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『あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。(2テモテ1:13~14)』
代表的な日本文化で、最たるものは「落語」ではないでしょうか。浄瑠璃も文楽も歌舞伎も、日本文化なのですが、日本語の真髄を話芸で表現する「噺(はなし)」は、決して噺家が自重するような〈ばかばかしい〉ものではなさそうです。人生の機微に触れ、人情を大切にした世間のありがたさを語ってきています。
あの屈託のない笑いは、疲れを癒し、自分の現状を肯定して生きられるようにと励ましでさえも感じるのです。何と言うか、《しみじみした思い》にされるのです。幕末から明治にかけて活躍した、三遊亭圓朝は、落語の先覚者でした。主に人情噺を得意としていて、創作落語家でもあったのです。
江戸っ子で、長州や薩摩出身の役人たちが、江戸の町を、わがもの顔で闊歩するのが、悔しかったのか、江戸っ子の気風(きっぷ)を取り上げた「文七髪結(かみい)」を作っています。年末の高座で演じられる題目だとされているのです。噺のあらすじは、次の様です。
「だるま横丁の左官の長兵衛。ウデのいい職人だが、博打にハマって借金を抱えている。冬の夜道、今日も博打に負けて、着物をとられてしまってはんてん一枚で貧乏長屋へ帰ってきた。娘のお久がいない、どこを探してもいないと女房。
そこへ、吉原の大店(おおみせ)、佐野槌(さのづち)から使いがやってきた。お久はそこにいると言う。長兵衛は着物がないので女房の着物を着て、佐野槌へ。逆に女房は、長兵衛のはんてん一枚。
佐野槌で長兵衛は、女将から話を聞かされる。お久は自分を売って金をつくろうとしたのだ。長兵衛の博打の借金を返し、また長兵衛が仕事に精を出すようにしたかった。
お久の真情に心を動かされた女将は、長兵衛に説教した上でを貸す。長兵衛が来年の大晦日までに五十両返さないと、お久は店に出されて、客をとる。
五十両を懐に抱えたその帰り道、長兵衛は吾妻橋で身投げしようとする若者、お店(たな)の奉公人、文七に出会う。文七は売掛を回収した五十両をすられてしまい、絶望のあまり大川へ身を投げようとしていた。文七は身寄りがなく、五十両を貸してくれる人などいないと言う。
文七は死のうとするこの若者を助けたいが、さりとて五十両を渡してしまえば、お久を返してもらうことが難しくなると悩むが、死を前にした男を救おうとハラを決め、文七に五十両を渡してしまう。
長兵衛は、この金は娘が吉原に行って必死の思いでこしらえたものであるということは、文七に話したが、自分のことは名乗らなかった。
鼈甲問屋・近江屋卯兵衛と番頭が店で待ちわびている。文七が帰ってきて、回収した五十両を差し出す。驚く卯兵衛と番頭。
五十両は、相手先の屋敷で碁に誘われ、それに夢中になった文七が碁盤の下に忘れてしまったのを、相手先の使いが届けてくれていたのだ。文七の打ち明け話を聴いてさらに驚く卯兵衛。
五十両を出してくれた吉原の大店は佐野槌に違いないと目星を付けた。翌朝早く、番頭は早速、佐野槌へ。卯兵衛は文七を連れて長兵衛の長屋を訪れた。卯兵衛は長兵衛に五十両を返そうとする。
いったん人にやったものは受け取れないと渋る長兵衛に、なんとしてもとあたまを下げ、受け取ってもらう。
さらに角樽と酒二升の切手を礼として差し出す。そして、肴としてお気に召していただければ、と言いながら外に声をかけると、そこに美しく着飾ったお久が姿を現した。
卯兵衛は佐野槌からお久を身請けしたのだ。はんてん一枚の女房も衝立の後ろから飛び出してきて、抱き合って喜ぶ親子三人。のちに文七とお久は結ばれ、麹町で“元結”の店を開いた。」(「落語亭」の記事です)
江戸の人情、哀愁、細かな人間の心理描写などが盛り込まれている噺です。説教者になりたての頃、話術も大切と、以前好きだった落語を聞こうとしたのです。ただ「間」が大切だと感じたからです。それで落語だけではなく、中西龍と言うアナウンサーのラジオ番組の話し方にも耳を傾けたりしました。でも、教会の説教壇は、寄席ともラジオ番組とも違うのです。「神のことば」を取り継ぐのですから、話術以上のものの必要に気付いたわけです。
パウロは、信仰者の母や祖母に育てられ、また自分から「健全なことば」を学んだテモテに、恐れずに語る様に勧めています。「神のことば」が、聖霊によって人の心の中に触れるからです。に東北弁の強い訛りの説経者が、その晩の特別集会の講壇に立った時、その教会に、東大を出て、政治組織に関わる弟が、兄の勧めで出席していました。『こりゃあ駄目だ!』と、お兄さんが思ったのとは裏腹に、弟さんは、その説教を聞いて救われてしまったのです。この方は、後に牧師となられています。
アメリカ原住民(インディアン)に伝道した、ブレイナードが説教していた時、通訳者が酒に酔っていたのですが、呂律の回らない舌で通訳された福音を聞いて、会衆者の中に、回心する者が起こったのです。神さまは、そんなことも許されるのです。
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