街のおじさん

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しっかりネクタイをしめて出勤、授業が終わって、のどの周りに窮屈さを感じたので(と言ってもネクタイが嫌いなだけした)、ネクタイを外して、ワイシャツのむねのポケットに入れたのです。クラス担任もしていませんでしたので、「これで終わった!」と一段落したからでした。それで職員室に戻って机に座っていた時に、私の真正面にいた教頭に、「先生、ネクタイをするか、何処かにおいた方がいいですね。」と注意を受けました。映画俳優でもありませんし、職場に似つかわしくない服装に見えたからです。「はい!」と頷いた私は、机の引き出しにネクタイをしまったのです。弱冠25歳の時でした。と言っても、国会議員に立候補できる立派な大人の年齢でした。背広に白のワイシャツ、それに地味なネクタイは、教壇に立つ時の模範的な服装でした。

生意気な私は、人生の先輩たち、いわゆる「街のおじさんたち」から、よく「小言」や「注意」を言われたのです。どちらが上か分からないのですが、弟にもです。今になって、その頃のことを思い返すと、生活にけじめがつかないで、だらしなかったのはともかく、「言われ易いタイプ」の人間だったのでしょうか。今でも、慌てて何かをすると、「慢慢点儿(マンマンデアル)」と言われるのです。つまり、「ゆっくり!」との意味です。4歳の私に、母が言っていたのと同じ言葉がかけられてくるのです。すこしも成長も、改善もしていないので、嫌になってしまうことがあります。だから、家内からも少々セーブしながら、言われることがあります。これって、どうも一生のことになりそうです。

現代の青年たちは、我々の時代とは忠告や指示を受けた時の反応に仕方が違うのです。反抗的で、ある時は攻撃的になる傾向があるようです。以前、名古屋の南山大学の林雅代という先生が、NHKのラジオで、こんなことを言っていました。電車に乗っていても、道を歩いていても、若者たちの言動に対して、人生の先輩として大人の私たちが忠告をしたり、叱責しなければならない時には、どう言ったらいいかということことです。一つは、「感情的に言ってはいけない!」、二つは、「注意しない!」ことだそうです。それで、どう言うかですが、三つは、「事実だけを言う!」のだそうです。どうも今日日の若者たちは「幼児的な反応」だったり、「動物的な反応」をするようです。

あの頃に比べて、私が少し改善されているとしたら、あのおじさんたちのお蔭に違いありません。「よその子のことだから、ほっとけば好い!」と無関心を装わないで、敢えて「小言」を言ってくれたからです。「見て見ぬ振りをする!」、こんな傾向にある現代社会で、勇気を持って、自分の子や孫に言うように、「事実」を語れる大人でありたいと思うのです。

(写真は、中国の「霞浦」です)

極意

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電動自転車が、人と自転車と車の間を、巧みにすり抜けて通って行きます。オートバイのようにエンジン音がしませんので、真横をスッと通り抜けて行く時には、「ウッ!」と何度も驚かされたのです。今では、慣れたので、歩きの進路を急に変えたりしません。もし進路を変えなければならない時には、ゆっくりとした動作をする様にしているのです。そうすると電動自転車も車も、こちらの動きを察知できるからです。これは安全のために身につけた「極意(ごくい)」です。ここ華南の街は、この電動車が最も多い街だと言われています。以前は大型だったのですが、数年前から小型化に規制されてきています。「便利ですよ!」と言われて、買うことを勧められるのですが、よく電動車同士やバスなどとの衝突事故を目撃していますので、乗りたくありません。

最近、切る風が冷たくなったからでしょうか、この電動車に乗る女性の服装が特徴的になってきています。長袖のシャツや上着を、反対に腕を通して、お腹に背の部分を持って来て着ているのです。風防の為です。初めて目にした時に、「変なファッションだなあ!」と持って眺めていましたが、瞬く間に流行しているのです。この街の風物詩の一つです。

この電動車に、家内は日本にいます時に、乗っていた時期がありました。こちらのは結構高速のスピードで風を切って行くのですが、日本製は速度制限があって、自転車並みの速度なのです。何時でしたか、下を電車が走っている高架になった坂道を、家内が登っていました。バッテリーが足りないのでしょうか、あえいでいて自転車の私の方が速かったことがありました。こちらのは、親子三人、友達三人で乗っても、坂道なども「平気の平左」で、ズンズンと登って行くのです。最近自家用車が増えていますが、夫婦と一人っ子が、一台の電動自転車に相乗りしています。さながら、マイカー以前の中産階級の家族の平均的な様子でしょうか。

