寒風の中を行く母子

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 『どんな話をしてたか分かる?』と家内に聞かれました。駐車場に向かう二人の後をつけて、Shutter chance を待って、スマホで撮った写真で、今朝、家内が写真を見つけて、話したのです。

 『子ども頃は、お母さんが手を引いて歩いていたのに、今日は、息子にぶら下がって歩いてるいるのが不思議!』とか話していたそうです。話し始めるのが早かった長男が、日頃言っていたのが、あのチーポーチーポー!とサイレンを鳴らして走る、『救急車に乗りたい!』と言うのが、幼い日の子と母の会話の一つだったそうです。

 実家に帰っていた時に、鉛筆を持ったまま転んで、お腹に刺してしまった長男を、あわてて救急車を呼んで、病院に駆けつけたのだそうです。当の本人は、念願が叶ったのでしょうか、痛いのに嬉しそうにして搬送されたのだそうです。幸い内臓には届かないで済んだのですが、痛くても願いが叶うとそんな反応を示したのには、父親の私は、電話で聞いて驚いたわけです。

 もう五十を超えて、髪の毛に、brown hair が目立つようになっている息子を見て、こちらが歳をとるわけだと思った次第です。子どもの進学、入り用の多いこの時期に、一生懸命に本職をしながら、side works もしながら生きているのが素敵です。きっとbusiness man になるのだと思っていたのですが、高校生の頃にお世話くださった牧師さんの影響を強く受けたのでしょうか、伝道者の道を選んだのです。

 パウロは、tent maker をしながら、福音宣教に従った生き方が、最も健全な生き方なのではないかと思って、仕えています。自分が仕えるべき群れの世話のために当たっている今なのです。

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ひとりぼっち

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 『私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。 私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。 私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。 私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。(詩篇10247節)』

 「1980年は700万、2020年は2115万」、この数字の変化は、何の数字だと思われるでしょうか。私の次男が生まれた年が、1980年でしたから、あれから40年が経った時と比較したわけです。わが家は、その頃、六人家族で、寄宿していたみなさんがいた時期には、十人以上が大賑わいで、お米やおかずは大量だったし、洗濯の量だって半端ではありませんでした。

 この数の変化が表しているのは、「一人世帯」、「一人暮らし」の数なのです。今や、単身生活をしている方が、全体の38%を占めているわけです。私が、家に帰ると、『お母さん!』と決まって言うのを近所の方が聞いていて、『大人になってまで、まだあんなことを言ってるんだ!』と揶揄されたことがありました。いつでも母親が家にてくれる安心を確かめたからなのだと思うのです。

 ところが、共働きのお母さんは、家にいないで、お小遣いがだけテーブルの上に置かれてある家庭や、託児所に預けられたりが、だんだんに増えてきて、〈寂しい家庭〉で、〈寂しい子ども〉が多くなり、結局、大勢の面倒くささと、うるささが嫌いになって、〈ひとりぼっち〉の方が落ち着く人が増えてきているのではないでしょうか。

 そう言った傾向が社会に中に見え始めてきて、スーパーやコンビニのコーナーを見ますと、少量パックの惣菜などが売られてきて、にぎやかさが楽しみな鍋や焼肉パーティーに替わって、「一人鍋」や「ぼっち焼き肉」を気軽に楽しめるコーナーが目立っています。時々行きます、回転しない新幹線に乗せられた直行の寿司皿到着の店に、「おひとりさま席」があります。誰かに煩わされなくて、いいのでしょうか。賑やか好きには、〈がっかり会〉のように見えて、気の毒に思ってしまいます。

 この様な今の社会の現象を、「ソロ(solo)社会」と言うのだと聞きました。社会学者がする原因の指摘は、〈若年層の未婚〉、〈中年層の未婚と離別〉、〈高齢層の死別や離別〉の増加だろうと言うのです。

 神さまは、最初の人、アダムと、その妻エバに、『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 (創世記128節)』、『神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 (創世記218節)』と、増え広がっていくことを、人の目的に定めました。そうしますと、神の御心とは違う道に、人は進んで行き、まさに「ソロ社会」化してしまっています。

 人と関わることが、煩雑になり、面倒になって、結婚を願わなくなっているのです。52年の自分の結婚生活をふりかえると、様々なことがありましたが、煩わしさも、また益でしたし、面倒臭さも逃げなかったし、まずまずの及第点でしょうか。リンゴだって分け合って、少しづつ食べるのですが、それこそが家族の触れ合いの良さだったと、思い返します。神を畏れ、人を愛し、和解してきた年月でした。と言うよりが神さまの憐れみかな、と言う今ではないでしょうか。

(某回転寿司の「ひとり席」だそうです)

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玄関と窓を開けろ!

