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伝道者として私を導き、育ててくださったアメリカ人の恩師が、熊本市の阿蘇に近い街で、一年ほど滞在していたことがありました。そこは熊本から阿蘇を通って、大分に至る街道沿いにある旧宿場町でした。今では熊本市のベッドタウンとしての機能を果たし、熊本空港も近くにあります。この方の友人の帰国中に、その教会の留守を申しつかっての滞在中でした。
結婚したばかりの私は、家内と一緒に、この方を訪ねたのです。彼を慕う中学や高校生たちが、その留守宅に出入りしていていました。阿蘇の麓でキャンプをすると言うことで、私たちも参加しました。それは、私の人生を、大きく変える時だったのです。
その青年キャンプで、私は初めて説教をしたのです。箴言をテキストにして、「蟻の生き方に学ぶ」と言うことで、小さな生き物の特質を上げて、話をしたのです。宣教師さんからの入門テストでもありました。やっとのことで合格したのでしょうか、次の年に長男が生まれ、この方の新規の開拓伝道の助手として、生きて行く決心をさせていただいた訪問でした。
今は、その熊本郊外での教会を、私の友人が受け継いでいて、何度も何度も訪ねているのです。隣国からの帰国中に、この友人を訪ね、旧交を温めることができ、2016年にあった、あの大きな熊本地震で崩壊した熊本城の城壁や震源の益城町の被害の惨状の様子を、案内してもらったことがありました。白川に架かっていた鉄橋が落ちたのには、驚かされました。
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さて、幼い頃から聴き覚えて、意味が分からずに、遠い九州肥後の地で生まれた、「五木の子守唄」を歌った覚えがあります。
1 おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先ゃおらんと
盆が早(はよ)くりゃ早もどる
2 おどまかんじんかんじん
あん人たちゃよか衆(し)
よか衆よか帯 よか着物(きもん)
3 おどんがうっ死(ち)んちゅうて
誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅか
裏の松山蝉が鳴く
4 蝉じゃごんせぬ
妹(いもと)でござる
妹泣くなよ 気にかかる
5 おどんがうっ死んだら
道ばちゃいけろ
通る人ごち花あぎゅう
6 花はなんの花
つんつん椿
水は天からもらいみず
悲しい旋律の歌で、ここに登場する子守りって、今なら「児童労働」にあたるとおっしゃる方もおいでです。貧しい農家の子どもには、大変な時代だったんだと分かったのです。聖書の「申命記」には、『貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。(24:14)』とあり、聖書の神さまは、「弱者」を、強い者たちの「虐げ」から守ろう、保護しようとされるお方なのです。
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この二十一世紀になって、豊かな経済社会の陰に、「貧困」の問題があることが言われて随分と時が経っています。強者の社会で、弱者が取り残されているのは悲しいことです。それは熊本の球磨地方の五木村だけにあったことではなく、日本全体がそうだったわけで、今もそうなのは悲しいことです。
熊本は、かつては「隈本」と言う表記だったのだそうですが、漢字が不評で変えられたのだそうです。ここは肥後国の中心で、熊本城の天守閣から眺めると、そのことを納得させられるのです。女の子たちの遊びで歌う「手毬唄」でも、「肥後」が歌詞に出てくるものがあります。
あんたがたどこさ 肥後(ひご)さ
肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ せんばさ
せんば山には たぬきがおってさ
それをりょうしが 鉄砲(てっぽ)で打ってさ
にてさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉で チョッとかぶせ
近所の女の子たちが〈マリつき〉をしながら歌って遊んでいたのを、よく見掛けたことがあります。狸が、鉄砲で打たれて、煮たり、焼かれたりして食べられてしまう歌詞は、童歌にしては、残酷な情景が思い浮かべられて、少々怖いのですが、遊びの中で、受け継がれてきたのでしょうか。
