暑気払い

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入道雲

 きのう昼前に、友人から電話があり、街中の一つのバスターミナルで会うことにしました。そこは私たちのアパートの脇にあるバス停から一本で行けるのです。全国展開のモールが開店したおかげで、4系統しかなかったバス路線が、10系統以上になり、まだまだ増えそうです。もしかしたら、一番便利な場所になりつつあるのかも知れません。私たちの周りには、建設中のアパート群が数えきれないほどあり、その他にも建設する土地が広がっていているのですから、町の中心部から郊外の地に、引越してくる人々が増えてきそうな勢いです。しかも、地下鉄の開業も予定されていて、将来は、「市政府」も移ってくると言われているのです。

 さて、バスに乗り込んだのはいいのですが、空調(エアコン)が効きすぎていて、クシャミが出てしまいました。いちばんの問題は、外気との温度差が大きいことです。こんな低い温度の中を、一日中運転する方が、何となく気の毒な感じがしてしまいました。終点に着いて、キョロキョロと見回していたら、家内を見つけて友人が声をかけてくれました。この友人と、どこへ行ったのかといいますと、実は「◯小媽」という店に、水餃子を食べに行ったのです。手作りで、この町一おいしいのです。それで、お互いに家に行き来をしないときは、最近、ここに行くことにしているのです。

 そうこうしていましたら、別の友人から電話が入り、『いっしょに食べませんか!』と誘って、結局そのかたと友人と、都合五人で、真夏の昼食に、一人一皿20個の水餃子を食べてしまいました。みじん切りのにんにくに酢と醤油と唐辛子のペーストになったものでタレを作り、それに付けて食べるのです。一般的に、小麦粉の料理は、北の方の食べ物ですが、華南の地でも餃子や麺類の料理は多いようです。「暑気払い」には、これがいちばんですね。もちろん冬にも、白く息を吐きながら食べるのですが、夏でも冬でも、春でも秋でも、四季を通じて、実に美味なる食べ物です。帰りには、冷凍にされたものを、饅頭と一緒に買って持ち帰りました。

 帰ってきてから、散歩の帰りに買った「西瓜」が冷えていましたので、冷蔵庫から出して食べたのです。夏には食欲が減退すると言われていますが、家内も私に負けずに、20個の餃子を食べきって(実は一個だけ、そっと私が食べてしまいましたが)しまい、まだ欲しそうな顔をしていました。バスターミナルから、炎天下をだいぶ歩いたのですが、大丈夫でした。手術後、弱気になっていた彼女ですが、元気を恢復してきているのは感謝なことであります。帰りは、後からやってきた友人が、車で家まで送ってくれました。

 北海道でも、アメリカでも、例年になく暑い夏だと聞きますが、私たちは、こんな夏、こんな夏休みを過ごしております。ご安心下さい。

(写真は、「入道雲」とも言われる夏の風物詩の「積乱雲」です)

人の優しい気持ち

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山西刀削面

 こちらに生活をしていますと、見ず知らずの外国人の私たちに、多くの人たちが親切に接してくれるのです。例えば、階段や道で会いますと、『吃飯了没有?』と話しかけてくれます。これは、『飯を食ったか?』という意味で、実際に、ご飯の心配をしてくれていると言うよりは、日常の挨拶言葉で、日本人の私たちが、日常的に使っている『こんちは!』なのです。それでも、『食べてない!』と答えたら、『食べてかないか!』と声をかけてくれそうな感じがしてしまいます。時々、『お節介!』と思うこともありますが、お互いの距離がとても近いのです。この社会は、そうやって助け合って生きてきた伝統があるのだろうと思うのです。

 「新華網」、2013年1月27日の記事に、この様な記事が掲載されていました。河南省鄭州市で、癌にかかってしまった「刀削面店(ラーメン)」の主人が、『ラーメンを食べに来てほしい!』と呼びかけた所、多くの人が、このラーメン店に食べに来ているのだそうです。

 このラーメン店の主人の李剛(リー・ガン42歳)は、数日前、ネット上で、『私は悪性腫瘍である骨肉腫にかかっていることが分かったのですが、手術代が用意で きないのです。妻が店を切り盛りしているので是非食べに来てほしい!』と書き込んだのです。その実直なものいいが、人々の心に届いて、この記事が拡散していったようです。とくに若い人たちが、わざわざ食べに来ているのです。

