私の父と同世代の多くの方たちが、〈シベリヤ抑留体験〉をされておいでです。その体験記を、戦後、日本に復員されて、詩で表現したのが、石原吉郎でした。この方の詩に、「麦」があります。

重労働をした帰りに、シベリヤの大地に、麦畑が延々と広がっていたのを眺めたのでしょう。この方にとって、忘れたくも忘れることのできない記憶に残る風景に違いありません。その麦畑の一本の麦が、詩人の目に触れたのです。それを平和になった時に、思い返して、石原吉郎は詩にしたのです。

いっぽんのその麦を
すべて苛酷な日のための
その証としなさい
植物であるまえに

炎であったから
穀物であるまえに
勇気であったから
上昇であるまえに
決意であったから
そうしてなによりも
収穫であるまえに
祈りであったから
天のほか ついに
指すものをもたぬ
無数の矢を
つがえたままで
ひきとめている
信じられないほどの
しずかな茎を
風が耐える位置で
記憶しなさい

このことを“ウイキペディア”は、次の様に記しています。『シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエット連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。ソ連によって戦後に抑留された日本人は約575千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約55千人が死亡した。』

その抑留体験を、石原吉郎は、次の様に回顧しています。

『(シベリア抑留中)作業現場への行き帰り、囚人は必ず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。(行進中つまずくか、足を滑らせて、列外へよろめいた者が何人も射殺された)。中でも、実戦の経験が少ないことに強い劣等感を持っている十七、八歳の少年兵に後ろに回られるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を撃つ程度の衝動で発砲する。』

私たちが住んでいた中部圏の街の家の隣に、同じ様に、シベリヤの抑留をされた方が、住んでいました。戦時中の話になって、パンを多く食べるために、ロシア軍に協力して過ごしたことを、自慢していました。仲間を売ることもした、その人を、若かった私は蔑(さげす)みました。生きるため、生き残るためには、手段を選ばない生き方ほど、頂けないものはないからです。

昭和の時代に、そんな歴史的事実があって、今日の平和な時代を迎えていることも、やはり知っておく必要があるのかも知れません。私の父は、満州の奉天(現在の瀋陽)で、青年期を過ごしています。きっと「ソ満国境」にも出かけたことがあったことでしょう。ここ北関東の麦畑でも、青々と麦が天に向かって、真直ぐに、屈託なく伸びていていました。今や麦穂が、黄金色に変わり、収穫の時期を迎えようとしています。

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黄花

 

 

5月の陽を浴びて、鹿沼に咲く花を、友人が撮影され、ロサンゼルスの郊外で、娘が撮りました。二つとも花が 輝いてますね。最近、黄色い花がお気に入りなのです。先日、長男が置いていったバラも黄色でした。それで思い出したのが、「テキサスの黄色いバラ」という歌でした。1960年代に流行っていました。何と18の時でした。

この歌について、『日本では、1963年4月から放送されたNHK総合テレビ「ミッチと歌おう(Sing Along with Mitch)」で有名になった。この番組は、ミッチ・ミラーが男声合唱団「Mitch Miller and The Gang」を指揮して名曲を歌っていくもので、日曜お昼の音楽バラエティ番組として人気を博した。ミッチ・ミラーの最大のヒット曲としては、この〈The Yellow Rose of Texas テキサスの黄色いバラ〉・・・』と解説されてあります。

テキサスに実在したエミリー・モルガン(Emily Morgan)を、「テキサスの黄色いバラ」と呼んだのでしょうか。彼女はテキサスをメキシコから独立させた人物です。

There’s a yellow rose of Texas
That I am going to see
No other fellow knows her
No other, only me.
She cried so when I left her
It like to break my heart
And if I ever find her
We never more will part.

テキサスの黄色いバラ 会いに行くんだ
仲間は誰も彼女を知らない 僕だけの秘密
別れのとき 彼女は泣いた
胸が痛んだ
もう一度会えたときは
僕は二度と彼女を放さない

 

 

She’s the sweetest rose of color
A fellow ever knew
Her eyes are bright as diamonds
They sparkle like the dew.
You may talk about your dearest May
And sing of Rosa Lee
But the Yellow Rose of Texas
Beats the belles of Tennessee.

