です。3・11の地震で不通になってから、廃線が決まってしまいました。昔は、蒸気機関車が山間を走り、ジーゼルからバッテリーの動力で走っていた、沿線の景色に定評のある赤字路線でした。「地方切り捨て」「赤字線廃止」の経営方針で姿を消してしまうのです。「経営」だけが会社の存在目的になって、「公共性」を忘れてしまっているのが、《殿様商法》の今の企業の在り方なのではないでしょうか。

 それで、『料金を安く抑えれば、ビジネスチャンスがある!』と、バス輸送が脚光を浴びている矢先に、先日の関越道の悲惨な事故です。もちろん中国にも事故があります。これだけの人を輸送するのですから、事故だってあります。でも、安月給でも、バスは古びていても、最大限の安全対策をしているのが分かるのです。先ごろの「動車(中国版新幹線)」の事故には、ほかの問題があるようですので触れませんが、一般的に、安全が保たれていると思われます。速さより、安さより、《安全性》こそが、求められる業界です。日本の国の津々浦々に至る、総合的な輸送を考えて、これからの対策を急いで欲しいと思うのです。「リニア」は国威の発揚のために必要でしょうか。その予算で、安全対策を講じていかないと、「東京電力」の二の舞になるのではないかと、心配で、ご飯が喉を通りません・・・と言いながら、今朝は、饅頭を三等分してトースターで焼き、バター、果物ジャム、チーズ、きゅうり、紅茶、林檎、バナナの結構贅沢な独りの朝食をしてしまいました。

(写真は、長距離バスの乗車券売り場の風景です)

知恵

 

         人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。

         あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。

 学校を出て社会人になろうとしていた時に、今で言う「就活」の時期になるでしょうか、母校の恩師が、1つの職場を紹介してくれました。私は、6年間の在学中に、この教師から教わったことがなかったのです。中学生の時に、バスケットボール部に所属しながら、高等部の「考古学研究部」の活動に参加していました。この研究会の顧問をされていたのが、この教師だったのです。学校が、武蔵府中、武蔵国分寺があった地にありましたので、よく、分倍河原、仙川、日野などの住居跡などの発掘の手伝いをしていたのです。

 スコップを手にしながら、堀り進んでいくときに、千年も二千年も前の古代の人々の生活の様子に、時空を越えて触れられるといった「浪漫」にふるえていたのです。あのまま進んでいたら、古代史の研究者になっていたかも知れません。ところが、バスケットボール部の上級生も、高校生も、OBも、何も知らない純な中学生の私を、大人の世界に引きずり込んでしまったのです。「揉まれる」というのでしょうか、エログロの雑誌や写真を見せられ、選び取りをするまでもなく、汚れた社会の洗礼を受けてしまったわけです。帽子に細工をしたり、ズボンの太さを調整したり、生意気さを増長させてしまう道に、突進していったのです。これが大人になるということとは違うのでしょうけど、背伸びをして、『はやく大人になりたい!』と焦った気持ちを持て余していましたから、すんなりとその波をかぶってしまったわけです。よく「中2の危機」とか「17の危機」とか言うのですが、まさにその危機の只中を深く潜行していたのです。

 そんなことですから、浪漫を追い求めるよりも、がむしゃらに大人の世界に突入していくのです。喧嘩をして、体の大きな級友を殴り倒したり、パンを盗んだり、実験室に忍び込んだり、クラブの部室荒らしをしたり、教師に楯突いたり、そんな事で明け暮れていたのです。ところが中3になってから、急におとなしくなって、三学期の学年末の「通信簿」に、担任が、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれたほどでした。どうして、あのまま、ズルズルっと落ちていかなかったのか、自分でも不思議でならないのです。そのまま高等部に上がって、入ってきた同級生の中には、すぐに数人が退学していきました。盗みの常習で、意気が合って仲よかったのですが、運動部に入っていましたので、彼らと一緒に行動できなかったのが幸いしたようです。というよりは、心のどこかで、『母親を困らせて、泣かせてはいけない!』といった思いが強くて、それが抑止力になっていたのだと思うのですが。