 そのお店は、郊外の目立たないところにあり、しかも4人が腰掛けるテーブルが8つしかない小さな店なのだそうです。ネット上で話題になっていることから、連日多数の客がつめかけています。『手術代の足しに!』と100元を、奥さんに渡したりしているそうです。また、『おつりはいりません!』と言って帰る客がいたり、あるお客は、店のお手伝いまでしているのです。人々気持ちがやさしいのでしょう。

 「美談」ではないでしょうか。ベタベタした人間関係はみられないのですが、いつも誰かの心配や気遣いをしながら、みなさんが生きているのです。とくに、この「華南の地」の庶民の人情は、こういった傾向が見られるようです。気取っている日本の隣近所とは違うのです。しかし、以前の日本の近所付き合いは、この町と似ていたと思います。門構えなどなかった家に住んでいた、ごく普通の父の家では、『おい、雅、これ隣りに持っていけ!』と言って、父が持ち帰ったお土産を、「おすそ分け」したのです。「語源由来辞典」によりますと、『もらった品物や利益を他の人に分け与えること。お福分け。御裾分け。』とあります。

 『月末に上海に行きます!』といったら、上海に、ご両親のおられる一人の学生さんが、『友だちと一緒に、虹橋駅で先生を出迎えますので!』と言ってくれました。アジア最大の都市・上海に行くのに、これまでは長距離バスを利用していましたが、「危険」と『到着時間にやきもきする!』という理由で、今回は、「動車(中国版の新幹線)」に乗ることにしたのです。道不案内の私への優しい気持ちなのです。そう言ってくださったので、『じゃあ、よろしくお願いします!』と返事をしました。ちょっと楽しみな月末です。

(写真は、山西省で有名な麺類、「刀削面」です)

涼感!

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「海と波」

 暑さをあらわすことばに、「酷暑」、「猛暑」、「炎暑」などがあります。この他に、「炎帝(中国の故事に出てくる夏を司る神なのだそうです)の猛威」といった表現があるようです。今年は、夏になる前に、冷たい雨が続いていましたので、『今年は冷夏なのだろうか?』との私的な心配をよそに、連日の「炎暑」の今日この頃です。私たちの子どの頃には、空調とか扇風機とか冷蔵庫がありませんでしたしが、『暑い!』といったことを感じた記憶がないのですが、みなさんはいかがでしょうか。

 アパートの5階から通りを見下ろしますと、上半身裸の男性が、自転車やリヤカーを引きながら通りを往来する姿が、何人も見られます。また、シャツをまくりあげて、お腹を丸出しで歩いている方もおいでです。さらには、木陰の石畳の上に、裸で寝込んでいる人もいるのです。いつでしたか、雨降り後の水たまりに、お腹をつけている「犬」を見たことがあって、『何と賢いのだろう!』と感心してしまったことがありました。何しろ、この街の下には温泉の水脈があって、地熱を下からの上げているのですから、どれほどかがおわかりかと思います。

 そんな暑さの中をバス停からバスに乗り込みますと、今度は、ものすごく車内が冷えていて、汗をかいた背中がスーッと冷たくなったりして、その温度差に、なかなかついていけないほどなのです。どんなに夏が好きでも、「炎帝の猛威」には、ほとほと参った感がいたします。『今頃、北海道や信州は、涼しいだろうなあ!』と羨ましく思ってしまうのは、私だけではないようです。

 今日、書類を整理していましたら、「安禅は必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」と、父が記したメモが出てきました。右肩上がりの特徴的な筆跡を眺めていたのですが、この詩は、中国の後梁(こうりょう)の時代(六世紀)の「杜筍鶴(とじゅんかく)」が、詠んだものだと言われています。 いつでしたか、アメリカ人の英語教師に、『禅寺に一緒に行って下さいませんか!』とお願いされて、いっしょに出かけたことがありました。その住職から禅に関する書物や物をもらったのですが、『それらを返したいので!』といったのです。神秘的な東洋の宗教に憧れて門を叩いたのですが、改宗した彼には、その贈り物が重荷だったのです。

 この方にお会いして、彼が自分の気持の変化を話し始めたら、その若い住職は、烈火の如く怒り始めたのです。怒りを表した人とは何度も出会ったことがありますが、彼の怒りはその最右翼でした。『この人はまだ修行が足りないな!』と結論して、怒りの収まらない彼を残して、帰ってきたのです。いったい私の父は、「心頭滅却」の境地に至ったのでしょうか。至らなかったので、父もまた改宗してしまいました。「火」のような暑さを解消するには、涼をとる以外にありません。なぜなら、「暑さ」は、物理的で生理的なものだからです。精神的には涼しくならないに違いありません。ところが、私がだらだらと汗を流しているのに、涼しい顔をしている人が時にはおられるのには驚かされています。