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 このところ地震がないので、『どうしたんだろうか?』と、何だか不思議がっていたり、『大きな地震が起こるにではないか!』などと、いらぬ考えをしてしまいます。続けざまに地震があったら不安になるのですし、ないはないで、次に大きな地震が起きるのではないかと考えてしまう日が続いています。

  7、8年前になるでしょうか、中国メディアの中国建築学会が、日本の建築物の耐震性は非常に高いと伝えていたことがありました。『大地震や津波によっても倒壊しない建物があったからです!』と、驚いたのです。自分の国の建物とは比べ物にならないほど、地震の揺れに強いことに注目したわけです。

 中国の学会が注目したのは、日本の建物の「耐震性」でした。『大地震や津波によっても倒壊しない建物が残されていたのです!』と、驚きを示したのです。そして、『わが国の建築物とは比べ物にならないほどなのです。』と言っていました。

 そればかりではなく、台風にともなう大雨によって、河川が氾濫し、堤防が決壊するなどで、大きな被害が、毎年、日本を襲うのに、それほどの被害が大きくない点にも注目したのです。つまり日本の「防災力」に強さにも驚きを示したのです。被害が特に大きかった県でも、死者が出ているのですが、それでも日本の「防災力」に対する称賛の声が上がり続けています。

 そう言った記事では、日本では建築物の高い耐震性と自然災害に対する高い意識、防災力によって、『災害で失われる命や財産を減らすことに成功しているのです!』と伝え、日本の取り組みは中国にとって非常に参考になると指摘しているのです。

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 そうしますと、1923年9月1日に発生した、あの関東大震災で、明治期に多く建てられた煉瓦で作られた建造物が倒壊したことから、当時の多くの日本の家屋の大半は、「木造」だったわけです。それで耐震性の比較的高い「木造建築」に、中国の学会は注目しています。今は、鉄筋金庫リート作りのアパート群が林立していますが、私たちがいた華南の街には、わずかでしたが木造建築も残っていました。

 昔、建てられた木造建築物は、地震にも耐え、健在のものが存在していましたから、中国の街が、木造建築になるのかと思いましたら、香港に倣ったのでしょうか、鉄筋コンクリートの高層建築ばかりの街になってきています。素人目ですが、耐震構造かどうかが心配でなりません。街中の地下鉄工事の現場で、作られたばかりの二十数階の建物が傾斜してしまっていました。

 土地が狭い日本で、人口の多い日本も、高層ビルが多くなりつつありますが、地震の揺れを構造物に伝えない「免震設計」が取り入れられているわけです。さらに、わが国では、大地震が発生するたびに建築物の耐震基準について見直しが行われ、建築基準法が改正されているには素晴らしいことです。

 『玄関と窓を開けろ!」と、地震のたびに叫んでいた父を思い出して、今でも、地震が来ると、玄関に飛んでいく私なのです。鋼鉄製のドアーが、鋼鉄製の枠の中で動かなくなってしまったら、逃げ道がなくなってしまうからです。飲み水も確保してあります。当座の備えだけは、娘がうるさく言ってきていますので、してあります。「都市保全」は、国土保全と同じように大切なことのようです。

(関東大震災の時の写真です)

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蕎麦恋し

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 母の故郷に行った時に、母の実家の隣の方が、私を、食事に連れ出してくれたのです。この方は、予科練帰りで、戦後、父を頼って、山奥の旧軍の軍需工場で使っていた索道で、木材業を始めた父の所に来た方でした。『準ちゃん!』と呼んでくれ、私も『シゲちゃん!』と慕ったのです。街から山奥の家までの山道を、泣きながら負ぶってくれた方でした。

 このシゲちゃんが、何を食べさせてくれるのかと思いましたら、出雲名物の「割子蕎麦」でした。三つの器に盛られた蕎麦を、「あご(飛魚)」で作った出汁の味付けをした蕎麦つゆに、薬味(青海苔やすった大根やにんじんや削り節など)で食べるのです。

