私だけが豊かになることは

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  『お金は要りません!』、もう何年も何年も前に、初めて訪ねた隣国でお会いした、一人の伝道者のことばです。まだ、貧しい時でしたが、国は経済成長のために外貨が欲しく、外国人の観光客を呼ぼうとしていた時代だったのです。私の旅行当時は、外国人は、兌換紙幣を使っていて、その後、しばらくして訪ねた時には、残ったその紙幣は紙切れ同然でした。

 聖書や研究書やトラクトを、現地に要請もあって、秘密裏に持ち込もうとしての旅行だったのです。空港に着く最終便でしたから、税関吏も帰りを急ごうと、とてもソワソワしてるのが感じられ、簡単な検閲でした。反面、実に緊張していた私たちには、それは肩透かしだったのです。〈迷信書〉でカバンいっぱいでしたが、無事に持ち込めて、ただ主に感謝したのを思い出します。

 二つ目の訪問先の内陸部の街に着いた時、田舎の汽車の停車場のような空港でした。今は近代的な空港になっている様です。ちょっと目を鋭くした日本人ではと、見間違うほどの顔立ちの民族の方が、空港に溢れていました。ポプラの並木道が延々と続く道を、送迎バスに乗せて頂いて街中に着いたのです。そこで五十前後の方が、優しい目をして迎えてくれたのです。持参した物をお渡ししましたら、大変喜んでくださったのです。

 翌日郊外に連れ出してくださり、パオの中で、交わりをし、民族衣装に身を包んだ踊り手の舞まで観せてくださり、歓迎会を開いてくれました。草原で、馬に乗ったのですが、ちらりと私を見て、初心者だと見抜いた馬は、ソッポを向いて、知らん顔でした。馬丁さんに叩かれて、いやいや私を乗せて歩き始めたのです。

 翌日、その方の家に招かれて、奧さまが作って下さった大ごちそうで歓迎してくれたのです。5人も子どもさんがいて、上の子は二十歳ほどで、下は二歳ほどでした。下の子は、13年間の収容所から帰って来てから誕生したのだそうです。ご家族全員で、賛美を歌って聞かせてくれました。

 『日本人の私たちに、何ができますか?』と聞きましたら、『私だけが、私の働きだけが豊かになるのは願いませんので!』と言う理由で、そう答えられたのです。お子さんたちも大きく、10幾つもの群れをお世話している方で、必要は見えていたのに、そう言われたので驚いたのです。よその国では、献金要請をする人たちが多いのだそうですが、そういったことをしないでw伝道を続けておいででした。

 その代わり、『来てください!』と、この方が言ったのです。それから二つの街を訪ねて、帰国しました。その後、その街で語られた言葉が、何年もの間、時々思いの中に繰り返し、鸚鵡返しの様に聞こえていました。私は、六十になる前に、行こうとしたのですが、道は開きませんでした。『そんな年齢で出掛けても、働きはできないでしょう!』と、その伝道に携わってきた方に言われたこともありました。

 ところが、道が開かれたのです。英語圏の団体が、呼んでくれたのです。それで、13年間、その国に滞在したわけです。帰国する前の年、2018年の秋に、港町の高台にある養老院を、表敬訪問したのです。95歳だと言う、省の西の方の街の出身のご婦人が、ご両親が伝道者で、どんなことをなさっていたかを話してくれました。その方は医者をされて来たそうで、主のために医療で献身されてきた方でした。凛とした、素晴らしい信仰者でした。

 歳を重ねても、社会は変わってしまっても、蒔かれた福音の種は、しっかりと実を結び、輝いた老齢期を生きておいででした。その方と同室の方も、クリスチャンで、帰りに、『これで食事をして、帰ってください!』と、お金を渡されました。かつての軍港の街の食堂で、お連れくださったご婦人お二人と家内と4人で、主に感謝し、老信徒たちに感謝して昼食をとったのです。

(民族楽器の「馬頭琴」です)

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