 教育実習を、母校でさせてもらった時に、この「考古学研究部」の顧問の教師が、私の世話をしてくれたのです。「就活」の最中、この先生から連絡があって、『学校の帰りに寄りませんか?』と誘ってくれて、行きますと、『今度こういった機関が出来ましたので、私の元同僚もいますから、働いてみませんか?』と紹介してくれたのです。恩師の紹介でしたので、即採用となって、そこで3年働きました。この恩師の元同僚が、私の所属課の課長でした。一緒に山歩きをしたりはしたのですが、「狡い男」だったのです(!?)。この人につまずいた時に、それなりに悩ましい表情をしていたのでしょう、母が、冒頭の「ことば」を、私に聞かせてくれたのです。『人の語る言葉に煩わされないでね!』と言ってくれたのです。もちろん、《人間不信》を母が教えてくれたのではなかったのですが。どうも『人の言葉を鵜呑みにしないで、言葉半分で聞いたら!』と、教えてくれたのだと思うのです。それ以来、人にはつまずかなくなりました。感謝なことです。

 その上司が後で、ある短期大学の学長になっていたのを知らされて、驚いたことがありました。きっと、私のようにつまずいた部下が、何人もいたのではないかと、ふと思ったことでした。それでも、私の苦悩の日に、ほんとうに的確な助言をしてくれた母の知恵には、いまだに驚かされたり、感謝だったりであります。

(写真は、長野県富士見町の井土尻遺跡からの出土品です)

バベル

  

 日暮里から乗り込んだ、成田に向かう京成スカイライナーの右側の座席に座った私の視野に、「東京スカイツリー」が入ってきました。高さが634mもありますから、ひときわ目立つ塔ですが、かなり遠くに見えていました。その高さが、「武蔵、ムサシ、634」から来ていると聞いて、地上デジタル放送用に建てられた塔でありながら、〈語呂合わせ〉で高さが決められるというのは、建造目的が科学的であるのに、ネーミングは実に愉快なことだと感心してしまいました。私の上の兄が初めて手にした自動車の番号が、「2343」でした。義理の姉の名が、「文代、フミヨ、234」で、それに「さん、3」をつけた番号だったのです。当時、車のナンバーを選ぶことなどできませんでしたから、天からの授かりものだったことは言うまでもありません。この塔を眺めながら、『次に帰国したら、3000円を払って、展望台に登ってみよう!』と決心をしたのです。

 実は建設中に、JRの「成田エクスプレス」に乗って成田から東京に向かっていた時に眺めたことがあったのですが、車窓から初めて見えた塔は、圧倒されるほどの高さで、電車が地下に潜るまで見え続けていたのには驚かされてしまいました。《高さ競争》というのが、建設業界にはあるのです。ギネス認定を目的に、必要なのかどうかわかりませんが、高さを競い合うことに、「遊び心(!?)」を感じてしまうのですが、みなさんはいかがでしょうか。

 幼稚園児だった長男を連れて、東京に出てきた私は、芝公園の近くある「東京タワー」見学に行きました。展望台に上がる料金の高さに驚いて、上の展望台に息子を連れていって上げることができませんでした。『もうすこし奮発すべきだった!』と後悔してしまいまい、『貧乏くさく生きるのを、もうやめにしよう! ]』と、後になって決心したほどでした。それでも息子は、そこで買ってあげた飲み物を、実に美味しそうに飲んでいて、満足そうにしていたのです。私の通っていた学校は、この「東京タワー」に近かったのです。当時、「都電(路面電車で今の地下鉄の路線の上に走っていたと思います)」に乗るとすぐのところにあったのですが、長男と訪ねるまで、一度も行ったことがなかったのです。