 元は、信州の松本藩の城主であった松平公が国替えで、松江藩の城主になった時に、信州から蕎麦職人を連れて来たのだそうです。それほどの蕎麦通だったわけで、奥出雲などの地で蕎麦の栽培を奨励し、そこで収穫された蕎麦粉で、蕎麦が食べられ始めたのだそうです。

 宍道湖で獲れるシジミの味噌汁を、これに添えたら、まさに「出雲味覚逸品」でしょうか。母の養母の故郷は、現在の雲南市(旧大東村)で、一度だけ訪ねたことがあります。「五右衛門風呂」に入れてもらって、まさに大鉄鍋の湯に、すのこに乗って入浴したのです。薪でわかしたお湯でしたので、薪の匂い、燃える火の匂い、いい気分だったのを思い出します。

 長く過ごした県の山深い地に、キャンプ施設があって、そきが学校の林間学校やキャンプで利用しているのを聞いて、教会学校のキャンプで利用させていただいたことがありました。そこも〈落人伝説〉のある地で、平家の末裔だと、村の人が言っていました。今でこそ、林道が整備され、県道となっているので、車が利用できますが、かつては、他と交流のない、自給自足の社会だったのでしょう。

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 そこで、村のご婦人たちが蕎麦を打ってくださって、ご当地蕎麦を食べさせてもらったのです。出雲の割子に匹敵するように美味しかったのです。蕎麦のお話のついでで、昨年の秋にも、〈出流蕎麦〉を食べに、ここの自治会のみなさんに誘われて行ってきました。新蕎麦ということで、それを聞いただけで、もう美味しかったのです。

 その店主が、福島県下の尾瀬のパンフレットをくださって、『ぜひ訪ねてみてください!』と誘われたのです。写真がご趣味で、店内に掲出されていて、撮られた写真を、個人的に説明してくださったのです。檜枝岐村で、民宿も結構あって、観光村のようです。そこも、平家の落人部落だと言っておられ、蕎麦の名所なのだそうです。

 暖かくなったら出掛けてみたいものです。蕎麦が食べたくなるのは、歳のせいでしょうか。山奥の生活が懐かしいからでしょうか。

(出雲の割子蕎麦と檜枝岐村の春風景です)

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あれから3年なのです

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 寄席の噺に、「三年目」があります。願わない、もう忘れていた死んだ女房が、幽霊になって出て来るのが、この三年目だったのです。どうしてすぐ出てこなかったのかと言いますと、昔は、葬る前にでしょうか、死者を剃髪する習慣があったのだそうで、髪が生え揃うまで待って、愛想を尽かされない様に、出てきたという「落ち」なのです。

 「三年目」と言うと、中国・武漢で発生した新型肺炎について、世界保健機関(WHO)が、『新型のコロナウイルスが検出されました!」と認定され日が、2020年の114日でした。それが日本にも感染が広がって、国立感染症研究所が、日本国内初の感染者を確認したのが、翌日の15日でした。あれよあれよと言う間に、感染が日本中に、そして世界中に拡大してしまいました。

 その前年の暮れには、二人の娘たちが家族で、母親を励ますためにやって来て、正月には、息子たちもやって来て、アパートに溢れる様な子や孫の賑やかさがあったのです。日光市にあるキリスト教系の宿泊施設、オリーブの里に、全員で宿泊し、その日曜日には、全員で礼拝を守ったのです。実に素敵な家族での礼拝に、母親は大喜びでした。そして明治初年に開業した、栃木市の近所の老舗の写真館で、家族写真を撮ったのです。

 その1週間ほど経った頃(114日でした)に、隣国からご夫妻が、手にいっぱいの「山上の垂訓(登山宝訓)」の壁掛けや、漢方の身体によいお土産を抱えて、家内の見舞いにやって来てくれたのです。京都の若い友人も駆けつけてくれて、集会も持ったのです。このご夫妻は、多くの教会のお世話をしておいでの方で、彼の息子さんや婿殿の教会にも、在華中にお邪魔させていただいたこともあったのです。

 コロナ騒動は、その直後に起こったことでした。歯の治療に、日本橋にいた時にお世話になった歯医者に行けなくなったり、行動制限で、ずいぶん狭まった環境の中で過ごした3年だったのを思い出します。