時々、天気の悪い雨の日、大きな荷物を持っている日などには、「車があったらなあ!」と思うことがあります。40年も車に乗ってきましたから、ほとんどの時が「歩き」と「公共バス」、時々は「タクシー」、たまに「友人の車」で生活していますので、そんなことを思ってしまうのです。こちらの免許証を取って、自家用車で道路の繰り出しても、事故車同士の運転手が、口角泡を飛ばして、丁々発止とやり合う様子を見て、「これができなければ運転をしない方が好い!」と結論したのです。

「足から弱くなるから!」と家内と話し合って、「歩くことが健康管理に最高だ!」というのも、もう一つの結論なのです。でも、たまの休みに、郊外の大自然の中に行ってみたい時には、「ああ、車が・・・」と思ってしまうのです。

(絵は、木曽道中の熊谷宿の「駕籠かき」の図です)

秋眠

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今年の大陸の秋は、例年のように、朝晩は涼しく、晴れの日中は、夏のような日を見せております。酷暑の夏の名残でしょうか、日本では、十月になっても「真夏日」があったほどに、日本列島が涼しくならないそうです。秋の楽しみの一つは、「春眠暁を覚えず・・・」と同じように、夏の寝不足を補うかのような「秋眠」で、熟睡できることなのです。こちらでは「睡得好(スイダハオ)」」、「眠れて得をした様で好かった(?!)」で、寝覚めが爽快になってきました。ところが、日本では、なかなか熟睡できないのだと聞きました。夏の高温の余韻を体が感じたままなのでしょうか。暑すぎた夏、それも、いまだに暑いということは、「ストレス」ではないでしょうか。

汗かきの私ですが、こんなに大汗をかいた夏は、今までありませんでした。寝ていても、一晩に二度ほど寝間着を着替えるほどでした。蚊帳の中で寝ていますので、空気の動きがよくないのでしょうか。扇風機もあるのですが、空調も含めて好きではないので、就寝時には使わないのです。今夏も、いつもの夏と同じように寝ていたのですが、夏の睡眠が足りなかったことは確かです。家内は、中国のみなさんがされるように昼寝をするのですが、私は、滅多にしません。どうも、「半時間ほどの昼寝」が最適だと言われているようです。

国会議員が議場で、「居眠り」をしているのを盗撮されて、物議を醸したことがありましたが、私はしたことがありません。学校の授業中とか退屈な講演を聞いてもです。この「居眠り」は、日本人特有の睡眠習慣なのだそうです。しかし、ここ中国の店頭では、よく居眠りをしてる店主や店員さんがいます。決して「昼寝」ではないので、似ているかなと思っています。欧米人には、この日本人の「居眠り」は珍しいのだそうです。どうも、文献で調べた人の話ですと、平安時代には、すでにあったのだそうです。身分の高い人から庶民、仏僧まで、「居眠り」をしていたようです。

もう一つ、「狸寝入り」というのがあります。眠ったふりをして敵を撹乱する、あの狸の習性からきているのだそうですが、事実でしょうか。そういえば、父が、よく狸寝入りをしていたようです。いびきをかいて寝てるからと、親父の悪口を言っていると、それを聞いていたらしいのです。こっぴどく怒られたことがありました。母が、「お父さんのは、狸寝入りなんだから!」とよく言っていましたが。今日も日中は暑かったのです。それなのに、熱い麺を、「小吃店(間口が一間ほどの食堂のことです)」で、大汗をかきながら食べてしまいました。晴れれば、まだまだ暑い華南の街であります。

(写真は、秋の味覚の「柿」です)

人間度

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「能力」、「風力」、「理解力」など、「力」のついた言葉は多くあります。ところが最近、ある事件のニュースの記事を見ていて、「大人力」という表現があって、ちょっと驚きました。有名な元プレーヤーから暴行を受けたタクシーの運転手と彼の会社の対応に、この「大人力」が見られるというのです。机上の辞書にはありませんでしたので、早速、Googleで検索してみました。ゲームソフトに「大人力検定」と言うのがあって、そこから流行り出した言葉のようです。もう六年も前に発売されたソフトで、こう言った世界に疎(うと)い私には、新発見でした。

