秋(加古里子)


 子どもの頃に、「絵本」をあまり読まなかったので、今になっての開眼で、図書館で借り出した絵本に夢中になっています。 

 旧制の高等学校の学生であった加古里子が、戦局厳しい時期、敗戦の前の年、私の生まれた年ですが、兵器を作る工場に勤労動員していました。すでに本土に米軍機が飛来し、都市爆撃が行われ始められている中、盲腸炎になります。「おでこ」とあだ名された医師たちによって無事手術が行われます。その病中の有様を、作者はクレヨンで描き残した「秋」と題した「紙芝居」があります。その原本が見付け出されまたのが、2008年のことでした。

 2020年になって、その紙芝居の「台詞(せりふ)」が見付かったのです。絵本出版のために、加古里子は、戦後、ずっと準備を重ねていたのです。2018年に亡くなってから、3年経った、2021727日に、講談社から発行されています。

 十八歳、高等学校二年生の戦時体験が、やはり平和を希求させたのでしょう。大学で応用科学を専攻し、昭和電工に就職しています。働きながら、川崎のドヤ街のsettlement で活動をし、子どもたちに人形劇や紙芝居などをしておいででした。絵本作家として、最初に手がけたのが、1959年に「だむのおじさんたち」で、それ を発刊しています。47歳で会社を退職して、フリーで、大学で教えながら、絵本作家を続けたのです。「秋」と題した絵本の最後の方にある「ことば」です。そして、いく枚かの絵です。

ああ、こんな戦争なんか、

一日も早く終わったほうがいい。

にっぽんだってあめりかだって、

勝っても負けても、戦争では人が死に、

傷つき、生活がめちゃめちゃになってゆく。

だれがいったい、戦争で得をするというのだろう。

どんな苦しみだって、

戦争の苦しさにくらべたら、

耐えられるだろうにー

戦争をするだけのお金や物を、

みんなの生活がよくなることに使ったら、

ほんとうにたのしい世の中がつくれるだろうにー

爆弾や戦車や落下傘や、カボチャをつくってまで、

なぜ戦争をしようとするのか。

青い空や澄んだ秋晴れは、

戦争のためにあるんじゃないんだ。

空腹や戦争のために、青く澄んでいるなら、

こんな秋なんかないほうがいいんだ。

はやくどこかへ行ってしまえ!

そしてはやく、一日もはやく、

平和な春がきてほしいー

私は願いました。

切に私は思いました。

 手術で執刀してくださった医師は、徴兵されて行くのですが、無事に帰ってくることを願いつつ送り出したのですが、思いは届かず、戦死してしまいます。その報に、対する想いが、この家にある絵の、黒く塗られたご自分の顔なのでしょうか、また反戦の想いを込める青年の視線、そんなことを感じさせる画像ではないでしょうか。

 今もなお、ウクライナへの侵略戦争が続いています。終結を、世界が願っているのですが、いつまで、どこまで続く暴挙でしょうか。はやく戦いが終わるのを、どなたも願っているのですが。

テムジンの友塾

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 「Баяртайバヤルタイ」、『さようなら!』とか『また会いたいです!』と言った、モンゴル語の別れの挨拶のことです。そんな番組が、YouTube にあります。

 以前住んでいました街で、隣家のおじさんが、自慢話(?)を話して聞かせてくれたことがありました。戦時中に満州に遣わされ、終戦間際に、ソ連軍が宣戦布告して攻め入ったのです。物量の乏しい日本軍は、負けて、シベリヤに抑留され、強制労働を課せられます。12000人もいました。少ない食料配給で足りず、食べることに必死だったのだそうです。ソ連軍の手伝いをして、余計食べれたとの自慢でした。いいのかな?

