『だいじょうぶだよ、ゾウさん』

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おさないネズミと年老いたゾウが

おおきな木のしたで、なかよくくらしていました。

ネズミは、根っこのすきまで

ゾウは、木によりかかってねむりました。

ねずみは、いろいろできる子でした。

ゾウがよくメガネをなくすので、

メガネにひもをつけて

首にかけられるようにしてあげました。

ゾウは目が、よわくなってきたので、

メガネをなくさなくなって、たすかりました。

ゾウは、まだおさないネズミをまもってあげました。

ちいさな足ではいけないところにも、つれていってあげました。

山へ・・・ それから・・・おおきなみずうみへも・・・

ゾウは、ねずみといっしょだと、こころがあかるくはずむのです。

長い人生でいろんな人とのであいやできごとがありました。

目をつむると、なつかしい友だちーー

    バムバムやゴーンホーンのことが、うかんできます。

みんなとっくになくなって、とおいゾウの国にいってしまったのでした。

いよいよ、こんどは自分のばんかなあ?

ある日の夕方、水あびからかえるとき、

ゾウは、いつもとちがう道にはいりました。

「ゾウさん、どこへいくの?」

ネズミがききました。

「まあ、みていてごらん」

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木々がおいしげった森にはいると、ふるい道がありました。

その道は、ながいあいだにたくさんのゾウによって

ふみかためられていました。

「まえに話してあげたゾウの国のことをおぼえているかい?