 想いもよらなかった出来事は、買い物に行った時に、『クソジジイ、近づくな、クソジジイ!』と、五十代ほどのおばさんに連発されたことでした。よほど神経質になっていた時期なのでしょうか、呆気に取られていた私に、その店の店員の方に、『あんなこと言われても怒らないのはすごいですね!』と褒められたので、帳消しになったのでしょうか。

 ピリピリ感が、日本中、いえ世界中に張り詰めていた最中でした。それに引き換え、最近では、『コロナ感染症での死者数が最高だ!』と言われても、世の中が平然としてしまっているのが驚きです。〈喉元過ぎれば〉なのでしょうか、これもまたもう一方側の異常な社会心理の様に思えるのですが。

 この騒動の3年が過ぎて、感染症の怖さと、違った新型の感染症に、また怯えるのかと思うと、人の無力さを思い知らされてしまいます。しかし、聖書には次の様に約束が記されてあります。

  『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。(詩篇9113節)』

(訪ねてくださった友人が行って雪を楽しんだ「日光戦場ヶ原」です)

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旧軍隊の実像が

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 中学の時に、映画好きだった私の好きな俳優の一人は、木村功(いさお)でした。彼が演じた「真空地帯(野間宏作)」は、戦後文学の記念碑的な作品で、1952年に映画化されたのです。その映画が、先日、Youtube で、64年ぶりに観ることができたのです。

 この映画は、どこかの名画座で上映されてるのを、初めて観たものでした。戦争が終わる前の年の暮れに、私は生まれたのですが、戦争を知らない私には、戦場ではともかく、軍隊の内務班が、どんな所であったかを知らされた、衝撃的な映画でした。主人公を演じたのが、その木村功でした。

 『#お国のためと言いながら 人の嫌がる軍隊に 志願で出てくる・・・色で固めた遊女でも・・・  』という歌詞の歌を、中学三年の遠足のバスの中で、50人近い男ばかりの同級生、運転手さん、バスガイドさん、そして担任の中で、歌ったことがありました。なぜかと言うと、この映画の最後のところで、木谷一等兵が歌っていたのを、聞きかじりで覚えていたので、調子にのって歌ったのです。

 実に小生意気な中学生であったのを思い返して、穴の中に入りたい様な恥ずかしい思いに、今だにされます。三年間世話をしてくれた担任が、いやーな顔で振り返った視線を覚えています。そんなことを平気でするほど、調子がずれていたのです。クラブの先輩に聞いて、その歌の歌詞の全部を覚えたのです。

 今、ウクライナ戦争の終結を願っている私ですが、戦争を知らない、子や孫たちに、日本が大陸に「王道楽土」」を作ろうとした戦争の裏側を知って欲しく、この映画の解説をここに引いてみます。

 『週番士官の金入れを盗んだというかどで、二年間服役していた木谷一等兵は、敗戦の前年の冬に大坂の原隊に帰っていた。彼は入隊後二年目にすぐ入獄したのですでに四年兵だったが、中隊には同年兵は全くおらず、出むかえに来た立澤准尉も班長の吉田、大住軍曹も全く見覚えのない人々であった。部隊の様子はすっかり変わってた。木谷に対する班内の反応はさまざまであった。彼は名目上病院帰りとなっていたが、何もせず寝台の上に坐ったきりの彼は古年兵達の反感と疑惑をつのらせた。木谷が金入れをとったのは偶然であった。しかし被害者の林中尉は当時反対派の中堀中尉と経理委員の地位を争って居り、木谷は中堀派と思いこまれた事から林中尉の策動によって事件は拡大され、木谷の愛人山海樓の娼妓花枝のもとから押収された木谷の手紙の一寸した事も反軍的なものとして、一方的に審理は進められたのだった。兵隊達が唯一の楽しみにしている外出の日、外出の出来なかった木谷は班内でただ一人彼に好意をもっている曾田一等兵に軍隊のこうした出鱈目さを語るのだった。班内にはさまざまな人間がうごめいている。地野上等兵の獣性、補充兵達の猥褻な自慰、安西初年兵のエゴイズム。事務室要員の曾田は軍隊を「真空地帯」と呼んでいた。ここでは人間は強い圧力で人間らしさをふるいとられて一個の兵隊--真空管となるからだ。或日、野戦行十五名を出せという命令が出た。木谷は選外にあったが、曾田は陣営具倉庫で、金子班の千葉が隣室でしつこく木谷を野戦行きに廻す様に准尉に頼んでいるのを聞き驚いた。金子班長はあの事件の時中堀派の一人として木谷の面倒をみたのだが、今は木谷との関わり合いがうるさかったのだ。木谷が監獄帰りと聞こえがしに云う上等兵達の言葉に木谷は猛然と踊りかかっていった。木谷を監獄帰りにさせた真空地帯をぶちこわそうとする憎しみに燃えた鉄拳が彼等の頬に飛んだ。それから木谷は最後の力をふりしぼって林中尉を探しまわった。彼に不利な証言をした林中尉に野戦行きの前に会わねば死んでも死にきれなかった。ついに二中隊の舎前で彼を発見した。彼の必死の弁解に対し木谷の拳骨は頬にとんだ。やがて、転属者が戦地に行く日が来た。花枝の写真を懐に抱いて船上の人となった木谷に、ようやく自分をきりきり舞いをさせた軍隊の機構、その実態のいくらかがわかりかけてきた。見知らぬ死の戦場へとおもむく乗組員達の捨てばちな野卑な歌声が隣から流れてくる。しかし木谷の眼からはもはや涙も流れなかった。』