 中京テレビの報道部に、モンゴル人のスタッフがおいでで、お名前がホンゴルズルさんと言います。この方が作られた番組があります。終戦で、シベリヤに抑留された他に、モンゴルにも強制連行されて、抑留した方と、彼女が出会います。その出会いから、ドキュメンタリー番組を制作されるのです。その方が、神戸在住の友引正雄さんでした。その足跡を追い、動画になっていて、それを観た次女が、YouTubeの動画を送信してくれたのです。

 友引さんは二十歳の時に、連行の途中に、極寒のモンゴルで凍傷となり、両足の膝下を、局所麻酔だけで、切断するという経験をされています。友引さんの抑留者仲間は、ウランバートルの市役所や図書館や証券取引所などの公共施設、30以上の建物の建設のために駆り出されて、粗末な食事で、過酷な労働を強いられ、それに従事したのです。

 2019年に、最後の墓参の訪問団が結成され、94歳の友弘さんら4人に、中京テレビのホンゴルズルさんも同行したのです。その建設した建物の一つがモンゴル国立大学で、そこで学ばれたのが、このホンゴルズルさんでした。日本兵が抑留されて、ウランバートルにいたことも、彼らが強制労働で、学んだ学舎を建てたことなどつゆ知らずでいたそうです。

 その時、抑留の事実を調べるために、公文書管理庁を訪ねています。皮革工場などで働いていた様子や、建設工事を撮影した写真や動画のフィルムも保管されていたのです。16000人の抑留者がいて、その13%が、現地で亡くなっておいでです。

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 この友引さんは、『お母ちゃんに会いてえなあ!』と願って窮状を乗り越えて、祖国に帰ろうと願ったのです。二年後に帰国が許され、復員後は、入隊前に、旧国鉄に勤務されていたので、その職場に復職されたのだそうです。抑留経験者や家族や遺族で、「モンゴル会」を建て上げて、これまで四十回も、亡くなった戦友の墓参のためにモンゴルを訪ねて来たのです。『生き残って申し訳ない思いでです。』と友引さんは言っています。誰かの犠牲があって生き残り、日本に帰国できたことに、「ありがとう」の気持ちで、帰国後を生きてきたそうです。

 日本とモンゴルの国交が回復したのは、1972年でした。友弘さんは、1975年に墓参のために戦後初めて訪問しています。28年振りだったそうです。強制労働、両足の切断、2年の抑留生活にあったモンゴルとの関わり方に、戦後の時間の中で、変化があったのだそうです。

 ベルリンの壁が、198911月に崩壊したことから、共産圏諸国が次々に崩壊していきました。1988年から1991年にかけて、内部からソ連の体制が崩壊し、それに伴って、隣国のモンゴルも、国家体制が雪崩のように崩壊してしまいます。その結果、ソ連からの経済援助が絶たれ、経済的に破綻し、大きな問題を抱えていました。そこに、捨てられたり、家出したりした子どもたちは住む家がなくて、酷寒マイナス30℃の下、温水を送るパイプのマンホールに暖を求めて住み始めて、「マンホール・チルドレン」と呼ばれるようになります。

 NHKが、混乱と貧困のモンゴルの様子を、取り上げて番組が制作されました。「高層ビルが立ち並び、急激な経済成長を遂げるモンゴル・ウランバートル。その片隅で、貧困から這い上がろうともがき続ける2人の男がいる。ボルト33歳、ダシャ34歳。彼らは親友。20年前の1998年、ウランバートルには、親に見捨てられ、マンホールから地下にもぐって寒さをしのぎながら生きる「マンホールチルドレン」があふれていた。ボルト(当時13)とダシャ(当時14)もそこにいた。互いに助け合いながら懸命に生きていた。(番組のサイトから)」

 友引さんたちは、捨てられたり家を出た子どもたち、マンホールチルドレンの助けになるために、1997年に、ウランバートルに「テムジンの友塾(Тэмүжин)」を開設し、20年の間、運営してこられたのです。「テムジン」は、チンギス・ハーン(成吉思汗/ジンギス・カン))の本名です。その子どもたちに、衣食住を提供し、教育を施してきたそうです。元捕虜仲間で、軍医だった春日さんが園長を勤めてこられました。

 その最後の訪問の時に、卒園児が訪ねてきていました。今は結婚されお母さんになっている、ハグバスレンさんです。お二人の再会は感動的でした。そう言った日本人の生き方は、誇りに思えてなりません。加害者としての過去を償う意味でも、子どもたちを支え、励ましてきたことは、素晴らしいことでした。

(モンゴル国花の「セイヨウマツムシソウ」、「草原」です)

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この不思議さよ

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 『 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇19:5~6)』