 来週は、バスに乗って海に行ってみようかと思っています。バスターミナルから二度乗り換えると、海に行けるからです。海岸線が長くて広い浜辺で、海水に足をつけたら、きっと涼感を満喫できるのではないでしょうか。その前に、明日はスイカを買ってきて、冷蔵庫で冷やして、食べようかなと思っています。食欲がなくならないのは、健康な証でしょうか。ご安心下さい。

(写真は、「海と波」です)

「二つの悲しみ」

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「バギオ」

         二つの悲しみ        杉山竜丸

 これはわたしが経験したことです。
 第二次大戦が終わり、多くの日本の兵士が帰国してくる「復員」の事務についていた、ある暑い日の出来事であった。
 わたしたちは、毎日毎日訪ねてくる人々に、『あなたのご主人は亡くなった。』、『死んだ、死んだ。』と伝える苦しい仕事をしていた。留守家族の多くの人は、ほとんどやせ衰え、ぼろに等しい服装が多かった。
 あるとき、ずんぐり太った、立派な服装をした紳士が隣の同僚のところに来た。隣は、ニューギニア派遣の係であった。その人は、
 『ニューギニアに行った、私の息子は、』と、名前を言ってたずねた。
 友人は、帳簿をめくって、
 『あなたの息子さんは、ニユーギニアのホーランジャで戦死されておられます。』
と答えた。
 その人は、その瞬間、目をかっと開き、口をぴくっと震わして、黙って立っていたが、くるっと向きを変えて帰っていかれた。
 人が死んだということは、いくら経験しても、また繰り返しても、慣れるということはない。言うことも、またそばで聞くことも、自分自身の内部に恐怖が走るものである。それは、意識以外の生理現象である。友人は言ったあと、しばらくしてパタンと帳簿を閉じ、頭を抱えた。
 わたしは黙って便所に立った。階段のところに来たとき、さっきの人が階段の曲がり角の踊り場の隅の暗がりに、白いパナマ帽を顔に当てて、壁板にもたれるように立っていた。瞬間、わたしは気分が悪いのかと思い、声をかけようとして足を一段階段に下ろした。そのとき、その人の方がブルブル震え、足元にしたたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。
 その水滴は、パナマ帽から溢れ、滴り落ちていた。肩の震えは、声を上げたいのを必死にこらえているものであった。どれだけたったかわからないが、わたしはそっと自分の部屋に引き返した。
 次の日、久しぶりにほとんど留守家族が来ないので、やれやれとしている時、ふと気がつくと、わたしの机から顔だけ見えるくらいの少女がちょこんと立って、わたしの顔をまじまじと見つめていた。
 わたしが姿勢を正して、何かを問いかけようとすると、
 『あたし小学校三年生なの。お父ちゃんはフィリッピンに行ったの。お父ちゃんの名は、◯◯◯◯なの。家にはおじいちゃんとおばあちゃんがいるけど、食べ物が悪いので病気して、寝ているの。それで、それで、あたしに、この手紙をもってお父ちゃんのことを聞いておいでというので、あたし来たの。』
 顔中から汗をひたたらせて、ひと息にこれだけ言うと、大きく肩で息をした。
 わたしは黙って、机の上に差し出した小さい手から葉書を見ると、復員局からの通知書があった。住所は東京都の中野であった。わたしは帳簿をめくって、氏名のところを見ると、フィリッピン諸島の一つ、ルソン島のパギオで戦死になっていた。
 『あなたのお父さんは・・・・・・・・・・』
と言いかけて、わたしは少女の顔を見た。
 やせてまっくろな顔、伸びたおかっぱの下に切れの長い目をいっぱいに開いて、わたしの唇を見つめていた。私は少女に答えねばならぬ。答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精いっぱい抑えて、どんな声で答えたかわからない。
 『あなたのお父さんは戦死しておられるのです。』と言って、声が続かなくなった。
 瞬間、少女は、いっぱいに開いた目をさらにパッと開き、そしてワッとべそをかきそうになった。涙が目にいっぱいにあふれそうになるのを必死にこらえていた。  
 それを見ているうちに、わたしの目に涙がふれて、頬を伝わり始めた。わたしのほうは声を上げて泣きたくなった。しかし少女は、
 『あたし、おじいちゃまから言われて来たの。お父ちゃまが戦死していたら、係のおじちゃまに、お父ちゃまの戦死したところと、戦死した情況、情況ですね、それを、書いてもらっておいでと、言われたの、』
 わたしは黙ってうなずいて、紙を出して書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にぽたぽた涙が落ちて書けなくなった。
 少女が不思議そうに、わたしの顔を見つめていたのに困った。やっと書き終わって封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手でポケットに大切にしまい込んで、腕で押さえて、うなだれた。涙一滴落とさず、一声も声を上げなかった。肩に手をやって、何か言おうと思い、顔をのぞき込むと、下唇を血が出るようにかみしめて、かっと目を開いて肩で息をしていた。わたしは声を飲んで、しばらくして、
 『お一人で帰れるの。』と聞いた。少女はわたしの顔を見つめて、
 『あたし、おじいちゃまに言われたの、泣いては、いけないって。おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。だから、行けるね、と何度も何度も、言われたの。』
と、改めて、自分に言い聞かせるように、こっくりと、わたしにうなずいて見せた。
 わたしは体中が熱くなってしまった。帰る途中で、わたしに話した。
 『あたし、妹が二人いるの。お母さんも死んだの。だから、あたしがしっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけなんだって。』
 小さい手を引くわたしの頭の中を、その言葉だけが何度も何度もぐるぐる回っていた。どうなるのであろうか。わたしは一体、何なのか、何ができるのか。  
 戦争は、大きな大きな何かを奪った。悲しみ以上の何か、かけがいのないものを奪った。
 わたしたちは、この[二つの悲しみの出来事]を読んで、何を考えるべきだろうか。何をすべきだろうか。
                    (光村図書刊「中学三年・国語」所収のエッセーです)