 高さだけではなく、その偉容に驚かされていたのが、ニューヨークのマンハッタンにあった「世界貿易センター(WTC)」でした。2001年、「9・11」のテロ攻撃によって、崩壊していく様子を、娘が国際電話をかけてくれたからだったと思いますが、テレビのチャンネルを回して、目の当たりにいたしました。『お父さん、バベルの塔だね!』と、一緒に見ていた次男が言ったのを、今、思い出しています。歴史的故事に出てくる「塔」のことです。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。 言って、瀝青とレンガを用いて、シヌアルの平地に建てられたものです。この塔が「バベル」と呼ばれたのですが、その意味は英語で、「バビロン(バビロニヤ帝国の首都の名)」です。この塔は実在していたと言われ、チグリス川とユーフラテス川の河畔にあって、高さが90m、7階建の建造物だったそうです。「頂が天に届く塔」というのですから、人間の驕りと、造物主への挑戦、挑発を意味して建てられたものであったのです。

 そういった意味で、「世界貿易センタービル」というのは、世界中の国々の有名企業が、このビルの部屋を借りて、経済経営活動を展開していましたから、「20世紀の人類の誇り」を象徴するような「塔」、20世紀の「バベルの塔」であったのは、息子の言うとおりだったかも知れません。「バベルの塔」は完成をみることなく、計画は頓挫してしまったと記録されています。多くの犠牲者のみなさんには申し訳ないのですが、WTCの偉容に見え隠れしていた「人類の驕慢さ」が、テロという蛮行によって打ち砕かれたような気がしたのは、私や息子だけではなかったと思うのです。というよりも、人の営みというのは、蛮行にしろ、自然災害にしろ、一瞬のうちに潰え去ってしまうのだということを、私たちに知らせてくれているのかも知れません。だから、「大きなもの」や「高いもの」を誇るのではなく、人は謙虚に生きるべきなのかも知れません。日本の先人たちがいみじくも残してくれた教訓に、今は聞くべき時に違いありません。

 

(写真は、http://ameblo.jp/kiyurino-jp/image-11240997715-11952455899.htmlの「東京スカイツリーの夜景」です) 

怒り

 ものすごい雷光、轟、雷雨が、このところ毎日なのです。まるで、天が怒っているように感じてしまうほどです。私たちが長く生活しました街も、雷が多かったのですが、大陸のこちらとは、比べ様がありません。閃光の長さも、轟の音量の大きさ、雨の量も半端ではないからです。5月の「労働節」の連休の時期ですが、以前は、一日一回ほどの雷の回数だったのです。ところが今年は、繰り返し繰り返し、日に何度も雷が発生しているのです。やはり、異常気象に違いありません。毎年この時期に、雷はあるのですが、このような情況は異常なのだそうです。

 私が、一人の友人と初めて韓国のソウルを訪ねたのは、長女が生まれた年でしたから、1974年の夏になります。朴大統領が狙撃され、夫人が打たれて亡くなるという事件が、ソウルに滞在中に起こりました。『犯人は、日本人だ!』とのニュースが駆け巡りましたので、私たちは外出を控えたのですが、間もなく、日本人ではなく、在日の北朝鮮系の男であることが判明しました。当時、ソウルの街は夜の11時を過ぎますと、灯火管制が行われ、一般市民の外出が禁止されていました。そういった緊張感を感じたのは初めてのことでした。日本が敗戦した後に、朝鮮半島が38度線で南北に分断されていました。ところが1950年6月に、北朝鮮が韓国に向けて砲弾を発射したことから、いわゆる「朝鮮戦争(朝鮮動乱とも言います)」が勃発してしまいます。北朝鮮の主張は、「民族解放戦争」だとしていますが、ソウルが陥落してしまったほどでした。韓国はアメリカの占領下に、北朝鮮はソ連の占領下にありましたから、同じ民族が、内線を繰り広げたというのは、悲劇であったのです。

