反骨漢

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 「反骨漢(はんこつかん)」とは、<反骨野郎(ある人は「漢」を「おとこ」と読んでいます)>のことです。いつも人と違ったことを言ったり、したりする人のことを言うのでしょうか。時流に流されたり、人に阿(おもね)ったりできない生き方に拘る男のことです。人生を、損や得で考えずに、「尊」や「徳」に生きようとする人も、そう言った人なのでしょうね。

 噺家(はなしか/落語家のことです)に、立川談志と言う方がいました。他の追随を許さないほど、本当に落語が上手だったのです。立て板に水を流すかの様に話しました。ところが、人に嫌われる様なことを、歯に絹を着せないで言ってしまうので、敵が多く、嫌われることも多かった様です。それで、自分の一門、「落語立川流」を建て上げるのです。

 この方は、「柳家小さん」と言う方の弟子だったのですが、温順しく落語だけを演じていたら、「平成の大名人」になっていたと言われるほどの芸達者でした。いかんせん、毒舌で、人の反感を買う様な言動が多く、ただ自分の道を行った人でした。参議院議員に最下位当選したり、政務次官についたりしたのですが、破天荒な生き方や言動が災いしていた様です。

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 この方が、テレビの番組で有名な「笑点」を始め、しばらく「大喜利」の司会を務めていたのですが、降りてしまうのです。何故かと言いますと、その「大喜利」で、出題された問題に、その場で即答する落語家のスキルを求めたのですが、落語家でも落語作家でもない、番組担当者が、前もって作った答えで、回答者の噺家が返答する形に変えてしまったからです。そんな<反骨漢振り>が、この談志の好さだったわけです。

 落語の演目に「芝浜(しばはま)」がありますが、これを談志で聞いたら、彼が、どれほどの噺家であるかがよく分かるのです。CDやDVDで聞くことができます。日本語ほど、この「落語」に向いた言語はないのではないでしょうか。日本語の中から「落語」が必然的に生まれてきたわけです。同じ発音の語句が幾つもあるのが、「駄洒落(だじゃれ)」を生みやすくしているのでしょう。

 どちらかと言うと、自分も「反骨漢」の末席を濁しているのではないかと思ってしまいます。歴史の中にも、今の世にも、案外、この「反骨漢」がいるものです。好い意味で、もっと多くの「反骨漢」がいたらと願ってしまいます。日本語の基礎を作ったと言われる夏目漱石は、江戸落語の、圓朝を好んで聞くために、寄席通いをしていたそうです。

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にらめっこ

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 「毎日新聞」に、自分の母親を語る欄、「文芸春秋」にもオフクロ欄がありました。いまもあるのでしょうか。著名人が、亡き母や老いた母を、思い思いに、そこで語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、結構面白い記事だと感心していたのです。『この人にはこんな母親がいたんだ!』と思うこと仕切りです。

 老境に達した男性が、自分の母を語る語り口には実に、ほほえましいものがあります。とくに男の子にとっての母親は特別なのだと思うのです。神さまが極めて親密な関係を定められたわけです。9ヶ月もの間、その母の胎の中で育まれ、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた育児者が、母親だったわけですから。

 それらの記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を決定するほどの意味があるのだと、語られていました。生きていくことを学ばさせてくれ、子はそれを習得してきたわけです。ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされいるのを知らされます。

 もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それも神がお許しになられたと認めるなら、欠けたるところを、神さまは充分に補ってくださるに違いないのです。ある方が、『おかあちゃんに会いて-よー!』と泣いているのを見させて頂いた時、いくつになっても、母親は母親なのだと確信させられたことがありました。

 私の説教を聴かれて《マザコン牧師!》と言われたことがありました。自分の母を誇って語ったことが、その方にはずいぶんと気に障ったわけです。人には様々な過去と背景がありますが、その方を、決して傷つけようとしたのでも無配慮にでもなく、母の教えに感謝して語ったのですが。同じ母の子でも母に対する思いや評価は、それぞれに違うわけですから、仕方がないのかも知れませんね。

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 聖書は「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ(箴言23章22&25節)」と言っています。

 私の母が、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったりして弱くなっていく様子を見ていました。2度の大病を、主に癒され励まされて越えて生きて来た母が、年毎に、ひと回り小さくなっていったのです。いつでしたか、母の通院に付き添いました。駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母をおんぶしたのです。おぶってもらった記憶はありますが、今まで母親を背負う機会がなかった私が、平成の啄木の様に、砂浜ではなく、ビルの廊下を百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を歩んだのです。やはり軽かったのです。