(写真は、少女のお父さんが亡くなったルソン島の「バギオ市」の現代の様子です)

『いけいけどんどん』

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「鹿鳴館」

 庶民には、「高嶺の花」と言われていた、「帝国ホテル」に、一度だけ泊まったことがあります。いえ、正確にいますと、『泊まらせていただいた!』というべきでしょうか。都心で行われた会議に出席を予定していた私に、知人のお父様が、このホテルを予約してくださったのです。東京には兄弟たちがいましたから、泊まる場所に困ることはなかったのですが、そのご好意で、初めての贅沢をさせてもらいました。素晴らしい部屋に泊まったのですが、「敷居が高い」とか「不釣り合い」といったほうがいいのでしょうか、馬子が上下(かみしも)を身に着けたような感じで、申し訳ないのですが、居心地が悪かったのです。  
 
 この「帝国ホテル」の隣に、明治16年(1883年)に、「鹿鳴館(ろくめいかん)」が落成しています。欧米列強に遅れをとっていた日本は、「明治維新」を経て近代化、欧米化の道をまっしぐらに進んでいました。その動きの1つとして、欧米にも負けないような豪華絢爛な「社交場」を設け、外国人使節を接待する必要があったのです。洋服を着こなした明治の紳士淑女たちが、「舞踏会」を催し、洋舞を舞い、グラスを傾け、談笑したと言われています。昨日まで髷(まげ)を付け、大小(刀剣のことです)を腰にしていた侍と、その夫人たちが、古式ある伝統を捨てて欧化していったのです。このへんの変わり身の速さが、日本人の特徴だと言われています。中国や朝鮮半島のみなさんは、伝統に拘って、なかなか西洋の物真似はできなかったようです。それが近代化の遅れをもたらせたのですが。

 その翌年の1984年には、「東京倶楽部」が作られ、外国使節や商社マンとの和やかな交際をするために、会員制のクラブが設けられたのです。このクラブは、英語だけが話され、日本語もその他の言語も禁止されていたのだそうです。明治のリーダーたちの、英語の習得力は、ものすごいものがあったことになります。このような鹿鳴館や東京倶楽部の外交政策は、当時の国粋主義者にとては鼻持ちならないものであったそうです。それででしょうか、主唱者であった外務大臣の井上馨の辞任と共に、いわゆる「鹿鳴館時代」が終わってしまうのです。落成から4年ほどのことでした。

 やはり「背伸び」し過ぎたのでしょうか。さらに、この時期の遅れに追いつくために、力を入れたのが、「富国強兵」でした。少々俗な言い方をしますと、「いけいけどんどん」の国策でした。「日清戦争」に勝利した日本の産業界や軍部が、そういった掛け声をかけたのです。いわば、「猪突猛進(ちょとつもうしん)」だったのではないでしょうか。中国語の「猪」は、「豚」のことを言いまして、「いのしし」は「野猪」といいますが、まるで脇もふらずにまっしぐらに突き進んでいったことになります。この「猪」がたどり着いたのが、自他ともに多くの犠牲者を生んだ、第二次世界大戦での敗北だったのです。