 実は、日本も敗戦後、4つに分割されて、占領される動きがありました。結局、戦勝国となった国々が協議して、アメリカ一国の占領が行われることになりました。もし4つの国に、それぞれが占領されていたならば、朝鮮半島と同じように、内戦が行われる可能性は実に高かったのではないでしょうか。東アジアの国々が民主化し、近代化されていくためのモデルと、日本がなれたのは、不幸中の幸いだったのではないでしょうか。

 この南北両国が、熾烈な戦争を繰り広げる中、ソ連のスターリンから、中国に参戦が求まられ、北朝鮮に援軍を送ります。韓国は、アメリカ軍と国連軍と共に、これに応戦するという形で、戦争が繰り広げられてしまうのです。私の若い知人のおじいさんもおばあさんも、この戦争に参戦した中国軍の将校だったと聞いています。この戦いの休戦協定を交わされたのが、1953年7月でした。それ以来、休戦状態のまま今日に至っているのです。

 なぜ朝鮮戦争のことを取り上げたかといいますと、この半島が南北に分断されて以来、韓国は、驚くほどの経済的な国家として躍進してきておりますが、北朝鮮は全く違うのです。軍事優先が、国を疲弊させていること、異常気象の影響を受けて、農業生産が危機的な状況にあって、飢餓死する人の数は夥しいものがあり続けてます。寒さに強い農作物の開発研究などが行われていないことも大きな問題ではないでしょうか。国民が満足に食べられなくて、何が国家でしょうか、国の指導者でしょうか。食の必要を満たすことなく、宇宙開発などをするのは、15年も早いのです。『何かが間違っている!』、このことがこの国の問題です。

 ところで、最近の日本も、『何かが間違っている!』、のではないでしょうか。天然の祝福が、じょじょに陰りを見せているのです。天災に見舞われ、大手の製造業の不振、青少年の夢や理想の欠如、国民全体が悲観的になってきています。何よりも、『大きな地震が起こるのではないか!』という不安、福島の原発事故による、放射能漏れの生活への甚大な影響、北朝鮮からの攻撃の可能性などがあって、国が怯えてしまい、まったく勢いがないのです。人の第一の必要を満たすことから目を逸らして、本末転倒になってしまうと、自然のサイクルが異常をきたし、祝福のベールが追い払われてしまうのではないかと思うのです。それを北朝鮮に見、更に今の日本に見てしまうのです。もしかしたら、天が怒っているのかも知れません

 この素晴らしい国土を頂いた私たち日本人が、感謝を忘れず、驕りを捨てて、互いを敬いながら、隣国と和して、この困難、国難を乗り越えていけるよう、一人一人が反省し、互いに励まし合いたいものです。何よりもこの平和は、何にも代えがたいものがありますから、失いたくないのは私だけではないと思うのです。

(写真は、〈NHK「宇宙の渚〉より「スプライト(雷の上部の閃光)「」です)

いのち

 

 毎年のように1万人以上の交通事故死がありましたが、1993年以降、死亡事故が激減して、法改正が行われ、厳しい罰則規定の効果が上がってきているようです。ところが最近、登校途中の学童の中に車が突込んだり、信号無視をして横断歩道の歩行者を跳ねるといった事故が、ニュースに取り上げられております。そういった事故は、何か異常なのではないでしょうか。日本の社会全体に、何か、いのちを預かる運送業務、それ以上に、一瞬にして運転操作を誤ると人名損傷を起こす運転への緊張感が薄らいできているのではないでしょうか。

 中国で6年を過ごして、自動車運転のマナーなども、日本との違いに驚かされてきましたが、それなりに注意深く運転をされていて、暗黙のうちのルールがあるのが分ってきています。車を前進させたり、後進させるとき、決して急発進をしません。対向車や歩行者に注意を払いながら、巧みなハンドルやブレーキ操作をしていますので、事故が多そうですが、思ったより少ないのです。それが上手なのかどうかは判断しかねますが、車も自転車も電気自転車も歩行者も、相手の行動を予測しながら、道路上で行動しているのです。日本だったら、『事故かな?』と思う瞬間、スルリと通り抜けているので、ホッとすることがしばしばです。