 その時「砂の上の足跡」と言うクリスチャンの作られた有名な詩がありますが、その詩を思い出しました。母を95年間、とくに14才の少女の時からおぶってくださったのは、主イエスさまだったことに気付かされたことです。

 久し振りに、我が家を訪ねてくれた母を迎えて、家内と三人で、祝福の時を持った日を思い出します。暦を見ましたら、『夏も近づく八十八夜!』の真夏のような日でした。もう、母が召されて何年になるでしょうか。母に関する戸籍の写しが、弟から、昨日送られてきました。2時間ほど、明治以降、母の養父母の名前や生まれた日や土地や経緯とにらめっこしていました。

 

(母にまつわる山陰、中国山地の一風景です)

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それでも注意を

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 『40は、あるんじゃあないでしょうか!』と、華南の街に住んでいた時でしたが、わが家に来られた方が、来るなり言っていました。わが家にはエアコンが設置されていて、運転中でした。

 お客さんが来られる前に、この方のために、メロンを買いに出たのですが、果物屋のご主人が、洗面器の水に中を手を入れていました。涼んでいたのでしょう。道路の脇の簡単な作りの店ですから、冷房などありませんので、苦肉の策で、そうされていたのです。

 猛暑と言うのが一番な暑い日でした。そのころ、インドでは、なんと51だったとのニュースを聞いたことがあります。先日の知人のメールで、いつもは真夏の時期なのに、今年は、雨が多くて,異常なほどに涼しいのだと言ってきました。

 子どもの頃の夏の暑さは、七月がピークで、しかも家に冷房などなく、扇風機が、やっと一台、わが家でも使えるようになっていました。それ以前は、団扇(うちわ)が冷房の代役、いえ主役だったのです。

 父の家の縁側の戸は開けっ放しのまま、玄関も鍵などかけていないまま夜は寝ていたでしょうか。中国では、防犯上、どの窓も格子戸を設けてあるのです。その家に住んでいた頃の東京郊外は、考えられないほど安全だったのです。いえ、無防備の中を、平気で暮らしてしていたのでしょう。

 友人の同僚の方が大家さんで、この方が、網戸を兼ねた格子戸を入れてくれ、『留守する時や夜間は、窓を閉めて鍵をかけたほうが好いでしょう!』と言ってくれました。それを励行していたのですが。時々、その小区の事務所が貼る「文書」に、『泥棒の被害あり、注意!』とあったのです。

 空き巣泥棒がいるのでしょう。隣町は、海外への出稼ぎが多かったり、別荘のように買われた無人の家が多くて、そこに無断で住んでいることが、よくあるのだそうです。まるで忍者のように、家に侵入したり、住んだりしていると聞きました。

 いつでしたか、夜中、隣のご婦人が、玄関から呼んで、『ドアーが空いてますよ!』と注意してくれたのです。外出から帰って来て、しっかり閉めなかったのでしょう、夜中に空いてしまったのです。一階には、password を打ち込まないと開かないドアーがあるので、防犯されてはいたのですが、それでも万全ではないのです。つい、安全な国に住んでいた私たちの隣国の生活で、不注意だったのを親切に助けられていました。

 どこから侵入するのかと言いますと、上階とか屋上からなのだそうです。どうやって屋上に登るのか、忍者のように身軽な人たちが多くいて,ロープを下ろして、スルスルと降りるのだそうです。虎視眈々と場所と時を窺っているのです。それに引き換え、ここ栃木のアパートは、安心して住むことができて感謝です。それでも注意したほうがいいですね。

聞いて話すと言うこと

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『草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ(イザヤ40章8節)」

夕方になると、ラジオ番組が聞きたくて、跳んで家に帰ったことが何度あったことでしょうか。「笛吹き童子」とか「一丁目一番地」などが、子供の頃にラジオから流れていたのです。テレビのなかった時代ののどかな雰囲気が思い出されて、随分と時間がゆったりと流れていたのが思い出されて仕方がありません。

手の込んでいない、あまり細工のされていないラジオ番組こそが、想像力を駆り立てて、養ってくれた素晴らしいメディヤでした。そういった意味で、どちらかと言いますと、われられの年齢は,〈ラジオ世代の人間〉なのだと自分のことを思うのです。

父が山奥で仕事をしていた時、街の放送局から、アナウンサーが登って来られて、取材されたことがあったのだそうです。そのアナウンサーが、何年も何年もたって、東京の本局に戻って、テレビのニュースを担当していているのを観て、父が、この方との思い出を語っていたことがあります。父もまた、ラジオ志向の人だったのです。