 新しい年を迎え、晴天続きで毎朝、東の空から、陽がの昇って参ります。これまで雲や嵐で見えない日はありましたが、私の78年の生涯で、一日も欠かさず、この地を輝かせ、暖かめ続けてくれています。それでも今朝方、雨が降ったようで、地面が濡れていました。

 これまで学んだ天体の有り様は、不思議でならなかったのです。驚くべき不思議さに圧倒され続けてきました。つっかえ棒も、フックもなしで、中天に浮いている事実は、信じることができませんでした。

 太陽は動かず、地球が動き、それでも天文学者は、太陽も公転して、宇宙空間を旅していると言うのには、この小さな頭では推し量ることができません。聖書は、「喜び走る」と言う、喜びの感情を太陽が持つ気とを言っています。のです。地球は、時速1600kmで自転しながら、その太陽の周りを10km/hで公転していることが分かっています。

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 まだ車を運転していた頃、無謀にも140km/hで運転記録を出した覚えがありますが、あの速度感覚の怖さを思い出して、それがどれほどの速度だったのかを思うと、地球の動く速度を感じられないことが不思議でなりません。

 物理では、物が動くには、「動力」が必要とされていますが、地球を動かしている機関が、南米に行っても、中国に行っても、シンガポールに行っても、地上のどこにもありません。太陽然りで、定まった「走路」を、ハンドルなしでまったくぶれないで動くのです。

 「果て」のない広大な宇宙なのだと言うこと、この詩編19篇は、ダビデの牧童の経験をもって、被造の世界を謳っています。ダビデは、陽の光が、冷えた自分の身体を温めてくれるのを思い返しているのでしょう。瞬間に過ぎない「今」の時を、「永遠」へと思いを広げていますし、創造者の目からも見ているのです。これほどの宇宙を、自分も含めて、存在しうるのは、神以外には考えられなかったのです。

『太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。  あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。 (イザヤ60:1920)』が

 この私の思いの中では、太陽系の規模だけでも、いえ地球が自転し、公転し、存在していること自体が、不思議でならないのです。ところが聖書は、太陽がもたらす恩恵以上、「永遠の光」、「光栄」である、創造主、神さまのおいでのことを謳うのです。この神さまの「恩寵」は、「あなたの嘆き悲しむ日が終わ」らせてくださるのだと言うのです。

 今朝は、太陽が昇ってきますと、−3℃の栃木の地をじょじょに温めてくれ、太陽の光の入り込む部屋は、もう暖房がいらないくらいになって来ています。この光とは比べられないほどの恩恵を、神さまが与えてくださると約束してくれています。あのヨブが、地球がフックなしに天空に書けられているのを驚き記しましたが(ヨブ記 26710節)、太陽も同じ、星々も同じで、フックなしなのが、私も不思議でなりません。

(車道を走るトラックの「エンジン」です)

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それは非常によかった

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 『神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(創世記12931節)』

 週初めに家内が、ペルー産の何やらが体にいいと言っていました。〈いい物〉は数限りなくあります。なぜなら、神がお作りくださった物だからです。その地域に見合った植生があり、そこから採れる食物を、様々に調理して、人は食べつないで、それぞれに生きてきたのが私たちです。古来、わが国では、米に菜葉の味噌汁、野菜の煮しめ、漬物、納豆などが主要な食べ物でした。どこにでも発酵食品があって、それが健康維持に大切な役割を果たしてきています。

 ところが流通の拡大で、ペルー産、ハワイ産、アルゼンチン産、トルコ原産、カスピ海で作られたヨーグルトなど、世界中の食べ物が、船に積まれてやってきました。肝臓に良い、アルツハイマーに良い、高血圧症に良いなど、様々の健康食品が、宣伝され、売られ、心動かされて買わされています。

 病む前は、与えられる物を、感謝して食べて生きていたのに、病んでから、母を思う子どもたちや、友を気遣う友人たちが、『これって良いそうですから食べてください!』と持参したり、買う様に促してくれる様になりました。息子にスマホを買ってもらってから、家内は情報過多になり、「ペルー産」の何かを見つけてしまったわけです。