そうしますと、社会生活を送る上で、人が身につけているかどうかが問われる多くのことに、この「力」をつける傾向があるということなのでしょうか。夫の成長度や完成度を測るのに「愛情力」、会社員の貢献度や充実度を測るのに「仕事力」、人としての成熟度を測るのに「人間力」などという言葉が生み出されるのでしょうか。ちょうど私たちの体重や胴囲や血圧が、計測器で計られているのと同じに、能力や価値観や貢献度だけが問題になっているのでしょうか。誰もが長所もあれば短所も併せ持っているのですから、計量数値の他に「プラスアルファ(α)」があるはずです。その辺に、人の面白さ、生きることの輝きがあるのではないでしょうか。

もう一つの言葉も、ちょっと気になっています。それは「民度」なのです。「特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。テレビ番組の内容が時代、地域の民度と連動しているとの考えも存在する。」と辞書にあります。「国民」とか「市民」の「民」の度数を言っているようです。例えば、「日本人の民度は高いのか低いのか?」という言い方をします。

何時でしたか、講演会に出席していた時のことです。一級国道の脇に建物があって、道路と建物の間に空き地がありました。観光バスが道路に止まって、乗客を降ろしたのが見えました。降りて来たのは男性客ばかりでした。道路が高いところにあったので、彼らは階段を下りて来て、こちらに背中を向け道路に向かって一斉に放尿し始めたのです。「立ち◯◯◯」です。東京の街中でも、昔はよく見かけました。一つの理由は、公衆道徳の低さだけではなく、「公衆便所」が、ほとんどなかったことも問題だったのです。ああいうことが見られなくなったのは、「東京オリンピック」が行われた1964年以降だったのです。とくに様々な施設が、街中に設けられたこともありましたし、「世界の水準に、日本人の生活の仕方が達しているかどうか?」が問われ始めた時でした。みなさんに「自覚」が生じたので、「民度」が高くされてきたのでしょう。

今の私の最大の関心は、やはり「人間度」なのです。これを測る計測器があるはずですが。国籍や人種や言語を意識する以上の自分を見つめたいですし、さらに高めたいと願うのです。「自分の<人間度>が高いだろうか?」と問いながら、生きて行きたいと思っております。

(写真は、四川省に行った時に山間で撮ったものです)

先輩後輩

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    「◯◯良いとこ 誰言うた 櫟林のその中に 粋な学生がいると言う 一度は惚れてみたいもの、都立公立 古臭い・・・」、「僕は◯◯の一年生 紺の制服よく似合う あなたは女子部の白百合よ 紺のセイラーがよく似合う・・・」、これらは替え歌の文句で、上級生が教えてくれたものです。中学に入学して、隣の校舎には、おじさんのような高校三年生がいて、クラブ活動には、大学生や社会人が出入りしていました。また高校の教師が、中1の私たちを教えてくれたのです。とくに同じ学校の先輩と後輩というのは、近く親しく感じるものなのです。ああ言った関係が、とくに強かったと思います。

    「面倒をみる」とか「可愛がる」とか「奢(おご)る」とか言った関係でつながり、私たち後輩は、それを受けていたのです。もちろん、その中には、今では問題となっている「ビンタ(張り手のことです)」もありました。「制裁」とか「共同責任」とかで、頬を張りとばされたのです。「暴力」に違いないのですが、何だか「大人扱い」をされた気持になり、先輩への従順や敬意でさえ感じました。家庭や友達との間にはなかった真新しい世界の「上下関係」だったのです。中には、怒り心頭で殴った先輩もいましたが、例外でした。

    十歳も十五歳も年上ですと、戦時中に教育された先輩たちもいましたから、「軍事教練」を受けた世代になるのです。そんな先輩たちだったことになります。教師たちは、それを伝統とみなして、認めていたのです。教師の中には、OBもいましたから。「早く大人になりたい!」と言った願望で思いの中が溢れていました。ですから吸収力が旺盛で、いいことも悪いことも教え込まれた時でした。民主主義の教育を受けたのですが、古い価値観も残っていたことになります。