「にっぽんのメロディー」という10分ほどの番組が、NHKにありました。この番組のアナウンサーの中西龍(りょう)が、学校の先輩だと言うことを知って、とても親近感を覚えて、家にいる時は、よく聞いたのです。彼は、『歌に想い出が寄り添い、想い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます!』と言うナレーションを入れて、1977年~1991年の間、この番組を担当したのです。

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その、らしくない語りかけに、フアンが沢山おられたようです。流暢に、また上手に、美しく語れるアナウンサーは大勢いらっしゃったのですが、この方は、話に「間」を置くので、忙しく時の過ぎていた時代、ホッとすることができたのです。番組の中で、俳句を読んでいました。ことばの表現が詩的で、実に素敵だったのです。『ことばに詩心(うたごころ)を添えたい!』と願って、マイクロフォンの前に座したのだそうです。

彼の語る声に耳を傾けて、練られたことば、選ばれたことばは、まさに詩だったのではないかと思い出されるのです。一日の疲れが、お湯をつかって流されるように、ラジオからのことばをかぶって、疲れが流されるような経験をさせられたのです。全く知らない、父や母の世代に歌われていた「懐メロ」を聞くだけでも、戦前や昭和初期の雰囲気が伝わってくるようでした。

この方の葬儀が行われた2週間後の「読売新聞」に、駆け出しの頃のエピソードが掲載されていました。鹿児島放送局に勤務されていた時、夏の甲子園高校野球大会の県予選のラジオ中継をしていた時のことでした。

『お母さん。あなたの息子さんがバッターボックスに立っていますよ!』と呼びかけたのだそうです。それを聞いたお母さんは、どんなに嬉しかったことでしょうか。このような実況をするのは、異例のことであり、規定外のことだったに違いありません。マニュアル通りに中継しない、内側にことばが留まっていて、それが溢れ出るように表現されていたのでしょうか。実に個性的だったのです。

私は、「説教」と言う仕事を、長年してまいりました。難しいのです。ラジオで語り、高座から落語を語り、講壇から講義を語るのとは違うのだと言うことを、宣教師さんから学んで知っていました。「神のことば」を語らせていただいているとの厳粛さを、ひしと感じていたのです。

これまで沢山の説教者の説教を聞いてまいりました。上手な方、流暢な方、面白い方がおいでです。でも、心を打つような説教をされたのは、改革派の田中剛二牧師(神港教会)でした。無駄がないのです。なぜか、主が、神の国が見えるかの様でした。また、アルゼンチンのアセンブリー教会のベティー・フレーソン女史(王の王教会牧師夫人)の説教に、滂沱の涙を流したのです。彼女の語る「知識と知恵のことば」が、私の心を癒やしてくれたのです。

(写真は「真空管ラジオ」と「赤とんぼ」です)

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塩味の効いたことばを

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 『私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたとの間の永遠の証人です。(1サムエル2023節)』

 軽率っていうか、不用意か、不適切、はたまた独りよがりでねじれたというか、「ことばの乱雑さ」の時代なのでしょうか、人の語る「ことば」で、心が傷つき、折れ、打ち倒されてしまう人が多そうです。パウロは、

 『あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(コロサイ46節)』

 また、イエスさまの兄弟で、エルサレムの教会の牧師だったヤコブは、次のように勧めています。

 『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。 (ヤコブ32節)』

 ことばや感情を抑制することが,どんなに大切かを語ったのです。発言の機会が、こんなに多くなったのは、ネットのせいでしょうか。マイナス面は、悪意あることばが、人を傷つけていることです。本人は,溜飲が下がるし,気晴らしになるし、不満の爆発になるのですが、個人攻撃や非難が、人を打ちのめして、立ち上がれなくさせています。立ち直れないで、自死してしまうこともあります。

 そうなると、〈ことばの暴力〉、〈ことばの殺人〉になってしまっているのです。わたしたちの住んでいる栃木市でも、「ゴミ出し」の日が決まっていて、出し方も,市販の透明袋に、町名と氏名を記名しなければなりません。

 ここに住んでから、これまで三回度ほど、ゴミ出しのミスをしましたら、階下のご婦人が、わざわざ玄関までやって来られて,『ダメじゃないですか、曜日を間違えたりして、気をつけてください!』と言って来るのかと思っていると、『瓦礫は今日じゃあなかったと思うんですが,わたしが間違ってるかも知れないので、もう一度調べてみてくれますか!』と,叱ったり注意したりする代わりに,知恵ある言い回し話してくださるのです。