ゾウはみんな、年をとったり、病気がおもくなったりすると、

その国にいかなければならないんだ」

「おぼえているよ」ねずみはいいました。

「ほら、あそこだ」ゾウはいいました。

森の道はそこでなくなっていて、

すぐ目のまえは、ふかい谷になっていました。

谷のむこうには、みわたすかぎり

森がひろがっていました。

「あの森が、なくなったぼくのおかあさんとおとうさんがいるところなんだ」

ゾウは話しつづけました。

「にいさんたちやねえさんたちや友だちもね。もうすぐぼくもいくんだよ。

そんなかなしそうなかおをしないで。

むこうでは、みんなしあわせなんだから」

ゾウがいなくなるなんて、ネズミはかんがえたくもありませんでした。

そのとき、ゾウはおどろきの声をあげました。

つりばしをみつめるゾウの目は、不安でいっぱいでした。

「どうしたの、ゾウさん?」

ネズミはおどろいてききました。

でも、からだがおもいし、ぶきようなので、とてもなおせません。

しかし、ネズミはどうすればなおせるか、頭をはたらかせました。

「ぼくが、なおすよ」

ネズミはいいました。

「でも、つりばしをわたっても、

もどってくるってやくそくしてね」

ゾウは、首をよこにふりました。

「それはできないんだ。ゾウは、いちどつりばしをわたったら、

けっしてもどらないんだ」

「それなら、いっちゃいやだ」

ネズミはいいました。

ゾウは、うなずきました。

そして、だまってむきをかええうと

さっきあるいてきた森の道をひきかえしました。

まえとおなじようなくらしがつづきました。

ふたりともなにもなかったかのようにすごしました。

ほんとうは、ねずみはまいにち

あのつりばしのことをおもっては、

こわくなってふるえるのでした。

きせつがなんどもめぐってきては、すぎていきました。

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ネズミも成長し、もうおさなくはありませんでした。

さんぽの案内をするのも、夕食のくだもにをとってくるのも。

ネズミの役でした。

ゾウは、もうメガネをかけても、ほとんどみえなくなっていました。

ものごとをわすれるようになりはじめました。

・・・耳もとおくなってきました。

ネズミは、おおきな声で話さなければなりませんでした。

そうなっても、ふたりはいつもわらったり、

たのしいときをすごしたりしていました。

ぞうは、おおわらいをしては、せきこんでしまうのでした。

ある日、わらいもしないのに、

せきがではじめました。

ネズミは、からだがひえないように、

もうふをつくってあげました。

それでもゾウは、つらそうに木によりかかったまま

せきがとまりませんでした。

そのうちにゾウは、ネズミがはこんできたくだものを

食べようともしなくなりました。

だいすきなバナナでさえも・・・。

ぞうのいのちがあぶなくなっていることに

ネズミが気づいたのは、そのときでした。

年をとって病気がおもくなり、

木のしたでネズミとくらすのが、もう、むりになったのです。

あの山のなかの森へいかなければなりません。

ネズミは、いまやこころも成長し、

まえのようにこわがらなくなっていました。

もちろん、なかよしだった友だちがいってしまうのはかなしいことでした。

でも、ゾウがむこうの国にいけば、しあわせになるのだと、

おもえるようになっていました。

そこで、つりばしのところにいって、なおしはじめました。

いそいで、しかも注意ぶかく。

つりばしは、がんじょうになりました。

もう、ゾウがわたってもだいじょうぶです。

ゾウは、木によりかかって

ネズミのかえりをまっていました。

ネズミはいつものように、ゾウのまえあしをよじのぼり、

おおきな耳にそっとつたえました。

それをきくと、ゾウは、おどろくこともなく目をかがやかせて

ウインクしたのです。

「きみが、きっと手だすけをくれるとおもっていたよ。」

ゾウは、こころをきめると、

せまいつりばしをわたりはじめました。

ネズミはおおきな声でいいました。

「こわがらないで。もうがんじょうになっているから!」

ゾウは、ふりむいてこたえました。

「こわくなんかないよ。だいじょうぶ、安心してわたれるさ!」

「そう、きっとすべてうまくいくよ・・・」

ネズミはそっとつぶやいて、やさしくえみをうかべました。

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 この絵本は、ローレンス・フルギニオン(1963年ベルギー生まれ)の作、ヴァレリー・ダール(1969年ブリュッセル生まれ)の絵、柳田邦男(1936年栃木市生まれ)の翻訳で、2005年11月に、文溪堂で出版されたものです。「老いること」、「死ぬこと」を取り上げ、老いていく人、死んでいく人に、どのように接していくかを問いかけているのでしょうか。

 アフリカの大きな滝の滝壺の奥に洞窟があって、そこが「象の墓場」だと言うことを聞いたことがありました。死の準備をし、死骸を見せない美学があるのを知って驚きました。猫も、どこかに潜って死を迎えると聞いていましたら、二十歳の時に、父から請け負って、高速道路の用地かあった父母やきょうだいたちと住んだ家を壊す仕事をしたのです。コンクリートの三和土(たたき)をはがしたら、猫の死骸を見つけたのです。その亡骸は、綺麗だった記憶があります。

やがて、間もなくと言った方がいいでしょうか、死を迎えるために、身辺整理をしないといけないなあと、最近思っています。けっこう簡素を旨に生きてきたつもりですが、要らない物、天国に持っていけない物の整理を、涼しくなっらしたいと思っている今です。

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平安を祈る

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 「北行」の「北」は、「北げる」と書いて、「にげる(逃げる)」と読むそうです。「北げた」わけではないのですが、怪我をした私は、札幌の整形外科病院に入院したのです。30日ほどの入院の間、外出許可で市内を少し訪ねました。そして退院してから半年の検診で行った時は、家内が一緒で、北大の campus 行ったのです。そこで、『孫たちには、ここで学んでほしいわ!』と、言ったほどの感動をあらわしていました。

 きっと北大のカフェで飲んだコーヒーが美味しかったからでしょうか。札幌駅のJRビルの「釧路はな丸」のお寿司と海鮮味噌汁のお昼が美味しかったのもそうでしょうか、彼女の初めての北海道でのことばでした。函館から帰るために、バスで移動しました。あの戊辰戦争の終焉の地、函館の街中も、ちょっと寂しいたたずまいを感じていました。

 そういえば住んでいる栃木市も、同じで、駅周辺は駐車場や空き地が目立って、『昔は大賑わいでした!』という地元の方の言うことばが信じられないほどです。日本中が同じ傾向なのでしょう。先日の午後、隣り街にある教会の牧師夫妻を、知り合いのご婦人と一緒に訪ねました。洪水で床上浸水にあった時に、お見舞いただいて、そのままだったので、感謝にと出掛けたわけです。その街の、新幹線の駅周辺は街に勢いが感じられました。


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 徳川家康は、慶長5年(1600年)724日、ちょうど今頃の季節でした。上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていました。その途上、この小山(おやま)に、本陣を置きました。思川という河川の脇だったのです。その時、秀吉の腹心の部下だった石田三成が挙兵したと言う報せを聞きます。

 その翌日、家康は小山本陣に、部下を招集して、これからの戦をどうするかを、彼らと諮ったのです。上杉征伐を続けていくかこのまま上杉を討つべきか、西の石田を討つべきかを相談したのです。この軍議を、「小山評定(ひょうじょう)と歴史は伝えています。

 その時の評定に、呼び集められたのは、元々は、豊臣の家臣でした。国元に家族老頭を残して、東国の戦が行われていたわけです。トラックも汽車もない時代、軍を率いて下野国に展開する戦に参集したというのは、昇り竜のような勢いの家康への忠誠の表れでした。どう戦いをしていくかが、家康にとっては興亡の境目だったのです。


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 この軍議がなされていた時、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が、家康のために従う忠誠心を表明したのです。さらに、遠江国掛川(静岡県)城主の山内一豊が、『私は、自分の城を明け渡してまでもあなたの味方をします!』と、彼もまた忠誠を誓うのです。

 これによって家康支持が固まって、石田三成討伐のため西上することが決まります。あの「関ヶ原の戦い」で、家康が率いる東軍が勝利するに至った、天下分け目の軍議が、この小山で行われたのですから、日本史に関心のある人には、関心の的であります。

    私たちは、21世紀の神の兵士ですが、軍議をする代わりに、同じ小山で、「祈り」をしたのです。あの評定が行われてから400年も経っていますが、万物の創造者と統治者の「父」に向かって、救い主イエスの名によって、懇願でも要求でもない、感謝の祈りをし、住む街と訪ねた街の平安を祈り合ったのです。