 組織、とくに軍隊という組織が持っていた大きな問題を露呈したことは、「戦争放棄」をかざした平和憲法の意味が伝わってきます。でも、このところ〈キナ臭い動き〉がしてきているのを感じてなりません。「国土防衛」、実に重い問題ですが、もうどうしようもなく動き始めています。この映画で、一兵卒を演じた木村功は、とても素晴らしい俳優でした。奥さんを愛した方だったそうです。惜しくもお病気で、58歳で亡くなられています。

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大寒

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 この写真は、「大寒(1月20日)」の前日の朝の三日月です。もちろん、この「二十四節気」は、中国の中原(ちゅうげん/河南省の黄河中下流域地帯)を中心とした地を元に、陰暦に従って定められていますから、日本で感じる季節感には合わないのですが、来週あたり、寒波襲来ですから、今冬の寒さの頂点な今としては、これを実感させられます。

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現代への語り掛けとして

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 下記の文章は、オランダのデジデリウス・エラスムス(14661027日〜1536712日)が、1517年に著した「平和の訴え(Querela pacis)」です。日本では群雄割拠の戦国の世、ヨーロッパの1500年代の初めに、こんな平和思想を主張する器がいたのです。

64 戦争というものがどれほど神を恐れぬものであるか、もっとはっきりと知りたいとお考えなら、戦争を繰るのがいったい何者であるかをよく注意してごらんになるとよろしい。敬虔な君主にとっては、その人民の安全を図ることがなによりも重要な義務だとしたら、まず戦争こそは何よりも憎むべきものとされねばなりませんね。

君主の幸福とは幸福な国民を統治することであるというのでしたら、君主は心から平和を大切に慈しむ義務があります。善良な君主にとっては、最良の国民を支配することこそ望ましいとするならば、戦争を心底から呪わねばなりません。

この戦争からあらゆる不信心の滓(かす)が吹き出してくるのですからね。またもし、国民の富が殖えれば殖えるほど、自分の富も増したことになるのだと考えるならば、君主たるものはあらゆる手段を尽くして戦争を避けねばなりません。

と申しますのは、たとえどれほどうまい結果に終わったにしても、戦争というものは、全国民の財産を消耗し、真面目な仕事によって生み出された財産から、法外な金額を首切りの悪党どもに払ってやることになるからです。

 ここで繰り返し皆さんに考えてほしいと思いますのは、君主たちが並べ立てる戦争のかずかずの理由はご自分の耳には実にもっともらしく聞こえるものであり、また、大勝利の希望はかれらに微笑みかけるのだということです。ところがあにはからんや、しばしばそれは最悪の事態となり、また、これほど正しいものはないと思える理由も的はずれ、ということが珍しくないのですからね。

65  けれども、まあ一歩譲って、まったく正当な開戦理由がある、この上なく上首尾な戦争の結末が得られる、と想像してみましょう。その上で、戦争が行われることによって、すべてのものに、どの位の損害を及ぼすことがあるか、また勝利のもたらす利益が、どれ程になるかを計ってみて、差し引き戦争に勝つということに、どれだけの価値があるかをお考えくださいな。