 年の功でしょうか、世間付き合いに長けているのでしょうか、実に上手な言い回しをしてくれるのです。ちょっとしたことばで、人って容易に傷つけ、傷ついてしまうのですが、塩味が効いていますと、それを納得してしまいます。それを知っておられて、巧みにことばをお使いになられるのです。いつまでもゴミ置き場に、間違い袋が置かれていて、恥にならないような配慮もしてくれるのです.この方は、ラジオ体操仲間なのです。

 パウロの言う、「塩味のきいた〈ことば〉」と新解訳聖書にある箇所は、英欽定訳ですと、“seasoned with salt(塩で味つけられたことば)で、黒崎幸吉訳ですと、この6節全体を次のように解説しています。『前節の「外の人」に対する態度の継続である。「外の人」に対する言葉は常に「気持ちよい言を用うること」が必要である。辞解参照。ただし唯気持ちがよいだけではいけない。塩にて味付け、心を引きしめる力があり、効き目のある言をもってしなければならぬ。人の心に響かないような当らず障らずの言は用いるべきではない。これが各人に対する適当の答である。不愉快な言を用い、または味のない言を用いることは、外の人に対して答うる所以を知らない者である。」とです。

 ちなみに,漢訳聖書では,『你们的言语要常常带着和气,好像用盐调和,就可知道该怎样回答各人。』とありました。毎日も沢山のことばを話すのですが、果たして、「塩味」が聞いていたかどうか、吟味してみる必要がありそうです。『ことばで失敗しないこと!』を掲げた一日であるようにと願う朝です。

(「キリスト教クリップアート」の語るパウロのイラストです)

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情報収集の能力が

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 『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ146節)』

 私たちは、学校に入学して以来、毎年、身長と体重と胸囲などを測り、成長の様子や健康状態を調べていました。健康診断が目的だったのです。平均値に対して一人一人がどうなのか、10年前や20年前の数値と比較して、今の子どもたちの教育や栄養などの過不足や多少を、国や市町村が、学校に委託して調べて来ました。

 小学校でされたと思いますが、「 知能検査(アイキュウ/IQ)」を調べられたことを覚えています。人間の持っている知的な能力を調べるのですが、そんな数値で、人間が測られるて、価値づけがなされるのでしょうか。聖書に、次の様なみことばがありまります。

 『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(イザヤ434節)』

 人を見ておられる神、一人ひとりの創造者がおられて、「高価」で「尊い」と言われるのです。父や母にとって、そう思ってくれて大事に育ててくれたのですが、こんな為体(ていたらく)なわたしを、命の付与者が、そう評価してくれているのです。

 先日、ある新聞に、リテラシー(literacy) “ と言うことばが載っていました。高いとか低いとか言って,「能力」を言うのだそうです。本来は,「ことばの理解力」を言うそうですが,この頃大流行りの「情報」に関しても用いることが多いのだそうです。

 今、情報量が,とても多い時代になっていて,誰もが情報を発信し,しかもいろいろな媒体があるようです。『あなたのリテラシーは高いですね!』と評価されるのだそうです。それは,どんな情報でもいいのではなく,正しく,意味のある情報でなくてはなりません。種々雑多の情報が氾濫しているの世の中で,今必要なのは「情報選択の能力」なのでしょうか。

 オジイちゃんになっても、《良い情報》を得たい思いがあります。それを見逃したくないのです。そう言えば,読まなくなった本なのですが,それなのに毎日毎日新しい本が書かれ,出版されていますし、印刷はされない情報や見解や意見やツブヤキが,ネット上に溢れています。かく言う自分だって,性懲りもなくブログで,自分の「思い」を,発信し続けてやめません。そして、好きで関心のある分野の情報を得たい願いが強いのです。

 でも〈怪情報〉には,しっかりとアンテナを張って,目を光らせていなければなりません。驚いちゃうのは,「買い物情報」です。良さや斬新さや,さらには安さで迫って,購買欲を煽ってきます。必要最低限度のもので十分なのですが、欲しさを煽られてしまうのです。心にも玄関にも、「関所」を置いて,出入りを厳しくチェックする必要を感じています。

 目下の関心ある情報は,「健康情報」です。運動に食物に栄養素などです。やはり一番は,「取捨選択の能力」なのでしょう。そして,「ことばの能力」かな。若い頃に出会った方が,情報満載のノートを持っておいででした。「宝物」だといわれて、とても大切にされていました。ささっと書き込まれていましたし,開いては読んでいました。

 あのノートを,じっくりとみたかったのですが,叶いませんでした。そういえば,このわたしの iPad  の中にも,驚くほどの量の「情報」、とくに印象深く読んだり聞いたりした「文章」や「ことば」が溢れています。でもどうしても必要なものは,わずかなのです。きっと知識が増すと,それに比例して悩みも多くなるのではないでしょうか。