 それで、私は、「秦の始皇帝」が、不老不死の妙薬を探させるために、徐福を遣わした話をしたのです。日本に来た徐福は、始皇帝の元に帰らずに、日本に住み続けたのだそうです。そんな妙薬などなかったし、たくさんの資金を手にしていたからです。始皇帝は、長生きをしたかったのですが、部下に裏切られ、その薬を飲むことなく、五十になる前に死んでしまいます。その薬を飲まなかったからではなく、寿命で死んだのです。と言うよりは、不死不老の薬だとされる水銀の入った物を飲んでも中毒死だったと言う一説もあります。

 人は、その地その地が産する物で、「地産地消」が、神さまの理にかなったことであるわけです。季節によって違う産物を収穫し、貯蔵して、みんな生きてきたわけです。みんな欲で動いています。何年も前に、アロエがブームになっていたことがました。そんなブームは商人が作るのです。次々にブームが大波小波で押し寄せてきています。それをかぶっていたら、破産です。

 ペルー産の物がいいのは分かりますが、輸入ストップになったら、食べ続けられない物です。この国にだっていい物がたくさんあります。外国から輸入するのは、結局は〈金儲け〉なのです。それで生き、儲けている人の投げた捕獲網なのです。珍品にめざとい人に売って金儲けをするために、世界中を訪ねて探して、大宣伝をかけて売るのです。

 その宣伝文句に、家内の様に、誘いに動かされる夥しい人は、「カモ」なのです。家内は、maniac にはなっていないからご安心ください。それぞれの収入、生活レベル、身分に応じて得られる物で生きるが一番だ、そう言うことを家内に話したのです。健康を損なって、心動かされる様になってしまった家内に、ストップをかけたわけです。

 あまりにも情報が多く、過多、過多、過多と音がしています。いいものは僅かです。本物も少量です。造物主の神さまは、全てご存じで、最善を備えていてくださるお方なのです。「確かな情報」にだけ応答していきたいものです。人の動機を見抜くことです。そして、身の回りにあるものに、『いのちの息のあるもののために(創1:30)』お作りくださったものは、『それは非常によかった(創1:31)』のです。だから感謝することです。もちろん注意深く生きるのが好いのです。

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譲って新しい地に出て行くこと

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 『主はモーセとアロンに告げて仰せられた。 「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。 それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。:ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわることであって次のとおりである。(民数記414節)』

 神さまは、ご自分の民とお会いになるために、特定の場所を定めました。それが「幕屋(会見の天幕)」でした。そのための精緻な設計図、奉仕者、奉仕の仕方、服装、器具などを定めました。そのことが、とても重要であるので、「出エジプト記」の2540章までに、神さまは、詳細をモーセに告げました。そのことばに従って作られ、大祭司アロンが、年に一度、幕屋の中心の「至聖所」に入って、神と謁見したのです。

 この幕屋の「最も聖なるものにかかわること」の奉仕にあたったのが、レビ族でした。その重要な任務を果たすために、年齢を定められました。「三十歳以上五十歳まで」の男子でした。どの様な基準でなのか、人間の側から判断することができそうですが、「もっとも聖なるものにかかわること」とは、 英欽定訳聖書によりますと、” all that enter into the host , to do the work in the tabenacle of the congtegation “ とあって、” the work “ とは一般的な仕事ではなく、「主なる神に仕えること」であるのが分かります。

 ですから、粗相、失敗があってならないのでしょう。二十歳に満たないのでは若過ぎるのかも知れません。六十歳を越えてしまうと老い過ぎてるのでしょう。その務めに選ばれ任じられ、その責務を重く受け止めている「レビ族」だけが関われたのです。モーセが、奴隷の家のエジプトから救出者として、また彼の兄のアロンが「大祭司」に召されたのが八十歳以上であったことは、例外だったのです。ここに定められた奉仕の期間は、「壮年期」に果たしうると言うことなのでしょう。

 『あなたがた経験のあるmature な人は、新しい人に、その務めの責任を譲って、あなたは新しい地に出て行きなさい!』と、アメリカから宣教に来て、長く異国の地で奉仕をし、日本人を愛し、そして病んで帰天した恩師が挑戦してくれたことがありました。自分の城を築いて、それを死守して、安泰な生活を送るという誘惑から出ていく様にとの勧めだったのです。