かつて、流血を見ずに勝利のおさめられた例しがありません。つまり、あなたの国民たちが血まみれになるということですよ。さらに加えて、公衆の風俗や規律の弛緩を計算に入れてごらんなさい。どんな利益もこの損害を埋め合わせることはできないのです。

そればかりか、戦争によって国庫を蕩尽(とうじん)し、民衆をまる裸にし、善人を苦しめ、悪者を乱暴狼藉に駆り立ててみたところで、結局何もかたづきません。いざ戦争が終わってみても、その名残は永く尾を引き、何もかもが、死に眠りに沈んでしまいます。学芸は衰微し、通商は妨げられるのです。

66   敵を締め出そうとすると、まずご自分があちらこちらの国から締め出されれることになる、ということを知っておかれた方がよいでしょうね。君主よ、戦争を始める前は、近隣のすべての国があなたの国も同然だったのです。と申しますのも、物資の自由な交易によって、平和はすべてものを共有するからですよ。ところがごらんください、戦争によってどれだけ多くのものが無に帰することか! 普通ならばあなたを支える大きな力となるはずのものが、今やほとんどあなたの手を離れてしまっているのです。

ちょっとした町を攻略するために、どれほど多くの武器や軍幕が必要なことでしょうか? ほんとうの都市を破壊するには、都市とみまごうばかりの陣営をもうけなけねばなりますまい。それよりも少ない費用でも、立派な都市が新たに建設できるでしょうに。敵をその城塞に閉じ込めて逃すまいとすれば、あなたは遠く祖国を離れて、露営の夢を結ばなければならぬわけです。既にできあがっている町を兵器で破壊するより、新しい町を建設するほうが、その費用はずっと少なくて済むのです。(「平和の訴え」エラスムス著、箕輪三郎訳、岩波文庫版/抜粋)」

(エラスムスのイラストです)

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思い出したこと

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 『しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。(ルカ1228節)』

 田んぼの畦道に、散歩の途中に見つけた花です。真冬に吹く北風を避ける様にして、畦道の内側で、《じっと》咲いている姿は、素敵でした。その健気に、無言に咲く花を見ていて思い出したのは、『ああ、こういうことだったのか!』と言うことでした。

 先生の晩年のクラスに加えてもらって、指導していただいたことを思い出したのです。戦時中、再臨を説く伝道熱心なキリスト教会と、社会主義活動家は、社会の秩序を乱し騒乱に陥れて、国家を転覆する危険性があるとのことで、実に厳しく取り締まりを受けました。嫌疑をかけられて留置や拘置された人たちの中に、この恩師がいました。

 杖を使って足を引きずって歩き、時々神経が詰まるのでしょうか、首筋を伸ばそうとされて、引き攣るようにされておいででした。労働運動や社会の貧困の問題の原因を取り上げて研究や活動をしていたのです。それで思想取り締まりを受け、拘置され拷問で打たれたのでしょうか、弱々しく見えました。

 教えている恩師の目は澄んでいて、いつもにこやかでした。山口県の下関の出身で、戦前には、同じ学校で学んでいますし、在学中に結核になり、退学しています。戦後、そこで教壇にたたれたのですから、同窓の先輩にあたります。「野の花の如く」と色紙に、小さな絵と共に書き添えてくださって、記念にいただいたのです。

 『荒れ野でもいいから、炉に投げ込まれるようであってもいいから、導かれ、置かれた所で、精一杯生きよ!』と言って、社会に出る私たちを送り出してくださったのです。生活苦に苛まれる人々を捨て置くことができない「優しさ」が溢れていた方でした。若い頃に教会に導かれ、バプテスマを受け、教会学校の奉仕をしていたそうです。しかし教会に躓き、出たそうです。

 奥さまが、無教会の説教者の妹さんでしたから、そのグループに属していらっしゃったのでしょうか。ついぞ、信仰上のことを聞かずじまいでした。まさか、やがて私が献身するなど思いもよらない時期だったからです。踏みつけられても、懸命に、至高者で創造者の神さまに向かって咲いている、この野の花を見て、懐かしく思い出してしまいました。

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熊本県

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 伝道者として私を導き、育ててくださったアメリカ人の恩師が、熊本市の阿蘇に近い街で、一年ほど滞在していたことがありました。そこは熊本から阿蘇を通って、大分に至る街道沿いにある旧宿場町でした。今では熊本市のベッドタウンとしての機能を果たし、熊本空港も近くにあります。この方の友人の帰国中に、その教会の留守を申しつかっての滞在中でした。