(キリスト教クリップアートのイラストです)

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兵庫県

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兵庫県をイメージするイラスト画像

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 JR姫路駅から、播但線で生野(いくの)に出掛けたことがありました。現在は、朝来(あさご)市になっています。夏季聖会が、そこで行われたのですが、結構長い電車の旅をして、参加したのです。そこは、銀山で有名で、佐渡金山、石見銀山と共に、江戸幕府の財政を支えた鉱山でした。

 母のふるさとの出雲を訪ねるために、また出張で新幹線や寝台特急で通過することの多かったのが、兵庫県でした。姫路港から、小豆島にフェリーで渡り、土庄港から四国の高松に上陸して、愛媛県下を西に進んで、八幡浜から、大分の別府、熊本への自動車旅行をしたことが、一度ありました。

 県名の「兵庫」とは、武器庫を意味していて、この地に、兵庫(つわものぐら)があったことに由来があります。県都は神戸市、人口は540万、県花はノジギク(野路菊)、県木は、楠(くすのき)、県鳥はコウノトリです。何と言っても、神戸港は、開国以降も、日本の海の窓口として、重要な政治的にも商業上でも役割を担ってきています。京の都に近く、大陸との回路を結ぶ主要な港でした。

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 阿倍仲麻呂も、日宋貿易から始まり、今日でも出入りする物流は、東京、横浜、名古屋、四日市、大阪などに列して、ここ神戸港の果たしている役割は、古来とても大きいのです。

 律令制のもとで、この地は、畿内(主に天皇の住む地域をそう呼んでいました)、山陽道、山陰道、南海道に位置していて、江戸幕藩体制下では、この県に置かれた藩は、摂津国に尼崎藩と三田藩、丹波国に篠山藩と柏原藩、但馬国に出石藩と豊岡藩、播磨国に姫路藩と林田藩と明石藩と龍野藩と赤穂藩と三日月藩と小野藩、三草藩と安志藩と山崎藩、淡路国に阿波藩の洲本城がありました。

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 やはり兵庫県で一番の馴染みは、小学校で学んだように、1886年に公布された「日本標準時」の子午線、東経135度に位置する明石(あかし)市になるでしょうか。1888年1月1日から適用されています。今、わたしの住む栃木市の時刻は、14時12分ですが、これは明石市で刻んだ時刻であるわけです。

 そんな関わりがあるのに、日頃は全く意識なく、時を迎え、送っているわけです。念のため、世界標準時は、ロンドンの南東部に位置する「グリニッジ(Greenwich)」で、現在は18時12分です。1日が24時間であって、この地にある子午線の0度を起点に、各国の標準時が定められているのです。

 産業面では、マッチ、釣り針、手延べ素麺は全国第一の生産を誇る県だそうです。そういった地場産業が長く行われていて、ひち部とは生活を成り立たせて生きてきている訳です。そういえば、マッチっていつ使ったでしょうか、ライターやチャッカマンに変わってしまって、もう長いのです。

 さて、兵庫県ですが、わたしは関西圏には、まったく関わらずに、これまで生活してきましたので、馴染みが薄いのは残念です。ヨーロッパから、シベリヤや中国をへて、大陸から難を逃れて日本にやって来たユダヤ人やポーランド人は、福井県の敦賀に上陸し、この神戸の港から、世界各地に、自由を求めて移って行きました。それは人道上果たした輝かしい出来事でありました。
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 また、かつて日本の支配下に置かれていた台湾から、当時の全国中等学校野球選手権大会が開かれた、嘉義農工が出場した「甲子園」を忘れてはなりません。1931年(昭和6年)に、中国人、原住民(山地族)、日本人の混成チームの嘉義農工は、決勝戦で、中京商業に破れましたが、準優勝を果たしています。

 今ではプロ野球の子会社や下部組織の様な野球チームとなってしまたった高校野球で、私学の学校経営の広告塔のような在り方はを、もう一度考え直さなければならない時期にあるのではないでしょうか。どのスポーツもプロ化してきて、純粋に楽しむものではなくなってしまい、選手育成会社の製品になっている様で悲しいのです。それで食べている人たちが多くいるからです。でも嘉義農工の勝ち雨役した時代には、高校野球、素人野球は輝いていたのを忘れてはなりません。

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 わたしは野球小僧ではなかったのですが、野球付きの父や次兄の影響で、かつての後楽園球場にも連れていってもらって、巨人戦を観戦したことがありますし、バットを振ったり、ボールを投げたり捕ったりしたものです。甲子園には一度だけですが観戦のために訪ねております。