    あの時一緒に練習をした同級生たちと一緒に、都内の高校で試合があると、ボール運びと応援で連れて行かれました。帰りは、決まって新宿で下車して、西口の線路ぎわの小汚い食堂で、ご馳走になりました。美味かったのです。肉と言っても、何の肉だか分からないものだったのではないでしょうか。そんなことを考えなかった時代でした。仲の良かった友人は、四十前に亡くなってしまいました。同じ帽子と制服で紅顔の美少年だった仲間たち、先輩たちは、どうしていることでしょうか。全てのことが、昨日のように感じられてしまいます。

    (写真は、1960年頃の「新宿の街」です)

  • 運動会

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    「中高一貫教育!」を掲げた私の母校は、「武蔵野の櫟(くぬぎ)林」の中にありました。東京の多摩地区では、歴史もあり、まあまあの教育実績を上げていたのではないでしょうか。「大正デモクラシー」の時流の中で、教育事業を始めたことが、学園の学校案内の「沿革」に記されてあります。私たちが入学した頃には、幼稚園も小学校もありましたし、今では大学・大学院もある総合学園になっております。東京、京都と言った国立名門大学への進学者は少なかったのですが、私学の名門校「早稲田」の合格者はまあまあいたでしょうか。とくに大学進学の名門ではない「のんびり屋」の多い校風の進学先は、いわゆる「東京六大学」や「東都六大学」が多かったようです。

    そんなことで、卒業生たちの大学の「応援歌」が、秋の運動会には歌われていたのです。中学に入った年には、中高六年の合同運動会が行われていました。縦割りでしょうか、「白組」と「紅組」に分かれた「紅白対抗」で、競技が行われたのです。運動会が近づくと、校庭に集合して、応援歌の練習が何週にもわたって行われました。声変わりのしていない中学の新入生の私たちは、声をふりしぼって歌わされたのです。それで声変わりが始まった者もいたくらいだったのです。「武蔵秋空、希望に高く、意気と深紅の血と燃え盛る・・・・」、「紺碧の空、仰ぐ日輪、勝利・・・・・」などを歌わされた記憶があります。

    ああ言った伝統は、男子部と女子部が統合され 、男女共学の今も受け継がれているのでしょうか。「運動会」の思い出は、小学校よりも、中学入学の頃の物めずらしかった「母校愛」の意識を強くされた時のものです。「バンカラ(yahoo辞書によりますと<[名・形動]身なり・言葉・行動が粗野で荒々しいこと。わざと粗野を装うこと。また、そのような人や、そのさま。「ハイカラ」に対する造語。「―な学生」「―を気取る」とあります)」な気風が、まだ残っていたでしょうか。こちらの中学生や高校生に聞きますと、私たちが参加したような「運動会」は行われていないようです。 子どもたちの幼稚園や小学校の頃の「運動会」は、日曜日に行われていまして、日曜日に忙しかった私と家内は、やっとのことで、朝早く家内が作っておいた「昼ごはん」をもって、午前の部が終わった頃に駆け付けるのが常でした。校門(運動場に面した裏門でした)で、上の三人が首を長ーーーーくして、私たちを、いえ「弁当」を待っていたのです。そんなことの連続の年月でした。彼らを気の毒に思った級友のお母さんが、弁当を分けてくれようとしたこともありましたが。私たちを見つけた時の喜んだ彼らの顔が、今も思い出されます。もう孫の時代の「運動会」になってしまいました。思い返しますと、日本の学校教育には、独特で伝統的なイヴェントが多くあったように思うのです。やはり圧巻は、幼稚園のそれでした。「こんなに大きくなって!」と言った感慨で、多くのお母さんたちが泣いていたからです。今も、そうでしょうか。日本では「体育の日」の休日、連休も終わったことでしょう。 (写真は、今も残る「武蔵野の雑木林」です)

    小さな出来事

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    昨夕、家内と路線バスに乗って出かけました。その訪ねた家で夕食をご馳走になって、10時過ぎまで話をして過ごしました。遅くなってしまい、帰路についたのですが、もうバスの運行時間が終わってしまっていました。それでタクシーに乗って帰って来たのです。アパートの前の果物屋さんに明かりがついていましたので、みかんと葡萄を買って道路を渡ったのです。私たちの後ろから一人のご婦人が歩いて来られ、何か話しかけてきました。小声だったので私は聞き取れなかったのですが、「いい夫婦ですね!」と言っていたそうです。こちらの方は、そう言った言葉を、見ず知らずの私たちにも、気軽にかけてこられるのです。