 「海軍」の家系に生まれた自分ではありますが、軍事力の増強、「軍」の呼称の回復などが行われることを願いたくないのです。「軍事力」がなくては、二十一世紀の「外交」は行えないのでしょうか。歴史を学びますと、日本政府の「外交」の稚拙さや失敗が、戦争に駆り立てたのだといえるからです。「平和」は、右手に握った「刀剣」なしには実現できないのでしょうか。中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書)に、「二つの悲しみ」というエッセイがあります。息子をなくした父親、父をなくした小学校3年生の少女の様子を、当時の「復員援助局」の職員が綴ったものです。読んで、悲しくて涙が流れました。再び「戦争への道」に、息子や娘や孫たちを辿らせたくないと思うこと仕切りです。

(絵は、明治の華と言われた「鹿鳴館」の舞踏会の様子を描いたものです)

「人の噂も七十五日」

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「ミヤコグサ」七月の花

 私たちの国では、「人の口に戸は立てられぬ」と言います。つまり、世間の人の噂話は、防ぐことができないという意味です。それでも、「人の噂も七十五日」とも言うのです。故事ことわざ辞典によりますと、『・・・世間で人があれこれ噂をしていても、それは長く続くものではなく、やがて自然に忘れ去られてしまうものだということ。』とあります。ヤンチャな四人兄弟だった私たちは、住んでいた街では、好いにつけ悪いにつけ、どうも噂話の対象だったようです。きっと近所や街の人たちは、『この兄弟は、将来どうなるんだろうか?』と、一抹の心配をしてくれていたのではないかと思うのです。

 ところが、豈図らんや(あにはからんや 「意外にも」との意味です)、四人とも、父に大学に行かせてもらい、無事に卒業し、世間並みの仕事につくことができたのです。一番上の兄は、まだ現役で働いています。すぐ上の兄は、退職後も、『ぜひ!』と請われて、同じ職場で嘱託で働いていますし、弟も退職後、職場に自分の部屋をもらい、現職の若い教員の相談相手などの仕事を続けているのです。三男坊の私も、定年のない仕事をしておりましたが、それを辞して、不思議な導きで大陸に渡って来て、仕事の機会を得ております。来月末には、八年目に入ろうとしているのです。「興味津々」の対象だった私たちの子どものころのことを知っている人は、もう少なくなってきていると思うのですが、恥ずかしくない人生を生きてきたことを知られたら、きっと安心されるのではないでしょうか。

 一昨年の3月11日の「東日本大震災」、その時に生じた津浪によって壊滅的な被害を受けた「福島第二原子力発電所」のメルトダウンの厳粛な事故の話題も、じょじょに少なくなってきているのでしょうか。「七十五日」の何倍もの日が経っているのですが、距離的に離れ、時間が経過すると、厳粛さが薄れてしまうように感じられます。それでも、『汚染された水が海水に流れ込んだり、地下水系に影響を与えている!』というニュースを時々聞きます。時間は経過しましたが、その厳粛な事故の影響力が少なくなってきているのではありませんし、時間と共に軽くなっていくことなどないのです。1984年4月26日に起きた「チェルノブイリ」の原発事故から、30年近く経ちますが、まだ30キロメートル以内には、立ち入り禁止が続いているようです。

 灼熱の夏を迎え、電気量の不足が話題になると、「原子力発電所」の再稼働が話題になっています。大気も海水も地下水も汚染され、それらとかかわる農作物や魚介類を摂取する私たちにとっては、致命的な問題が残っているのにです。時々思うのですが、原子力を開発した知能や叡智で、原子力がもたらす問題を解決していくことができないでしょうか。『放射能の影響を中和させるような、画期的な物質の発明がなされたらいいのに!』と、心から期待しているのですが。「中和剤」を投入すると、無害な物質に変化することを願いつつ、「安心」を求める炎暑の七月であります。

(写真は、写真は、七月の花の「ミヤコグサ」です)

