聞いて話すと言うこと

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『草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ(イザヤ40章8節)」

夕方になると、ラジオ番組が聞きたくて、跳んで家に帰ったことが何度あったことでしょうか。「笛吹き童子」とか「一丁目一番地」などが、子供の頃にラジオから流れていたのです。テレビのなかった時代ののどかな雰囲気が思い出されて、随分と時間がゆったりと流れていたのが思い出されて仕方がありません。

手の込んでいない、あまり細工のされていないラジオ番組こそが、想像力を駆り立てて、養ってくれた素晴らしいメディヤでした。そういった意味で、どちらかと言いますと、われられの年齢は,〈ラジオ世代の人間〉なのだと自分のことを思うのです。

父が山奥で仕事をしていた時、街の放送局から、アナウンサーが登って来られて、取材されたことがあったのだそうです。そのアナウンサーが、何年も何年もたって、東京の本局に戻って、テレビのニュースを担当していているのを観て、父が、この方との思い出を語っていたことがあります。父もまた、ラジオ志向の人だったのです。

「にっぽんのメロディー」という10分ほどの番組が、NHKにありました。この番組のアナウンサーの中西龍(りょう)が、学校の先輩だと言うことを知って、とても親近感を覚えて、家にいる時は、よく聞いたのです。彼は、『歌に想い出が寄り添い、想い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます!』と言うナレーションを入れて、1977年~1991年の間、この番組を担当したのです。

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その、らしくない語りかけに、フアンが沢山おられたようです。流暢に、また上手に、美しく語れるアナウンサーは大勢いらっしゃったのですが、この方は、話に「間」を置くので、忙しく時の過ぎていた時代、ホッとすることができたのです。番組の中で、俳句を読んでいました。ことばの表現が詩的で、実に素敵だったのです。『ことばに詩心(うたごころ)を添えたい!』と願って、マイクロフォンの前に座したのだそうです。

彼の語る声に耳を傾けて、練られたことば、選ばれたことばは、まさに詩だったのではないかと思い出されるのです。一日の疲れが、お湯をつかって流されるように、ラジオからのことばをかぶって、疲れが流されるような経験をさせられたのです。全く知らない、父や母の世代に歌われていた「懐メロ」を聞くだけでも、戦前や昭和初期の雰囲気が伝わってくるようでした。

この方の葬儀が行われた2週間後の「読売新聞」に、駆け出しの頃のエピソードが掲載されていました。鹿児島放送局に勤務されていた時、夏の甲子園高校野球大会の県予選のラジオ中継をしていた時のことでした。

『お母さん。あなたの息子さんがバッターボックスに立っていますよ!』と呼びかけたのだそうです。それを聞いたお母さんは、どんなに嬉しかったことでしょうか。このような実況をするのは、異例のことであり、規定外のことだったに違いありません。マニュアル通りに中継しない、内側にことばが留まっていて、それが溢れ出るように表現されていたのでしょうか。実に個性的だったのです。

私は、「説教」と言う仕事を、長年してまいりました。難しいのです。ラジオで語り、高座から落語を語り、講壇から講義を語るのとは違うのだと言うことを、宣教師さんから学んで知っていました。「神のことば」を語らせていただいているとの厳粛さを、ひしと感じていたのです。

これまで沢山の説教者の説教を聞いてまいりました。上手な方、流暢な方、面白い方がおいでです。でも、心を打つような説教をされたのは、改革派の田中剛二牧師(神港教会)でした。無駄がないのです。なぜか、主が、神の国が見えるかの様でした。また、アルゼンチンのアセンブリー教会のベティー・フレーソン女史(王の王教会牧師夫人)の説教に、滂沱の涙を流したのです。彼女の語る「知識と知恵のことば」が、私の心を癒やしてくれたのです。

(写真は「真空管ラジオ」と「赤とんぼ」です)

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