    久し振りに寄る店で、懐かしそうに店主が話しかけてきます。「どうして知ってるのですか?」と聞くと、「一年前に買い物に来たじゃあないですか!」と答えます。私たちのことを覚えていてくれたのです。これは時々あることです。「意外と見られているんだ?」と思い、言動に気を付けないといけないと感じています。群衆の中に紛れ込んでいるように感じても、見ている人がいるわけです。最近では、すっかり中国人になったように感じるのです。顔の色も表情も仕草も、少しも変わらないのですから。それでも、ちょっとした違いがあり、みなさんから少しばかり浮いて見られているのかも知れません。

    日本男児の私は、妻でありながら、なかなか腕を組んだり、手をつないで歩くのに躊躇してしまうのです。アメリカ人のようにできたら好いのですが。人の目を気にするからでしょうか。でもこちらに来て、だんだんと年を重ねて、足元がおぼつかなくなってきたこともありますし、夜道は日本のように明るくないし、段差もありますので、最近では、腕を組んでくる家内を受け止めて歩いているのです。そう言った様子を見て、好ましく感じられたのでしょうか、そのご婦人が、そう語り掛けてきたわけです。仲睦まじい様子は、好いことなのですね。「日本人の老夫婦が助け合って、異国で生きているんだ!」と思ってくれるのは、対日感情のなかなか好転しない中での少しばかりの「一歩前進」になるのでしょうか。多くの人たちが、いまだに「日本鬼子」と思っておられる昨晩の巷での小さな出来事です。

    (写真は、「夕日」です)

    ちいさい秋

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    「四季の歌」の「秋」を歌う歌詞に、

    秋を愛する人は 心深き人
    愛を語るハイネのような ぼくの恋人

    とあります。与謝野鉄幹は、「人を恋うる歌」の中で、

    ああ われダンテの 奇才なく
    バイロン ハイネの熱なきも
    石を抱(いだ)きて 野にうたう
    芭蕉のさびを よろこばず

    と歌っています。ハイネの詩は、明治以降の近代化の中で、多くの若者に好まれたようです。しかし、青年たちを啓発して、夢や理想を詠み込む詩ではなく、「恋愛詩」を作ったのですが、当時の大人は、「何と軟弱な!」と感じたのではないでしょうか。与謝野鉄幹も、ご婦人には至極甘かったようですし、政治でも教育でも実業の世界でも、指導的な立場にあった人たちの多くもまた、鉄幹に似た生活をしていたようです。それを「よし」とするものが何時の世にもあるのでしょうか。

    「秋」は、「物思う季節」だったり、「人生を探求する季節」なのではないでしょうか。作詞がサトウハチロー、作曲が中田喜直の「小さい秋見つけた」は、

    1 だれかさんが だれかさんが
      だれかさんがみつけた
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた
      目かくしおにさん 手のなるほうへ
      すましたお耳に かすかにしみた
      呼んでる口笛 もずの声
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた

    2 だれかさんが だれかさんが
      だれかさんがみつけた
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた
      お部屋は北向き 曇りのガラス
      うつろな目の色 溶かしたミルク
      わずかなすきから 秋の風
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた

    3 だれかさんが だれかさんが
      だれかさんがみつけた
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた
      むかしのむかしの 風見の鶏 (とり) の
      ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつs
      はぜの葉赤くて 入り日色
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた

    です。実に素朴で、ホッとさせられる詩ではないでしょうか。この歌に出てきます「だれかさん」や「鬼さん」の顔を、真っ赤な夕日やモミジが照らしているように感じられるのです。広場に集まって、「鬼ごっこ」や「宝とり」を、キャアキャア言いながら集団で遊んだのは、つい昨日のようです。そういえば、「集団遊び」も「広場」も、日本では見られなくなりました。ここ中国では、夕方になると、幼稚園くらいの子どもたちが、さまざまに掛け合いながら遊ぶ声が、アパートの壁に反響して聞こえてきます。ずいぶん影が長くなってきて、ここ華南の地も、もう「ちいさい秋」です。

    (写真は、中国四川省稲城の「秋」です)