彼女は甘美なバラ 仲間も一番と認める
瞳はダイヤモンドのように輝き
朝露の如くきらめく
君の親愛なるメイとローザ・リーの歌も
テネシーの鐘も彼女には敵わない

Oh, now I’m going to find her
For my heart is full of woe
And we’ll sing the song together
That we sung long ago
We’ll play the banjo gaily
And we’ll sing the songs of yore
And the Yellow Rose of Texas
Shall be mine forevermore

彼女を探す僕の心は悲しみに満ちる
昔歌った歌を一緒に歌おう
楽しくバンジョーを鳴らして 懐かしい歌を歌おう
テキサスの黄色いバラ
彼女は永遠に僕のもの

これは、青年期の歌の一つです。

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日本に帰って来て、北関東の一劃で生活を始めて、感謝することが多いのに気付かされます。その感謝の一つは《水》です。水道の栓を開くと、ふんだんに水が流れ出てくるからです。華南の街の上水道も、豊富な水が出て来ますが、硬水ですから、そのまま飲むことができません。浄水器を使って、沸かして飲む様にしているのです。

しかも、時々断水するのです。2日ほど出ないこともあるのです。ある時、〈断水〉との掲示を見落としたことがあって、水の貯め置きをしないで困っていましたら、隣家のご主人が、大きなペットボトルに入った水を、三本も下さったことがありました。自分の家でも必要なのに、断水の予告を見落としていたわが家のために、わざわざ下さったのです。

大きなショッピングモールの近くに、しばらく住んでいた頃、上の家も下の家も、その下の家も、事あるごとに、物のやり取りがありました。季節季節に食べる団子や饅頭や果物、旅行帰りのお土産、家で焼いた餅(bing)などです。今の日本では、なかなか隣近所と、そんな物のやり取りする風習が少なくなって来ているのに、外国人の私たちを、隣人扱いの交流をして、親切の助け舟を示してくれるのです。

中国のみなさんの家に招かれた時、驚いたことがありました。食器を洗った洗い水を、大き目のバケツに溜め置いて、石製の床の掃除や、トイレの流し水に再利用していたのです。日本の様に、水に恵まれた国では考えられないことで、水が、それほど貴重なのだということを知らされたのです。どこの家でもそうなのかは分かりませんが、一般的にそうらしいのです。

先々週、お見舞いに来てくれた留学生の青年が、食後、夕食から次の日の朝、昼の皿洗いをしてくれました。蛇口をひねって、細く水を出しながら、無駄なく水道水を使っていました。私が、そう言ったわけではないのですが、こんな気を使った客人、24歳の若者は珍しかったのです。お母様は漁村の出身で、殊の外、真水は貴重だったのでしょう。

それにつけても、ある学習会の折、食後に皿洗いを当番でしていました。その食後の当番の方が、水を勢いよく出しながら、横を向いて、手を止めて話をしていました。その家のアメリカ人の主人が、そっと後ろから手を回して、蛇口の栓を閉めて、流れ出ている水道水を止めたのです。水道代の問題というよりは、これも水の貴重な国で育った方の限りある資源への思いやりなのでしょう。

ことばで叱ったり、注意しないで、そっと知らぬ間にとった行動が素晴らしかったのです。その学習会で学んだことの内容は、みんな忘れてしまったのですが、そうされた方の人柄と配慮と行いは、何十年経っても、いまだに鮮明なのです。

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願い

 

 

世界の平和を願って

                                                                  敬宮 愛子

 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれることなんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。

 青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。

 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。

 写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。

 そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。

 最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。

 その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。

 私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。

 平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。

 原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。

 平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。

 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の世界の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。

 そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。

 「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている。」

Source: 毎日新聞

http://mainich.jp/articles/20170322/mog/00m/040/003000c…

(被爆後の原爆ドームです)

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日々

 

 

「落ちこぼれ」茨木のり子

落ちこぼれ
和菓子の名につけたいようなやさしさ
落ちこぼれ
いまは自嘲や出来そこないの謂(いい)
落ちこぼれないための
ばかばかしくも切ない修業
落ちこぼれにこそ
魅力も風合いも薫るのに
落ちこぼれの実
いっぱい包容できるのが豊かな大地
それならお前が落ちこぼれろ
はい 女としてはとっくに落ちこぼれ
落ちこぼれずに旨げに成って
むざむざ食われてなるものか
落ちこぼれ
結果ではなく
落ちこぼれ
華々しい意志であれ

女性の強さ、いえ、『女であるからこそ、強く生きなければならない!』、そう言った決意を感じさせる詩ではないでしょうか。行くのが好きな学校に〈行けない〉、みんなが学んでいるのに〈学べない〉、日柄、敷かれた布団の上で、天井を見つめて、節穴に吸い込まれそうに、眩暈(めまい)を感じながら過ごしてたのを思い出します。