 結婚したばかりの私は、家内と一緒に、この方を訪ねたのです。彼を慕う中学や高校生たちが、その留守宅に出入りしていていました。阿蘇の麓でキャンプをすると言うことで、私たちも参加しました。それは、私の人生を、大きく変える時だったのです。

 その青年キャンプで、私は初めて説教をしたのです。箴言をテキストにして、「蟻の生き方に学ぶ」と言うことで、小さな生き物の特質を上げて、話をしたのです。宣教師さんからの入門テストでもありました。やっとのことで合格したのでしょうか、次の年に長男が生まれ、この方の新規の開拓伝道の助手として、生きて行く決心をさせていただいた訪問でした。

 今は、その熊本郊外での教会を、私の友人が受け継いでいて、何度も何度も訪ねているのです。隣国からの帰国中に、この友人を訪ね、旧交を温めることができ、2016年にあった、あの大きな熊本地震で崩壊した熊本城の城壁や震源の益城町の被害の惨状の様子を、案内してもらったことがありました。白川に架かっていた鉄橋が落ちたのには、驚かされました。

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 さて、幼い頃から聴き覚えて、意味が分からずに、遠い九州肥後の地で生まれた、「五木の子守唄」を歌った覚えがあります。

1 おどま盆ぎり盆ぎり
  盆から先ゃおらんと
  盆が早(はよ)くりゃ早もどる

2 おどまかんじんかんじん
  あん人たちゃよか衆(し)
  よか衆よか帯 よか着物(きもん)

3 おどんがうっ死(ち)んちゅうて
  誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅか
  裏の松山蝉が鳴く

4 蝉じゃごんせぬ
  妹(いもと)でござる
  妹泣くなよ 気にかかる

5 おどんがうっ死んだら
  道ばちゃいけろ
  通る人ごち花あぎゅう

6 花はなんの花
  つんつん椿
  水は天からもらいみず

 悲しい旋律の歌で、ここに登場する子守りって、今なら「児童労働」にあたるとおっしゃる方もおいでです。貧しい農家の子どもには、大変な時代だったんだと分かったのです。聖書の「申命記」には、『貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。(24:14)』とあり、聖書の神さまは、「弱者」を、強い者たちの「虐げ」から守ろう、保護しようとされるお方なのです。

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 この二十一世紀になって、豊かな経済社会の陰に、「貧困」の問題があることが言われて随分と時が経っています。強者の社会で、弱者が取り残されているのは悲しいことです。それは熊本の球磨地方の五木村だけにあったことではなく、日本全体がそうだったわけで、今もそうなのは悲しいことです。

 熊本は、かつては「隈本」と言う表記だったのだそうですが、漢字が不評で変えられたのだそうです。ここは肥後国の中心で、熊本城の天守閣から眺めると、そのことを納得させられるのです。女の子たちの遊びで歌う「手毬唄」でも、「肥後」が歌詞に出てくるものがあります。

あんたがたどこさ 肥後(ひご)
肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ せんばさ
せんば山には たぬきがおってさ
それをりょうしが 鉄砲(てっぽ)で打ってさ
にてさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉で チョッとかぶせ

 近所の女の子たちが〈マリつき〉をしながら歌って遊んでいたのを、よく見掛けたことがあります。狸が、鉄砲で打たれて、煮たり、焼かれたりして食べられてしまう歌詞は、童歌にしては、残酷な情景が思い浮かべられて、少々怖いのですが、遊びの中で、受け継がれてきたのでしょうか。

 ここには、「熊本バンド」と言われる、御雇外国人教師からキリスト教の感化を受け、多くの青年たちが信仰に導かれた源流の一つがあります。別に、「花岡バンド」とも言います。「バンド/ドイツ語の“ bund ” で、同盟、盟約などの意味を持っています」には、この他に横浜バンド、札幌バンド、弘前バンド、松江バンドなどもあったと言われています。多くの士族出の若者たちが、熊本洋学校の英語教師のジェーンズの信仰的感化を受け、後に新島襄の同志社に転校しています。