    願い

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    この写真は、「外孫」たちの小さなころの後ろ姿です。兄貴が妹をコロに乗せて、家の周りを連れ歩いてるところです。もう二人とも小学生になってしまいました。彼らには、いとこが日本にいて、ほぼ同世代です。私たちの「内孫」になります。曽祖母の葬儀の折りに再会をして、遊んでいるのを見て、血の繋がりの近さをみせていました。自分の子どもたちは、なかなか大きくならなかったように感じたのですが、孫たちの成長の早さには、驚かされます。養育の責任はないし、会うといってもほんのたまなのですから、そんなものなのでしょう。

    先日、その長男の息子が、神妙に目をつむっている姿を撮った映像が送られてきました。何かを心込めて決心したと言った「本気顏」をしていて、「わー、成長したんだ!」と思ったのです。まだピカピカの一年生なのにです。ジイジの私など、あの年齢の時には、ハナを垂らして、ボーッとしていて、あんな表情をしたことはなかったのです。感心してしまったのは、ジイジの欲目でしょうか。

    異常気象、原発事故の放射性物資の拡散、残虐な事件の頻発、人心の荒廃、人口や食糧の問題、将来への不安、イジメなど、大変に困難な時代を、孫たちは生きて行くわけで、「何をして上げられるだろうか?」と、小さな頭で考えて見ても、何も思いつきません。ただ、「どんなことが起こっても、感謝の心、慌てない冷静さ、勇気をもって問題に立ち向かえる、強い心でいてほしい!」と願うだけです。

    "Come back “

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    「親分、ポリ公の野郎が来やがりやした!」、日頃、警察官を快く思っていない子分が、親分に、警察官を侮辱語で「ポリ公」と「野郎」と呼び、来たことも「来やがった」と歓迎しない迷惑な思いを込めて言っています。ところが「親分」には敬意を込めて、丁寧に語り掛けているのが対照的で面白い文章です。きっと悪巧みを計画しているか、悪さをした後の話し振りに違いありません。三十年ほど前に、世話をした少年が、警察官を、隠語で「マッポ」と言っていました。

    そう言えば、何時の頃からでしょうか、街中や住宅街で、「巡査(警察官の別名)」を見掛けなくなりました。駅前とか、賑やかな所では、「こんなにいるの!」と思うほどいるのですが、住宅街などの「派出所(交番の別名)」には人影がありません。何時でしたか、拾い物をして届けた時に、呼んでも返事のない、不用心な交番がありました。一体、どこに行ってしまったのでしょうか。小学校や中学校に通っていた頃、留守番をしていると、「お巡りさん(警察官の別名)」が、子どの私にも敬礼して、「お母さんはいますか?」と尋ねられたことが、二、三度ありました。母が犯罪を犯したからではありません。そうやって「警邏(けいら、見回ること)」や「巡視(じゅんし)」をしていたのです。地域担当の「巡査」が、住民の安全を確認したり、防犯のために時間を割いていたのです。

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    昔と比べて警察官は減っているのでしょうか。それとも、事務的な報告書の作成などの雑務が増えてしまって、パソコン操作などで忙しくなってしまっているのでしょうか、警察官を見なくなっているに気づくのです。地域密着型の警察でなくなっているのです。殺人事件は、駅前とか、飲食街で起こることがほとんどでした。ところが去年でしたか、吉祥寺の住宅街で殺人事件がありました。そして、先ごろ、その隣の三鷹でも殺人事件が起こったのです。こう言った事件と、警察官を見かけなくなってきている傾向と、何となく相関関係があるのではないでしょうか。

    「君、幾つ?学生証を見せてください!」と尋問されたことがありました。生意気なくわえ煙草で歩いていた時でした。<未成年者の喫煙>だと踏んでの職務筆問だったのです。私は、やおら学生証を提示したのです。それを確認した巡査(そんなに年齢は違っていなかったと思われますが)は、敬礼をして、「お気をつけて!」と言いました。私はタバコを、「スパッ!と吸って、彼から離れたのです。年齢に見えない「童顔」だったので、これに似たことがいく度もありました。

    犯罪が凶悪化していることは事実です。ニュースが伝える殺人事件の多さに驚かされるのです。昔の映画の「シェーン」のラストシーンで、"Come back “と少年が叫んでいました。同じように、「戻って来て!」と、住宅街が叫んでいるのではないでしょうか。お巡りさんが住宅街に復帰することをです。

    (写真は、「現在の交番」と「1938年当時の交番」の比較です)