 若くて経験の少ない伝道者が、来る日も来る日もトラクト配布に明け暮れ、群れができずに、しかも貧しくて、意欲を削がれ、伝道に挫折するケースは多いのです。神学校を出て伝道を始めた若い伝道者が、5年以内に伝道戦線から離脱する比率が、80%と言う高さだと、アメリカのフラー神学校が調査した結果を報告しています。

 それで、一仕事をしてきた円熟した人が、新しい地に出かけて行って、教会の土台を据え、群れを形成する方がよいから、恩師は、私に勧めたのです。名誉牧師というタイトルがあるそうです。イエスさまにもパウロにも与えられていないタイトルをいただいている方がおいでです。兄弟姉妹との関係を続けて、新任の牧師の牧会の邪魔をしているケースは多いのです。

 任せてしまったら、余所に出ていくべきです。その方が福音は拡大していくからです。教会の敷地の奥に宣教師館があって、招かれて牧師になられた家族は、アパートに住んでいます。その教会の兄姉は、前から関係を持ってきた宣教師に相談に行きます。牧師を跳び越えてです。そんな牧師さんや若い伝道者の方に何度か相談されたことがありました。結局、彼らは去っていかれました。

 35年支えた群れを、母教会にお願いした私は、60になる前に出て行こうと決めました。恩師の勧めが、神からの促しだと理解したからです。怪我など諸事情があって、61で家内と出掛けたのです。やっと、あの挑戦を受けることができました。そこで13年間、教会形成のお手伝いをさせていただきました。そこから幾つかの群れが始まりました。自分に課せられた分を果たさせてもらっただけです。ほんの一時期でした。必要とされる間に、日本語を教えながら、させて頂いた奉仕でした。

 でも時が来て帰国したのです。これって、出ていったからできた奉仕だったのではないかと思います。小さな一国一城の主(あるじ)におさまっていたら、生活は安定していたかも知れませんが、かえって問題作りを繰り返したかも知れません。今あるをただ感謝しております。

(「幕屋」 で奉仕をする人たちの様子です)

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信仰の系譜

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 『けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(2テモテ31417節)』

 私の育った父の家には、仏壇も神棚も札と言った伝統的な宗教用具は、何もありませんでした。ただ父は経本と数珠を持ち、母は聖書と讃美歌(聖歌)を持ち、ペンダントやリングの十字架はありませんでした。母は、その聖書を読み、賛美し、祈り、日曜日には礼拝に行き、水曜日には聖書研究会に行き、家では家庭集会をし、近所の方に証しをし、私の学校に呼び出された時に、担任にも証しをし、パートに出て得たお金から献金をし、そんな日常生活をおくっていました。

 母は、子どもの頃に出会った、救い主に従い続けて、聖書通りに、単純で堅実な信仰者として生きて、95歳で帰天したのです。クリスチャンとして生きる母を、父は認めていました。家で、聖書研究会をするのも許して、宣教師さんにも敬意を示して、家庭集会が行われていました。でも教会の礼拝には、父は行きませんでした。

 劇的な宗教体験はしませんでしたが、初代教会にあったような、聖霊にバプテスマされると言う経験をして、イエスさまの十字架の死が、自分の罪の身代わりであったことを、真に知ることが、私にはできたのです。母の祈りの賜物で、兄たちも弟も、そして父も、イエスさまをキリストと信じることができました。

 このイエスさまは、2000年ほど前に、ベツレヘムに生まれ、ナザレ人として育ち、30歳にして、バプテスマのヨハネから、ヨルダン川でバプテスマを受け、水から上がられる直前に、聖霊に満たされ、『これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3:17)』との声が天から告げられました。その後、悪魔の試誘を荒野で受けられ、それを旧約聖書のみことばで退けて、公けの伝道生涯に就かれたのです。3年半の後に、ご自身を信じる者の罪の身代わりに、十字架に死なれ、葬られましたが、墓と死を打ち破って、甦られたのです。そして父の神の右の座に着かれ、信じる者を父なる神に執り成し、助け主聖霊を送り、場所を備え、その場所の備えが終わったら、私たちを迎えに来てくださると約束されました。間もなくイエスさまは、王としておいでになって、王座にお着きになられます。