 札幌も函館も、長く家族で過ごした街も、13年を過ごした中国の東北と華南の街にも、祈りの手を挙げる方々がおいでです。「祈り」は、神の名があがめられ、神の国が到来し、神の御心が行われるようにと、神をほめた讃えることなのです。エレミヤは、『わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(平安)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄(平安)は、あなたがたの繁栄(平安)になるのだから。」(エレミヤ297節)』との神のことばを書き記しています。

 わたしたちのほめ讃える神に祈り、賛美し、信仰を告白することは、任意ではなく、「命令」です。ウクライナの地には遣わされていませんが、ロシア軍の攻撃による惨状を聞くにつけ、「平安」を祈り続けたいものです。

(北大キャンパス、函館五稜郭、小山評定跡です)

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木槿

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 散歩道の巴波川沿いの人工池の端に咲いている、木槿です。朝に咲いて夕方には萎れてしまいますが、次から次へと木に花をつけていく「逞(たくま)しさ」を持った花なのです。樹皮は漢方薬に用いられて、中国でも朝鮮半島でも重用されてきた木です。

 道のべの 木槿は馬に 食はれけり   

 この俳句は、松尾芭蕉が「野ざらし紀行」で詠んだものです。馬は、花を眺めるのではなく、胃の具合が悪く、その木皮をついばんだのでしょう。この「木槿(むくげ)」は、艶やかではないのですが、おしゃれも忘れなく、ほんのりと紅を加えた白い花が、わたしの気に入って、好きな花の筆頭になっています。

 生まれ故郷の盆地に入る、インターチェンジの側道に植えられていたのが、この花でした。今の季節に、出掛けて帰ってくる時に咲いていました。『お帰りなさい!』と言っているように、運転しているわたしを、喜び迎えてくれたのです。

 中央道が開通する前は、山道を走って国道を抜けると、山々に囲まれた盆地も、『おひさしぶり!』と声が聞こえるようでした。27の歳に、家内と生まれて2ヶ月の長男を伴って、心機一転、移り住んだ故郷の街で、長女、次女、そして次男が生まれました。そこでは、徳川家の紋章で有名な「葵(あおい)」の花も咲いていました。山道を抜けると、生まれた山の中が、遠望できて、まさにふるさと回帰でもありました。

 そんな日々を思い出させる花なのです。ポッと頬を薄紅に染めて出迎えてくれたのかも知れません。36年も過ごした街は、生まれてからの7年を足しますと、43年も住んだ地なのです。そこを出て中国で13年生活をし、今また、下野国の栃木に住み始めて3年あまりになります。ここが、《終の住処》になるのでしょうか。葵が咲き終わり、今まさに木槿の咲く夏なのです。

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ROYAL LINE

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 もう50年以上も前になりますが、61才で、天のふるさとに帰って行った父が、『お前がひげを生やすと、俺の親爺にそっくりだ!』と、子どもの頃から何度か、私に言っていました。自分の父親の面影を引き継いでいる息子を見て、感慨深げに、そう言葉をもらしたのです。

 隔世遺伝なのでしょうか、祖父に似ている自分を鏡に映して、中学生の私は母親の黛で口ひげを描いたことがありました。ところが、そのひげを消さないままで、買い物に行ってしまったのです。応対してくれた店員さんが、実に不思議そうな顔をしているのを見て、『あっ!』と思い出して逃げ帰ったのを思い出します。自分は、『母親似だ!』とよく言われてきましたから、両親の家系の様々な遺伝子を受け継いで、自分が形造られているのだということを知らされるのです。 

 次女が、初めの子、わたしたちに初孫を連れて里帰りしたことがありました。彼は父親がJETプログラムで、長野県下の高校で英語教師をしていた時に、長野県下の街で誕生していたのです。その3年の任期を終えて、彼を伴ってオレゴンに帰って行きました。それから半年ぶりの訪問だったのです。『いちばん可愛い時期の孫を楽しんでもらいたい!』との婿殿の勧めに押し出されて、娘は、いそいそと息子を抱いてやって来たわけです。

 家内と私は、ほんとうに娘と孫との滞在を楽しませてもらうことができました。その孫の顔の表情やしぐさを見て、母所蔵の写真に映っている、彼の年齢ほどの頃の自分の顔を思い出させられたのです。『ひいおばあちゃんにも会って欲しい!』との娘の願いで、東京の母の所を、みんなで訪ねました。

 そして母のタンスから、早速、その写真を引っ張り出して、彼と見比べてみたのです。実に驚くほど似ているのです。そうしますと、祖父と孫とが似ていることになりますから、5世代の間に、引き継がれている相似性を見出せることになるわけです。これまで、3度ほど私は口ひげをつけたことがありましたが、父が召された後でしたので、父を喜ばせることができなかったのが、少々残念で仕方がありませんでした。。