ここには、「熊本バンド」と言われる、御雇外国人教師からキリスト教の感化を受け、多くの青年たちが信仰に導かれた源流の一つがあります。別に、「花岡バンド」とも言います。「バンド/ドイツ語の“ bund ” で、同盟、盟約などの意味を持っています」には、この他に横浜バンド、札幌バンド、弘前バンド、松江バンドなどもあったと言われています。多くの士族出の若者たちが、熊本洋学校の英語教師のジェーンズの信仰的感化を受け、後に新島襄の同志社に転校しています。
自民党の幹事長などを歴任した、石破茂は、その頃の学生の一人、金森通倫の曾孫にあたります。他のバンドも、多くの若者たちに多大な感化を及ぼした点では似通っています。明治初期に、多くの有名無名の優秀な人材を教会、官吏、学問の分野に送り出した点で、素晴らしい時代だったのです。
熊本といえば、三十歳の夏目漱石が、第五高等学校(現在の熊本大学)の教授をしていた街で、その滞在期間の経験から、あの名作「草枕」が書き上げられています。漱石は、度々、熊本藩士で、剣道指南をしていて、維新後は民権運動をしていた前田案山子の別邸のある、「小天(こあま/現在の玉名市天水町にあります)」を訪ねています。
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この前田案山子(かかし)のお嬢さんとの出会いが、その「草枕」の中に描かれているのです。漱石の手で、そのお嬢さんと主人公の画工(えかき)とのやり取りを、幽玄に記しています。文豪と言われる漱石の描写力には、息を飲まされてしまいますが、流石(さすが)に、「明治の文豪」とか、日本語を形作った文筆家とかで、千円札に描かれるに相応しく、筆を振るった漱石です。
天草に船で渡る、台風時、一番安い旅館を紹介してもらって泊まった晩、台風の襲来で、旅館の窓ガラスが割れて、一晩中、襖を背にして過ごしたのです。台風渦中の体験は、やはり怖かったのを思い出します。
山の姿が、本州の山と違ってなだらかで美しいのです。その活火山の阿蘇山があることからでしょうか、熊本を「火の国」と呼んでいます。昨年、群馬に出掛けたおり、赤城連山の麓を行くローカル線に乗って見上げた山容は峻厳で、まだ秋だと言うのに、赤城颪が吹き降りて、上州名物の「カラッ風」の冷たさが予感できたのです。ここに掲げた阿蘇山の様子を写した写真が、私は大好きです。
律令制下、「西海道(現在の福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、熊本、鹿児島の九州7県の地域)」の「肥後国」でした。江戸時代には、細川家の熊本藩、八代と人吉と天草は幕府の勅領でした。熊本藩は、熊本城を築いた加藤清正の加藤家でしたが、出羽国庄内犯に配流された後に断絶しています。細川の殿様の加護で、肥後国のお百姓さんは豊かだったそうで、一揆などの起らなかった藩でした。県都は「熊本市」、県花は、「リンドウ」、県鳥は、「ヒバリ」、県木は「楠(くすのき)」です。
標準語、ないしは多摩弁の私は、「肥後弁」が聴き心地がよくて、「おいどん」の薩摩弁も男っぽくていいのですが、熊本県人の話しっぷりは素敵だなと思っているのです。時々真似してみますが、ダメだなあと思ってしまいます。
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熊本洋学校で学び、同志社で学び、そこで受洗した徳富蘇峰は、「国民之友」と言う月刊誌を発行しています。明治の言論界で用いられた人物でした。1887年の発刊から1898年の廃刊まで、11年間刊行されています。平民主義、自由主義、平等主義、平和主義を特徴にしたもので、執筆陣には、内村鑑三、新渡戸稲造、横山源之助、田中卯吉、中江兆民などの知識人がいました。また二葉亭四迷、森鴎外、山路愛山、樋口一葉、泉鏡花なども投稿していたのです。ドストエフスキー、トルストイ、ワーズワースなどの外国の文学も翻訳されて、上掲されていたそうです。富国強兵の国策の背後に、こう言った民間の動きが台頭したことは、特筆に値します。
熊本の友人を訪ねた時に、「だご汁」と「馬刺し」をご馳走になりました。味噌仕立ての団子、野菜のうどんで、福岡や大分を含む、九州の名物なのでしょうか。とても美味しかったのです。甲州名物の「ほうとう」に似ていて、馬刺しもご馳走で食べられています。
わが家は、春から秋にかけて、「朝顔」を育ててきています。お隣の国に行っても、ベランダいっぱいに咲かせていたのです。ここ熊本では、「肥後朝顔」の栽培と鑑賞が盛んなのだそうです。昨年あたりから、この朝顔に関心が向いていて、今春は、どうにか咲かせたいものだと思っていますが、世話が難しいのかも知れません。水前寺公園に、その愛好会の事務所が置かれているのは知っていますが、どうなることでしょうか。
(阿蘇山、熊本城、だご汁、肥後朝顔です)
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