(野路菊の花、明石天文台、神戸市のイラスト、嘉義農工の甲子園です)

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よき訪問

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 『兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。(ヘブル1312節)』

 1990年代の終わりの頃に、「教会視察ツアー」に加えていただいて、アメリカの北西部では大きな影響力を持っている教会を訪ねたのです。長身痩躯の元バスケットボールの選手の牧師さんで、ほぼわたしと同年齢でした。

 ある時、その教会のweb sight を見ていましたら、『牧師のロンは、5月30日に、Home  に帰られました!』との知らせがありました。永遠のふるさとに帰郷されたとのアナウンスだったのです。しばらくお病気だったのです。一緒に行ったteam の中に、女子小学生がいて、同病の牧師さんに会いたくて、ご両親と参加していたのです。

 実に優しい目で、この女の子を見て、励ましておいででした。空港に着いて、教会に案内されたのは、翌日でした。ちょうど Kimotherapy の治療日で、朝早く治療を済ませてから、私たちを、彼のオフイスで迎えてくれたのです。

 きつい治療を受けた後でしたが、すこしもつらそうな素振りはみせませんで、ハグと握手で歓迎してくれたのです。この治療後は、感染に注意しなければならないのですが、日本からの16人ほどの旅行団を、そんな風にして迎えていたのには、驚きました。秘書の男性が、アルコールを手に、あちこち拭いて消毒するほどに注意していたのに、彼は歓迎に専念されていたのです。

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 この教会には、40人ほどの牧会スタッフがいて、牧師さんと同じ様に、彼らも歓迎してくれたのです。あるスタッフは、他の地で、長らく牧会伝道をしていたのですが、その奉仕に疲れ切ってしまっていたそうです。退職をし、行き場のなかったその方を、この牧師さんは、ご自分の牧会する教会に招いてくれたそうです。その暖かな受け入れで、癒され、回復することができた、そう涙を流しながら、この方が話してくれました。

 それ以前に、韓国の教会の牧師さんは、『あなたたちは何をしているんですか。トヨタや松下は、世界中に進出して拡大し、活躍してるのに、同じ日本の教会は、どうして頑張れないのですか!』と叱責されたのですが、『みなさんは、伝道や牧会の難しい国で、よくなさっておいでです!』と、この牧師さんは労いと激励の声を掛けてくれたのです。

 salesman buyer と牧師を同じ様に見ているのとは違っていました。その牧師観、救霊観の違いに、慰められたのは事実でした。同じ様に聖書を学び、同じ様に祈り、同じ教会の主に仕えているのに、日本では、なかなか教会に人がやって来ないのです。それは能力や才能の問題ではなく、「神の時」ではないからかも知れません。明治期の侍の子たちも商人の子たちもお百姓さんの子たちも、福音を聞いて、それを受け入れて信仰を持ち、生涯それを貫いています。

 その割合は、わずかですが、ここ日本にも「選びの民」がいるのです。まさに、伝道は「聖霊の働き」による以外にありません。神さまがお働きにならなければ、人は十字架の福音を信じることはないのです。同じ神さまが、同じ様に、世界中で、よき業をなさっているのです。「神の御旨」を祈る根拠は、このことでしょうか。

 教会で準備してくれた、ノースウエストの街のホテルに部屋に入りましたら、名入りのカードと《歓迎のバッグ》が、テーブルの上に置いてあって、果物やクッキーなど、滞在時に必要なものが入っていて、100ドル紙幣まで添えられてありました。街のBenihana での夕食の招待までありました。

 素晴らしい出会いと交わりで、どんなにか励まされたか知れませんでした。

(街に美しい風景、Christian  clip artsのイラストです)

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どう決断するか

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 明治期に、札幌の農学校にやって来た、William Smith Clarkという教師が、日本全国から来て学んでいる、まだ十代の学生を残して、アメリカに帰国する時、『Boys  be ambitious ! 』と言い残しました。青年たちに、野望や大志を心の中に宿して生きる様に勧めたのです。

 教え子たちはその言葉に従って、「大志」を抱きながら、日本の夜明けの時代を生き始めたのです。その中には、北海道開発に尽力した者、技術研究分野で開拓した者、国際社会で活躍した者、若者を教えることに情熱を燃やした者など、有名無名な人たちがいました。その中に教育者となっていく内村鑑三がいました。挫折や苦しみの中から、一校(東京大学の前身)での通常の教育分野を、「不敬事件」を起こして追われます。結局、聖書を教える教師、いえ人の生き方を教える師となって、多くの若者に強烈な感化を与えていきます。