文月(ふづき)七月

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七月の花「女郎花」

「日本語科」の教科書に、「四季の歌」が取り上げられています。作詞と作曲は、荒木とよひさ、歌は芹洋子で、1971年に発表されたものです。

  春を愛する人は 心清き人
  すみれの花のような ぼくの友だち

  夏を愛する人は 心強き人
  岩をくだく波のような ぼくの父親

  秋を愛する人は 心深き人
  愛を語るハイネのような ぼくの恋人

  冬を愛する人は 心広き人
  根雪をとかす大地のような ぼくの母親
 
 ある時、学生のみなさんに、『あなたは〈春夏秋冬〉で、どの季節が好きですか?』と聞きましたら、多くの方は、案の定、「春」と答えたのです。とりわけ中国のみなさんは、厳しい冬の終わることを願い、春の到来を告げる元旦を、「春節」として歓迎し祝うのですから、その気持ちは一入(ひとしお)なのでしょう。私たちが子どものころに、『もういくつ寝るとお正月・・・』と歌って、正月を待ち望んだ思いよりも、はるかに強く、「春」の到来を切望しておいでです。

 いったい、いつから春になるのでしょうか。私たちが実感する「春」は三月から五月でしょうか、「夏」は六月から八月、「秋」は九月から11月、「冬」は12月から二月というように感じているのですが。俳句の世界では、一月から三月が「春」、四月から六月が「夏」、七月から九月が「秋」、十月から十二がつが「冬」になります。最も平均気温の高い七月は、先取りの「秋」なのですが、酷暑や炎暑の中で、全く実感できないのに戸惑いを覚えてしまう。とても不思議なのは、自然界は、一歩も二歩も早く、次の季節の到来を告げているのを感じます。暑い日の夕方、『あっ、もう赤とんぼが飛んでいる!』という新しい発見をすることがあります。まだ七月になったばかりなのに、「秋」を感じさせる光景を話題にするのは、少々早すぎるでしょうか。

 「冬」の十二月に、母は私を産んでくれたのですが、その反動のように「夏」が好きです。それでも、最近の暑さには閉口してしまいます。子どのころには、今のような扇風機も空調もありませでした。あったのは、団扇(うちわ)や行水や浴衣だったでしょうか。縁側に出て、父や兄弟といっしょに花火をしたり、蚊取り線香の匂いをかぎながら食事をし、夜は蚊帳(かや)をつって、その中で寝ていました。窓は開け放たれていたのですから、今では信じられないほどに、治安が良かったのかも知れません。それでも『暑い!』と感じた記憶がないのです。

 両親と兄たちと弟との身体的な距離も、精神的な距離も本当に近かったように思うのです。自分用の部屋や机があリませんでしたが、思い思いに家の中で居場所を見つけては勉強したり、ケンカしたりの毎日でした。兄の後について、多摩川で泳いでいました。中央線の鉄橋の下の流れに潜っては、魚影を見つめたりしたのです。帰りに肉屋で買ったアイスボンボンが美味しかった!あのころの「夏」の日が、走馬灯の様に思い返される、カンカンと照りつける華南の朝であります。

(写真は、七月の代表的な花「女郎花(おみなえし)」です)
 

猛暑

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ライチ(茘枝)

 小学校の校庭の隅に、白く塗られた木箱がありました。みなさんもご記憶があることでしょう。そうです、「百葉箱(ひゃくようそう)」と呼ばれていました。気温を測定する温度計や湿度計が入れられてあったのです。「理科」の授業で観察をした覚えがあります。『今日の天気は36度でした!』という温度は、この「百葉箱」の中の温度計が記録したものであります。中国でもアメリカでも、どこでも同じ形式で観測されているのだと思います。最近のこちらの最高気温は、連日37度で、最低気温は27度を予報されています。わが家には、温度計が二箇所においてあります。一つは時計の中に組み込まれているもの、もう一つは、壁にかけた、赤い液がガラス管に入っているおなじみの気温計です。

 今年は、『異常に暑い!』と感じていましたが、今日のニュースを見ましたら、アメリカでは50度を記録しており、『アリゾナ州のフェニックスでも48度を記録した!』と報じていました。「猛暑」、「酷暑」に違いありません。来月、明日からですが、この月は年間で最も平均気温の高い月になりますから、どれほどの気温になることかと気が気でなりません。この公表される温度と、「体感温度」とは違っていて、アスファルトの上で、カンカンに陽が射してしている箇所などは、5度も6度も高いのではないでしょうか。

 そんなことを考えていましたら、「打ち水」とか「夕立」、「浴衣(ゆかた)」とか「風鈴」という言葉を思い出したのです。思っただけで、聞いたり話たりするだけで、涼しさを感じさせてくれるようです。こんな俳句を見つけました。
  