 何年も前に、台北に仕事で行きました時に、私たちを乗せてくれたタクシーの運転手は、客が日本人とわかるやいなや、「演歌」をガンガンとかけてくれました。そして、その運転ぶりは、サーカスのような曲芸の如きでした。それに耐えられなくなった同乗の台湾の方が、『お金を出すから、ゆっくり走ってくれますか!』と交渉していたのです。シンガポールは、そういった心配はないと思うのですが、娘に言わせると、『ひどい!』そうです。東京に帰って、タクシーに乗りますと、自動でドアーが開閉し、丁寧な接客の言葉がかかってきますし、運転は、雲の上に乗ってるように穏やかで、驚かされてしまいます。「雲助」と言われていた昔が、嘘のように感じさせられるのです。

 その悲しい事故が報じられて、やりきれない気持ちがいたします。自動車や電車の性能上の問題ではなく、それを繰る運転者に、やはり問題があるのではないでしょうか。性能の良い車に乗るという安心感が、油断につながるのではないでしょうか。「ハインリッヒの法則」に、『大事故の前に29の小事故があり、そして300の予兆がある!』とあります。運転していて、『ヒヤッ!』とした瞬間が誰にでもあるのではないでしょうか。私は、何度もあるので、肝に銘じるようにしています。

 先日の関越道の大事故は、運転手が居眠りをしていたこと、所定のルートでないルートを通行していたことなどが、原因として挙げられています。居眠りは、健康管理、生活管理に問題がありそうですが、運行指示書を守らなかったことには、やはり大きな問題がありそうです。自分の判断だけで、事を決めてしまい、会社の意向や指示に従わないという問題です。今では携帯電話がありますから、運転困難な事情や、迷ったりした時に本社に連絡をとることが出来たはずです。そういった連絡を受け取る、不眠の管理体制がとられていないのでしょうか。そういったものができないなら、いのちの運送を預かる運送業者としては失格ではないでしょうか。お金を儲けるだけではなく、いのちの尊重を忘れたら、こういったことが起こってしまうわけです。

 先月、次女がアメリカから、母の葬儀で帰ってきたのですが、二度着陸を試みたのですが、大嵐で、成田に着陸できませんでした。結局、関空に回されました。次男が、飛行機の航路追跡を、コンピューターでしていましので、その二回のトライも、関空に回されたことも、航路でわかっていました。ところが、航空会社の日本事務所、提携の航空会社の対応は、業務時間以外のようで連絡が取れませんでした。結局、何度もなんども電話を入れて、ついにシンガポールの本社に連絡して分かったのです。長男は、成田まで出迎えていたのですが、どうなっているのかの報告義務が、空港のロービーで果たされなくて、実に不安だったようです。

 「危機管理体制」が、国のレベルでも、民間のレベルでも、不十分なのはいけません。今日のように、科学万能の時代になっていても、感情や意思を持つ人が関わるのですから、細心の管理体制、チェック体制が、どうしても必要なのではないでしょうか。ミサイルが飛んでいるのに、外国の政府は報告しているのに、日本政府は躊躇していたのは最重大のミスです。人のいのちを預かるみなさんの猛省を促します。

(写真は、「ゆん無料壁紙集」所収の「わかば」です)