母につけてもらったラジオから、「名演奏家の時間」のクラシック音楽の曲が流れていました。「昼の憩い」の地方の知らない街や村の通信員の報告、「尋ね人の時間」の消息を問う案内、三遊亭金馬の「落語」、広沢虎造の「次郎長伝」、そんな番組を、微熱でウトウトしながら聞いていた日々がありました。

まさに「落ちこぼれ」の小学校の前半期でした。元気になって学校に行くと、体力もないのに、じっと座っていられなくて、級友たちにちょっかいを出すのです。それで教室の後ろや廊下や校長室に立たされたりしていて、『ちっとも落ち着きがない!』というのが、学期ごとの通信簿の所見でした。

たった一度、褒めてくれたのが、おばあちゃんの内山先生でした。祖母を知らない私にとっての初めての老人でした。退職前だったのか、子どもの目に老人に見えたのでしょう。病欠児で、学習遅延児で、落ちこぼれの私の最高に輝かしい唯一の記憶なのです。小四の何時頃からでしょうか、健康が回復し、父や兄ゆづりの運動神経で、跳び箱なんかで、『おい、広田、跳んでみせろ!』と担任に言われて、試技をするほどになっていったのです。

生きていれば、誰にも可能性にあることが証明されたのです。自信も湧き上がってくるし、『生きていていいんだ!』と思えるのです。それって「華々しい意思」なのでしょうか、ね。

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Angel’s trumpet

 

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今頃の季節、以前、私たちが住んでいた教員住宅の庭の崖に、この「天使のラッパ(Engel’s trumpet)」が、綺麗に咲き始めていました。まるで、地上の隅々まで、驚きのニュースを告げ知らせるかの様に、いっせいに鳴り渡るのではないかと思わせる様に咲いていました。

あの花を、大陸の街の崖淵で、初めて見て圧倒された私は、季節ごとに見たいばかりに、そこに住み続けていたかったのですが、水が湧き出る様な、崖の斜面に、家が位置していて、湿気が強く、暑くなると虫が出るので、どうしても越して来てしまったのです。そんな場所だったので、そんなに魅了する様な花が咲いていたのかも知れませんが。

この花は、別名、「朝鮮朝顔」とも言うそうです。根などには麻酔成分があって、江戸期の外科医の華岡青洲が、外科手術に際に、世界で初めて全身麻酔の麻酔薬の8割を、この植物を用いて作ったと言われています。この花は、当時、「曼荼羅華(まんだらげ)」と呼ばれていました。それで、日本麻酔科学会のシンボルマークに、この花がデザインされています。

先代のご両親が、お作りになって、今は手入れが行き届かない庭園なのですが、切られた枝木から、若芽が出てきて、雑草にも花が開き始めています。朝顔を、華南の地の6階のベランダで、しばらく育てて、鑑賞を楽しんできたのですが、今年は、種蒔きを家内はするのでしょうか。そんな《元気》が湧き上がる様に願っている、昼前です。

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先月の末に、強い雨と雹が降った日(4月28日)がありました。駐車場の屋根を、その雹が強く叩いていました。その雨の降った後に、虹が出たのです。それを次男が、母親を見舞って帰りしなに、スマホで撮って、送信してくれたものです。両毛線と東武日光線の高架の上に出たものをです。なんだか久しぶりに虹を見たのです。

洪水物語の中に、大雨と出水と洪水が止んで、同じ様に全地の上に、この虹が出たことが記されています。どんなに大雨が降っても、もう洪水で地を打つこちはないとの約束のしるしなのです。あんなに綺麗な虹を見たのは、 初めての様でした。生き残った人だけが見ることを許されたわけです。

いつでしたか、半円球ではなく、全円球の虹を見たことがありました。あまりの素晴らしい光景だったからでしょうか、どこで見たかを忘れてしまったほどでした。多分中国の華南の街から、海辺に車で行く時だったと思うのですが。若い友人が、けっこう無茶な走りをしていていました。その虹を見て、洪水ならずとも、輪禍がこわかったのですが、事故の危険を免れそうで、なぜかホッとしたのが昨日の様です。

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今日は、「立夏(りっか)」、二十四節気の一つです。暦の上では、今日から夏と言うことになります。