 自民党の幹事長などを歴任した、石破茂は、その頃の学生の一人、金森通倫の曾孫にあたります。他のバンドも、多くの若者たちに多大な感化を及ぼした点では似通っています。明治初期に、多くの有名無名の優秀な人材を教会、官吏、学問の分野に送り出した点で、素晴らしい時代だったのです。

 熊本といえば、三十歳の夏目漱石が、第五高等学校(現在の熊本大学)の教授をしていた街で、その滞在期間の経験から、あの名作「草枕」が書き上げられています。漱石は、度々、熊本藩士で、剣道指南をしていて、維新後は民権運動をしていた前田案山子の別邸のある、「小天(こあま/現在の玉名市天水町にあります)」を訪ねています。

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 この前田案山子(かかし)のお嬢さんとの出会いが、その「草枕」の中に描かれているのです。漱石の手で、そのお嬢さんと主人公の画工(えかき)とのやり取りを、幽玄に記しています。文豪と言われる漱石の描写力には、息を飲まされてしまいますが、流石(さすが)に、「明治の文豪」とか、日本語を形作った文筆家とかで、千円札に描かれるに相応しく、筆を振るった漱石です。

 天草に船で渡る、台風時、一番安い旅館を紹介してもらって泊まった晩、台風の襲来で、旅館の窓ガラスが割れて、一晩中、襖を背にして過ごしたのです。台風渦中の体験は、やはり怖かったのを思い出します。

 山の姿が、本州の山と違ってなだらかで美しいのです。その活火山の阿蘇山があることからでしょうか、熊本を「火の国」と呼んでいます。昨年、群馬に出掛けたおり、赤城連山の麓を行くローカル線に乗って見上げた山容は峻厳で、まだ秋だと言うのに、赤城颪が吹き降りて、上州名物の「カラッ風」の冷たさが予感できたのです。ここに掲げた阿蘇山の様子を写した写真が、私は大好きです。

 律令制下、「西海道(現在の福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、熊本、鹿児島の九州7県の地域)」の「肥後国」でした。江戸時代には、細川家の熊本藩、八代と人吉と天草は幕府の勅領でした。熊本藩は、熊本城を築いた加藤清正の加藤家でしたが、出羽国庄内犯に配流された後に断絶しています。細川の殿様の加護で、肥後国のお百姓さんは豊かだったそうで、一揆などの起らなかった藩でした。県都は「熊本市」、県花は、「リンドウ」、県鳥は、「ヒバリ」、県木は「楠(くすのき)」です。

 標準語、ないしは多摩弁の私は、「肥後弁」が聴き心地がよくて、「おいどん」の薩摩弁も男っぽくていいのですが、熊本県人の話しっぷりは素敵だなと思っているのです。時々真似してみますが、ダメだなあと思ってしまいます。

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 熊本洋学校で学び、同志社で学び、そこで受洗した徳富蘇峰は、「国民之友」と言う月刊誌を発行しています。明治の言論界で用いられた人物でした。1887年の発刊から1898年の廃刊まで、11年間刊行されています。平民主義、自由主義、平等主義、平和主義を特徴にしたもので、執筆陣には、内村鑑三、新渡戸稲造、横山源之助、田中卯吉、中江兆民などの知識人がいました。また二葉亭四迷、森鴎外、山路愛山、樋口一葉、泉鏡花なども投稿していたのです。ドストエフスキー、トルストイ、ワーズワースなどの外国の文学も翻訳されて、上掲されていたそうです。富国強兵の国策の背後に、こう言った民間の動きが台頭したことは、特筆に値します。

    熊本の友人を訪ねた時に、「だご汁」と「馬刺し」をご馳走になりました。味噌仕立ての団子、野菜のうどんで、福岡や大分を含む、九州の名物なのでしょうか。とても美味しかったのです。甲州名物の「ほうとう」に似ていて、馬刺しもご馳走で食べられています。

 わが家は、春から秋にかけて、「朝顔」を育ててきています。お隣の国に行っても、ベランダいっぱいに咲かせていたのです。ここ熊本では、「肥後朝顔」の栽培と鑑賞が盛んなのだそうです。昨年あたりから、この朝顔に関心が向いていて、今春は、どうにか咲かせたいものだと思っていますが、世話が難しいのかも知れません。水前寺公園に、その愛好会の事務所が置かれているのは知っていますが、どうなることでしょうか。

(阿蘇山、熊本城、だご汁、肥後朝顔です)

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