 さて、聖書によりますと、私たちは、顔かたちはともかくとして、アダムの罪を引き継いでいると言います。ところが、イエスさまは、イエスさまをキリストと信じた私たちの罪を十字架に負われて、アダムの罪を継承した私たちの罪を、その十字架上で処置し、転嫁された罪と自ら犯した罪を贖ってくださったのです。ですから今や、アダムの血筋の中で自分を模索したり、発見しないですむのです。今や、イエスさまの贖いの系列、《ロイヤル・ライン》の中で、自分を再発見し、確認することができるようにされていることになります。これが、私たちの頂いた「救い」なのであります。

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 さて、パウロが、『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです(2コリント3・18)』と、手紙に記しました。私は青年期に、映画のスクリーンやテレビに映し出された、『鶴田浩二のような渋い大人になりたい!』と切に願って、男を磨きました。

 地が悪いのか、砥石が良くなかったのか、彼の様にはなりきれないまま、今日を迎えてしまったのですが、クリスチャンとされた私は、問題だらけで生きて死んでいった小野英二(鶴田浩二の本名)ではなく、イエスさまに似せられると、聖書は約束してくださったのです。私の変貌の願いが、創造者の恵みによって叶えられることに、感謝を覚えるのであります。

 いつの日か、『おじいちゃんに似てしまって、僕は迷惑なんだ!』と、最初の孫が思うのではないかと心配するのですが、彼には、私ではなく、『イエスさまに似るんだね!』との希望を持って欲しいのです。そういえば、父が、『親爺は俺を、横須賀の教会に連れて行ってくれた!』と言っていましたから、5世代で、天国で会えるのではないかと、わくわくして期待している、孫、その翌年に生まれた長男の子、次に生まれた次女の娘、長男の娘も、今や十代、人生の「工事中」なのだそうです。

 今朝、次女からのmessage で、日本時間の昼前に、次女の教会の学生キャンプで、「baptisma」が行われ、二人の外孫が、それを受けると言ってきました。はっきりと、父系と母系から継承した信仰を表明し、主と使徒たちの命じた、バプテスマを受けて、人生の大海に、嵐もあることでしょう、その中に漕ぎ出していって欲しいと願う朝です。信仰も似てくれたことに感謝しつつ。

【追記】 夕暮れの湖で、baptisma が行われ、17人の若者たちが受けて、その喜びの声が聞こえてきました。teen age の決心が、青年期の危機を越えさせてくださるように、いのちの付与者、保持者にお願いしました。God bless you!

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父ちゃんがいたら俺だって

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 カナダ人宣教師のご子息が、韓国系の婦人と結婚をされました。彼女は、1950年代初頭に勃発した「朝鮮戦争」の戦時下に、韓国人のお母さんと進駐軍のアメリカ兵との間に生まれた、いわゆる混血孤児でした。生まれると間もなく、彼女は棄てられて、ストリート・チルドレンとなったのです。そして動乱の中を生き延びていきました。その壮絶な過去を、彼女はアメリカの教会で、証詞をしたのです。その証詞のテープを聞かせていただいたのは、もう30年近く前になるでしょうか。それは衝撃的なものでした。

 私の小学校時代、新宿の東口と西口を結ぶガード下には、垢で黒光りをした同世代のボロを身にまとった子どもたちが沢山いました。戦争で両親に死に別れた子たちや、彼女と同じように進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれて棄てられた子たちでした。ものすごい形相でにらまれたのを覚えています。『俺にだって、とうちゃんが生きていてくれたら、おめえたちのように風呂に入れて、腹いっぱい飯が食えたんだ。戦争のせいなんだ。バカヤロー!』と、きっと言いたかったに違いありません。

 私の父が戦死しないで、生き延びてくれて、育ててくれた恵みに、どっぷりつかっていた私には、彼らの痛みや苦しみに理解を示すことができなかったのです。それでも、同級生に親のいない極貧の子がいました。2歳上でしたが、一緒のクラスにいて、みんなから10円づつ集めてカンパしたことがあります。彼は私の〈立たされ仲間〉でした。『どうしているんだろうか?』と、彼のことが今でも、時々気がかりです。

 さて彼女のことですが、彼女のような出生の背景を持った子は、ほとんどが産まれると間もなく、母親の手で殺されたのだそうです。『私は母に感謝しているんです。母は私を殺さないで棄ててくれたから、それで私は生き延びることが出来たのです!』と言っていました。何でも食べて生き延びたのです。あるときビルの一室に投げ込まれた時、猫ほどもあるネズミが、仲間の幼い子を食べるのを何度も目撃するのです。でも助けてやれなかったことを悔やんでいました。

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 その筆舌に尽くしがたい体験を通りながら、15才の時に、「ワールド・ビジョン」の働きの中で保護されるのです。アメリカ人のクリスチャン夫妻の養女となって、アメリカで育ちます。家庭の中で、養父母の喜ばれるように生活をし、教会生活もして行くのですが、それは身に着けた孤児の、したたかな処世術の1つでした。ところが、ついにはっきりとイエスさまの恵みを知らされて、傷ついた心を癒やされて行くのです。そして、今でもなお、そのトラウマ(心的外傷)を癒やされる必要のあること、そのために夫の助けがあることをお話されていました。