 打ち水や塀にひろがる雲の峯   鬼城

 夕立やけろりと立ちし女郎花(おみなえし)   一茶

 果物の汁の飛びたる浴衣かな    普羅

 風鈴に大きな月のかかりけり    虚子

 お読みになられて、少しは涼しさを感じてくださったでしょうか。スイカが食べたくなったり、行水(ぎょうずい)をしたくなったり、故郷の小川のせせらぎに飛び込んでみたくなったりしてしまいます。先日、腰痛の私のためにお見舞いに来てくださった友人が、中国の華南地方の夏の特産である「ライチ(茘枝〈れいし〉 広東語では〈ライチー〉」を、たくさん持ってきてくれました。冷蔵庫に入れてあるのを出しては、すこしずつ食べていますが、『夏の果物としては最高!』だと思います。こんな素晴らしい涼の取れる果物があるのは、造物主のご配慮でしょうか。
 
 子供の頃に食べたスイカ、マクワウリなども思い出されます。今のように遠い地方の産物が運送されてくることがない時代でしたから、「地物」でした。紐で解けないように縛って、井戸の中に吊るしたりしましたが、滑り落ちてしまった、あのスイカがどうなったのでしょうか。その井戸の水を飲み続けたのですが、今の水道水よりは遥かに美味しかったのです。みんな美味しくて、懐かしい味が蘇ってくるようです。暑さにめげないように気を引き締めている今宵、冷えた「ライチ」をつまもうと思う、夕餉(ゆうげ)の後であります。

(写真は、南国の特産「ライチ」です)

「三・・・」

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「コケスミレ」

 優れたアイデアが浮かんでくる場所を、中国では、「三上」と言うそうです。一つは、「馬上」です。馬の手綱を手にしながら、ゆっくり進んでいくときに、『ハッ!』と何かを思いつくのです。二つは、「枕上」です。目覚めてから、起きだすまでの間に、枕に頭を乗せながら、昨晩の熟睡を感謝し、新しい一日への期待が胸に広がって来ます。そんな時に、何かを思いめぐらしていますと、『そうだ!』と思うことがあるのです。三つは、「厠上」です。「厠(かわや)」は、人が生きていく上で、健康であるなら毎日、通う場所です。現代版は水洗トイレですが、用便中にも、人はよく考えるのです。その時、『ウン、そうか!』と、何かに気づくのでしょうか。

 また、同じく、好いアイデアが生まれるときを、同じく中国では、「三中」といいます。一つは、「無我夢中」の中にいる時です。二つは、「散歩中」です。三つは、「入浴中」です。散歩をしていたり、入浴をしているときにも、好い考えが思いつくたことがありました。とくに入浴中に、何か思いついて、メモの用意がないので、曇ったガラスに描いてみたことがあったのを思い出します。「無我夢中」というのは、我を忘れて何かに熱中している時ですが、ある人にとっては、アイデアが思い浮かぶこともあるのでしょうか。

 このように、「三・・・」という表現は、よくあるのですが、私の知り合いが「講演」をするときに、《three points》にこだわるのです。聴取者が、記憶にとどめるためにも、筆記するにもとても好いテクニックだと思います。何もかもが三つにまとめきれるならいいのですが、そうもいかない場合もあるのではないでしょうか。『ちょっと無理があるかな?』と思ってみたりします。さて、ついでと言っては申し訳ないのですが、もう一つの「三・・・」をご紹介したいと思います。

 こちらに来まして、出会った人たちの中に、大学で教えている方が多かったのです。天津で一年過ごしてから、こちらに越したばかりの私たちを訪ねてくださった方も、大学の教師でした。この方の友人に、『私の学校で日本語を教えてくれませんか?』と言われたのです。躊躇したのですが、こんなに素晴らしい機会はありませんので、『はい。喜んでさせて頂きます!』と返事をしました。それ以来、「外教」という職名をいただいて、教壇に立たせていただいております。多分、「外人教師」という略称だと思いますが。とくに「日本語作文」を担当してきたのです。この作文が上達する上で、「三多」が大切だと言われるのです。
 