 野望を挫かれたのですが、日本の近代化に貢献する人材を育て、その育てた人たちが、また次の世代の若者たちを育てていきます。その感化は絶大なものがありました。野望や大志を持って生きていくこと、強い願いを持つ事は青年期の特徴です。

 クラークにしろ内村にしろ、その人生に、神が介入されたのです。自分の野望で生きたのではなく、「神の御心」を生きる様に、挫折体験を通されたのです。他に生きる道を示されたのです。クラークは南北戦争に従軍した軍人でしたし、農学校の教師でしたが、札幌に導かれたのです。そこに九ヶ月いた間に、わずかな若者たちに触れただけの人でした。

 第二回生で入学した内村鑑三は、クラーク帰国後に、間接的に感化されています。内村もまた大志は砕かれ、神の導きを、苦悩しながら生きて、それでも日本の精神界に重大な影響を与え、今なおそれは留まっていません。クラークにとっては、札幌にいた9ヶ月だけが、彼の人生の華の時期だったと言われています。でもその意義は、日本にとって大きかったのです。

 立場なしでも学位なしでも、男は生きていけます。神を信じ、生きていくなら、神さまは生きていく道を示され、自分が計画した道、願った道ではなく、苦難の道に導くことが、多くあります。そこで、主を認めることができ、その無言の促しに従うなら、素晴らしい人生を生きていけます。自分の満足のためではなく、次の世代の若者たちが、主を畏れて生きていくために与える感化は絶大です。

 教室の教壇から、教師ができる最高のことは、学問の専門知識の感化だけではありません。精神的な人格的な信仰的な感化ではないでしょうか。専門知識は一時期ですが、「生きること」、どう生きていくかは一生の課題です。もし真実な影響を、キリスト教徒の教師から受けたら、その人の人生は成功ではないでしょうか。

 わたしの弟は、高校の教師でしたが、大学に何度か招聘されながらも、それを断り、自分の母校の一教師として奉職しました。定年退職後から、75歳まで、学校に彼の部屋と机が残され、教師たちの相談役をし続けてきたのです。在職時には、付属の幼稚園児も、小学生も教えていました。卒業生の成人式には、式を企画する卒業生から請われて、毎年、祝福のスピーチを、聖書から語り続けています。校長先生ではなく彼なのです。社会の中では無名ですが、卒業生の中では絶大なる敬慕を得ているのです。

 彼は自分の使命を知っていたのです。在学生を連れて臨海学校に行き、台風の大波で、2人を救助しましたが、1人の学生を死なせてしまうという事件があったのですが、それを乗り越えて、母校の教師を続けたのです。博士号は得ませんでしたし、教育功労者にもなりませんでしたが、一教師の務めを全うして今があります。信仰上の、精神上の感化を受けた学生は数限りなくいるのです。それは一生ものです。

 Zさん、あなたの願いは間違っていません。主の前に持ち出して、奥さまと一緒に祈って、どう生きていくかを決められたらいいなと思います。妻は夫の生き方の決定を支持したらいいのです。でも、どうすべきかを夫は妻に聞くべきです。妻は、神があなたのそばに置かれた最高の助言者、better half だからです。自分の半分が何を感じてい、おもっているかを聞くことによって、人生の危機を回避でき、正しく決断ができます。人生は短いのです。盛りの時期は束の間で過ぎます。でも霊性上のことは永遠です。

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 この文章は、教授になろうとしている若き友人に、書き送ったものです。1人の教育者、研究者として、どこで教え、どんな立場で教え研究するかは極めて大切です。有能で将来を嘱望されていて、迷うのでしょうか、どう選択し、決断するかを、彼の奥さんが変わって相談してこられました。

 猛烈に忙しい、徳島弁を話す、日本の大学で博士法を取った彼のために、自分も日本の大学で博士号をとって、省立大学で法学を教える教師の奥さんは、とかく信仰生活がなおざりになって、社会的な立場に思いを向けているご主人を心配してでした。年齢的にも、最後の決断の時期なのでしょう。

 お二人とも信仰者で、最優先にすべきなのは、この世に置いていかなければならない業績や立場や名誉ではなく、永遠を支配される神であり、神のご計画なのです。称号も業績も、天国に持っていけないのですから、そればかりに執着するのも、もったいないのです。これから、どう生きていこうとして模索中の青年たちに、『これが道が。これを歩め(イザヤ3021)』と、神が語りかける声を聞くために、導く務めがありそうです。

近々、学会があって、日本に来るそうです。時間をとって、わたしたちを訪ねたいと言ってくれています。良い決断がなされます様に。

(北大のキャンパスにあるクラーク像、Christian  clip art のイラストです)