 戦争には、必ず悲劇が伴います。今まさにウクライナの地に戦争が展開されています。戦死者や戦災者、孤児を出し、戦時下の異常心理や占領下の緊張は、兵士たちを、常軌を逸した非人間的で、肉欲だけの行動に駆り立てています。まるで獣のようにしてです。死に直面して、厭世的な思いで心を満たしてしまうからでしょう。地域紛争やテロ攻撃で戦乱の中にある国々、民族の間に、いつも見られることであります。人の争いや欲望は、世界を暗くしました。しかし、「福音の光」は、人間の傷ついた尊厳を回復させ、負った心の傷をも癒やしたのです。

(韓国の大邸の孤児院で食事を前にする男の子、戦場です)

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懐かしさの今

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 『ぼく、イエスさま、だいすき!』と言った幼かった次男に、家内が、『お母さんもイエスさま、大好き!』と答えると、『じゃあ、イエスさまを半分ずつだよ!』と答えが返ってきました。大好きなイエスさまを、母親に取られたくなかったのか、何時でも分け合わなければならない、4人兄弟の中で育ちながら、学んだので、愛して大好きなイエスさまを半分ずつに分け合うことを提案したのかも知れません。子どもって、本当に面白いと思わされたのです。

 聖書の中に、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若いときの子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は・・(詩篇127・3~5)」とあります。私に、4人の子どもがあることを聞かれた方が、思わず『ブッ~!』と笑いをこらえながら声を発したことがありました。

 その時の雰囲気からしますと、軽蔑したと言うよりは、意外だったことと、二人の子のお母さんの目からは、『ちょっと多過ぎるんじゃあない!』と言った思いからの笑いだったと解釈しています。この方のご主人は、中堅企業の部長をされていて、重役でもありました。

 ところが、私はパートで働きながら奉仕をしていたのです。『我が家では収入が少ないから、子供を育てることが出来ないのです!』と言われる方がいて、子どもを持たないようにしておいでです。それででしょうか、いつでしたか、一人の女性が生涯に産む子供の数が、《1.25》だと、ニュースが報じていましたが、今は、さらに少なくなっていることでしょう。

 私は4人の子どもを与えられたと信じているのです。決して自分たちで計画して産んだのだと思っていません。詩篇の記者が言うように、子どもは「賜物」で「報酬」だと信じているのです。もちろん経済的な理由だけではないと思いますが、この少子化傾向は、『加速していく!』と危惧され、まさに人口動態調査は、その通りの結果を見せています。

 もう20年近く前になりますが、私の「矢筒」の中にある子どもたちで相談したのでしょうか、親を心配して、長男からは、e-mailで長々と問い合わせてきました。また長女が代表して電話をくれました。『お父さん。これからは、もっとリラックスして生きたらいいよ。私たちはお父さんが分かっているんだ。』と言ってきました。彼らには、とうの昔から、父親であるわたしの強さと弱さが理解していたのでしょうか。

 『可愛い子には旅をさせろ!』と言われたように、彼らを遠くにやって、生活させられたことは、よかったのだと思うのです。でも一番の喜びは、彼らが、主を恐れて生きることを知って、主を、いまだに大好きなことであります。 

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 片道の燃料だけで飛んで行って、復路の可能性を断ち切った神風特攻機のような生き方ではなく、十分な燃料を積んで、帰って来ることも、他の土地に移動することも自在に出来るような、柔軟性のある生き方を、私の老後にして欲しいと願ったのだと思うのです。

 わたしが憧れた生き方が、まだ続いているのでしょう、それを心配しているようです。本当に、『そうだ!』と思いました。これまで、だいぶ肩を張って頑張り過ぎて、生きて来たかも知れないからです。『お父さん。人にお願いすべきことは、謙ってお願いすべきだと思うわ!』、と自分の責任だけで立とうとしている私に、次女も忠告してくれたのです。「負った子」たちに、もう背負われる年齢になって、越し方を思い出しています。 

 みんなで大好きなイエスさまを分け合いながら生きてきての七月の下旬になりました。中国の大学で教えている次男と同じほどの年齢の方が、一昨日訪ねてくれました。関西圏の大学の夏季講座に招かれて来日し、時間をとっての訪問です。昨夕は、出身の山東省青島の料理を作って、三人で食べました。愛と敬意の籠った夕食に舌鼓を打った夕べでした。

(山東省の青島の風景、青島料理(?)です)

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第二の死

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 『聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント人155157節)』

 死に直面して、意気阻喪し、逡巡し、怯え切っている人を見るにつけ、「死」の力の強さを痛感してきました。〈死の二様〉、人の「死」は、二度あると言うことを、聖書は厳粛に記します。私の育った父の家には、おじいさんやおばあさんはいませんでした。親戚の行き来もない家庭だったのです。正月や誕生日に、お年玉やお祝いを、その祖父母からもらうことなどmなかったのです。だから、身近で家族が死んでいく様子を知らずに大きくなったわけです。