 そう聖書にある様に、単純に信じて、今もなお、同じ様に信じているのです。その私を育ててくれた母は、カナダ人宣教師が奉仕された街にあった教会に、級友に誘われて教会学校に行き、教会生活を始めています。夫の仕事の関係で、山奥にいましたので、教会には通えませんでした。そこに街からリュックザックを背負った伝道者がやって来て、讃美をし、聖書を読み、祈って、礼拝を守っていましたのです。街に出てからは、紹介された教会に参加していました。

 ところが牧師さんの子どもが亡くなられて、牧師館で仏壇に似た一角に線香が炊かれているのを見て、その教会を母は去りました。引っ越してからは、隣町の宣教師の教会で礼拝を守っていたのです。住み始めた町の路上で、将来、私の家内になるお母さんに会って、テキサスからの宣教師の始めた教会に誘われて、その群れに、自分の魂を委ねたのです。そこで、初めて旧約聖書からの礼拝説教や聖書研究で説教を聞いたと言っていました。私たち兄弟も、そこで教会生活を始めたのです。

 神学や教理は大切ですが、それを振りかざして、教理の争いをしたり、神学論争になったりして、優越感に浸ってしまうなら、聖書が示す神さまが、聖書が示す救い主が、助け主の聖霊が一番悲しまれるのです。天国には、改革派地区とか、ホーリネス派地区とか、聖霊派地区とかはあるはずがないからです。みんなが、讃美を歌い、溢れる様な感謝と喜びで満ち溢れることでしょう。

(「キリスト教クリップアート」からのイラストです)

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新旧交代

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 「新旧交代」、旧世代の英雄にとっては、悲哀を感じる出来事なのです。今、十六の孫が恋をして、親から、心理的に離れていく様子を遠くから見守っていますが、《親の保護と養育を受けている自分》をしっかり認めながら、その思春期の感情を堅実に持っているのを知らされて、二代前の私は、感謝するばかりなのです。

 3日ほど前に、次女家族からFaceTime があって、アケマシテオメデトウゴザイマス!と孫娘が新年の挨拶をしてくれました。最近は、日本語を勉強している様で、上手な発音でした。その上の孫息子は、『教会の仕事に出かけてるの!』と、そこにいない訳を話してくれました。婿殿もニコニコと話しかけてくれました。

 父母☞子☞孫、世代交代が進んでいるのです。旧約聖書に、レビ記271~7節に、「人身評価」の定めが出ています。

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 『「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。(レビ2728節)』

 モーセの時代の「神からの人の評価」ですが、孫息子16歳ですから〈20シェケル〉、婿殿は〈50シェケル〉、そして私は七十代後半で〈15シェケル〉、家内は〈10シェケル〉なのです。年齢というのは厳然たる数値であって、どんなに若作りしても、鍛えた体を誇っていても、財産を数えても、生きてきた年月は、重く今の一人一人に加えらているのです。

 次期大統領選への出馬を、どうするか考慮中の米大統領も、もう80歳です。第三期目を延長させてしまった中国の主席も、来年は70歳、みなさん引退の時期を過ぎているのに、自己過信か、周りの煽(おだ)てにのせられているピエロなのか、この「人身評価」のご自分を、誤評価しているなら、身の程を弁えなければならないのではないでしょうか。

 今、将棋の世界は、「王将戦」が行われています。ハタチの藤井聡太氏と、52歳の羽生善治の戦いです。平成に台頭してきた羽生現九段は、昭和の名棋士たちを薙ぎ倒して、一人舞台を演じてきました。ところが、令和になって彗星の様に現れた藤井王将は、まさに「世代交代」の主人公で、破竹の勢いで棋界に君臨しています。

 若者の出現に拍手を送りたい思いと、老兵を懐かしくも惜しむ思いとが、心の中でせめぎ合っています。「栄枯盛衰」、英語ですと、“ rise and falls “ と言うそうです。「盛者必衰」とは世のならいなのでしょうか。

 我々世代の川上哲治、息子世代の桑田真澄、孫世代の大谷翔平、スター選手、実権者、親方は、必ず消えていき、新星が昇ってくるのです。貧乏人でも、名門家系の出でなくても、無教育でも、活躍できる分野がありそうです。ただ、次代を担う四人の孫たちが、主を怖れ、主の名を高く上げ、栄光を主に帰しながら、人を愛し、自分たちの人生の馳せ場を、無名で無冠でいい、謙遜に歩んで行って欲しいと願う、巴波川の辺りに住するジイジとバアバです。

