.
.
『ぼく、イエスさま、だいすき!』と言った幼かった次男に、家内が、『お母さんもイエスさま、大好き!』と答えると、『じゃあ、イエスさまを半分ずつだよ!』と答えが返ってきました。大好きなイエスさまを、母親に取られたくなかったのか、何時でも分け合わなければならない、4人兄弟の中で育ちながら、学んだので、愛して大好きなイエスさまを半分ずつに分け合うことを提案したのかも知れません。子どもって、本当に面白いと思わされたのです。
聖書の中に、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若いときの子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は・・(詩篇127・3~5)」とあります。私に、4人の子どもがあることを聞かれた方が、思わず『ブッ~!』と笑いをこらえながら声を発したことがありました。
その時の雰囲気からしますと、軽蔑したと言うよりは、意外だったことと、二人の子のお母さんの目からは、『ちょっと多過ぎるんじゃあない!』と言った思いからの笑いだったと解釈しています。この方のご主人は、中堅企業の部長をされていて、重役でもありました。
ところが、私はパートで働きながら奉仕をしていたのです。『我が家では収入が少ないから、子供を育てることが出来ないのです!』と言われる方がいて、子どもを持たないようにしておいでです。それででしょうか、いつでしたか、一人の女性が生涯に産む子供の数が、《1.25》だと、ニュースが報じていましたが、今は、さらに少なくなっていることでしょう。
私は4人の子どもを与えられたと信じているのです。決して自分たちで計画して産んだのだと思っていません。詩篇の記者が言うように、子どもは「賜物」で「報酬」だと信じているのです。もちろん経済的な理由だけではないと思いますが、この少子化傾向は、『加速していく!』と危惧され、まさに人口動態調査は、その通りの結果を見せています。
もう20年近く前になりますが、私の「矢筒」の中にある子どもたちで相談したのでしょうか、親を心配して、長男からは、e-mailで長々と問い合わせてきました。また長女が代表して電話をくれました。『お父さん。これからは、もっとリラックスして生きたらいいよ。私たちはお父さんが分かっているんだ。』と言ってきました。彼らには、とうの昔から、父親であるわたしの強さと弱さが理解していたのでしょうか。
『可愛い子には旅をさせろ!』と言われたように、彼らを遠くにやって、生活させられたことは、よかったのだと思うのです。でも一番の喜びは、彼らが、主を恐れて生きることを知って、主を、いまだに大好きなことであります。
片道の燃料だけで飛んで行って、復路の可能性を断ち切った神風特攻機のような生き方ではなく、十分な燃料を積んで、帰って来ることも、他の土地に移動することも自在に出来るような、柔軟性のある生き方を、私の老後にして欲しいと願ったのだと思うのです。
わたしが憧れた生き方が、まだ続いているのでしょう、それを心配しているようです。本当に、『そうだ!』と思いました。これまで、だいぶ肩を張って頑張り過ぎて、生きて来たかも知れないからです。『お父さん。人にお願いすべきことは、謙ってお願いすべきだと思うわ!』、と自分の責任だけで立とうとしている私に、次女も忠告してくれたのです。「負った子」たちに、もう背負われる年齢になって、越し方を思い出しています。
みんなで大好きなイエスさまを分け合いながら生きてきての七月の下旬になりました。中国の大学で教えている次男と同じほどの年齢の方が、一昨日訪ねてくれました。関西圏の大学の夏季講座に招かれて来日し、時間をとっての訪問です。昨夕は、出身の山東省青島の料理を作って、三人で食べました。愛と敬意の籠った夕食に舌鼓を打った夕べでした。
(山東省の青島の風景、青島料理(?)です)
.