 ただ、身近かにあったのは、映画の中で、刀で切られて悪役が死んでいく姿でした。また、子どもの頃に住んでいた街で、何か悪いものを食べて、赤痢にかかって、近くの子が死んでしまったり、列車に乗って移動していたアメリカ兵が、ふざけていたとかで、デッキから身を出して、信号機に当たって死んでしまって、その死体を眺めたこと、川で泳いでいて子どもが溺死したことなどがありました。

 自分自身が肺炎で死にかけたことがありましたが、父の死、母の死は、最も身近な死でした。父の腰から出て、母の胎に宿った自分いのちの神秘に、驚いて生きてきたので、そのいのちを受け継いだ両親の死は厳粛に受け止めたのです。長くとも、もう10、20年ほどの自分のいのちなのですが、今日日、間もなく迎える、〈自分の死〉を考える時が、多くなってきています。

 聖書は、『人間には、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることがさだまっている(ヘブル927節)』とある「死」ですから、誰も逃れることがないのです。逃れることのできない終わりに向かって、今、時を重ねているいて、多くの人が死に怯えながらも、考え内容に、触れないようにして今を過ごしているのかも知れません。

 両親との死別は、その現実を示されたのですが、悲嘆に暮れることはありませんでした。父も母も、神のいますこと、神の御子の十字架の死が、自分に罪の身代わりの死であったことを信じていたので、再会の望みがあるのです。互いが栄光化されて、再びあいまみえることができると思ったからです。

 この聖書が記す「死」の他に、もう一つの死があることを聖書は記すのです。

 『また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録201115節)』

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 そうです、「第二の死」があると言うのです。そして、その死を免れることができる者がいると言います。それは、「いのちの書」に名の記されている者なのです。だれが、その書に記名されるのかと言いますと、イエスをキリストと信じた者です。

 『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 (1ペテロ318節)』

 アダム伝来の罪と自からが犯した罪の結果で、人は死にます。ところが、イエスの十字架が、自分の罪の身代わりであったことを、心で信じて口で告白するなら、だれもが「義」と認められて、永遠のいのちに預かることのできる、「神の子」の身分をいただけ、キリストとの共同相続人とされるのです。

 聖書によりますと、全ての人は死から蘇って、神の「白き御座」の前に、審判の座の前に立ちます。その法廷では、「いのちの書」が開かれ、また一人一人の生涯が記された行動記録の書も開かれます。だれも言い逃れできないのです。そして、その「いのちの書」に名のない人は、「第二の死」、永遠の暗黒と隔絶の中に置かれます。

 『なぜ人は死に怯えるのか?』と言いますと、それは他人だけの経験ではないからです。客観的にしか見、感じてこなかったのが、大病をし、癌の宣告を受け、今や「現実の死」を主観的に感じているからです。家内が、中国の華南の街の省立医院の主治医から、『癌ですから、すぐに帰国して日本の医院に行って診てもらいなさい!』と、寝耳の水の様に宣告を受けた日を思い出します。

 帰国して、獨協医科大学の外来に行き、総合診療科で診断を受けました。中国の医師の見立ての通り厳粛な事態でした。即入院で、診察結果は、余命半年、肺がん第四ステージでした。3ヶ月の入院後、退院を促され、市内の緩和治療、terminal治療の入院が準備されていました。ところが、その病院に入院することなく、通院治療が続けられて今日に至っています。

 自分たちの母親や祖母に「死」が迫っていて、四人の子供が孫を伴って、やって来て、母親と祖母に、最後の時を持とうとしていました。家内は死に怯えることもありませんでした。「アドナイ・ラファ(われは主、汝を癒す者なり)」と信じた神の右手で、自分の手を握ってくださるお方にあって平安でした。

 「がん患者の集い」が開かれていると紹介されて出掛けました。東武宇都宮駅近のブルーのドアーの喫茶店で行われる、「癌cafe」に出席したのです。参加者もスタッフの多くも、会長をなさっている医師も同病者でした。そこには暗い雰囲気がないのです。励まし合いながら会を重ねてきていたのです。亡くなっていく方もありますが、生きている間に積極的に他者と関わろうとするあり方が素敵でした。

 死の恐れに見舞われて、死を超えていくために、家内は覚悟ができているのです。だからと言って、死が怖くないことはありません。彼女は、死が終わりではないことを、聖書を読んで、教えられて知っているのです。でも未知の経験が迫っているわけです。死に直面しているのは、まだがんではない私も同じです。先日、自転車からひっくり返って、死なないで済んだのも、生きて、もう少し家内を支える務めが残されているから、少し先延ばしされたのであって、「死」は、常に目の前にあります。

 やはり問題にすべきなのは、「第二の死」だなあ、と思うこと仕切りです。その死を回避できるなら、直面しようとしている「第一の死」を、受け入れられるに違いありません。

 その様な罪の結果から救われるために、「愛」の神は、御子が人となられて、33年半の後、信じる人々に代わって、十字架の上で、「義」なる神からの処罰を受けられたのです。それで神の「義」が満たされたことになります。その愛と義の真実さのために、聖書の約束に従って、墓と陰府と死から、御子イエスは甦られ、「生かすキリスト」となられたのです。

