下記の文章は、オランダのデジデリウス・エラスムス(1466年10月27日〜1536年7月12日)が、1517年に著した「平和の訴え(Querela pacis)」です。日本では群雄割拠の戦国の世、ヨーロッパの1500年代の初めに、こんな平和思想を主張する器がいたのです。
『64 戦争というものがどれほど神を恐れぬものであるか、もっとはっきりと知りたいとお考えなら、戦争を繰るのがいったい何者であるかをよく注意してごらんになるとよろしい。敬虔な君主にとっては、その人民の安全を図ることがなによりも重要な義務だとしたら、まず戦争こそは何よりも憎むべきものとされねばなりませんね。
君主の幸福とは幸福な国民を統治することであるというのでしたら、君主は心から平和を大切に慈しむ義務があります。善良な君主にとっては、最良の国民を支配することこそ望ましいとするならば、戦争を心底から呪わねばなりません。
この戦争からあらゆる不信心の滓(かす)が吹き出してくるのですからね。またもし、国民の富が殖えれば殖えるほど、自分の富も増したことになるのだと考えるならば、君主たるものはあらゆる手段を尽くして戦争を避けねばなりません。
と申しますのは、たとえどれほどうまい結果に終わったにしても、戦争というものは、全国民の財産を消耗し、真面目な仕事によって生み出された財産から、法外な金額を首切りの悪党どもに払ってやることになるからです。
ここで繰り返し皆さんに考えてほしいと思いますのは、君主たちが並べ立てる戦争のかずかずの理由はご自分の耳には実にもっともらしく聞こえるものであり、また、大勝利の希望はかれらに微笑みかけるのだということです。ところがあにはからんや、しばしばそれは最悪の事態となり、また、これほど正しいものはないと思える理由も的はずれ、ということが珍しくないのですからね。
65 けれども、まあ一歩譲って、まったく正当な開戦理由がある、この上なく上首尾な戦争の結末が得られる、と想像してみましょう。その上で、戦争が行われることによって、すべてのものに、どの位の損害を及ぼすことがあるか、また勝利のもたらす利益が、どれ程になるかを計ってみて、差し引き戦争に勝つということに、どれだけの価値があるかをお考えくださいな。
かつて、流血を見ずに勝利のおさめられた例しがありません。つまり、あなたの国民たちが血まみれになるということですよ。さらに加えて、公衆の風俗や規律の弛緩を計算に入れてごらんなさい。どんな利益もこの損害を埋め合わせることはできないのです。
そればかりか、戦争によって国庫を蕩尽(とうじん)し、民衆をまる裸にし、善人を苦しめ、悪者を乱暴狼藉に駆り立ててみたところで、結局何もかたづきません。いざ戦争が終わってみても、その名残は永く尾を引き、何もかもが、死に眠りに沈んでしまいます。学芸は衰微し、通商は妨げられるのです。
66 敵を締め出そうとすると、まずご自分があちらこちらの国から締め出されれることになる、ということを知っておかれた方がよいでしょうね。君主よ、戦争を始める前は、近隣のすべての国があなたの国も同然だったのです。と申しますのも、物資の自由な交易によって、平和はすべてものを共有するからですよ。ところがごらんください、戦争によってどれだけ多くのものが無に帰することか! 普通ならばあなたを支える大きな力となるはずのものが、今やほとんどあなたの手を離れてしまっているのです。
ちょっとした町を攻略するために、どれほど多くの武器や軍幕が必要なことでしょうか? ほんとうの都市を破壊するには、都市とみまごうばかりの陣営をもうけなけねばなりますまい。それよりも少ない費用でも、立派な都市が新たに建設できるでしょうに。敵をその城塞に閉じ込めて逃すまいとすれば、あなたは遠く祖国を離れて、露営の夢を結ばなければならぬわけです。既にできあがっている町を兵器で破壊するより、新しい町を建設するほうが、その費用はずっと少なくて済むのです。(「平和の訴え」エラスムス著、箕輪三郎訳、岩波文庫版/抜粋)」
(エラスムスのイラストです)
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