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1910年(明治43年)1月23日に、辻子開成中学の学生12人の乗ったボートが転覆して、全員亡くなった事故がありました。作詞が三角錫子、作曲がジェレマイア・インガルスで、「真白き富士の根」です。
1 真白き富士の根 緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心
2 ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原
風も浪も 小(ち)さき腕(かいな)に
力もつきはて 呼ぶ名は父母(ちちはは)
恨みは深し 七里が浜辺
3 み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて
月も星も 影をひそめ
みたまよいずこに 迷いておわすか
帰れ早く 母の胸に
4 みそらにかがやく 朝日のみ光
やみにしずむ 親の心
黄金も宝も 何しに集めん
神よ早く 我も召せよ
5 雲間に昇りし 昨日の月影
今は見えぬ 人の姿
悲しさ余りて 寝られぬ枕に
響く波の おとも高し
6 帰らぬ浪路に 友呼ぶ千鳥に
我もこいし 失(う)せし人よ
尽きせぬ恨みに 泣くねは共々
今日もあすも 斯(か)くてとわに
この悲しい歌が歌われ始めた1910年の弥生三月に、私の父は、逗子の隣町、横須賀の海を見下ろす高台にある家で生まれています。そこには海軍の鎮守府があって、その技官の家だったのだそうです。その家が、まだ残されていて、すぐ上の兄と弟で訪ねたのです。
「鎌倉武士の末裔」であることを、父が話してくれましたが、鎌倉の街を訪ねた時も、その府庁への若宮大路を歩いてみた時も、ちょっとsentimental になったようです。きっと父に聞いた「祖」は、そこを歩いてか、馬に跨ってか、参内したのでしょうか。それが、たった一つの、父の自慢でしたが、『いい国作ろう鎌倉幕府!』と言いながら、鎌倉幕府の開府の年号を覚えた「1192年」ですが、800年以上も昔のことは、私には辿りきれないほどに、「おぼろげ」に感じるのです。
その父の街を訪ねた時、叔母と従兄弟に会って、そこでご馳走になった、「お寿司」が美味しかったのです。それだけでは飽き足りなかったのか、次兄がおごってくれた「海軍カレー」も美味しかったですし、父を思い出し、父の生まれた町への親近感からか、父との交わりを懐かしく思い出したのか、「焼き鳥」までご馳走してもらったのです。「どぶ板通り」と呼ばれる道も歩いてみました。どこの街にもある、変哲のない商店街なのですが、父にちなんだ街だという理由で、やっぱり、そきが息子たちの街のようにも感じてしまったのです。
日本海海戦の主艦だった「三笠」が、記念館として係留されていて、東郷平八郎の仕草をした兄が、印象的でした。私たち4人の息子の中で、この兄が、一番の孝行息子で、父ばかりではなく、母の最後まで世話をしてくれたのです。姿格好も、優しさも、父に一番似ているでしょうか。
父の通った小学校も、中等学校も訪ねなかったのですが、行かず仕舞いでした。イタズラできかん気だった父にとっても、《垂乳根の母なる街》だったに違いありません。どうも時々父は、義姉の運転で、古里を訪ねていたのだそうです。父が帰天して、五十年以上も経ってしまっても、父の生まれ育った街も、東京の大森、荏原、浅草、さらに秋田、山形、そして京城、上海、奉天(瀋陽)などの街々を、ゆっくり歩いてみたい思いが、いつもあります。
「真白き冨士の根(嶺)」、「めんこい仔馬」、「櫻井の訣別〜大楠公の歌(楠正成、正行父子)〜」、そして「主我を愛す」など、父の歌っていた声が聞こえてきそうです。行き先や残された時間が少なくなってきているからでしょうか、秋が待ち遠しいからでしょうか、過去に思いが向いてしまう、今日も暑そうな明け方です。
(海上から観た横須賀市の景色です)
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