(古代ユダヤの「シェケル」です)

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郷愁音

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 空気が澄んでいる、冬場だからでしょうか、東武日光線の踏切の音が、遠くから聞きえてきます。始発電車が走っていく様です。日の出はまだですが、踏切の近くに父の家があって、そこに住んでいた時の情景が思い出されて、それと重なってきます。この音は「郷愁」を呼び覚ます音の一つなのです。

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ことば

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 「子どもは言葉を食べて成長します。子どもの言葉が豊かになるのは、家庭での言葉が豊かであるかどうかにかかってきます。耳で聞く言葉が豊かであるというのは、何より大切なことです。(松居直)」

 一昨日、上の娘から FaceTime があって、 母娘の会話を聞いていました。お母さんの事情で、おばあちゃんが面倒をみている3歳の女の子の世話を、娘が頼まれてしているのだそうです。

 どうも生活習慣が身についていないそうで、自己表現を言葉ですることもできないで、排泄習慣もできていないそうです。きっとサリヴァン夫人が、ヘレンに初めて会った時の様な状況に似ているのかなと思ったのです。もちろんヘレンとは違って三重苦ではなく、言葉を教えられていない様です。

 人の語ることばを必要としているので、話しかけて上げる様に、私は口を挟んだのです。子どもたちは、様々な家庭環境に中で育っています。東京でもホホルルでも、戦時下のウクライナでも、子どもたちは自分の育っていく環境を選ぶことはできません。

 働かなければ食べていけないお母さんたちがいます。躾などする時間的な金銭的な余裕がないかも知れません。一緒にいることもままならず、やむなく母子分離の中で生きている、このお嬢さんが、必要としてるのは、機械を通して耳に届く金属音ではなく、人が口で舌で語る「ことばなのでしょう。

 よくテレビに子守役をまかして、つけっぱなしの中に置かれている子どもたちがいます。それでことばを覚えていくことはありません。お母さんの腕に抱かれ、お母さんの呼吸や胸の鼓動を感じ、語りかけることばで、子どもはことばを覚えるのです。

 私を育ててくれた母のことを思い出しています。私が、お腹にいた時、山形から中部山岳地帯の山奥に、汽車を乗り継いで、父の仕事で、長旅をして越して来たのです。母は27歳でした。戦時下の物資の乏しい中で、育ててくれたのです。イタズラ小僧で病弱でしたから、手を焼かした子であったのでしょう。頭をポカッツと叩かれたことなどありませんでした。弟は、つねられたことがあり、私がそれを一緒にやったと言っていますが、信じられないのです。

 人の悪口を言うことなどありませんでした。交通事故で大怪我をしても、卵巣がんになった時も、弱音を吐きませんでした。グッつと我慢していたのです。父にも四人の男の子にもそうだったのでしょう。

 「ことば」を覚えたのも、話しかけてくれたからでしょう。もちろん戦後の山奥では、絵本などの幼児書籍などなかったのです。高等教育など受けていなかったのに、漢字を知っていて、よく聞くと教えてくれました。聖書を読んでいた人だったのでしょう。『聖書にこう書いてある。』と言って「聖句」を教えてくれたのです。

 恵まれない環境の中で3歳になったお嬢さんに必要なのは、「ことば」です。欠けていることに注目するのではなく、これから学べる可能性を信じて上げることでしょう。自分は迷惑な存在ではなく、『あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』、神が、どの様にご覧になっているかを知らせるのです。喜怒哀楽を表せる感情表現ができて欲しいのです。欠けたるを補うことにできる神がいるのです。

 聞き続けると、蓄積された「ことば」が、語り出されていくのです。だから子どもたちをhappy にさせられる「ことば」を親は、《語って上げること》です。特殊事情の場合は、母の代役として、語って上げることでしょう。一個の人格の尊厳を認めながらです。「キリストの大使」になるかも知れないからです。松居直氏は、「現在は言葉がやせ細っており、言葉を必要としない究極の状態が戦争だ!」とも言っています。ウクライナ戦時下、一方的に語るだけではダメです。「ことば」が引き出される必要があります。

(松居直氏の「福音館書店」が出版した「ぐりとぐら」の表紙です)

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