 母が、子どもの頃に、この聖書の記す「キリストの救い」を信じ、神が「父」でいますことを信じ、信じ続けて生きていた生き方に、「真実」を見ながら大きくなりました。偽りのない、非情でない、正直な生き方が母にあるのを見たからでしょうか、わたしも歴史に顕れて下さったイエスさまを、キリストと信じ、キリストに仕えて生きることを継承して、今日まで生きてくることができ、感謝でいっぱいなのです。

( “キリスト教クリップアート“「復活されたイエスさまと会ったマリア」です)

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胡蝶蘭とローズマリーの花に思う

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 華やかに咲き誇り、わが家への来客者の賞賛を受けた第3期の胡蝶蘭が、今や花を落とし、葉を枯らして晩期を迎えています。一方、今朝のベランダのローズマリーに、小さな花を開き始めています。

 出掛ける前に、サイトを見ましたら、「PLAN75」という題の映画があるのを知りました。もう上映時期

が過ぎてしまったようです。往年の歌手で、映画女優の倍賞千恵子の主演映画で、youtube で予告編を見たのです。「下町の太陽」を爽やかに歌い、「男はつらいよ」で寅さんの妹役を演じ、「駅 STATION」で翳のある桐子を演じた、兄の世代の方です。美人に皺がよるのを見て、洗面台の鏡に、自分の顔を写してみて、時の流れを感じました。

 花は来季に向かって、花を落とし、葉を枯らせていきますが、人の一生の長さ、いえ短さを聖書は次のように記します。

 『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 (詩篇9010節)』

 「創世記」の人類創造の時点では、「永遠」に生きるように祝福されたのですが、次の段階では、「百二十年(創世記63)」だったのです。ところが 「詩篇」では、人の寿命が縮められてしまいました。まさに、その通りですね。好漢も、美女も、栄光の過去を残して置いて、行く(逝く)のですね。いつまでも、そんな美しく輝いた姿のままでは、若い人たちに申し訳ないので、その席を譲るのが、老年期なのでしょう。

 寂しく何にも感動しなくなり、喜びがなくなる時を迎える前に、どうするかを聖書が、次にように勧めています。

 『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12章1節)』

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ハグのしゅくだい

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 英語に “ hug “ と言うことばがあり、人と人との関わり方法があります。宣教師の教会、家で開かれる聖書講座に、ニューヨークやテキサスの聖書学校の教師や牧師が来て挨拶をすると、握手だけではなく、このハグをしたりしました。日本人には習慣化されてない挨拶の方法でした。それでも親しさや感謝の表し方としては、体温を互いが感じ合うことができて、実感としては優れていると思いました。

 最近、ある講演を聞いていて、その話の中で紹介されていた本を、古書ネットで買ったのです。その一冊は、「しゅくだい(原案が宗政好子、文と絵がいもとようこ)」という題の「絵本」でした。先生が出した宿題の話です。

 屋外派、乱暴派、漫画派だった自分には、絵本を読んだ記憶が、ほとんどないのです。大人になってから話題になっている「フレディーの葉っぱ」とかを買って読んだのですが、幼少期の欠けたところを補う心の動きで、それを埋めようとする衝動に、今になって動かされています。

◯youtube  https://www.youtube.com/watch?v=d3dmBnYrE7I

 こんな風に家に帰って、お母さんやお父さんやおばあちゃんと、家族の間で「ハグ」をする宿題だと、いいですね。主人公のもぐくんは、恥ずかしがらないでハグを求め、家族はみんなそれに、楽しそうに応答しているのは、互いが互いの体温を分け合い、受け合うのは素敵なことですね。

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 父に、よく抱きすくめられました。そしてヒゲの頬擦りをしたり、くすぐったりして、『やめてくれよ!」と訴えてもやめなかったのです。あの skin ship は、懐かしい思い出です。ゲンコツオヤジだけではない、ハグオヤジだったのは、非行化防止のために益だったに違いありません。

 人と人との距離が広がり、ことばや眼や身体での直接間接の接触がなくなってきている現代人でも、温もりと関係と絆が必要なのです。病んでいる人が求めているのは、薬だけではなく、《つながり》でしょう。めいこせんせいが、しゅくだいをしてきたクラスのみんなを見て、『きょうは とても げんきそうねえ〜。』と言ったように、人を元気づけ、生きる意欲を高めるのでしょう。

 華南の街の学校で、一年生の前期の授業を終えた時に、ひとりの女子学生がやって来て、『ありがとうございました!』と言って、『先生お願いがあるんですが、わたしを hug してくださいませんか!』と願ってきたのです。寂しかったのか、なにか感動があったのか、自分の正直な願いを示したのです。

 一瞬間があったのですが、わたしは『はーい!』と言って、帰りかけたクラスが見守る中、彼女を軽く hug したのです。〈言葉のキャッチボール〉で半年過ごした後、hugした学生は満足そうな顔をして、『ありがとうございました!』と言って教室を出て行きました。恥ずかしがらないで、自分の感情を、大人として言い表したのは素敵だなと思ったのです。何か、中国を hug したようで、懐かしい十三年の中国生活の一場面であります。