 一つは、「看多 kanduo」です。《多く読むこと》です。好い文章、好い作品に触れることによって、作文能力が長足に進歩していくのです。二つは、「做多 zuoduo」です。この「做」は、英語ですと”do”でしょうか、「する」、「つくる」、「書く」といった時に使う動詞です。ですから、《多く書くこと》が、作文を上達させるのです。三つは、「商量多 shangliangduo」です。この「商量」は、「相談する」という意味の言葉です。人にという意味だけのことではなく、「推敲(すいこう)」とか「吟味(ぎんみ)」のことです。こういったことを地道に積み重ねると、好い作文が書き上げられるのです。明日、この「作文(中国では〈写作〉といいます)」の期末テストが行われます。試験問題と解答用紙の印刷が上がっています。さて、学生のみなさんは、どんな文章を書いてくれることでしょうか。この一年を思い返しながら、明日のことを思っている、午後四時前です。まだまだ夏の日がカンカンとバス通りに照りつけております。

(写真の花は、「コケスミレ」です)

「温かいスープ」

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今の「パリの裏町」

 中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書刊)に、日本が生んだ最も優れた哲学者の一人と言われている、今道友信(いまみちとものぶ 1922~2012年)が、書き下ろした一文が掲載されています。中学校3年生が、読んで学ぶようにと心を砕いて書いたものです。著者が、フランスの大学で講師をしていた時期は、戦後ということで、つらい経験が多かったそうです。そんな中で、心温まる経験をされて、それを綴っているのです。中学を卒業して、もう何十年と経ってしまいましたが、今の中学生が学ぶ国語の教科書のページを開くことができ、そこに見付けた一文です。それをご紹介しましょう。

   「温かいスープ」  今道友信

 第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、一九四五年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世 界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そ ういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなければならない。そのような状況であったか ら、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日本人もみじめな時代があった。そのころの体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き 記しておきたい。
 一九五七年、私はパリで大学の講師を勤めていた。しばらくはホテルにいたが、主任教授の紹介状で下宿が見つかり、訪ねあてたところ、そこの主婦は、私が 日本人だと知るや、「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。そ の気持ちを理解してください。」と言い、私が下宿するのを断った。しかたなく、大学が見つけてくれた貧相な部屋のホテル住まいをすることになった。
 そのころの話である。私は平生は大学内の食堂でセルフサービスの定食を食べていたが、大学と方向の違う国立図書館に調べに行くと決めていた土曜は、毎 晩、宿の近くの小さなレストランで夕食をとるほかなかった。その店はぜいたくではないがパリらしい雰囲気があり、席も十人そこそこしかない小さな手作りの 料理の店であった。白髪の母親が台所で料理を作り、生っ粋のパリ美人という感じの娘がウェイトレスと会計を受け持ち、二人だけで切り盛りしていた。毎土曜 の夕食をそこでとっていたから、二か月もすれば顔なじみになった。
 若い非常勤講師の月給は安いから、月末になると外国人の私は金詰りの状態になる。そこで月末の土曜の夜は、スープもサラダも肉類もとらず、「今日は食欲 がない。」などと余計なことを言ったうえで、いちばん値の張らないオムレツだけを注文して済ませた。それにはパンが一人分ついてくるのが習慣である。そう いう注文が何回かあって気づいたのであろう、この若い外国生まれの学者は月末になると苦労しているのではあるまいか、と。
 ある晩、また「オムレツだけ。」と言ったとき、娘さんのほうが黙ってパンを二人分添えてくれた。パンは安いから二人分食べ、勘定のときパンも一人分しか 要求されないので、「パンは二人分です。」と申し出たら、人差し指をそっと唇に当て、目で笑いながら首を振り、他の客にわからないようにして一人分しか受 け取らなかった。私は何か心の温まる思いで、「ありがとう。」と、かすれた声で言ってその店を出た。月末のオムレツの夜は、それ以後、いつも半額の二人前 のパンがあった。
 その後、何ヶ月かたった二月の寒い季節、また貧しい夜がやって来た。花のパリというけれど、北緯五十度に位置するから、わりに寒い都で、九月半ばから暖 房の入るところである。冬は底冷えがする。その夜は雹が降った。私は例によって無理に明るい顔をしてオムレツだけを注文して、待つ間、本を読み始めた。店 には二組の客があったが、それぞれ大きな温かそうな肉料理を食べていた。そのときである。背のやや曲がったお母さんのほうが、湯気の立つスープを持って私 のテーブルに近寄り、震える手でそれを差し出しながら、小声で、「お客様の注文を取り違えて、余ってしまいました。よろしかったら召し上がってくださいま せんか。」と言い、やさしい瞳でこちらを見ている。小さな店だから、今、お客の注文を取り違えたのではないことぐらい、私にはよく分かる。
 こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中 に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私が フランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。
 国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。そ れは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じ らいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人 一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。

(写真は、今の「パリの裏町」です)