先週、一人のお父さんが、この秋に、東京の国際学校の中学に入学するための準備をしているお嬢さんを連れて、家内をお見舞いに来られました。私たちの中国滞在を、様々な面で、助け続けてきてくださっている方です。華南の街で、手広くパンの店と、パンの製造機器や原材料を扱う会社を経営されておられる方です。

昨秋、この方は、お母様を病で亡くされ、私たちも告別式と埋葬式に参列したのです。お父様も既に召されておられ、東シナ海を遠望する小山の中腹の墓所に、お母様は埋葬されたのです。大きな墓所で、家内と私に、『まさかの時に、ここに一緒に納骨しましょう!』と、微笑みながら勧めてくれました。それほど好意を示してくださる方です。

病んで闘病されていたお母様を、その村や、この息子さんの家に滞在中に、家内と私は訪ねました。家内は、よく患部をさすって上げたりしていていたのです。ご自分の母親への家内の愛を、彼はとても喜んでおいででした。先日、面会ができる様になった旨、息子さんに連絡をしましたら、来日されて、電車に乗ってやって来てくれたのです。

奥様は、入院当初に、息子さんとお嬢さんとで、家内を見舞いに来てくれましたが、インフルエンザの流行で家内に会うことができませんでした。大きな愛と敬意をお示しくださるご家族なのです。彼は、近くのスーパーにお嬢さんと出かけて、家内の好物のそうめんや果物、お米、お昼の弁当まで買って来てくれました。

お帰りになる時に、家内にハグして、涙を流して泣いて祈ってくれたではありませんか。まるで自分の母親にする様にして、男泣きしてでした。病んで回復途上で元気になっている家内に、『華南の街に帰って来て下さい!』と言ってくれたのです。素敵なお見舞いを受けて、家内はとても喜んでいました。

(この方のふるさとの「百胜村」の海辺です)

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どだい無理でした。四十数年前に建てられた、この家には、各部屋に時計があります。ここには、もう一つの玄関があって、そこに手巻きの柱時計があり、四つの居室や台所には、それぞれに凝った時計が架けられています。住まなくなってから何年になるのでしょうか、電池交換をされていない時計が、その時刻のままです。

『電池交換をしたら動くかも?』と、お見舞いに来られた若き友人に言われて、先週近くのドラッグストアーで、〈単2〉の電池を買って、家に帰ってから、台所兼食堂の壁の時計の電池を交換してみました。淡い期待があったのですが、奇跡は起こらず、ピクリとも動かなかったのです。

2年前に、腱板断裂でしばらく動かさなかった肩は、筋肉がすっかり衰えていました。長いリハビリと、療法士の方に言われる通りの自主トレをして、やっと、回復することができました。あんなちっぽけな電気時計が、十数年も動かなかったのに、急激にエネルギーを注入しても、ウンとも動かないのは当然です。

人間も、一度挫折や失敗をして、心が打撃に見舞われてしまうと、なかなか、やる気を出せなくなってしまう様です。もともと失敗だらけの私は、免疫ができているのか、抵抗力が強かったのか、挫(くじ)けることなく生きて来れました。これって、けっこう父や母譲りなのかも知れません。

『校長室に立たされた!』と、そんな経験を話すと、一度もそんな経験のない人には、羨ましがられるほどです。一人立つには、30cmほどの場所があれば、十分です。自分専用の部屋を欲しがったこともありませんでした。自分の名札のかかった家も欲しいと思ったこともありませんでした。何もないまま年を重ねてしまいましたし、昇進も挫折も左遷も、関係ない人生を歩んで来たんだと思い返しています。

『三十代で自分の家を建てました!』と言う人と何人か会ってきました。『別荘を持っているんです!』と誇らしげに語る人がいましたが、羨ましかったり、妬ましかったらいいのですが、そんな願いのない自分で、『いいのかな?』と思ってるのです。

男五尺の身体を横にするには、畳一畳もあれば十分です。そう言えば、『また畳の上で生活してみたいなあ!』と、華南のコンクリートの硬い石の床の上で生活していた時に、ふと呟いたことがありました。ところが、今、六畳間の畳の上で寝起きする夢が叶えられているのです。家内は14畳もある洋室で寝起きしています。ここは障子も襖も廊下もある和室なのです。

小さな夢が、家内のお蔭で叶えられて、実現したことになります。穏やかで静かで、平和な朝、畳の上で目覚めました。この新しい日に、新しい期待と新しい興奮とをもって生きたいと願っております。

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