『聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント人15章51~57節)』
死に直面して、意気阻喪し、逡巡し、怯え切っている人を見るにつけ、「死」の力の強さを痛感してきました。〈死の二様〉、人の「死」は、二度あると言うことを、聖書は厳粛に記します。私の育った父の家には、おじいさんやおばあさんはいませんでした。親戚の行き来もない家庭だったのです。正月や誕生日に、お年玉やお祝いを、その祖父母からもらうことなどmなかったのです。だから、身近で家族が死んでいく様子を知らずに大きくなったわけです。
ただ、身近かにあったのは、映画の中で、刀で切られて悪役が死んでいく姿でした。また、子どもの頃に住んでいた街で、何か悪いものを食べて、赤痢にかかって、近くの子が死んでしまったり、列車に乗って移動していたアメリカ兵が、ふざけていたとかで、デッキから身を出して、信号機に当たって死んでしまって、その死体を眺めたこと、川で泳いでいて子どもが溺死したことなどがありました。
自分自身が肺炎で死にかけたことがありましたが、父の死、母の死は、最も身近な死でした。父の腰から出て、母の胎に宿った自分いのちの神秘に、驚いて生きてきたので、そのいのちを受け継いだ両親の死は厳粛に受け止めたのです。長くとも、もう10、20年ほどの自分のいのちなのですが、今日日、間もなく迎える、〈自分の死〉を考える時が、多くなってきています。
聖書は、『人間には、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることがさだまっている(ヘブル9章27節)』とある「死」ですから、誰も逃れることがないのです。逃れることのできない終わりに向かって、今、時を重ねているいて、多くの人が死に怯えながらも、考え内容に、触れないようにして今を過ごしているのかも知れません。
両親との死別は、その現実を示されたのですが、悲嘆に暮れることはありませんでした。父も母も、神のいますこと、神の御子の十字架の死が、自分に罪の身代わりの死であったことを信じていたので、再会の望みがあるのです。互いが栄光化されて、再びあいまみえることができると思ったからです。
この聖書が記す「死」の他に、もう一つの死があることを聖書は記すのです。
『また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20章11~15節)』
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そうです、「第二の死」があると言うのです。そして、その死を免れることができる者がいると言います。それは、「いのちの書」に名の記されている者なのです。だれが、その書に記名されるのかと言いますと、イエスをキリストと信じた者です。
『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 (1ペテロ3章18節)』
アダム伝来の罪と自からが犯した罪の結果で、人は死にます。ところが、イエスの十字架が、自分の罪の身代わりであったことを、心で信じて口で告白するなら、だれもが「義」と認められて、永遠のいのちに預かることのできる、「神の子」の身分をいただけ、キリストとの共同相続人とされるのです。
聖書によりますと、全ての人は死から蘇って、神の「白き御座」の前に、審判の座の前に立ちます。その法廷では、「いのちの書」が開かれ、また一人一人の生涯が記された行動記録の書も開かれます。だれも言い逃れできないのです。そして、その「いのちの書」に名のない人は、「第二の死」、永遠の暗黒と隔絶の中に置かれます。
『なぜ人は死に怯えるのか?』と言いますと、それは他人だけの経験ではないからです。客観的にしか見、感じてこなかったのが、大病をし、癌の宣告を受け、今や「現実の死」を主観的に感じているからです。家内が、中国の華南の街の省立医院の主治医から、『癌ですから、すぐに帰国して日本の医院に行って診てもらいなさい!』と、寝耳の水の様に宣告を受けた日を思い出します。
帰国して、獨協医科大学の外来に行き、総合診療科で診断を受けました。中国の医師の見立ての通り厳粛な事態でした。即入院で、診察結果は、余命半年、肺がん第四ステージでした。3ヶ月の入院後、退院を促され、市内の緩和治療、terminal治療の入院が準備されていました。ところが、その病院に入院することなく、通院治療が続けられて今日に至っています。
自分たちの母親や祖母に「死」が迫っていて、四人の子供が孫を伴って、やって来て、母親と祖母に、最後の時を持とうとしていました。家内は死に怯えることもありませんでした。「アドナイ・ラファ(われは主、汝を癒す者なり)」と信じた神の右手で、自分の手を握ってくださるお方にあって平安でした。
「がん患者の集い」が開かれていると紹介されて出掛けました。東武宇都宮駅近のブルーのドアーの喫茶店で行われる、「癌cafe」に出席したのです。参加者もスタッフの多くも、会長をなさっている医師も同病者でした。そこには暗い雰囲気がないのです。励まし合いながら会を重ねてきていたのです。亡くなっていく方もありますが、生きている間に積極的に他者と関わろうとするあり方が素敵でした。
死の恐れに見舞われて、死を超えていくために、家内は覚悟ができているのです。だからと言って、死が怖くないことはありません。彼女は、死が終わりではないことを、聖書を読んで、教えられて知っているのです。でも未知の経験が迫っているわけです。死に直面しているのは、まだがんではない私も同じです。先日、自転車からひっくり返って、死なないで済んだのも、生きて、もう少し家内を支える務めが残されているから、少し先延ばしされたのであって、「死」は、常に目の前にあります。
やはり問題にすべきなのは、「第二の死」だなあ、と思うこと仕切りです。その死を回避できるなら、直面しようとしている「第一の死」を、受け入れられるに違いありません。
その様な罪の結果から救われるために、「愛」の神は、御子が人となられて、33年半の後、信じる人々に代わって、十字架の上で、「義」なる神からの処罰を受けられたのです。それで神の「義」が満たされたことになります。その愛と義の真実さのために、聖書の約束に従って、墓と陰府と死から、御子イエスは甦られ、「生かすキリスト」となられたのです。
母が、子どもの頃に、この聖書の記す「キリストの救い」を信じ、神が「父」でいますことを信じ、信じ続けて生きていた生き方に、「真実」を見ながら大きくなりました。偽りのない、非情でない、正直な生き方が母にあるのを見たからでしょうか、わたしも歴史に顕れて下さったイエスさまを、キリストと信じ、キリストに仕えて生きることを継承して、今日まで生きてくることができ、感謝でいっぱいなのです。
( “キリスト教クリップアート“「復活されたイエスさまと会ったマリア」です)
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