 山と山がせめぎ合っていて、その幅20メートルほどしかなかったでしょうか、その道の脇に、この地で有名な神社の参拝客用の旅館が、今でもあります。そのひなびた旅館に、二階建ての離れがあったのですが、そこが私と弟が生まれた家でした。だれも住まなくなって、廃屋のようになっていたのが、潰れてしまったのでしょう、今は跡形もありません。その旅館の離れに家族を住まわせて、そこから山道をずっと上がったところに、父が働いていた軍需工場がありました。200人ほどの従業員がいて、飛行機の防弾ガラスを製造する原材料の1つである、「石英」を採掘し、それをケーブルで沢違いの基地に運び、トラックで駅まで運び、駅から貨物列車で京浜地帯にあった工場に出荷していたのです。終戦の前の年に、山形から、私を宿した身重な母は、この山奥まで、軍命に従った父と、二人の兄を連れてやって来たのです。そこで私を生んでくれたのですが、真冬の12月でした。弟を生んでから、沢違いのケーブルの到着点にある社宅に引っ越しをしました。そのケーブルには、山で撃ち取った〈熊〉が運ばれてきて、真っ黒な塊が、ケーブルの脇に、時々置かれていたのを思い出します。鹿もあったでしょうか。記憶にはありませんが、それを、何度も食べたのでしょうね。

 戦争が終わって、軍需工場は閉鎖されてしまいました。戦時中、米軍は、こんな山奥に軍需工場があるとの情報を得ていなかったのか、爆撃対象から外れていたのは幸いでした。ですから、このケーブルは、木材の運搬のために使われていました。父は、県有林を払い下げてもらって、全く畑違いの「材木業」をしばらくしていたのです。そのケーブルに私は、どうしても乗りたかったのですが、父は決して許してくれませんでした。上の兄たちは乗せてもらった経験談を、誇らしげに話していたことがありますが。

 その山奥に、母の故郷から、親戚ではなかったのですが、弟のように世話をしてきた、予科練(海軍予科練習生)帰りの方がいました。立派な体格をしていていたのを思い出します。父も母も、『繁ちゃん』と呼んでいましたので、私たちも、そう呼んでいました。この方が、私をおぶって、山道を泣きながら連れてきたことがあったそうです。これも記憶がないのですが、屈強な男が泣いてしまう程の長い道のりを、おぶってくれたのです。この話を、父がよく聞かせてくれたので覚えています。いつでしたか、出張で山陰に参りました時に、この繁ちゃんの家を訪ねたことがありました。『こんな話を父から、よく聞かされました!』『ごめんなさい!』と言いましたら、彼は、ただニコニコ笑っていただけでした。日本におりました時に、夏には「二十世紀梨」、暮には「出雲そば」と「野焼(アゴという飛魚で作った蒲鉾)」が、毎年、この繁ちゃんから母と上の兄の家と弟、そして私とに、それぞれ送ってくれたのです。

 そんな関係で、わが家には、石英に結晶した「水晶」が、床の間に飾られていました。相当に重かったのを覚えています。それが、いつの間にか、なくなってしまっていましたが、気前の良い父は、大事にしていたのに、きっと、どなたかに上げてしまったのではないでしょうか。もしかしたら、戦争の記憶を捨ててしまいたくて、父が処分してしまったのかも知れません。そういえば、父も母も、何も残さなかったのです。後生大事にしていた宝物とか趣向の蒐集品というものは、まったくないのです。ただ本は好きだったので、それが残っていることでしょう。そんな母の書庫の中から、昨年帰国しました折に、一冊の本を、こちらに持ってきております。母が上の兄の家にいましたので、断りなく持ってきてしまったのですが、母は許してくれたことでしょう。この本の第三表紙に、『2008年TK』と記されてあります。91歳の母が、立川の書店で買ったのです。そんな年齢までも読書欲があったのには驚かされてしまいます。そういえば、買い物の好きな母でした。『みんなが学校に行ってる間に、わたしは新宿に買い物に行ってきたわ!』と、なんども言っていたのです。明日は5月1日、稲妻と大轟と雷雨の午後であります。

(写真は、「岩村清司のブログ」に掲載されていた〈我が故郷の山から望む富士〉です)