 25才で、聖霊に満たされた時に、隠れて犯してきた罪、英語表記ですと、sins の数え切れない罪が、いっぺんに赦されたと実感したのです。頭では理解できなかった十字架が分かったからでした。それは味わったことのない心の平安でした。帰ってきた弟息子を、抱きすくめて迎えた父親のように、父なる神に、まるで抱きすくめられ、受け入れられた hug だったのでしょう。

( “ キリスト教クリップアート“ からエサウとヤコブの「和解」です)
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ひろっぱ

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「ひろっぱ」、どこにも、子どもたちが見つけて、遊びの場にし、そう呼んでいた空間がありました。2、30人も集まって、宝島、かくれんぼ、鬼ごっこ、馬乗り、ゴム跳びなどで遊んでいたのを思い出します。林の中や土地を掘って作った穴の地下室に、基地を作ったりもしたでしょうか。

 サンパウロに、Liberdade(リベルダージ)と言う地域に、日本人街がありました。日系人たちが、開拓村での働きを終えて、大都市に出てきた、開拓の苦労を終えて住み始めた地域なのです。そこに地下鉄の駅があり、駅の前の花壇の石に腰掛けた年配者たちが、黙(だんま)りとしているのを、通りすがりに見かけました。南米の移民のみなさんの「ひろっぱ」でしょうか。

 そこで、子や孫の世代になって、ご自分は引退し、苦労を顔に刻んで、黙座しているおじいさんたちでした。そこは、余暇を持て余す世代のみなさんの交わりの場でした。缶蹴りをするでも、ゴム跳びをするでもなく、陽だまりに座り込んで、互いの存在を確かめ合っているだけの風景がありました。

 人には、〈群れる習性〉があるに違いありません。子どもたちことも、嫁たちや孫たちのことも、もう話題に尽きてしまっているのかも知れません。越し方の苦労を語ることも、もうないのでしょう。ただ、同じ日本人で、似た様な過去や境遇で生きてきた共通点だけが見え隠れしていました。

 義兄が元気な頃に、サンパウロから20キロほどの隣街を訪ねたのです。そこで1週間ほど過ごしたのです。車でサンパウロの街に行く用がある義兄の車に同乗して、二度ほど連れていってもらった時のことでした。その義兄の住む街に、露天のMercado(マーケット/市場)があって、義姉のお供をして歩いたこともありました。

 日系移民の知人たちと会うと、軽い会話を交わしておいででした。一人のおばあちゃんが、息子さんとお孫さんと一緒に買い物に来ていました。あんなに寂しい顔つきをしたおばあちゃんを見たことがありませんでした。年寄り仲間が亡くなっていき、孫たちとの間では会話もなく、故郷は遠く、〈孤独〉な息遣いや目つきが、実に寂しそうでした。

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 子どもの頃は、ひろっぱで、田んぼや畑の休耕地、里山や小川で遊んだのでしょう。異国の地には、遊び回った箱庭の様な村の佇まいはないのでしょう。義兄の家の庭の大きな池や家の前には、丸かったでしょうかテーブルがあって、訪ねてくるお客さんと椅子に座って、お茶を飲んだりする場所がありました。

 Festa と呼ばれる、パーティーがよく開かれていました。一度は、義兄の移民仲間の親友が、街一のレストランで、歓迎会を開いてくれたことがあったのです。三人で囲んだ5、6mもあるテーブル満載の料理でした。その友人は、リンゴの栽培と出荷を手広くしていた移民の成功者でした。次回来たら、海辺にある別荘にお連れすると言ってくれました。もう義兄が召されて、その機会がなくなってしまいました。

 招待主は、和歌山からの移民の母の子で、日本で苦労し、移民としても苦労されたは並大抵ではなかったと、同じ様な農業移民の苦労をしてきた義兄が言っていました。人は、寄り集まることでの交わりをして、孤独を癒そうとするのかも知れません。

 そんなことを思い出したのは、「がん哲学外来」を始めた樋野興夫氏の話を聞いたからです。宇都宮でもたれているのは、〈がんcafe〉と呼ばれている集いで、コーヒーを飲みながら、差し入れの cookie の載ったテーブルを囲んで、語り合うのです。

 子育てをしたわが家も、人の出入りが多くて、〈宴会〉にはならないのですが、コンパネの合板に、ステインを塗り重ねた手作りのテーブルには、いつも大勢の人がついていました。今は、床上浸水後に、家具屋さんが引き取った家具をいただいて、六人で囲める、小ソファーを入れると十数人で囲めそうなテーブルが、客間にあります。そこに、人がやって来て、coffee や Earl Gray や狭山茶を飲んだり、食事をしたりの談笑が行われています。

 一人の家内のお姉さんの様な、こちらで出会ったご婦人が、最近、見えなくなったと思っていましたら、亡くなったと聞きました。年上の優しいお兄さんが戦死した話を、そのテーブルでしてくれたことがあり、素敵な語らいの交わりをすることができたご婦人した。人には、こう言った交わりの場、〈ヒロッパ〉が必要なのでしょう。

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