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壁を越えて

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 ある医師が、お病気で亡くなられる直前にお話になられたことを記した読み物を、隣人が家内に届けてくれて、それを今日読みました。

 『宗教を再構築しないと、死の教育とか倫理性など成立しない。この(戦後)65年間、目をそむけてきたのを反省して、正面から対峙しなければならない。宗教が一般の人間にわかりやすいレベルまで降りてこないと。』と、そこに記されてありました。

 この「宗教」に関するお考えを読んで、『宗教が一般の人間にわかりやすいレベルまで降りてこないと。』に、わたしは母の生涯を思わされたのです。母は、子どもの頃に、友だちに誘われて、カナダ人宣教師の教会の日曜学校に行くようになりました。そこで、「宗教」ではなく、「父なる神」と、個人的に出会ったのです。母は、14歳で信仰を告白して、17歳で洗礼を受けたそうです。

 宣教師家族との温かな交わりを通し、聖書を読むうちに、聖書に記された神が、《父でいらっしゃること》、しかも《わたしの父》であると知り、幼い日に亡くなったと言われてきた父がいなくとも、創造主なる神が、「真性の父」であって、このお方が自分の本当の「本物の父」だと信じる事ができたのです。

 『あなたは未婚の母の子であって、他にお母さんがいて、一緒にいる人は母ではなく養母なのだ!』と、近所の人に聞かされてたのです。父親は認知することなく去り、産み落とした母親は、自分で育てることなく、養女として、子のなかった家庭に養育を任せたのです。未成年の母親の考えなどではなく、親や親戚の事なかれ主義の考えで、事が決まってのでしょう。

 物心が付く頃に、父親は亡くなったと聞いて、母親との二人の生活の中で、寂しさを感じながらも、母に可愛がられながら育ったようです。ところがお節介な近所の人から、そのことを聞いてからの母は、生母に会いたい気持ちが日々に募っていったのです。

 17歳の時に、実母に会いに、奈良に行ったのです。会ってくれたのですが、『今の幸せを壊してほしくないから、帰ってくれ!』と言われて、涙ながらに出雲に帰ったのです。母が、養母の葬儀出席で帰郷し、葬儀を終えて持ち帰った写真の中に、実母の写ったものが、母の持ち物の中にありました。何と、爪で引っ掻いて消してしまった写真が、幾葉もあるのを見たわたしは、母の17歳の激しい感情を知ったのです。

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 二十代の初めに、父と出会い結婚し、兄を始め四人の子を産んで育ててくれたのです。親には捨てられた自分を、見守り、激励し、95歳で帰天するまで、その様な境遇を自分が与えられたことを、神が許されたことと、母は認められたのです。その神を信じ、愛し、従って天寿を全うしたわけです。

 日本の神々が、「神無月」に参集するという出雲の地は、仏教にも熱心な地でしたが、母は、そこで「父」と出会ったのです。上の学校で学びたくとも、昭和初期の地方で、しかも母子家庭の女の子は、高等女学校にも女子大へも進学はできなかったのです。街のグンゼの工場で働きながら、教会生活を続けながら生きたのです。

 母の確信は、『主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます(使徒1631)』という聖書の約束でした。信じた結果、父もわたしたち4人の男の子も信仰を得たのです。

 神を信じるには、けっこう困難な状況下にありながらも、神を呪わず、神に唾することなく、信じられた母にとっては、「宗教の壁(レベル)」」は高くはなかったのではないでしょうか。宗教の壁を低くする代わりには、神ご自身が、自らを《低く》して、人の間に来て、人として生活をされて、ついには、十字架に行ってくださったのです。

 そこに母に「近づいてくれた神」がいたのです。「壁を跳び越えてきてくれた神」がいて、このお方が、母の寂しさや悔しさの中で慰め、励まされたのが、神でした。信仰の熱心さのゆえに、台湾に売られそうになる直前に、出雲警察署に保護され0るといった危機を、母は、この神と共に越えたのです。

 『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(1コリント1013節)』

 母にとっては、宗教ではなく、生きていく上で、「語り掛けてくださる神」が共にいてくださった激励者で、救い主だったのです。このお方を心で「救い主」と信じ賛美し礼拝し、このお方を知りたくて聖書を読み、このお方を信じる人たちと共にいたくて教会に行き、このお方を人に伝えたくて伝道し、パートで働いたお金で献金もして、クリスチャン生活をし続けたのです。何よりも、このお方に話しかける様にして祈る母だったのです。その神を信じる生き様が、子や孫に受け継がれて今日に至っています。

(「キリスト教クリップアート」のイラストです) 

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