ひとりぼっち

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 『私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。 私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。 私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。 私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。(詩篇10247節)』

 「1980年は700万、2020年は2115万」、この数字の変化は、何の数字だと思われるでしょうか。私の次男が生まれた年が、1980年でしたから、あれから40年が経った時と比較したわけです。わが家は、その頃、六人家族で、寄宿していたみなさんがいた時期には、十人以上が大賑わいで、お米やおかずは大量だったし、洗濯の量だって半端ではありませんでした。

 この数の変化が表しているのは、「一人世帯」、「一人暮らし」の数なのです。今や、単身生活をしている方が、全体の38%を占めているわけです。私が、家に帰ると、『お母さん!』と決まって言うのを近所の方が聞いていて、『大人になってまで、まだあんなことを言ってるんだ!』と揶揄されたことがありました。いつでも母親が家にてくれる安心を確かめたからなのだと思うのです。

 ところが、共働きのお母さんは、家にいないで、お小遣いがだけテーブルの上に置かれてある家庭や、託児所に預けられたりが、だんだんに増えてきて、〈寂しい家庭〉で、〈寂しい子ども〉が多くなり、結局、大勢の面倒くささと、うるささが嫌いになって、〈ひとりぼっち〉の方が落ち着く人が増えてきているのではないでしょうか。

 そう言った傾向が社会に中に見え始めてきて、スーパーやコンビニのコーナーを見ますと、少量パックの惣菜などが売られてきて、にぎやかさが楽しみな鍋や焼肉パーティーに替わって、「一人鍋」や「ぼっち焼き肉」を気軽に楽しめるコーナーが目立っています。時々行きます、回転しない新幹線に乗せられた直行の寿司皿到着の店に、「おひとりさま席」があります。誰かに煩わされなくて、いいのでしょうか。賑やか好きには、〈がっかり会〉のように見えて、気の毒に思ってしまいます。

 この様な今の社会の現象を、「ソロ(solo)社会」と言うのだと聞きました。社会学者がする原因の指摘は、〈若年層の未婚〉、〈中年層の未婚と離別〉、〈高齢層の死別や離別〉の増加だろうと言うのです。

 神さまは、最初の人、アダムと、その妻エバに、『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 (創世記128節)』、『神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 (創世記218節)』と、増え広がっていくことを、人の目的に定めました。そうしますと、神の御心とは違う道に、人は進んで行き、まさに「ソロ社会」化してしまっています。

 人と関わることが、煩雑になり、面倒になって、結婚を願わなくなっているのです。52年の自分の結婚生活をふりかえると、様々なことがありましたが、煩わしさも、また益でしたし、面倒臭さも逃げなかったし、まずまずの及第点でしょうか。リンゴだって分け合って、少しづつ食べるのですが、それこそが家族の触れ合いの良さだったと、思い返します。神を畏れ、人を愛し、和解してきた年月でした。と言うよりが神さまの憐れみかな、と言う今ではないでしょうか。

(某回転寿司の「ひとり席」だそうです)

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